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死/生の本・6――『所有のエチカ』
医療と社会ブックガイド・50)

立岩 真也 2005/06/25 『看護教育』46-06(2005-06):472-473
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  このところいつも同じ始まり方になってしまっているが、「尊厳死法」を巡って、4月16日に「尊厳死っ、てなに?」という集会が東京であった。250人余が集まった。報道関係の人たちも多かった。前後の取材も幾つかあって、世の関心事(だとすべき)とされているようでもある。私の方ではこの集会に合わせ冊子を作った。当日配付の資料集と合わせA4約150頁。お頒けできる(郵送)。詳細はHPに掲載してある。
  私も集会のよびかけ人の一人ということにはなっていて、自分でまとまった話をすることはなかった。後半、コメントと司会のようなことを少し。前半の講演者の話は盛りだくさんで、それを短い時間に収めていただいたから、話をする方も聞く方もたいへんだっただろう。私は、後半各10分ほどでしていただいた「日本尊厳死協会」の理事長の方の話、そして以前(第6回、2001年6月号)著作をとりあげた清水照美の話が、ことの是非を巡る論点をはっきりさせる意味でよかったと感じた。
  尊厳死協会の理事長は、私の記憶では、次のようなことを述べられた。まず尊厳死は安楽死ではないこと。そして、尊厳死は一人ひとりの自らの価値観に基づく決定としてなされるもので、それを人に押しつけるものではないこと。そして、協会の運動、今回の法案提出は、社会保障費の削減といった財政・経済の問題を背景としたものではけっしてないこと。
  それに対して、清水は、今の協会の前身である「日本安楽死協会」の中心人物たちの主張を簡単に紹介し、遷延性意識障害からの回復の例が数多くあることを述べ、家族など周囲の負担を心配してなされる決定が自己決定と呼ばれているのだと指摘した。
  過去の主張(との連続性)については私も『Webちくま』の方の連載等ですこしふれた。また遷延性意識障害からの回復については、第41回(2004年8月号)で紹介した小松美彦の本などでも強調されていた。以下では、「あくまで自分のこととして決めるのであって、違う価値観の人に押し付けようというのではない」という主張について。

◇◇◇

  倫理学者・哲学者の大庭健・鷲田清一編の『所有のエチカ』という本がある。鷲田の方は「臨床哲学」という看板の方が今は通りがよいのかもしれないが、編者の2人とも、所有(英語等では「固有性」でもある)について考えてきた人たちである。そしてもっと下の世代の書き手、例えば政治哲学の領域では斎藤純一、大川正彦といった人たちの文章が収録されている(目次等はHP)。
  そして私は「死の決定について」という章を書いている。これは頼まれた主題ではない。こちらで勝手にそうしてしまった。本が出版されたのは2000年だが、原稿は1998年に送付。やはり2000年に出た拙著『弱くある自由へ』(青土社)に収録された同じ主題についての文章がやはり1998年の雑誌掲載で、それと同時期。
  この文章は「死の権利はない」とするのでない言い方で安楽死・尊厳死を批判してみようというもので、とりあげて批判している相手は先にも名を出した小松美彦。
  このごろは「権利はない」と言ってしまった方がすっきりしてよい、と私も思わないでもないのだが、そう言うにしても、どのように言うかである。「人間は関係的存在である」という、もちろん事実としてはまったくそのとおりの事実をもってきて、それによって「自己決定権」がないと言うことはしない方がよいと思い、そのことを書いた。(それは、本全体の主題に引き付けるなら、関係論から私的所有を否定するという論に進まない方がよいということである。)では、他にどんな言い方があるか。思うことがないわけではないが、まだ明確でない。書けるようになったら書こうと思う。
  ここでは、「押し付けではない」という言い方について。いまどきの人なら必ずこのことを言うだろうし、実際、尊厳死協会の理事長はそうおっしゃった。そう信じておられるのだろう。
  私が書いたその章の末尾で、第7回(2001年7月号)にとりあげた松田道雄と同じく、様々に尊敬すべき人物である加賀乙彦の文章を引用した。それは加賀編『素晴らしい死を迎えるために――死のブックガイド』(1997、太田出版、268p.、1785)に収録されている。本誌のこの連載も「ブックガイド」なのだが、比べて、この本はもっといかにも取り上げるべき本をとりあげ、さらに、アルフォンス・デーケン、柳田邦男という、いかにも当を得た人たちとの対談が付されている。まだ買える本のようだ。その中の加賀の文章。
  「リビング・ウィルは自分で文章を作るだけでなく、私の場合は妻や息子や娘に自分の意思をよく説明し、宣言内容についての承諾を得ている。
  死んだ人間をあとで世話するのは家族や友人である。私は、死ぬときに、家族や友人に余分な負担をかけたくないのである。」(p.28、拙稿ではもっと長く引用)
  その後に次のように書いた。章の主旨からは少し外れた論点でもあり、ごく短い記述でしかない。とくに前半は、本来はもっときちんと書くべきところである。
  「この稿で主に念頭に置いてきた積極的安楽死についての発言ではない。むしろ、加賀はそれについて(テレビ番組でこの主題について対談をした相手である日本生命倫理学会元会長・星野一正より、はるかに)慎重である。そして彼はともかくそう思って、そう決定して、そのことを書いた。それを否定しようと思わない。
  ただ彼は、それを、『素晴らしい死を迎えるために』という題の本の「素晴らしい死を迎えるために」という文章に書いている。その限りにおいて、彼は呼びかけており、その意味でこの行為は純粋に個人的なことではありえないのだが、しかしあくまで個人的なこととして彼は語る。語ればよい。しかし、「人さまざま」だから人それぞれであとは各自勝手に、とはならない。彼が彼自身について何を決定したかと別に、ここに書かれる様々なことは公論の主題である。例えば、「素晴らしい死」、「安楽な死」をその通りけっこうなものだと肯定しながら、しかし、いささか粗野ではないかと、あるいは、ただ生きようとする、あるいは(美しい)死に方などを考えたりしない粗野な粗暴な生のあり様に対して鈍感であり、その点で粗野ではないかと、言うことである。」(p.◆)
  自分に限ったことだと確かに言うのだが、それを一つにはおおいに他人に勧めてまわる人がいる。「あなたはどうしようと自由だが、私はこうするつもりだ」と――加賀のような作家であれば公刊される本で、また人生を振り返ろうという人たちの自費出版の本で、またその他で――語る人もいる。
  そうした欲望がいったいどこから来るのかも気になるが、それはここでは置くとしよう。ともかく人は、じつはわりあい大きな声で、「私に限ったこと」を語る。だがそれを指摘すると、当然、それがなぜいけないのだと言われる。
  まず、自らの意見を表明することは自由であると言われる。その主張には、無理やり人を捕まえて自説を吹き込もうというのではない以上、他人に自らの意見を伝え、それに同意してもらおうと努めることも含まれるとしよう。
  このような考え方は、まったく一般的な考え方であるから、私たちの多くは受け入れる。そして、自らのことを自らが決めることもまた、一般的に私たちが受け入れることである。だからどこにも問題はないとされる。
  こうして、かまわないではないかという主張の方が強い。それに対してどのように言うか。
  自他をひとまず分けよう。安楽死では難しいが、まったく知られず、自分にだけ行われ、波及しないこともありうる。ただ、だからすべて許容されるとも限らない。「パターナリズム」が正当化される場合がある。このことについては(実は次に述べることと別のことでないのだが、ひとまず)略。
  もう一つ、言う場合、また言わなくとも、行い、行いに意図が関わり、行いが伝わることで、意図・思いが知られる場合がある。
  むろん「意見」を問題とすることは、それを言うべきでないとすることを意味しない。しかしその意見は、すくなくとも批判の対象とはなりうる。次に、自分に対してだけ行う行いについて思い、言うのだから問題がない、と言えるか。これも言えないはずである。
  その理由は一つだけでない。ここでは死の決定に即して。まず、それはある状態の「自分」を否定しているのだが、それは「他人」を否定していることではない、と言えるか。いくつかの場合に言えない、安楽死・尊厳死の場合にも言えないと思う。しかし紙数が尽きた。前回とりあげたフーコーにも(関連するのだが)言及しなかった。この回もまた、続く。

[表紙写真を載せた本]
◇大庭 健・鷲田 清一 編 20001010 『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版,243p. ISBN:4-88848-590-9 2310 [boople] ※

[他にとりあげた本]
◇加賀 乙彦 編 199702 『素晴らしい死を迎えるために――死のブックガイド』,太田出版,268p. ISBN: 4872333209 [boople] 1785 ※


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