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『ケアってなんだろう』
医療と社会ブックガイド・61)

立岩 真也 2006/06/25 『看護教育』47-06(2006-06):
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 前回の続きが終わっていないのだが、別の、しかし人も中味もこの間の話の流れに関係のある本を紹介する。4月号であげた本の編者の一人の小澤勲の本。3月号と5月号で著書をあげた天田城介はこの本の中で対談者の一人でもあり、文章を書いてもいる。
 まず、編集者による宣伝の一部。「自閉症研究の先駆者、反精神医学の旗手、認知症を文学にした男……そんなさまざまな顔をもつ小澤氏に、”ケアの境界”にいる専門家、作家、若手研究者らが、「ケアってなんだ?」と迫り聴きます。/第T部は、田口ランディ(作家)、向谷地生良(べてるの家)、滝川一廣(精神科医)、瀬戸内寂聴(作家)という多様なバックグラウンドをもつ各氏との対談。第U部は、西川勝(看護/臨床哲学)、出口泰靖(社会学)、天田城介(社会学)という気鋭の学者3氏による踏み込んだインタビュー+熱烈な小澤論。さらに、小澤氏自身による講演録と、書き下ろしケア論も付いています。」
 小澤さんっていい、といった感じで読んでもらってもよいし、楽しんでくれればよいし、様々に具体的にわかったり納得したりすることがある。岩波新書の『痴呆を生きるということ』は6万部以上売れているそうだ(p.106)。小澤の本が出たせいなのか、それともそれ以前からのことだったのか、もうわからなくなっているのだが、ここで語られている事々は至極もっともなことに思える。ただ、それはまだすべての人にとってのことではないらしい。
 「医学界ではあまり評価されない私の論」(p.14――「と、こんなにも共通の考えをもつ方が、若手の臨床社会学、臨床哲学の領域におられたのか、という「発見」――と続く)「『痴呆を生きるということ』を出したときに、医者たちから「あんなの文学作品や。科学でもなんでもない」と言われてね」(p.91)「医者の評価は高くはないのですが」(p.101)。
 そのような反応はまったく愚かしいことであると言うほかない。それで、最近よく思うのだが、幾度でも同じことを語るしかない。小澤が現在客員教授を勤める種智院大学での公開講座に、近所の人たち含めとてもたくさんの人がやって来た。そこで次のようなきちんとした話がされるのはやはりとても大切なことだと思う。「認知症にはさまざまな原因があり、種類があって、それによって治療やケア、経過や予後も違うのです。[…]そのような違いを無視して語られる予防論も多く、とてもうさんくさいのです。私は予防の話が嫌いです。予防論には、どこか認知症を絶望的な病いとする雰囲気があります。また、認知症を生活習慣病とする考えた方からすると、現在、認知症をかかえて生きておられる方は、間違った生活習慣を送ってきた人なのでしょうか。その結果、いわば自業自得でいまの病いをかかえられるようになったのでしょうか。私は、決してそうは思いません。」(pp.240-241)

◇◇◇

 さて、この本全体の中で若干浮いている感を与えているのが、天田城介の文章なのだが、ここでは対談のところを。司会とともにしつこく突っ込み、小澤が同じように返す。これが反復される。
 天田「療法の否定と、療法がときとして意味をもつということ。そのへんをどうやって言うかがテーマですよね。」→小澤「目の前に困った人がいれば、やっぱり助けるために動く。だけど、それが場合によってはその人を傷つけているかもしれないということはつねに念頭においておく。」(p.197)
 司会「いろいろな軸が同時に立っている。」→小澤「それはそうかもしれない。いい加減なんや。」
 司会「そのいい加減さを聞きたいのです(笑)」→小澤「臨床家というのはだいたいそんなもんやね。折衷というか、使えるものは何でも使ってみようとするのです。」(p.200)
 天田「一見矛盾するこの二つの事柄が並列的に接続している。それは単に臨床家としてプラグマティックにやってきたからというだけでもないのではないかと思っているのですが。」→小澤「それはわからないなぁ……。」(p.201)
 天田「規範の内部で起こるあれこれに対してはひじょうにクールなまなざしをされていますよね。であるにもかかわらず、規範に呪縛されざるを得ない人たちへは「寛容」であり、多元的な価値を許容することろがありますね。それは何なのだろうかというのが読んでいてもよくわからなかった。」→小澤「何なんだろうな。ぼくもようわからん。ただ、そうも言っていられないことがあってね。[…]うつ病の人もたくさん来るんですよ。そうすると嫌いやとか、なんだこいつらはと言うわけにもいかないのですね。」(p.202)
 天田「ただ先生、いくつかの価値が同居しつづけるためにはそれなりの足場があるのかなと思うんです。」→小澤「足場ねえ。わからないけど、やはり生涯、ずっと現場に居つづけたということでしょうかね。」(p.203)
 そして対談の最後も、小澤「そうかもしれないけど、うーん。やっぱり自分ではわからないな(笑)」(p.204)と終わる。
 人は多く、相手に「わからない」と答えられると次の話題に移っていくのだが、ここでは同じパターンが続く。何が起こっているのか。
 この世には様々にあれかこれかという軸があるのだが、いずれでもないとかどちらも大切だということもある。なるほど。ただこのようなこと自体はとくに「ケア」が語られる時にはよく語られる。そしてそれはたぶん間違っておらず、だからこそ語られる。しかしここで執拗に問われているのは、二つをどう両立させるのか、あるいはどう混合し配合するのか、その根拠は何かだ。
 それに対して小澤は、一つにはわからないと言い、一つは臨床をずっとやっていてそうなったのだと言う。そしてそれは、以前の「偏向」の反省という文脈でも語られる。小澤が1970年から勤めた京都の洛南病院と言えば、当時の精神医療を巡る社会運動を知っている人は知っている病院だ。その頃のことを小澤は同業者である滝川一廣との対談で語っている。
 「むかし「反自閉症論」ともいえる本を私が書いたときに――かなり政治的な背景があって書いた本だったのですが――、滝川先生に「こんなことを考えても、臨床的に何の役に立つんだ?」と批判されたのです。それが私にはだいぶこたえてね。以来、自分の臨床体験にもとづかない文章は書くまいと思ったんです。」(p.68)
 「やはり運動に巻き込まれていると「社会が変われば人間も変わる」というような感じが強かったのかもしれませんね。[…]もう一度臨床に沈潜して、基本的なものごとから考え直さないと、「とうていこのままではやっていけないな」と、どこかで感じていたんですね。」(p.79)
 「精神医学に対して「こんなことを考えていたら、患者さんのこころからどんどん離れていくじゃないか」と思っていたんですが、中井[久夫]先生の本を読んで「こういうふうにていねいに見て、それを言葉にすることが本人へのやさしさに結びつくんやなあ」と思ったんです。/ぼくが洛南病院にいたときに、週一回、みんなで集まって読書会をしていたんですよ。最初は『反精神医学』だとかクーパーだとかを読んでいたんですが、あるとき中井先生の本を読んで、そのあたりからだいぶ気持ちが楽になりましたね。」(p.93)
 そしてその上で、医療者・専門家という立ち位置に自覚的であることの大切さを語る。どんな立場で何をしているのかをわかりながらやれということである。
 むろんそれはとても大切だ、言われたことはわかる。しかしそれだけではないだろう。そう天田は食い下がっているのだ。それももっともではある。長く現場を続けてきた人たちはたくさんいる。そんな人たちの中には「臨床」や「現場」という言葉を、私のように机上の空論を組み立てている輩への「殺し文句」のつもりで使う人たちもいて、そういう人たちは自己を省察することが少ないだろうが、もっとまともで自らの立場を自覚し相対化できる人もまた多いだろう。ならば皆が同じ考えに至るだろうか。そうも考えにくい。ならば小澤については何があったのか。これは気になる。
 本人の言葉としては経験を重ねてきただけというのはありだろう。しかし、このことは三井さよの『ケアの社会学』(2004、勁草書房)の書評でも述べたのだが、他人はそれで終わらせられない。また、実践の方向としても、つねに以心伝心、実際に見て覚えよとは行かないなら、どうしようということになる。ではきまりを決めるか、マニュアルを作るか。しかし、それ(だけ)ではまずいだろうところから話は始まってもいたのだ。小澤も、自らが「棒の如きもの」に貫かれてやってきたと言う(p.188)。それは何か。言葉にできるようなものであるのか。(続く)


小澤 勲 編 20060501 『ケアってなんだろう』,医学書院,300p ISBN: 4-260-00266-X 2000 [boople][amazon] ※,


UP:20060428 REV:0502(誤字訂正)
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