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拝啓池田総理大臣殿

水上 勉 1963 『中央公論』1963年6月号,pp.124-134


※ この文章とそれに関連する、またこの時期の文章を、以下に全文収録しています。
立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 1000

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◆立岩 真也 2016/06/01 「国立療養所・3――生の現代のために・13 連載・124」

 『中央公論』一九六三年六月号に掲載された水上勉のその「公開書簡」(水上[1963a])は、障害児の父親でもある自分(二分脊椎の娘がいた)の推理小説家としての収入のたいへん大きな部分が税金となっていることを嘆いた後、島田療育園の経営がたいへんであって、公金をこうした部分に使うべきことを述べる。それに対して黒金の返信(黒金[1963])がある。そして二月後の『婦人公論』には水上が島田療育園を訪ねた記事も掲載される(水上[1963b])。他方、同年、「拝啓」の四月前、ベルギーでサリドマイド児を親が殺害した事件をきっかけに企画された座談会の記録(石川他[1963])が『婦人公論』に掲載されている。そこで水上は障害児の生殺を決める国の機関があるとよいといった発言をしている。小林提樹は出生前はともかく生まれたら殺さないと言っている。これらの全文を立岩編[2015]に収録した。
 島田療育園、びわこ学園といった民間の活動が先駆的にあり、それを取り上げ、それに対する政府の支援を求める文章が雑誌に載り、そして「全国重症心身障害児(者)を守る会」の動きがあり(その発足とその活動について窪田[2015])、それに呼応する政治家・政府の反応があって施策化された。筋ジストロフィーについても同様の動きがあった。そう書き手たちによって捉えられている。
 その子とその親たちはかわいそうであったし、そのことを親たちは訴え、それに政治家が応える。そのように事態は動いた。重症児を「守る会」では、「争わない」こと、「政治」的で(あってはなら)ないことが主張される。あるいはそのような部分で(そのようには考えない人たちと)争っている。まずこれは、結核療養者たち、また組合の動きとは異なる。共産党が入り込みもし、それに手を焼いたことを記す文章を前回に引いた。他方、六〇年代に制度を獲得したのはこうした親たちの動きである。そして重心と筋ジストロフィーが六〇年代に制度化されるために、他の「難病」は別の制度に乗ることになる。ではその動きはここまでの二つのいずれに似ているのか。いずれとも異なるのか。そんなことも気になる。
 そして、こうした動きを苦い思いで見ていた人たちもいた。脳性まひ者の同人誌『しののめ』を主宰する花田春兆が、その雑誌に、さきの座談会での水上と石川達三の発言を批判している(花田[1963a])。それだけでなく、「拝啓」についても批判的な文章を書いている(花田[1963b])。一九六〇年代中盤のコロニー構想(次回紹介する予定)も批判している(花田[1965])。これらもまた立岩編[2015]に収録した。その中身は別に紹介する。ただ、そうした見方もまたあったこと、また、「拝啓」と同じ年の座談会のこと、そうしたことごとは、花田たちの後を継ぎつながらよりはっきりしたことが言われた一九七〇年を越え、七五年、七六年になっても、今みてきた文献に記されることはない。やはり後で、こうして無視されている側の言ったことを確認し、その動きがその後にどのように影響したのか(しなかったのか)を見ることになる。」


◆国立療養所史研究会 編 1976a 『国立療養所史(結核編)』、厚生省医務局国立療養所課、679p.

◆湊治郎・浅倉次男 1976 「進行性筋萎縮症児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a:276-297]

 「昭和38年「中央公論」6月号で,作家水上勉が重障児をもつ親の立場から「拝啓池田総理大臣殿」の書翰を発表し,時の政府に訴えた結果同誌7月号で池田総理に代って黒金官房長官が「拝復水上勉様」を発表し,今後重障児の問題の解決に努力するという異例の解答があった。これがきっかけで重障児の間題は一躍社会の脚光をあびることになった。△254」(湊・浅倉[1976:254])

 「水上勉の書翰や,守る会の運動などで,政府は国立の収容施設や,コロニー設置の約束をするはめになったからであるが,具体的に国立療養所側に伝えられたいきさつは,成瀬の資料にくわしく述べられている。」(湊・浅倉[1976:257])

◆湊治郎・浅倉次男 1976 「進行性筋萎縮症児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a276-297]

 「すでに述べたように,国立療養所への筋ジストロフィー児の収容は,異例とも思われる早い速度で実施に移された。これには,厚生省当局をはじめ,発足した親の会の並々ならぬ努力が大きな力になっていることは言うまでもない。しかし,すでに知られているように,昭和38年6月中央公論に「拝啓 池田総理大臣殿」という題で公表された作家水上勉△282 の文章,およびそれによって澎湃としておこった日本全体の福祉への目覚めが大きな影響をもっていたものと思われる。」(湊・浅倉[1976:282-283])

◆畠山辰夫・半沢健 「国立療養所の中の学校 ――病弱教育のあしあと」,国立療養所史研究会編[1976a:517-549]

 「一方,作家水上勉が某誌に「拝啓池田総理大臣殿」の公開書簡文を掲載した。重症心身障害児の福祉の貧困に対する訴状ともいえた。これをひとつのきっかけとして,昭和41年度以降,全国の国立療養所の中に,その収容施設が設置されるようになった。そして,昭和49年度において, 75箇所の国立療養所に7,520床の設備がなされるようになった。」(畠山・半沢[1976:543])

◆あゆみ編集委員会 編 1983 『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』,第一法規出版

◆近藤文雄 1983 「筋ジスと障害児の夜明け」,あゆみ編集委員会編[1983:8-12]
 *国立療養所西多賀病院長

 「水上勉氏の「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)以来、急速に重症児問題が国内でクローズアップして、国療でそれを引き受けるという方針が固まっていったようである。」(近藤[1983:15])

◆長野準* 1983 「重症心身障害児(者)病棟を開設して20年の回想」,あゆみ編集委員会編[1983:21-23]
 *国立療養所南福岡病院名誉所長

 「国立療養所が重症心身障害児を収容するようになったのは、たしか時の国立療養所課長加倉井氏が、「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)という作家の水上勉氏が発表された一文を見、国立療養所で重症心身障害児と筋ジストロフィーを引き受けようとされたのだということを聞いている。水上氏の一文は、何の罪もないのに脳性麻痺を始め肢体不自由と知能発育不全の複合障害児としてこの世に生を享けたものへの切々たる訴えであったと思う。」(長野[1983:21])

 加倉井駿一井:kotobank  「昭和期の官僚 厚生省公衆衛生局長。生年大正9(1920)年5月11日 没年昭和49(1974)年6月7日 出生地茨城県 学歴〔年〕慶応義塾大学医学部〔昭和20年〕卒 経歴昭和21年茨城県衛生課に勤め、予防課長、25年厚生省に入り、医務局、保険局、大臣官房企画室、公衆衛生局を経て37年鳥取県厚生部長、40年厚生省医務局国立療養所課長、44年大臣官房参事官、45年大臣官房統計調査部長、47年公衆衛生局長となった」

◆北浦雅子 1993 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の三〇年をふりかえる」,あゆみ編集委員会編[1993:59-65]
 *「全国重症心身障害児(者)を守る会」会長

□「時代的背景には、作家の水上勉光生が公開質問状「拝啓総理大臣殿」(『中央公論』昭和38年6月号、中央公論社)を発表、障害児問題の問題提起をして下さり、マスコミも次々ととりあげて社会的にクローズアップされたことがあり、更に、森繁久彌さん、伴淳三郎さん、秋山ちえ子先生方の「あゆみの箱」の運動などがありました。そして重症児が長い間陽の当たらないところで生きてきたことが暖かい支援を呼んで、私どもの守る会は昭和39年6月13三日に発足しました。」(北浦[1983:61])

◆立岩真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」
◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店→1995 増補改訂版,藤原書店,312p.
◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,366p.,ISBN:489434016X 2900+ [amazon][kinokuniya] ※ ds.
◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※

 「上述したように、身体障害者福祉法に規定される施設は、実際には生涯の収容施設に近いものとなる場合も多かったものの基本的に職業的更生のための施設であり訓練のための機関とされた(7)。やがてそれに収まりきらない生活の場所としての施設という主題が現れてくる。戦後まもなくから民間の運動としては少しずつ始まっていた特に重度の心身障害児を対象とする施設の建設が、六〇年代に入ると社会的な注目を集めるようになるのである(8)。これは、重度障害児を持つ親にとって、その子供を家庭で生活させることが困難なこと、特に親の亡い後の不安が非常に大きいことが切実に語られ、その事実が知られるようになり、それに対応する必要に迫られたからである(9)。こうした動きはやがて、精神薄弱者を主要な対象とする大規模な収容施設、いわゆる「コロニー」建設へとつながっていく(10)。また、七二年七月に施行された障害者福祉法の改定によって、この法の中で初めて生活の場として身体障害者療護施設が誕生することになった(11)。」

 「(9) 水上勉が『中央公論』六三年六月号に「拝啓・池田総理大臣殿」(水上[86]に再録)と題する公開書簡を発表し反響を呼ぶ(これは障害者に必ずしも肯定的に受け止められなかった。横田[74→79A:59-60]、また岡村[88:125-126]を参照)。また六七年八月には老衰のため障害を持つ息子の介護ができなくなり施設入所を申請するが不足を理由に断わられ、殺害した神田の老医師による息子殺し事件が起こる。被告は犯行時「うつ病」だったとして無罪となるが、判決で裁判長が重症心身障害児・者に対する公の養護の充実を訴えて注目を集めた(河口[82:156-157])。」



 ※以下一部掲載。
 われわれの税金は果して正しくつかわれているだろうか。身体不自由な娘をもった一人の作家が、税制の不合理と社会保障の欠陥を追及した切々たる公開状

拝啓 池田総理大臣殿
 ご多忙な総理が、ふと自宅でテレビをみておられて、定時制高校卒業生の差別問題にいたく心を動かされ、さっそく、翌日にこの問題を閣議の席上で審議にかけられ、長いあいだの課題であった定時制高校卒業生の資格に、陽の目をあたえられたという新聞記事をよんで私は、正直のところ、あなたにほのかな親しみを感じたものの一人であります。そこで、このような文章をあなたにさしあげる勇気が出ました。どうぞ、テレビでもごらんになるつもりで、私のこの拙文に三、四十分あまりの時間をさいて下さい。
 私は、主として今日まで推理小説を書いてきた作家です。三、四年前から、日本の読書界に起こった推理小説ブームのおかげもあり、私は私の名を一部読者におぼえられるようになり、小説の注文も月々多量にひきうけるような境遇にあります。むかし(といっても、つい四、五年前まで)にくらべますとずいぶん収入も多くなり、本年度の私の居住する地域の東京都豊島区税務所の査定によりますと私には三千四百万円もの収入があり、それに課税された所得税額は、五百八十七万円ということでありました。これは所得税額だけであって[…]
 去年の九月のはじめに、私の妻は一人の身体不自由な子を産みました。病名は脊椎破裂といい、背中の骨がとび出て、大きな肉腫ができていました。せむしのような恰好で出てきたのをみて、私たち夫婦は、死んでしまいたいほどびっくりしました。医者は、一万人の中の一人の子だと申しまして、たぶん、このまま死ぬだろうからあきらめてくれ・・・・というなことをいうかと思うとまた、ある医者は手術をすれば、背中のコブはなくなる。けれど神経障害はまぬかれない、だが、それも、根気よく治療してゆけば、一人前の人間にすることは可能だといいました。私たちは、看護婦からも、医者からも見はなされたような、奇型の子が、ガラスの箱の中でもがいているのをみました時、どうにかして、生かしてやりたい、この子が生きようとするのなら、全力をつくして、生かしてやりたいと思うようになりました。まもなく外科手術を行ない、背中の肉腫を除去することに成功しまし△125▽126た。手術後の経過はよくて、子もふつうの赤ちゃんと同じようなつややかな顔をとりもどして笑顔をみせるようになりましたが、今日も頭形肥大、両肢不随、歩行困難の症状はなおりません。
 約三ヶ月間病院に入れておりましたけれど、月々に八十万円ちかい諸経費も大変に思われもしましたので、豊島区の自宅へつれてもどり、只今は自宅療法と病院通いをしているわけです。私たちは最初、この子がうまれた時、世にも不幸な親たちは自分たちではないかと思ったりもしたものです。ところがあとになって、私は、私の子と同じような症状の赤ちゃんが、この世に、なんと、何万人とも知れず生まれている、そうしてその子たちが半身不髄のまま今日も生きているということをきいてびっくりしたのです。
 私は作家であります。この子のうまれた当日の模様や、親としてのかなしみや、新しく芽生えてきたこの子への愛などについて、考えるところもありましたので、そのことを、雑誌に、体験記ふうに発表してみたことがあります。すると、この私の文章を読んで、全国から約三百通あまりの手紙が私あてに届きました。それらはみな、私と同じようなかなしみをもち、身体不自由な子を養っていらっしゃるお母さんからの手紙なのです。私はふたたび、びっくりしました。中にこんなのがあったからです。
 […]
 片仮名で書きましたのは理由があります。この婦人は四十歳を出た人でした。おそらく農村の人ではないでしょうか。病院へゆくのに、手押車でゆかねばならないところだといっておられますから。私は十八年間も、学校へもゆかないで、田舎の家で自宅療養しておられるこの手紙の主のお子さんのことを思うと眼がくもりました。こんなのがあります。
 […]
 三通の手紙は、その代表的なものではありません。手許にあります三百通の手紙の一部をおみせするまでです。それぞれ似たような境遇の成人になられた本人か、もしくは母親や父親の、障害児をもったために、苦しまねばならなかったかなしみで充満したものばかりであります。

 総理大臣。私はこのような手紙をあなたによんでいただきたいために、わざわざこの手紙をここにつらねたのではありません。世の中には、不幸な子をもつ家がずいぶん多いものだということを総理に知ってほしかったためなのです。
 […]
 私は、都内や周辺にある身体障害児の施設や養育園に関△127▽128心をもつようになったのは、これらの手紙に接してからであります。正直のところ、私自身、ひとりの障害児をもっているとはいえ、生来、暢気な性質でもある私はまだ、二歳になってまもない私の子供の五年のちの入学のことや、教育のことなど、切実に考えるところまでいっていなかったのでした。私の考えていることは、何とかして、歩かせてやりたい、それだけが切実な希望だったのであります。ところが、これらの手紙に接してからというものは、私の子も入学期がくることに思いが走り、どのような施設に入れて、義務教育をうけさせてやろうかと心配が起きたからにほかありません。ところが、しらべてみますと、軽症児童の学園や養育園でさえが満員で、なかなか入れないという母親たちの声が私にきこえてきました。つまり設備が足りないということなのでしょう、重症児は尚更であります。
 いま、手もとにあります『厚生白書』という本を繙いて、総理大臣におみせします。次のように書かれてあります。
 「いわゆる『重症心身障害児』の問題がある。これは障害がきわめて重度であり、また二種以上の障害が重複しており、現行の児童福祉施設への収容は、実際上不可能である。現在は、民間団体において、収容療育の方法を研究中であるが、能力開発がとうてい期待しえないこれらの児童に対しては手厚い保護をよりいっそうに強化すべきであろう」(傍点筆者)
 因みにこの白書は昭和三十八年二月十五日の発行であります。今年の二月現在において、政府は、白書の示すとおりの、重症心身障害児に対しては、このような民間の篤志家まかせの対策しかもちあわせていなかったのでありましょうか。
 東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。
 ここには約五十人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性麻マヒ、テンカン、奇型などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと小林提樹園長はいっています。「重い心身障害をもつ子どものお父さん、お母さん、どうぞ、連絡して下さい。どうしたら、その子がしあわせになれるか、いっしょに考えようではありませんか」と園長さんは世間によびかけているそうです。
 ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私がしらべたところによりますとだいた△128▽129い、次のようになります。昭和三十六年度四百万円。三十七年度六百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費三十六万円かかるそうです。現在では合計二千七百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全経費の二割にしかなりません。療育園では、この不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。小林園長はこうつけ足しています。
 「昭和三十八年度は″重症心身障害児養育費″として補助費が出る約束はしてくれているが、交付金はまだ発表されていない。地方自治体のレベルでは重症児に対して年金を払うというような動きも出てきていて、たとえば神戸市などでは、昨年十月から、一児に対して年間一万円弱の年金です。神戸市長はこの額では慰労程度のものだが、といっているそうですが、新しい動きとして注目されます」
 まことに寒い思いがします。総理大臣はどう思われましょうか。

 […]
 こうした政策減税が優先したため、一般の所得税減税の方は、税制調査会の答申よりさらに後退して、基礎控除一万円引き上げ、その他の配偶者、扶養の二控除および、中小企業者の専従控除は五千円引き上げということに落ち着きそうである」
 この記事をよみましても私は、総理が減税政策の統率者でないことをあらためて考えざるを得なくなります。自由民主党の幹部の方たちの考え方は、なりふりかまわず大資本の擁護をはかるというやり方を露骨に出しておられるという思いがしますが如何でしょうか。
 こんなことをとつぜん私がひきあいに出しましたのは、前述したように、日本の隅々に、学校へゆけない重症身体障害児が何万と放置されているということと、そうして、その子供たちが、高所得者の家庭によりも、低所得生活者の家庭に多いようにみうけられるからであります。私あてに、全国から集まりました身体障害者の手紙はそのようなことを明らか△130▽131に示していたからです。公共投資、文教、社会保障の三つの柱のどこに重点がおかれて予算が組まれるか心配である、と先の雑誌の解説者を憂慮させるような現実では、社会保障の項目に当然入るであろう、これらの下積みの身体障害者の保護施設問題が等閑視されはしないかと私に心配されるからでありました。
 ところで、私は、冒頭に私の所得額と税額を総理に示しました。私はしつこいようですが、もういちど言わせていただきますと、大体一千一百万円の税金をおさめねばならないことになっています。私は作家でありますから、個人企業といえましょうか。私が孤独に働いて得た金であります。ふつうの会社や、法人組織の団体のように、社員や、大ぜいの人の力で得た金ではなくて、私が、日夜、原稿用紙に向って得た収入から、おさめなければならない金なのであります。
 […]
 私は、毎日毎日、働いております。私が、こんなに働くようになりましたのは、私の子が身体障害者であるからです。頭部肥大、下半身不随で、歩行困難が予想されるからです。一時は月に八十万円もの医療費がかかったほど、この子は私どもを泣かせました。私はこの子の医療費を得るために、がむしゃらに小説を書いてきました。おかげで、退院も出来て、今日は自宅で療養いたしていますけれど、この子の将来を思うと私は暗たんたる気もちになります。生涯歩けないのでは廃人同様だからです。廃人同様であっても、私たちの産んだ子でありますから、世間様にめいわくのかからないように、どこかで、ひっそりと天命を全うするまで、生活させてやらねばならない責任が父親としてのわたしにあります。私は、この子のためにいくらかの貯蓄を余儀なくされたわけです。△131▽132そこで、がむしゃらに働いたわけですが、今日になって、その子に、どこか陽当りのいい、空気の澄んでいる郊外の家でもつくってやろうと思ってみましても、所得額のうちから三分の一の一千万円以上もの税金をもってゆかれるようでは、画餅に終ってしまったわけです。私は私の子にやるべき金を、政府にとられたような気がした錯覚さえおぼえたのは、このためにほかありません。総理は、私が一年や二年の労働で、子の生涯の養育費をひねり出そうとしていることをお笑いになるかもしれない。しかし、これには、理由があるのです。
 私は、個人企業の、孤独な作家であります。二十歳時代に肺病をやり、今日も痔、歯槽膿漏の病気を背負いながらあまり健康でもない?を酷使して働いているのですが、かりに、私が、急に病気で寝てしまうと、私の収入はぴたりと止ってしまいます。会社員ではありませんから、生活の保障はないのです。一家は路頭に迷わねばなりません。それに作家という商売は、なかなかなことでは出来ません。骨の折れる仕事である上に、今日のように高所得を持続することはそんなに続くものでもないのです。病気でなくても、書けない時期もくるのでありまして、無収入の年のことも計算に入れると、つい、私は、書きたいことのあるうちは、一生懸命働いてみようという心もちになって、今日も原稿用紙に向っているわけなのです。
 […]
 私は、今日の税制が、さきの雑誌の解説者の憂えたように、大資本擁護の立場をとっていることを身をもって知るものです。いっておきますが、総理大臣、私は、あなたよりも所得税を多く政府に払います。しかし、私は貧乏であります。そうして、私ばかりでなく、私のように、孤独に働いて、多額の税率をかけられて、文句もいわずにそれを納め、真面目に生活しておられる無数の貧しい人びとのことも思うと暗くなります。ふっと、その人たちの暗い家の隅で、歩けない子がかくれていることを思うと私は、ぎょっとなるのです。雪の新潟から、片仮名まじりできた手紙は、車にチェンをまいて十八年間、重症の子を町の病院へ通わせてきたと書いてきていました。南の九州から、熊本には、歩けない子の学校は一校もないと書いてきておりました。私はふっと、その子たちの親たちが、いったい、どんな思いで税金を払っているのかと思いを馳せてみました。
 私はこの三月に税務署から査定金額を申しわたされて、帰ってきた妻にいいました。
 「いったい、うちの直子(歩けない子)に、政府はいくら補助金をくれるのか」
 妻はこたえました。
 「六千円ひかれます」
 「ひかれるって、税金のはなしをしているんじゃないんだ。うちの病気の子に、政府がいくら、医療保護のお金をくれるのかということきいているんだ」
 「区役所からも都庁からも、そんなお金をくれはしません△133▽134よ。ただ、あんたの稼いだお金から六千円をひいてくれるだけですよ」と妻はいいました。
 私の子の政府の医療補助費は、私が稼いでいることになるのかもしれない。そのことが、私の身に沁みました。
 総理大臣、私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は、重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの二割しか補助を行なっていないことに激怒したからなのです。政府が、今日まで、あのオシや、ツンボや、盲やのかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しを喰って、収容されている療育園に、これまで助成した金は、二年間にわたってたったの一千万円でした。三十六年度に四百万円、翌年に六百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年一年におさめる税金の一千一百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子と同じように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。
 無茶なことをいう奴だと総理はお笑いになるかもしれない。私は何も、私の税金をそっくりそのまま、重症身体障害児の施設に廻せといっているのではないのです。そうなれば嬉しいといっているだけのことなのであります。私は月に一どほど島田療育園の近くにあるゴルフ場へゆくことがあります。私は健康上の理由から、芝生の上でクラブを振ることをおぼえて、ここ半年ほど前からゴルフをやるようになりました。私はそのゴルフ場へ行く途中で、島田療育園の山の下を通ります。ああここだな、と私は心につぶやきます。島田療育園の建物は、山をきり崩した中腹の平坦地に、まだ地ならしも完了していない赤土が出ている所です。粗末なていさいでたってみえます。そこへゆく途中の道路は悪く、建物も貧弱で、寒々としてみえるのです。対岸にあるゴルフ場のキャディ宿舎の方がはるかに立派です。白いペンキのぬった療育園の小さな窓は格子がはってあります。その窓の中に、手足のうごかない子供が五十人もいるかと思うと、私はふっと、みどりの芝生を歩いている五体健康の私の身のありがたさに身をひきしめます。そうして、やがては、そうした施設に入れて、教育させてやらねばならない私の奇型の子のことに思いをめぐらせます。だから、私はゴルフをやらねばなりません。健康を保って、働かねばなりません。
 総理大臣。とりとめのないことを書きました。どうか、あなたのご多忙な日々のある時間に、身体障害の身でありながら、生きようとしているたくさんの子らのいることに思いを馳せて下さい。来年から、どうか、この子たちのために出来るだけの予算をとって、施設を拡大してあげて下さい。大勢の気の毒な子とその両親を代表して、心からお願い申し上げます。△134


作成:窪田 好恵・立岩 真也
UP:20150214 REV: 
水上 勉  ◇重症心身障害児施設  ◇施設/脱施設  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇障害者(運動)と安楽死尊厳死  ◇全文掲載 
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