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「治療管理社会との闘い」

烏山病院闘争委員会 1970 『精神医療』第1次4:15-19(東大精神科医師連合)


◆烏山病院闘争委員会 1970 「治療管理社会との闘い」,『精神医療』第1次4:15-19(東大精神科医師連合)

 ※その社会的・歴史的意義に鑑み、以下、全文を収録させていただいています。

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 烏山病院は、一年中見学者が絶えませんでした。PR室の女性が、病棟の中を案内してまわると、タタミに坐っている入院者たちは、顔をそむけたり、うつむいたりするのです。
 見学者が日本で一番多い病院にもかかわらず、家族たちは面会室でしか入院者に面会出来ず、後らの病棟内の生活は見る事は出来なくなっています。
 モデル病院といわれたり、厚生省の精神医療<0015<政策のショウ・ウィンドウと言われる烏山病院に於て、EF2生活指導病棟の松島医師等の10ヵ月間の仕事で、その有名のゆえんである「生活療法」を次々と廃止することにより、逆に患者さん達は良くなっていったのです。しかも、この人々は、従来の様に「あれしなさい・これしなさい」という「治療者」の指示に従順に従う人々ではなくなって来たのです。
 この事は、いったい今までの「生活療法」とは何だったのかという重大な問題を我々に提起しているのではないでしょうか?
 烏山病院の「生活療法」は、「生活療法に関する服務規定」「医師服務規程」「看護服務要領」によってささえられています。こうして病院全体が一つの自動機械の様に働いて、「治療」を行うわけです。ですから職員は10人が10人とも同じ事を言うようになっています。
 それでは、この治療体系の根本をささえる疾病観・治療観は何でしょうか?この基本はやはり、Prozessの概念であり、遺伝的な運命論であると言っていいと思います。あらゆる治療的努力は、このProzess自体とは無関係であると竹村副院長の口からよく聞きます。従って「生活療法」も、疾病の本質に迫って行くものではなく、外から強制力を加えて「治療者」の理想とする鋳型にあてはめて行く事になっています。
 「良くなったら皆よく言う事をきくようになるものですよ」と治療病棟のある看護婦さんが、急性期のある患者さんをどなりながら言い放ちました。このような感覚は、多かれ少かれ全ての職員に共通してあるようです。「良くなる」事が「医者や看護婦にとって良くなる」ということと同義に解釈されやすいのは、先に見た治療観からすれば、当然の帰結でしょう。掛けマージャンが見つかったからと言って退院を延期されるというようなことは、別に悪意もなくて日常茶飯時行われるわけです。
 また全入院者にグループ会を通じて「病相管理教育」が、施される事になっていますが、「 あなたは必ず再発します」と教えられ、「私は分裂病者です」と気軽に言う「病識」という諦観・劣等感が植えつけられます。
 「治療者」の理想とはこうして、病院管理の最底辺としての人づくりであり、社会に好ましい人である従順な差別された労働力としての社会復帰であります。あたかも国大協路線の中で、教育的関係として学生自治が抑えられたように、「生活療法」は、治療的関係として患者への抑圧・管理を正当化しているものではないでしょうか?

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 それでは、職員にとって「生活療法」の体系は何を意味するのでしょうか。 「生活療法服務規定」によって病棟は機能分化され、諸会議によって統合されています。また職員もさまざまな「スペシャリスト」として、また看護婦も総婦長から補助員に至るまで壮大な差別と抑圧のピラミッドを作っています。彼らは30分きざみに作られた週課表・日課表にそって体を動か<0016<していなければなりません。莫大な「看護服務要領」は実に細々と、各立場に於ける看護者の義務と権限・指揮系統を記しています。この様にして、職員は「治療的目的」のために、自動機械の中の分業された一歯車とされているのであります。
 個性や主体性が、従って常に抑圧されるために、小さな不満は常に醸造されるが、それらは直ちに諸会議によってつみとられてしまいます。病院に不都合な意見は、上の会議にとりあげられませんが、都合のいい方針は採用される事があります。こうして全職員は、独立採算を前提とした「ガラスバリ」経営の中で、知らず知らずのうちに病院の立場に立って、管理者的発想で物を考えるようになっているのであります。こうして参加と合意による体制包摂というアメリカ的経営管理とアメリカ的ファッショ体制が出来あがっていると言ってよいと思います。
 「そんなに文句がありゃあ、病院を出て行きゃあいいじゃあないか」とあるボイラーマンが立看を守っていた一闘争委員に言いましたが、こういう画一的な雰囲気が、烏山の中では当然の事なのであります。つまり、「生活療法」体系という、整然とした強力な患者への管理抑圧の体系は、同時に職員に対する説得力ある強力な管理体制(を)ともなっていると考えられます。私たちは毎日、味わいの少い、機械的な仕事を、不自由を感じながらくりかえしていなければなりません。
 「職員の解放がなければ患者の開放はない。」「サボりたい時はサボり、ねむりたい時はねむりなさい。」「日本中の精神病院からお医者さんがいなくなったら、精神病院はどんなによくなる事でしょう。」「パラメディカルは病院の寄生虫だ」というスローガンをもって、EF2階の10ヵ月に於て、職員の分業制は廃止され、全ての治療者がスペシャリストとしてでなく一人の人間として一対一で患者に接して行くようになりました。これによって一人一人が頭を使わねばならなくなりましたが、仕事には生きがいがとりもどされて来たのです。
 私たち烏山の闘争は、最初医療のための運動、患者のための運動として出発したわけですけれども、闘いの深化の中で、この運動が実は何よりも自分たちが日々感じていた不自由さとの闘いであった事に気がついて来ています。

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 「技術的」という言葉は、しばしば〈根本的〉あるいは〈思想的〉という言葉の対極として使われます。しかし、技術は、実践が前提となっているものであるが故に、思想やイデオロギーと無関係なもの、無色で中立なものでは決してあり得ないはずです。烏山の「生活療法」という技術もそうです。ですから、烏山の闘争は、一見技術をめぐる闘争でありながら、実は、非常に根本的な対立以外ではない事を、強くおさえておかねばなりません。
 それでは烏山の〈技術〉とは何でしょうか。我々は、『精神医療の展開』で竹村副院長の打<0017<出している考え方を重視します。今後、地域精神衛生網の強化がなされて来る場合、保安処分・中間施設・地域精神衛生センター拡大、精神衛生協議会運動とならんで、精神病院の合理化・近代化・管理強化動向を見なければならず、その中で烏山病院は、先進的部分に位置付けられています。
 ただ、〈収容性〉という事のみでは問題を適確にとらえ難いと思います。「生活療法」とは、院内に於る患者・職員への管理体制であると同時に、院外管理・差別された労働力としての社会復帰の問題をもっても、地域精神衛生網と関わって来ると思います。 猫の手も借りたいという現在の日本資本主義の動向からすれば、今後、この後者の問題が、烏山当局が、EF2階の仕事を体制包摂して来る場合注目せねばなりません。
 烏山の闘争が、既に個別改良闘争の枠を大きく破っているものである事は既におわかりの事と思います。そしてまた、個々の病院に於ける地道な解放の闘いがひろがる事こそが、烏山の闘争への最大な支援となる事も事実でしょう。

  補遺
 私達が志向しているものは、小さくても確かな実践が市中に生れる事であり、その実践を通しての新しい大学像なり「学問」のあり方を問うものである。小さい個々の実践がコロニー化してしまわないためにも、同学の有志に呼びかけたいのである。私達がパンフで呼びかけた意識革命の拠る所も実にこゝにある所以である。実践は多様であろう。併しこの様な実践に動機づけられた意識の変革点にこそ私達の連帯と結集の出発点がある。精神医療の前進はこの様な有志の運動体を介しての闘い以外には現実には考えられない。私達の考える大学も「精神医学」も精神医療の豊かな実践なくしてはあり得ない。私達は教条主義的な幻想に陥る事を恐れ、所謂「大情況」の現実的分析を重視、それに対処する具体的な運動体の目標を各自の主体に問いかけた上で設定、上行性に変革のための実践の浸透深化と共に意識の変革を第一段階の目標としている。変革の展望についても、この様な実践を通して醸成される実感を基礎に展開し、次の実践の起点としたい。従って上述の運動体も市民労働者と密着したものでなければならず、促りなる特権階級、イデオローグの絶叫では成就されるものではない。保安処分にしても中間施設にしてもこの様な市民労働者との対話を通しての説得的な代案創造が決定的なものであろう。そして私達はこの様な問題についての主体的問題意義を自分の言葉で語れる様になりたい。私達の考えについて一部では精神主義と言われていると聞くが、私達は安易な技術化、科学主義にあまり警戒的疑惑的であるためにも進んで肯定したい。併し私達の言う所は戦時の大和魂、修身的倫理に走るものでなく実銭の産んだ結果を重視する所が異る。
 個々に結晶した科学的成果を如何に総合し、一つ一つの現象に生かしてゆくか、あるいは実証してゆくか。そのためには私達の「学問」は <0018<精神医療をないがしろにし病者を離れては仮空のものに化してしまう。個別的細分化された科学的論理を追う事自体にも意義を認めるものではあるが、それにしてもこの視点を見失う事は従らなる「学問ごっこ」に終る恐れもあり、学者にとっても手ごたえの薄いものになりはしないか。私達は運動体の中に精神医療の具体的前進を考え、「精神医学」を求め学問を追い、大学を想う。その過程にあって人間としての連帯を識り、解放と自由を共に闘ってゆく市民労働者としての自己を発見出来る事を期待したい。

 *下線部は原文では傍点


UP:20110809 REV:
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