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「島田療育園」を尋ねて

重症心身障害の子らに灯を(特別ルポ)

水上勉 1963/08 『婦人倶楽部』1963-8:198-202

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水上 勉 1963/08 「島田療育園」を尋ねて――重症心身障害の子らに灯を」(特別ルポ),『婦人倶楽部』1963-8:198-202

三千枚のオムツ
 島田(しまだ)療育(りょういく)園(えん)。ここは、二重、三重の身体障害(しょうがい)の苦悩を背負(せお)って、一般の施設からしめ出しを喰いながら、辛(かろ)うじて生きようとしている九十九人の重症心身障害児が保護されている。この子供たちのために、日夜、聴診器(ちょうしんき)をはなしたことのない四人の医者と、一日に三千枚のオムツをとりかえる、ふつうでは想像されない過重(かじゅう)な日課をつとめる献身的(けんしんてき)な四十五人の看護婦(かんごふ)と、若干(じゃっかん)の男女事務員によって構成(こうせい)された小さな保護園だ。
 東京から車で、二時間もかかってようやく到着できる府中市(ふちゅうし)の、小さな山の上にあるのだが、療育園の建物は、川の字なりに三棟の白い病棟(びょうとう)と、それに付属(ふぞく)する賄場(まかないば)や事務室や、看護婦宿舎(しゅくしゃ)でなりたっている。
 玄関を入った時は、この中に九十九人もの心身障害児が保護されているのかと不思議(ふしぎ)に思われるくらい明るかった。山の傾斜面をえぐりとって、平地にならした約三千坪ほどの地めんに建てられた白い東屋(あずまや)(うち一棟は二階)の全景は、ふつうの病院のようには見えず、ちょっとした楽園のかんじがした。
 ところが、いったん病棟に入ってみたら、気の小さい参観者(さんかんしゃ)は、息がとまるほどの哀れな子供たちの病臥(びょうが)した光景が展開されていた。盲目、唖(おし)、小頭、大頭、テンカン、肢足不自由、脳性(のうせい)麻痺(まひ)、アザラシ状奇型児(きけいじ)。どうして、このような不具の子がこの世に生まれることが可能なのか疑いたくなるほど気の毒な子で充満していた。誕生日のこない赤ちゃんから、十八歳になっても起きあがることのできない重度脳性麻痺の少年まで、大体、十畳の間くらいに仕切られた病室に、所せましとならべられたベッドにくくりつけられ、じっと天井をみつめて、保護されている光景は無気味であった。
 部屋は喧噪(けんそう)だった。泣き声。わめき声。笑い声。それらは言葉を知らない重症児の喜怒哀楽(きどあいらく)の精いっぱいの表現だと理解できても、私の耳は凍(こお)った。眼がくもり、いたたまれないような衝動をおぼえて立ちすくんでいた。

こみあげてくる怒り
 ここは世の中から隔絶(かくぜつ)された業(ごう)苦(く)の宿命を背負った子の国だ。私は自分にいいきかせることによって次第に心を落ち着かせていった。
 六月十五日の午後、勇気を出してこの病棟を訪ねたのだった。勇気を出して、といったのはほかでもない。私の家にも腫(しょう)椎(つい)破裂(はれつ)による身障児がひとりいて、日夜、この子の看護のために、妻が疲れ切った顔をしているのを見ていたからで、そのような病苦の子が集まっている施設があると知ってはいても、これを観(み)にゆくことは、心が痛んで気がすすまなかったせいである。しかるに、本誌の編集部は、私にぜひともこの施設を観にゆけと命じた。
 <あなたは、つい最近、池田総理大臣宛に公開状(こうかいじょう)を出し、重症心身障害児の保護設備に関する政府の無策ぶりを衝(つ)かれた。大きく世間の注目をあびたではないか。問題の重症心身障害児施設を観て、どう思われるか。いちど観ておかれた方がこれからも何かと参考になるのではないか・・・・>
 という編集部のすすめる意図(いと)はわかっていたが、なぜだか、私の足はにぶっていた。<見なくてもわかっている。すでに、それらの施設の事情や、情況は、写真その他で拝見もしているしわかっている。とくに島△199田療育園の小林提樹(こばやしていじゅ)園長には会っていたし、療育園の経営の苦しいことも熟知(じゅくち)していた。この上、病棟に入って、みじめな子供たちを眺めて、私は何を得るだろうか。哀(かな)しみだけが、いやますにちがいない・・・・>
 私のにぶる重い足は、一病棟から二病棟、三病棟へと導かれゆくにしたがって、冷え、そうして、硬直(こうちょく)し、しまいには顔面がふるえた。
 それは怒りであった。そうだ。私は何しにここへきたのだろう。想像していたとおりの光景が眼前に展開され、想像したとおりの、子らの叫び声が私を打ったのだ。
 <水上さん。あなたは何しにここへきたのか。あなたはわたしらの苦しみが少しでもわかるのか。わたしらのかなしみが百分の一でもわかるのか・・・・>
 子の泣く声や、笑う声は私をそのように打ちのめした。そうだ。私は五体(たい)健康(けんこう)に生まれて眼前の子たちのような病苦の経験はない。それは、いくら私が努力したってわかるものではなかろう。かなしい子らに、私は呆然(ぼうぜん)と立ちすくんで我を忘れた。これが、この療育園を訪ねた私の所感(しょかん)のすべてだといってもいいかもしれない。

実状を知らない政府
 島田療育園は、国家によって設けられた施設ではない。困ったことながら、日本はこのような重症身障児の国営(こくえい)施設(しせつ)を一ヶ所ももっていない。島田(しまだ)伊三郎(いさぶろう)さんという篤志家(とくしか)によって、この山の上の傾斜面が開拓(かいたく)されて、小さな療育園が建ったのは昭和三十六年の春である。島田伊三郎氏は、自分にも良夫(よしお)ちゃんという身障児がいて、この子が十歳で死んだとき、わが国の重症心身障害児の設備の皆無(かいむ)に思いを馳(は)せ、私財を投げ打って、療育園の建設に手をつけられたのだそうだが、施設が不備ながらも、開園してみると、全国から保護してくれという身障児をもった父母たちが殺到(さっとう)したそうだ。政府が何もしていなかったからである。一民間人の篤志(とくし)行為(こうい)によって産声(うぶごえ)をあげたこの療育園に、他施設からの締め出しを喰った哀れな子供たちが、干天(かんてん)に慈雨(じう)を得たような思いがして入園希望を申し出た光景を想像すると、私は慄然(りつぜん)とする。
 <政府はいったい、何をしていたのか・・・・>
 日本には、民間人によるこのような施設は滋賀県に一ヶ所あるきりで、重症児の施設はほかにはない。厚生省は、全国に何人の重症心身障害児がいるか、その数さえ掴(つか)んでいない杜撰(ずさん)さを、私の公開状の返事で暴露(ばくろ)したが、おそらく何万人といることだろう。保健所や福祉(ふくし)事務所(じむしょ)や、その他の施設の窓口へお願いに出ても、二重、三重の病苦を背負った子は手がかかるということでしめ出しを喰う。親たちは泣きながら、自宅に置いて看病するしかないのである。これを潜在(せんざい)患者(かんじゃ)≠ニよびながら、厚生省は今日まで放置しておいたのである。これが文化国家の社会保障であろうか。怒りをおぼえるのは私だけではあるまい。
 しかし、重症心身障害児に対して冷たかった厚生省も、この島田療育園には、二年間にわたって、六百万、四百万と二度に分けて援助費(えんじょひ)をくれた。しかし、それは助成費(じょせいひ)ではなかった。あくまで、研究費(けんきゅうひ)というめいもくである。つまり、助成金とすると、これが毎年の慣例になることをおそれたためであるか。研究費というめいもくなら、ある年はなくてもめいもくが立つ課目(かもく)なのだ。お役所仕事というものはすべてこのようなやり方であると思って間違いはない。
 九十九人の重症心身障害児をせまい病棟にぎっしりつめこんだ島田療育園は一人に一ヶ月実費三万二千円かかる。すると、政府の助成金なるものは、雀(すずめ)の涙くらいにしかならない。篤志家島田さんのはじめられたこの療育園は、経営費の大半を寄付(きふ)金(きん)でまかなってきているのであった。
 私は中央公論誌上に、公開状を書いた時に、この療育園の小林園長から、電話によって説明をうけ、その経営の困難ぶりを△200きかされて、そのことにも触れて池田総理に書いたのであった。ところが、一ヶ月後に池田総理は黒金(くろがね)官房長官の代筆(だいひつ)で、私に返事をくれて、私のいうことはよくわかるが、政府はすでに、昭和三十八年度には島田療育園には二千万円の研究費を増加した。傍観(ぼうかん)しているわけではない。予算のとぼしい中から、そのことはすでに気にとめていて、措置(そち)を怠(おこた)っていなかったのだ、という意味のことをいってこられた。なるほど、二千万円の研究費の追加(ついか)は同園にも通知があったそうだ。しかし、その現金はまだ到着していない。
 私がこの眼で見た同園の現状は、政府の仮証文(かりしょうもん)を前にして、経営の苦労にあえいでおられる事情をまざまざと見せつけられたのであある。
 因(ちな)みに、二千万円増(ふ)えたところで、どうなるというのか。園長は百ベッドを増やすといっておられるが、せまい土地を切りくずして、病棟を増やすとすると、増築費もかかる。これにともなう看護婦さんの宿舎も要(い)る。百ベッド増やして、百人の子らが増えても、島田療育園は、よりいっそう経営のための寄附金あつめに辛労(しんろう)の日々をおくらねばなるまい。
 私に対する政府の返答(へんとう)は、島田療育園に二千万円、滋賀県の「びわこ療育園」に二千万円、計四千万円の増額補助(ほじょ)ということだった。この金はいずれ、公布されるとしても、これによって、政府が重症心身障害児に対する金くばりを充分に示しているのだとする資料とはならない。
 島田療育園に百、びわこ学園に百のベッドが増えても、全国に潜在する重症心身障害児何万のうちのたった二百人が収容されるにすぎないからである。島田療育園からしめ出しを喰った父母たちは、子をかかえて泣き寝入りしている。暗い自家の隅(すみ)で、二重、三重苦を背負う子をひっそりと育てているのである。

全国から集まる白衣の天使
 私は、そのような怒(いか)りともかなしみともつかぬ事どもを頭の中にかけめぐらせながら、眼前の一人の脳性麻痺の五、六歳の少女が、若い看護婦の手にぶらさがって、母のように甘えている姿を見ていた。
 「この子のお母さんは行方(ゆくえ)がしれませんでした。お母さんも白痴(はくち)だったそうです。この子も脳を患(おか)されていると思って保護したんですが、療養しているあいだにすっかりよくなりましたよ。健康に育っています」
母のない子が、ぶらさがる白い看護婦さんの衣服は、子のなすりつけるよだれや、鼻汁でよごれているのだった。
 「看護婦さんたちは、全部通勤ですか」
 と私は聞いた。△201
 「四十五人の大半はみなここに寝起きしています。全国から集まってくれた人たちですよ。昼夜(ちゅうや)三交代で、みんなよく面倒をみてくれますよ」
 と園長さんはいった。私はこれらの看護婦さんたちが、すべて十八、九歳から、二十一、二歳に至る若い娘さんたちばかりなのにびっくりした。
 それは、この前々日くらいに、厚生大臣の西村(にしむら)英一(えいいち)氏に会っていた時、大臣の口から、「施設の拡充(かくじゅう)よりも、子どもの面倒をみてくれる人間の問題が大きな障害だ。日本というところは宗教(しゅうきょう)心(しん)に富んだ人間が少ない。看護してくれる人の養成にもひと苦労だ」と泣き言をいっとぃたのを耳にのこしていたからであった。
 本当にそうだろうか。大臣は、島田療育園へ来てみたのだろうか。母のない子が、よだれをたらして慕いよる若い看護婦たちは、微笑をたたえ、溌剌(はつらつ)としてその子を抱きとめていた。三千枚のオムツがよごれるという幼児の部屋は、一人の子に一人の看護婦がつききりで始末(しまつ)をしていた。食事とて、寝たきりの子にたべさせるのは、なまなかのことではない。いちいち小サジにすくって口へ入れてやる。白痴の子はいったんたべたものを吐き出しながら笑っている。その笑いを健康とうけとって、顔中に吐きだされたしぶきをうけながら、一しょになって笑っている看護婦さんの姿があった。

希望は持たねばならない
 案ずることはない。大臣よ。全国から、こうした献身的な女性が集まっているのだ。あなたのすることは、やっぱり施設拡充だ。人間は、施設があれば集まってくる。温(あたた)かい宿舎をつくってやることだ。日夜、辛労(しんろう)に追われる看護婦さんの中には、つとめをすませてから、定時制(ていじせい)高校(こうこう)へ通う姿もあるが、療育園の仕事が、楽しい家庭(かてい)となるような、採光(さいこう)の効いた宿舎でも建ててあげれば、篤志(とくし)の女性は何百人と集まるだろう。施設を増やせといえば、予算がない、施設を増やしても働く人間がいないと大臣はいうが、大臣は本当のことを見ていないのだな、と私は思った。
 「看護婦さんたちは、みんな天真爛漫(てんしんらんまん)ですよ。大勢の奇型の子の中でいちばん美しいのは、やっぱりエンゼルベビーですね。アザラシ状奇型をしているだけで、どの子もかわいい顔をしています。智能は普通以上にいい子ですからね。エンゼルちゃんは看護婦たちの救(すく)いですよ」
 と園長さんはいった。「それでも、深夜宿直当番の看護婦たちの耳に、夜っぴいてきこえる九十九人の奇型の子らの泣き声とも語りかけともつかぬ、何ともいえぬ叫びがわきあがる時は、背すじの冷えるような不気味な時間がありますね。しかし、看護婦たちは、その深夜を、懐中電燈をもって語りかける子の相手に走りますよ」
 一篤志家によってはじめられたこの療育園は、大地に芽をふいた一本の木であった。枯らしてはならないと私は思った。政府が援助をしなければ、私たちは、政府の目がひらくまで、陳情(ちんじょう)をつづけようと思う。たくさんの税金を私たちからとって、その金が汚職(おしょく)やその他のいまわしい邪(よこ)しまな使途(しと)に費消(ひしょう)されているのを、私たちは日夜の新聞でよまされているのである。
 真心(まごころ)のある政治家ならば、きっと、私たちの願いをききとどけてくれるにきまっている。歩けない子らが、語りかけることの出来ない子らがそのことを私に教えてくれているのであった。希望はもたねばならないと。
 何億と闇に消える汚職の金に比べれば、心身障害児の対策費(たいさくひ)など知れたものなのだから。
 島田療育園は、日本の政治の貧困(ひんこん)を考えさせる、かなしい子らの集団である。△202


再録:窪田好恵
UP:20150225 REV:
水上 勉  ◇重症心身障害児施設  ◇施設/脱施設  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇障害者(運動)と安楽死尊厳死  ◇全文掲載 
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