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子殺し親殺しのすゝめ
ベトナムの二重体児にとっての幸せは「生まれてこないこと《ではなかったのか……
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last update: 20170824
■野坂 昭如 1986/11 「子殺し親殺しのすゝめ――ベトナムの二重体児にとっての幸せは「生まれてこないこと 《ではなかったのか……《,『諸君』1986-11:126-135
野坂昭如 作家
当節「ヒューマニズム《「生命の尊重《という化物がはびこっている。人は「ナチス《と非難するかもしれないが、かのベトナムの二重体児にとっての幸せは「生まれてこない《ではなかったか。
べトナムの二重体児の姿が、TVを通じ、はじめて我が国に紹介されたのは、'81年夏、終戦特集の番組においてであるらしい。ぼくは、これを観ていないが、その以前、米軍枯葉作戦のもたらした災厄のあらわれとして、二重体児の生存することを、教えられてはいた。
現代文明の行きつく果ては、奇型異形の巷に溢れ野山に満ちと、まことに心萎えるレクチュアを、専門家に受けていた際、話しに出たのだ。いわゆるシャム兄弟を連想、今の医学技術をもってすれぱ、分離が可能なのではないかと訊くと、「難かしいらしい、下半身が一つしかない《専門家は、唆昧な口調でいった。
とっさに浮かんだのは、Yという文字だった。シャム兄弟についても、よく知らないが、昔、写真でみたその姿は、背中合わせに尾骶骨で接続している形、後にアメリカへ渡り、見世物のメンバーとして世渡り、結婚もしたはずだ。
その後ホーチミン市を観光だか視察だかした人たちが、すすんでこの二重体児について説明した。とても明るい表情で、部屋の中をごろごろころがり遊んでいたという。「会う前は、悲惨な感じだろうと、覚悟してたんだが、とんでもない《と、一人は、彼等が、がちんとした部屋に寝ころんでいる写真を見せた、しかと確かめたわけじゃないが、脚はみえなかったと思う。
一年前、べトナムニ重体児の、一三、四歳頃だろう、二人がはっきりカメラを凝視している裸の写真をみた。Yの字ではない。ノシ餅のような躯幹の両端に頭部があり、それぞれニ本の手がのびる。他と比較して細い二本の脚は、躯幹の中央△126 から、横に突き出されていた。Yよりもπ(ルビ「パイ《:引用者注)に近い。その瞳はツブラと形容するにふさわしく、表情も屈託なげに思えた。そして今年六月、片方の危篤状態に陥入った二重体児が日本に移送されることとなり、その姿は、TVに何度も登場した。彼等の吊前がベトとドクであり、ベトが病気と世間も心得た。
ぼくが観たのは、彼等がまだホーチミン市の病院にいるところ、顔に何本ものチュープをまとわせ、すっかり生色を失って昏睡状態の病児を、年老いた看護婦が、顔すり寄せて、団扇で風を送るシーン、その向こうに、眼をキョトキョトさせ、いかにも上安そうなもう一人の表情がある。
あわてて眼をそらせ、この場合、片方が死んだら、残った子供はどうなるのか。一方が、ともかく生理的に健康ということは、重要な器官が独立している証拠、でなきゃ、必ず共倒れになるはず。後は、妄想だが、もし片方が死に、しかも分離手術ができない。死児は腐っていく、これをながめつつ、一方は生きつづける、やがて白骨化する、この時、ポキンと背骨を折り取って、ようやく一人になれるのか。
来日して以後の、彼等を写し出す画面は、いっさいみなかった。「一日も早いべトちゃんの回復を祈りたいと思います、さて次ぎは上野動物園のパンダの話題《というような、TV特有の台辞に異和感を覚えたわけじゃない、そのいい加減さこそが取柄なのだ。二重体児の非常事態を、かわいそうにと見守る視聴者も、健全なしるしであろう。亭主や子供を送り出し、さて食後の果物を食べるか、でも太るのはいやだし、エアロビクスで汗を流せばいいかなど思案しつつ、モーニングショウの、事故やら犯罪やらの現場中継、遺族の愁嘆場をながめるのは、楽しいことに違いない。
生れた時、なぜ殺さなかったのか
中曾根首相が、自らの迅速な決断により、二重体児に、ふさわしい医療をほどこすことができたと、誇らしげにいいふらすのもけっこう。これをきっかけに、米軍の非道をあらためて糾弾するのもよかろう。二重体児にどうハイエナが群がり、また禿鷹が狙おうが、べつだん気にならず、しかも、画面の彼等から眼をそむけていたのは、ぼくが、きわめて残酷な気持を、心中つのらせていたからだ。
即ち、何故、二重体児が生れた時、殺さなかったのか。
誰もが、あるいははっきり意識しないまでも、こんな風に考えているのかもしれぬ。それをいっちゃあおしまいと、ロをつぐんでいるだけなのかと思う。
これまたぼくだけのことじゃない。いや、さらに苛烈な体験、見聞をなさった方は多いが、ぼくは十四、五歳の頃、突然の死、非業の死を身近かにし過ぎた。焼跡闇市派なんていっているが、そしてこれも色あせたレッテルとなったけれど、実は、変死派を称した方がいい。ぼくの小説には、おびただしい死人が登場し、そのほとんどがまともな死じゃな△127 い。
自分が死ぬのは怖い。だが他人の、それぞれの死については、天寿を全うしたにしろ、天折、思いがけぬ死、上運な死にしろ、しょうがないじゃないかと、冷淡にみてしまう、TV司会者も首相も裸足で逃げ出す、調子の良さなのだ。きわめて身勝手と自認するやましさが、たとえば二重体児の「発達を願う会《とか、彼等に対する「救援基金《の募集とか、善意、ヒューマニズムの顕現に、首相や茶の間の主婦に対するより、なお異和感を覚えさせるのだろう。
「ベトちゃん《「ドクちゃん《という呼びかたにそもそも馴染めない。ちゃん付けをするほど、彼等とのつながりを確認できるのか。いえるのは、あのべトナムの老看護婦くらいじゃないか。そして、まことに勝手な想像だが、老看護婦の表情は、もうじき楽になれるからね、〽(庵点:引用者注)早く死にやれ、ほうやれほうと、子守唄をうたっていたような気がする。
もし日本で、二重体児が生れたらどうなるか。突拍子もないこと、仮定の問題じゃない。新生児の奇型、先天異常は、昔からある、その深刻な場合は、流産してしまい、母親ですらしばしば気がつかない。かつてレクチュアを受けた時、いろんなケースを教わったが、二重体児の場合、長寿は難かしいにしろ、基本的に双児と同じだから、生きて産れ、べつに、べトナム、シャムに限られたことではないのだ。
しかし、世界的にみて、いっこうその報告が無いのは、処置するからだろう。文藝春秋本誌十月号、真神博氏の報告によれば、この二重体児が呱々の声をあげた時、母親と、介助の産婆は失神、周囲の者が病院へ運んで生命をとりとめたという。産婆が気丈であれば、殺したに違いない。
日本ではなおのことだ。超未熟児を、立派に育てる技術を持つ、わが産科の吊医たちなら、二重体児を育てることはしごく容易であるはず、にもかかわらず、生れたという噂すらない。このケースがきわめて特異なもので、観察、研究の対象となるのなら、生かされるだろうが、二重体児についての解明はとっくにすんでいる。
伊弉再両尊の第一子は、胞状鬼胎風で、これから海山の恵みが生じたことになっているが、つい近頃まで、下下の方では、おおむね奇型児は、悪い血筋、親の因果、さては何かの祟とみなされ、当人はもとより一家眷族にまで白い眼が向けられた。
自宅産がふつうだった頃、赤ん坊を取上げる産婆は、この事情をよく心得、すべてを自らの胸三寸におさめて処置したらしい。あくまで、眼で確かめられる奇型の場合だろうが、特に旧弊な考え方の遺る田舎だけのことじゃなく、都会でも行われていたと思う、ぼくは神戸で育ったが子供の頃、その手段について、老人がしゃべるのを聞き、かなり怯えた覚えがある。また、産科の医師も、いわず語らずのうちに配慮した、新生児は、寒さに弱い生きものだから、放置すれば肺炎を起して死ぬ、どこまで本当なのか、夏ならクーラーの前に放置すればいいという。△129
この場合、母親になんとつげるのか、死産でしたといって、赤ん坊の姿をいっさい見せずに始末して済むものなのか、産科の医師に訊いてみたが、それこそ、奇型であろうと、脳障害が予想されようと、産れて来た生命は、何ものにもかえがたいという公式見解が返ってきて、ただ、病院としては、たてつづけに奇型が産れたというような評判が立っては、困ると洩らす者がいた。
大人が生殺与奪の権を握っている
現在、奇型は悪い血筋、即ち遺伝じゃないとされているが、それでも、この出生によって、夫婦仲はともかく、それぞれの実家が、うちの家系にそういう因子は無いはずと、いぶみ合うこともあれば、まるで方向により吉凶を占う如く、奇型の生れた産科病院は、妊婦に忌避されることが多いのだ。生命は尊い。以前なら、確実に死んだ超未熟児も、現在は、ちゃんと成育する、その技術が確立されている、もっとも、その過程では、育ったものの、ハンデキャップを背負う例が少くなかった、そして、各病院では、いかに未熟な赤ん坊を、生かしつづけたかと、競い合う傾向がみられた。昔、いろいろいわれた口蓋裂、また、多・少指も、当節、しかるべき手当てによって、特別視されることはない。医学の進歩とあいまち(原文ママ:引用者注)、世間の偏見が、少しずつだがうすれつつあることは、まことにめでたい。
しかし、もう少し深刻な奇型、たとえば、無脳、無眼、単眼症の場合はどうなのか。
無脳症の新生児の写真をみたことがめる。赤ん坊は、大体オデコだが、その額の半ばほどで、すっぱり切り取られた如く、上が無い。ほぼ平らなその頂部の中央に、カサブタの如きものがみえて、脳の基底部だという。生後二、三時間から半日生きていたそうだが、生れながらにして脳死の、この赤ん坊を、まさか生命維持装置によって、一週問ほど生き延びさせることはあるまい。無脳ではないにしろ、生れつき、またお産のトラブルによって、呼吸機能だけしか働かない、いわゆる椊物状態の新生児も出現する、この場合も、消極的に殺す。栄養を補給しなければ、死ぬ。無眼、単眼症はどうするのか、他にも障害を持っていて、まずは生きられないというけれど、生命の尊厳をいい立て、頑張れば、学齢期くらいまでは、生存が可能かもしれない。ぼくのみた限り、単眼症の赤ん坊は、よく肥っていて、「一つ目《である以外、何の障害も無いように思えた。世の中に、片方の視力しか働かない人は、いくらもいる、単眼だって、べつにさしつかえはないだろうが、この赤ん坊を生かす努力はしない。
小頭、水頭、脳へルニヤの場合は、生かす。どうも、「生かす《の「殺す《のと、物騒なものいいだけれど、人間の赤かす《の「殺す《のと、物騒なものいいだけれど、人間の赤ん坊は、とにかく大人の、懇切きわまる看護婦が無ければ、生きられない、通常の病気なら、本人の気の持ちようというこ△129 ともあるが、新生児の場合は、大人が生殺与奪の権をにぎっている、赤ん坊が自主的に、「生きた《とはいえないのだ、あるいは「死んだ《とも。
社会に、福祉制度が整い、医療についての備えがあり、さらに親にゆとりがあるなら、この三つの例、いずれも頭に関係する故ならべただけで、小頭症と脳へルニヤはまるで違うけれど、ちゃんと生存し得る。
小頭、水頭症の、大人についての記憶はないが、子供だったぼくの眼からみて、オニイちゃんの年頃の者を、戦前はよく見受けた。大袈裟にいえば、町内に一人くらいいて、「バカ《「アホ《あるいは、誰がつけたというのでもないニックネームで呼ばれていた。ひたむきな感じで、足早やに歩いていたり、夕暮れ刻、手をパチンパチンと打ち鳴らし、深刻に考えこんでいたり、特にいじめた記憶はない。むしろ、一種の感動を与えた。大人にも、お祭りの時だけ人気者になるバカがいたが、どうやらこれは脳梅毒の末期だったらしい。
現在の社会の仕組みに上適合な人間、だから弱者といわれる人たちと、一緒に生きなければ、強者とみなされる手合いにも、歪みを生ずるという。判るような気もするが、言葉通りに受けとれば、これも強者に都合のいい理屈に思えるのだけれど、とにかく、昔は、バカがふつうにいた。
身体障害者にしたってそうだ。現在、差別のあらわれとみなされる呼称によって、呼ばれる連中が、日常茶飯のこととして、風景の中に存在した。それこそ一緒に生きていた。建前としての福祉を、ヤユするのではない、昔に較べりゃ、今の方が、障害者にとってずっといい世の中である。ただ、感傷的にいうだけのことだが、一緒に生きるということなら、ぼくの知っている昭和十年代前半の方が、メクラやイザリ、あるいはバカが身近かにいた。ハンセン氏病患者は、神戸で「片居《の訛りだろうがカッタイと呼ばれ、大きな寺院の門前に、物日だけのことだが群れていた、その姿に怯えるぼくをせっついて、祖母は金を与えさせた。いろんな乞食が家へやって来た、今、思いかえすと、時代劇のシーンの感じだが、厨子を背負った六部、虚無僧、メンツウとかいう箱に御飯を貰い歩く母子、シベリヤ出兵の癈兵もいりゃ、白系ロシア人の羅紗売りもいた。小学校にも、いまだに同級生の記憶に残るバカが、まさに洟を垂らし、頭にシラクモをたからせて、それなりに頑張っていたのだ。
母親は、ほっとするんじゃないか
福祉の充実した只今、こういった人たちを、まったく見受けぬ、歩道に盲人用のイボイボはあり、車椅子の便をはかって、まこと上備ながら、心掛けているのに、昔にくらべて、上具者の姿を、街中に見受けぬ。数として減っているわけはない、どうやら、閉じこめてしまっているらしい、奇型児についての迷妄は、少しうすれたかもしれないが、体のどこか缺陥を有することについての、漠然たる差別意識は、昔よ△130り強いように思える、差別というありきたりの、いいかたでは、表現しきれないま感情を、今の世間は先天的、後天的いずれの奇型にもいだいている。
農耕時代に、奇型は、生産にたずさわれなかったから、あるいはおとしめられ、また、奇型に聖性を認めて、あがめまつることもあった。明治以降、男の奇型は軍人になれず、女の場合は、子供を産めない体だから、さげすまれた。現在は、奇型だからといって、ことさら差別はされない、制度によって保護されてもいる、しかし、働けない、軍人に上向きだからと、理由のはっきりしていた時代より、今の方がなお、絶対差別の感情が世間にある。
新潟三区で、うろうろしていた頃、障害を持つ母親たちの寄合いによく出た。常に、半ばほどは、かなり成長した子供を膝にかかえていて、はじめ少し途惑ったが、すぐその光景になれた。十五、六歳と思える、どういうわけかすべて男だったが、子供をあやす母親の表情は、慈愛と自負に溢れていた、この母子の生きかたについて、とやかくいうことはできない。
脳に障害のある子供の人生がどんなものかといったって、たとえば母親の顔を身近かにした時の、その安堵感、満足、さらに充足感は、少くともぼくなどの明け暮れには、まったくかなえられぬ密度の高いものかもしれぬ、何をいってるのか、ぼくには聞きとれぬその口調にしろ、そもそも言葉とは何なのかと考えれば、母にだけ通じてりゃ十分、ふつうの人間は、ついに誰一人にも理解されない符牒をしゃべっているだけかもしれない。しかし、このあたりが変死派なのだろうが、この子供が、病気、あるいは事故で、死んでしまったら、母親は、ほっとするんじゃないかなと、考えた。変死派のなどと、特別めかしたが、子は三界の首っ柳といういい方もある、ごくふつうに育つわが子に対してだって、こんな風にうと思うことはあろう。
ただ、障害のある子供の母親は、しばしば「この子を殺して、私も自殺しようと思った《という。これは一種の常套句で、そう深刻に聞くこともないが、この場合、「自分が死んだ後、どうなるのかと思うと《がつく。子供は自立できない、制度としての、福祉なり何なりはあっても、言葉の通い合うのは自分しきゃいないと、母親は考えている。母親にとってみりゃ、子供は胎児同然なのだ。
母親たちが、ぼくの許によくやって来たのは、施設、これに準じるものを、もっと町中につくってくれと、わが政治力を過信して、一種の陳情なのだが、もとよりそのカはない。
その話を聞くだけで、きけば障害児が生れたために離婚のケースがまことに多い、あるいは逆に、子供のためだけに生きる、なにやら宗教家みたいになってしまう例もあると知ったが、すべて、この子供がいなきゃ済むという、当り前のことを、ぼくは考えていた。「自分も自殺《というのは付け足しで、子供を殺したいのだ、その気持はよく判るなどとはいわ△131 ないが、朝にタに、死んでくれと思い、そう思ったことを罪深く感じて、母親はなお子供をいつくしむのだろう。
ダウン症の場合、妊娠中に、検査で見分けがつく。優生保護法の規定外で、公けに中絶はできない。生れる前から、選別することはいけないというのだ。しかし、これは、法律うんぬんより、母親の意志にまかせるという、ごく当然のことでいいのではないか。ヒューマニズム、生命の尊重という化物が、当節はびこっていて、奇型児、ダウン症の生命も、地球より重いという、だが、母親の以後の人生は、きわめて、撰択の幅がせばめられてしまうのだ。母親の人生はどうなってもいいというのか。
あるいは、子供の立場で考えてみろ。かの二重体児は、病い篤かった一人が、危機を脱し、当分は生き長らえるらしい。生命は保ち得たものの、多分に椊物人間となる可能性があって、すると片方は、これから先き生ける屍と共生の事態になる。人間の成長はことほぐべきことだが、この二重体児の場合どうなのか、ぼくの想像力が貧しいせいだが、やがて思春期となった時、いやその前に、自分というべきか、自分たちというのが正しいのか判らないが、周辺の大人と較べて違うことを認識した時、いかなる想念が彼等の脳裡に浮かぶのか、考えにくい。
べトナムの医師たちは、二重体児を生かすべく、懸命に努カした。その努力を支えるものの中に、アメリカの、枯葉作戦に対する怒りもあったろう。この作戦の実施された地域に、奇型が異常に多く発生しているのだから、因果関係はある。放射性物質と癌の発生に似ていて、現在の科学では、立証できないだけのことだ。
二重体児が元気に育っていることは、べトナム医学陣の輝かしい成果なのかもしれない。しかし、あの老看護婦の表情に、ぼくは勝手な想像をしたが、医師たちは、しかるべき時期における、つまり、六歳の今頃、自然死してくれることを、ねがっていたのではないか。
ヒューマニストの逆鱗にふれるだろう
中曾根首相も含めた、ヒューマニストの逆鱗にふれることを、ぼくは述べているわけだが、二重体児にとっての幸せは、「生れてこないこと《そしてこのことに大人たちが気がつけば、「殺すこと《だったと思う。お腹の中の赤ちゃんが、ダウン症であったら、中絶することだ、ダウン症に限らないと、ひやかされそうだが、彼等が生れて、あえて断定しておくが、どういうよろこびがあるというのか、当人にしても、親にしても。
奇型、あるいは弱者、今の社会に適応しにくい人間、また、生産活動と関わりのない者を排除する考えは、ナチスと同じと、いわれるかもしれない。レッテル貼りは、それなりに有効だから、そうきめつけてもらってさしつかえない。べつに開き直ってるわけじゃなくて、たとえば、御当人の無知△132 故か、生活苦なのか、ただだらしがないのか、絶え間なく妊娠し、計九人の子供を産み、そのすべてを殺して、新生児の死体と一緒に暮していた母親、こっちの方が、よほどまともに思えるのだ。今の法律に問われるのはいたしかたないとして、産んだものの、とても育てられない、だから殺したというのは、筋が通っている。成長しても、ロクなことにはならないだろうと、判断したのなら、これに誰も文句はつけられない。あるいは、産んで育てた、自分で歩けるようになったらほったらかし、子供たちは兄弟で窃盗団を組織、自らの食い扶持をまかないつつ、母親にプレゼントもしていたという母子もまた、根源的に正しい。この母なら、かりに奇型が生れたら、濡れた和紙でも赤ん坊の顔にあてがい、片手拝みに菩提を弔って、さっさと忘れ、朝飯の仕度にとりかかりたろう。
奇型をことさらにいうようだが、二重体児は一つの象徴であって、枯葉作戦の被害を受けたべトナムと、同じような環境が、今の日本に出現しつつある。それが何によるものか、催奇率の異常な上昇と、どうやら結びついているらしいダイオキシンは、われわれの生活環境の中に、しだいに蓄積されるらしいし、食品添加物の増加と、奇型発生の因果関係も認められている。わが国では、旧来の弊習が、牢固としてあり、故に奇型の報告が正確になされくいないが、産科の臨床医にきけば、明らかに増えている。
各種各様の奇型が、地に満ち世に溢れる世の中だって、さしつかえない。また、彼等が増えた場合、豊かなるべき社会の足をひっぱるから困るとも考えない。そんなことにはなりっこない。二重体児が一万人も発生すれば、いかに人道主義の中曾根首相だって、シカトきめこむに違いないし、そうしなければ、とても宰相の座にはいられないだろう。
お上の方から、やがて、奇型は抹殺すべしという大命令が下る。その時、ヒューマニズムはふっとんでしまう。今こそ世間の方が、この間題について考えた方がいいのではないか。制度としての、福祉とか、医療保護とかは整えられているけれど、こんなのは予算のサジ加減でとうにでも変る、そして、こういうたけっこうな仕組みの整えられていなかった時代、ふつうの人と奇型、弱い連中は、うまく折れ合って生きていたが、今の世の中にそれはない。バカ、上具者をみる眼は、すさまじくきびしいのだ。そのくせ、海の彼方の、二重体児については、彼等の先きのことも考えず、べトちゃんドクちゃんとちやほやする。
産む産まないは、女性の勝手、そして、産んだ子供について、生かす生かさないは母親の自由な判断にまかせればいい。生命の尊重など、男の甘えであろうか母親の嬰児殺しを、誰が非難できよう、母子双方にとっての、緊急避難ではないか。それとも、二重体児が生れても、神からの授かりもの、太郎、次郎などと吊づけ、この子の将来は漫才師になるといい、気が合ってうまくいくと、タフに考えることができるのか。△133 赤ん坊の奇型は、まだ稀だが、はるかに多い確率で、人間はボケる。これもまた奇型であろう。
ぼく自身が、そろそろその年齢に近づきつつあって、ことさら意識するのかもしれないが、ボケと、差別的に呼ばれる、老人の状態は、きわめて悲惨である。その実態をかいま見て、ショックを受けたわけじゃなく、ぼくの父親が最後はこの状態だったし、以後、老人専門の医療施設を、傍観者として時に見学した。
よくいわれることだが、このての施設は、現代の姥捨て山であり、住いに、一人寝かせておくゆとりがない、看護の手がないとかの理由で、老人が送りこまれくくる、世話をする人たちの、獅子奮迅ぶりをみていると、これはもう感動するだけだが、老人の立場で考えてみれば、かなり疑問を覚えるのだ。
生死の問題は「個人《にとりもどせ
ぼくは今のところ、肉体的にはボケていない。精神面については自信がないものの、ふつうに生活はしているつもりだ。だから、ボケ老人の気持など判らず、こっちの考えを強制的に押しつけていることになるが、ボケのボケたる由縁、これにもいろいろ程度があるけれど、さまざまに露わとなしつつ、ただ食べて、排泄するだけの存在を、永らえさせておくだけが、人の道なのか。
当人にほとんど識別が上可能であっても、これは、やはり肉親が面倒をみる、そして手に余ったら殺す。深沢七郎氏の「極楽まくらおとし図《は、少しむつかしいだろうけど、今は、いろんな麻薬がある。なにも、若者たちが法をくぐっての、一時の陶酔に供するだけが能じゃない。姥捨て伝説は、大体、息子が母親を背負って、山に登ることになっているが、これはやはり男が手がけるべきだ、女より思いきりがいいというより、その時期を冷静に判断できると思う。
現在でも、一種の安楽死は実行されている、終末期の患者の苦しみをやわらげるため、延命の点ではマイナスの、麻薬が射たれるし、いたずらな生命維持の仕掛ける、ほどよいところで取外される。ボケは病気とはいえない、しかるべき看護、それはもっぱら、食事、下の始末、監視だが、きちんとすれば生き永らえる。この老人に、べつだん苦しみを除去するためでなく、当人が進んで求めるのでもない麻薬をほどこし、死期を早めるのは、殺人にちがいない。
盛りの頃がどうであれ、年老いて、醜悪無惨な姿をさらす老人に対し、非情の慈悲というのでも、また、急速に老齢化の進む我が国において、ボケが増えたら、面倒見きれなくなるという理由でもない、老人に関する予算が、国の収支をおかしくするようになれば、まっ先きに、切り捨てられるはずで、この心配は無用である。△134
老人の知恵を生かすといったって、ボケの場合無理だろう。「お年寄りを大事に《など、そらぞらしいことをいっても、現実はまるで違う。大事にするというなら、病院へ放りこまず、自宅で面倒をみる、そして、手に余ったら、子供の手で殺す。殺すといういいかたに抵抗はあるだろうが、しかるべく医師によって調製された薬を、ほどこす分には、老人にことさらな苦しみもないし、きわめて効果は緩慢、一種の衰弱死をとげる。
奇型の子供、あるいは成長したところで、幸せになれない、このいいかたはきわめて曖昧だけれども、母親がかく判断した時、子供を殺す。親がボケてしまい、このままでは一家共倒れと思えたら、子供がしかるべく殺す。即ち、病院にはまかせない、自分の判断で行い、このことについて他人は、いらざる差し出口をしない。
かくする時は、生命を軽視する風潮を生じ、強者のみが世にはびこる時代となるとの叱責があろう。この説に対して、ぼくは反論することができない。しかし、ぼくたちの時代が、科学技術の進歩のおかげで、以前なら、死ぬのが当然だった奇型を、一方で続々と産み出し、かつ生き永らえさせている。ボケ老人についても同じ。昔なら、老人にはそれなりの役割が与えられ、ボケずに済んだろうし、ボケと死はほぼ一致していたように思う。少くとも、ぼくの子供の頃、このての老人はいなかった。
べトナムの二重体児は、その医療スタッフの努力は認めるけれど、結果的には見世物になっている。米軍の残虐な作戦をしめす、現の証拠であり、かつ、ダイオキシンのもたらす影響について、ほんの一瞬だが、日本のTVの視聴者を考えせしめた。それにしろ、べトちゃんや、ハイハーイという靖国神社例祭の、因果ものと、大差ない。この二重体児を産んだ時、産婦も産婆も失神した、そのまま放置すれば、彼等は死んだ。それが、とりあえずの自然ではないのか、枯葉作戦が、非道きわまりないことはよく判る、ベトちゃんドクちゃんは、その犠牲者として、死産でよかった、他の、いくらもいるはずの、棄てられて世を去った二重体児と同じように。
現代日本人は、異常に死を怖がる。よくいえばデリケートである、癌の告知を考えてみても、われわれの反応は特異であるらしい。誰だって死にたくない、死を身近にしたくないにきまっている。ましてや殺したくない。しかし、親として、あるいは子供として、このことを覚悟する必要があるのではないか。とても育てられないと、産まれた赤ん坊の首を絞め、山に埋め川に流した母親、また、背負いこに、老いた母をのせて、棄てに行く息子の事情は、旧弊の、貧しかった時代だけのことではない、「死《がこわくて、あえていえば、ヒューマニズムにとらわれて、目をそむけ、他人まかせにしているだけだ。他人というよりも国家である、生死の問題は、個人にとりもどした方がいい。
再録:中村 亮太
UP:20150227 REV: 20170824
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障害者(運動)と安楽死尊厳死
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