◆椿 忠雄* 198207 「イエスの癒し――意志と信仰のはたらき」,『婦人の友』1982-7
 *東京都立神経病院院長

聖書にきく
 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、あたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
 ヨハネ福音書五章五―九

ベテスダの池と病む者
 このいやしの物語は、ユダヤ人の祭のさなか、イエスがエルサレムに上られた時、羊の門のベテスダと呼ばれる池の畔でおこった話である。
 聖書の記述では、「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かす」(ヨハネ・五章四)とあり、これは現在の科学的解釈からすると、間歇泉であったのであろう。この池のまわりには長い間病いに苦しむ「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者がからだを横たえていた」(同三節)。なぜかといえば、「水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていてもいやされる」(同四節)と信じられていたからである。
 水の動いた時、すなわち間歇泉の湧き上った時の光景を想像するのは苦しいことである。誰でも病いのいやされる機会を待っているのであるから、我さきに池に入ろうと争ったと思われる。このような状態では、最も病いの重いもの、盲人などがまっさきに池に入ることは不可能であろう。家族がいて、抱きかかえて池に入れてもらえるような病人には、まだ救いの望みがある。しかし、この物語に登場するのは、三十八年のあいだ、病気に悩みつつ横だわっていた人である。その不自由な身を助けてくれる身内も、友人もなかったにちがいない。「水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」(同七節)ということばはそれを示している。この池のまわりの病人のなかで最もやつれはて、しかも孤独の中に打捨てられたその病人の前で、イエスは足を止められた。
 「なおりたいのか」イエスは声をかけられた。恐らく、かつてそのような経験のなかったこの病人は、驚きと願いに胸をおどらせたであろう。水が動く時に自分を池に入れてくれる人が、ついに現われたかと。しかし、イエスはいわれた。
 「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と。そして、この人はすぐいやされたのである。

イエスと病者
 私は医師である。それ故、聖書の中でも病気やそのいやしの部分には、特に深い感銘を覚えるのである。私の専門領域では、なおりにくい病気も多く、これらの病気の患者さんたちにどのように対処すべきか、常に悩んでいるのである。
 あなた方、読者の中にも、また近親者などに、このような難病に苦しんでいる方がおられるのではないかと思い、胸が痛むのである。
 さて、先程の話にもどり考えてみると、その人は、いつかは自分もまっさきに池虻はいれることを、期待していたのであろう。しかし、このような未来への漠然たる期待は実現しないまま、長い月日が経った。
 イエスはこの人に、「なおりたいのか」と問いかけておられる。なおりたいに決まっているので、この問いは意味がないように思われるかもしれないが、イエスがあえてそれを問われたのは、自分の積極的な意志として、なおりたいと思っているのかの問いであったと思われる。この人は、運がよければ池に入れる、病気が治るということを期待していたのであっても、イエスの言葉は、この人が自分の意志の働きで、起き上ることも、床をたたむことも、歩くことも出来るということである。

愛のわざと信仰と
 イエスは数多くの病人をいやしておられる。イエスは愛の業(わざ)として多くの苦しんでいる人を救われたことは確かであり、私ども医療従事者も、愛の業として医療を行なわねばならないことは当然である。しかし、聖書のヨハネ福音書第五章にみられるのは単なる愛の業ではなく、それは信仰に結びついたものでなければならないことを教えるのである。先に私は病者自身の積極的な意志とのべたが、イエスに呼びかけられたことで、自分の病い、弱さにとらわれた考えから、意志、また信仰への道をその人は見出したのであろう。そうでなければ、この間の飛躍が説明できない。
 イエスのいやしの中には、イエスの愛の業とともに、患者側の信仰という二面が存在しており、この物語は、この後者(信仰)の部分が大きい。愛の業としてのいやしであるならば、この一人の病人だけでなく、池のまわりの沢山の病人のいやしがあってよいと思うのである。
 医療に従事するものは、愛をもって病者に接しなければならないことは当然であるが、それだけでは病いはいやされないことがあることを知らなければならない。
 医学は自然科学の一部門と考えられており、これは誤りではないが、一方医療は単なる科学ではない。例えば、同じ病気で全く同じと思われる状態の二人の患者に、全く同じ薬を与えても、一人はいやされ、一人はいやされないということがある。これは科学的に説明される場合もあるが、必ずしも説明されるとは限らない。

三つのエピソード
 今から四十年も昔の私の学生の頃、岡治道先生という結核の病理学者でありながら、臨床の大家であられた先生がおられ、その講義をきいたことがある。当時は、現在のような有効な化学療法はなかった。先生が、「悟った坊さんは結核では死にません」といわれたことは、今でも忘れられない。その後、長い医師の経験で、この言葉の、味がよく理解された。
 何年か前、イラクでメチル水銀の大きな集団中毒が発生したことがある。これはメチル水銀に汚染された小麦粉でつくったパンを食べたためであるが、都会地よりも農村地帯の患者の方が、予後がよいことがわかった。研究会では何故そうなったかの討論が行なわれたが、イラクの学者は「農村の人人は信仰があつく、神から与えられたものを食べて発病したので、誰をもうらまないが、都会の人々は信仰がうすいからである」と主張した。この説の学問的根拠には問題が残るとしても、イラクの学者がそう信じていることは、疑いないように思われた。
 次の話は私個人の患者のことである。ある日、一人の患者から突然舞いこんだ手紙である。「ぼくは九年前、先生にごしんさついただいた、Hというものです。あのころは一言もしゃべれなく、一歩あるくのも不自由なからだでした。しかし、先生のあの『必ずなおります』という言葉を信じて、九年間、必死の努力をして参りました。今では言葉もまともにしゃべれ、歩くことも、走ることも、自転車に乗ることもできます。また目も、だんだん見えてきました。(以下略)」
 この患者は、重症脳炎を経過した患者であった。この患者を支えてきたものは、「必ずなおる」という信念であり、信仰とは別次元ではあるが、医療が単なる自然科学では律せられないことを示すものであろう。
 イエスはしばしば、「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ・九章二十二ほか)といわれているが、私ども医療という業務における信仰の意義が、いかに大きいか知らされるのである。

病いのいやしと罪の赦し
 ここではじめの話に戻ろう。病いをいやされた人は、再びイエスに会うが、イエスは彼にいわれる。「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」(ヨハネ・五章十四)。
 イエスがこの世に来られたのは、罪の赦しであり、病いをいやすことではなかった。この人が、病いのいやしに満足し、罪の赦しによる永遠の生命を求めなければ、もっと悪いことが起るかも知れないといういましめを、イエスがしておられるのである。表面的な病いのいやしに満足していることは、許されないのである。イエスのいやしは、単なる肉体のいやしではない。
 最後に蛇足であるが、一言つけ加えたい。病いをいやす目的で周辺に人々が群れていたベテスダの池は、今日の社会の一面を象徴していないだろうか。現代の社会には、よりよい地位、より多くの富を得るための池があり、争ってその池に入ることを望むという傾向はないだろうか。
 池に人ることよりも、もっと大切なこと、あの三十八年の長わずらいの人の体験を、もう一度、噛みしめたいと思うのである。」