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小児マヒと闘う人々

松山善三 196109 『婦人公論』46-11:116-121.

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■松山 善三 1961/09 「小児マヒと闘う人々」,『婦人公論』,116-121p.

頁(△)もこの本での頁。

身体障害者の生活を主題にした映画『名もなく貧しく美しく』を製作した時、私はたくさんの身体障害者に会って話しあったが、その人たちの誰もが、私に訴えた悩みの一つは、オシ、ツンボという言葉で呼ばれ、健康な人々からさげすまれることであった。日本語には、そうした身体障害者を蔑視する言葉が非常に多い。不具者、癈人、カタワ、チンバ、ビッコ、骨なし、奇型児など、心ない人人が、何げなく使うその言葉が、いかに身体傷害者の心を傷つけ、自分自身はもちろんのこと、人間の尊厳そのものまで傷つけるかに気づいていない。昨年の夏、北海道に集団発生した小児マヒは、今年は九州の熊本にとび、日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた。小児マヒが急激に世間の関心を集めると同時に、その後遺症(傍点筆者)にも照明があてられ、やっと、肢体不自由児の問題が、人々の口の端にのぼるようになった。
 肢体不自由児は、全国で約四十万人といわれる。小児マヒ、先天性股脱、骨関節結核、化膿性骨関節炎、リウマチス、脳性マヒ、クル病、外傷などが、その直接の原因である。肢体不自由児の一人一人が、難しい病名を持ち、その病気と闘っている。彼らは罹病者であって、不具者や癈人では決してない。
 外部にあらわれた病気だけが、なぜ健康者の蔑視をうけなければならないのか。

小児マヒと闘うアメリカ」というテーマをもらって、ある雑誌社の仕事で、私はアメリ力を旅行して来た。一ヵ月の短い旅行で、しかも専門外の仕事なので深い観察はできなかったが、それでも幾つかの感慨を持った。例えば、米国では、肢体不自由児の写真をとらせてもらう場合、その病院の許可と、その子の母親の承諾がなければ、一枚も撮るこ△117 とはできない。手や足や、呼吸筋が冒されていても、人間としての尊厳は、周囲の人々の理解と愛情に包まれて完全に守られている。また、ロスアンゼルスの肢体不自由児を収容する病院には、小児マヒばかりではなく、あらゆる原因で身体の自由を失った子供たちが収容されていた。職員は千八百人、年間予算は千二百万ドルという。そのうち小児マヒに使用される予算は百五十万ドルから二百万ドルといわれる。ここでは、子供たちの精神的、肉体的、職業補導の三つの治療が同じに行われている。患者一人あたり、一日の入院費は平均五十ドルで家庭の貧富に応じて支払い可能な額だけ支払えば良いことになっている。無料の患者ももちろん収容されていた。
 日本にも、これに負けない病院はある。東京の板橋にある整肢療護園がそれである。規模や設備の点では、私が見たロスアンゼルスの病院と同等である。ただ違うのは、ロスアンゼルスの病院には看護婦や理学療法師の姿がいっぱいなのに、日本のそこには、子供を見守る悲しい母親の姿がいっぱいという現状であった。日本の母親の方が、米国の母り、子供に対する愛情が深いなどと誤解してもらっては困る。病気そのものに対する認識が、日本と米国では全く違うのである。
 日本では、小児マヒと闘うのは子供を抱いた母親の姿だが、米国では医師その人(傍点筆者)である。子供を抱いた母親の姿は悲壮だが、戦争中の竹楯を持った兵士に似ている。日本の医師が、なぜ大きな組織となって、今日の緊急課題、小児マヒと闘わないのか、私には不思議に思われる。
 ロスアンゼルスでは、州の医師会員、八千人が、義務的に、ソークワクチンの接種運動に奉仕している。この運動は、ソークワクチンの発見以来つづけられてきた。接種の日時は新聞に報道され、地区の教会や、中学校などで予防注射が行われる。料金は一ドルで、医師は、何日間かの労力を無償で提供する。
 ニューヨークでは「ポリオ・バス」と呼ぱれるソークワクチンの無料注射を施すバスが市の衛生局の仕事で、毎年春さきから夏にかけて市内全域を巡回する。「ポリオの予防注射は済みましたか?明日では遅すぎる!」と衛生局の人々が市民に呼びかけ、個別訪問してまで予防接種に努力していた。  こうした運動は、すべて医師たちの努力によって生まれた。私が米国旅行中に、もっとも感動したのは、こうした医師たちの勇気と情熱、たゆまぬ働きかけの成果であった。
 ソークワクチンか?生ワクチンか?の論争も断絶することなく続き、アメリカ政府は、生ワクチンにはまだまだ不安や、研究の余地があるとして、製造許可をしていない。
 しかし、ペンシルヴァニア州の首都、ハリスヴァーグでは生ワクチンに百パーセントの信頼をよせて、今年の四、五、六月の三回にわたって、大規模な生ワクチンの投与が行われた。これに用いられた生ワクチンは、英国ファイザー社製のもので、日本に贈られたものと同じ生ワクチンである。この大規模な投与を成功させたのは、ハリスヴァーグに住む二人の小児科の医師の努力によってである。  一人はドクター・トーマス・フレッチャーいい、四十がらみの落ちついた感じでグレン・フォードに似ている。この人は十五歳の時、自分も小児マヒにかかり右足が不自由でった。もう一人はドクター・フランク・プロコピオといい、三十代で派手なリボンのついたパナマ帽をかぶり小意気な遊び人の風態で、いわばリチャード・ウィドマークばりの△118 男であった。私がハリスヴァーグを訪ねた時、二人は花束を持って私を出迎え、自身で教会へ案内してくれた。
 この二人の医師がペンシルヴァニア州の医師会を動かし、その賛同を得て「セービン・ワクチン(生ワクチン)を投与したいが助力を頼みたい」と、生ワクチンの発見者ドクター・セービンに手紙を出したのが今年の二月。セーピン博士からファイザー社へ連絡がとられ、英国から空輸、第一回の希望試飲が行われたのは二ヵ月後の四月六日。そのスピードぶりにも驚かされるが、二人の医師の子供たちを守ろうという情熱に私は頭をさげた。生後七週間の赤ちゃんから四十五歳までという条件で希望者をつのった。もちろん無料である。第一回目が九万人、五月十一日の第二回目が十万人、第三回目の今日は恐らく十一万人を越えるだろうと、ドクター・プロコピオは胸をはった。この成功はほとんど絶対的なものといわれ、ハリスヴァーグでは、今年は小児マヒ患者は一人も出ないだろうといわれている。日本には、ソークワクチンも、生ワクチンも不足だ。しかし、真実不足しているものは、子供たちを病疫から守ろうとする医師の情熱と努力ではないだろうか。
 ハリスヴァーグの成功は、全米で支持をうけ、翌日のヘラルド・トリビューン紙は「夏季をむかえるまでに、全米の少年少女にセービン・ワクチン(生ワクチン)を一日も早く与えるべきだ」と書いている。セービン・ワクチンが全国的に使用されるのもはや時間の問題となり、その投与によって、人類は永久に小児マヒから予防されるだろうといわれる。「小児マヒを絶滅させることはできないが、完全に予防することはできる」と、私を案内してくれたニューヨークの衛生課員でさえ自信のある声で言った。
 小児マヒはアメリカではもはや過去の病気である。一九五五年、全米で小児マヒ発病者の数は三万八千名であった。昨年はその十分の一に満たない三千二百名に激減している。
 小児マヒは台風に似ている。突然やってきて、身体の中を吹き荒れ、狂い、そして大きな傷あとを残して、どこへともなく消えてゆく。意志はあっても抵抗する方法をもたない人間は残された傷あとを営々とつくろうより仕方がない。営々と――。これは小児マヒ患だけではない。小児マヒよりもっと恐ろしい病気がある。脳性小児マヒがそれである。

 小児マヒと脳性小児マヒ、そして精神薄弱児はよく混同される。ことに脳性マヒの場合、脳性という字がつくので、精神薄弱と同一視される。脳性マヒは英語ではCerebral Paralysisといい、略してCPという。大部分は出産時の障害による、頭蓋内出血による先天性のもので、ヴィールス性の小児マヒとは全く違う。普通いわれる小児マヒは脊髄性小児マヒといい、患者は運動筋が弛緩してダラダラした感じになるが、CPは反対に硬直する。しかも、これがほとんど全身を襲うので肢体不自由児の中でも悲惨な例が多い。
 こうした人々の後遺症の治療と対策は常に急を要する問題であるが、しかし、全世界でも、これが最上の施設と対策であるといえるものはできていない。各国とも、重症者であればあるほど、施設や保障の恩恵から見はなされている。
 整肢療護園の副園長、小池文英氏は施設と治療、そして患者の将来についてこう語ってくれた。
「小児マヒが発生してから、急激に肢体不自△119 由児に対する関心が高まり、施設の不備を云云する人が多くなった。もちろん、施設は完全に足りているとはいえないけれど、世界的に見た場合、日本が非常に遅れているとは思いません。これだけの設備を持つ療護園は、アジアはもちろん、欧米にも、そう数はありません。ただ、日本で一番不足しているものは、患者の治療、訓練にたずさわる理学療法師と職能療法師です。例えば軽症の肢体不自由師と職能療法師です。例えば軽症の肢体不自由児を手術しても、そのあとの訓練とマッサージは、ほとんど家庭のお母さん方にまかされ、専門的な治療をうけることができない。どだい日本には、理学療法師を育成する学校がないのです。日本人は見ようみまねでマッサージをこなし、機能回復の訓練を一時的にやって、それでおしまいにしてしまう。収容施設の完備も大切なことですが、最も大切なことは、肢体不自由児の世話と訓練をひきうける、そういう人間を養成することですね。脳性マヒの人にはどんな治療をほどこしても、現在の医学では機能を回復することのできない、不幸な人たちがあります。そういう人たちは、当然、国家の機関や施設で一生を保護されなければならないと思います。その他、すべての肢体不自由児は健康な人々にくらべて、どこかにハンキャップがあるのですから、同じ社会で、同じ仕事をすれば、健康人に多少、劣るのが当然ですよね…そういう人たちばかりが従事する工場や、そういう人たちばかりが住む町ができたら理想的なんじゃないでしょうか」という。
 脳性マヒの人たちばかりで作っている同人雑誌『しののめ』の編集長、花田政国さんは「私たちには完全に使えるところが一つもないのです。脊髄性の小児マヒはどこか一ヵ所にかたまるからまだいいのですが、私たちは全身傷だらけです…おまけに言語障害をともないますから、社会的な適応性はほとんどありません。だから、私たちはみんな施設に入りたいと思っています。しかし、現在の施設は、“施設の中で社会生活のできる人”つまり軽症者から順に、いや、そういう人を優先的に入れています。施設に行く人、行きたい人に社会生活の適応性があるはずないじゃありませんか…おかしいですね…私たちは集まるとよく、安楽死の問題を討論します。この間、ラジオドラマで脳性マヒにかかった子供を生かすか、殺すかという問題をドラマにしていました。しかし私は、こう考えます。現在、いかに救いがないからといって、殺した方が、死んだ方がいいとはいえないと思います。そういう人たちは可能性の問題を無視しているのではないでしょうか…せっかく生まれてきたんだから、自然に死ぬまでは生かしておいたら、いいじゃありませんか」
 重症者が施設からはみ出している現状について、小池氏はいう。「現在のところ、どうにもならないのです、施設や金の問題ではありません、人間の問題です。重症者一人に、四人の看護婦が必要だからです」

 ロスアンゼルスの病院に鉄の肺患者が六人収容されていた。そこでは、一人の患者に一人の看護婦がついていて、食事や日常生活の世話をしていた。更に、その部屋に一人の専門医師と看護婦長が配属されている。
 日本の場合はどうだろう。先天性股脱や、軽いマヒ患者はもちろん、どんな重症者にも、その子供の母親が一日中、かたときも離れることなくつきそっている。日本では、こうした場合、家族ぐるみ、いや家族の犠牲の上にしか、罹病者を守る方法はないのであ△120 る。また、こうした子供たちを持つ母親には、子の病いを自分の責任だと考える考え方が、非常に強く深い。そうでもなければ、あの献身的な看病はできないのかも知れない。
 献身的な看病を非難するつもりは毛頭ない。しかし、多くの母親たちがこのような自己犠牲の上に子供の幸せをきずこうと考えるのは過ちである。そうした考え方は、不幸な子供に、更に不幸を強制する。それは母親の自己満足以外の何ものでもないように思われる。まして、その家族が、その子供のために一生を奉仕で生きたなどという美談は、決して美談とはいえない。そうした考え方が、もし方向を誤って進行する時、一家心中や、親子心中を誘発するからである。
 米国の母親たちは、一見つめたい。そうした肢体不自由児を衆目の中に、どんどん連れ出す。決して、かくしたりなどはしない。デパートや舗道で、手押し車にのせられた肢体不自由児をよくみかける。ニューヨークでは自分で手押し車を操作し、エレベーターにのり、タイプをたたき、飛行機に乗ってインタビューに出かける新聞記者に会った。彼は三歳の時、小児マヒにおかされたという。
 飛行機といえば、ロスアンゼルスの飛行場で見た風景を思い出す。自家用車で一人の老婆が空港へやって来た。運転手が後のトランクから折りたたみ式の手押し車をとり出し、老婆は運転手の手をかりて、その車に腰をおろした。運転手は「いってらっしやい」と一礼して車に乗った。老婆は手押し車を自分で操作して空港構内へ入っていった。しばらくして、私はロスアンゼルスからハワイ・ホノルル行きの飛行機に乗った。なんと、先刻の老婆がすでに乗っているではないか。  この話を花田さんのお母さんにしたら、お母さんは羨ましそうな顔で言った。「日本も手押し車はありますけれど病院や施設の中だけで、生活の中には入っていません。日本の家屋は廊下が狭いし、タタミの生活だから、手押し車は容易に使えないのです。例え使っても、日本の道はね…日本では遠いところへは行けても、近いところには行けないのです。…それに日本のお母さん方は、まだまだ子供を人前に出したがりませんね、その家にCPの子供がいると判っていて、お訪ねしても、そんな子供はうちにはいませんと断る人が多いのです…家の恥だと思っている人がいるんですね、…もう一つ、子供を人前に出さない原因は、世間の人の冷たい眼です…ことに電車に乗った時など…一番厭なのは女学生さんですね。中学生の方は席をゆずってくれたりしますけれど、女学生は遠くの方で、友達同士、ひそひそと、小さな声で喋っては、お互いつつきあって笑っています…中年の男女でも男性の方がいいですね。どうして女の人は、ああ冷たいのでしょう。いつか自分も子供の母親になるのに…しかし老人になると、男女とも同じに親切に暖かい眼でみて下さいます。年をとるということは、やはり、それだけ、世の中を知っていらっしゃるということなのですね」
「CPの子供を抱えたお母さん方で、一番つらいことは、親が年をとることですね、そして、子供を残して先に死ぬということです。いままで、日本ではそういう不幸な子供たちを家庭の中だけで処理してきましたけれど、世の中が住みにくくなってきて、社会もずいぶん変りましたから、もう家庭の負担だけでは処理できなくなってきました。一日も早く良い施設をつくって欲しいですね」
「もう一つ、CPは二つの点で損をしていま△121 す。脳性とつくので精薄と思われます。小児マヒとつくので伝染病と思われます」

 CPはもちろん、肢体不小自由児の子を持つ母親の悩みは、施設が少ないということではない。治療対策が完全でないということでもないようだ。社会の人々が暖かい眼で子供を、そして子供の病気を理解してくれないという点にあるようだ。
 ロスアンゼルスに、肢体不自由児の施設が、はじめて作られた時、医師たちは施設の周囲を塀で囲んで、好奇な眼から患者を守ろうとした。しかし、その時、塀をつくることに真先に反対したのは、患者たちであった。「見られるより見たい」(傍点筆者)という患者たちの、積極的な姿は、病いと闘う人の強い意志を示している。患者たちは今、手押し車に乗って、病院内はもちろん、国道のへりまで出かけて、往来する車や人々を眺めている。そして、進んで、健康人と接触を持とうとする。
 ニューヨークのラスク研究所の所長のドクター・ラスクは「不幸にして肢体のマヒに襲われたなら、マヒによって失われたのは何かを考えなくてはならない。自分にはあと何が残されているかを考えて生きることが人間の偉大さを立証するものだ」といっている。  CPの花田氏も「CPの治療は、自分でそれを克服するより他にない。使えるところをどんどん使えば、その部分は、その部分の能力以上の働きをしてくれる」といっている。  将来、小児マヒはなくなっても、脳性小児マヒは依然として残るだろう。昨今、小児マヒに示された一般の関心が、なぜもっと大きな肢体不自由児全体の問題としてとらえられないのか。日本人の熱しやすく冷めやすい心象を見るような思いがする。更に身体障害者すべての問題として、彼らの生活がとりあげられる時、国家的な視点と規模において、はじめて基礎的な対策が決定するだろう。
 生産にたずさわるプライドと喜びを、一日も早く彼らのものにしてあげたい。整肢療護園はもちろん、全国、どこの施設でもよい。そこを訪ねた人々は、異様な感動を持ちかえるだろう。施設の中に脈々と波うつものは、偉大な人間の意志そのものである。小児マヒやCPは、たしかに恐ろしい。しかし、どんな恐ろしい病気も人間の心までむしばむことはできない。一日も早く、社会へ、家庭へ復帰しようと努力する姿は、感動なくして見ることはできない。しかしこうした感動とは、一日も早く無縁でありたい。衆知をあつめてこの問題にあたることが、人間の、人間としての勝利を永久なものとするだろう。△121
(筆者・シナリオ・ライター)


再録:安田 智博
UP:20150514 REV:
脳性マヒ  ◇全文掲載 
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