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切捨御免のヒューマニズム

花田 春兆 1963/06 『しののめ』50→
19681020 『身障問題の出発』,pp.14-23

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 (再録は『身障問題の出発』より。頁(△)もこの本での頁。

 「”誌上栽判”を裁判する! 被告人 代表 石川達三」
 こんな具合に書こう思ったのですが、こちらが裁判官になるにはどうも不遜ですし、まだ原告が現われてくれません。かと言ってこちらが原告になったとしても、一体誰が裁判官として適任ななか心当りもありませんしおそらく引き受け手がないでしょう。ですからハッタリめいた事はやめて、判決主文風でも論告文風でもなく気荘に書き流して行く事にしましょう。
 ”誌上裁判”これは『婦人公論』ニ月号(三十八年)に掲裁された”奇形児は殺されるべきか”という座談会に冠せられている表現です。
 出席者は、いわば第三者である作家の石川遼三氏と評論家の戸川エマ氏、現在そうした子を養育されている側の医者の小林提樹先生、障害者を娘に持つ作家の水上勉氏、障害者でもある作家の二木悦子さん、以上の五人ですが、この人選は一応妥当な配分として常識的に肯けるでしよう。
 もともと座肢会の鳩合、冗談や繰返しや半端や舌足らず等のやりとりも取捨して定まっ△014 た枚数にまとめるのですから書く記者の筆力に左右される点もかなり大きい筈です。それに実際話しているムードが活字にそのままに移される事は難しいでしょう。抑揚一つで反甜にも皮肉にもなりますし、その場の空気ではわぎと逆に言う方がスカッと通る時だってあるのですが、それをそのまま活字にしたらとても大変な事になってしまうでしょう。ですから、記事になった座談会会の発言なり発言者の意図なりを取上げて問題にするのは正確でなく、危険なことかもしれません。でも矢張り気になるものはなるのです。
 聞題は、べルギーのサリドマイド禍のアザラシ禍の殺害について親が無罪になったという裁判の判決に対する意見の交換から発展して行くのですが、逐次細目にわたって云々したらキリなく論点が出そうで、時闇がかかって大変になりそうですから、思い切つて絞りましょう。

 さて五人の主限ですが………。
 戸川氏は司会役のようですし、仁木さんは発言が少なすぎてままずタナ上げしましょう。
 小林先生は、終始一貫、生を享けた以上その子が社会にブラスするかどうかは問題外で生きているものは生きさせる方が望ましい、という態度を崩していません。見事です。
 水上氏は、対象がちゃんとした人間である場合にのみ殺人というべきで、社会にプラスし得ないと判断された場合は、人としての範鴫に入らないのではないかと思うし、現在の日本では生かしておいたら親も子も辛いし、生命審議会を作ってもらって子供や家庭の実△015 情を審査し新産児の間に生死を決定するというふうにしてほしい、と言うのです。
 実際に切実な苦悩を体験されたであろうだけあって、血の出るような真実味があります。そして実際に日常これと直面させられている人に多くの共感を呼ぶ妥当性も備えているかもしれません。
 けれど切実であればある程、整然たるべき筈の論理が混乱しがちとなり、推理作家らしからぬロジックの破綻か出て来るのも無理ではないという自然の勢いに流されてしまっているようです。
 適正な審議会が出来て適正な判断を下し適正な処置をして生死を分けて了う。  この考えには、生かす事の至難さ周囲への負担の重さ更に生きる事の意義のあり方………等に思いを蹴せた者なら誰しもが一産は行き着くでしょう。そして一番理性的な方法として妥当性があるように感じられます。その上これなら、我が手で殺すのではないのですから、責任は完全に負わずにすむという気易さにもありつけるわけなのです。
 でも、少々他力本願的に過ぎやしませんか………。
 自主性を重んじる筈の文化人である氏が文化人として果して我慢出来るでしょうか。現にそのお子さんが医看から死を待つだけの状憩に放置されていたのを我慢できず生かす処置を依頼しているではありませんか。言外に放段した医師への非難を町めて……。
 生みの親でさえ直面するのを避け、責任を負いきれずに出来たら他人に転嫁したいと思うような判定と処置を果して誰が進んで肩代りするでしょうか。そんな十字架的責任など△016 感じないで引受けようという人だったら、果して安心して任せていられるでしょうか。
 こう考えただけでも審議会会の構成がおいそれといかないのは明らかなようです。勿論医師ばかりでもいけないにしても判定の中心の査定は医師が握るのが自然でしょう。しかも医師の大多散が、水上氏の体験したよらな無責任に放置するタイプか、小林先生のように生れたからには生かさなければならないし、それが当然なのだという信念に立つタイプかのニつに判然と分れているとしたら、真の意昧での審議とか判定とかが行なわれるものかどうか、甚だしく疑わしいものです。
 その上、生れてきた子の診断はつくにしても、家庭や周囲の実際の審査が果して親という気持が目覚めないうちに、などという短期聞というより即座に審査に結論を出す事が出来るでしょうか。まして個人でなく審議会としての結論なのです。

 それに、その児の秘められた可能性は勿論の事、二十年三十年後の医学や社会状況まで正確に見通せる見識が備わつていてこそ結論を出す資格があるのでず。そんな先の事を誰が正確に子測出来るでしょうか。
 早い話が、抗生物質の発見ほど革命的な事はなかったにしろ、整形外科の進歩だって三十年前と今日では格段の相違が出ている筈です。義肢にしたつて、二十年前より遙かに精密になっている筈です。障害者に対する社会の関心と認識にしても、僕たちの子供の頃とは比ぺものにならぬ程よくなっています。ですから現在の時点にのみ立って明日の可能性△017 を加昧しないでの判断は適正ではあり得ないのです。
 このような至難な数々の条件がずべて満たされて、生命審議会なるものが適正に構成され、新産児ばかりでなく、それを取巻く周囲の実情の査定が迅速に適正に行われ、将来を見通した判定が適正に下されたとしても、死産とか自然死でしたとか方便的な嘘を用いるのでなくては、いくら理性的に正しいのだから………とは理解出来たとしても親としての
感情が果たして納得するでしょうか。心の隅に審議会に対する恨みにも似た翳りが影を落さずにすむものでしょうか。甚だ疑わしいものです。
 どうもいい形容でなくどう結びつくのか不明なのですが、この水上氏の説を考えると頭の片隅に、猫の首に鈴をつけようと相談している鼠どもの必死な哀れな姿が浮んできて仕方ートがないのです。

 さて、水上氏の説に足踏みしすぎて肝腎の石川氏の発言に触れるのがおくれました。急がねばなりません。
 何よりも不可思議なのは、冒頭ではべルギーの無罪判決を不当として難じながら、結ぴの部分では、生命あるものはすべてこれを生かしていかなけれぱならないということを言っていたら、健康な人間まで駄目に(つまり共倒れの意味らしい)なるから、五十年も百年も昔からのムード的ヒューマニズムではなく新しい冷たくわりきったはっきりしたヒューマニズムを創らねばならないなどと無罪が当然の事として認められるべきだとしか考え△018 ようのない説を公然と強調している点です。分裂症とでも呼びたい程見事な首尾相反ぶりです。
 その矛盾に気付かなけれぱ、新しいヒューマニズムという表現は、理性的でいかにも大局的見地に立つた雄々しき見識という印象を与えるのに充分な見事なキャッチフレーズです。それは非情なるものの潔い強さ、美しさをさえ連想させ、第一当今流行の”残酷もの”とも通じる乾いたムードをも備えていて、確実にタイムリーです。しかし、それだけに、常に時代に敏感であろうとずるこの作家の、無意識であるか否かは別としてジャーナリスティックなスタンドプレーじみた大見栄めいたものが感じられて了うのです。
 ヒューマニズムなんか叩きつぶせ、これが流行の合言葉葉らしいのですが、あいにくこの日本にはつぶす程のヒューマニズムが根を張っているでしょうか。五十年はともかく百年前には言葉すら存在していない筈です。むしろ二百年三百年の昔には、石川氏が事新しげに説いている共倒れを防ぐ方法が人減らしのために非科学性をまつわらせながらも”間引き”という新産児を処置する事が現実として存在していたのです。それをほぐして行ったのが明治以後の食糧生産の増加であり産業振興だったのではありませんか。とすれば新設ではなくて古巣への復古であり、ここでも明日の可能性を顧慮しない見方しかありはしないのです。いかにして可能性を増し周囲を改警して行く努力がなされなければならないかという面には触れていないのです。
 おっと、これぼ人口間題であつて限定した重症児や奇形児の処置とい当面の間題から△019 照点を拡大しすぎてぼけてしまうカもしれません。しかし、広い問題につながるという指摘はいいとしても、結局ぼかしてしまったのは石川氏であって、こちらではありません。

 この作家の不可解な面は、
石川 判決が国家に賠償する義務があるということになれぱ、身体障害の子どもの親たちは全部訴えますよ。
小林 それでいいのじゃありませんか。
 という一節からも感じられそうです。
 活字の面だけではニュアンスがよく通じませんが、小林先生の答えぶりから推しても、言外に、そう訴えるのはおこがましい、とでもいいたげなものが含まれていたとしか思われません。もしそうだとしたら、一人の人間としての発言というよりも権力者の側に廻った大蔵大臣の答弁とでも言いたくなるそうな感覚ではありませんか。このあまりにも新鮮味の欠けた与党政治家的な陳旧な発想と、『人問の肇』が高く掲げているライトモチーフとは一体どこで交わるのでしょうか。それともあの小説は日教組の分裂と敗北を書く事にのみ興味味があつたのでしょうか。幻滅を感じさせないでほしいと念ずるのは間進いでしょうか。そして、このドライな新しいと称するヒューマニズムを支えるものは、矢張り世間(石川氏は社会と言わずにこの言葉を用いています)に役立つ者のみを生かずと、という公式を基盤としている点に変りはなさそうです。しかし、ここでも直接実際に言わば即物△020 的に役立つ事にのみ限定してかかっている石川氏や水上氏と、聞接的に心理的に言わば精神的な役立ち方を認めようとする小林先生や戸川氏とが明確な対立を見せているように、役立たないと見る見方の基準も個人個人の主観によるほかに無さそうです。となると、ドライなヒューマニズムがもつとドライになって水上氏が顧っているような新産児に限るという一線を破ってしまったら(その可能性は充分にあるのです)、為政者が超ドライなヒューマニズムに徹して行ったとしたら、主観次第で世間に役立たぬ者をコントロール出来るのですから『人間の壁』など貫く作家も日教組幹部と一緒に消されてしまうかも知れません。それをも自業自得として”わたきって”受入れられるでしょうか。世間にブラスするかしないかという主観的な基準が肉体面のみで止まって精神的思想的な面に及ばずにすむという考えを持つのこそウェットなムード的ヒューマニズムなのではありませんか。『風にそよぐ葺』だとて、風こそが”わりきった、はっきりした”ものであり、そよぐような葺などどうなってもいい事になるのではないでしょうか。

 また拡げすぎましたが、サリドマイド奇形児にもどりましょう。僕の主観では立派に世間に役立つのではないかと思うのです。頭も生きる意思も足も持つている筈だからです。それに闇接的な面を強調出来るならば、製薬業者や医療行政ばかりでなく少し拡げれば社会一般のコマーシャリズムや無責任ムードへの反省の為に……という重要性がある筈なのです。これには生きている人間でこそ価値があるのであつて、モルモットやアルコール潰△021 の標本では果せないものなのです。
 この座故会の中に
小林 安楽死をとお考えかもしれませんが、私はそれは安楽死という冒葉じゃない気がするのです。生れたばかりの赤ん坊はむしろ両親、家族のほうが苦しんでいるので、自分たちの精神安定のために、行なった犯罪、人殺しになつてしまうという気がするのです。
 という発言があります。
 実はこの言葉に触れる以前から、僕は、無罪を判決した裁判官の心のどこかにそうした人為的な奇形児を生んだ同世代の大人として苛責の念と将来それをその児らから貴められる事への怖れがあって判決を左右させたのではあるまいか、という考えがしきりにしていたのです。このニつを結びつけると、それを産んだ大人たちが、社会が、自分たちの精神安定のために行なった犯罪を容認した事になるのではないでしょうか。
 それにしても若しも、必要以上に勘ぐったように、自分たちの苦しさや精神安定のために荷厄介なもの都合の悪いものは消してしまえばいいのだ、という安直な考えが根底に動いているとしたら、軽視出来ない重大事だと思うのです。なるほどそうすれば事はいとも闇単に片付きます。だが、そこで一切の進歩はストップしてしまうのではないでしょうか。直面する現実の悪い面を少しでもよりよくしようとする積極的な地味な前向きの努力など全く不要なものになってしまうのです。悪いものは切捨御免に消してしまえ!ということになったら、よくする必要などいらないのですから………。△022
 最後に、この座蔽会では全然触れられていないことですが、無鼻判決の及ぼす影響で危慎される点があります。
 それは、この児らが成長して人生の苦難に直面した時に、同じ仲聞の一人に対してそうた判決があり、支持する世論があったと知った場合、果して素直に生き得た自分を喜び得るでしょうか。殺してくれなかったことを恨むでしょうか。また人間全体に不信の念を抱き底知れぬ絶望の深淵に身を没すことになりはしないでしょうか。

 注 三八年六月 『町しののめ』五〇号


 ※→「第」
 ※「つ」等→「っ」等
 ※「」『』は原文のまま
 ※ここで原文は『身障問題の出発』を指す


 ※この文章を以下に収録

立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 1000

■cf.

◆花田 春兆 19681020 『身障問題の出発』,しののめ発行所,しののめ叢書7,163p. 350 ※r copy:A4/東京都障害者福祉会館403


立岩 真也 2012/12/24 「『生死の語り行い・1』出てます――予告&補遺・6」
 生活書院のHP http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa06.html


再録:立岩 真也
UP:20150218 REV:20150917
花田 春兆  ◇小林 提樹  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇障害者(運動)と安楽死尊厳死  ◇安楽死尊厳死  ◇全文掲載 
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