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「大学紛争と精神科医」(Editorial)

臺 弘 19690615 『精神医学』11-6:2-3(418-419)


 大学紛争は直接的には東大医学部を発端として始まったことであるが,研修医問題と青医連運動は全国の医学部を揺り動かしている。問題はなお未解決であり,ストライキ中の医学校も数が多い。そして今や学会にも改革運動が及んでいる。とりわけて精神科の若い諸君はどの大学でももつとも活発な動きをしているメンバーであり,医局解体の実行も精神科が先鞭を切つて各大学に拡がっている。この運動の評価はいろいろであるが,それがわが国の精神医療の将来と精神医学の今後の発展に大きな影響をもつものであることは間違いない。
 このような情勢のもとに,本誌の編集委貝会で大学紛争をeditorialにとり上げてはいかがという話題がすでに何回か論議された。編集委員の中には,このような重大な問題をeditorialに取り上げないで目をつむっていてよいであろうかという意見があった。反面,編集委員の諸氏は多かれ少なかれ紛争の当事者であり,大部分の方がいわゆる体制側の人間であるから,もしeditorialに取り上げると,それは一方の側の見解を代表することにもなりかねない。それは本誌の学術誌としての性格上好ましくないから止めるべきだという意見もあった。個人でeditorialを書くこと自体がおかしいので,編集委員会で論議をっくしたうえ,共同責任で執筆すべきだとの意見があったが,それで意見がまとまったとしても,なお体制側の共同見解視されて余計にまずかろうという配慮もあった。
 このテーマは社会的・政治的な領域に深く踏み込んでいて,デリケートなものであることはは甲すまでもない。しかし筆者が考えるには,人間関係の生理と病理の専門家を以て任じているはずの精神科医が,自分達の重大な課題についてだまつていることは無責任のそしりを免れないと恩う。
 実は1年ほど前,まだ紛争がこれほど拡がらないころに,敬愛する同僚のD氏から,「われわれ精神科医が学生と教授を共々に研究対象として考察しないという手はない。アメリカの精神科医はすでに日本にまで手を伸して活動家に面接を始めている。どうです,やりませんか」という勧告をうけたことがある。私はDさんに「貴君は当事者でないからそんな気楽なことがいえるのだ。紛争の只中にある私達の身になったら,とてもそれ所ではありませんよ」と答えたものであった。
 しかし考えて見ると,非常な時代にそれに対し強靱な知的観察と考究を失なわないことこそ,わが国の科学に最も欠けていた点ではなかろうか。戦時における精神医学的研究の之しさ,天災地変の緊急時にも得られたはずの資料の集積の少ないことは,わが国の科学的精神の底の浅さ,科学者の腰の弱さを物語るものではあるまいか。
 Dさんは近頃「甘えと邪魔」について,いつもながら鋭い考察を発表されたが,それには大学紛争に関連したことも書かれている。他の患者に対するばかりでなく,自分に対しても,さらに仲間に対しても知的吟味と解析の態度を失わないこ<0418<と,これは自らに対する戒めであるとともに,若い精神科医諸君に対しても望むところである。筆者はこの紛争を通じて,自分自身についてあらためて五十の手習いをしている思いがする。自らの関与する事態に対して客観性を保持するように努めること,これは無感動性ではない。私は誠実とか誠意といつた言葉をかるがるしく用いるのを好まないが,それはこれらの言葉が悪用されやすいという事実にもとづいているのであって,その価値を知らないというわけではない。いうまでもなく自覚と批判的精神は社会的・個人的治療の鍵である。
 たまたま最近, WPAの書記長であるD.Leigh氏と会談する機会があった。彼が東大紛争の内容を詳しく聞きたがるので,色々と説明したところ,彼が言うには「日本の大学紛争とドイツのそれとは非常によく似たところがある。精神科医が積極的に参加していることも共通しているし,精神科の教授が立たされている立場も同じようなものだ」とのことであった。D. Leigh氏の意見がどこまで正しいのか,彼があげたドイツの例が実際にはどのようなものなのか,私にはもちろん解らない。しかしこのような話を聞くにつけても,大きな社会的思潮の背景から,紛争自体と自分とをあらためて客観視する態度をもちたいように思った。
 この長い学園紛争を通じて多くの方のもたれる感想はいろいろの領域にわたつていよう。個人的感想を述べて恐縮だが,筆者が痛感することの一つは,人々の間にある論理構造の相違である。これはよくいわれるような世代の相違ばかりでなく,民青といわゆる三派の諸君の間にもある。相手の論理構造の類型や自分自身の論理構造の特性に気づかずにふるまつていて,思わぬ苦労を背負いこんだのは不徳の致す所といわざるをえないが,たしかにこの点に関する自覚が私には乏しかつた。
 二者択一や○×論理を直列につなげないと気が済まない諸君がある。決定は常にあれかこれかであり,一方が正しければ他は誤りである。他方,論理素子は同じようでも,多くの素子を直列,並列につなげて構造体としている諸君がある。この場合,結論は確率論的分布をなしてくるので,決定はいきおい状況の影響を受けやすい。決定論的思考者は問題の提起にすぐれているが,確率論的思考者は問題の解決に長じている。一方が純粋主義,硬直的であれば,他方は機会主義,柔軟的である。そしてどちらも弁証法を論ずる場合があるが,その際には通常論理の集合が異なっている。さてこのような論理から行動への決断がなされるわけであるが,決断者もしたがって二つに分れる。一方が否定主義に傾くと,他は肯定主義に動きやすい。そしてこれら決断者の周囲に,非決断者の多くの人々がいる。「決定からの逃避」escape from decision を現代の特色として,かつての「自由からの逃避」escape from freedom とくらべた著者があったが、なるほどうまいことをいうものと感心させられたしだいである。
 紛争の過程で各人の個人的な感想は多岐にわたる。ただしそれが感想のレベルに止まつている限り,それに基づく反応は情動的に堕しやすい。感想を明晰な認識に高めることこそ,とりもなおさず事態を積極的な打開に導くものになろう。これは精神科医に課せられた課題と考えるがいかがであろうか。

(追記)この原稿が校正に回って来たのは,金沢学会を終えて帰宅した翌日であった。学会の歴史も一こま進んだという感が深い。私は個人的感情を離れて進んだという言葉をつかいたい。次の一こまを会員の各自がどのような論理の上に立つて行動するかに学会の運命がかかっている。(東京大学精神科)


UP:20110912 REV:
臺 弘  ◇東大闘争:おもに医学部周辺  ◇精神障害/精神医療 
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