華青闘告発
last update:20211108
■目次
◇紹介
◇文献
◇引用
◇中核派機関紙『前進』における記述
■紹介
華青闘告発(かせいとうこくはつ)は、日本の新左翼運動における出来事である。1970年7月7日に起きた出来事であるために、「7・7告発」とも呼ばれる。
「華青闘」とは華僑青年闘争委員会の略称である。同委員会は日本在住の華僑らが結成した組織である。
華青闘告発は、新左翼党派がマイノリティ運動に力を入れる契機であったとする主張がある。一方で、その見方を批判する指摘もある。
紹介作成* 山口 和紀
■文献
◆楠敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p.,ISBN-10: 4806801895,ISBN-13:978-4806801894,1600,[amazon] ※/杉並369
◆すが秀実 2006「1968年」,ちくま新書:193.
◆スガ 秀実 20061010 『1968年』,筑摩書房,ちくま新書,302p. ISBN-10:4480063234 ISBN-13: 978-4480063236 \924.
◆廣野俊輔 2009「『青い芝の会』における知的障害者観の変容:もう一つの転換点として」.社会福祉学, 50(3),18-28.
◆外山恒一 2017「良いテロリストのための教科書」, 青林堂.
◆外山恒一 2013「外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回)」.[外部リンク:外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回)]
◆山本崇記 2020 『運動的想像力のためにー1968言説批判と〈総括〉のゆくえ』, 大野光明・小杉亮子・松井隆志編, 「1968」を編みなおす, 新曜社.
◆猛獣文士 2001「七・七集会における華青闘代表の発言」.[外部リンク:七・七集会における華青闘代表の発言]
◆Wikipedia 「華僑青年闘争委員会」.[外部リンク:華僑青年闘争委員会(wikipedia 事項)]
■引用
◆山本崇記 2020 『運動的想像力のためにー1968言説批判と〈総括〉のゆくえ』, 大野光明・小杉亮子・松井隆志編, 「1968」を編みなおす.
作品社の『1968』の編者であり、「1968」周辺に関する議論を牽引してきたのもすがである。特に、被差別部落をはじめとしたマイノリティと絡めた言説は重要であり、また問題がある。そうであるからこそ、俎上に載せる必要がある。それが、「7・7華青闘史観」の問題性である(山本 2008)。確かに、この時期の社会運動史のなかで、「華青闘」や入管体制の問題は十分に言及されていない。それ自体は不十分なことであるだろう。(p.10)
改めて、日本社会におけるマイノリティ運動を、一九七〇年の7・7華青闘告発に還元させるような言説はまさに、切断の思想と言え、運動的想像力を換気するという目的からすれば、徹底して排さなければならないものと言うべきものである。(p.12)
◆すが秀実 2006「1968年」,ちくま新書:193.
六〇年の安保ブント以来、日本の新左翼は、ソ連共産党(あるいは、中国共産党)に代わる、「歴史」の(つまり世界革命)の最前衛であり「主体」であることを自任してきたはずであった。それが日本の新左翼の、かけがえのないアイデンティティーであった。華青闘告発は、そのようなナルシシズムを完膚なきまでに打ち砕いてしまったのである。
それに代わって多種多様なマイノリティーあるいはサバルタンと呼ぶべき、不可視だった存在が「歴史」の「主体」として浮上してきた。日本という狭い領域に限っても、「在日」中国人・台湾人、「在日」韓国・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ、琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等々、そして何よりも女性が、それである。彼ら/彼女らが、七・七を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきたのだ。
◆廣野俊輔 2009「『青い芝の会』における知的障害者観の変容:もう一つの転換点として」.社会福祉学, 50(3),18-28.
引用文中の「7 ・7 華青闘告発」とは,1970年7月7日に新左翼の学生が華僑に関する差別的な発言をしたとして告発される事件である.すがも述べているようにこの事件は直接の契機であって,社会変革を企図する主体が実はマイノリティの問題を射程に収めきれていないという問題や実は自らの差別性に気づいていないかといった問題提起は,1960年代後半から社会運動のなかで意識されていく.(p.25)
◆外山恒一 2013「外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回)」.[外部リンク:外山恒一の「学生運動入門」第6回(全15回)]
ノンセクト優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」を実現したかに見えた日本版「六八年」の全共闘運動も、後退ムードの中で党派政治の復活を許し、元の木阿弥となりそうな気配が濃厚でした。そこに勃発したのが「全共闘運動のターニング・ポイント」として私やすが秀実氏が強調する「華青闘告発」事件です。七〇年七月七日の出来事で、「七・七告発」とも呼ばれます。
「華青闘」というのは正式名称を「華僑青年闘争委員会」という在日中国人のグループです。七月七日は中国に対する「日本の侵略戦争」の発端とされる盧溝橋事件(一九三七年に起き日中戦争に発展)の記念日で、この日に合わせて「全国全共闘」や「華青闘」などいくつかの団体の共催で反戦集会が予定されていました。ちなみに「全国全共闘」とは、そもそも各大学で個別に勝手に展開されていたはずの全共闘運動を一つの統一された勢力にまとめ上げるために六九年夏に結成されたもので、要するに闘争スタイルとしての全共闘の画期性を無化し、のちに「全共闘運動の事実上の終焉」とさえ評されることになる、もちろん党派主導の組織(というか諸党派の政争の場)です。
ところが開催当日までの議論の過程で複雑な経緯があり、結果として華青闘は共催の立場を降りてしまいます。そして開催当日、華青闘のメンバーやその支援(日本人)学生たちは開会前に壇上を占拠し、日本の新左翼運動総体、とりわけ新左翼諸党派を激烈に糾弾する演説を始めるのです。それは、日本の新左翼運動がうわべでは「侵略戦争反対」などと云いながら、実態としてはいかに在日中国人や在日朝鮮人などの反差別運動を軽視し、時には結果として敵対するような言動を繰り返してきたかを徹底批判する内容でした。諸党派による全共闘運動の引き回しに嫌悪感を募らせていたノンセクト・ラジカルの学生たちもこれに同調し、党派主導の予定調和の反戦集会になるはずだった「七・七集会」は新左翼諸党派に対する糾弾集会と化してしまったわけです。各党派の指導者たちは壇上に引き出され吊るし上げられて、最終的には「坊主懺悔」的な自己批判を余儀なくされました。
諸外国のそれと同様、ここにようやく、「六八年」におけるノンセクト・ラジカルの優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」が、日本の運動の文脈でも決定的となったのです。
◆外山恒一 不明 「私と全共闘」[ 外部リンク: ]
私の理解では、60年代後半の高揚期から70年代前半の停滞期へと、全共闘運動が移行するターニング・ポイントは、70年7月7日の「華青闘告発」である(念のために云っておくが、スガ秀実がこの事件について盛んに論じ始める以前から私はそう理解していた。さらに云えば、スガはそれを全共闘運動が決定的に変質するターニング・ポイントであるとは云うが、別に「停滞期への」それであると云っているわけではないのだから、ニュアンスは少し違う)。
◆外山恒一 202191112 「すが秀実『1968年』超難解章“精読”読書会(2017.4.9)その6」, note. [ 外部リンク:]
じっさい他の西側先進国では、華青闘告発のような明確な分岐点があるかどうかはともかく、やっぱり“68年”の一連の過程でさまざまなマイノリティの運動が前面に出てきて、それがやがて「ポスト・フォーディズムの時代におけるグラムシ主義」(281ページ)たるネグリ&ハートの“マルチチュード”路線となって現在に至る。しかし日本の新左翼運動においては、“68年”以前の段階で、グラムシ路線=構造改革主義が否定されていた、と。そういう特殊な歴史的経緯があって、華青闘告発をどんなに“真摯に”受け止めたとしても、グラムシ主義に転換するという方向は、日本の新左翼にはあらかじめ閉ざされていたわけですね。だから“華青闘告発以後”の運動を非グラムシ的に、つまり引き続きレーニン主義的に展開するにはどうすればいいのか、というそもそも無理スジなテーマ設定をせざるをえなかったという、そういう事情も“内ゲバの常態化”の背景にはある、とすがさんはどうも云ってるみたいです。
◆芝田秀幹 201903 「「沖縄闘争」研究序説 : 1960年~祖国復帰の「沖縄」を巡る学生運動」, 沖縄法学 (47), 31-80.
「ところで、沖青委が分裂した翌月の1970年7月、「沖縄」に対する新たな視点を供し、「マイノリティ」系沖縄新左翼の成長を促す事件が本土新左翼の側で発生した。それが、華僑青年闘争委員会(以下、華青闘と略記)による「七・七告発」である。「七・七告発」とは、華青闘が日本の新左翼に対して1970年7月7日に行った批判であり、この告発によって沖青委海邦派が自覚・探究していた「沖縄的なるもの」や沖縄の独自性が、新左翼の闘争テーマとして本土新左翼の側から逆に示唆され、沖青委海邦派の主張がそれにより補強されることになった。 」(p.60)
※すが秀実の「すが」は糸へんに圭です。文字コードの関係で表記ができない場合があるためひらがなに置換しています。原文が「スガ」の場合は、ママです。
■中核派機関紙『前進』における記述
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「7・7集会に一万が結集」.『前進』, 0491号.
「『七・七芦(ママ)溝橋三十三周年・日帝のアジア才戦略阻止人民大集会』は日比谷野外音楽堂を満員に埋める一万の労働者、学生、市民を結集してかちとられた」
「さらに華僑青年闘争委員会からの特別発言、東京入管実行委横井氏の基調報告、全国反戦、全国全共闘、北部地区実行委の決意表明、東大実行委からの劉彩品さんを守るたたかいの訴えが行われ、最後に革命的左翼諸派から各共同北小路敏氏ほか八派の発言を受けた」
「集会の冒頭に司会から、山森発言問題(二めん)を中心に集会準備の過程についての経過報告が行われたが、ここでは華青闘の諸君が七・七集会実行委から退場するということをもってつきつけた問題を、全員が真剣にうけとめなければならない、ということが提起された」
「満場の注目のなかで登壇した華僑青年闘争委員会の代表は、きびしい口調で、これまでの日本の運動が自ら抑圧民族であることに無自覚であり、在日アジア人民のおかれているきびしい情況についてあまりにも無知であり、在日アジア人を防衛する闘いがあまりにも欠如していたことをきびしく糾弾する発言を行った」
「北小路同志の発言につづいて諸党派の発言が続いたが、華青闘の諸君がつきつけた問題にだれ一人として真正面からそれを受けとめ真剣に応えようとする党派は見られなかった。社青同解放派の代表は「われわれはそもそも抑圧民族でもなければ被抑圧民族でもない。帝国主義的労働監獄のもとにおける単一の階級である」などとアジア人民の反日(帝)闘争に公然とイデオロギー的に敵対する社民の本質をさらけだした」
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「日『華』協力委粉砕に立つ」.『前進』, 0491号.
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「今秋最大の闘争課題に設定し 六月を上まわる大闘争に起て」.『前進』, 0491号.
「集会は多くの曲折をへながらしかし一万の結集をかちとり、反戦・全共闘・市民の総体に対し、アジア侵略を公然と開始した日程の在日アジア人民に対する弾圧の激化と、帝国主義国人民、抑圧民族の一員としてのわれわれの責任の重大さをあらためてつきつけ秋にむけて入管闘争の大爆発を今から準備することの決定的な重要性を明らかにした。
しかし、同時に集会はさまざまな発言が示すとおり今日の革命的左翼の克服すべき問題を多くつきだし、入管体制粉砕に向って鮮明な方針を打出し、方針を全員に徹底させるうえで大きな混乱を示した。
われわれは、まずこの準備過程における同志山森の発言を自己批判し、集会がその目的を不十分にしか貫徹しえなかった責任をわれわれが負うことを明らかにする。別項の山森同志の華青闘に対する自己批判及び集会における北小路同志の発言で表明したとおり、われわれは、常に抑圧民族としての存在から自由でありえず、いかに帝国主義と闘い被抑圧民族への差別と抑圧に対して闘っていても、自らの内部に排外主義思想を許す弱さを持つことをあらためて自覚するものである。」
「集会の場において、はからずも暴露されたように、われわれと対立した諸派の多くの主張は実は入管体制とどう闘うか、など何の関心もなく、ただ自己の党派的ないし個人的感性を満足させ、セクト的利害を貫くための方便であった。しかし、今後の論争のためにその内容に則した批判を加えねばならない」
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「『七・七盧溝橋三十三周年、日帝のアジア再侵略阻止人民大集会』における革共同代表 北小路敏同士の発言」.『前進』, 0491号.
「(一)私は革命的共産主義者同盟を代表して、華僑青年闘争委員会からの提起を断固として受けとめ、日本帝国主義のアジア侵略を粉砕し日本帝国主義の打倒を闘いとっていくわれわれの固い決意を表明し、とくに、その闘いにとって重大な課題となっている入管体制粉砕闘争についてわれわれの断固たる闘争方針を明らかにしたいと思います。」
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「七・七集会における華青闘代表の発言」.『前進』, 0491号.
全文が下記リンクに掲載されている。
◆猛獣文士 2001「七・七集会における華青闘代表の発言」.[外部リンク:七・七集会における華青闘代表の発言。
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「山森発言に関する華青闘への自己批判」.『前進』, 0491号.
「七・七盧溝橋三十三周年、日帝のアジア再侵略阻止人民大集会の準備過程において、七月五日の七・七集会実行委員会の席上、華僑青年闘争委員会の抗議退場が論議の対象にのぼされた際、私は『いいじゃないか』『主体的に華僑青年闘争委員会が退場したのだから』と発言しましたが、これにつき次のように自己批判します」
◇革命的共産主義者同盟中核派, 19700713, 「七・七集会準備の経過とその問題点 いかにして集会はかちとられたか」.『前進』, 0491号.
■関西「障害者」解放委員会
◆楠敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p.,ISBN-10: 4806801895,ISBN-13:978-4806801894,1600,[amazon] ※/杉並369 d
「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の部落青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」(p.24)
「(4) 一九七一年一月をもって、入国管理法案国会再上程・永住権申請期限切れのせまる切迫した情勢のなかで、在日朝鮮人民による朝鮮籍への書きかえ闘争をはじめ果敢な闘いが展開されました。この入管闘争において、日本人の連帯闘争の質そのものを鋭く問う形で行われたのが、華僑青年闘争委員会による「抑圧民族のみなさん!・・・」の呼びかけにはじまる告発とつきつけでした。この「七・七盧溝橋事件三三周年・日程のアジア再侵略阻止人民大集会」での華青闘発言は、それ以降の反差別闘争のあり方を鋭く問うものとなったのです」(p.60,第2章注記)
「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」(p.24)
「『障害者』解放闘争の発展にとって少なからぬ影響をおよぼした新左翼運動は「障害者」自身が主体となるという意味を、再度、深く自らの運動の中に問い返すことが必要だと思います。したがって、以下に述べる中核派への批判は、中核派だけに限られたものではなく、「障害者」解放を担うすべての人々に考えていただかなければならない問題だと思います。その中で「障害者」自身が主体となる『障害者』解放闘争の路線と綱領を、闘いの中で創り出していくという大きな課題に挑戦していきたいと思うのです。」(p.51)
「いうまでもなく私たちは、『障害者』の現実に依拠しつつ『障害者』解放運動の独自性を断固として死守します。そして、そのことを踏まえつつ階級闘争、政治闘争の有機的結合を図るべきだと確信しています。また私たちは、今後ともいかなる党派の政治的介入に対しても断固として闘います。それは決していわゆる『アンチ党派』を意味するのであはんく、それどころか、私たちの原則を確認して献身的に「障害者」解放運動を担おうとする党派については、喜んで共闘していくつもりです」(p.54)
*作成:山口和紀