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「烏山病院問題」

『精神医療』第2次Vol.4 No.2[通巻16]:32-39


◆野村 満* 19750129 「烏山病院問題」,『精神医療』第2次Vol.4 No.2[通巻16]:40-42(特集:裁判闘争/行政闘争)
 *烏山病院闘争委員会
 ※その社会的・歴史的意義に鑑み、以下、全文を収録させていただいています。


1 はじめに

 烏山病院の問題について、詳しくは公判記録を熟読していただきたい。烏山病院闘争の特徴を集約的に一言で言ってしまうと、これは、医療従事者自身がきわめて不十分な実践ではあったが、その実践をふまえて精神病院の医療の実態を暴露し、厚生省のモデル病院的存在であった烏山病院も、実は「悪徳」病院と本質においてなんら変ったところはなかった、ということを明らかにした点にあろう。

2 烏山病院とは

 大正15年森崎半治初代院長により設立され、昭和26年学校法人昭和医大付属となった。
 西尾友三郎、竹村堅次らは昭和34年烏山病院に就任し、生活療法の技術化を実施していった。患者数540名、職員数80名。
 治療体制は機能別4単位となって、入院患者は治療病棟→生活指導病棟→作業病棟→社会復帰病棟とベルトコンベア式に転棟させられることとなる。ここに生活指導病棟(EF2病棟)は別名“ボケ患病棟”とも家族からいわれ、最も沈澱した患者が収容され、烏山病院の医師団からも「特に生活指導病棟の現状は当院全体の1つの終着駅的様相を呈している」とまで表現され、決定的な烙印を押されてしまっていた。

3 烏山病院闘争とは

 烏山病院における闘争を便宜上4時期に区分してみよう。第1段階、これはほぼ昭和44年7月から昭和45年4月までの間で、EF2病棟における実践段階である。
 当時EF2病棟で行なわれていた「治療」は(イ)画一的で便宜化した週課表、日課表等による生活の強制、(ロ)「生活指導作業」と称する22項目にわたる使役的作業の当番制、(ハ)週1回のグループ会活動、グループ「精神療法」と呼称されるもの、(ニ)薬物療法−くすりづけ、(ホ)閉鎖拘禁、諸々の規制と規則等に分類されよう。
 就中(イ)(ロ)が生活療法(作業療法、レクリェーション療法、生活指導)の技術化とされ、生活指導がこの根幹となす。それに対し、松島医師の提起、われわれの実践したものは(松島医師はE2男子病棟、私はF2女子病棟担当)、患者、職員もロボット化しているこうした諸規定を可及的にとりはらって、より個別的な人間関係をとりもどすことに向かったと言える。ここにあった従来の生活療法(西尾前病院長、竹村堅次現病院長はこれを広義の精神療法とも呼ぶ)は一切合財が治療者が患者の一段上に立って管理する道具であり、実施においては「アメとムチ」の思想体系に裏づけられていた。
 第2段階、これは昭和45年5月から45年12月までの間で、松島配転命令に対し、烏山病院闘争委員会を結成して、松島配転阻止のために闘った時期である。闘争委員会の構成は医師5名(うち3名は東大精神科医師連合に属す)、看護者11名、心理員1人、ソーシャルワーカー2名、他学生アルバイト等から成り立っていた。しかし、実質的な闘争の担手となっていたのはEF2病棟の20名にも及ぶ患者家族であり、2〜3名<0040<の割で病棟に終日坐り込みを展開し、西巻、竹村、奥山らによるEF2病棟への介入を阻止しつづけたのである。
 一方、闘争委員会の申合わせは、各自が病院の管理に対して闘うことであったが、12月の段階で松島医師に対し解雇通告が出され、松島医師も闘いを断念した段階で、実質上、闘争委員会は解体した。
 第3段階、これは昭和46年11月(⇒1月?)から46年7月までの期間で、奥山医局長らによるF2病棟からの排除弾圧、賞罰委員会への招喚に対し野村が闘った時期である。ここでは、単なる「治療」是非論ではなく、診療場面、職場から排除されていくことに対し、自らの労働をいかに固守していくか、が主要な課題であったとも言える。
 第4段階、これは昭和46年10月からで、裁判闘争の時期である。解雇理由は23項に及び、その内容は「診療妨害」「暴行」から成り立っており、医療内容を含まない。しかし野村側の追及に会い、現在は生活療法を中心とした烏山体制と野村らの提示した医療体制とが争点となっている。ここで病院−竹村堅次らの主張は、一貫して「精神障害者は危険」だという指導形象につらぬかれている。

4 烏山病院闘争の提起しているもの

 烏山病院は近代的良心的な病院と称され、1年中見学者のたえることのない病院であった。
 それはひとえに西尾友三郎、竹村堅次の学会、厚生省等における活動のたまものであり、数々の論文の成果でもあったといえよう。しかしまたこの医療の現場の実態はきわめて悲惨なもので、近代的な衣裳を凝らして見えにくくされていたゆえに、それだけ寒々しいものも含んでいた。
 烏山病院闘争が提起した第1の点は、良心的な病院も、悪徳病院と本質的になんらかわることがない、という点にある。隔離収容を目的とした今日の精神衛生行政のなかで、それは宿命であった、と今、断言できるだろう。
 第2に「生活療法」は患者の管理抑圧の手段、道具でしかなかったという点にある。われわれは、烏山体制における生活療法だけがそうであったと言っているのではない。生活療法という思想性方向性そのもののなかに、歴史的な事実として、患者蔑視、低格視、危険視、隔離収容法、病は進行して荒廃に陥るとする安易な疾病観等々が組みこまれていると考えるのである。
 それは当然精神医学体系批判までも含まれてくる。ある一部の人は、自らの良心的な実践を生活療法として、絶対的な治療法と高めようとしている。しかし考えてみれば、精神病院であるなら、なにをやっても生活療法といえるではないか。患者の生活をかかえた精神病院そのものが問題となっているのに、ここにおける生活全てを治療法と固定する位危険なことはない。
 問題は、生活療法の歴史的事実、現実の姿、生活療法を生み出さざるをえなかった精神病院の背景こそが問題とされなければならないだろう。
 いずれにせよ、われわれは生活療法なる仮空の言葉を廃棄したところからもう一度出発しなくてはならない。
 第3に、抑圧的な生活の場(当然病院内外を含むそこにおける人間関係、診察関係を含む)のなかで、いわゆる病状が固定化し歪められていた、という事実である。患者の病状表出状態は、(抑圧的な生活の場)と密接な関連をもっているという因果関係を、主要に、明らかにした点であろう。
 その他さまざまな問題提起があったと思われるが、この点だけを強調しておきたい。

5 おわりに

 「生活」−そこにある人の思想、方向までも変える。例えば、目的がみな同じでも一つの運動に深くかかわると、他の運動がみえなくなり、ときに官僚的権威的に陥いり、1つの職種、地位に長くいると、他の立場がわからなくなる。日常的な事件が全体的な視野を見失わせると同<0041<時に、人間はいつのまにか自らを防御する理論体系を創りあげてしまう。幸か不幸か2つの現象が、本人とは無関係に無自覚に進行するのである。
 こうして目的は同じでも人々は分断され、融合することなく終ってしまうこともある。これとは逆に、一つの理論体系が先行し、それに依存した場合も同様である。精神医療の運動は特にこの現象が顕著とならざるを得ない。
 そこで、われわれが1つの既成の精神医学体系にかわって、対抗上、新たなものに変えていこうとするとき、既成の体系のなかでしか勝負できないとするなら、それはやはり依存したままにとどまるだろう。体系を根本的に変革させるためには、各病院の中で現実との矛盾を激しくし、強い亀裂を生じるほどの組織的な実践が不可欠ではないのか。各地で、各現場でそうした数々の実践を踏まえ、討論するなかでしか新しい萌芽と、新たな体系の創造はなされないように思われる。そのとき、各自が分断された状況を止場するためには、さまざまな立場の人々のなかで見つめられていく行程も必要となろう。


UP: 20110729 REV:
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