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「台弘氏による人体実験」批判

19730915 『精神医療』第2次3-1(11):21-30


小沢勲(京都府立洛南病院) 19730915 「「台氏による人体実験」批判」, 『精神医療』第2次3-1(11):47-71

 1.はじめに 1971年3月、石川清氏は、台弘氏の論文「精神分裂病者脳組織の含水炭素代謝に就いて、第一報並びに第二報 1)」が80余名の患者に対して行なわれた不当な人体実験の〈成果〉であるとして、精神神経学会理事長あてに質問書を提出し、同時に会学会員に対して台弘氏を告発した。いらい2年間にわたって理事会、評議員会、「石川清氏よりの台氏批判問題委員会」(以下、単に委員会と略記する)あるいは総会において討論が続けられた。本年5月の(第70回)精神神経学会総会で「台実験は人権上の立場から医学実験として到底容認できないものであり、本学会において、実験の無害論をめぐる延々とした議論を行ない、患者の立場に立った態度をすみやかに表明できなかった事について学会としても自己批判し、今後、かかる実験は行なわない」という趣旨の決議を圧倒的多数で可決したことによって一応の決着がついたかのようにみえる(経過の詳細は本誌小池報告を併読されたい)。だが、決議の後にさえ誰の眼にもその破産(⇒破綻)は明らかな実験無害論を盾に居直りつづけている台氏の態度 2、3)はむろん、吉田哲雄氏の〈新事実〉(詳細は本誌、吉田論文を読まれたい)によって台擁護派から一転して決議案賛成あるいは保留にまわった少なからざる人達の態度は、いぜんとして「告発」のもつ今日的意味の本質が明らかにされていないことを示している。そして、台実験批判をふまえ、すべての医学・医療の実践を再点検する作業にとりかかるためには、今まさに台問題の総括が必要とされているように思われる。 ここで台問題の討論経過をふりかえってみると、時には告発者の意図さえこえて、台氏および彼を擁護する人々の医学・医療に対する思想的頽廃を暴露したのは、皮肉にも他ならぬ台氏らによる反輸そのものであった。とくに、本年3月に開かれた評議員会の席上では、彼らが自らの論理的破綻をつくろうべく反論をくりかえせばくりかえすほど、自らの頽廃ぶりを、決して20年前のこととしてではなく、まさに現在の問題として露呈していったのである。だが、台氏が「わたしの人体実験によって、初めて分裂病研究が動物実験で可能となることが明らかになったのだ」というとき、また、台氏の熱心な擁護者町山幸輝氏が「20年前には脳切除が障害をもたらすか否かという議論さえなかったのだから、台実験は許される」というとき、われわれが彼らの思想と行為を単に〈頽廃〉と名付けるのは、われわれが彼らの実験対象から逃れ得る場所にいるからであって、多くの〈精神障害者〉(台氏たちのような〈傷害者〉について語るとき、〈障害者〉のコトバを使うことには単なるうしろめたさ以上のものを感じるが……)や家族、ごくあたり前の感覚をもった人達はまさに恐怖をもって反応したのである。事実、3月の評議員会に理事会から台実験批判の7項目が提出され、それが可決されなかったことを新聞報道などで知った患者・家族などから、私は恐怖と絶望の眼でみつめられながら、「あれが本当に精神科のお医者さんを代表する人達の意見なのですか」と問いつめられ、「もし、そう<0047<なら精神科の医者は私達の敵です」といい切る人達を前にして、私は絶句する他なかったのである。 台氏たちの〈危険な思想〉は、現実の精神医療において色濃く存在する偏見と差別・抑圧構造に根を下ろしているだけに、単に論理的な反駁にとどまらず、実践的に現場からうちくずしていかなければ、その根を断つことはできないものである。今まで彼らによって何が語られたのかを整理し、彼らの論理的破綻を指摘し、論理というには程遠い彼らの語り口を可能にした思想的背景、特に、吉田氏による〈新事実〉によって態度を一転させた人達の論理構造を明確にしておくことは、さしあたって今の私にできる最低限の義務であろう。3月の評議員会の席上、患者・家族の発言要求に反対し、議長の許可で発言した患者・家族の告発に一言も反応せず、決議の後にも居直り続けている台氏の態度を思うと、私の筆は押えがたく感情的になろうとするのだが、でき得るかぎり冷静に論を進めようと思う。 (なお、この論文は本年5月の総会に精神神経学会評議員有志の名で出されたパンフレット「台氏人体実験を糾弾する」に書いた同名論文をもとに、大幅に加筆訂正したものである。) 2.台弘氏の最近の見解 ここに1枚のビラがある。1973年5月11日付で出されている東大医学部学生自治会のビラで 3)、おそらく決議後初めての台氏によるまとまった見解表明である。内容は従来の見解 4、5)と全く同一のものといっていいが、むしろ彼の思想上の弱点を今まで以上に明らかにしている。だが、これが台氏の決議に対する公式の反応である以上、私は徹底的な批判の対象にせざるを得ない。そこでまず、原文は原稿用紙にして20枚近い長文のものであるので、ここにその抜粋を紹介しておきたい。
 まず、彼は「医学研究のありかた」と称して、「批判者と私との医学研究や医療に対する基本的態度が大きく異なっている」ために「私(台氏)に対する批判とそれに対する私の反論がことごとにすれちがって討論になら」ず、「私に対する批難、攻撃に終始し、私を葬ればことは終るかの観さえあった」という認識(?)から「実験の具体的細目に入る前に一般論をのべる」といい、彼とわれわれとの相違点を3点にわたってのべている。その3点とは、「第1点は、批判者はいつも絶対性、完全性を要求するのに対して、私はいつも相対性、不完全性に立って物事を考える点にある。医学に絶対の確実性を求め、医療に完全な効果と無害性を求めるのは、誰しも望むところであり、目標とすべきことであるが、現実の医学は、つねに不完全であり、治療には効果と共に危険性を蔵するものである。希望と現実と混同して論議しても実りのない観念論に堕するのみである。このことは広く実験の意味を考える時、特に明確になる。いかなる治療においても、医師は自らの処置は患者にどのような効果を及ぼすのかを予測し、その結果を検討しながらすすむものである。医療はこの意味で多かれ少なかれ実験的側面をもっている。」
 「第2点は、私はいつも歴史的観点に立って考えるのに、批判者にはそれが欠落している点である。現実が不完全であり、不十分であるからこそ、それをより完全に、より十分にしようとする努力がおこるのであり、過去は現在よりも、現在は将来よりも不完全、不確実であるという歴史的視点が生ずる。」
 「第3の相違点は、私が実証的論理の上に立って判断するのに対し、批判者は心情的思考にもとづいて判断するところにある。事実の認識よりも行為者の姿勢、態度を重視し、行為を歴史を超越し、個人と集団を無視して心情的に包括する思考形式が批判者に共通する特徴である。現在の私と20数年前の私は同一視され、私の実験とナチスの集団殺りくは無造作に一括されている。だが一体批判者は、20数年前の私の心情をどのようにして知っているのだろうか。」<0048<と述べたうえで、現在の精神医学の混乱のもとは「医師・患者関係は1対1の人間関係から出発すべきである」と考え、「精神医学と精神科医療ですら、それは人間関係以上の世界、つまり生物世界の部分であることを忘れているためである【」】という。
 次に、「実験の具体的な問題点」について4点にわたって述べている。第1点は「ロボトミーについての現在の見解」である。
 「ロボトミーの意義を理解するには、昔、肺結核の治療に広く行なわれた胸廓成形術や肺切除とくらべて見るとよい。手術によって肺括量はへり、働きはおちるが、病変は拡がらずにすむ。ロボトミーも似たようなねらいで、脳の働きの一部をおとし、その代り病的な症状を消そうとするものである。あるいは、まとまりのなくなった脳の一部を切り離して、小さくまとまろうとするものだと考えてよい。ただし、ロボトミーでは肺機能検査やレ線写真のような精度をもつ客観的尺度がなく、臨床的な精神状態像で精神機能の減少も、病的状況も判定しなければならないのが苦しいところである。例を上げると、患者は取越苦労をしなくなった代りに妄想を起こさなくなる。(中略)
 この手術は当然のことながら姑息的手段であることが初めからわかっていた。抗結核薬が発見されてから肺の手術が大幅に減ったように、向精神薬や生活療法が精神病の治療に取り入れられてからロボトミーはほとんど行われなくなった。私自身も昭和27、8年以後ロボトミーを患者にすすめたことはないし、現在は行なうべき手術とは考えない。なぜならば、取越苦労をしなくなるというのはたとえ軽度でも不可逆的に人格を変化させたことであって、人権侵害の意味が大きい。(中略)
 ロボトミーは功罪のうち功が忘れられて罪のみが強調されることになったが、それは精神病の治療が進んだ現在だからこそいえるのであって、昔、何とかして病状を改善しようと企てられたロボトミーの歴史的意義を否定するのは間違っている。しかし、ロボトミーがはなはだ不完全な治療であったことは間違いないし、当時それを受けた患者が被害をこうむったことも事実である。」
 第2点は「実験の意義」についてである。
 「私の実験はロボトミーに際して行なわれたものだが、意図する所はロボトミーとは全く別のものである。分裂病は脳細胞に明らかな変化がないので脳の代謝異常によるものではないかと古くから考えられていた。それなら薬物でなおす方が本筋である。当時分裂病者の環流血の分析から糖代謝異常が推論され、ビタミンB1療法が推薦されていた(林道倫)ので、脳組織について直接にそれをしらべたら、より確実な治療法が見出せるかもしれないと考えた。そこでロボトミーの機会を利用したのである。
 この実験が患者の直接利益につながらなかったということが多く批判されているが、実験は利益を目的として始める所に妥当性を認めるべきで、結果によって判定されるべきではない。これはもちろん後述の無害性が前提とされている。もし利益の結果が始めから明らかなら、それは実験ではない。さて私の研究の結果は予想と違ってすぐに治療に結びつくことにはならなかったが、大きな副産物があった。それが覚醒剤による分裂病モデルを動物につくることを可能にしたのである。覚醒剤との拮抗を1つの目安として有効な向精神薬が生れてきたのはその後の話である。
 分裂病の対照症例には実験は利益をめざしたものともならないという批判がある。これに対しては対照症例とされるのはもっぱら精神状態によって分類され、その脳代謝については何が見出されるか全く不明だったことを考えてほしい。事実慢性覚醒剤中毒は対照症例だったが分裂病と類似の所見を示したのである。」
 第3点は「組織の摘出操作に伴う危険性あるいは無害性について」である。
 「ロボトミー・プラス・組織摘出手術者に2名の手術死があることが学会で報告されて、私も<0049<非常に驚かされた。(中略)学会はこの2死亡例について『皮質切除がなければ死に至らなかった可能性が強い』と断定した。この判断の資料となったのは当時病歴に記載された手術時の所見のみであって、広瀬氏の見解をただすこともなく、剖検の有無も不明であり、さらに組織切除がなくて手術死した患者の病歴や剖検所見を対照として用いることもない。したがって私はこのような断定には承服し難いことを表明した。
 広瀬氏のロボトミー手術死率は、2.6%で外国の諸統計1〜5%に比しても高いものではない。また、200例のロボトミー(うち組織切除は80余例、さらにそのうち手術死1)を経験している熟練の手術者が脳表の止血操作に欠ける所があったとは、実情を知る者としては考え難いのである。しかし、このことの当否は今後十分に検討を要する問題であると思われる。
 私が脳切除による実験にとりかかる前の段階で、それを無害と考えた根拠が乏しいという批判がある。私のいう無害とは、ロボトミーとロボトミー・プラス・組織切除との間に差があるとはいえない、という意味であることを理解してほしい。まず、ロボトミー自体が脳に与える傷害の範囲は、ひどくあいまいなものである上、当時はロボトミーよりも皮質の部位切除、すなわち、トペクトミーの方が手術部を限定できるので確実であるとして推賞する人もあったくらいである。ロボトミー・プラス・皮質小部分切除は、この意味でロボトミーと同じような治療的意図にふくまれていたのである。(中略)
 脳切除による傷害には、形態的な欠損と理念的にありうべき機能損失は当然伴なわれることである。私が問題にしている無害性とは臨床的な精神機能について論じていることを重ねて指摘したい。そしてこのことは松沢病院において、被手術患者の術後の臨床像、ならびに経過が私自身、広瀬氏によって、退院後の患者については広瀬氏によって長期にわたり詳細に追求された結果からもいえることである。」
 第4点は「同意の問題について」である。彼は、同意を得ていなかったことについては「私の誤りであった」というが「それは患者の人権無視の態度から発した行為ではなく、手術の無害性を信じていたためと、ロボトミー手術に対して病態生理と治療とに役立つ情報をより多く求め、積極的に人権を守ろうとする態度が優先して、患者や家族の協力をえる努力を行なった【「おこたった」の誤植?】結果になったものである」という。
 以上、かなり詳細な引用を示したが、これはあまりにひどすぎる。論理的破綻は明らかであり、ことの本質は見失われ、彼のコトバを借りれば、まさに本見解は、「心情的に」決議に反発し、居直り、「歴史的観点に立った」総括を一切せず、自己の実験の正しさと有益性に対する「絶対的」確信によってひたすら弁解をくりかえすのみである。遂一、批判を加え、私の総括を述べたい。

 3.台実験批判は個人攻撃か――「心情的思考」の典型例について
 台氏は批判者の思考を「心情的思考」とよんだ。私自身は台氏らの議論にある差別と偏見、無感覚と無神経さにきわめて「心情的」に反発した。それは全く自然なことであって、「心情的」といわれることは一向にかまわないが、ただ、私は台氏のように「心情的」になることによってコトの本質は見失わなかったつもりである。
 台氏は自らの論文に対する批判を「個人攻撃である」と断じ、「無知と悪意に支えられて煽情的に登場」した、「厳正な科学性と善意ある人間性を傷つけ」るものであると述べる 5)一方で、自らの実験が国際医学会で「decissive progressであると評価された 5)」と得意気に書いている。これが、「心情的文章」の典型例でなくて何であろうか。われわれは、台実験批判を1つの出発点として、「人体実験の原則」について考え、現実の医学・医療の再点検へ、そして、われわれの日常的実践の相互点検へとむかいつ<0050<つあるのに対し、台氏らは「心情的思考は何よりも自己の心情に立脚するから 3)」批判を「個人攻撃」にすりかえ一切の総括を逃避してきているのである。中田修氏(保安処分の第一の推進者)にいたっては「台論文批判は個人攻撃である。学会が個人的問題をとりあげるのは間違いであって、理事会までも個人攻撃に加担する態度を示したのはなげかわしい。どうしても、このような問題をとりあげたいというなら、学会員以外の第三者に依頼して判断をあおぐべきだ」とまでいう(本年3月の評議員会における発言)。
 だいたい、彼らの思考のなかには実験の対象になった80余名の患者の存在がみあたらない。「客観的科学性を第一とする学術論文」 4)は専門家によってのみ評価が決定され、患者・家族はいうに及ばず、石川氏でさえ非専門家とみなされ、評価する資格がないかのように扱われているように思われる。「実験の本質的意味」は「患者に疑問を問いかけてその答えを期待する態度である」 5)と述べながら、その実、彼は患者の脳をかき取り、その生化学的反応のなかに答をみただけであって、その論文の評価は、論文を可能にした構造をみずに結果だけを「科学的・客観的」に評価する〈専門家〉の手にのみゆだねてきたのである。それに、われわれが問題にしたのは台氏のいうように「20数年前の台氏の心情」などではない。それはある意味ではどうでもよい。問題は台実験を可能にした現実の構造なのであって、それが現在でもなお本質的には決してのりこえられていないことにあるのである。少なくともその点に関していえば、いかなる〈専門家〉よりも多くの患者・家族は鋭い感覚をもっている。ある患者はいう。「断りもなしに他人の脳を切りとっておいて、どんなに弁解しようと、それが許されてよいはずはない」と。この言葉で私は台実験批判のほとんどすべてが語られていると思う。これに対して「個人攻撃をやめよ」と開き直ることで回避する台氏らの態度を私は許せない。いったい「個人攻撃」云々というときの〈個人〉とは何を意味しているのだろう。今、問題になっているのは台氏の私的生活におけるスキャンダルの道徳的判断なのではない。医師としてロボトミーに賛同し、研究者として80余人の患者から本人の同意を得ることなく脳組織を採取した公けの行為が問われているのだ。あくまで〈個人〉の問題にすりかえようとするなら、そのような〈個人〉とは「何はともあれ、研究とはいいものだ。何はともあれ、科学の進歩はなしとげられねばならない」というようなコトバを平気ではくことのできるきわめてかぎられた少数のエリートたる〈個人〉のことであり、本人の承諾なしに身体を傷つけても傷害罪にとわれることのなかった特権的な〈個人〉のことである。このような〈個人〉は徹底的に攻撃されなければならない。そして、このように思いあがった研究者や科学者に対して、現代社会において科学とは何であり、学問研究とは何であるのかを根底的につきつけたのが60年代後半から野火のごとく世界にひろがった大学闘争の1つの成果でもあった。
 〈科学の普遍性〉なる虚偽意識のもとで、研究者は自らの内から〈社会〉を疎外し、科学研究が総体としておかれている社会構造を見失っていた。また、自らの〈政治的中立性〉を信じることによって、きわめて〈政治的〉な立場をとらされているのだということが指摘された。そして、このような構造のなかにあっては〈学問の自由〉はつまるところ、特権的な研究者の心理的な次元での自由でしかあり得ないのだった。そして、〈社会〉を疎外した上に、(医局)講座制にあぐらをかいて得られた〈学問の自由〉は常に学問研究の私有財産化として現象する。
 このような認識は大学闘争に真剣にかかわったものには常識になっている。だが、台氏の前述のような態度は、まさに研究の私有財産化の典型的なかたちとしてあるにもかかわらず、本<0051<人たちはそれを意識しているようにもみえない。(自分のもちものを誉められれば相好をくずし、逆に自分のものに手をふれ、破壊しようと試みるものがいれば「これはオレのものだぞ」とどなりちらす彼らの態度は、まさに守銭奴のそれに似ている!)これをみるにつけても、いまだ医局講座制解体闘争の道は遠いことを知るのである。

 4.「科学的判断を多数決にゆだねるべきではない」という意見をめぐって――「歴史的視点」とは何か
 前にも述べたように、「告発」をめぐる討論は一見本筋を離れた(少なくとも私には)馬鹿げているとさえ思えた発言のなかに、討論者のホンネと思想性(の頽廃)とを如実に示しつづけてきた。たとえば、町山氏らの「科学的判断を多数決にゆだねるべきではない」とする意見も、当初、私には単に審議を引きのばすだけの発言にすぎないとうつり、このような意見は無視するのが最良の対応だろうと考えていた。だが、町山氏は“真面目に”発言しつづけた。そして、その発言の裏にあるものが何であるかに気付いたとき、私は慄然とし、恐怖した。
 町山氏(そして台氏自身ならびに台氏を擁護する人々)は告発の本質を「台氏による脳切除がロボトミーに加えて、さらなる障害を結果したか否か」という点にあるかのごときすりかえを行なっている。この〈すりかえ〉こそ、彼らの論理的破綻の最後の防衛線であるから、後にくわしく論駁するが、かりに今、彼らの議論の土俵に足を踏み入れるとしても、委員会報告は(台氏らに都合よく読みとったとして、少なくとも)「台氏による脳切除がさらなる障害を結果した可能性」については、なお議論があることを示している。さらに、吉田氏の提出した2症例は実験のための脳切除という手術操作そのものに危険性があったことを示している。吉田氏の「新事実」発表前のこと(と)はいえ、無害性に関していまなお議論がある段階で、多数決によって黒白をつけるべきではない、というのが町山氏意見であった。だが、そう主張することで町山氏は重大な誤謬をおかし、彼の思想性を暴露してしまった。忘れてはならない。たしかに、研究者の間では疑問に決着がついていないかもしれないが、台実験の対象となった80余人の患者にとっては、すでに20年前に台氏によって脳をかきとられているという事実によって、〈決着〉がついているのである。しかも、多数決によってどう決まろうと復元不可能なかたちで〈決着〉がつけられているのだ。だが、このような指摘をうけた町山氏の答えはこうだった。「20年前には脳組織採取の無害性に関するこのような議論さえなかったではないか。」(だから、仕方がなかった!)
 台氏のいう「歴史的視点」もまた大げさな言葉使いの割には、その内容はきわめて貧困であり、「過去は現在よりも、現在は将来よりも不完全、不確実である」という認識(?)を述べたものにすぎない。そして、「20年前のことだから」ということで、批判を回避しようとする試み以外の何物でもない。だが、われわれの問うたのはもっとも抑圧されたものを常に犠牲にし、彼らを踏台にしてなしとげられてきた〈医学の進歩〉の過程であり、また、そのような結果として蓄積された〈医学知識〉がもっとも抑圧された者の差別と抑圧をさらに強めるという構造をもってはいないだろうかという根源的な問題だったのである。台氏の「歴史的観点」からは、町山氏がふともらしたホンネと同じように、「実験材料として〈医学の進歩〉に寄与し得たのだから、20年前の患者はもって瞑すべし」という結論しか導き出せないであろう(私自身が「歴史的視点に立って」いかに問題を総括するかは、具体的にロボトミー問題などの総括をする予定の後章にゆずる)。

 「(人体)実験が数千人の治療に役立ちうるなら、〈当然すべき実験〉である……。こういう観点が戦後において〈呪われた医師たち〉を弁護する唯一<0052<の強力な論拠となったのだ」(クリスチン・ベルナダグ著、野口雄司訳 「呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験」 早川書房)

 5.「相対主議」の陥穽
 台氏が「相対性」などという、またもや大げさな言葉を用いて語っていることは、「現実はつねに不完全である」というきわめて当り前の空語であり、このような愚にもつかぬ論理(?)でもって論を進めようとする彼の最近のあり方は、ほとんど無残と形容するしかない。
 われわれは決して「希望と現実を混同」 3)したりはしない。ただ、過去の実践の過程において何らかの重大な誤謬があったときには、われわれはそれを「相対性」の名のもとに、回避し、葬り去るのではなく、何がそのような誤謬をうみ出したのか、誤謬を折出した現実構造はすでにのりこえられているのかどうか、のりこえられているとすればいかなる過程によってか、その過程を総括することによって現存する矛盾と混迷をきり開く道がさぐりだせないか、のりこえられていないとすればいかなる意味においてか等々を総括し、考えていこうとしているだけである。過去の誤りの総括を「相対性」の名のもとに回避できるかのごとくいいたて、「歴史的視点」の名のもとに犠牲者の存在に眼をつぶり、「実証主義」の名のもとに害が実証されさえしなければ何をしてもよいとすることによって真の総括を妨げ、建設的総括にむかおうとする者の足を「個人攻撃」と反応することによってひっぱったのは、他ならぬ台氏達であった。今こそ、われわれは台氏らの無論理にひきまわされることなく、真の総括をすべき時なのである。
 以上で、かなり退屈であった「一般論」への反論を終り、次章から具体的問題点に入っていく。
 (なお、台氏は脳組織採取の「無害性」をいいたてる論理として、再びこの〈相対性〉をもちだす。その批判については後に詳述する。)

 6.ロボトミーに対する若干の批判並びに台氏の分裂病者観をめぐって
 本章ではロボトミーについて若干の批判的考察を試み、あわせて台氏のロボトミーに対する考え方を検討することによって彼の分裂病者観にまでたち入って批判しておこうと思う。というのは、ロボトミーに対して現在は否定的であるという一点をのぞいて、ロボトミーに対する総括のしかたが台氏(あるいは台擁護派)と私とではまったく異なっており、その相異が彼らと私とを反対極に立たしめた重要な要因であると考えるからである。
 ところで、私自身は昭和30年代後半に精神科医になり、すでにほとんどロボトミーが施行されていなかったためもあってロボトミーそのものに立ち会ったことはない。だが、かつてロボトミーをうけた患者はかなり多く受け持っている。たとえば、現在私が診ている患者の1人にこのような女性がいる。病棟の患者の間で、彼女の評判ははなはだよろしくない。外勤にでて、結構仕事はしてくるのだが、帰ってくると寝るまで他人に罵詈雑言をあびせかける。「てんかんもち!泡をはいて、赤鬼みたいや」「三ツ口!」他の患者が一番いやがることをいう。ケンカになっても口数の圧倒的に多い彼女に大抵の患者は負けてしまう。そして、時にはポカリとゲンコをくらう。しばらくはクシュンとしているが、すぐになぐられたことは忘れたように大声でふざけちらしている。ベッドに入ってからの彼女のワイ談は、ワイ談以前のエゲツナイもので、そういった類の話が好きな人達もすぐにヘキエキして逃げだしてしまう。注意すると「はあ、わかりました。もう何にもいいません」というが、病室に帰ると、もう誰かとケンカしている。きつく叱ると彼女は「わたしは、昔はしとやかな女性だったそうですが」と他人事のようにいい、「ロボトミーをうけたとき、お医者さんがいじわるの神経と悪口の神経とを結びまちがえたんですワ」とケロッとしていう。「ダスター・コートをほしい」といい、「自分の<0053<お金だからどう使ってもいいでしょ」というので、それもそうだと思って、お金を持たせると、コートを買ってくるが、あまり着ようとしない。どうしたのかと思ってたずねると、同じようなコートを4、5枚もっていて、あまり着ずにしまいこんである。
 この3年間のつき合いのなかで彼女は少しづつ変ってきている。だが、変化の裏で動かしきれない何ものかを感じると、私の心の中の〈精神科医〉はそれを〈欠陥〉というコトバで置きかえたくなり、そのたびにロボトミーを受けた彼女の〈過去〉が重くるしく覆いかぶさってくる。彼女にとってさえ、ロボトミーをうける以前の彼女は〈他人〉としてしか意識されていない。何とかのりこえねばならぬ障壁だとは思ってみるものの実際は大変なことだと思う。
 このような個別的問題として私のなかにあったロボトミー批判の萌芽を総括してみなければならないと思い立ったのは台問題以後のことである。というのは、石川氏の告発をきいて私が恐怖したのは台氏実験そのものもさることながら、当時のロボトミーの実態であった。それを知らなかった自分を恥じた。そのために、台実験に対する全面的批判にとりかかるのが遅れた程である。
 台実験の対象者のうち1名はロボトミーと台実験のための脳切除の直後に死亡している。「精神病質」でロボトミーをうけているものも数多い。なかでも「弱志性精神病質」なる診断の多いことにも驚く。なかには、11歳の「精神病質」もいる(personal communicationによれば、彼女は〈問題行動〉のために、退学というかたちで小学校2年生のとき教育体制からはじきだされ、児童相談所等の〈福祉〉からも手におえない子として相手にしてもらえず、最後に10歳にして精神病院に入院させられ、それから数ヵ月後にロボトミーと脳皮質切除を受けさせられたという。彼女は今も入院中である)。発病後1,2年の経過で手術を受けさせられた「分裂病者」も少なくない(実験材料となった精神分裂病者42例中12例は経過3年以内。なお、personal communicationによれば入院1年以内にロボトミーを施行した例もきわめて多いという)。「強迫神経症」のものもいる。「80歳の老婦人で手術後空想的妄想を発するに至った奇異な例」(原論文)もある。また、「家人の切望による効果を期待せずに」(原論文)手術がおこなわれた例もあると記されている。治療効果は期待しなかったが、実験材料としては十分に期待がもてたというわけなのだろうか。
 このようにみてくると当時ロボトミーはかなり広い適応をもって施行されていたように思われる。最近、広瀬はロボトミーの適応についてのべ、「かつて米国では、state hospitalに入院中の慢性で感情荒廃の著しい症例に最終的手段として非常に多く手術が行われたが、鎮静的効果として看護を容易にする以上の効果を期待することはできず、薬物療法の出現によって現在ではこの種の症例にほとんど手術が行われなくなった。日本の精神病院においても同様である。」 6)(ちなみに、米国のstate hospitalは隔離・収容に徹している所が多く、黒人、貧之人は経済的理由からもstate hospitalに行かざるを得ない)と書かている。彼は続けて、現在もなお手術の適応となりうるものとして分裂病のなかではpseudoneurotic schizophrenia、paraphrenia、混合精神病、周期性緊張病、多彩な病像変化を反復しながら人格崩壊を示さぬ例など非定型分裂症であるとし、定型分裂病は効果が少ないとのべている。しかし、台実験が行なわれた当時は、「最終的手段」としてロボトミーが施行される症例群とpseudoneurotic schizophreniaで代表される症例群という、一見対極に位置する症例選択がなされていたと思われる。だが、〈学問的〉には対極にあるようにみえるこれらの2群も、前者は日常生活における〈介護の困難〉によって、後者はその〈訴えの多さ〉によって、ともに〈手がかかる〉一群の患者であったに違いない。ここにロボトミーを創始したBurckhardtの鎮静(Beruhigung)<0054<を目的とし、興奮患者(aufgeregte Demente)をおとなしい患者(ruhige Demente)にかえようとする思想 7)が根づいているとみなければならない(すぐ後でも述べるように、私はこのような思想性を現在の精神科医療がのりこえてしまっているとはとうてい思えない。だが、それゆえにこそロボトミーと台実験の総括は緊急の課題であると考えているのである)。
 さて、ロボトミーの創始者Burckhardtの思想性について触れたので、ここでロボトミーに関する理論的仮説について若干の検討を加える。精神外科に対する業績でノーベル賞を得たMonizは「精神病をシナプシス結合の混乱あるいは特定の結合の固定によっておこる」と考え、高度な精神機能が集まっている部位として前部前頭葉を設定して、固定した結合をたち切ることによって精神病を治すためロボトミーをおこなった 8、9)。ロボトミーを普及せしめたFreeman & Wattsは「前頭葉に思考を、視床に感情を結びつけ、両部位の連絡を断つことによって思考過程に対する感情的負荷をとりのぞくことができる」と考え、さらに「正常者にとって前頭葉は不可欠であるが、精神病者にとってそれは破壊的である。前頭葉がなければ機能的精神病はあり得ないかもしれぬ」といっている 10、11)。
 だが、彼らの局在論的・図式的・機械的考え方は現在ではもはやほとんど検討する価値さえないように思われる。もっとも、そのようなあいまいな仮説にもとづいて人間の大脳に切載を加えるという試みが行なわれたこと自体は十分に検討されねばならない。もっとも台氏は今なお、ロボトミーのねらいは「まとまりのなくなった脳の一部を切り離して、小さくまとまろうとするものだと考えてよい」 8)といっているのはどうしたことだろう。そして、今となってはむしろ、Freemanらが、ロボトミーは患者を回復(recovery)せしめるのではなく、1つの偏った状態(psychological deviation)からもう1つの偏った状態に変えるのであって、この偏りのどちらが社会的適応(social adjustment)を妨げる度合が少ないかが問題である、と述べたきわめて“practical”な考えがロボトミーの本質をついているように思う。台実験に機会を与えた広瀬もまた、少なくとも初期(台実験のころ)においてはロボトミーの効果の核心は人格変化にあり、その変化によって社会適応がよくなればよいと考えていた。
 人間が他の人間に対して示すこのような人格支配の様式は、恐怖政治のそれである。そして、現代における管理・支配の思想的支柱として常に見出せる〈適応論〉がここにもまた援用されている。1972年の学会で、生活療法を論じたとき、私はそれを典型的な〈適応論〉の系譜に入ると述べ 12)、〈適応論〉が適応せしめる社会状況への批判を欠き、社会状況への中立的科学性を保持し得るかのごとき幻想をふりまきつつ、実は「小さすぎるベッドに寝て、ベッドが小さすぎると苦情をいった人の脚を〈切除〉することによって、ベッドと寝る人との調和をはかろうとする思想である」、つまり、ベッド(社会状況)には一切手を触れようとしない保守思想であると述べた。そして、ロボトミーの場合は〈適応〉へ強制する手段がまさに暴力的である。このようにみてくると、精神外科の本質はBurckhardtのBeruhigungを至上とする思想から一歩も出ていないことがわかる。
 つまりロボトミーは〈脳切載〉という物理的手段によって1人の人間に何ら内的必然性のない人格の〈不連続性〉を押しつける。かかる〈不連続性〉をひきうけさせられた1人の人間は自分にとってまったく新しい〈状況〉への〈適応〉とひきかえに、すべての〈自己表現〉を抹殺され、あらゆる〈ホンネ〉を失なわせられる。それを精神科医はロボトミーの治療効果とよび、「不安がなくなり、幻覚・妄想がdistanzierenされた」「social adjustmentが容易になった」といってきたのである。ある自閉症児の母親はある会合で別の母親が「自閉症をなおす脳手術はないのでしょうか」とたずねたのに対して、医者が答えるより先に「そんなもの<0055<はない。だが、かりに自閉症がなおる手術がみつかっても、うちの子どもに手術をうけさせるかどうか迷うでしょう。今まで子どもと一緒に悩んできたもの、経験してきたもの、そしてそのなかで初めてわかったいろいろなこと、人間のやさしさと冷たさなどがどうなっていってしまうか、わからないからです。また、一からやりなおさなければいけないのではないかと思って、なおることへの希望とこわさに本当に迷うでしょう。」と答えたのである。ロボトミーで精神病をなおしたつもりの医者はこの母親の言葉をどううけとめるのだろうか。
 ロボトミーに対する批判的検討のためには以上の叙述はなはだ不十分ではあるが、台実験批判という本論からはやや横道にそれすぎたと思われる方があるかもしれない。だが、ロボトミーの思想と、本人の同意を得ないまま脳組織を採取し、その部分の脳機能は廃絶させられるべきものであったといい、脳切除による害を“negligible small”であると主張する台氏らの思想とは奇妙なほど一致するのである。そして、台氏はこの問題を通して自らの分裂病者観(ひいては〈障害者〉観、さらには人間観)が問われているのだということに気付いていない。そして、討論を〈科学的判断〉なる狭小化された際限ない論議にひきずりこもうとしてやっきになっている。
 ここで、台氏のロボトミーに対する考え方を検討しておこう。そのことによってロボトミー批判の不十分さも幾分なりと補足されるであろう。彼はロボトミーについて最初は懐疑的であったが、広瀬貞雄氏という「勇気のある医師によってロボトミーが試みられてから……妄想や幻覚で不安におののいていた患者が両側の前頭葉の白質切載を終えた途端に、身体の緊張をゆるめ、幻覚を語らなくなるのを見て、私はロボトミーにも有効な場合があることを承認した」 4)と書いている。その後、再度、「症状の再燃や人格変化の露わになる症例が多いなどの欠点が明らかになるにつれて、私は再びこの手術法に対して慎重になった」 4)という。この2転、3転する態度の変化は何を意味するのだろう。「ロボトミーに対する評価は歴史的に変ってきたのであって、20年前の評価は現在の評価とは異なっていたということを認識しなければならない」といい、「およそ存在する治療法に完全無欠なものはない。われわれの医学は完全なものではなく治療行為は不可避的に実験的であらざるを得ないという矛盾をもっている。この矛盾は、治療を放棄しない以上、医学の発展によってしか解決され得ないのである」(委員会報告成瀬・町山意見)とひらきなおり、過去の「不完全な」治療による犠牲者にほほかむりをすることによって〈説明〉できるものだろうか。そうではあるまい。台氏自身は現在ロボトミーを否定し、ロボトミーは不可逆的に人格を変化させたという点から「人権侵害の意味が大きい」とし、「当時ロボトミーを受けた患者が被害をこうむったことも事実である」といい切るのであるから、われわれは次に台氏によって明確な総括がなされるのではないかと期待してしまう。台氏は「ロボトミーを必要とした」状況と構造のまっただ中に身を置いていたはずであり、ロボトミーに対する批判も数多くあり、1950年にソビエトでは法令をもって精神外科を禁止しているというなかで、なおかつ、「津波のように」(台氏の評議員会での発言)広がったロボトミーにまきこまれたのはなぜなのかを語ってくれるものとわれわれは待ちうける。だが、またもや「歴史的観点」「20年間の医学の進歩」が語られるだけである。台氏の考え方の基本的なところに誤ちがあるのではなかろうか、ようやく私はそう考えだす。
 台氏が「妄幻覚などの異常体験」を前頭葉機能に関連づけて考えていること自体は、必ずしも間違いではないであろう。彼の誤ち(そして古典的精神医学に共通する誤ち)は幻覚・妄想は異常であり、しかるがゆえに価値のないものであり、なにはともあれ、幻覚・妄想が消褪することはいいことだと無前提に考えてしまうと<0056<ころにある。それには、1人の人間に「幻覚・妄想」(と勝手に精神科医がレッテルをはった)という〈かたち〉でしか表現しきれなかった〈なにか〉が存在するなどという考えは初めから断念されている。〈かたち〉の「異常」が、〈内容〉の無意味性、了解不能性に簡単に結びつけられてしまう。というより、事実は逆なのかもしれない。つまり、精神科医が1人の人間の行動なり言葉なりを「わからぬ」と断じ、しかるがゆえに(ここに飛躍があるのだが)無意味であり、負の価値しかもたぬときめつけたとき、その相手の示した表現形態に〈妄想〉とか〈幻覚〉とかいうレッテルづけをしているのではないか。そして、そのようなレッテルが1人歩きを始めると、それがいかにも科学的な概念で、誰の眼にも疑いようのないものとして措定されだす。こうなると、幻覚・妄想という症状名をつけたとたんに、「なにはともあれ、症状をなくすことはよいことだ」と考えだす。ところが、〈症状〉というかたちで把握したものは、しょせん「オレにはオマエのいうことはてんでワカラヌ」という自己告白の科学的(!)表現にすぎないのだから、1人の人間が精神科医にとっては「ワカラヌ」といわしめる〈かたち〉でしか表現しきれなかった(それをどう評価するかは別問題である)〈なにか〉はどこかにすっとんでいる。むろん、精神科医に「ワカラヌ」と思わしめる枠組は、精神科医のみに存在するのではなく、現実の秩序を維持すべき最低の〈共通項〉であり、それゆえもっとも深いところで作用しつづけている感受性の構造のようなものであって、それが砕ける時は現実の秩序構造のほとんどすべてが音をたててくずれ去る時であろう。そして、今の私にはこれ以上の論理化は困難である。実践における出発点の確認の小さな第一歩は報告したこともある 7)し、また原稿を準備中であるが、〈治療〉という行為によって「幻覚・妄想」というかたちで初めて可能となった自己表現を抑圧し、押し込め、抹殺してしまい、1人の人間に自らの〈ホンネ〉さえ見失わせてしまっているのではないかという「おそれ」に、私はいつもさいなまれているのである。だが、台氏らはかかる〈おそれ〉にはきわめて鈍感なのである。後らの「オプティミズム」はかかる鈍感さに裏打ちされているのである。われわれは、台氏らが〈症状〉としてしか見ることができず、さまざまに名付け、分類する〈かたち〉を、われわれはまさにそのようなあり方のなかに厳しくたたき込んだ1人の人間の表現としてとらえ、表現された〈なにか〉を〈かれ〉の問題としてではなく、いかに〈われわれ〉の問題として共有し、発展させ得るかを考える。その過程での矛盾と激突のなかでのみ〈なおる〉ことの意味がたしかめられると考えている。だが、〈みるもの〉と〈みられるもの〉との関係が固定的である間は、このような関係は発展させ得ない。そして、現実の医者−患者関係は〈みる−みられる〉の関係を本質的に否定できない。だが、〈みる−みられる〉の関係が逆転し、〈みる〉ことをなりわいとしてきたものが病者によって初めて開示された世界に震憾し、自らの無意識的拠りどころがくずれていく不安を感じたとき、回避することなくそれをエネルギーに変換することによって、〈かれ〉と〈じぶん〉とが密室から現実へと撃ってでる共闘関係の原初形態が生み出されるはずである(たとえば、私は昨年「さよなら CP」という映画をみて、そこに刻々とうつし出される自分の酷さをほとんどいたたまれぬ思いでみていた。歩行不能である横田君が街をはいずりまわるとき、街の風景すべてがグロテスクに歪んでみえた。一個の身体そのものが、〈われわれ〉のいやらしさをかくも露骨にうつし出していた。そして、彼の存在はそれ以外ではあり得ないのだった。ここで感じた恥の感覚は、日常、診療場面で感じるそれと共通するものがあった。どうそこをのりこえるのか。というより、恥を原点にしながら、なおかつ、何をともに闘いうるのかを考えている)。だが、台氏らはこのすさまじい過程をおそらく1度も体験してい<0057<ないにちがいない(このように書くと、彼らはわれわれを心因論者であるかのごとく思い込んでしまう。どうも、機械的唯物論者にとって、自らに対する反対論者はすべて観念論者とうつるものらしい。ある者はまた、われわれが、「キチガイはキチガイらしくしていたらいい」といい、放置することこそ最善であると考えているように思いこんでいるらしい。だが、これは断じて誤りだ。「狂気の復権」などという評論家づらをしたキレイゴトは狂気の貧困化、密 室化をもたらすだけだ。かつて私は彼らを「狂気の物神化論者」とよんで批判した 7))。
 古典的精神医学が、ことに分裂症をどのようにみているかの典型例が「ライシャワー大使刺傷事件」の秋元波留夫氏による鑑定文にある 13)。秋元氏はいう。「精神科医が分裂病と診断したということは、その患者の心理は根本的に了解不能であることを示しているのである。この了解が不能であるということは、その心の動きについては予測することができないということである。すなわち患者には正常な動機にしたがって正常な意志を決定することを期待できないのである。」この事件を契機に精神衛生法改悪を初めとする、精神障害者への管理強化策が政府・警察の手によって矢つぎ早やにうたれ、精神神経学会もその渦中にあった。私はこの激動のなかで精神科医になったのであったが、その、当の少年のことは心にとめることもなく忘れてしまっていた。だが、福島によれば 13)、「精神鑑定によって、精神分裂病、責任無能力と診断された少年は不起訴処分決定後の(昭和39年)8月22日東京都立松沢病院に転院し、そこで治療を続けることになった。入院後1、2年、彼の精神状態はほとんど変化を示さず、寡言、無為で、心内には荒唐無稽な妄想を抱いていた。しかし、昭和41年春ごろから少しずつ軽快の徴侯が認められるようになった。病棟内の作業療法にきちんと従事するようになった。対人的にはあいかわらず孤立的で暗い表情をしており、医師にも打ちとけない状態ながら、話は以前よりまとまってきた。そこで主治医は病院構内の園芸作業に出るよう指示し、さらに翌42年2月には閉鎖病棟から開放病棟に転棟させた。対人接触や妄想はほとんど不変のままであったが、作業は休まずに熱心に従事するなど、行動面での改善は著しいものがあった。長期間の作業療法の後にはあるいは社会復帰する可能性も生ずるのではないかという希望が、この時点ではもたれていたのである。ところが、同年8月31日、アメリカ大使館の構内で乗用車台がガソリンをかけられ放火されて焼けるという事件がおこった。たまたまこの時刻、患者は無断外泊して病院に不在であった。」ために、彼は警察でとり調べをうけ、嫌疑は晴れたが、帰院した彼はふたたび閉鎖病棟に移され、屋外の作業療法は中断された。「彼は放火事件にも無関心で開放病棟から閉鎖病棟に移されたことに対しても何の反応も示さなかったというが閉鎖病棟に来てからはまったく意欲を失い、いっそう自閉的となり、人格は荒廃の一途をたどった。暗く冷たい表情でだれからも孤絶し、1人で本を読んでいたり、何もしないでごろごろねころんでいることが多くなった。昭和45年末のカルテには『全くの無為自閉、孤立、寡言、寡動状態、食事などの必要時以外には自室にこもりきり』と記されている。医師に対しても、すすんで話しかけることもなく、うちとけることもなく、たずねられてもほとんど答えず、その内面はとうてい外からうかがい知ることができない状態が続いた。そして突然、昭和46年1月8日未明、患者は病棟の中で縊死して果てた。患者は26歳。ライシャワー大使刺傷事件いらい7年が経っていた。自殺の動機は全く不明である」という。彼の一生は誰一人として了解してくれるものをもたず、最後の死に対してさえ「動機不明」の一言で片づけられてしまうものであった。そして、彼の一生は「正常な動機にしたがって正常な意志を決定することを期待できない」ものとしてみなされつづけてきた時間だったのだろう。だが、そうなってしまった原因は彼のみあるのだ<0058<ろうか。彼の〈病気〉のせいなのだろうか。〈われわれ〉には責任はないのだろうか。
 このように1人の人間を切りすて自らの責任を回避する思想を彼らがわれわれ(?)に対してあびせかける見当はずれの悪口「治療的ニヒリズム」、「医療のニヒリズム」 4)のコトバをそのままお借りして〈分裂病者〉に対する、ひいては人間に対する〈ニヒリズム〉であると規定しておこう。だが、彼らの〈ニヒリズム〉がただ単なる〈ニヒリズム〉で終っているうちはいい。問題は彼らの〈ニヒリズム〉は症状が消失するような〈医療技術〉には、無批判に次々ととびついてしまうという結果をもたらすことである。かくして台氏は「向精神楽によって、妄想・幻覚が著しく消褪することなどが明らかになってから、私はロボトミーの必要を認めなくなった」 4)(傍点筆者)というある意味できわめて巧妙ないいまわしをすることができるのである。ここで彼がいおうとしていることは、妄想や幻覚を消褪せしめるのにより有効・簡便な他の手段(薬物等)が見出せたから、ロボトミーは必要でなくなった。しかし、20年前には必要だったのだということである(もっとも彼は、対照群として選んだ「精神病質者」に対するロボトミーを、今どのように総括しているかについては一言も言及していない)。
 だが、これではロボトミーに対する総括は決定的に不十分である。たしかに、これでは「歴史的視点」によって自己の責任は回避されてしまうはずだ。そして、ロボトミーにかわる〈薬漬け〉の流行に対してもロボトミーに対する総括と同様に「適応を明確にせよ」という〈学問的〉繰り言を述べることでしかない。はっきりさせよう。従来の医療技術の諸体系、それを支える〈精神医学〉なる知識の集積体は病者が真の解放へと向かう際の障害物である。なぜなら、それらの根底にあるのは病者を了解不能な異種人とみるか、「ある人格特徴をもった人が生活状況に対して起した特別の反応」 3)を示す人間とみるかはともかく、いずれにせよ病者を〈健常人〉の欠如態ととらえ、〈健常人〉に近づくことをもって治療とよぶものであるからである(そのような思想がいかなる現実構造から、いかなる歴史過程を経て産み出されたものであるかについては膨大な別稿が必要である)。だが、病者と〈われわれ〉が自己を解放せしめる武器としての経験集積は、いまだ決定的に不足しているとせねばならない。

 7.ロボトミーと台実験――「廃物利用の精神」はナチスの思想に通じる
 前章ではロボトミーについて述べたが、本章ではロボトミーと台実験との関連についてのべる。
 ロボトミーがなければ台実験はあり得なかった。これは台氏自身もいうように明白な事実である。そして、現在、台氏自身が治療行為としてのロボトミーを否定している 3)。とすれば、否定さるべきはロボトミーなくしては成立し得なかった台実験もまた否定されるべきである。これもまた当然の結論であるように私には思えた。だが、討論はそのようには進められなかった。
 私はロボトミーと台実験との関係をまず上述のようにとらえ、さらにその上にたって台実験はロボトミーの評価に一般化されるべきではないと考えた。なぜなら、明らかに台氏の脳切除はロボトミーに加うるに新たな侵襲を与えた行為であったからである。これは事実である。台氏らがたてる論理は、ロボトミーに加えられた新たな侵襲(脳切除)という行為がロボトミーによって結果された障害にさらなる障害を結果したか否かという点をめぐってである。この両者の論議は似ているようで実は異なるものである。そして、台氏は「さらなる障害」を実証できるかどうかという議論にひきこむことにより、自らの行為を弁明しうるかのようにいいたてている(この点については後に詳述する)。
 ところで、ロボトミーと台実験との関連について台氏らの意見に奇妙な矛盾がある。一方で<0059<台氏は「ロボトミーの治療的価値や適応の問題と組織摘出実験とを混同しないように注意されたい」 5)と書いており、明らかに組織摘出実験がロボトミーという治療行為とは別の行為であったと主強している。ロボトミーがなければ台実験もあり得なかったという関係の認識を故意に回避しているとはいうものの、ロボトミーと脳切除が異なった行為であるという認識自体は正しい。ところが、町山氏は「台実験における脳組織の摘出は前部前頭葉機能の脱落をはかるというロボトミーの治療目的から逸脱したものではない。機能の脱落を意図される脳の一部分を治療のための研究に役立たせようとしたことは、患者に少しでも多くの利益を与えようとする努力のあらわれとして、積極的に評価してよい」とまでいう(委員会報告)。最近では台氏までもが「当時はロボトミーよりも皮質の部位切除、すなわち、トペクトミーの方が手術部を限定できるので確実であるとして推賞する人もあったくらいである。ロボトミー・プラス・皮質小部分切除は、この意味でロボトミーと同じような治療的意図にふくまれていたのである 3)といいだした。ここまでいわれると、では、なにも台実験のための脳切除量がやれ200mgだ、300mgだ、たかだか1gだなどといわずに、5gでも10gでも好きなだけとって研究に役立てたらよかったのに、と忠告の1つもしてみたくなる。だが、これでは単なる強弁であるというにとどまらず、台氏の当初の主張とさえ矛盾してくるというものだ。論理的破綻は無理にとりつくろおうとすればする程、拡大せざるを得ないものなのである。
 ロボトミーと台実験との関連についてだけみても、彼らの論理的破綻は上述のごとく明らかなのだが、かかる破綻をきたすゆえんの1つは彼らのきわめてプラグマティックな〈治療手段〉選択とその底にある〈障害者〉差別意識がロボトミーに対する根底的総括を妨げていることに由来する。このことについては前章でもふれたが、委員会報告のなかで成瀬・町山委員は「脳組織摘出は慎重に行なうべきであるという意見は一般論としては当然のことである。しかし、ヒトの前部前頭葉については摘出の可否を動物実験で十分に検討することはできないし、健康人の正常脳で検討することは当然ゆるされない」といっている。にもかかわらず、彼らが患者からの脳組織剔出を擁護するのは差別ではないか、とつめよった時に台氏らは「それは違う。ロボトミーがあったからできたのだ」と答えている。そこで正常人には「当然ゆるされないこと」を可能たらしめた(と彼らは主張するのだが)ロボトミーをかつて認めたということをどう総括するのかと再質問したのだが、答えは得られなかった。分裂病者の前頭葉は破壊されてしまっており、たとえば癌増殖の場合のように切りとってしまった方がよいというきわめて単純な生物学主義を台氏らはかつて信じていたのだろうか。
 このように、自らの論理的破綻にさえ無自覚な彼らの思想性には〈廃物利用の精神〉があることを指摘しておかねばならない。委員会の席上、台氏を擁護する一委員は「台実験の脳切除は廃物利用だから結構なことではないか」と発言したというのである。むろん、ロボトミーを受けた後の前頭葉皮質がまったくの〈廃物〉であるというのは、きわめて非科学的議論であるが、今はその点については触れない。恐るべきは、同意を得ることなく脳切除をおこなった行為を〈廃物利用〉ともちあげる人間の感覚麻痺であり、非人間性である。
 ナチスのおかかえ医師たちは捕虜やユダヤ人を使った生体実験を計画し、あるものは大学と関係をもつために自ら進んで、あるものは命おしさにおずおずと計画に参加していったのであるが(前掲「呪われた医師たち」など参照)、彼らの多くは「生体実験に供する対象者はいずれガス室で処刑され、あるいは餓死していく人間なのだ。そのような人間を使って医学の進歩に役立ち得るとしたら、生体実験といえども許されるのではないか」という弁明を用意していた。<0060<彼らでさえ、恐らくナチスの大量虐殺がなければ、生体実験を行なうようなことはなかったであろう。彼らにとって、生体実験はまさに〈廃物利用〉だったのである。〈呪われた医師たち〉が、生体実験を医学的進歩に寄与し得たという一点で大量虐殺とは区別して扱かわれることを主張し、一方で大量虐殺によって初めて生体実験は可能になったのだと弁明するとき、この奇妙な矛盾はロボトミーと台実験との関連をめぐって発言する台氏ちの矛盾と不思議に似ている。
 台氏はいう。「ロボトミーは治療のためとはいいながら、患者の脳に大幅な侵襲を加えており、しかもその効果機転もはなはだあいまいな手術であったから、私はロボトミーの機会に何とか意義あるものにしたいと考えた。当時、そのような努力がなされていなかったことにむしろ心の痛みを覚えたのである。こうして代謝実験が企てられた」 4)うっかり読みすごすと何でもないようなこの文章も、少し考えると実は大変なことをいっているのだということに気付く。彼は「はなはだあいまいな」ロボトミーに対して、その「あいまいさ」を批判し、なぜにそのような「あいまいかつ脳に大幅な侵襲を加える手術」が許されているのかを総括することによって、その「あいまいさ」をのりこえていこうとするのではなく、その「あいまいさ」を利用して実験をおこなっ(た)ということを得々として語っているのである。事実、彼の実験によって、ロボトミーの「あいまいさ」はのりこえられるべくもなかったのである。なぜなら、ロボトミーのよって立つ理論的仮説と台実験の作業仮説とはまったく異なったレベルのものであって、かりに百歩ゆずって台実験によって分裂病の新しい治療法を発見できたとしても、それはロボトミーの「あいまいさ」そのものを払拭するものではなく、ロボトミーとはまったくレベルの異なる、あるいはロボトミーを必要としなくなる発見であったはずである。そして、事実、台実験はロボトミーの「あいまいさ」に何らの影響も与えなかった。これは決して結果のみでものをいう議論ではない。それどころか、彼の実験以後、精神病者の脳に対する実験は急速に増加し、最近の脳生検の氾濫にまでいたっている。
 彼は続けていう。「ロボトミーはこれまで人間の脳に加えられた実験的治療のうちで最大のものであった。にもかかわらず、現在この経験からひき出し得た治療知見はまことにささやかなものでしかない。分裂病の疾病病理についても、また前頭葉機能についても、率直にいって、漠然とした知見を寄与したにすぎない。」 4)彼は、今や自ら否定するにいたった治療行為としてのロボトミーの多くの犠牲者たちに何ごとも語ろうとはしない。彼が悔むのは「これまで人間の脳に加えられ実験的治療のうちで最大のものであった」ロボトミーの機会を利用して、さらに数多くの〈有益な〉人体実験が行なわれ、医学の進歩に寄与し得なかったことだけなのである。 ここにみられるのは明らかに〈廃物利用の精神〉である。そして、〈廃物利用の精神〉はナチスに通じる道である。ちなみに、ナチスの生体実験を裁いた法廷で最後に宣言されたニュールンベルグ十原則に台実験は明らかに違反しているのである。

 8.「台実験の意義」について
 台実験とは周知のごとく「精神分裂病者と精神病質を主とする対照者に就て、脳皮質組織代謝をしらべた結果、分裂病群には糖消費が対照群に比して減退して居り、これに反して呼吸には両群に差のない事を認め」 1)、さらに、同様所見は「幻覚妄想状態にある慢性ヒロポン中毒者側に見出されたのみなので、精神分裂病の身体的病因と深い関係のある所見ではないかと推測」 1)したものである。
 では、この実験はどのような意図のもとに始められ、いかなる結果を生み、その結果はそれ以後の台氏の研究にいかなる方向づけを与えたのであろうか。この辺の事情を最近の彼の討論 14)から引用してみよう。
<0061<
「黒丸:台先生が一番最初、例のロボトミーの切片の、あの時点において先生は、この辺でなにかみつかるという……。
 台:あれはもっと単純ですよ。林道倫先生のデータがあった。林道倫先生が脳に入ってくる血液とそこから出ていく血液との差を調べたら呼吸比の変化が出た。そういう生体のデータを組織のレベルで調べたらどうか、という単純なものですよ。
 町山:初めはそうじゃなかったのでしょう。
 台:いや、実際の仕事としたらそうです。
 黒丸:意気込みですよ。(笑)意気込みはいまおっしゃるようなことより、もっとなにか意気込みが….。
 台:正直のところ、初めは意気込んで始めても、そのうちにがっくりするでしょう。そこで研究の途中から、仮説の検証ではなくて病態生理をやらなきゃいけない、ということを考えたのです。」
 別のところ 4)では、次のように述べている。家験は林道倫氏の「分裂病は脳の脚気である」という仮説を検証するために行なわれたが、「それが否定的な見通しを得た頃にあらためてこの種の研究の意義を再考する必要が生じた。そして、分裂病の脳病理を明らかにするには系統的な代謝研究が基本であることを認識したのである。分裂病の生物学的研究に数多く見られる仮説の検証という方式は、ひとたびそれが否定されるとそれで行きづまってしまう。このような一本釣的研究方式を打破するためには系統だった研究方式を以って当るほかない。以後、私には、この時の反省が形をかえながら今に連なっている」というのである。つまり、実験は分裂病の病態を一挙に明らかにするという意図をもって始められたが、意図は途中で挫折し、彼はそのような意図のもちかた自体が誤りであったという認識に到達し、系統的代謝研究にきわめて限られた1データを残したという結果に満足(?)して本研究を打ちきったのである。覚醒剤によるモデル実験へと次の研究テーマが移行したのは、おそらくこのような総括にもとづいてであろうと思われる。しかも、彼の研究方法はしだいに生化学から離れ、行動科学へと移っていったのである。というわけで、私は本実験以後の彼の研究を、本実験で代表される生化学者台弘の挫折の産物であると考えている。
 ところで、このような道筋は1人台弘氏のものではなく、分裂病の生物学的研究の総体についてもいえるものであろう。最近、書かれた分裂病の生物学的研究の総括や展望は多くの場合、絶望的色彩にいろどられている。たとえば、諏訪らは「精神分裂病の身体病理をさぐることは霧につつまれた山道を行くようなものである。いくたびか山頂をきわめたという登山者が現われたが、霧がはれてみれば、ただの岩角にすぎないことが多かった。確かな道標と思われたものも、それをたどってゆくうちに……分裂病とは直接連りがない山なみに踏み入る結果になった。かえりみれば、膨大な過去の研究の遺産をもってしても、分裂病をおおう霧は少しも晴れることがなかったといわねばならない。」 15)といい、Spielmeyerは「分裂病の組織病理学を志す者は、ほとんど若い人達である。少し経験を積んだ学者は、その研究をあきらめてしまう」という言葉を述べているという 15)。また台氏らのそうそうたる学者がより集まって、
「台:分裂病の生化学的研究が現在どれだけ寄与しているかということは……非常に疑わしいんだけれども、そういう努力を常に続けている、そういう関心を常に保っているということは重要だと思います。分裂病に対する化学的な関心を維持するためという意味だったら、これまでの研究も全然無駄ダマじゃないのかもしれない。
 柿本:いや、いままでの無駄ですよ。
 井上:無駄だということがわかったという効用はあるとおっしゃいましたね。」 14)
という話をして、それを一冊の本にまとめている有様なのである(この本 14)では他の分野が語られるところでも多かれ少なかれ、この類のグチが語られている。たとえば、別の個所で台氏<0062<は「現状では分裂病で何を調べていいかわからないということ、そして何を調べるべきかという戦略もはっきりわかっていないということをまず理解しなければいけない」と語っているし、柿本氏は、行動と対応する物質をどう見い出すかということを考える際、「どの物質あるいは代謝系を選ぶかということは理論的によりも偶然か流行か、あるいは持ちあわせの技術や研究機器に規定されていて、それが行動との対応する物質として命中する可能性は低い」と述べている)。
 つまり、分裂病の生物学的研究の現況は、molecularなレベルでは分裂病と現時点ではどうかかわりがあるのかまったく不明なままに基礎的データの集積と系統化への努力がなされている段階なのであり、一方ではmolarなレベルで分裂病を行動というレベルへ還元することによって、問題を生物学的研究にひきずりこもうという努力がなされている段階であるとみてよい。そして、このmolecularなレベルとmolarなレベルとは現時点においてまったく対応させ得ていないのである。
 さて、分裂病の生物学的研究に関する周知の事実をここまで述べてきたのは、生物学的研究総対(⇒総体)に対するコメントをつけ加えたかったからでなく、本章でこれから検討する「台実験の意義」を考える際に最低ふまえておくべきことをまず述べておきたかったからに他ならない。
 ところで、台氏は自らの実験が患者の直接利益につながらなかったという批判にこたえて「実験は利益を目的として始める所に妥当性を認めるべきで、結果によって判定されるべきではない。」 3)と述べている。この見解には重大な2つの誤ちがある。1つは、実験の妥当性を実験者の意図(黒丸氏流にいえば「意気込み」)というきわめて主観的なものによって定めていることである。これではすべての実験に妥当性を認めることになろう。今問題になっているのは実験といっても人体実験なのであるから、このような妥当性の定め方はきわめて危険といわざるを得ない。
 第2の誤ちは「利益」という語をまったく無限定に使用していることである。「利益」という時、それは誰にとって、いかなる意味において「利益」であるのかが明確にされねばならない。問題が分裂病研究である以上、利益をうけるものは、まず、分裂病者でなければならない。このことは、分裂病という疾病概念にしがみつくことの問題性を一まずおくとすれば、自明の理である。だが、分裂病の生物学的研究の現況について述べたところから明らかなように、分裂病の生物学的研究は分裂病の病態の核心からはほど遠いところにあり、研究成果が直ちに被験者の治療に還元される見通しはほとんどあり得ないといっていい。くりかえし引用したように台氏自身が「いきなり核心を目指すような研究態度が、生化学的なアプローチに限らずすべての(分裂病に関する)生物学的研究に強すぎたように思うんです。実際、それでむなしい結果しか得られなかった。だから着実にできるところから一歩ずつ切りくずしていくという実際的なやり方が必要だと思うんです。」14)と述べているのであるから、実験が患者の利益を目的としたものであるというのは「風ガフケバ桶屋ガ儲ル」式の考え方であって(以後、このような論理展開を〈カゼ・オケ論理〉とよぶことにしよう)、きわめて欺瞞にみちたものであるといわねばならない。つまり、人体実験において患者の利益を云々するときは、〈カゼ・オケ論理〉によって遠い将来、同じ分裂病とよばれる人々へ還元される可能性についていうべきではなく、被験者への直接的還元について語られるべきである。
 〈カゼ・オケ論理〉の典型は成瀬・町山氏の「台実験は治療法の開発を通じて被験者となった患者への直接的利益の還元を意図して行われた疾患研究であり、狭義の人体実験には該当しない。」(委員会報告)という言葉にみてとれる。「狭義の人体実験には該当しない」となれば、委員会報告の定義にしたがって「実験的医学的<0063<処置:たとえば医師が患者に行う新しい実験的治療のように、その実験の主な目的が被験者本人の利益におかれているもの」に該当することになる。「被験者本人の利益という言葉」を〈カゼ・オケ論理〉によって無限に拡大することは、すべての人体実験を狭義の人体実験には該当しないものとして許容していくことになるであろう。
 このように考えてくると、実験の意義が台氏や台擁護派によって語られるとき、患者の利益が問題になると挫折した当初の意図をもって答え、分裂病研究における位置づけをとわれると副産物たるモデル実験への移行が答えられるというきわめて巧妙なすりかえが行なわれていることに気付くのである。
 最後に対照群に対する「実験の意義」についてふれておく。対照群に対して脳組織剔出が行なわれたことについて、それが患者の利益に結びつきようがないと批判された台氏は「対照症例とされるのは専ら精神状態によって分類され、その脳代謝については何が見出されるか全く不明だったことを考えてほしい。」 3)といい、「事実、慢性覚醒剤中毒は対照症例だったが分裂病と類似の所見を示したのである。」 3)と弁明している。だが、この弁明は筋が通っていない。作業仮説として、正常値を示すだろうと思ったから対照群として設定したのだろうし、そうでなければ手当りしだいにともかくやってみようと実験にとりかかったことになる。さらに、対照群として選択したのは大半(15例)が「精神病質」であり、2例の「神経症」もある 1)。台氏は「精神病質」や「神経症」にいかなる脳の代謝異常を作業仮説として設定したのだろうか。台氏もいうように「分裂病は脳の脚気である」という仮説の検証から始まった実験において、「精神病質」や「神経症」もかかる〈疾患〉の変異型とでも考えておられたのであろうか。とすれば、これは当時としても奇想天外な着想だったといわざるを得ない。まさに、闇夜に鉄砲、当らなくてモトモト、当れば儲けもの」という研究態度というべきで、かかる研究態度こそ、台氏自身も批判してきたものではなかったのだろうか。「対照群となった患者には大きな利益はもたらされなかったが、少なくともこれらの疾患では呼吸・解糖系に変化がないということを推定させる所見が得られたことは、negative dataとはいえ有益であった。」(委員会報告 成瀬・町山意見)などと、当の被験者を前にして彼らはしらじらしくいい切るのであろうか。K.シュナイダー式に考える必要はないが、対照群になった大半の「精神病質」や「神経症」を〈疾患〉とよぶことさえ、大問題であると思うのだが(この辺の問題は議論が多いので、参考文献をあげないが、たとえば本誌に犯罪学批判シリーズとして連載されている西山詮氏の諸論文を参照されたい)、彼らはあっさりそういい切ってしまうのである。それに、「有益」であるとは誰にとっての「有益」であるのかが、ここでも不問に帰せられている。まさか、negative dataが被験者本人にとって「有益」であるというつもりはないであろう。実験が「無駄ダマ」だとわかったことが研究者にとって「有益」だったにすぎない。彼らの論は、常に患者は一たん研究者の実験材料となり、研究者の知識集積に役立つことによって始めて利益の還元を受ける資格を得るかのごとくにきめてかかっているように思えるのである。あるいは、研究に役立つこと即患者の利益につながるという即断がありすぎるように思うのである。
 「研究とは、あるいは研究者とは所詮そのようなものだ。万余の速断と過誤を葬り去る偉大な研究が、速断と過誤の山のなかからひょっこりあらわれるものだ」という声がきこえてきそうだ。過去の歴史はそうだったかもしれない。だが、〈偉大な進歩〉の影に犠牲になった多くの患者を〈進歩〉の名のもとに抹殺したくはないと思う。

 9.台実験の「無害性」に関する討論をめぐって―“negligible small”という考え方の誤謬
<0064<
 本年3月に開かれた評議員会の席上で、台氏は「台実験批判の7項目」を提起した理事会に対して「ロボトミーによる障害は限定できるとお考えなのか」と問うた。彼の質問の意図は明白である。彼はロボトミーを「はなはだあいまいな手術」と考えているのであるから、ロボトミーによる障害は「限定できないものだ」と考え、とすれば、「ロボトミーに加うるに行なった脳切除の障害は実証できないはずだ」というように議論を導きたかったに違いない。これを石川氏は「不毛の実証主義」とよんだ。
 さらに台氏は、台実験に機会を与えたロボトミーの施行者広瀬貞雄氏の「台氏に依頼された脳組織の剔出はロボトミーの目的からみればnegligible smallであると考えた」という言葉に依拠して、台実験告発は「被害者のいない行為」(評議員会における台氏の発言)に対して「無知と悪意に支えられて煽情的に登場」した「偽りの告発」であるとまで言い切るにいたったのである 5)。
 台氏らの発言はことごとく論破され、今や「脳切除による障害は実証できないはずだ」、「脳切除はロボトミーの目的からみればnegligible smallである」という2点にしがみつき、執拗に同じ言葉をくりかえすのみであった。あるいは、また「石川氏の私に対する告発の最重要点は、脳組織の切除が患者に対して害をなすと知りながら、またそれに対して無知のままに実験を行なったという主張であろう」 5)と述べ、台問題の中心的課題が「実験の有害性を実証できるか否か」という点にあるかのごとく主張しつづけていた。われわれは、有害性の実証云々というのは論理の逆転で無害性の実証こそ求められるべきであると反論し、議論は平行線をたどった。そして、理事会提案も可決保留のまま、5月の総会をむかえ、そこで吉田氏による〈新事実〉が発表され、いっきに議論に決着がついたかにみえる。だが、その後、台氏は吉田氏の提出した症例の剖検所見をめぐって、「やはり無害だという方にやや近づいた」と述べ、再び「無害論」がむしかえされそうな形勢である。そこで、本章では台氏らの最後の拠りどころを根こそぎにする作業にとりかかりたいと思う。だが、それは台氏の望む〈科学論議〉によってではなく、台氏が意識的にか無意識的にか、告発の真の意味を矮小化して「最重要点」と考えたものが、実はそうではなく、本質的問題点は別にあることを示すことによってである。そして、台氏らが彼らのいう「最重要点」へと逃げこもうとすることは単なるすりかえであり、彼らの根底的誤謬を覆いかくそうとする防衛策にすぎないことを明らかにしよう。
 前章で述べたように台実験のための脳切除が、ロボトミーに加うるに新たな侵襲を与えた行為であったことは明白な事実である。このことは台氏自身が「私の実験はロボトミーに際して行なわれたものだが意図するところはロボトミーとは全く別のものである」 3)といい、「広瀬氏の手術術式でも、それに加えられた脳切除でも……」 5)といういい方をしていることからも明らかである。そして、何よりも脳組織剔出はロボトミーに先だって施行されているのである 1)から、ことは明白である。これは台実験がロボトミーの際、たまたまメスに付着してきた組織を利用して行なわれたものではない以上議論の余地がない。とすれば「新たなる侵襲を加えた行為」が新たなる障害を結果したと実証し得るか否かの議論より先に、「新たなる侵襲を加えた行為」がその結果如何を問わず、まず問われねばならない。常に結果のみを問う思想は〈生体実験の思想〉である。ガス室への行進を続ける人達のなかから、何人かをひきずりだして生体実験の材料とした行為は、結果のみから判断する限り、ガス室における結末(死)に、何ものも新たに加えることがなかったのだ。
 私は結果論に陥いることなく、あるいは「不毛の実証主義」にとどまることなく問題を考えたいと思った。それは台氏らの発言や文章に対する私の異和感、恐怖、怒りを論理化する過程でもあったが、その過程で役立った文献は、読<0065<みあさった医学者のそれではなく、物理学者武谷三男氏の「許容量」について書かれたものであった。そこで、引用がやや長くなるが、ここで彼の考え方を紹介しておきたい。

 「原水爆禁止を主張する場合、それを科学的根拠でもって行なわなければならないということが言われはじめましたが、その科学的ということは一体どういうこと【か】は、一見はっきりしているようで実はむずかしい問題です。うっかりすると、その科学的ということの前提である明瞭なことがしばしば忘れられてしまい、細かいデータや際限のない議論の中に巻込まれていってしまいます。そのよい例が『許容量』という概念です。
 許容量というのはどういう量か、『無害な量』というようにふつう受取られています。許容量は放射能だけではなく、他のいろいろのことにあるわけですが、放射能というものは人体に対して、どんなに少ない量でもそれなりに有害であるということが理論的に当然考えられ、じっさい、今は科学的にだいたい認められてきました。(中略)
 ただ、その有害ということがしばしば間違ってとられる場合があります。頭の毛が抜けるとか、すぐ病気になるとか、白血球が減るという場合は、第五福竜丸のような大量の放射能をあびた場合で、日本に降った放射能雨のような微量の場合にはそんなことにはならないのです。(中略)
 放射能の場合、すぐに発病しないためにいろいろの困難な問題がおこります。たとえばビキニ事件について、『マグロが放射能を帯びたと騒いだけれども、あれを食べた人で病気になった人はいないではないか』というようなことがいわれております。(中略)
 原理的にいうと、放射能は細胞の中をイオン化して、細胞を部分的に破損する、つまり細胞を不具にします。細胞が死んでしまうならば、それはそれっきりですが、不具になった細胞があとでいろいろ複雑な問題を起してくることになるのです。従って、微量でもそれなりの害があるということは当然考えられるものである。
 しかし、こういうことはお医者さんにはなかなか理解されません。医者は一般には病人が直接目の前に現われなければ興味をもたないものです。たとえば或るお医者さんは、水爆の灰で『地表に積ったストロンチウムの90の量から考えると、現状では人体に対し、何ら影響を与えないことは明らかである』とか、降ったストロンチウム90の『全部の積算量は許容量には達していないようであるから心配ない』というふうに許容量を考えています。この人は、日本のこの方面を代表するといわれているお医者さんなのです。この人のように、ある量以下は大丈夫だから、それ以下ならいくら受けてもよいという考え方は根本的にいって軍事的な考え方と通ずるものです。(中略)
 黄変米などの有害なものは、食べない方がよいにきまっています。ところが、黄変米を普通の米にどの程度まで薄めて混ぜるのなら大丈夫か、病気にならないかというような研究がもっぱら行なわれ、そして黄変米の混合の許容量を科学的な粉飾のもとに持出してくるということになったのです。それはちょうどこの放射能の問題とよく似ています。もちろん、毒物によっては非常に微量であれば無害になるものもありますけれども、それもはっきりしているとはかぎりません。有害なものを、たとえ無害な量でも、わざわざ混ぜるということはよいことではないにきまっています。そういう考え方は、何かほかの悪の尻ぬぐいを国民にしわよせしているにきまっています。
 それから、有害なこわいものでも、有害でない量ならまぜても平気で食べるのがあたかも科学的な態度であると解釈する人達がいます。しかし、そのような態度じたいが、そもそも間違った考え方だといわなければなりません。たとえば厚生省の官僚が『酒の中にも有害なメチル・アルコールが含まれているけれども、これは<0066<許容量以下のものは許可しているし、その場合は有害なメチル・アルコールが入っていても、みな酒は飲むのではないか』といって黄変米のことを合理化する議論をしました。メチル・アルコールは酒の中に不可避的に入っています。酒を醸造する場合に、ある一定の醸造のやり方をすると、どうしてもメチル・アルコールが生成されるので、それを一定の量以下に押えたものを許可するということになるのです。しかし、酒を飲む場合には、酒を飲むことによって何か有利なことがあるからメチル・アルコールの無害な量はかくごの上で飲む、つまり飲みたいから飲むのです。従ってこの場合にはメチル・アルコールの許容量が存在するわけです。
 ところが黄変米の場合は、何もわざわざ黄変米を混ぜる必要はない。これは政治が悪かったために黄変米が入ってきたのです。黄変米はこのくらいなら無害だからといって国民にしわよせをして押しつけるのです。国民は、自分が好んで黄変米を食べているわけではありませんから許容量は存在しないのです。
 そういう基本的な考え方が問題なので、その場合に科学というものが引合いに出されるということにそもそも間違いがあるのです。(中略)
 さきほど引用したお医者さんがいった言葉に、『現在、われらの科学がもっている資料からだけでは、もちろん正確な結論は出し得ない。いいかえれば、科学的には、原子核兵器の爆発実験に伴う放射能の害を証明することはできない』とあります。この場合に害が証明されないというふうないい方はまことに危険であり、いかにも科学的な表現をとりながら、それが全然違う役割を果すことになるのです。たとえば、ほんとうに害が証明されるというのならば、みんなの寿命の縮まるのを測定し、それから放射能障害が何代にもわたって測定されなければなりません。ですから、原水爆実験をどんどんやってみて、そしてあと百年間一生懸命統計をとって、その結果害があったという結論を出すということになります。ないしは、だれも現在病人になっていないということで、どんどん爆発をやり、そしてみんなが病気になったときに害が証明されたということになるわけです。しかし、そうなったら地球上全体が汚染されてしまっていますから、とりかえしがつきません。一部の人だけが被害を受けるのならば、人類全体が滅びるかどうかという絶対的な話ではないかもしれませんが、(中略)一部の人だけならば害があってもいいという、そういう考え方は人体実験という考え方に通じます。(中略)
 『核兵器の爆発実験に伴う放射能の害を証明することはできない』といういい方は、人体実験の思想、毒ガス屋の軍事思想に通ずるのです。われわれは『放射能が無害であることが証明できないかぎり、実験は行なうべきではない』というべきなのです。有害が証明されたときには、もはや手遅れなのです。」 16)
 「許容量というものは、決して“それ以下では障害が起こらない量”ではない。(中略)有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて“どこまで有害さをがまんするかの量”が許容量というものである。つまり、許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。」 17)(傍点筆者)

 このように長い引用をしたのは、武谷氏の考えが「許容量」に関してきわめて明折に語られているというだけではなく、この考え方を援用することで、台実験批判はほぼ完結すると考えたからに他ならない。しかも、武谷氏の文章のなかの言葉をいくつか置きかえるだけで当面の課題に十分間に合うのである。そこで、以下に武谷氏の所説を整理しつつ、台氏らのいう実験の「無害性」あるいは“negligible small”という概念を中心に論駁を試みたい。
 まず、武谷氏は〈科学的〉という言葉によって、その〈科学的〉ということの前提となるべき明瞭なことが忘れられがちであると警告している。これは、台氏らが「科学的に」とか「実証的に」とかいうことでかんじんのいくつかの<0067<大前提を忘れてしまっていたことを考えさせられる。前提となるべきいくつかの点について台氏らがふまえていないということはすでに前章までに述べたが、本章ではさらにつけ加えるべき点を述べる。
 次に、「許容量」という概念を「無害な量」と把えてはならないこと、つまり「利益と不利益とのバランスを考えて“どこまで有害をがまんするか”という社会的な概念である」と規定する。これに反し、台氏らは「許容量」という概念に近い“negligible small”という言葉を、時には「相対的な」利益・不利益のバランスの上に立って規定される概念として語り、また、別のところでは「絶対的な」、自然科学的に実証され得る概念として討論のなかにもちこんでおり、その点、きわめてあいまいなのである。
 さらに、武谷氏は、上述の規定を2つの点において補足、深化させている。その第1点は「有害」という概念を決して臨床症状として観察され得る結果の有無によって定めるべきではなく、「原理的に」語られるべきものとしている点である。つまり、台氏が「問題にしている無害性とは臨床的な精神機能について」 3)である、といっているのは明らかに誤りであるとしているのである。むしろ、台氏自身が先の引用文の直前で「脳切除による傷害には、形態的な欠損と理念的にありうべき機能損失は当然伴なわれることである」 3)と述べている意味において把えるべきなのである。であるから統計的処理によって有意差がなければ「有害」と認めないというやり方も誤りである(母数が小さい点、何をスケールとするかが不明な点からみても統計的処理そのものにも問題がある)。つまり、台実験による脳切除は有害であったということをまず確認して次なる討論へ移るべきだったのである。吉田氏の提出した2症例からみれば、「形態的な欠損と理念的にあり得べき機能損失」を指摘するだけでなく、手術手技上の過誤の可能性の増大を考えねばならぬわけだが、その点、についてはどういうわけか台氏は触れていない。
 「許容量」の規定を武谷氏が深めている第2点は、「許容量」という概念を何にでもあてはめるべきではないとするところにある。これは「利益と不利益とのバランスをとる社会的概念」として「許容量」を規定したところから必然的に導きだされるものであるが、ある人間にとって本来、利益となるはずのないものについて「許容量」を云々することは誤りであるというのである。さらに、あえてつけ加えれば、利益、不利益のバランスというとき、そのバランスをとる判断主体を明確にしておかないと、「公共の利益」などというきわめて欺瞞的な概念が入ってきて、黄変米や有機水銀やPCBなどを食わされることになる。
 さて、台実験による脳切除についてはどう考えるべきであろうか。ロボトミーにプラスして施行された脳切除には本来、治療的目的はない(台氏らが「ロボトミーの可否と適応という問題と脳切除とは全く別のレベルの問題である」といいながら、一方で「トペクトミーも行なわていた当時としては脳切除は治療目的に含まれる」という奇妙な矛盾については第7章でふれた)。つまり、「利益、不利益のバランスをとる」判断主体たるべき被験者にとって、脳切除は直接利益をもたらすものではなかったのである。つまり、「許容量」という概念に近い“negligible small”という考え方は台実験では本来、成立し得ないものだったはずなのである。脳切除が分裂病の病態を明らかにし、それがひいては被験者に利益を還元するという考え方は、分裂病の生物学的研究を総括したところで、〈カゼ・オケ論理〉としかいいようがないことを明確にしておいた。
 だが、〈カゼ・オケ論理〉にしても、そのごくわずかの利益の可能性からみて「バランスをとる」という考え方が成立すると思われる人があるかもしれない。だが、ここで注意せねばならぬことは台氏らが「バランスをはかる」主体を意識的にか、無意識的にか無視しつづけているということであり、あるいは、その主体を無<0068<前提に医師あるいは研究者であるかのごとく論をすすめているということである。だが、これでは主客転倒である。本来、医者あるいは研究者はその行為をチェックされる客体であるべきはずである。そして、「バランスをとる」判断主体は脳切除を受けた患者でなければな(らな)かった。医者あるいは研究者が無前提に患者の利益の代表者であるかのごとく思い込むのは単に傲慢というにとどまらず、きわめて危険な思想である。台氏の委員会宛書簡によれば実験対象者80余人のうち、彼の受持だった10余人の患者の「保護義務者には脳切除実験の主旨を口頭で伝えて同意を得ましたが、他の病棟の患者についてははなはだ遺憾ながら同意を得ておりません。また、患者には同意を得ておりません。」というのであるから、患者は自分が受ける利益(実験の成果)に比して、害(脳切除)は“negligible small”であると判断する場合があり得たと仮定しても、実際にはかんじんの判断主体には判断し、拒否する自由は一切与えられていなかったのである。であるから、その時点で台氏は自らの脳切除が“negligible small”であると主張する権利も根拠も、その一切を失ったのである。
 だいたい、「実験の成果が直接患者に還元されなかったという批判に答えるならば、現在のところいわれる通りである。しかし、それは実験の結果がたまたまそうなったというべきであって……」 5)(傍点筆者)というがごとき言葉に、本来、判断主体であるべきだった患者は満足するものだろうか。そのような程度の実験に、深い絶望と不信と怒りとにとらわれた患者が自ら進んで参加するものだろうか。
 そして、最後に武谷氏は「害を証明することはできない、といういい方は人体実験の思想に通じる。無害であることが証明できないかぎり実験を行なうべきではない。有害が証明されたときにはもはや手遅れである」と述べている。これこそ、われわれが台問題の当初から語りつづけてきたことだったのである。

 「今日、世界中に、動物実験に反対する十万以上の協会があるが人体実験の禁止を要求する協会はただの1つもないのである。」(前掲「呪われた医師たち」より)

 10.「人体実験の原則」をめぐって
 前章までで台実験の全面的批判をほぼなし終えたと思う。そこで本章では委員会によって提起されている「人体実験の原則」について、2、3のコメントをつけ加えておきたいと思う。
 人体実験に関するもっとも厳しい意見の持主の1人にH・バリュックがいる。彼はいう。「犯罪的な思想は、実利主義を思わせる外見によって、また、ときに理想主義の仮面によって、多数の知識層をだますことを忘れてはならない。現に、われわれの時代にも、安楽死や医学的実験に関する提案や論議がなされているのではないか。人体実験に関しても志願者に限定すれば許してもよいという意見もあり、さらに科学や治療のためには必要であるという主張さえもある。これは瀕死の患者に救いを与えるための窮余の策と、ことさら健康な人間を犠牲にする生物学的実験とを混同する結果である。人体実験はたとえ志願者であっても絶対に禁じなければならない。」 18)
 彼はユダヤ人としてナチによる迫害をうけており、そのなかで「自由意志による同意というものが稀有であることはよく知られている。人格に影響をおよぼすような暗示的、説得的な雰囲気をつくりだすことは容易である。まして、その人格が拘禁状態にある場合、より強制的な手段で目的を達することができる。」 19)という事実を身をもって感じとっているからに違いない。
 私は、ニュールンベルグ原則の「実験の対象になる被験者の自発的同意が絶対条件である」という第一則をくりかえし強調しなければならないと考えている。というのは、現在の医師−患者関係からすれば「自発的同意」といわれる例についてさえ、同意が真に自発的であったか<0069<どうかに疑問を抱かざるを得ないと考えているからである。台氏は「脳切除を依頼して、家族に断わられた例は一例もない」(評議員会における発言)というが、このような事実こそ、むしろ完全な自発性(それが家族のものであるにせよ)を疑わしめるものである(この点については私と同趣旨の発言が、患者家族から評議員会席上でなされた)。このような例から、少なくとも拘禁状態(筆者は措置入院はむろん同意入院にも多くの問題があると考えているから、拘禁状態とは、さし当って入院全般を考えている)にある患者についての人体実験は全面的に禁止されるべきものと考える。ましてや、保護義務者の同意をもってかえるべきではない(といっても、本人の同意を形式的に得ればよいということではない)。なぜなら、現実において1人の〈精神障害者〉の利益を完全に代理し得るような人格を私は認めないからである。
 このような観点からみて、台実験が同意を得ずに行なわれたという事実は、前節にのべたこともあわせて、台実験そのものを否定する本質的問題である。だが、台氏は委員会から問われるまでは、何ら同意の問題に言及していないのである(「告発」に対する最初の反応 5)をみよ!)。

 11.おわりに
 本論文の草稿ともいうべき評議員有志のパンフレットを書いた時点では、まだ台実験批判は学会の統一した見解にはなっていなかった。それ以後、精神神経学会は台実験批判と学会の体質を自己批判した決議を正式に採択したわけであるが、吉田氏によって明らかにされた〈新事実〉により「有害が実証された」ことから平行線をたどっていた批判派と擁護派の均衡が一挙にくずれていったという印象をうける。私自身は、吉田氏の提出した症例の意味を決して過少評価するものではないが、決議にいたる討論過程を考えると、台問題ひいては台実験よりある意味で一層問題の多い人体実験(そのいくつかは本誌で報告されている)を考える際の原則と論理がこれで確立されたとするには程遠いと思うのである。そして、そのために今このような総括をすることが緊急の課題であると考えたのである。
 そして、本稿を書きあげた今、台実験とそれを擁護する人々の根底にある思想が、まさに現実の精神科医療における差別・抑圧構造に根づくものであり、それは台実験から20年余もたった今でも近代化されこそすれ、その本質において不変であることをひしひしと感じとっている。道は遠い。だが、ともかく始めねばならぬ。そして、〈精神障害者〉の恐怖と絶望、怒りと告発に無感覚な〈呪われた医師たち〉が近い将来、必ずやすべての障害者によって、あるいはまた、彼らとともに闘うすべての人達によって裁かれることを私は信じている。むろん、その時、私自身が自らの内なる〈呪われた医師〉を叩き出していなければ、私もまた被告席にいるだろうことは覚悟しているのである。
                            (1973年6月20日脱稿)

  参考・引用文献
1)台 弘:精神分裂症者脳組織の含水炭素代謝について,第1報――基礎実験,精神経誌,52;204-215,1951.
  台 弘・江副勉:精神分裂病者脳組織の含水代謝について,第2報――糖代謝並びに呼吸,精神経誌,52;216-232,1951.
2)朝日ジャーナル 1973年6月1日号;87-92.
3)人体実験問題に関する台精神科教授の見解(ビラ),東大医学部自治会書記局,1973.5.11.発行.
4)台 弘:患者に対する医師の実験的態度,1972.3.26.日本精神神経学会委員会報告.
5)台 弘:石川清氏の告発についての所感,1971.3.31.精神経誌,73;245-248,1971.
6)広瀬貞雄:精神外科(秋元他編:日本精神医学全書X)377-426,1965.
7)Burkhardt:Über Rindenexcision,als Beitrag zur operativen Therapie der Psychosen,Allg.Z.f.Psychist. 47;463-548, 1890-1891.
8)Moniz,E.:prefrontal lobotomy in the treatment of mental disorders,Am.J.Psychiat. 93;1379-1385,1937.
9)Moniz,E.:How I came to perform prefrontal leucotomy. Atica,Lisbon,1948.
10)Freeman,W.& Watts,J.W.:Psychosurgery,Intelligence,emotion and social behavior following prefrontal lobotomy for mental disorders. C.C. Thomas, Springfield, 1942.
11)Freeman,W.& Watts,J.W.:Psychosurgery,In the treatment of mental disorders and intractable pain. C.C. Thomas, Springfield, 2nd Ed.,1950.
12)小沢勲:生活療法をこえるもの 精神経誌(投稿中).
13)秋元波留夫他:ライシャーワー大使刺傷事件(福島他編:日本の精神鑑定)487-530,1973.
14)台 弘,井上英二編:分裂病の生物学的研究,東大出版会,1973.
15)猪瀬正・台 弘・島崎敏樹編,精神分裂病,医学書院,1966.
16)武谷三男:原水爆実験,岩波新書,1957.
17)武谷三男編:安全性の考え方,岩波新書,1967.
18)H.バリュック,秋元波留夫訳:社会精神医学,クセジュ文庫,1960.
19)H.バリュック:実験精神病理学(クリスチャン・ベルナダグ,野口雄司訳:呪われた医師たち,早川書房,1968,より引用)


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