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Tateiwa 第59回公共哲学京都フォーラム「ジェンダーと公共世界」 立岩 真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科) 2005.03.20 ■■報告記録 第59回公共哲学京都フォーラム「ジェンダーと公共世界」 講師 立岩 真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科) 日時 2005年3月20日(日) *以下は、意味の通じにくいところなど、いくらか補ったりしたが、基本的には当日の報告を記録したものそのまま(400字約35枚)。フォーラムの時にうかがった話では、他の報告や討議の記録など編集した上で、東京大学出版会から公刊されるという。 ■はじめに――変更について 参考書類のようなかたちでお配りしたものが3種類あります。一つはメモで、「家族・性・資本――素描」というもので、プログラムに記されている題名のとおり、当初はその話をしようかと思っていました。もう一つで、メモで要約されているそのもとの本体の一部に当たるもので、一昨年の『思想』という雑誌に載った同じ題の文章(立岩[2004])です。ここに来る段階ではこの話をしようかと思ったのですが、やめました。その理由はこれから申し上げます。 それから「分配と支援の未来」は、ふと思いついて、これも、と思ったものです。今回の主題に関係がなくはないのですが、私の仕事、というよりむしろ私たちの仕事の紹介・広告としてもってきました。今、私は立命館大学の先端総合学術研究科という名前の大学院の「公共」という名前のついたテーマ領域の教員をしています。そこで大学院生の皆さんとこういう仕事をしていきたいということが書いてあります。あくまでも科研費の申請書類(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm)で、仕事することはたくさんありますから私にお金を下さいという文章ですから、誇大広告のようなことがたくさん書いてあります★02。その部分は差し引いていただければと思います。 このような文章が3つありますが、これから40分は特にそれを追うというかたちではなく、アドリブで話をさせていただきます。 昨日から今日午前にかけて話を聞いていて――私はもともとわりあい挙動不審な人間で、決められた場所にいたりいなかったりしますし、わりあい短気な人間でもあるのですが――なにかけっこうフラストレーションがたまっています。なぜか。まず、昨日から一つ一つの報告の中身には、かなり重要な論点がたくさんあったように思います。しかし、それが必ずしも生かされないという率直な感想を持ちました。次に、この場で言葉として流通している「公共」について。これは、ものを考える枠組みの問題だと思いますが、「公共」という言葉をめぐる事態のとらえ方に疑問を感じました。以上、二つのことがあります。そのように思いましたので、話の組み立てを変えてみようと考えたのです。 ただその前に、お配りしたものの経緯について補足しておきます。1990年に上野千鶴子さんが『家父長制と資本制』という本(上野[1990])を書かれ、あれはかなり受けました。私自身も、彼女が主張していることに同感できるところは多々あるわけですが、しかし、あの本でなされている話に関しては、正直言って私には全然分からなかったという感があるのです。それをどう解くか、どう言い直すか、それが、しばらくの間、私の関心事でした。 私は80年代半ばから後半にかけて、障害を持っている人たちの社会運動や生活について気リサーチをして、90年に共著の本を書いたのですが(安積他[1990])、その中で家族や介護の問題についていろいろと考えることになったという経緯があります。そんなわけで、私は介護の話だったらけっこう長くやっているので、最近この主題について話し出された人たちよりは、きちんとしたことが言えるという自信はあるのですが、そういうところも含めて、性分業や家族について言われていることについて、だいぶ言葉を足したり、しっかり組み合わせをしたりしないとだめなのではないかと思ったわけです。 それで、90年代初めごろから学会誌に幾つか論文を書いたり、学会報告などしてきて(立岩[1991]〜[1996])、その時点で多分、本1冊分ぐらいになったのですが、10年ほどほうっておいたのです。その時にまとめてしまわず、しばらくほうっておいてもよかったかなとも最近少し思ってもいます。つまり、それからまた考えを足す部分もやはりあったということです。その再開の第一歩がお配りした『思想』の論文になるかと思います。 こうした議論の布置が分かっている人、このテーマについて何が問題なのかをずっと考えてきて、次にどこへ行ったらよいのかという関心を持たれる方には、話もしまた議論もしたいと思います。しかし、この場がそうした関心によって設定されている場ではないとすれば、これはこれで読んでいただければよいかな、と。そこでここでお話するのはやめようと思ったのです。 この論文に書いたことについては、これからどんどん足していって、また長いのを書くのかとひんしゅくを買うでしょうが、1〜2年後に一つの本にするなりして、考えたことを提示したいと思います★03。論文を書いてもどうも読んでもらえず、本にしてようやく読んでもらえることが私の経験上けっこうあるので、何かまとまったものを書くしかないのかなと思っています。 さて、その私自身がよい仕事ができているのか、それはわかりませんが、少なくともこういうことを考えなくてはいけないという確信はあり、その話をしたくはあるのですが、率直に言って場が違うかなと思いました。では、何をお話しするかということですが、一つは、この場で語られたにもかかわらず、聞かれなかったと私には思われた――そう思ったるのは私だけではなく、これまで報告された、また発言された多くの人がそう感じたと思います――話があり、もう一つ、同時に、この場で語られたことを受け取る代わりに繰り返し表明された枠組みではやはりうまくいかないのではないかということです。そしてこの二つはたぶん、相互に連関しているのだと思います。 もう少し具体的に言います。一つは、「私」についてです。またそれに「公共性」が対置されたりすることについてです。つまり、人間の人間に対する在り方、人間の私に対する在り方、私の私の身体に対する在り方、他者に対する在り方、社会に対する在り方、そういった水準において、昨日来、語られたことが一つです。例えば「公共心が大切だ」という言い方があります。そのとおりであるでしょう。しかしそれは何を意味するかです。 もう一つは、社会がどのように分かれており、また相互に連関し合っているのかについて、我々はどういうことを考えられるのか、考えるべきであるのかという問題です。私はこの社会諸領域の編成の問題を、1980年代から90年代にかけて、自分の仕事の延長上にある大きな主題であると考えてきました★04。例えば家族という社会領域と、それ以外の領域との環境をどう考えるかということです。この話の方を先にしようかと思ったのですが、その前に、大切であるけれども短くしか話せない、たぶんうまく話せないという話をしたい。つまり、ある種の人の価値、価値観、意識といったものをめぐるような在り方について、前半お話ししたいと思います。 ■1 私から もちろん、個人主義という言葉があり、それと違った意味合いで利己主義という言葉があり、それは「公共善」「公共心」といったものを語る文脈の中では、それではだめだという認識のもとで語られます。だから公共性へと行く。この場がただそのようなことだけが語られている場所であるとは申しません。また、こういう言説にはそれはそれでもっともなところもあります。しかし、ここから、まず立ち止まって考える必要があるだろうと思うのです。 どういうことかというと、私はフェミニズムについてたいしたことを知っているわけではありませんが、フェミニズムは「私が大切である」「私の身体が大切である」と言ったと思うのです。それがいったい何であったのか、何を言ったのかということです。そういうことにかかわる提起が昨日来、幾度か、言葉を換えてあったような気がします。そのことの含意を十全に酌み取ることから、論じるに足る、語るに足る議論が、本来であれば、出てくるだろうと思います。例えば、フェミニズムが、私が大切であり、私の身体が大切であると言ったとき、「大切である」という言葉の含意はいったい何だろうということですか。例えばそれを「利己主義である」という言い方で括って何か言ったことになるかというと、私にはそうは思えないのです。そうすると、個人主義、利己主義、あるいは私から思考を発するというとき、いったい我々は何を取り、何を拾い、何を遠ざけることができるのか、べきであるのかということを考えることになります。 この部分は今日詳しく申しませんが、フェミニズムの「私が大切である」という言い方を、わたし的にどう引き取るかに関していえば、私は昨年初めに『自由の平等』(立岩[2004])という本を出してもらったのですが、その第3章で社会的分配の根拠という話をしています。根拠というよりは、私たちがどういう私であるときに、社会的分配――私の場合、それは、単純で、人によっては曖昧だと思われるであろう言い方になるかと思いますが、「働ける人が働く、必要な人が取る」というあり方を、社会的に、社会の義務として、可能にすることを意味します――を支持するのだろうかという問いだと言ってもよいのですが、そこで私はなんだか変なことを言っているのです。純粋な利己主義から発して、社会的分配の支持が導かれると考えてもよいのではないか。このように言っています。これは一見、わけの分からない言い方です。また私の方でも、そのように受け取られることはわかっていて、わざとそのように言ったところがあります。 これはどういうことかというと、私が、私の存在、身体を含んだ私の存在というものを肯定されたいと思うとしましょう。それ以前に、私の身体を含んで私が存在しているという事実があります。それに付随して私の身体ができること、できないことが当然あります。それは性にかかわるかもしれないし、私がすこし長いことかかわってきた領域でいえば、障害にかかわるかもしれません。私たちの社会における社会規範は――10年以上同じことを私は言ってきているのですが――私から発して産出されたものは、私のものとしてよいけれども、それ以外のものについて基本的に権利はないというものです。すると、その範域の中では、私は私の持ち分で、取り分を取らなければいけないから、結果として、私は生存が不可能になる、困難になることが当然起こります。 そうではなくて、私がどんな人であろうと、私は生存したい、社会の中で生きていきたいというのが、ここでの純粋な利己主義であるとしましょう。そうすると、私の産出物だけが私の権利に属するという在り方は、そうやってたんに生きていきたい私というものを否定することになる。したがって、そうではない財の社会的な分配が、その人たちによって支持されるはずであるということを、私は書いてみたのです。その中ではほとんど言及していませんが、昨日来の話を聞いて、だれが言ってきたことを、どこで想起しながら、あの本に書いたのかと思い起こしてみると、「私が大切である」「私の身体が大切である」と、フェミニストたちが、当時はリブと呼ばれたそのリブの人たちが、あるいはそんな呼称もなかったころに言う人が言ったことを、私なりに言おうとしたのだろうかと思いました★05。 そのように考えると、我々の社会における私をめぐる体制というのも、単純ではない。つまり、一方で、純粋な利己主義と言いましたが、そこを拠点にする私から発する私の在り方、そしてその私を生存可能にする社会の在り方という流れにある私というものと、それから、おそらく、そうではない、むしろそういう在り方を侵食する、困難にするような私をめぐる政治、私に対する規範、私に対する価値づけというものがあります。それを慎重に腑分けするという行い、学的な営みというものが、必要なのだろうと思います。 どういうことかというと、一つには、最初の報告で岡野(八代)さんがお話しされたようなことだと思います。つまり、自己を自己が統御し、制御することにおいて、自己で完結するような私といったものが「価値づけられる私」であって、その範疇に入らない存在を除外する、あるいは一段低く価値づける、そのような私に対する在り方というものがある。そして、コントローラビリティといいますか、自分による自分の統治、制御可能性を、「価値づけられる私」とすることによって、そこから除外される、格下にされていく身体、私というものがある。そのように考えてよいのだろうと思います。自分が生産し、統御したものが私に属するという図式・構図は、端的に言えば我々の世界・社会における財の取得をめぐる基本的な版式、基本的な規範そのものでもあると考えられます。そうすると、その中に基本的な問題があるという認識のしかたはまったく正しく、基本的にそこから出発でき、そこを考えるべきだと思います。 そういう意味で、名前は思い出せないのですが、岡野さんが紹介された、米国憲法における財産権の保護を特権化する主張が、社会規範、法とジェンダーの問題に本質的なつながりがあると論じられた何とかという方の論は、私の話と基本的に沿うものであると思います。 同時に、この社会の中で軽視され、除外される私の在り方というものが、例えば生殖をめぐる医療や社会的統制のもとに置かれている主に女性の身体であると考えられると思います。これは例えば荻野(美穂)さんのお話の中にもありましたし、金井(淑子)さんが年来論じられてきた話にもつながると思います。つまり、私にとって私の身体は常に統御可能なものでもありませんし、常にそのような部分を逸脱していく部分があり、その中で自分の快・不快があって、身体の苦痛があります。おそらく、そういうものを低く見積もってしまう社会に我々は生きています。そのことが何を取り、何を取らないかという、例えば技術というものに我々はどう対していくかということに影響を与えています。逆に言えば、むしろ私の身体にある負荷・苦痛を、たんにそういうものとしてきちんと見積もってくれという在り方こそが、私を大切にするというメッセージの中には含まれていたのであり、そこからものを考えていくことが我々はできるし、また、そうすべきであろうという話がそこから導かれるように思いました。 では他者はどうなるか。私が前に書いた『私的所有論』(立岩[1977])という本の中では、むしろ他者について話をしています。そしていまの話は他者論と接合するものと考えていますし、相違点がありつつ共通する部分があるとも考えています。ここでは、これ以上のことは述べません。ただ、それは、これも昨日来幾度も論題としては提起されつつ、十分に議論に生かされたように思われない「産む」ということ、「産み、育てる」ことをめぐる出来事に、端的に表れていることでもあります。私から他者が現れる、現れてしまうという出来事は、ある意味できわめて混乱に満ちたものであり、しかしその混乱を含めて享受するといった様相をも含む出来事です。そういう出来事を、我々が十分に認めることができない社会に生きてきてしまっていると考えます。 ■[補]「依存」「ケア」について 私と他者との関係の問題として現れる具体的な問題にすこしだけ触れておこうと思います。これはそれ自体として固有に論じられるべきであり、これ自体についてきちんとしたものが書かれるべきだと思うのですが、昨日来問題になっている依存という問題です。 このことについて何か語ろうというときに、次のような言い方をするのは、むしろ簡単なのです。つまり、あらゆる人間がどこかで依存している。だから、人間とは自律的存在であるといった誤解を解いて、あらゆる人間は依存的だということを、我々は分かりましょうという話です。 これはある意味で、自明に正しいがゆえに受け入れられるでしょう。また、そんなことにさえ気がついていない人間に対しては、一定のインパクト、一定の意義を持つということは否定しません。しかし、それだけではだめなのだろう、その先に考えを進める必要があるのだろうと考えるのです。考えてみれば、常に、近代社会・非近代社会を問わず、社会の上の方にいる者は、とくに王様のような人は自分のことは一切自分でしない。そしてそのことは、むしろその人たらのステータスを表示するものです。しもの世話も何もしない。すべて召使にさせる。ですから、そのような他人にさせる、依存すること自体が、社会における上下の問題とダイレクトに結びついていることにはならないのです。そうすると、いったいそこに何が起こっているのかということになります。 これは先ほどの上野さんの本を読んだとき、この辺がたいへんあいまいだなと思ったのですが、例えば子供というのは、たしかに子供の時期は手間がかかるわけですが、大多数の子供はやがて大人になって生産労働に従事して、何かしら生産します。今の少子化・高齢化などという話は、ひとたび手間のかかる子供も、大人になれば何とかもとが取れるという話の中で起こっています。実際、多くの場合はそうなのです。時間の流れを考えた場合、今はそのぐらい投資しておいても、後でもとが取れるという文脈の中に子供は置かれています。 それから、高齢者を考えても、介護保険などの保険料が払えるとか、自分が生産する時代の余剰をそのあとに使うという意味では、自分で働いたものをもって、他人の、自分を世話する仕事を買うという構造ができています。かつては、そういう商品交換というかたちではなくて、身分というかたちで奴隷を自分のもとに配属させるという構造でしたが、そうではない形で可能になります。そうすると、その中でたしかに自分のことを他人にさせるのですが、その他人を自分が雇う。あるいは雇わないけれども、生活をとりあえず保持させることができるという立場があります。それは我々の市場社会における生産と生産物の取得の構造によって、一部の人について可能になっています。 ここのところまで話を進めておかないと、おそらく「あらゆる人が依存的な人間である」「他人のお世話になって生きている」という、それ自体は正しいし、何かしらエモーションを喚起する言葉といえども、そこで止まってしまいますから、それ以上のところに話を持っていかなければいけないと考えます。そう考えると、先ほどの財産権の問題、所有の問題、限度の問題を、内的に考えざるをえないということが言えます。 今まで私がお話ししたのは、たしかに公私という言い方では「私」の話です。しかし、この「私」は、社会の中に埋め込まれ、私をめぐる社会のありよう、社会の作動の中に規定される「私」であるしかないのです。だとすれば、「私は私で考えて」という話には到底なりえないのであって、私をめぐる政治、私をめぐる社会というところから論を立ち上げていくことしか、我々にとって有意義な言葉を紡ぎだすことができるとは思えません。 そういったことを一つ一つ考えていく。例えば、「身体に大きくかかわることは、その人のことでしょう。国家は介入しないほうがいいですね」ぐらいのことは、すくなくともすこし考えれば、二日目ぐらいに出てくる話です。しかしながら、問題はそのあとにあるのであって、そこにある具体的な、しかし考えるにきわめて困難な問題をどう考えるかということ以外に、私はものを考えることの意味をあまり感じません。そこの中で、私をめぐって今まで言われてきたことの、どこが大切なのか、どこが掬えるのか。そこを掬っていって、ジェンダーという問題を大きな契機として含みながら、私をめぐる社会編成の問題をどう考えていくのか。そういう問題がすでに昨日来、提起されていると思いますし、実はそういう方向で議論も可能であったのでしょうが、必ずしもそうならないというのはどういうことなのかと、正直言えば、思ったということです。 ■2 社会領域の編成 これで前半は終わりです。後半ですが、これは社会領域の編成という問題にかかわってきます。私は、問題は、昨日来ときどき問題にされたような問題だとは思っていません。つまり言葉の定義などだとは思っていません。言葉の定義は、きちんとすれば、ある人はこの言葉をこう使い、この人はこう使うということが相互に了解できていれば、あとはどちらでもよいのです。おそらく問題はそういうことではないと思いました。 「私」にも問題がある、「公」にも問題がある、だから「公共」、というお話は、つまり、まずは二つあって、それにはよいことも悪いこともあるというところから始まります。Aにはよいことも悪いこともある。Bにもよいことも悪いこともある。だから、悪いところはAから差っ引いて、よいところを取ってくる。Bからも悪いところを差っ引いて、よいところを取ってくる。それを合わせるか、掛け算するかはわかりませんが、そうすると、Cというよいものが出てくる。そういう構造の話です★06。 これは正しいのです。よいことはよいことで、悪いことは悪いことですから、よいことをすることはよいことで、悪いことをしないことは、よいことです。そういう意味においてこれは自明に正しい。けれども内容がないですね。常に必ず正しいのですが、同時に無内容であるという議論になるような構造になってしまっていると、私は率直に感じました。 では、どうするか。これはもっと簡単なことです。何が正しくて、何が正しくないか、何がよくて何が悪いかということを、議論することです。まさにそれが政治哲学であったり、あらゆる社会科学・人文科学が基本的なテーマとして議論してきたはずですし、これからさらに議論すべきことであろうと思います。しかし、その部分を焦点化しないで議論しても、自明に正しいことしか言えず、その正しいことを何百年も繰り返して話しているということにおそらく終始するでしょう。 さて、その当たり前のことを指摘したうえで、ではれいの公私という問題をどのようにとらえ直すか、考えるかということです。実は、これは昨日、江原(由美子)さんが最初におっしゃったことなのです。現実問題として、社会領域がどういう形で分割されているのかということなのだろうと思います。その中のどれを「公」と言い、どれを「私」と言うかは言葉の定義の問題ですから、明確にさえしておけばべつにどうということはありません。例えば、政治領域だけが公であり、残りはすべて私の領域であるという言い方も可能ですし、現になされています。あるいは、政治と経済の領域、後者は我々の社会ではおおむね市場で行われていますが、これらを公的な領域とし、残りの例えば家族という領域を私の領域と言うこともできます。しかし、家族もまた…、というふうにつなげていけば、何とおりもの分け方ができます。 問題は、それぞれにおいて何が行われ、何が行われるべきであるのかを考えることでしかないだろうと思います。そうしますと、基本的に十分な数として四つを考える必要があると思います。 一つは政治という領域です。これは、最終的には法的な強制力を背景にして、人を従わせるという権能を持った領域です。 次は、経済の領域と言ってもよいですが、政府自体が財の出入りをコントロールしている部分がありますから、経済という言い方は若干ミスリーディングかもしれません。例えば我々の社会であれば、市場という言い方のほうがかえっていいのかもしれません。しかし、我々は一般に経済と了解しているような領域です。 三つめが家族ということになると思います。 四つめはそれらの残余と考えて、私はよく「自発的な行為の領域」と言ってきました。「自発的」というと若干ミスリーディングな部分があって、半ば強制的な、拘束力のある社会規範、モラルがあるわけですから、ここではせいぜい政治的・法的強制力が介在しないような、そして市場経済にも包摂されず、家族という領域でもないぐらいの残余的な領域と考えればよいです。 そうすると、四つめの領域がその他すべてという括り方になりますから、四つで終わるわけです。もちろん、その四つめをいろいろ区分することは可能ですし、場合によってはそれが必要になってくるでしょう。しかし、さしあたって四つある。そうすると、その四つについて、あるいは四つの間のおのおのの関係について十分にものを考え、新たな在り方を提起していくというのが、名前は何でもよくて、規範理論といっても、公共哲学といってもよいかもしれませんが、その課題であると私は思います。 これも年来思ってきていることです。『私的所有論』という本(立岩[1997])に書いたことですが、市場メカニズムというものがただ自存すると考えるのはもちろん間違いです。所有権を確定する行いと同時に市場のシステムは作動するのですから、そこにすでに政治と法は、そこに根本的に関わっています。そういう意味での市場、プラス政府がある社会、そこで我々が行っていること、そこが付与している規範。私はそれを所有権の問題としてとらえてきたわけで、それをどのように理解するのか、批判するのか、あるいはそれに何を対置していくのかという問題が出てくるだろうと思います。それをもう少し展開しようとしたのが『自由の平等』という本で、その中では家族の話はほとんどしていません。ただ、90年代の頭から半ばにかけて、私の関心事であったことも確かです。 私が、『社会学評論』という日本社会学会の学会誌に最初に書いた論文は、1992年の「近代家族の境界」(立岩[1992])です。そこで書いたのは、家族というものが政治によって規定されているということ自体の不思議さに、我々はまず驚かなければならないということです。先ほど言ったその他の自発的な領域と家族の間の境界を区分する根拠を見つける方が難しいのです。人と人との間の親密性、愛情、友情によって、人間関係が構成される領域とだけ考えれば、少なくとも近代家族的な結合原理で形成される家族と、それ以外の自発的な行為領域を分割する根拠はないのです。しかし、我々の社会の法は分割を行っている。このことの意味はいったい何なのか。これがまさに考えるべき主要な問題である、としか言いようがありません。 しかも、ここでは、家族は私的な領域であるから政治的干渉からうんぬんという話があるわけですが、我々の社会においては、家族というものは法的に規定された存在であることを自覚したうえでなら、その話は分かるけれども、まず、最初のところで政治的規定から逃れていないことは分からなければいけない。同時により現実的な問題としては、例えば家族の成員に対しては、家族法などの中である種の財産保有が担保され、権利が存在しています。また、そういった中で家族の範囲内で権利・義務を設定し、生計の単位とし、その中で成員が財産分与など何がしかの権利を持つことは、成員に対する社会保障的な機能を必ず持つわけです。このようなことを含めて、そのことをどう考えるかということです。 それに対して、これは昨日来のバックラッシュの話に関係するのですが、例えば今、ほかの条件を変えないで、家族に対する財の保有に関する権利義務関係を解体するなら、そこに何が起こるか。その中で、蓋然的には、多くの場合には、女性が放り出されて、それでおしまいということになるわけです。それだったら今のほうがいい、今のままのほうがまだましだという話です。つまり、市場とともに、法がほかの人の面倒も見なさいという規定を家族に課し、義務を課している。こうしたセットによって、我々の社会は成り立っていた。しかしながら、家族の法に対する権利義務の関係をやめて、例えば市場だけにするとなったら、その市場の中で自分で暮らしていけない人は放り出されて、それでおしまいになるわけです。それに比べたら、今のままのほうがましだというのは、とても合理的な判断です。 そして少なくとも今、ある種、保守勢力として存在する側には、そういった利害があると思いますし、それはそれで、きちんと酌み取らなければいけないでしょう。しかし、私にとっては、それは今の市場と家族にまつわる社会規範を保存することではありえず、むしろそうではない在り方です。社会保障という観点で言えば、今よりは政府の機能というか、いわゆる社会保障の機能をより大きくすることが込みにならないと、かえって多くの人にとってはプラスにならないでしょう。そこですでに市場と政府と家族を込みにして、その間の関係を考えるべきである。考えるところからしか、ものをきちんと見ていくことはできないと思います。 さらに考えるべきことは、私の考えはほとんどはしょりますけれど、例えば伊田広行さんが『シングル単位の社会論』を出していますが(伊田[1998])、私は基本的にそれに賛成です。でも、そのシングル単位というのは、生活の保障は別に存在することが込みになります。このように言うと、よく言い返されるのは、そのような政策や社会潮流が、麗しいかどうかは知りませんが、家族なるものを破壊するのではないかという懸念あるいは疑問です。私は、そういうものを、たんなる妄説ではなくて、何かしらのリアリティを持った話だとして受け止めながら、しかしそれを否定するというしかたをすべきだろうと思います。言えることは幾つもあります。例えば先ほどの話で、一人一人が持っている愛情なり、家族という関係と、財の出入りがセットになることによって、かえってその間の愛情や親密性が破壊されることのほうがおそらく多いのです。私はあまりそういう言葉を使いませんが、親密圏なら親密圏という関係を保持する、あるいは保持すべきであるということと、一人一人の生活を保障する制度があることは、なんら矛盾することではなくて、むしろ一人であれ二人であれ多人数であれ、そういった人たちが構成する、あえて言えば私的な関係を存在させる、むしろ十全に存在させるようなシステムとして構想することもできる。そちらのほうがよいのではないかという言い方ができるでしょう。そしてそれを、ある種の反動として現在現れている事態に対して、言っていくしかないのではないかと考えています。 もちろん、いろいろな話がこのあと続けられるわけですが、例えばそのように考えていくことができるし、そういうことを考えていくためのヒント以上のものが、すでに昨日から1日半の議論の中で、再々出されたと私は考えます。それにもかかわらず、そういう論点として絞られなかったということは何であるのか。それについてもう一度先ほど申し上げたことを繰り返して終わります。 つまり、よいものからよいものを取ってきて、悪いものから悪いものを捨てていく。それは大変けっこうなことであるけれども、問題は、そのときによいとか悪いとかいうのはいったい何だという、しごく当然の問題を、一つ一つの論点について詰めていく、その中からしか実のある話は出てこない。それが一つです。 それから、否定するにせよ肯定するにせよ、公私という枠組みに一定の妥当性があるということを、私は必ずしも否定しませんが、少なくとも、政治、市場、家族、その他の行為領域と存在しているものを、二つに振り分けてしまうのではなく、少なくとも現実にその四つはあるという事実、あるいはそこに存在する諸関係、規定関係を十全に記述し、分析することの中からしか、このフォーラムが目指しているのであろう次の社会の在り方は展望できないであろうと考えます。 以上で終わらせていただきます。 ■注 ★01 本稿は、意味の通じにくいところなどいくらか補ったりはしたが、基本的には当日の報告の記録である。注は書き加えた。 ★02 「分配と支援の未来」(基盤研究B、2004〜2007年度)。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm ★03 「家族・性・市場」と題する連載を『現代思想』で始めた(立岩[2005-])。これを書き進め、やがてまとめて、1冊にしたいと考えている。 ★04 立岩[2005]――これは日本数理社会学会の学会誌『理論と方法』に寄稿した文章がもとになっている――等。ただ、この文章もまた、今回の報告と同じく、社会的諸領域と領域間の関係について考えるとおもしろい、考えるべきだとただ述べたにとどまる。今後、具体的な作業を行っていく。 ★05 例えば森崎和江には『非所有の所有』(現代思潮社、1963)という著書(森崎[1963])がある。また田中美津の名はすぐに想起されるだろう。そしてその人とも関わって、例えは「優生保護法改悪阻止連絡会(阻止連)」という長く活動している組織があるのだが、その機関誌の名称は『女(わたし)のからだから』であり、いまは組織の名を「SOSHIREN 女(わたし)からだから」としている。 ★06 東京大学出版会から出版された「公共哲学」のシリーズの基調もまたそうしたものであったと考える。だから、ここで話したのは、ひとつこの場についてだけのことではない。 ■文献 安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店→1995 増補改訂版、藤原書店 伊田 弘行 1998 『シングル単位の社会論――ジェンダー・フリーな社会へ』,世界思想社 森崎 和江 1963 『非所有の所有』,現代思潮社 立岩 真也 1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52 ――――― 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44 ――――― 1991 「愛について――近代家族論・1」,『ソシオロゴス』15:35-52 ――――― 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44 ――――― 1993a 「誰が性別分業から利益を得ているか」,関東社会学会第41回大会報告* 要旨集原稿/配布原稿 ――――― 1993b 「家族そして性別分業という境界 ――誰が不当な利益を利益を得ているのか」,日本社会学会第66回大会報告* 要旨集原稿/配布原稿 ――――― 1994a 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」,『千葉大学文学部人文研究』23:63-121 * {01} ――――― 1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」,『Sociology Today』5:46-56 * {01} ――――― 1994c 「何が性の商品化に抵抗するか」,江原由美子編『<性の商品化>をめぐって』、勁草書房 ――――― 1996 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」,『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126 * ――――― 1997 『私的所有論』、勁草書房 ――――― 2003 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215 {01} ――――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店 ――――― 2005 「こうもあれることのりくつをいう――境界の規範」,『社会への知――現代社会学の理論と方法』,勁草書房 ――――― 2005- 「家族・性・市場」,『現代思想』2005-10〜(連載) 上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』,岩波書店 >TOP ■事前に提出したメモ 1日目の議論の流れにもよるが、いまのところ 2003/11/05 「家族・性・資本――素描」(『思想』955(2003-11):196-215)に書いたことを 話すつもり。以下はその文章に記したことのいくつか+補足のようなもの。 別に、私が研究代表者になっている科学研究費の申請書類の一部を付す。 他に仕事の計画について拙著『自由の平等』(岩波書店,2004)序章を参照のこと。 ◆女性を市場から排除することについて、労働の買い手の側の利益はない* 最も素朴に、0)人を働かせて得られるものと、その代価として払うものの間の差を大きくすること(その差を投資にまわして、生産を拡大する)が目指されているとしよう。このことを考えただけの場合には、女を排除する理由はない。 →ではそのようなことを言ってきた人はまちがっているか?→そうでもないはず ◆3つをたててみた場合 +生産力の増大→労働力の余剰の場合 1)格差: 2)成長: 3)維持: ◆専業主婦体制の析出 顕示的消費としての +統計的差別 ■変容 ◆変容:専業主婦体制の変容 その理由:差異〜価値を失う 消費のために ◆男女間格差の説明: ・差異がないとした場合: 様々な説明(二重労働市場…)が不十分であること: 雇用する側:差別の嗜好:あることもあるが、 利得 格差の分利益を得ているという説*→そのままでは妥当しない 労働者(男)による排除:一定の妥当性がある 放置してもなくならないことが言えると同時に、市場における競争が 格差を減少させる方向に働くことも言える〜リベラルの路線。 ・差異があるとした場合:差はある(&差をなくすることを主張する必要はない) 労働能力の差→位置・受け取りの差 ただどのように結果の差異が現われるかは多様(満足な説明があるのか?) 差が拡大する場合、縮小する場合、条件がある ◆市場の変化:規模の拡大、技術、労働力の余剰→格差の拡大 同時に 性に関わる部分的な「平等化」→世帯間の格差の増大→ 全体としての格差の拡大を効果する 同時に、男/女格差が残る部分もある。そして職種間(等)の差が拡大 それに伴い、男/女格差が拡大する部分がある。 ◆どうするか (仕事の間の差異は問わず、あるいは肯定して)訓練…等しくする→△/ +差別禁止→△ 市場からの撤退→△/割り当て→△ →経済のあり方を変更する必要がある。 労働の分割+格差の縮小(:市場における+所得保障) ■「再生産労働」?をどう考えるか? ◆「不払い労働」という把握 誰が、何について、払うべき「不払い」であると言ったのか 何について:夫/子/…… 払い主:夫であるとした場合→ …/企業? …/ ただこの論理はどの程度有効か。たしかに生産者を生産しているとは言える。しかしこの論点はあまり効かない。 それは、現役の労働者については、そうたいした仕事ではないからだ。 払われるならそれで暮らせるほどの労働をしているという主張はできない。 とすると言うべきことは?→ むろん以上は、それが(もっと)支払われてよいということを否定しない。 払うべきか→払うべき/なぜ(低くしか)払われないのか/どれだけ払うのか 生産のための生産(労働):高く払うようになる可能性はある。 これは3)市場でなされない生存の維持 ではあるが、買手(市場→政府)が代替する可能性はある。(本人の後払いもありうる。また次の場合では前払いもある。) 生産しない者のための労働: たしかに生存の維持という状態が生産される。 しかしそれを超えたものは産出されず、 (市場においては代価として払われるものが)払われることはない。 なぜ安いか。 cf.これまで言われてきたこと 「(非)自発性」「専門性」→これには限界がある。 3)市場でなされない生存の維持: 家族内でやりくりされるか、あるいは政府…がということになる。 家族内で:それ自体に対して(高く)払われることはない 政府:〜国際競争…がこの部分への支出を制限するように作用する。 (成長に向けた(を見込んだ)政策の失敗が事態を困難にしている。) とすれば→その圧力を減少させる >TOP ■プログラム 第五十九回公共哲学京都フォーラム 「ジェンダーと公共世界」 日時:2005年3月19日(土)20日(日)、21日(月) 場所:リーガロイヤルホテル京都3F 薔薇の間 ◯3月19日(土) 司会:林勝彦先生(NHKエンタープライズ21・エグゼクティブプロデューサー) 9:00―9:05 開会挨拶 矢崎勝彦(京都フォーラム事務局長) 9:05―9:30 趣旨説明 金泰昌先生(公共哲学共働研究所長) 9:30―12:40 ご発題&討論 コーディネーター:今田高俊先生(東京工業大学大学院社会理工学研究科教授) 9:30-10:10 ご発題「公私領域分化という視点から見たフェミニズム」 江原由美子先生(東京都立大学人文学部教授) 10:10-11:00 討論(江原先生のご発題内容に基づく) 10分休憩 11:10-11:50 ご発題「フェミニズムの公共性批判――排除と包摂のあいだで」 岡野八代先生(立命館大学法学部助教授) 11:50-12:40 討論(岡野先生のご発題内容に基づく) 12:40―13:40 昼食・休憩 13:40−15:25 ご発題&討論 コーディネーター:今田高俊先生 13:40-14:20 ご発題「『消去しきれない残余』とリベラル-フェミニズム |