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>HOME >BOOK (医療と社会ブックガイド・59) 立岩 真也 2006/04/25 『看護教育』47-04(2006-04): http://www.igaku-shoin.co.jp http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/ 前回の続きで「天田城介の本・2」のはずだが、すこし別のことを書かせてもらう。その前に一つお知らせ。天田はこの4月より、熊本学園大学から移って、私の務める大学院(立命館大学大学院先端総合学術研究科)で働くことになった。2006年度については、この研究科が「「魅力ある大学院教育」イニシアティブ」というものに当たったので、その予算で院生の研究指導にあたってもらう。 さらにその前に一つ――と、書き始めたら長くなってしまって、今回はこれで終わってしまうのだが――前回の終わりに言及した小澤勲が関わった本が最近また1冊出版された(近くもう1冊出るそうだが、それはまたお知らせする)。小澤勲・黒川由紀子編『認知症と診断されたあなたへ』 まず小澤の「認知症をかかえるあなたへのメッセージ」がある。その後は7つのパートからなっていて、それぞれが6個から16個の質問とそれに対する答によって構成されている。全部で53の質問・回答がある。「1認知症って何?」「2家族との関係はどうなる」は小澤、その後、西村敏樹「3病院と上手につきあうには」、宮本典子「4暮らしの注意点あれこれ」、伍賀史子「5この不安、なんとかしたい」、松澤広和「6サービスを利用すると楽になる」、斎藤正彦「7最後まで自分らしく生きるために」と続く。さらにコラムを北山純。そしてもう一人の編者である黒川の「認知症のわたしから家族へのメッセージ」、やはり黒川の「おわりに」で終わる。 宣伝通り、本邦初の認知症の本人向けの本ということになるのだろう。全体としてよい本だと思う。「帯」には「事実と異なる「なぐさめ」なしの、クールに役立つガイドブック!」とある。こうすれば認知症になりませんとか、こうすればなおりますといった嘘――と、今のところは言わねばならない――が書かれている本より、この本は売れなければならない。 ただ、不思議な感じを感じるところも少しあった。 最後の部分は「認知症のわたしから家族へのメッセージ」と題されているのだが、著者黒川はどうも認知症ではないようだ。それは黒川が書いた「おわりに」からも知られる。そしてこの文章は、一つめ「受容なんて、できません」、二つめ「迷惑をかけたくなかったのに」といった項目が並ぶのだが、読んでいくと、一つ一つの項目を別々の「私」が書いているというか、語っているような書かれ方になっていて、各々に微妙に性別も与えられているようだ。たとえば、一つめの項目は女性によるもののようで、「どうして自分が? どうして? どうしてこうなってしまったの?」と始まり、二つめは男性によるものらしく、「「子どもにだけは迷惑をかけたくない」。それが若い頃からの僕の願いだった。」(p.120)と始まる。 とすると、この文章は、認知症の人になりかわって、かつ代表して、書いたということなのか。もちろん、ここに書かれているような様々な人たちか現にいるのだろうし、筆者は、いままでの豊富な臨床の経験から抽出して、この部分を書いたのだと思う。そして、もちろん筆者名は明記されている。 しかし、というか、だから、というか、その筆者が「認知症のわたしから家族へのメッセージ」という題の文章を書く、というのは変だと思えた。そして、例えば、その最後の部分は、「ありがとう」という見出しの後に、「最後に大切なあなたに、「ありがとう!」と伝えたい。/いつもそばにいてくれて、世話をしてくれて、見捨てないで居続けてくれて、本当にありがとう。」(以下略)と続く。そう思う人がいることも、その人がそう思うことも変ではない。しかし、筆者が、本人として?(本人になりかわって?)そう書くのは、変だと思った。 もう一つ。例えば、7「最後まで自分らしく生きるために」、その最後、53番目の質問は「終末期の延命措置など、認知症が進行した後の医療上の意思決定はどうしたらいいのでしょう?」という質問だ。とくに昨年あたりからこの関係にかかずらわっているので気になるということはたしかにあるのだが――3月25日には研究集会<死の法>、詳しくはHPで――書かれていることに異論を言いたいとかそういうことではない。単純に、読み手がよくわからないのではないかと思った。例えば 「今の気持ちを「リビング・ウィル」のような文章にしておくことも一つの方法でしょう。/でも、認知症が進行したときのあなたは、今のあなたと違う考え方をもっているかもしれません。/どうなるか分からない、不確かな将来について、あまり、こまごまと決めるより…」(p.117) 「リビング・ウィル」は、このごろは「末期」における「<延命治療>の停止」の意思を記した書面のことを指すことが多いと思う。例えば日本尊厳死協会が普及をはかっているそれは、そのような趣旨のもので、書式もいたって簡単なものである。とすると、「こまごまと決める」とどうつながるのだろう。「「リビング・ウィル」のような文章」の「ような」が効いているのかもしれないのだが、いずれにせよよくわからない。 こういう本が一番難しいのかもしれない。すくなくとも私がいつも書いているような文章よりはずっと難しい。だから、日ごろ楽な文章しか書いていない側が何か言うのは気が引ける。それにしても、どうして難しいのだろうか。 もちろん、難しい用語、学界・業界にしか通じない言葉を使ったらわからないということはある。ただこれはなんとかなったとしよう。次に、理解力の度合いと別に、様々な人がいるということ。ただ、これは何を書くに際しても言えることではある。すべての人向けに書くことはあきらめざるをえないというところはある。 もう一つ、一般にはだいたいこうふうに人は生きているということがあって、それとかけ離れたことを書いても理解が得られないということがある。しかし同時に、書くことが、人が思っていることそのままだったら、わざわざ書く意味がない。この本にしても、人が認知症について思っていることが、実際と違うことを知らせるために作られてもいる。まったく同じなら本にして出す意味もない。何かは新たに加わることになり、そこに人が知っていること思っていることとの距離が生ずる。 それでも事実の間違いについては比較的簡単だ。年をとると皆がこうなると思っているかもしれないが、実際には全体の中のしかじかだけであるとか。それを読むと、自分が誤解していたことがわかって、修正する。それだけで以前よりは前向きになれるといったことが多々あり、実際この本にもそうしたことが多く書かれる。 ただ、こういう事実関係の正誤でなく、価値観に関わる場合がある。ひどくうろたえている人がいた時、どんなことを言ったらよいのか。「そんなことは気にすることはない。」と言っても仕方がない。とすると考えつくのは、「それはわかるけど、でも、こうも考えられませんか。」などど言うことである。さらにもう少し自信がなくなって、「あなたの思うことは私にはわかりませんけど、あなたがそう思っているということはわかりました。さて、こうも考えられませんか。」このように言うことになる。これで既に十分に、聞き手・読み手をこんがらがらせてしまうかもしれないのだが、そう言う。骨組みとしてはこういうふうにしか言いようがない。また、なにかはっきり言い切ったら、かえって押し付けがましくなってよくないとも思う。 ただ、配慮の末、迷った末、結果としてどう理解したらよいか、かえってよくわからない文章を書くより、私は(私なら)、上記した場合なら、「認知症が進行したときのあなたは、今のあなたと違う考え方をもっているかもしれません。」という筋の話をなんとか言ってみるという方を選んだように思う。『思想』2月号掲載の拙文「他者を思う自然で私の一存の死・3」(3で終わり)の最後は以下のようになっている。 「そうすると、たしかにその人でもあるような、しかし別の人であるような人が現出するのだ。あるいは別の生物になるのだと言ってもよいかもしれない。実際には、記憶もあるし、未練もある。だからそうしたつながり、回路をもちながら、様々に固執し、また誇示したりもして手に負えないのではあるが、しかし同時に、手に負えないまま、別の生物になってしまうのである。まったくそれでよいはずである。」 こんな文章を書くより、この本を書くことの方がずっと難しく大切である。ただ、文章は所詮「私」が書くものでしかないと居直れるような時には、各々の「私」が思うことを直接に、むろんできたらわかりやすく、言ってみればよいのかなとも思う。 ◇小澤 勲・黒川 由紀子 編 20060120 『認知症と診断されたあなたへ』,医学書院,136p. ISBN: 4-260-00220-1 1600 [boople]/[amazon] ※, UP:20060227 REV: ◇医療と社会ブックガイド ◇医学書院の本より ◇書評・本の紹介 by 立岩 |