◇石川清(東京大学精神科医師連合) 19730915 「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」,『精神医療』第2次3-1(11):21-30
この問題提起は、関東地区の一評議員の立場から、私個人が行なった。すなわち私は、昭和46年3月17日に、当時の保崎秀夫理事長に(1)理事会は本論文を生体実験(人間実験)と判断されるか否か。いずれにせよ判断の根拠を明らかにされたい。(2)このような「実験」が行なわれ、かつ論文として学会誌に掲載された責任は、誰がどのようにしてとるべきと考えられるかなど5項目の質問と要求を提出するとともに、「前理事長台弘氏を全学会員に告発する」という文書をも提出し、台氏がロボトミーに便乗したとみせかけて、恣意的「研究」の遂行のために、おびただしい各種患者の前頭葉より、同論文では1g(英文抄録には1.5g)という大量の脳を摘出している事実を明示し、会員諸氏の明確な判断を期待したのである。
これら文書の作成と提出にあたり、あらかじめ、かねて本論文の方法論と内容について、はっきりした疑念をもっていた1、2の友人の意見と忠告を求めた。しかし、提出した文書は私が単独で書き、誰にも修正を求めなかったし、提出の期日も、私自身が判断したのである。また、私が属する東大精神科医師連合の総会あるいは実行委員会の討論も経ることなく、いわば私の自由な意志から問題を提起した。
この問題提起は理事長にすぐに受理され、保崎氏は昭和46年3月29日付をもって、私に「貴殿よりの1971年3月17日付会員宛の文書(『前理事長台弘氏を全学会員に告発する』)および理事会宛の質問書、確かに受取りました。なお、同質問書については、理事会にて慎重に検討中であります。」という文書を寄せてきた。
この間に、本件は精医連実行委員会ではじめて討議され、とりあえず、同年4月4日に共立講堂で開催される予定になっていた反「日本医学会総会」でも緊急問題として打ち出すべきだということになり、同会主催者に申し入れた。
マスコミに対しては何ら積極的連絡をとらなかったが、3月24日に反「日本医学会総会」の準備委員が記者会見した席上で、上記質問書のコピー若干がマスコミ関係者に示された。しかし記者たちのうちで、このコピーに着目したのはA新聞のO婦人記者ただ1人であり、同氏は私に上記告発文の内容の教示を切望し、私も同氏とは旧知の間柄であり、かつ氏のジャーナリストとしてのセンスを高く評価していたので、24日夜、告発文のコピーを同氏に手交した。しかしA社は慎重に取材活動を行ない、3月27日の第12回理事会での討議を確認した上で、はじめて同日夕刊に記事を掲載したのである。
私が本論文の冒頭に、このように台批判開始の事実経過を詳述する理由は、私が行なった告発当初の行動を正直に読者に報告するとともに、この批判を受けて立った台氏の姿勢がどうだったかを知って貰いたいためである。台氏は、理事会の要請により、同年3月31日に「石川清氏の告発についての所感」なる文書を学会に寄せたが、その冒頭には次のように記されている。「……O記者より電話があり、石川清氏が私の20余年前の研究を人体実験の故を以て告発し、その告発文を各新聞社に送り、また精神神経学会理事会に対して質問状を出したということを<0021<知った。私はO記者に対し、電話で聞き得た範囲について石川氏の論拠の虚妄なることを説明したのであるが、電話による取材であったためか、人体実験が疑われているかの如き記事が27日のA紙上に掲載された。……」(傍点筆者)
すなわち台氏は、私の告発を、しょっぱなから、事実歪曲によるデマゴギーと、理事会および学会員に正対することなく、マスコミに対するささやかな不平とねちこい甘ったれという、およそ学者らしからぬ低レベルの心情をむき出しにすることによって、いわばつぶしにかかったわけである。
台氏は、論争の当初からまったく不真面目だったのであり、口舌をもって真実をとう晦しつづけ、ついに今に至るまで、患者の立場に立ち得ないでいる。
T 問題提起の直接動機
昭和40年代になってから、特に昭和44年の金沢学会(第66回総会)以降、いわゆる精神病院不祥事件が次々に明るみに出され、わが国の戦後精神医療の腐敗がようやく追及されるようになった。それらの事件はほとんど公立、法人立そしてなかんずく私立の諸施設でおこった問題であり、事件内容は、殺人、傷害、焼死、私刑、自殺、強制労働などの一般犯罪であって、いずれも惨憺たるものであった。この現況に直面して、当時の精神神経学会理事会は、昭和44年12月20日付をもって、「精神病院に多発する不祥事件に関連し全学会員に訴える」という文書をまとめ、公表した。この意見書の内容は、精神科医の反省と自戒を促すものであって、不祥事件の根本原因に関しては、@医療不在、経済優先のいわゆる儲け主義の経営、A私立病院経営者の持つ封建性と病院の私物化、B経営管理を独占する精神科医の基本的専門知識の欠如の3点に主要な問題がひそんでいることを指摘し、さらに、別の要因として国公立病院の不備が私立病院にしわよせされている事実や、低医療費政策による病院の経済危機をあげている。そして改めて悪徳病院の存在を確認し、「精神病院経営者は牧畜業者」という武見放言に屈服しつつ、「以上により、これらの不祥事件の分析結果の根底には、実は医師としての道義心、倫理観の欠如という重大事が横たわっているのではないだろうか。」というコトバをもって根本的原因究明の項を結んでいる。
私はこの文章を一読し、そこに一面の真実をくみとることができたが、上述の結語の唐突さにおどろくとともに、「医師としての道義心、倫理感の欠如という重大事」がどうして起ったかを、掘り下げて究明しない態度に、理事会の作為と怠慢を直感した。
そしてさらに、末尾の項「全会員がこの問題に積極的に取組むことを要望する」の内容を詳細に検討して、「われわれがここで取上げた問題(筆者註:精神病院不祥事件をめぐる諸問題)はまさに明治・大正にさかのぼる」ものであり、この「汚辱の歴史に終止符を打たねばならぬ」と重大決意を表明しながら、次のパラグラフにおいて、ようやく医局講座制に触れている。そして本文書のしめくくりとして、「われわれはこのような見地に立って歴史をふり返り、国の精神医療政策の貧困を追及してゆきたいと思う。また一方、長年にわたる大学の医局講座制が、精神病院を医師の人事で支配したという過去の事実を明確に指摘しておかなければならない。これはすなわち大学を優位に置き、病院は一段低くパートタイマー医師の嫁ぎ場という悪習慣をもたらし、このために多くの障害者が医療不在の状況下に放置されていたということである。結局、これらのことが因となり果となって、こんにちにみる精神病院の不祥事件を続発させているのである。このような精神病院の現状と問題点のより一層明確な解明は、来るべき第67回総会に向って全会員の目前にある重要課題である。」(傍点筆者)と述べることにより、理事会自身の責任を回避していることを知り、怒りを抑えることができなかった。そもそもこの文書を公表した理事会は、第66回総会(金沢学会)<0022<で、学会認定医を強引に可決にもちこもうとした教授連による理事会(台理事長)が不信任されたことを通して、わが国の、医局講座制に基づく学会のあり方が、初めて追及され、その結果急ぎ編成された理事会であったはずで、いわば医局講座制の徹底批判という総会の強い意向に沿って作業を進めねばならぬ理事会だったのである。しかし、以上に述べたように、精神病院不祥事件という最重要課題に直面して、理事会諸公は、金沢学会後わずか半年余りで、早くもひょう変し、わが国の精神医療の根本悪であるとすでに確認されていた医局講座制問題を究明するどころか、これを過去の問題とみなし、不祥事件の主因を抽象論でごまかし、悪徳私立病院と良心的病院のレッテル貼りと、何とも陳腐な医道を高揚することしかやっていないのである。彼ら理事諸公は、総会を無視して、旧教授理事と同じ体質であることを自ら暴露し、明らかに医局講座制を守ることに専念しだしたのである。
彼らは、自分たちが何者であるかを知ってか知らずか、とにかく、不遜にも会員に「訴える」どころか、旧教授理事会さえやらなかった訓辞をたれたのだ。そして、果せるかな、第67回総会(徳島学会)では、不祥事件と医局講座制問題については、ほとんど討論されず、何の成果も上げることなしに終った。
その後、私は「悪徳病院」と「良心的病院」との区別を行ない、前者を叩くことばかりやってもただ「悪徳病院」の縮小や院長交替が行なわれ、患者が未だレッテル貼りされていない施設に移送され、それだけで「事件」は収拾されるという現実を何度も見せつけられた(たとえば碧水荘事件)。また「良心的病院」で、良心的医療に専念する医師が、病院側あるいは組合によって反管理的だという理由でどしどしとクビにされてゆく現実を知った(たとえば烏山病院事件)。
すなわち、当時の理事会の「悪徳」と「良心的」という固定観念の下では、差別され、抑圧され、そして殺されてゆく患者を助けるどころか、一段ときびしく管理してゆくという結果しか生まれてこないという事実がはっきり分ってきた。これこそ医学近代化の反医療性に外ならないのである。
弁舌を弄していても不祥事件は少しも減らない。医師を「育成」し、「研究」に己れを忘れている医局講座制に更なる猛攻を加え、その実態を白日の下にさらさなければならない。そこで、熟慮の末に、医局講座制の頂点である東京大学の教室の支配下で行なわれた、稀有の重大不祥事件として、台実験を断固告発したのである。
U 問題提起を可能にさせたもの
すでに述べたとおり、本件は私個人によって提起され、それは直ちに理事会に受理され、その約6ヵ月後から学会小委員会(仮称「石川清氏よりの台氏批判問題」委員会)による本格的審査が開始された。しかし、これはあくまで事実経過であって、この経過は精神医療変革の歴史的必然性があったからこそ、現実的な展開をみるに至ったのである。
個人がいかに必死になって正当性を主張しようと、またその主張の動機がいかに純粋強力であったと仮定しても、歴史性が伴わなければその主張は、しょせん曠野の叫びであり、空しく虚空に消え去ってしまう。
私の台批判が抹殺されなかったのは、それが歴史的必然性を、告発当初からおびていたからに外ならない。
すなわち、東大闘争あっての医局解体・東大精神科医師連合の設立だったのであり、この精医連あって台数授不信任・教授総退官要求がなされ、さらに大学当局の権力に依拠した闘争弾圧、それに便乗した八人衆の「教室会議」=旧医局復活策謀、そして北病棟移転強行などの反動政策の実施によって、その過程の中で、精神科病棟自主管理が敢行され、この赤レンガにおける闘争の強化のさ中において、はじめて台<0023<「実験」批判が具体的な、精神医療全域にわたる課題となりえたのである。このような、さかまきうずまく歴史の流れが起っていなかったら、台「実験」批判は陸の上の小舟に過ぎず、何の役に立たぬままに、やがて人知れず朽ち果ててしまったに違いない。
東大闘争のさ中でおこった、医局・講座制解体が台「実験」批判を惹起したのであり、換言すれば台「実験」が現実的に展開されたことが、医局・講座制解体闘争の真実さを一層明確にしたといえる。
V 台糾弾決議に到達させた原動力について
問題提起がなされて以来2年有余の後、第70回日本精神神経学会総会は、台「実験」は到底医学実験ではありえず、かかる反医療的行為について、台氏は有責であるという趣旨の理事会提案(註:その詳細な内容、およびこの提案に到るまでの評議員会などにおける討議は、本巻の別章に述べられているので、ここでは割愛する)が可とするもの402、否とするものわずかに11、他に保留149、棄権4をもって圧倒的に可決された。5月1日のこの可決の瞬間の情景はまさに壮観で、否とするもの以下は双手を上げても、過半数をはるかに下回る票数しかとれなかったのである。こうして、ついに学会内台擁護派は崩壊し、もはや再起不能となったのである。
わが国の大小のあらゆる専門医学会(財団法人として登録されている学会)――その多くは半世紀以上の歴史をもっている――で、未だかつて行なわれえなかった、学会員自らの徹底的自己批判が、会員数4,500余名という大医学会である精神神経学会で可決されたことは、わが国の医療と医学研究、そして医育の転換が開始されたことを意味するものである。今後なお、何百、何千という医療従事者が必死になって、いわゆるまき返し工作を計るであろう。しかし、彼らがいくら時計の針を逆にまわすことに汗水たらしても、医療の変革の歩みをくい止めるべくもないことは自明である。
およそ医療について、とくに精障者と精神医療について未だに定見をもちえないのみか、むしろ差別と偏見に満ちた記事を流していた大商業紙も、ことここに至り、ようやく慎重な方針をとり、国民に対して、正しい報道を伝えるべく努力し始めた。これまた、わが国のマスコミ内での1つの画期的変化といえよう。
このような成果を挙げえたについての、強い推進力はどこから生まれたのであろうか。課題を担いつづけ、それを医療変革の契機にまで昂めたものは何であろうか。その原動力は、学会内活動としては前述の小委員会(委員長小池清廉氏)での、台擁護派の愚劣なあの手この手式の非科学的議論、というより策謀に対して、科学的にも倫理的にも、高い格調をもって、一貫して対応しつづけた批判派の諸兄、台氏が君臨する東大外来の教室会議派と、それに政治的に癒着し、盲従した一部医学生と看護婦の、大学当局どころか国会レベルに対してまでの強権発動の懇願に対抗し、実に3年有半にわたり、精神科病棟(赤レンガ)を自主管理して、闘いつつ医療実践をつづけている自主管理会議のメンバーたち、さらに全国精神科医共闘会議に結集し、精神病院闘争を貫徹するなかでこの問題をあくまで論理的に究明した医師諸兄たち、――その努力は小沢氏以下8名の精神神経学会評議員有志によって、今回の評議員会と総会に提示された「台氏人体実験を糾弾する」という22頁のパンフに結実し、頑迷な台擁護派を完全に窮地に追い込んだ――これら医師集団の、精神医療の根底からの批判そのものであった。さらに東大精神医療ゼミや、多くの大学で結成されている精神医療研究会、あるいは全日本医学生連合での医学生を中心とした相互研修と頻回にわたる討論が、この課題を決着の方向に推し進めた力にははかり知れないものがある。
しかし、これらの医師・医学生たちの努力だけで、解決の路を着実に歩みつづけえたとは到底考えられない。教授権力は決して生やさしい<0024<ものではないし、迷妄派の眼はにごりきっているのである。
私は本学会での一応の決着は、患者とその家族、医療変革を求める市民や進歩的ジャーナリスト、さらに底辺にある医療従事者や社会の変革を闘う学生たち、これら無名の人々の忍耐づよい要求と、厳しい監視のまなざしがあって、ようやくにして可能だったのだとかたく信じている。
W 台「実験」の本質
ここでひるがえって、そもそも台「実験」とは何だったかを今一度検討して、その医療と医学における位置づけを明確にしておこう。
台氏は、本件の告発当初から、クロード・ベルナールなどを持ち出して、自分の所業が医学実験として妥当なものだと強弁しつづけてきた。しかし、事実はまったく逆であることは、彼自身の論文を熟読すれば、明白である。そこには、医学実験、科学的実験にとって必要不可欠な要件である、仮説の設定と追試可能性が欠落しているからである。
彼は論文冒頭に次のように述べている。
「我々は目標を脳組織の含水炭素代謝に限局したが、その理由は精神分裂病を脳のみの疾患であると考えているからでもなく、又含水炭素代謝に異常があるかもしれぬという憶説にもとづいたものでもない。精神現象の発現器官としての脳のエネルギー代謝の基本をなす含水代謝の様式を、人間の脳において、精神分裂病者を中心に追求することが、本疾患の病理を明らかにするために不可欠の要請であると考えるからである。」
このように彼は自ら仮説を打ち消して、その代り(?)に、「実験」の獲得目標を打ち出しており、その内容は、明らかに精神分裂者の脳を利用して、ヒトの脳の糖代謝の様式なるものを知ることだったのである。病因の探求でもなく、まして治療法の発見でもなく、彼が意図したことは、単にヒトの脳のカラクリを知りたいという不遜な目的にほかならなかったのである。
こんな粗末な恣意的たくらみが科学的成果を生み出すべくもなく、結果は失敗に終った――このことは小委員会の擁護派グループも認めざるをえなかった――のは当然であり、さらに、かかるグロテスクな、猟奇的「研究」が、追試されえないまま今日に至ったこともこれまた当然というほかない。
仮説欠落、追試不能の行為をどうして科学的実験といえようか。それにしても台氏は一体何をやったのだろうか。
まず本件が生検(バイオプシー)でないことを指摘しておこう。生検は対照を必要としない、診断のための検査である。しかし、台「実験」では「弱志性精神病質」や神経症などの患者多数がコントラストとして切除を受けている。しかも当時医学には生検という手技も概念も存在しなかったのである。
それでは、一種の医学的検査といえるかどうかというと、その「研究」作業において、大部分の患者について、生活条件の統一の配慮や採取時の身体状態の詳しい検索さえ怠っているのだから、やはり医学的検査とはいえない。そして、ここでも先述の追試不能性が問われねばならない。
次に、人体実験と呼びうるかどうかというと、私はやはり絶対否といわざるをえない。人体実験は、厳密な動物実験を経て、はじめて、厳密な条件の下に少数例について施行される医学的作業である。しかし、台「実験」では、動物実験の手順を踏まず、いきなり人脳を素材としていることは、台当人が認めているところである。しかも、もっとも重要な患者および家族の同意さえも、ごく少数例を除いて、まったく得ていないのである。
私は本件を生体実験(人間実験)として告発した。それは、ナチス強制収容所内での諸「実験」や、第2次大戦中のいわゆる九大生体解剖事件等と同質の非医学的所業と同質のものと考えたからである。しかし、告発後現在に至るま<0025<でに続々と出されている、台氏自身の反論や台擁護グループの言動を知るにつれ、本件は生体実験(人間実験)にすら値いせぬ悪質な行為であると判断せざるをえなくなった。
台氏は70回総会の議決後も、なおあがきつづけ、「“人体実験死亡者”の虚構と真実」という4頁にわたる文書を印刷して、大学内外に配布し、自己正当化のために最後の力をふりしぼっている。この中で彼は「石川氏は昭和46年5月28日の精神神経学会にあてた告発文(註:台所感に対する私の再批判の文書のこと)の中で、“この実験の犠牲となり命を落した者が何人かある。またこの手術を受け、今なお松沢病院で病に呻吟する人々は20名もいる”と述べている。およそ他人を殺人者よばわりするには、十分な根拠がなければ行なうべきでない。しかし石川氏はそれをしなかった。」とか、「私は石川清氏ならびにその同調者が、いわれもなく私を殺人者扱いにし、学会を欺瞞し、見境いのない個人攻撃を続けている実態を明らかにすることができた(註:死亡者3人中の1人の剖検所見が発見され、主な所見は右半球白質のロボトミー割面を満している大出血であり、したがってもっとも考えられる死因は脳内深部の血管破損による出血にあり、皮質切除部の出血とは考えられないことが判明したという自分の見解のこと)」などといきまいている。
台「実験」批判のための、私の最終的論文となるであろうこの総括的批判文において、私の台「実験」の位置づけを今一度ここに明記しておく。
台氏は少なくとも80余例の患者を、その恣意的「実験」材料として用い、少なくとも1.5gの大脳を摘出した。一医師の「実験」のためにこれほど多くの被害者――その中には11歳の少女をはじめ、多くの青少年や、発病後1年前後の人々がふくまれている――を出した発表は、すさまじい昭和20年代の研究発表活動のさ中においても比類のない不祥事件である。この事件により、少なくとも3名の患者が死亡している。したがって、台「実験」は、医学の進歩、まして精神医療とは何のかかわりもない、人間破壊そのものであり、換言すれば、恣意的趣味的研究意欲に基づく傷害事件および傷害致死事件以外の何ものでもないのである。したがって台氏は人間として、すなわち東大教授でも精神科医でもない、患者とまったく対等の一人間として犠牲者に対し責任を負うべきである。
X 大学医局講座制解体の必要性
この異様な体制はわが国独自の組織である。わが国の医学教育は主としてドイツおよびイギリスの医師の講義によって開始され、医育制度は明治初期にドイツより移入されたことは周知の事実である。しかし、現にみられるこの医局講座制の母体は、ドイツ医育制度であるとする見解は間違いであって、それはあくまでも日本で育ち、日本にしかみられない組織である。
このことは、わが国の医局講座制の長である教授という地位が、学位とも職階ともいえないあいまいな、すなわち責任についても権力の限界についても判然としない立場であるのに比して、ドイツのプロフェッサーなる地位はハビリタチオンの合格によって与えられる一種の学位であって、多くのクリニクは復数のプロフェッサーをもち、職階としての長はプロフェッサー+主任という立場を占めているという一点からも明らかであろう。だからドイツにはプロフェッサーで助手であるという人もいるのである。
わが国にどうしてこのような体制が生まれたかは、明治政府の教育方針を知ることなしには理解できないであろう。富国強兵をモットーとした国策によって、国力増進に全力を傾倒した明治政府の教育思想が、差別と選別を基幹とするものであったことは論ずるまでもない。それがいかに強力な指導方針であったか、教育というより訓練に近い方策であったということは、現在でも、個別入試が行なわれ、大学や高校にはなはだしい格差がみられるという事態から、十分想像されよう。
<0026<
また、大学は明治30年(1997)に京都帝国大学が設立されるまで1つしかなく、つまり明治政府が地盤を固めるためにもっとも熱中した維新後30年間、東京帝国大学は文字通りの最高学府として、各界の指導者=権力者の養成を行なったのである。この純然たる官設大学の中で、特異な文明開化の風潮の影響のもとで、教授即講座主任という地位が強化され、小天皇化したのであり、確立された階層制は、徐々に設置された各帝国大学に、そっくりそのまま移植された。
とりわけ医学部では、国力増進、強兵育成のために新知識の吸収と「研究」の遂行に主力が注がれた。トピックスを追い求める姿勢が本来の科学研究からすでにはなはだしくかけはなれていたことは、明治の末に日本を離れるに際して、ベルツが述べた警告にみられるとおりである。すなわち研究至上主義は明治時代にまず芽生えたのである。
次に重視されたのが「医学者」――医師ではない――養成であった。後継者たりうるエリートをたくさん生み出すことである。このためには診断技術をみがき、病因探求に専念する熱意を学生にうえつけることが肝要であった。したがって治療は二の次の問題だった。すなわち、大学医学部の業務は、まず研究、次に教育であり、診療は軽視された。具体的にいえば、大学病院の入院患者は、学生の教育に供覧されるためにあり、さらに医学者がスタンドプレイ的研究活動をするために必要なモノ(マテリアル)として収容された。患者は大学病院の最底辺に置かれ、医師や学生はもっぱら研究とそのための技術習得を指向した。患者不在の医療という表現があるが、正確には大学病院では本来医療は末端の、どうでもよい仕事であるから、患者の人格などは公然と無視されつづけたのである。
現在でも、学会内外には、「大学は研究・教育・診療を行なう機関である」とか、「学会は自由な研究発表の場であるべきである」などと絶叫している「民主的」と自称する諸君がたくさんいるが、彼らがもし本気で、つまり政治的野心なしにそんなことを主張しているならば、アナクロニズムの亡者というほかない。
以上に述べた、患者を踏み台にした医局講座制は、医師団の中にヒエラルギーを生み、それは、年とともに複雑化した。昭和43年10月に、東大精神科医局は全国にさきがけて医局解体を敢行したが、その直前の教室のヒエラルギーは、教授・助教授・専任講師・外来医長講師・病棟医長講師(この2つの医長は、病院講師とも呼ばれる)・医局長・非常勤講師(このランクは人により多少異なる)・講座助手・上級助手(この2種の助手にはオーバーラップする部分がある)・循環助手(2年で交替する)・大学院学生・無給研究生・有料研究生(月謝を納める研究生)・実地修練生(インターン)の14段階で、まさに兵隊の位とほぼ等しかった。しかも、若干註を入れたことから推定されるように、各階層相互においても、同一階層内でも、かなりのニュアンスの相違があって、そのために、とても大人の世界の出来事とは思われないような悲喜劇をひきおこすことがあったのである。ちなみに医局員は120名前後であった。
このように患者からみれば不幸この上なく、医師側からみればバカバカしい限りの体制がすなわち医局講座制なのである。私は東大闘争初期に、当時の教養学部理科V類のクラス会からの教官宛ダイレクトメールに答えて、「患者に背を向けて医局講座制を拝みつづけてきた」一員として自己批判文を送った記憶がある。しかしその後医局講座制の解体は全国的にみて一向にはかどっていない。教授諸公は、最近はますますふんぞり返っているようだ。しかし、こんな体制を廃絶すべきことは今や理の当然であり、その正当性はいずれ歴史が証明するであろう。
Y 精神医学の研究とは
本年4月28日の評議員会で吉田哲雄氏が、死亡例(いわゆる新事実)を提示した後、若干の討<0027<論と台擁護派のひとりの「頭が混乱して今は判断できなくなった」などの告白があって、記名により理事会提案(3月末の東京での提案とほぼ同じ内容のもの)が圧倒的多数で可決された直後に、傍聴していたひとりの患者がマイクにとびついて、「肉体の死滅をもって物事の是非をようやく判断するとは何事か。精神科医は精神状態に着目すべきであり、精神の死をこそ基準とすべきではないか」ときびしく追い討ちをかけた。この発言に愕然としたのは私だけではなかったであろう。
本学会でわれわれが真に獲得しえたものは、圧倒的多数票による勝利などではない。3月末の評議員会で科学的論理的に十分すぎるほど討議され、問題の是非が明白になっていたにもかかわらず、理事会提案は僅少差で可決保留となり、この4月末の評議員会での再提案をめぐっての討論は、擁護派のむし返しと議事妨害によって数時間どうどうめぐりをつづけ、ついにやむをえず提示された死亡例カルテと脳標本によって、それまでうす笑いをうかべて対応していた擁護派や日和見主義者がようやく真剣になり、内心の激しい動揺をかくせなくなり、そして上述のような票決が出たのである。見逃してはならないことは、死亡例提示によって可決にまわった人々の一部と、否決と保留にまわった人々のほとんど全員が、医局講座派(大学教官たち)とその候補者だったという事実である。これによって、医局講座体制の正体がはじめてわれわれの前に露呈されたのであり、さらにまた彼らの頭の中がいかに偏った考え方に満ちているかということ、とりわけ生物学主義にこり固まっており、その狭い枠内でだけ「研究」し、患者を「診ている」ことが明白化したのである。
そこで私は医学研究の医療における意味と位置づけについて歴史的に考察してみたい。例を東大の精神医学教室と松沢病院――この両施設は第2次大戦直後まで、実質的には一体であり、大正中頃まで東大の教室は府立巣鴨病院(現松沢病院)内に置かれ、その後も久しく教室員は松沢病院医員を兼ねており、とりわけ松沢病院長は歴代東大教授が最後まで兼任していたのである――について回顧すると、大ざっぱにみて、実質的初代教授(初代の榊教授は任期わずかで逝去した)である呉秀三の時代は、臨床医学の時代であり、病院の確立と患者の処遇や生活環境の改善に主力がそそがれた。呉教授はそのために、再三政府と闘った。次の三宅鉱一時代に入り、「研究」がしだいに近代的よそおいを帯びて前景に出てきて、はじめはさかんに心理テストの導入と異常心理学的研究が推進されたが、やがて昭和初期に脳研究所が教室に付設されて以後、犯罪生物学的・遺伝学的研究も開始され、他方医師たちの臨床への意欲は著しく後退した。そして内村祐之教授時代に入ってからは「研究」、とりわけ病理組織学、脳生理学および神経生化学的研究に重点がおかれ、第2次大戦中、純生物学的研究に大きく傾き、一方、大戦後に都立松沢病院が分離されて、大学が支配する精神科病棟がわずかに40床弱となってしまってからは、この種の研究は一段と強化され、したがって常時病床の過半数はいわゆる研究向きの患者によって占められているという状態となった。あるときはヘルドの患者が、別のときはパルキンソンの患者が、あるいはロボトミーを受けた患者が多数収容されていた。昭和30年頃からの脳研究施設の官制化の動きのなかで、この研究優先の傾向はさらに著しくなった。当時、若い医師の間で「飛び道具(註:生化学や病理学などの専門的手技のこと)を身につけないと、すぐに追い出されるぞ」というコトバがしきりにささやかれており、多くの若手医師は、何はともあれ生物学的研究室にとび込んだ。当然臨床は義務的な片手間の仕事になっていった……。詳しく述べればキリがないことであるが、臨床から近代的「研究」への大きな偏向は昭和のはじめから学園闘争に至るまでの精神医学界の趨勢であり、東大のばあいは生物学主義(ビオロギスムス)がもっとも重視された。この渦中において、患者の全人間性が軽視され、病者<0028<よりも病気に対する興味が遥かに優先されるに至ったのである。
以上、東大について述べたが、全国的にみても、如上の近代的「研究」への転回において、広義の生物学主義が主流を占め、臨床研究や精神病理研究は副次的に位置づけられてきたことは、精神神経学雑誌その他の専門誌をひもどけば明らかである。
しかし、さらに掘り下げて考えてみると、生物学主義の傾斜のみが事態の本質的な問題ではないことがわかる。副次的地位におかれた精神病理的、精神療法的、あるいは生活臨床的アプローチにも見逃し難い多くの問題点が存する。そこでも、生物学主義と同様な患者不在の研究活動は決して少なくない。精神病理的検索を強行して患者を自殺に追いやったり、反医療的精神療法という矛盾した表現しかできないへンな療法を試みて、患者の人格を歪曲させ、治癒不能に落し入れたりしたことは、どう考えても本来の医療と呼ぶことはできない。台「実験」と同質とはいえないが、やはり、これらも医療上の不祥事件の性格を強く帯びていることがあるのである。ともあれ、研究至上主義は、先述したごとき医局講座制という封建制でもないし、官僚制でもない、えたいの知れない、しかし医療社会に絶大な威力を振う組織の支柱であり、そしてこの体制では、上層階級の人々や政界実力者を除くすべての患者たち――ふつうの市民たち――は軽視され、無視され、ときに抹殺されていったことは事実である。この反医療的事態は、現にわが国の精神医療の頂点にある内村名誉教授がロボトミーに関する見解と、教授としての指導方針を示した、彼自らの著述に明白に打ち出されている。医局講座制での研究の本体をより具体的に読者に理解してもらうために、同教授の文章を以下に記す。
内村教授は、戦後間もない昭和23年10月に南山堂書店から発行された『精神医学教科書上巻』の精神分裂病の治療編の中(205頁)に次のように述べている。
「Monizによって最初に行なわれた脳外科的処置も、しばしば分裂病に応用される。所謂白質切離術である。その手技は比較的簡単であるから、施行はさほど困難ではない。しかし分裂病に対する効果は、今日までの経験では、とくに卓越したものがあるとは言えない。ただ他の療法によって病像に何の影響をも与へ得ないやうな例に、この手術が時に効果を奏したやうに見えることがあるのは事実である。しかし全体として、未だ試験期を脱して居らぬ治療法といふべきである。」
しかしロボトミーがますますさかんとなり、治療としての「効果」とともにその限界もほぼ明らかになった昭和26年1月に、広瀬貞雄氏(現日本医科大学精神科教授)が、いわば一応の総括として、医学書院から発行した著書『ロボトミー』(全112頁)では、内村氏はその序文の冒頭で以下のように述べている。
「エガス・モニスによって創始され、“精神外科”として発達しつつあるロボトミーは、ただに精神症状に対する一治療法たるにとどまらず、精神機能の生機を追求する研究方法として、精神医学に重要な課題を提供するに至った。現在世界各国においてさかんにこの方法が試みられておる(ロボトミーは当時多くの国々で批判されつつあり、すでに禁止に踏み切っていた国々もあった。――筆者註。)のもこの理由によるものである。」
要するに内村氏はロボトミーの治療法としての評価に疑惑をもっており、治療としての明確な位置づけを怠ったまま、一躍して、ロボトミーを精神現象の生物学的研究の有力手段として、高く評価しているのである。この医学論理においては、患者の存在という最も重要な課題は、完全に欠落している。
すなわち医局講座制での「医学研究」、研究至上主義なるものは、患者の生を閉ざす方向をたどるものに外ならないといえよう。
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おわりに
医療とは、人それぞれが本来もっている自然治癒、および発病回避の能力を認め、それを極力支援し、促進する仕事であり、医学とは、この仕事をあくまでも科学的方法によって、すなわち倫理性を基盤として、より円滑に遂行できる方途を見出だすための作業である。科学が、特に医学が本来人倫を抜きにして存立しえないことは、論ずるまでもない。科学と技術が混同されている現代において、科学論はますます重要な課題になっている。
医師、医学者(研究者)はもちろんのこと、すべての大学医学部と病院、医学研究のための施設、そして医療行政機関に勤務し、あるいはそれらと何らかの関わりをもつ人々(製薬企業その他で働いている人々)は、ことごとく医療従事者なのである。
しかし、この自覚は現代の日本ではきわめて稀薄であって、それはなかんずくこの医療界の上層部にある人々、特に「医学者」と自認している「大学人」や、エリート意識が濃厚な若い医師と医学生において、顕著である。また、自分の社会的役わりが何かを考えることなく、研究室や図書室や講堂でうごめいて、「研究」と「専門知識」の吸収に明けくれしている人々や、独断的発想から生み出した「新治療法」の正当性を実証するために、われを忘れて馳せめぐっている人々も、今こそ医療の原点に立ちもどってほしい。
果して現代の医学研究は患者の役に立っているだろうか。医局講座制下では、臨床部門での研究は、やがて基礎医学部門でのより詳細な「分析的」研究に移され、そこで、さらに細分化されて、医学に隣接した領域でのより「専門的」な研究テーマとなってゆき、臨床に還元されることがほとんどないのではないか。「医学研究」は熱心に遂行されればされるほど、ますます患者は研究テーマを与えるだけの存在にされてしまっているのではあるまいか。これは、久しく医局講座制に埋没してきた私自身の重い疑惑である。
さらに医学史の面からみると、今や過去のものとなりつつある多くの重大疾患の病因、治療法および予防法の発見は、現に大学医学部で行なわれている類の研究ではない方法によって、いわば医療従事者と患者の共生において成功しているのにもかかわらず、この発見にはるかに遅れて病因なり治療法の解明がなされ、しかもこれが「正統」医学史上で模範的研究として高く評価されている。われわれはここでも錯覚しているのではあるまいか。脚気や結核や伝染性疾患などの致命的な疾患がわが国でどのようにして克服されたかを、根本から問い直すことが必要である。少なくとも発見と解明の混同が是正されて、「正統」医学史上の高名な医学者が、患者にとっては大した役わりを果しておらず、彼らに真に貢献した医療従事者はしばしば無名の人々であることが明確化するにつれて、患者不在状態で低迷している現代の「医学研究」と「医学教育」を矯正し、現代医療がつきあたっている巨大な壁を突破する――これは現代医学の国際的課題である――ための手がかりが得られるのではなかろうか。
稿を終るにあたり、長年にわたる台氏「批判」の戦いの中で、台氏および擁護派の人々に対しては当初から何の私怨を持たないが、精障者差別記事を連載しつづけている週刊新潮(社長:佐藤亮一)をはじめとする一部の無責任なマスコミ関係者が、極端な歪曲報道をくり返し、妻と未だ稚い3人の子供の心を傷つけた事実に対して、許し難い気持をもっているという現在の私の心境を表明させていただく。