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台実験の危険性について――2人の患者の病歴を中心に

吉田 哲雄 19730915 『精神医療』第2次3-1(11):31-39


吉田 哲雄(松沢病院) 19730915 「台実験の危険性について――2人の患者の病歴を中心に」,「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」,『精神医療』第2次3-1(11):31-39

 1.はじめに
 今日までの日本精神神経学会の活動の中で、台実験に関する「事実」について若干の議論がなされた。その中で台擁護論者が、「石川氏による台氏批判問題委員会(以下台問題委員会と略記)では事実をしらべようという意見が否決された」などとのべたが、これに対して同委員会の小池清廉委員長が、「台問題委員会はあくまでも事実を尊重して活動してきた」と説いたのはまったく正しい。
 すなわち、事実といえば、台実験がなされたという事実がまず最大の重みをもつ。
 そして、台氏の原論文が事実と異なる記述をしているというのならともかく、そうでない限り、台論文に書かれたことからみて、台氏による実験のための大脳皮質採取が、行為そのものとして治療のための行為ではなく、実験のための行為であったことは紛れもない事実である。また、その採取の方法の記載からみて、この行為の結果、被験者の脳にロボトミーの範囲外の新たな侵襲が加えられたことも明白である。そして、脳に関する経験的事実としての知見に照らし、この新たな侵襲が無害であるという説は理論的に成り立たない。
 ところが、台氏および台擁護者は、事実に関する問題を次のように設定した。すなわち、「皮質採取が有害であると主張する者は、その害を事実をもってしめせ」、「ロボトミーのみの場合と、ロボトミーに大脳皮質採取を加えた場合とで、臨床的な結果に有意の差がなければ有害とはいえない」というのである。
 私たちは、事実に関する問題をこのように限局定することをまず批判しなければならない。台氏の方法のように前例のない方法でなされた行為については、その結果のうちのある側面だけについて統計的に有意の差を云々するよりも、個々の患者の場合についての検討を通じて具体的な事実を追究することが必要であると考える。
 そもそも、人脳の一部を患者の同意すらなしに切りとってしまうということが、患者の側からみて許されないことは当然である。この立脚点を忘れて、しかも科学の粉飾のもとに「事実」を自らに都合のよいように取扱うことは根本的に誤っている。これこそが悪しき科学主義として批判されるのである。
 以上のような事実に関する論争をふくむ討論がなされた上で、名古屋における日本精神神経学会総会において決着がつき、台氏および台擁護論者は敗れ去った。
 しかし、とくに医師の間では、大脳皮質採取の結果、事実として害がつけ加えられたかどうかという形の問題設定に目を奪われる傾向が多分にあるように思われた。
 たしかに学会は、台実験に関してその無害論をめぐる議論を延々と行なったことを自己批判した。そしてこの自己批判の直接の契機として、今回の名古屋における評議員会の席上で私が発表した、台氏の方法による大脳皮質採取の痕からの出血という直接的な害をしめす事実が一定の役割を果したと思われる。しかし本来なら、このような事実の提示をまつまでもなく、大脳皮質採取の行為そのものについての反省がなさ<0031<れてしかるべきであったと私は考えている。
 結果からみて、名古屋学会の約1ヵ月前に東京でひらかれた評議員会の席上で台氏の側から「害を事実をもってしめせ」という発言がなされたことは、一見不可解ともいえる。しかし、実はこの発言は台氏の思想をよく反映しているといえよう。なぜなら、台氏は当初の「石川告発に対する所感」の中で、「石川氏が切除の害をのベたてようとするのなら、その害を松沢病院の病歴の上で実証せよ。そしてその実証は事実できないのである」という主旨の主張をしている。つまりはやくもその時点で、害の事実の否定をしている。しかも最近の発言によれば、ロボトミーだけの場合とこれに皮質採取を加えた場合との「有意の差」なるものをきわめて簡単に否定している。これほど簡単に否定できるつもりでいるのなら、「害を事実でしめせ」という台氏の発言も理解できよう。
 しかし、仮に有意の差を云々するのであれば、何についての、いかなる事項についての差をとり上げるのかが問題なのであるが、台氏は単に「臨床的な差」という漠然とした表現をしている。また、松沢病院でロボトミーをうけた患者のうち、誰が皮質採取をうけ、誰がうけなかったかということを確かめるのが実はむずかしい。なぜなら、現在のこっているロボトミー台帳(手術簿)や病歴に「脳小片摘出」と書いてある場合はもちろんはっきりしているが、台帳や病歴に「脳小片摘出」の記載がなくて、しかも台論文の症例になっている患者が何人もいるのである。このような記録の不完全さのゆえに、「有意の差」を比べるべき群を的確に分けることすら容易でない。そもそも台氏自身、今回の学会で私が提出した2人の患者の問題について「知らなかった」、「私には関係がない」といったのである。すなわち台氏はそれまでにこの2人をふくめて検討していなかったと思われる。このような態度で「有意の差」を云々できるのであろうか。
 考えてみれば、理論的に無害論が成立しないのであるから、事実をしらべていけば有害性をしめす事実が出てくることは理の当然である。台実験の問題において皮質採取の結果に関する事実だけを強調してとり上げるのは誤っているが、仮りにこれをとり上げても、台実験無害論の破綻はますます明らかにされるのである。
 以上のような「事実論争」の位置づけをふまえた上で、名古屋学会で提出した2人の患者の事実についてさらにやや詳しくのべることにしたい。

 2.患者N氏の病歴から
 N氏は1950年6月15日松沢病院入院当時20歳で、入院約5週間後の7月21日に死亡した。死亡退院時の担当医の捺印は欠けている。種別は甲2等とされている。以下にその記録を抜粋しつつ要点を紹介しよう。

 「気質 内気、憶病、社交性がない、
 生活史 高校卒、成績上位、東大志望」(当時受験勉強中)
 発病以来の病状と経過
 中学に入って間もなく教練の時間などに皆が教官から手厳しくいわれるのを、僕だけひどく叱られるといって学校へ行くのをいやがった。死ぬといって泣いて家をとび出した。また、電車の中で人が自分を圧迫するといっていた。
 1944年春頃から学校へ行くと称して駅などでひとりぼんやりして一日をすごした。友人もほとんどなかった。夏頃から「心臓脚気」として1年休学、その後も学校へ行かず、自室にこもり読書などしていた。
 1947年9月自宅のガラスを破壊。死ぬといって家出。
 同年12月、リヤカー12台を自転車屋からかたり取り、2週間留置された。示談ですんだ。その後転校し、1950年春卒業したが、成績が下り、1949年秋頃からは出席も不定で2階の一室に閉居し、食事も家族とともにせず、万<0032<年床で、一升びんや敷布に排尿し、不潔であった。
 1950年4月突然母を一室にとじこめ「僕は本当にお母さんの子か」などとせまり、その後父にも「学資を5万円出せ」などという。入院前日、父の株券と印鑑をもち出し、警察に保護された。
 入院時の状態
 「蒼白い顔、医師を正視せず、よく話すが、冷い。よそよそしい態度で優雅さ(Grazie)がない。病識は全然ない。」
 「リヤカーを盗んだ件)金が欲しかったんです。それで留置所ヘ入れられて、それから上の学校へ行って勉強する気になった。(友人がないようだが)私は友人の必要を認めないのです。(布団に尿をするのは)下の便所まで行く時間が勿体ないからです。思索するのに忙しいものですから」などという問答が記録されている。幻聴は否定している。
「かたい、表情乏しい、連合弛緩、被害的、自閉的、無為。暫定診断 精神分裂病(破瓜型)、情意・思考障害、自閉的、漠然とした被害念慮」とまとめられている。収容病棟西1。

 N氏は以上のような経過で入院している。入院してからの経過では、とくに、「診断」についての若干の疑問が出されていることと、ロボトミーが企図された理由に注目されたい。

 入院してからの面接で、6月20日に、入院当初の記載とちがって、「思考障害はない」とされている。
 本人は「自分は精神的に何ともない」といって退院要求をくりかえしてやまなかったため、6月22日に西3病棟にうつされた。このときの医師の引継ぎ事項として、「家人にロボトミーをするかどうか考えて貰っています。ES(電気ショック)もインシュリンも効果がなさそうなので」と書いてある。
 そして診察で、被害妄想はないとされ、自分の過去のことを恥じずに話し、「かたい印象。容易に影響されない。自己主張が強い」とされた。そして、「元来分裂気質の人間、最近になって性格変化を示して来た点、また診察室での所見から、精神分裂病がすでにはじまっていると考えるべきであろう。」
 「思考は滅裂の方向へのくずれは認め難いが、一種の形式主義(Formalismus)がある」とされた。
 6月27日に東大教授による診察があり、
 1.(勉強などの)やり方が合目的的でない。
 1.破瓜病と思うが、こういう思春期の動揺(Schwung)もあり得よう。
 1.思考が独断的である。
などの点が指摘された。ちょうどこの日に母、姉が来てロボトミーの手術願書を書いて帰ったと記されている。
 その後6月末から7月はじめにかけて、「脱出企図」、「便所で火を燃した」、「面会要求しきり」、「ここに無為でいることの無駄である旨を強調する。一方的な主張である」とあり、7月11日に「奇妙な行動がぼつぼつと現われてくる」として、「窓から小便をする」(そして「頭がわるくてやっているのではない」と主張する。)「壁に(人物画の)落書き」などが挙げられている。
 13日の面接で、「ここで自分の正常さを主張しても無駄だ」といい、飛行機の中で排尿して事故をおこし、病院に入院させられた兵隊の話をつくってくわしくきかせ、これに対する医師の意見をたずねたりしている。「(先生たちに)冷いといわれたけれど、自分も知っているんです」という。次の日、家人に会わせてくれという内容をふくんだくわしい手紙を医師あてに書いている。すなわち担当医の面接に対してていねいに礼をのべ、「思うことの十分の一もいえなかった」ので、「先生に打捨てられないように」手紙を書くといい、(退院するために)家<0033<人に面会させてくれと訴え、「多勢の患者を扱っておられるのでともすれば私一人の事位お忘れになり勝ちと思います……」などという配慮も記している。
 その後1週間ほどは記載が何もなく、7月20日のロボトミーに至っている。ここから先の内容はすでに学会総会席上でスライドでしめしたが、ここで一部邦訳しつつ再現させよう。

 1950年7月20日
  前前頭葉ロボトミー(orbital section)
   術者 S.Hirose
 1時間(11.10〜12.10)
 弱パンスコ1筒
 チクロパンナトリウム1筒
 クロルエチル(⇒以上)全麻
 0.5%ノボカイン50cc局麻

 冠状縫合上頬骨上方5.5cm部に骨孔、
 硬膜十字切開、
 左軟膜小動脈切断、銀クリップ2本、
 両側脳小片摘出、出血少量、
 4.5〜7.0ccの深さで両側orbital leucotomy.
 切載面洗滌、筋縫合、皮膚、帽状腱膜一層縫合、術を終る。
 中1病棟へ。
  50%グルコース(以下Gと略記)60cc静注、トロンボゲン5cc皮注。
 午後4時30分 昏睡状。
  腰椎穿刺。純粋に血性の髄液80cc排出、5O%G60cc静注。
 7.00〜9.10再手術。
  皮下、硬膜下、軟膜下、切載面に血腫、リンゲル液にて反復洗滌し、凝血塊を排除。
   左右共皮質切除による欠損(Defekt)の周囲の軟膜の血管よりじくじくと出血あり。骨孔を拡大し、硬膜を切開し、軟膜の血管にクリップをかけ止血をなし、側頭筋片をあてがい、手術創閉鎖。
  リンゲル1,000cc皮注。

7月21日
 再手術後、漸次脳圧亢進症状が現われ、午前4時半より著明となる。6時には深い昏睡の状態。瞳孔散大して対光反応全く消失、呼吸困難に陥る。筋腱反射は両側共出にくいが、暫くすると間代様に出る。右側にBabinskiの疑あり。髄液、純粋に血性! 午前9時35分死亡。

 病歴記載は、以上で終っている。
 さらに看護記録からつけ加えれば、
 入院当日、「質問には女性のようなやさしい声で一応筋道の通った応答をされる」とあり、6月20日まではおちついており、そのあと「外出の要求」をしている。7月から、肥胖療法としてイスジリン1日10単位の注射を連日行なっている。7月に入ってからは、おおむね「自室で正座して厚い本を読んでいる」という記載がつづいている。
 ロボトミー施行後は、その日の午後4時頃「顔面発汗、角膜反応がないので医師に報告」とあり、「再手術中出血」とされている。

 3.N氏の事実についての検討
 まず、N氏は一応破瓜病と診断されたが、その診断そのものに若干疑問がもたれ、性格的なものや、思春期の動揺という可能性も考えられている。少なくとも、「異論のない分裂病」とはされていない。滅裂の方向への思考障害もなく、幻覚妄想も明らかでない。いわゆる分裂病の「一級症状」は明らかでない。
 入院前に、いわゆる逸脱行為があったようで、死にたいという考えもあったようである。
 しかし、入院当初はまずおちついてすごし、その後退院したがり、それに対してさらにとじこめられてから「奇妙」といわれた行動をとっているが、このあたりは拘禁状況の中でかなり理解しうるのではなかろうか。7月に入ってから手術前の日々を自室で読書してすごしたことは、この人がいわゆる「激しい症状をしめして<0034<他に手段がなくてロボトミーを行なった」と称する場合に当らないことをしめしていると思われる。むしろ入院早々に、「ESやインシュリンが効きそうもないから」という予想にもとづいてロボトミーが企図されている。
 そして家人にロボトミーの承諾をすすめるに当りどのように話したかは記録にのこっていない。全身麻酔のもとでロボトミーをうけたこの患者が手術を拒否したのかどうかも記されていない。
 手術の帰結はすでに記した通りの死である。「脳小片摘出」(すなわち台氏の方法による大脳皮質採取)をしたときにすでに「出血少量」と付記されている。このあと、手術終了後約4時間で深い昏睡(といっても病歴には昏睡の所見の詳細は書かれていない。看護日誌の方に角膜反射消失をしめす記録がある)に陥っていて、ロボトミーから7時間後の再手術のときに皮下から硬膜下、軟膜下、さらに白質の切載面にかけて血腫があり、洗滌して凝血塊を排除したてと、皮質切除のあとの周囲の軟膜から「じくじくと」目に見える出血があったわけである。この際他の部位、たとえば白質切載面から出血してくるという事実は記されていない。そして、骨孔を拡大して軟膜の血管の止血をし、筋肉片をあてがって手術創をとじたというが、他の部位についての止血操作をしたという記録はない。
 その後脳圧亢進症状があらわれ、強まり、深い昏睡となり、髄液は血性で、再手術終了から約12時間半後に死亡している。
 死への道程において、少なくとも再手術時に、皮質採取の痕からの出血が確認されていて、これをめぐって脳に外科的操作が加えられている。そしてこの刺激が脳浮腫を惹起したことも考えられる。もちろん再手術後の髄液所見からみて、再手術後にも何らかの頭蓋内出血があったと考えられる。しかしそれがどの辺からの出血であったかは、当然断定すべくもない。元来皮質表層は血管に富み、その破壊は出血をもたらす危険が大きい。再手術で止血をしたとはいえ、筋肉片でおさえたあとさらに出血したこともあり得る。ただ、この種の議論は厳密にいえばあくまでも推測の域を出ないのであり、皮質採取と死との関係についての学会の見解が可能性の指摘にとどまっているのは当然である。そしてこの可能性の指摘を真剣にうけとめることが正しい態度であることは言をまたない。

 4.患者K氏の病歴から
 K氏は1951年3月13日松沢病院入院当時21歳で、もともとおとなしく、小心であったという。高等小学校を卒業後、工員や大工の仕事をしていた。種別は措置入院で、担当医名は記されていない。
 1949年1月頃から仕事をやめ、家でひとりで笑っているのが目につき、ある日外出して浮浪者と争い着物を奪われ、警察に保護され、同年6月以来「非監置精神病者」として警視庁に登録され注意されていた。
 拒食もあったらしく、おおむねねてばかりいて、1949年11月T病院に入院、インシュリン治療をうけ、1950年3月退院し、以後外来でESなどうけた。1950年8月には塀に上り屋根の上をとんで歩いたりした。
 1951年3月13日午前0時30分、父に馬乗りになって大工用のノミで20余ヵ所を刺し重傷を負わせ、とめに入った兄の顔や手を傷つけ、警察官らにとりまかれて来院し措置入院となった。
 来院時の医師の記載では、
 「温和しい顔をした色白な青年、表情のない無欲的な顔貌」、「大勢に取巻かれて来ても一向に平気な態度」で、「(父らを刺したのは)幻覚や妄想に基くものではない、単なる衝動的のものらしい」、「疏通可能だがまとまりはよくない」とされ、暫定診断は破瓜病。西4病棟(保護病棟)に収容。このときの担当医への連絡事項に「明日家人来院の予定(ロボトミーの話をされたら如何)」とある。ロボトミーをすすめる理由は書かれていない。そして翌3月14日付で、父親名による手術願書が出されている。
<0035<
 入院してからの面接で“親代りになってやる”などという男の声が時々きこえるといい、父を刺したのは、「(父に)昭和18年だかに一回殺されたことがあった。町の中ではりつけにされて、槍で罪人のように突かれた。仕様がないからまた生まれて来た」という。「茫然とした表情でぽつりぽつりと喋るが出任せの様でまとまらない」と記されている。
 その後3月20日になり、「今日は極めて活発、はきはきした応答」と変ってきて、「どうしてもお父さんを殺さねばと、幽霊が出る」、「(自分は)日清戦争に出て金鵄勲章を7、8個もらった」、「名字帯刀を許された」、「加賀8万石だった」、「大正のときに殺された」などといい、「気分がほがらかで、かなり活発に喋る(出任せ?phantastisch)、調子がいい」とまとめられている。
 3月26日の院長による診察では、大体同様の話をして、「精神分裂病」と診断され、院長から、「ESでもやる事」とすすめられている。
 そのあと4月11日に記載があり、やはり殺されたこと、幽霊が出ることなどをのべ、「空想的(phantastisch)で無論理的、非論理的、了解不能、ぼう然として無為、表情の動きも少ない」ということだったが、本人が父らを刺したことについての新聞記事を担当医が本人に見せたところ、「笑って、誰がこんなことを書いたんだろうと熱心に読み出す。笑いながら、どうしたんだろうなと紙をいじっている」ということで、「(医師)平気かね」、「(患者)平気じゃないよ」という問答が書かれている。
 このあとロボトミーの日までの約2週間は、病歴の記載がない。
 手術とそれ以後の記載はやはり名古屋学会ですでにしめしたが、全容を次にしるす。

 1951年4月24日
  両側スタンダード・ロボトミー
   術者 S.Hirose
  45分(2.40〜3.25p.m.)
  局所麻酔、冠状縫合上頬骨上方5cm部に骨孔、硬膜十字切開、左軟膜クリップ3本。
  両側脳小片摘出。
  4.5〜7.0cmの深さで上下にスタンダード・ロボトミー。切載面洗滌、出血少量。
  筋縫合、帽状腱膜、皮膚一層縫合、術を終る。
 中1病棟ヘ。50%G60cc静注、トロンブリン1筒、30万単位ペニシリン。
  嘔吐(+)。

 「手術前、手術台上にて“どれ位切るんですか、かんべんして下さいよ、脳味噌取るんでしょ、どれ位とるんですか、止めて下さいよ、馬鹿になるんでしょ、殺されてしまうんじゃないですか、殺さないで下さい、お願いします、家ヘ帰らせて下さい、先生、大丈夫ですか、本当に大丈夫でしょうか、死なないですか、先生、先生、本当に死なないでしょうか、先生、先生、先生……”といった調子で執劫に常同的な訴えを繰返す。優雅さ(Grazie)が全然ない。」

 左側白質切載が終ると途端に自発的に口をきかなくなる。両側切載が終った時嘔吐。しかし皮膚縫合の際も痛がらず、おとなしく手術を受ける。話しかけには反応する。

 病棟にて、無言、無動、閉目、臥床。
 〈気分は?〉「良いです」〈痛くない?〉「痛くないです」〈頭の手術をしたのだから安静にするんだよ〉「ハイ」〈お腹が空いたか?〉「ハイ、空きました。」Babinski左(+)、足間代左(+)。
 
 4月25日(2日目)
 嘔吐(+)、右上眼瞼溢血腫脹、5O%G100cc静注。
 寡言、寡動、閉目、臥床。
 37.8℃。手術場に運び右側手術創面を開く。
<0036<
 右側白質切載面よりの出血は少量。
 脳全体が浮腫、腫脹し、硬膜の間隙より皮質が脱出している。皮質切除部に凝血塊が相当量附着している。それを除去、洗滌、皮質欠損部の辺縁の血管にクリップ4本かける。切載面は脳浮腫のため内腔が狭くなって居り、又、脳室穿刺を試みようとしたが成功せず、尚切載面洗滌の際下方眼窩面にリンゲルを注入せる際、急に昏睡状となり脈拍小さく頻拍となりたるも漸次回復、筋縫合、皮膚、帽状腱膜一層縫合。腰椎穿刺により血性髄液35cc排出。
 50%G100cc静注、30万単位ペニシリン、トロンブリン。11.15p.m.、40.0℃。

4月26日
 午前5時39.6℃、11時30分39.5、50%G80cc静注、
 嘔吐(−)、粥食半椀。
 意識清明(?)、強い無動(inertia)の状態。失見当、健忘的。
 腰椎穿刺:血性髄液30cc。

4月27日 40.5℃
 腰椎穿刺:血性髄液10cc。
 5O%G100cc。

4月28日
 50%G100cc。体温下降。

4月29日(6日目)
 50%GlOOcc。自然排便。同室患者に介補されて便所に行く。

4月30日(7日目)
 抜糸。創面一期癒合。
 無欲状、寡言、寡動、臥床、尿失禁。
 意識清明。強い無動(inertia)の状態。
 食事は介補で完全。

5月1日(8日目)
 昨夜来虚脱状態、無欲状、呼吸頻数、脈拍小さく頻拍、右肺浮腫、側胸部に捻髪音。
 右上下肢軽い麻痺、膝蓋腱反射、アキレス腱反射左右共欠、口角右に偏位、右の鼻唇溝が浅い。Babinski(−)、足間代(−)、項部硬直(−)、腹皮反射、挙睾反射欠、橈骨反射右>左。
 全身発汗甚し、両足共尖足位。
 意識混濁はない。瞳孔右>左、対光反応ややおそい。
 血圧80/50、35.2℃、脈拍120。
 リンゲル1,000、コラミン1cc4時間おき、朝食不食、夕番茶、果汁。
 午後6時呼吸困難。
 ビタカンファー→ジギタミン→コラミン3時間おき皮注、ビタミンC50mg5筒、B5mg5筒。

5月2日
 午前4時死亡。
 死因:脳出血とす。

 以上である。
 なお看護日誌の記録で補足すると、3月14日から20日までは、「静か、本など読む、人と余り話さない、臥床している。特別変化なし」などとされている。
 3月22日に、「本日ロボトミーの予定だったが23日に成った。頭の毛をそられて気持悪そうに寝て居られた」という。
 その後さらに延期された4月24日の手術までの間も、ほとんど「平静」の記載で終始している。
<0037<
 手術後は、25日に「うわごとにナイフナイフという」26日に「意識は体温に比べてはっきりしている」27日に「顔の浮腫もとれ一段と元気に見える」29日に「時々困ったな等と意味の通じないことをいう」5月1日に「やや元気がない。意識も混濁している」という。

 5.K氏の事実についての検討
 K氏は入院前から警視庁に登録されていて、父らを傷つけ、措置入院となった。しかし平生はきわめておとなしい人であった様子である。
 そして入院の日、「衝動的な行動をした破瓜病患者」とされ、そのときすでに「家人にロボトミーの話をしたら」と示唆され、翌日手術願書がとられている。このように、N氏と共通して、ロボトミーの方針を決めたのが入院直後の早い時期であることがまず目立つ。
 入院してから、話しをすると、自分は父に何回も殺された、などといい、空想的あるいは出任せ的とみられている。しかし病棟での日常の状態は、おおむね「平静」である。また、「冷い」とか「鈍い」という記載はない。自分のことが出ている新聞記事を見せられて、「平気じゃないよ」といっている。
 結局K氏の場合は、おそらく、平生はおちついているが、過去に父らを刺したという事実があるために、ロボトミーをされたのではなかろうか。そして手術前の日々を平静にすごしてきたこの人が、手術台上で、手術に対するおそれと拒否を切々と訴えた記録がある。それにもかかわらず、手術はなされ、患者は死亡した。
 たとえ空想的あるいは妄想的であったとしても、脳手術や実験に対する拒否の意志表示を無視してよいのであろうか。たとえ妄想があろうとも、脳手術や実験の是非を判断できないと断じうるのだろうか。このような場合は本人の意志表示を尊重する方向を当然とるべきであると私は考える。
 さて、K氏の死因については、台氏および台擁護論者が論争を欲している様子である。たしかに名古屋学会のあと、K氏が解剖にふされていることが、病歴以外の記録から判明した。
 K氏が死に至った道程と解剖の結果に関しては、台実験の本質に関する批判をふまえた上で討論するのが原則であると私は思う。この前提に立った上で、医師として事実に対する関心をもつという立場を考慮し、ここでは以下の点を指摘しておきたい。
 まず、病歴からみて、右側の再手術の時点で、「白質切載面からの出血は少量」で、「皮質切除部に凝血塊が相当量附着」し、脳浮腫が明らかに存在した。そして止血の操作、洗滌をしているうちに急に昏睡状となり脈拍が悪化し、かなり危険な状態に陥ったことが明白である。そしてこれは一応回復したが、体温が40℃にもなり、翌日、翌々日と高熱がつづいた。これが患者の全身状態に悪影響をおよぼしたことはうたがいない。
 そしてこの頃の患者の状態は、無動性無言症(akinetic mutism)というには看護記録にみるように発語がかなりある点で若干異なり、むしろいわゆる前頭葉性無動症(frontale Akinese)にほぼ該当すると思われる。この状態は前頭葉底面よりも凸面の病変によっておこるといわれている。
 死の少し前には、肺の変化も記されている。狭義の神経症状として、5月1日には項部硬直はなかったという。しかしそれ以前には手術当日のわずかな記載をのぞいて、神経症状に関する記載が全くないので、項部硬直がある時期に出ていたのかどうかもわからない。
 そして死後、記録によれば、脳だけの解剖がなされ、その執刀者の一人は台氏である。脳以外の肺などの所見は当然一切不明である。
 脳の所見についての記述は、当時の他の例に比べて粗である。すなわち、ロボトームの刺入口、大脳皮質採取の痕についてまったく記載していない。ほとんど、出血の肉眼的所見の記載に終始している。それによると、
 「脳重量は1,300g。
<0038<
 脳の凸面の全表面に軟膜下の出血があり、とくに右前頭葉、左右頭頂−後頭葉にかけて著しく、小脳の表面にもおよび、脳底面では後頭蓋窩に応じた部分に中等度にあるだけである。
 ロボトミーによる切載面を通る断面をしらべたら、右の白質はまったく凝血塊で充され、この出血による物質欠損は側脳室の直前までつづき、多少の凝血塊が右側脳室中に入っていて、脳が左にむかっておされている。左も、かなり出血がある。」
 以上の所見を知って、台氏は、自分の実験が「無害」であったという方にやや近づいたという(「朝日ジャーナル」15巻21号、1973年6月1日参照)。
 しかし、「直接の死因にならなければ無害である」というのではあまりに粗雑である。また、白質を充たしていた凝血塊がどこから出てきたかということは簡単にはわからない。K氏の場合は再手術時に右の白質切載面からの出血は少量で、皮質切除部の凝血塊は相当量であったし、ロボトーム刺入口周囲の皮質が破壊されていればそこから出た血液が白質切載面に入って行くことも十分考えられる。皮質採取の痕の止血が完全であったとは限らない。脳の凸面の出血が広範で、右前頭葉で著しいのも問題である。
 このように、解剖所見の記載から出てくることは、あくまでも可能性の指摘にとどまるのであるが、少なくとも皮質採取の無害論を支持するものは何もないのである。
 すでに学会の場でも述べたように、被験者が死に至ったときは、医師であるなら謙虚に考察するべきであり、可能性の指摘に対しても謙虚にきくべきである。ゆがんだ「死因論争」に陥らないためにも、この態度が必要なのである。

 6.結語
 以上のように、2人の患者についての事実をのべればのべるほど、患者の悲惨さが明らかになり、台実験の危険性、有害性が浮きぼりにされるのである。そして、この2人以外の人々をめぐる事実をしめせばしめすほど、台実験の危険性がさらに多くの側面から明らかにされるであろうということを指摘して本稿を終る。


UP:20110912 REV:
「台(臺)人体実験」告発  ◇『精神医療』  ◇精神障害/精神医療 
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