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吉田 哲雄 19740517 『精神医療』第2次3-4(14):1-3


吉田 哲雄(東京都立松沢病院) 19740517 「序」,『精神医療』第2次3-4(14):1-3

 「精神外科とは何であったか。また、何であるのか。
 およそ人間の脳にメスを加え、あるいは針を刺入し破壊し、精神を変えようとする手術は、形や名称はどうあれ、精神外科に属する。これは脳腫瘍のような病める組織を除去する手術と異り、脳の特定部分の破壊を通じて脳の機能を変えるという意味で、機能的脳外科の一種ともよばれている。
 精神外科の正当性を信じて疑わない者たちは、手術術式の工夫や手術適応の確立に熱中する。 しかし、精神外科の是非を原則的に考え、精神外科の歴史をたどるとき、私たちは単なる医学論争に没入してはいられなくなるのである。 精神外科の問題とは、手術される者が人間としてうける仕打ちの問題である。
 精神外科の歴史は古いが、事実上の創始者はMonizである。そして彼が前頭葉白質切載術を行ったときの考え方は、決して周到な仮説とはいえない。しかもその10年後にこれをひきついでロボトミーとしてアメリカにひろめたFreeman とWatts の考え方は、Monizのそれと質的に異っている。
すなわち Monizは、症状としての病的な思考を消すことを目指した。彼はたとえば心気念慮や強迫症状のような病的な思考は脳内にでき上った特定のシナプス結合によって生じていると考えた。そしてこの結合をになう白質を物理的に破壊することによって症状を消すことをこころみた。
 この考えは広瀬によってすら無意味と断じられた(1957年)し、井村や西丸によってもそれぞれ「論理的に割り出された定説とはいいにくい(1949年)」「あまりに簡単な考え方である(1962年)」と評されている。
 ところで当時から、「脳を破壊しながら人格変化をおこすことなしに症状だけを消すことが可能であろうか」という当然の疑問が出されていた。具体的には、たとえば手術で強迫症状が消えた場合でもそれは術後の人格変化の結果ではないかというのである。
 ところがFreeman や広瀬は、むしろ症状を消すとはいわず、手術による人格変化こそが有効であるという、いわば居直った立場を表明している。すなわちFreemanらは、患者を一つの偏った状態からもう一つの別の偏った状態に変え、そのため人格を多少なりとも変えて失うところはあっても、社会的適応性が増せばよいというのである。広瀬もこれに近く、ロボトミーの効果の核心は人格変化にあると明言した。目的はやはり社会的適応性をよくすることにあった。
 このように、適応性を尺度として人格変化を効果の核心とみなす立場は、本質的に、術者が被術者の人格を物理力によって非可逆的に支配しようとする立場である。
 ここで見逃してはならないのは、「おとなしくさせるためには脳を余計に切る方がよい」という、脳の破壊による人格の廃絶にむかう思想があり、そのごとくに実行されていたことである。その対象とされたのは、主としていわゆる「爆発者」や「興奮型の精神薄弱者、てんかん<0001<患者」である。これはGoltzの除脳イヌの行動にヒントを得たといわれる前世紀のBurckhardtの「興奮患者」を「おとなしい患者」にするための皮質切除術の延長がロボトミーの領域にひそかに混入してきたものとみることができる。
 さて、精神外科を代表する術式であるロボトミーによる人格変化は、さすがに批判者のみでなく実施者からも注目された。なかでもRylanderは1947年に、ロボトミーによって患者の心から大切なものが奪い去られることを詳細な事実にもとづいて指摘した。
 それ以来、実施者の間でも、「なるべく小さく、部位を限定して切る」という方向が生じたといわれている。すなわち、前頭葉白質を大きく切る標準型のロボトミーは、今なお一部で行なわれてはいるが、大勢としてはすたれ、帯回切除術、眼窩脳の皮質下白質切載術、さらには定位脳手術としての視床下部あるいは扁桃核切載術などが前面に出るにいたった。
 ところが、これらのより限局的な手術は、情動行動を調整すると称して、鎮静のために行なわれる場合が多い。このように、術式が近代化されるのと同時に、対象がいわゆる「興奮患者」にしぼられてきていることは注目に値する。視床下部に対する定位脳手術の実施者の一人は、「現代社会の中で精神外科の占める位置は重要なものであり、中でも、狂暴性を示す者に対する治療の意義は大きい(関野、1972年)」といている。そして現代の術式は、脳に深部電極を定位的に植込み、小型電算機で操作して行動 を制御するところまできているのである。現代の精神外科の重点は、むしろ定位脳手術にうつりつつあるように思われる。それではその依拠する理論はどのようなものであろうか。
 「定位脳手術はそもそも精神外科として発達した」という見解をもつ佐野は、「前頭葉連合野はコンピューターのソフトウェアにあたり、それ以外の脳および神経系はハードウェアに相当すると考えられる。ハードウェアに侵襲を加え薬物で治療しがたい精神症状、行動異常などを改善しようというこころみは許さるべきものと考えられる(1972年)」といい、彼らのいうところの「兇暴症」に対して鎮静的脳手術を行なっている。
 これは外観は新しくみえるが、脳を非常に単 純化した人間機械論的な考え方である。これでは到底、Monizの思想を笑えない。
 もとより私たちは、理論の単純さを笑うことですませてはならない。精神外科がこのような粗雑な理論に依拠してまで行なわれることこそを見すえなければならない。このような理論しかもたないままに脳を破壊することが現実に許されてきたのは、機械論的・局在論的な疾病観のなせるわざというのみでなく、「どうせ相手は“精神障害者”なのだから」という意識に支えられてのことであろう。
 精神外科の手術の結果としての非可逆的な人格破壊、痙攣発作、とくにその重積、手術時の出血や手術死はいずれも重大である。しかも精神外科の問題は単にその結果にあるのみでなく、 その意図、思想性にもある。
 人格廃絶のための処置(人格廃絶のための処置)としての精神外科の役割はむしろ明確である。
 一方、一応治療として考えてみた場合、治療にしても実験的色彩がきわめて濃厚である。ロボトミーの適応を確立するためということで、いかに多くの、さまざまな診断をつけられた人々が手術されていることか。「(ロボトミーは)万一の僥倖をめざした手術(中田、1942年)」とか「分裂病に対して卓効ありとはいえず、試験期を脱していない(内村、1948年)」ともいわれているのだ。
 また、精神外科の目的は、治療の試みというにしても治療のみにあるとはいえない。むしろ、手術が前頭葉その他脳の機能を解明するのに役立つという意味で期待され評価された形跡が明らかにある。1948年のリスボンでの国際精神外科学会についても、「あたかも脳の生理実験にも比すべき色彩を濃化している(上村)」といわれている。このような学者の風潮が手術実施<0003<に拍車をかけたことはうたがいない。最近の定位脳手術においても、たとえば視床内髄板破壊術の成果としての論文が、その治療効果よりもむしろ「内髄板の機能解剖について」(吉益、1972年)という形で結実している。
 さらに、ロボトミーが台実験のような大脳皮質採取の機会を提供したことは周知の事実である。最近でも、熊本の宮川実験のように、ロボトミーと脳生検との結びつきもみられる。脳生検そのものも、精神外科と近縁の行為として十 分批判的に検討すべきだが、精神外科のもつ実験的性格は、過去から現在にまでおよぶ重要な問題点の一つである。
 このような精神外科についての批判的検討は今日までどのようになされてきたであろうか。 ある先人はいう。「当時は誰もがロボトミーをやっていた。一般外科医すらやっていた」と。あるいは「他の治療法でどうにもよくならなかった場合に最後の手段として行ったのだ」と。 しかし、当時ロボトミーなどを積極的に導入した国はイタリー、ブラジル、アメリカなどであり、ドイツ、ソ連はとりいれていない。精神外科は決して地球上の精神医療をおおいつくしたわけではない。
 また日本でも、「精神病は脳病ではない」という観点から精神外科を否定していた者、「脳に人工的に非可逆的な器質損傷を加えてはならない」とする原則的な立場の者が精神医療の現場にいた。しかしこれらの声が公のものとしてほとんどのこされていないのは残念である。 いずれにせよ、当時はどうあれ、今私たちは精神外科の問題に徹底的にとりくむべき時をむかえているのである。
 最後に脳生検についていえば、脳生検は精神外科よりものちになってさかんになった。それは、神経化学や電子顕微鏡による検索の発達と不可分である。また、脳に外科的侵襲を加えることに慣れた者にとっては、脳生検は大した問題ではなくなってしまったようである。そして現在、明確な批判、反省のないままに、諸国で着々と実施されている。その対象の多くは、お そらくいわゆる痴呆患者精神薄弱者であり、とりわけ「学用患者」であろう。 たしかに、1965年にチューリッヒでひらかれた国際神経病理学会の一般演題の中で、Biemondが脳生検の倫理的・法的な問題についてのべた。彼は、他のあらゆる手段で診断がつかないときに脳生検によって診断することは許されるという。そして条件として、汎発性、進行性の疾患であること、同意を得るべきことなどを挙げている。これはどちらかといえば、脳生検をやりたい者の立場である。しかし、彼とても、自分の基準を普遍妥当的なものといってはいない。むしろ「いかなる場合にも脳生検をしてはならない」という立場の存在を認め、一定の敬意を表明している。そしてそのときの会場では、治療に直接むすびつく脳生検のみが許されるという発言があった。それ以後おそらくこれといった討論が乏しいままに現在に至ったと思われる。
 脳生検についても、一つ一つの具体的な実例を通じてとりくむことがもっとも実りある方法であろうし、現代の精神医療にかかわる私たちの責務でもあると考える。」(吉田[1974:3]、全文、下線は原文では傍点、文中にある文献についての文献表は原文にはなし)

■言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※


UP: 20110902 REV:
精神障害/精神医療  ◇精神医学医療批判・改革  ◇全文掲載
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