脳死及び臓器移植に関する重要事項について(中間意見)  これはNIFTY-Serve:FHEALTHよりダウンロードしたものです。  FAIL名はSDI00470でした。(立岩) 平成3年 6月14日 臨時脳死及び臓器移植調査会 はじめに  本調査会は、内閣総理大臣の諮問を受け「脳死及び臓器移植に関する重要事項につ いて」審議を行うことを目的として設置された。総数15名の委員によって構成され、 その他に5名の参与が参加している。各界における学識経験者を幅広く集めたもので あり、医学関係者はむしろ少ない。  本調査会は、昨年3月28日の第1回会合以来、1年余りにわたり、合計20回の 全体会合を中心に、この問題について委員相互間で討論をしてきたほか、医学や法律 をはじめとする種々の分野の専門家から意見を聴き、さらに国内医療施設の視察、海 外関係施設の訪問調査、意識調査の実施、地方公聴会の開催など、必要と考えられる 幅広い調査活動を行ってきた(調査会の会議録及び活動状況については「審議だより」 によって公表されている)。本年に入ってからは、これらの討論・調査結果を踏まえ、 論点の整理とそれらについての集中的な審議が行われた。  今般、以上の結果をまとめ、脳死及び臓器移植問題のうち特に脳死を中心として、 ここに「中間意見」を発表することとした。これにより本調査会の活動状況ならびに 審議内容が社会により広く知られる結果となれば幸いである。併せて、明年1月に予 定されている答申取りまとめまでに、この中間意見の内容に対する意見、批判を含め、 国民の間で広く脳死・臓器移植問題について活発な論議が行われることを期待するも のである。  なお、「中間意見」取りまとめに際し、一部の委員・参与から、別に「意見書」が 提出されたので、調査会における多様な意見を広く理解していただくとの趣旨から、 この「意見書」を、中間意見の一部として別添の形で加えている。 1. 問題の所在と本調査会に与えられた課題 (1) 問題の所在  「脳が死んでいる」という状態の存在は、既に今世紀の初めから一部の医師には知 られていたと言われるが、いわゆる脳死をめぐる問題が、一般の医師の間に知られる ようになったのは、今世紀後半に人工呼吸器が普及してからのことである。それが今 日のごとく社会一般に大きな関心事となってきたのは比較的最近のことで、このよう な脳死「患者」に対していつまでも「治療」を続けることの是非が問われ、また脳死 体からの臓器移植が試みられるようになって以来のことである。特に昭和42年(1 967年)、南アフリカで世界最初の心臓移植が行われたことを嚆矢として、その後 欧米諸国では相次いで脳死体からの心臓移植が実施されてきたが、これらを通じて、 社会一般に脳死というものの存在が広く知られるようになるとともに、人々は改めて 死の姿の実態について考えさせられることとなった。  脳死体からの臓器が不可欠とされる心臓や肝臓の移植に際しては、必然的に、脳死 を本当に「人の死」と言えるのか、このような脳死体からの移植を認めてよいのか、 認められるとすればそれはいかなる条件の下にか、といった問題が新たに提起される こととなった。  こうした新たな問題は、時期的にこそ若干の差があったものの多くの国々で起こっ た。しかしそれに対する社会の対応の仕方は国によって異なり、例えば、イギリスや ドイツのように、主として医学界の主導に頼ってその限りで問題を解決した国もあれ ば、一方、アメリカの多くの州やスウェーデンのように、最終的には立法措置までも 行うに至った国もある。ただ、今日の時点に立って諸外国の情況を概観すると、昨年 7月にデンマークでも新たな立法措置が行われるなど、現在、諸外国では概ね全ての 国において脳死を「人の死」と認め、脳死・臓器移植をめぐる基本問題は一応の解決 を見ていると言いうるであろう。  ひるがえってわが国では、既に角膜の移植に関する長い歴史があり、また、腎臓の 移植についても十分な経験を経て、いずれも現在では広く行われるようになっている。 心臓移植については、昭和43年にわが国でも初の試みが行われた。しかし、一般に 「和田心臓移植」と呼ばれるこの事例については、後に、臓器提供者が本当に脳死に 陥っていたのか、手術を受けた患者が真に移植を必要とする病状であったのか、等の 点について大きな疑惑を生んだことは周知のとおりである。その後、この「和田心臓 移植」を契機として、例えば、日本脳波学会において脳死の判定基準が定められる等、 真剣な論議を行う動きも一部には起こったものの、医学界全体として眺めると、脳死 及び臓器移植の問題を活発に議論し、脳死体からの臓器移植についてその是非を問う というよりは、むしろこの問題を避けるような印象を残すものであった。こうした一 連の経緯は、この問題に関する現在のいわゆる医療不信につながったとするのが大方 の見方であり、今日、脳死・臓器移植問題を論ずるに当たって、医学界が率先して状 況の改善に努力することが必要であるとの指摘が行われる所以となっている。  その後、昭和50年代の半ば以降、諸外国における臓器移植成績の目覚ましい向上 に刺激され、わが国においても臓器移植に対する関心が急速に高まり、脳死・臓器移 植の問題が再び一般社会において熱心に論議されるようになった。それとともに、国 内での治療をあきらめ、個人の判断と負担の下に、移植を受けることを目的に海外に 渡航する例も少なからず見られるようになってきた。そのような情勢を反映して、最 近では、国内の各大学や医療機関においても、脳死体からの臓器移植をそれぞれの倫 理委員会に申請する動きが活発となり、一部にはそれを承認するという決定を足がか りに、実施に向けて積極的な準備活動を行う施設も相当数に上っている。  こうした背景の下に、わが国では現在、諸外国の例に倣って一刻も早く脳死を「人 の死」として認め、脳死体からの臓器移植の途を開くことにより早急に患者の救済を 図るべしとする主張と、一方、脳死は必ずしも「人の死」とまでは言い切れず、した がって、誤った死の判定をもたらす可能性もあり、患者の人権に重大な問題を与えか ねないとする主張との間で、なお様々な論議が行われているところである。 (2) 本調査会に与えられた課題  本調査会に与えられた課題の中心は、脳死は「人の死」と言えるのかどうか及び脳 死体からの臓器移植は認められるのかどうかという点であるが、脳死は「人の死」か という問題と臓器移植の問題は本来別個のものである。そこで、本調査会ではまず脳 死をめぐる問題を中心に検討することとした。この問題に関連した事項の中には、例 えば脳死の判定基準のように、本来医学の専門家集団の手にゆだねるべき事柄も含ま れているが、これらの点についても本調査会としては可能かつ必要な限り論議を行っ てきた。脳死・臓器移植の問題には医学・医療のみならず、広く社会的な多くの事柄 が複雑にからみ合っているので、本調査会では、とりあえずこれまでの脳死及び臓器 移植をめぐる内外の論議を整理し、その中でも重要と考えられる次のような諸点を審 議の中心にし、今回、中間意見として取りまとめた。ただし、Dの詳細については、 今後さらに論議を深めた上で取りまとめることとしている。 @ 脳死及び臓器移植問題を考えるに当たって、どのような基本的な視点を持つべき か A 脳死は医学的に見て「人の死」と言えるか B 脳死の判定は確実に行われうるか C 脳死を医学的に「人の死」と言いえたとしても、それをそのまま社会的・法的に も「人の死」とすることができるか D 臓器移植その他脳死に関連した諸問題、特に実施面における諸条件など、をどう 考えるか 2. 脳死・臓器移植問題を考えるに当たっての基本的視点 (1) 先端医療と社会の調和  今日の時代は、目覚ましい科学技術の進歩がもたらした光と影の相克の時代である とも言いうる。永年にわたる科学技術の進歩・発達が、人々により質の高い、より豊 かな生活をもたらしたことは紛れもない事実であり、将来ともそれを享受することが 望まれる。しかし一方では、科学技術の進歩に伴って生じた弊害も無視できず、それ らを最小限に抑えるよう努力していくことこそ人間の叡智であると考える。さらに、 科学技術の発達は一方で、いろいろな分野で既存の価値観との間に摩擦を起こしてい る。体外受精や遺伝子治療等、先端医療と言われる分野において、生命倫理の観点か らその実施をどのように考えるべきかが問われているのはその一例である。こうした 諸々の意味から、科学万能に対する反省もまた、まさに一つの今日的課題と言えよう。  今ここに論じられている脳死・臓器移植の問題も、その元を正せば人工呼吸器や免 疫抑制剤の開発など、近年の医療技術の進歩の中から生まれてきたものである。これ ら最新の医療技術の開発によって、かつては救いえなかった多くの患者の生命が保た れ、また、これまでは治癒が不可能とされてきた様々な疾病に治療の途が開かれるよ うになってきたこと自体は、当然、積極的に評価されるべきものであろう。しかしこ の問題も、先端医療一般の例に漏れず、生命倫理の問題と深くかかわっていることは、 改めて言うまでもない。  臓器移植そのものについては、人工臓器の開発等、他のより良い手段が将来は開発 されるべきであり、このように他人の臓器を用いるのはあくまで過渡的な技術に止め たいといった意見や、移植後に起こる拒絶反応とその抑制が大きな課題となることか ら、現時点といえども患者にとって果たして最善の治療法なのであろうかといった疑 問があり、いずれも傾聴すべきものと考えられる。しかし同時に、このような「次善 の策」は多くの治療法に共通する問題であり、今日の医療では臓器移植以外に救うこ とのできない患者があり、しかも自分から進んで臓器を提供しようという人がある限 り、少なくとも当面、やはりそれを認めていくべきであろうというのが本調査会構成 員の一致した意見である。 (2) 人間性に富む医療、医の倫理に基づいた問題の解決と医学界の責任  脳死・臓器移植の問題は、近年の医療技術の進歩の結果生じたものではあるが、単 なる医療技術の問題の枠を超えており、この中には、脳死に陥った患者の人権、その 家族の心情、臓器移植によってのみ救うことができる患者の生命など、一つ一つが極 めて重大な論点が含まれている。この脳死・臓器移植の問題の解決のためには、こう した点の一つ一つにきめ細かく対応していくことが重要であるが、その際には、医療 の原点に立ちかえり、ヒューマニズムの見地に立った取り組みが重要である。これは、 別の表現をもってすれば、医の倫理の確立ということにもつながる。  医学の専門家集団は一つの「プロフェッション」として、それなりの社会的評価を 与えられるべきことは当然であるが、それはその人達のもつ専門的知識、技量に対し てのみでなく、高度の職業倫理により自らを正す自律性を有すればこそのことである と考える。この点で、いわゆる「和田心臓移植」がわが国の社会にもたらした、医療 に対する不信の大きさには看過できないものがある。この事件では、医療に携わる者 個々のモラルが厳しく問われただけでなく、こうしたモラルの確立についての医学界 の努力の在り方もまた、厳しく問われたと言えよう。  国民の医療に対する不信感・不安感を払拭し、真にヒューマニズムの視点に立った 医療を実践していくためには、増々高度化・複雑化して一般社会人には見えにくくな りつつある医療の内容について、個々の医師だけでなく、医学界が全体として社会に 対し十分な説明をし、その理解をうるとともに、また責任をとるという姿勢を示して いくことが重要である。ただその一方で、社会の側にも、専門的な事柄の基本は専門 家に任す姿勢も必要であろう。  脳死・臓器移植問題を契機として今後、医学界が良きプロフェッショナリズムを確 立し、より積極的に社会との対話をしながら医療に取り組んでいくことが、国民の信 頼をうる上で大きな意味をもつと思われる。 (3) 脳死と臓器移植  例えば人工呼吸器の発明・普及と移植技術の発達がそれぞれ別個になされてきたと いう歴史からも分かるとおり、脳死と臓器移植は本来、全く別の事柄であった。事実、 今日でも脳死の多くは臓器移植と関係のないところで起こっており、そのような場で はむしろ脳死に陥った「患者」に対して、引続き「治療」を継続することが果たして 人間としての尊厳ある死を看取ることになるかどうかが、専ら大きな問題となってい る。  しかし、既に述べたように、臓器移植技術が急速な発達を遂げた今日、脳死が「人 の死」かという問題は、臓器移植と極めて密接な関係をもって論じられつつあること もまた否定できない。すなわち、国際的に見て脳死が次第に「人の死」として受け入 れられるようになってきた背景には、単に脳死が「人の死」であるということが社会 によって認められただけでなく、それに伴って善意の提供者からの臓器移植が可能と なり、多くの患者が救済されるという事実も大きな影響を及ぼした点が指摘されてい るところである。 このように、現実には脳死問題と臓器移植問題は、特に実際面で 互いに分かち難い関係をもっているが、このことは、決して、本調査会が臓器移植推 進を目標として脳死が「人の死」と認められるか否かを議論してきたことを意味する ものではない。ここに述べるまでもなく、臓器提供自体がいかに当事者の自由意思に 基づき、また人道的立場に立ったものであったとしても、十分な医学的及び社会的な 根拠もなく脳死を「人の死」とするようなことは決して許されるべきではない。 3. 脳死と医学的に見た「人の死」 (1) 「人の死」をどう考えるか  古来「人の死」については、その姿、その意味するところが様々に論じられてきた が、それらはいずれも、死をある一面から眺めたものに過ぎないと言えよう。その全 景は全ての人がそれを知り、認めているものでありながら、一方ではまた、簡単に論 じきれるものでないことも多くの人の認めるところである。身近に起こる「死」その ものは、各人それぞれの頭の中で概念的に理解されているものであろうが、現実には、 「動かなくなる」「冷たくなる」「腐敗する」等の形で経験的若しくは実感として認 識されてきたものと言ってよいであろう。  近代に入り、医療の終止符として死の宣告が医師の手にゆだねられるようになって からは、太古以来の実感的理解を基礎に、心臓の拍動停止(心停止)、呼吸停止、瞳 孔散大の三つの徴候(特に心停止、呼吸停止)により死を判定することが広く行われ るようになった。今やそれは久しく定着した状態にあり、「死の三徴候」と呼ばれ、 社会慣行となって誰もこれを疑わない。  ところが、死を表現する最も普通の言葉として「息を引き取る」が使われるごとく、 これらの中でも特に重要と思われる呼吸停止は、近年、人工呼吸器の登場によって人 為的に呼吸運動の維持ができるようになったことに伴い、必ずしも死の時点で確認で きなくなってしまった。人工呼吸器を付けたまま、一見呼吸をしながら臨終を迎える 患者が少なからず存在するからである。すなわち、こうした伝統的な死の判定方法だ けで果たして「死」が正確にとらえられるかという、大きな疑問が生じてきたと言え よう。さらに将来、もし人工心臓が開発された場合を想定すれば、もはや死の最も普 遍的な象徴である心停止という現象自体が生じえなくなり、これまでの死についての 通念は根本的な見直しを迫られるであろうことは明白である。  こうした中で、改めて「死とは何か」が問われ、これまでの「死の三徴候」という ものをなぜ、「人の死」とすることができるのかについても根源的に考え直す必要が 生じてきた。本来死というものに対する考えは各人によってかなり幅があり、後に述 べる「一連の出来事」の中のいずれの点をもって死亡とするかはそれぞれによって異 なる。例えば、身体の細胞全てが生を失うまでは死と言えないと考えている人もあり、 反面、不可逆的に意識を失えば、それはもう死であると考える人もある。そのような 各人の考えは自由であり、外から立ち入ることはできないが、それにしても一方、社 会全体としては何らかの共通の認識なり基準を必要とすることは明白である。そして それをどこに求めるかといえば、まず医学の領域が考えられる。  この問に対する答が果たして、医学の立場のみから得られるか否かについては、な お議論の分かれるところであるが、少なくともその基本的な事実関係の認識を求める ならば、医学をおいて他にはないであろう。 (2) 医学的に見た「人の死」とは  医学的に見た「人の死」は、「人の生」と同じく一連の出来事であって、決して一 瞬に始まり一瞬に終わるものではない。ただ出生の場合は、母体から離れて独立する という誰の目にも明らかな一点があるため、出生の時点を決めることが比較的容易で あるのに対し、死亡の場合はそれに比すれば確実な一点を特定することが難しく、た めに死にゆく人の状態そのものが厳しく問われる。それが今日ではいわゆる三徴候で あり、したがって、ここで言う「医学的に見た人の死」とは、「人の死亡時点を判断 するための医学的基準」に他ならないとも言えよう。  これまで三徴候によって「人の死」が判定されてきた経緯は簡単ながら既に述べた。 通常こうした三徴候が現われると、その後次第に体温が低下し、死後硬直が生じると ともに、死斑が見られるようになり、やがては外見上からも、組織・臓器の腐敗が目 立つようになってくる。こうした過程は、一般的には時間単位の速度で不可逆的に進 行することから、これまでの三徴候の出現をもって直ちに死の判定を行うことに実際 上の不都合は生じなかったと言いうる。  しかし、このような三徴候が出現すれば、通常は「生き返る」ことがまずないのは、 経験上疑問の余地がないとしても、ではなぜ、それらがその時点で「死」を意味して いるかについて、これまで医学的、理論的に十分な説明がされてきたとは言い難い。 むしろ人々は、そのような説明は抜きにしたまま慣習として受容してきたと考えられ よう。  いずれにせよ、この問題が改めて問われ始めたのは、先に例として挙げたように、 人工呼吸器の下で人為的に呼吸を続けさせてこそ起こる脳死の問題が社会的にも注目 されるようになって以来のことである。脳死が「人の死」であるとすれば、それは、 三徴候による「人の死」(仮に心臓死と呼ぶ)とどのような関係があるのかといった 問題が積極的に論議されるようになってきた比較的近年、特に「人の死」をめぐる議 論は活発になっている。 (3) 脳死と「人の死」  身体の最小構成単位は細胞であるが、こうした細胞が集まって一定の形態と機能を 具えたものが臓器・器官である。人体では、これらの臓器・器官が相互依存性を保ち ながら、それぞれが精神・肉体的活動や体内環境の維持(ホメオスタシス)などのた めに合理的かつ合目的的に機能を分担し、全体として見事な有機的統合性を保ってい る。  ところで、このように各臓器・器官が一体となり、統一的な機能を発揮しうるのは、 脳を中心とした神経系がこれらの各臓器・器官を統合・調節しているゆえとされてい る。したがって「脳が死んでいる」場合、すなわち意識・感覚等、脳のもつ固有の機 能とともに脳による身体各部に対する統合機能が不可逆的に失われた場合、人はもは や個体としての統一性を失い、多くの場合数日のうちに心臓停止に至る。これが脳死 であり、たとえその時、個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとし ても、それは「人の生」とは言えないとするのが、わが国も含め、近年各国で主流と なっている医学的な考え方である。  これに対して、血液循環の存否にかかわらず、―とりわけ血液循環が維持された状 態で―、個々の臓器・器官が多少なりとも生きている限りは、個体としても未だ「生」 であるとする考え方もある。しかし有機的統一体をもって「生」とする近代医学の立 場から考え、個体としての統合が失われた状態をしてなお生きていると見なすことは 困難で、むしろ「死」とすることこそが合理的な判断と言えよう。かくして、脳のも つ統合機能が不可逆的に失われた状態、すなわち、脳死に陥った人は、医学的に見て、 一個体全体としては死を迎えたものとするのが、現在の医学界における多くの考え方 である。  しかし、医学的に見て脳死が「人の死」であるとしても、実際に脳死によって死が 判定されるのは、例外的であって、大部分の場合は、これまでどおり心臓死をもって 死とすることで何ら差し支えないものと考えられる。何故なら、心臓死の場合もまた、 心停止後脳の機能が直ちに停止し、脳による統合能力が失われ、個体としての統一性 が失われるという意味で同じ「死」とも考えられるからである。なおここで強調すべ きは、いわゆる「植物状態」は、脳幹の機能が未だ失われておらず個体としての統合 が失われた状態とは異なるという点で、医学的に見て「人の死」ではないことである。  ところで、身体を統合する脳の機能の中でも、特に生体に必須とされる機能、例え ば心拍・呼吸などを統合・調節する機能は、脳の中でも主として脳幹部にあることか ら、「脳死」をむしろ「脳幹死」によって定義すべきとの考え方が近年有力となって きている。しかし、脳全体の機能が不可逆的に停止するという点では両者間に実質的 な相違は認められないことから、あえて今、これを「脳幹死」で定義する必要はない ものと思われる。 4. 脳死判定の方法 (1) 脳死判定の意義  医学的立場から脳死は「人の死」であると言いえても、実際にその状態を正確に判 定しうる方法がなければ、臨床の場で脳死をもって「人の死」とすることに躊躇を覚 えても当然であろう。脳死の存在が単に理論上のもので、目の前の患者が脳死に陥っ たかどうかを判定する具体的な方途がなければ、脳死を「人の死」とすることの実際 的な意義は極めて乏しいと言わざるをえない。また、もしそのような判定が不正確に しかできないとすれば、生死の境界が不鮮明となり、結果として患者の人権上問題が 生じるだけでなく、法律関係、社会関係など、あらゆる基盤が極めて不安定なものと なってしまうであろう。  したがって、脳死の判定を正確に行いうるか否かという問題は、医療の現場におい て、脳死が果たして「人の死」と言えるかどうかという問題に劣らないほどの重要性 を持っている。 (2) 脳死判定の基本的考え方と臨床診断  ところで脳死とは、国際的にも、一般に「全脳の不可逆的機能停止」と定義されて おり、わが国でも大方の専門家の間で、脳死とは脳の機能が不可逆的に停止した状態 と考えられている。これに対して、脳死は、脳の全細胞が死んだ状態になって初めて 起こりうるとの主張が一方にあり、社会的に一つの論争点とされてきた。  しかし、ここで言う「全脳の不可逆的機能停止」とは、一つの臓器としての役目で ある、目的をもった主機能が量的に零になることで、決して構成単位の生命活動が全 て無くなることは意味しない。これは、例えば心臓死において、心停止、すなわち心 臓の全機能停止という場合も同様で、心臓の四つの部屋の活動が全て停止して、臓器 としての主機能を失ったことを意味し、決して構成単位である心筋細胞全てについて 壊死はおろか、その生活現象の停止までも意味するものではない。  また、本調査会の依頼に基づき提出された専門委員からの報告にもあるとおり、脳 の一部、例えば視床下部の細胞は、心停止後も相当期間生き続ける場合のあることが 明白である。即ち、脳の細胞が全て死ななければ、脳死、ひいては「人の死」ではな いとすれば、従来の「三徴候」によって死が判定された場合であっても、「人の死」 とは言いえない事例が生ずるであろう。  既に述べたように、脳が生命維持にとって必須の重要臓器であるとされるのは、意 識・感覚等、脳固有の機能のほかに身体各部を統合する機能をもっているためであり、 脳がこうした機能を失った後に、たとえ部分的に個々の細胞が代謝その他の機能を残 していたとしても、もはやそれは、脳としての機能とは言えないであろう。したがっ て脳死の判定も、脳としての機能が本当に残っていないのか、そのような機能の停止 が本当に不可逆的なものかを医学的に確実に知ることを目的とすれば足りるはずであ る。脳細胞が全て死んでいるかどうかまでを確かめる意味はなく、またそのようなこ とは実際上不可能であるというのが大方の意見である。そしてその際、脳死のみなら ず一般に死の判定というものが、臨床的な診断の一つであることにも十分留意すべき であろう。既に心停止に至り、従来の慣例に従って死亡が確実とされた場合には、病 理学的検査を通じて、脳細胞の状態をつぶさに事後的に観察し、細胞について死を確 認することが可能かも知れないが、脳死そのものを判定する目的で眼前の患者に対し、 同様の検査を行うことは許されない。  そのような意味において、脳死判定には、臨床診断技術の面で一定の制約が課され ていることは否定できない。しかし、事情はこれまでの「三徴候」による死の判定の 場合にも基本的には同じである。実行可能な、医学的に確立された判定方法・手段に より、脳機能の不可逆的停止が十分合理的に診断されるのであれば、これまでの「三 徴候」による判定の場合と同様、社会的には許容可能なものと称しうるであろう。こ れらの点は、脳死判定基準統一化の問題、ならびに脳死判定における補助検査の意義 とも密接に絡んでいることでもあるので、後に再度、触れることとしたい。 (3) 脳死判定をめぐる若干の具体的論点  冒頭にも述べたごとく、本調査会構成員の大部分は医学の専門家とは言えない。し たがって、脳死判定をめぐる技術的・具体的な事項の検討に当たっては、まず、国内 外における専門家の見解を整理検討し、また一部の事項については複数の専門委員に 調査を依頼することによって、総合的に判断するという方針を採った。  その結果、現在わが国で脳死判定を行う際の基準として用いられることの多い、い わゆる竹内基準(厚生省厚生科学研究費特別研究事業 脳死に関する研究班 昭和60 年度研究報告書)は、現在の医学水準から見る限り、妥当なものであろうとの感触を 得た委員が多かった。  この判断に当たっては、特に、これまで、このいわゆる竹内基準に基づき脳死判定 が行われた症例の中で後に「生き返った」ものや、あるいは医学的に見て生命徴候が 現われたとみなしうるものがなかったかどうか、またこれと関連して、脳血流測定等 のいわゆる補助検査の中に、必須の検査として用いるべきものはないかどうかが一つ の大きな要点であった。それに対し、本調査会の依頼を受けて調査を行った専門委員 からは、これまでにそうした事例はなく、また、脳血流測定等の補助検査もそれらを 必須とする必要性はないとする報告がなされた。  ただし、現在のいわゆる竹内基準により医学的には十分な脳死判定ができることは 認められるが、判定基準がたとえ万全であっても、人為的な判定ミスが絶対ないとは 言えないという危惧にこたえるために、補助検査のうち、実施が可能なものはできる だけ判定に取り入れる方が好ましいというのが、大方の委員の意見であった。また脳 死判定に対する社会的信頼を高めるためには、判定の結果が目に見えるような何らか の形で行われるべきであるとの見地から、脳幹聴性誘発電位の測定や脳血流の測定等 の補助検査についても積極的に併せて実施すべきとする意見もあった。  また、脳死判定を行うに当たっては、無呼吸テスト等、いわゆる竹内基準が必須と している検査項目はいかなる場合であっても確実に実施されることが絶対条件である が、一方、各種補助検査については、その性格上、施設の設備や医師の考え方によっ て、ある程度の差があることは理解でき、したがって、必ずしも一律である必要性は ないとするのが大方の委員の意見である。しかし、この点に関しては、判定基準は、 できるだけ統一すべきだとする意見もある。 (4) 確実な脳死判定を保障するための条件  判定基準が信頼に足るものであっても、その実施が不確実であれば、そうした基準 は所詮画餅に過ぎない。万一にも誤った結果がもたらされないよう、判定の手続き面 についても十分な条件を整備しておくことが肝要である。  脳死は全死亡例の約1%と報告されており、全体の中ではむしろ例外的なものであ るが、絶対数としては決して少なくない。また、特に救急医療施設では、全国のどの 施設でも起こりうるものである。  いわゆる竹内基準そのものは、高度に専門的な知識がなければこれを用いて脳死判 定ができないというものではない。脳死が発生する頻度の大きい、こうした救急医療 施設であるならばどこでも、一般に判定は十分可能とされている。ただ、脳死判定に 際しては、脳神経外科医、神経内科医、麻酔科医等、十分な専門的経験を有する二人 以上の医師がこれに当たるといった配慮が必要であろう。また、臓器移植に従事する 医師は、その判定者から外すのが諸外国でも通例となっている。さらに、少なくとも 当面、臓器移植に関連しては脳死判定を行う施設・医師を限定してはどうかという意 見も一部の委員から提出され、一考に値するものと評価された。諸臨床記録の作成、 保存などについては言をまたない。  また、脳死判定基準が一つの臨床的診断基準である以上、臨床診断技術の進歩・向 上に伴って、当然、見直しがなされるべきであろう。将来ともこうした判定基準につ いては不断の見直しの努力を払うとともに、随時、現行判定基準による実施例につい ても批判、検討を怠らぬよう配慮し、それらについても、社会に説明されるよう医学 界に求めたい。  さらに、脳死判定に関し、判定基準や判定手続をいかに厳密に定めておいても、こ れが医療の現場で正しく用いられるか否かは、個々の医師ならびに社会人のモラルに 依存する面も大きい。脳死判定をめぐって将来、万一にも国民に不安が生じないよう にしておくためには、本意見書の中で既に触れたように、医師としての良きプロフエ ッショナリズムの確立に向かって、医療界自身はもとより、社会全体が努力していく ことが必要であろう。 5. 脳死を社会的・法的に「人の死」としてよいか (1) 医学的に見た「人の死」といわゆる社会的・法的な「人の死」  これまで、医学的に見る限り、脳死と呼ばれる状態が明らかに存在し、かつ、それ を確実に判定することができること、また、それをもって「人の死」とすることが合 理的であり、これがわが国内外の医学界でも大きな流れとなってきていることを述べ た。  しかし、そのことから直ちに、社会的・法的にも脳死をもって「人の死」とするこ とができるかということとなると、なおそこには問題点が存在すると言わねばならな い。社会的にも脳死を「人の死」と言うためには、社会が脳死を「人の死」として受 け入れることが前提として必要であろう。しばしば、脳死を「人の死」とするために は社会の合意が必要だとも言われるのも、このことを指すものである。  もっとも、こうした考え方に対しては、脳死を医学的に「人の死」とするのであれ ば、当然に社会的にも「人の死」と認めるべきだという考えもありうるし、また、社 会的合意という観念の意味するところが必ずしも明確なものではないとして、このよ うな観念を用いること自体に対する批判もある。しかし、死とは何かという重大な問 題について、とにかく従来とは異なった考えを持ち込むのであるから、社会がそのこ とを受容するかどうかを無視することはできない。 (2) 脳死をめぐる国民感情と社会的合意  本調査会においては、脳死をもって「人の死」とすることが医学的に見て合理的な 考え方であり、これをもって社会的・法的にも「人の死」とすることが自然な考え方 であって、これを否定すべき積極的な根拠も見出し難く、また国際社会の認識とも一 致する、というのが大方の意見であった。  しかし、一部の委員からは、脳死は医学的に見ても「人の死」とは考えられず、ま た、仮に医学的に見て「人の死」であるとしても、その判定の方法に疑義が残ってお り、あるいは心理的に納得し難い等の理由から、全死亡例の1%程度しか生じない稀 な脳死のために、永年社会的・法的に定着している死の概念までも変更することには 反対であるとの意見が出された。  また、社会全体が脳死についてどのように考えているかに関しても、大方の委員は、 脳死を「人の死」と社会的・法的にも認める方向で定まりつつあるとの意見であった が、一部の委員からは、国民のこの問題についての意見はかなり分かれており、した がって脳死を社会的・法的に「人の死」とすることは時期尚早であるとする意見が出 された。  既に述べたように、医学界では脳死をもって「人の死」とすることは合理的である と考えられても、医学的判断がそのまま、直接社会的合意に結びつく必然性はない。 脳死を「人の死」とする考え方が社会的に熟し、その合意にまで成長するには、医学 的判断そのものの合理性について国民の理解が相応に深まっていくことが必要である ばかりではなく、これまでの通念と新しい概念との間の間隙を、感情面をも考慮しつ つ十分に埋めてゆくだけの時間も必要とされよう。また、既に文化的伝統の一部とも なっている死の概念を変えることに対する心理的な反発にも配慮する必要がある。こ うした意味で、国民の間に脳死を「人の死」とすることに反対する意見がある程度存 在することは、むしろ当然のこととも考えられる。  現在、脳死が社会的に「人の死」として、必ずしも全面的には受け入れられていな い理由には様々なものが考えられるが、主なものとして次のような事由を挙げること ができるであろう。  その第一は、脳死状態になってもまだ心臓が動き、体温も暖かい身体を死んでいる とは実感できないというものである。  これまでの死のイメージからすれば、脳死に対して、このような感情を抱くのはむ しろ自然であると言えるが、既に脳の統合機能は失われ、肺が人為的に動かされてい るにすぎないことについての理解が深まるならば、この感覚にも多かれ少なかれ変化 が生じるであろう。また、脳死患者を看取った家族の中には、当初は実感できなかっ た脳死という死を次第に実感するようになる者も少なくないと指摘されている。した がって、現在の国民の死に対する自然な感情は感情として重視すべきではあるものの、 脳死に関する体験や知識が蓄積されるにつれ、こうした死をめぐる国民の感情もかな り変化しうるものと思われる。  第二は、日本人の伝統的な死生観から見て、欧米に見られるような心身二元論に基 づいた脳死を「人の死」とする考え方は国民感情に馴染まないというものである。  しかし、宗教・文化を異にする多くの国々においても、やはり、脳死が「人の死」 と認められていることから考えると、わが国の宗教・文化が脳死を「人の死」と認め ることにどれだけ妨げになっているかは疑問であろう。また、わが国には、人々の間 に特別の遺体観があるために脳死が「人の死」と認められないのだという考えもある が、仮にこのような特別な遺体観があるとしても、それによって臓器移植が受け入れ られず、ひいては脳死を「人の死」と認めることが妨げられているとまで言えるかど うかは明らかでない。  第三は、脳死を「人の死」とするのは、臓器移植を目的にことさらに死と判定する 時期を早めるためのものではないかというものである。  しかし、脳死を「人の死」とするのは、前にも述べたように、医学的に考えてそれ が合理的であるからであって、臓器移植を可能にするためにことさらに死の判定を早 めるというものではない。  第四は、心臓死のほかに、脳死をもって「人の死」とした場合、自分や家族が死を 迎えたときに、いったい心臓死と脳死のどちらによって死を判定されるのか、あるい は相続など法律上の問題がどうなるのかといった点で、不安や混乱が生じるというも のである。  しかし、脳死が発生するのは、全死亡例の1%程度にすぎず、大多数の死は、今ま で通り心臓死によって判定されるものであり、このことが理解されるならば、こうし た不安や混乱は解消されていくものと思われる。  第五は、医師不信の問題とも絡んで、脳死の判定が確実に行われるかどうかについ て不安があるというものである。  しかし、既に述べたように、脳死の判定は厳格な条件の下で正確に行われるべきも のであり、しかもその判定について十分な説明や記録の保存等が行われていけば、こ のような不安も次第に解消しうるものと思われる。  第六は、脳死を「人の死」と認めると、脳死に陥ったときに、本人の意思にかかわ らず、臓器を摘出される恐れがあるというものである。  しかし、脳死からの臓器摘出は「臓器提供」であり、提供側の任意の意思に基づい て行われることが前提であり、その任意性は十分に保障されなければならないことは 当然である。  このように、脳死を「人の死」として認めることに国民が躊躇を感じる理由は様々 であり、こうした中には、脳死についての理解が進めば自然に解消されていくものも 多いと予想されるが、既に触れたように、このような問題については、人々の意見が ある程度分かれるのはむしろ当然であって、全員あるいはそれに近い数の国民の意見 の一致を期待するのはむしろ非現実的だとさえ言えよう。このことは、脳死を「人の 死」と認めてから久しい諸外国においてさえ、なお意見が分かれていることからも窺 うことができる。  具体的にどのような状況となれば社会に受容され合意が成立したとするかは、一概 には決め難いものがあるが、そもそも社会的に合意されたとするためには、一方に相 当数の国民の賛成が必要であるとともに、他方、その事柄に正当性、説得性があるこ とも大切であり、これら両者の適当な均衡が求められる。  こうした観点から、大方の委員は、問題の性格上、一部の国民の反対意見の存在は むしろ当然と受けとめつつも、全般的には国民の脳死についての理解は、近年次第に 深まってきており、また、昨年、本調査会が実施した意識調査等を見ても、脳死を「 人の死」とすることを許容する人々がかなりの数に達していることから、脳死が「人 の死」であるとする社会的合意は成立しつつあるとの理解に立っている。 (3) いわゆる「死の自己決定」について  昨年、本調査会が実施した意識調査によると、死の判断基準は一つでなくてはなら ないとする者よりも、合理的な範囲で、個人の選択に委ねる方がよいとの意見をもつ 者の方が多いという結果であった。  この結果は、死とはあくまで個人個人の問題であり、したがって個人の意思を優先 させたいという感情を反映していると同時に、仮に脳死が「人の死」と認められる場 合でも、脳死を「人の死」と考えない人々の立場に対する配慮を忘れてはならないと している点で、少なからぬ国民の気持を代弁しているものと理解することができる。  しかしながら、こうした国民の気持を勘案して、たまたま脳死に陥った患者の場合、 従来どおりの三徴候による死を採るか、脳死による死を採るかの選択権を認めるのは、 本来、客観的であるべき死の概念と相容れないという批判があり、また、法律関係を 複雑にして混乱させるという法曹関係者の反対がある。 また、これに関連して、一 種の折衷的な見解として、臓器移植をする場合に限って脳死を「人の死」とすること が適当ではないかとの問題提起がなされている。しかし、この考え方に対しても、同 様の難点があり、認め難いとの意見がある。  このようなことから、多くの委員は、より多くの国民が納得し易いように、脳死を 「人の死」とすることを広く一般化せず、なるべく狭い範囲でのみこれを認めていこ うとする考え方は、それ自体としては魅力的ではあるが、客観的な事実であるべき「 人の死」には馴染みにくいとの意見であった。  ただ、脳死と判定された場合、脳死を「人の死」と認めない人に対してまで、医師 は人工呼吸器のスイッチを切らねばならないとすることは、余りにも国民感情や医療 の現場からかけ離れている。したがってこうした国民感情や医療現場の実情に対して、 十分な配慮を払った対応をしていくことも、極めて重要なことと思われる。 (4) いわゆる違法性阻却による臓器移植容認について  一部の委員からは、脳死を「人の死」とせずとも、脳死体からの臓器移植ができる 途さえ開けば、問題の実質的な解決につながるとの意見開陳があった。具体的には、 本人の事前の同意があれば、脳死体からの臓器移植を行っても法律上違法ではないと する考え方である。この考え方には、脳死が「人の死」かという困難な問題の解決を 避けたまま、脳死体からの臓器移植は行いうるものとするという点に現実的な意義が ある。  しかし、脳死を「人の死」と考えない以上、それは未だ生ある状態とせざるをえず、 その場合に脳死体からの臓器移植を認めることは、結局は人の生命を断つことを認め ることになる。さらに、二つの生命の間に価値の差を認め、一方のより高い質を有す る生命をもつ患者の救済のために、他方のより質の低い生命をもつ患者を犠牲にする という考え方につながりかねない。  こうしたことから、大方の委員の意見は、このような考え方が現状打開に向けた一 つの現実的な解決策であることは認めつつも、これを認めることについては躊躇を感 じざるをえないということであった。 (5) 死亡時刻決定の問題  既に述べたように、脳死が心臓死に先立って発生するのは、全死亡例の1%程度に 過ぎず、したがって、ほとんどの例では法律上の死亡時刻は心臓死の時刻として何ら 差し支えないことは言うまでもない。しかし、脳死が心臓死に先立って生じた場合に は、まず第一に、脳死時点を死亡時刻とすべきか、心臓死の時点とすべきかが問題と なり、第二に、いわゆる竹内基準では脳死判定を2回行うこととしているので、脳死 時点は、その第1回目の判定時点とすべきか、第2回目の判定時点とすべきかが問題 となる。  第一の問題については、脳死が「人の死」として社会的・法的にも認められたとな れば、当然、脳死時点が死亡時刻とならざるをえないが、この点については、脳死を 「人の死」と認めない人々に対してどのように配慮していくべきか別途考えていくべ き点があることは既に触れたとおりである。  第二の問題については、法的安定の見地から第1回目の脳死判定時とすべきとの意 見が一部の識者にあるが、本調査会としては2回の判定を行うということは、時間の 経過が事実の不可逆性の証明となることを念頭に置いたものであるとの理解に立って、 第2回目の判定時(確認時)をもって脳死時点、つまり、死亡時刻とするのが適当で あろうと考えた。  なお、いずれにしろ死亡時刻の決定に当たっては、医療現場の実情に即し、医師に よりその決定が適正に行われるべきというのが委員のおおむね一致した意見であった。 6. 臓器移植その他脳死に関連した諸問題 (1) 臓器移植をめぐる諸問題  冒頭でも触れたように、今回脳死問題を中心に中間意見の取りまとめを行った。臓 器移植をめぐる諸問題については幅広い討議が行われたものの、今回は十分踏み込ん だ意見の取りまとめまでには至らなかった。詳細については、今後さらに検討をして いく予定である。  しかし、脳死体からの臓器移植については、これまでの審議の中で、移植が認めら れるための十分な条件が満たされるならば、一方で自らの臓器を他に提供したいと希 望する善意の人があり、他方それを待ち望んでいる患者が存在し、そしてそれら両者 を結びつける科学技術が得られる現在、基本的にはこのような脳死体からの臓器移植 を妨げるべきではないという点において、委員の意見は一致している。  また、臓器移植を実施するに当たっては、特に、臓器提供者(ドナー)本人の意思 に基づくべきこと、また、臓器の提供を受けるレシピエントの選定を医学的にも社会 的にも適切かつ公平に行っていくべきこと、あるいは、移植コーディネーターの養成、 ネットワークの整備等の移植実施体制の整備が必要であること等の意見が表明された。  さらに、この問題については国際的な視野で考えていくことも必要であるとして、 今後、この分野で国際協力を進めていくべきであること、あるいはドナーが交通事故 の被害者である場合も多い現実から、適正な司法手続と移植の要請とを適切に調整し ていくことが必要であるとの指摘も行われた。  また、特に、万一にも臓器売買のようなことがあってはならないとの強い指摘もし ばしばなされた。   (2) 脳死に関連したその他の諸問題  脳死に関連した諸問題としては、臓器移植以外にも、脳死後に人工呼吸器を積極的 に外すべきかどうか、脳死体を研究のために用いてよいか等の諸問題があり、これら についても十分な検討をしておくべきとの意見があった。  特に、脳死後に人工呼吸器を外すべきかどうかという問題は、末期医療の問題とも 絡み、その時に本人・家族の意思にどう配慮すべきか等複雑かつ深刻な問題をはらん でいるとの指摘もなされた。  今後は、今回の中間意見に対する国民の意見をも十分考慮に入れ、脳死問題につい ての所要の検討をさらに進めるとともに、以上のような今回必ずしも議論が十分尽く されず意見の取りまとめまでに至らなかった諸問題についても審議を行い、明年1月 に予定される本調査会答申の中で最終的な意見のとりまとめを行っていきたい。 (別 添) 意 見 書                委員 原 秀男                                委員 梅原 猛                                参与 光石忠敬                                参与 米本昌平 (1) なぜ意見書を公表するか  従来、政府の審議会は全員一致で方針が決定されるのが例であった。それゆえ、わ れわれがかかるゆかしい日本的慣習に逆らって、あえて少数意見としてわれわれの意 見を公表するにはいささかの弁明が必要であろう。  今、日本は大きな国際化の波に直面している。その波の中で何よりも求められるの は、日本人が明確な理論に基づいてはっきりとした自己主張をすることである。かか ることが可能であるためには、たとえ自己の意見が多数の意見と異なるにせよ、はっ きりと自分の意見を言うことのできる人間が必要である。しかし残念ながら、今の日 本はあらゆるジャンルにおいてそういう人間に乏しい。それは一つには、政府の審議 会などで、火の出るような議論をせず、大勢に従っていとも穏便に全員一致で結論が 決められるからでもあろう。これが日本的和の社会であるとすれば、この日本的和の 社会では個人の決断とか責任ということが全くといってよいほど存在していないので ある。今、国際的にかかる和の社会の存在が問われている。いつも全員一致で事が決 められる社会、そういう社会を欧米の人たちが全体主義社会とみるのも無理からぬこ となのである。また今の厳しい国際関係の中で、日本は自己主張することを迫られて いるが、内に激しい議論のないところに、外に強い自己主張がどうして可能であろう か。激しい議論をすれば、当然全員一致はあり得ず、全員一致がないとすれば、多数 意見の他に少数意見が存在することはやむを得ない。もしも多数意見に従えない場合、 自己の責任を明らかにするためにも少数意見を公表すべきである。われわれは常々か かる見解を抱いてきたが、今、脳死臨調の中間意見が公表されるに際して、事は人間 の生死に関係する重大問題であるので、われわれの主張を明らかにし、われわれの責 任をはっきりさせるために、あえて少数意見を公表するという熱い心を抑えることが できず、ここにささやかながらわれわれ四人のほぼ一致した考えを述べる次第である。 (2) 多数意見の根本論理  われわれが脳死臨調の発足以来交わしてきた複雑にして多種多様な議論を一つの中 間意見にまとめた執筆者の労をわれわれは多とするものであるが、率直に言ってこの 意見に深い失望を覚えるものである。意見書は、臓器移植を可能にするために、脳死 が人間の死であると断定するのが緊急の課題であるとし、すべての議論をこの一点に 絞っている。そしてその論理は、1.脳死は医学的に人間の死であり、2.しかも脳 死は医学的に確実に判定できるとし、この二つの医学的見解を基礎に、3.脳死は社 会的にも法的にも人間の死であることを受け入れよという論理である。それについて のわれわれの反対意見は3のところで触れられているものの、それらは否定さるべき 意見として軽く扱われているにすぎない。 (3) 根本論理の誤謬  われわれは、この論理そのものが根本的に誤謬であると考える。なぜなら、脳死は 医学的に人間の死であるという論理的根拠は示されていないからである。これを論証 するために、多数意見は、生命は有機的統一体であり、この有機的統一を可能にする のは脳の機能であり、したがって脳が死んだ場合はその有機的統一が失われ、人が死 んだのと同じであると結論する。生命を有機的統一体と考えることは明らかに一つの 哲学の理論である。それを多数意見は、医学的見解と主張する。生物学的な根拠は示 されていない。このような有機的統一の理論について、最近の哲学では批判的意見が 多いが、それはとにかく、その統一の機能を脳におくのは少なくとも生物学的な理論 ではない。なぜなら、植物には脳が存在していないが、しかし有機的統一をもってい る。生物学的意見であるとすれば、植物にも脳があり、それが有機的統一を司ってい ることを論証しなければならぬ。とすれば、その理論は生命を人間に限ろうとするも のであろうが、それにしてもそれはあまりに多くの矛盾を含んでいる。多数意見は、 脳死の人は有機的統一が失われているとするが、どうして植物状態の人間に有機的統 一が存在し、脳死の人間にそれが存在しないということができようか。脳に人間の生を生たらしめる唯一の価値を求めるときに、脳に欠陥のあ る人は人間として認められにくいものとなり、その人権が侵害されやすい。またしば しば世に活躍している人に、ジギルとハイド氏のごとき二重人格の人が存在するとい う。二重人格の人は人格に統一がなく、その意味で有機的統一に欠けているとすれば、 彼ははたして死者なのであろうか。 (4) 医学の越権  多数意見がこのような矛盾におちいったのは、医学は伝統的にデカルト的人間機械 論に従っているのに対して、ここで唐突に有機的統一論を持ち出しているからである。 おそらくこの有機的統一という概念は、アメリカ大統領委員会の「全体としての有機 体の統合機能 the integrated functioning of the orga-nism as a whole 」とい う概念に忠実に従ったものであろう。これは、臓器移植のために脳死が人間の死であ ると解釈しきることが必要であり、そのために哲学者や宗教家に助けを求め、彼らに よって提出された概念を医学界が承認したものである。この見解の背景には、人間な らびに高等動物を何か特別なものと考える西欧社会の常識があろう。それを多数意見 は、あたかもそれに反対することが非科学的であるかのごとき医学の権威でもって真 理化しようとしている。それは明らかに医学という一つの科学の越権行為なのである。 われわれは竹内基準を、問題を含むにせよ、蘇生限界についての一つの医学的な意見 として認めるものであるが、竹内基準は自らはっきり断っているように脳死の基準で あり、人間の死の基準ではない。多数意見は竹内基準をはるかに逸脱していて、医学 にかつて哲学や宗教がもっていた以上の人間の生死に関する絶対の支配権を与えよう とするものである。 (5) 三徴候説は不安定か  多数意見はまた、脳死を人間の死としたいために従来の三徴候説に対して疑問を投 げている。たとえば、人工心臓が発明されたら三徴候説は成り立たないものであると か。しかしたとえ人工心臓が発明されたとしても、循環現象の輪が崩れて死に到るこ とがあるとしたら三徴候説を改める必要はないことになる。三徴候説は脳死よりはる かに安定した、誰にでも客観的に判別できる死の判定法である。多数意見は人工心臓 の発明を遠い将来のことであると考え、それゆえに心臓移植が必要であるとするが、 その一方で、人工心臓ができたら三徴候説は成立しないというのはどういうわけであ ろう。完全な人工心臓が発明されたら少なくとも心臓移植は必要なくなることになる。 (6) 脳死は人間の死であるとした場合の社会的混乱  多数意見は脳死は人間の死であるという見解をとるものであり、われわれは脳死は まだ人間の死ではない、あるいは人間の死であるかどうか決められない、あるいは決 める必要はないという見解をとるものである。われわれはたとえ人工呼吸器をつけて いるにせよ、呼吸をして、温い体をし、しかも出産が可能な人間がどうして死者であ るかと疑うものである。もし脳死の人間が死者であるとしたら、脳死の人間から生ま れた人間は死者から生まれた人間ということになり、死者が子を産む奇怪さを認める ことになる。  またわれわれは、脳死の人間を死とした場合に起こるさまざまな社会的混乱や人権 の侵害を恐れるものである。法務省の調査によれば、「死」または「死亡」の語を用 いている法令が 633、条項は 4,553もあるという。もし、死を従来のような三徴候説 でなく脳死説で解釈し、脳死一元論をとるにせよ、あるいは三徴候説と脳死説とを併 用するにせよ、いずれにせよこのような法令や条項の適用に大きな混乱が起こる。そ の場合、脳死の人間に対する検視制度、監察医制度の見直しが必要である。また死亡 時刻の判定はまことに重大事であり、それは公職選挙法や相続などに関わる。多数意 見は、こういう問題の複雑さを十分考慮することなく、脳死は人間の死であるとの結 論をあまりに早急に出そうとしているのではないだろうか。 (7) 脳死が人間の死であるとした場合に起こるべき人権侵害  人間の生が社会的な生であるように、人間の死は社会的な死である。それゆえ、人 間はいったん死亡と判定されたら一切の人権を失うのである。それは、人間が人格か ら単なる物になったことである。それゆえに、いったん死者、すなわち物と宣告され た脳死の人間が、たとえ多数意見のように人工呼吸器を外さない自由を認められるに しろ、人間としての十分な医療と看護を受けることが期待できるとは思われない。や はり生の可能性がたとえほとんど残っていないとしても、医療と看護行為を続けるべ きである。死者と宣告された人間に生者と同じような医療と看護の行為を期待するの は難しい。もしも論理的一貫性を通すとすれば、脳死と宣告された時点において人工 呼吸器を外すべきであろう。それをあえてしようとしないのは、何らかの意味におい て脳死の人間がまだ生者であることを暗に認めているからではないであろうか。  たしかに、脳死を人間の死とした場合、臓器移植はやりやすくなるのである。「も うこの患者は死んだ。だからその臓器を提供してほしい。それが他の人間の生命を救 うことになる。そういう崇高な行為をあなたはなぜしようとしないのか。」このよう に医者から、特に長い間世話になった医者から説得されたときに、家族がそれを拒否 することは日本社会の現状においては難しい。それは、日本社会においては医者と患 者の力関係が西欧の社会と違うからである。それは中川米造氏のいうように、医者の 座る椅子が背もたれの立派な椅子であり、患者の座る椅子が丸い一本足の椅子である という事実に象徴的に示されている。このような日本社会の現状を考えるとき、脳死 を人間の死とすればいかなることが起こるか明らかであるように思われる。多数意見 は、こういう日本社会と西欧社会との違いを軽視し、またそれを改善する効果的方策 を呈示せず、ただ脳死を人間の死とすることのみを西欧社会に学ぼうとしているよう にわれわれには思われる。 (8) いわゆる竹内基準について  また、いわゆる竹内基準についてであるが、率直に言えば、この点についてのみわ れわれ4人の間にも多少の意見の食い違いがあった。竹内基準はいくつかの生理学的 測定の組み合せをもって全脳死の判定基準としているが、これは全脳死確認のための 必要条件であっても十分条件ではない。この点を重視し、別の形で表現したものが立 花隆氏の「器質死論」である。しかし諸外国では、この条件が満たされた事実(fact) をもって全脳死 (value)とみなすことに強い疑いをもっていないのであり、実際その ようなものとして運用されている。臓器摘出の場合に限って、竹内基準に何らかの臨 床的配慮を要求するか否かについて、われわれの間で竹内基準を認めるより仕方がな いという意見と、積極的に聴性脳幹反応、脳循環・代謝の永続的かつ完全な途絶の証 明などをとり入れるべきであるという意見があった。しかし以下の点においては意見 が一致した。竹内基準は、蘇生限界の基準を示すという目的の下に、全脳髄の機能の 不可逆的喪失という脳死の定義を定め、判定基準を対応させている。ところが多数意 見は、このワンセットになっている竹内基準の目的、定義、判定基準をバラバラにし、 脳死の定義を「脳の主機能たる統合機能の不可逆的停止」と改変した上、脳死をもっ て「人の死」とするときの判定基準として竹内基準を「妥当」と評価して目的を改変 しているという点である。 (9) 受容せよという論法  多数意見は、権威ある医学的見解に日本の国民は拳拳服膺して従うべきであるとし、 またこの問題についての認識が深まるにつれ賛成が多くなるであろうという楽天説を とるが、必ずしもそのようには言いきれない。脳死臨調が招いた講師は、この問題に ついて深い理解をもっている識者であるが、控えめにみてもその中の約4割ほどは脳 死を人間の死と認めることに深い危惧を表明した。また地方公聴会では多くの人の意 見を聞いたが、それらの約半数は慎重意見、あるいは反対意見であった。福岡の公聴 会では、身体障害者の方から、脳死を人間の死と認めたら、いちばん先に犠牲になる のはわれわれであるという悲痛な叫びがあった。このような人たちは脳死問題に関心 の深い人であり、認識もまた決して浅いとはいえない。また医学界も、移植学会は移 植に賛成しているものの、脳死を人間の死と認めるとは言っていない。法医学会は中 間意見で脳死を人の死と認めている。それに対して精神神経学会は脳死を人間の死と することに対して反対を表明しているが、他の学会は格別の意見も表明していない。 また法律関係者の約半数は反対であるという。日本印度学仏教学会でも反対を表明し た方が多かったと報道されている。また心臓内科の碩学が移植医療を残虐な医療と強 く非難しているなど、識者の憂慮も深い。かかる現状においては、社会的合意がある とはとても言えない。社会的合意をあまり重視せず、一つの見解をただ受容せよとい うのは決して民主主義のいい方ではない。多数意見は、講師の約4割、公聴会の意見 の半分、及びいろいろなジャンルにおける識者の憂慮をほとんど無視した形でまとめ られているように思われる。 (10)臓器移植について 臓器移植に関してもわれわれは熱心に論じたが、多数意見はそれについてあまり触 れず、それは今後の議論に待つという。しかしこの脳死臨調は、脳死及び臓器移植に ついての調査を依頼された調査会のはずである。そして臓器移植についても、脳死に ついてほどではないが、われわれは熱心にかつ詳細に論じてきた。しかし多数意見で はそれが副次的にしか扱われず、主題としてほとんどとり上げられていないのは、脳 死が人間の死と決定すれば臓器移植問題は自然に解決するとの考えによるとしても、 甚だ物足りないところである。したがってわれわれは、臓器移植問題に関し、あえて ここに言及し、今後の論議に資したいと考える。 臓器移植について、われわれは、少なくとも現在の段階においてある不完全性を脱 却できない医療ではないかという疑いを払拭することができない。なぜなら、臓器移 植には拒絶反応がつきものである。人間の身体が一つの情報体系をもっていて、身体 の部分といえども既に一定の情報体系をもっているということは、はからずも移植医 学が教えてくれた人間の生命の深い秘密であった。それゆえに、一定の情報体系をも った身体に別の情報体系をもった身体の部分が移植されるときに、両者は激しい拒絶 反応を起こすのである。それは人間の生命における個性の重要さを教える自然の摂理 のように思われる。拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤を投入するが、それによって 外敵を防ぐ機能が失われ、感染症になりやすい。まさに臓器移植医学は、この拒絶反 応と感染症の鼬ごっこということになる。 心臓、肝臓などいわゆる脳死状態の臓器を必要とする臓器移植医学はある種の非倫 理性を含んだ医学とみる意見がある。臓器移植を成功させるためにはやはり新鮮な臓 器を摘出しなくてはならず、新鮮な臓器を摘出するにはできるだけ早く脳死と判定す ることが必要だからであろう。臓器移植医学はかかる要求を本質的に抱いている医学 であり、その限りにおいて、できるだけ遅く死の判定をし、人間の蘇生を願ってきた 人類の慣習に背き、倫理に反する非倫理性を免れない医学であるとの批判を受ける。 このような批判を克服するためには、その臓器移植によって、それをしなかったら死 んでいるはずであった命を長らえさせたという倫理的確信が必要であると思う。それ ゆえに、臓器移植に携わる医師には絶えざるそういう倫理的反省が要請されている。 われわれは、単に移植医学のみならず、今、医学全体がそのような倫理的反省を要求 されていると思う。 ところが札幌医大心臓移植事件、筑波大学膵腎同時移植事件などのように、われわ れが首をかしげるような重大事件が起こっても、脳外科、神経内科、麻酔科など関連 医学界はそれについて何ら発言をせず、それらの事件はすべてうやむやになっている。 そのことは人々の医学に対する不信を増大させ、脳死を人間の死とした場合、臓器移 植の必要のために誤って生者を脳死の人間、すなわち死者として判定されても、それ を訴え、証拠立てる手段もなく、またうやむやにされてしまうのではないかという人 々の不安を除くことを困難にしている。 (11)移植の条件 しかしながら、かかる現状を認めつつも、今ここに一人の患者がいて、その患者の 命が臓器移植以外には救いようがない。臓器移植を行なえば、その患者の命を少なく とも5年間は長生きさせることができるという事態を前にして、われわれはそれに対 してNOと言えるほど冷たい心をもつ人間ではない。 この調査会の委員の一人から、再三再四、調査会に対して一つの意見が具申された。 それは、ここに一人の臓器を提供したいという強い意思をもつ人がある。そしてまた、 それを受けて命を長らえたいという人がある。こういう二人の意思の合致を社会が妨 げているとしたら、それは罪ではないか、と。その通りである。自己の臓器を提供し、 それによって病の人を救うのはキリスト教の愛の行為であり、仏教の菩薩行でもある。 われわれは愛の行為や菩薩行を礼賛するものであるが、われわれが恐れるのは、愛の 行為や菩薩行の名において臓器提供が事実上強制され、義務づけられ、著しく人権、 特に弱者の人権を侵害することなのである。 それゆえわれわれは、レシピエントの選択が医学的にも社会的、経済的にも公平で あることを当然の前提とした上で、以下の条件を満たす場合においてのみ臓器移植を 認めようとするものである。 第一、ドナー本人の摘出・移植の意思が明確に表示されていること。 第二、現時点におけるもっとも厳格な定義、判定基準、判定方法によって公正に「 脳死」が判定され、その確実性が保証されていること。 第三、ドナー及びレシピエント双方のインフォームド・コンセントが確認されてい ること。 第四、摘出・移植の施設が、一般の医療においても、自己決定権を尊重する制度を 設けていること。 なかんずく診療録などの閲覧・謄写権を原則承認し、独立かつ公正な審査機関 を設けていること。 (12)柔らかい法 われわれは多数意見に対し批判を加えてきた。しかし、多数意見はわれわれに対し て次のように反論するであろう。外国において、特に西欧先進諸国においては、法に よってはっきり決められているにせよ、慣習によっているにせよ、脳死は人間の死で あることを前提にして臓器移植が行なわれているではないか。それが世界の文明の大 勢である以上、それに背いて、日本のみ脳死を人間の死と認めない理由をどこに見つ けることができようか。 この反論は甚だもっともな反論である。なぜなら、日本は明治以来、西欧先進諸国 を範とし、西欧先進諸国から科学や法律などを学んできた。今、脳死と臓器移植とい う問題についてのみ西欧先進諸国から科学と法律を学ばないとしたら、それは明治以 来の日本のすぐれた伝統に背く非文明的、非科学的な行為ではないか。 その問いに対して、われわれは次のように答える。われわれが西欧から学んだもっ ともすぐれたものは何であったか。それは真理の感覚と人権の尊重である。真理の感 覚とは、論理的に根拠のない命題は、いかなる権威によって主張されてもそれを真理 として認めないという態度である。これこそ近代科学を生んだ西欧のもっともすぐれ た精神である。また人権の尊重ということも、西欧民主主義の基本精神であり、われ われは明治以来、その精神によって日本を近代化してきた。そのわれわれが西欧先進 諸国から学んだ西欧のもっともよき伝統、真理の感覚と人権の尊重という精神が多数 意見に対して否を言うのである。真理の感覚に照らして、多数意見の、人間を有機的 統一体とし、脳をその統一を司るところと考え、脳死を有機的統一の失われた状態、 すなわち人間の死と考える考え方は誤謬であると考えざるを得ないのである。そして 人権の尊重に照らして、多数意見のように、脳死を人間の死とすることのみを性急に 臓器移植の条件とすることに重大な危惧を覚えざるを得なかったのである。 われわれが西欧先進諸国から学んだもっともよい西欧の伝統である真理の感覚と人 権の尊重が、たまたま脳死と臓器移植に関して、西欧先進諸国が出した一つの学説を、 あまりに忠実に、そしてあまりに性急に日本に移入しようとする多数意見を批判せざ るを得なかったのである。 以上のように、われわれは脳死を人間の死とすることに大きな疑問をもつものであ る。それにもかかわらず、臓器移植を全く認めないわけではない。日本には、われわ れのように脳死を人間の死とすることに疑問あるいは懸念をもちながら、臓器移植に よってしか助からない患者のために、厳しい条件の下に移植の道を開くべきであると 考えている人が多く存在している。法は彼らの温かい人間の心に扉を開くべきであろ う。法のために人間が存在するのではなく、人間のために法は存在するのである。脳 死を人間の死と認めないが、臓器移植を可能にする法が違法性阻却論になるにせよ、 責任阻却論などになるにせよ、かかる日本の現状に応じた新しい法の創造が必要であ ろう。 今、文明は一つの転機を迎えている。それは、近代の人間が生み出した科学と技術 をもって自然を征服し、自然から豊かな富を生み出すという文明の原理が、もはや誰 の目にも明らかになった地球環境破壊という現状において大きな変更を余儀なくさせ られているのである。また近代科学はその科学の必然的発展によってさまざまなもの を生み出してきた。そのもっとも大きなものが原子力であろうが、原子力についてア インシュタインやオッペンハイマーが抱いた憂慮はまだ十分に解決されていない。そ してまた最近の生物科学の発展は、その科学の発展のみに任せれば人間の倫理の根本 を揺るがすようなさまざまなものを生み出してきたのである。こういう状況において、 法もまた新しい状況に柔軟に対応することを要請されている。今、近代医学は、その 科学の内的発展によって新しい「脳死」という状態を現出した。その新しい状況に法 は柔軟に対応しなければならない。新しい酒は新しい皮袋に盛るべきもので、古い皮 袋に盛るべきではないとわれわれは考える。