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>HOME >BOOK (医療と社会ブックガイド・48) 立岩 真也 2005/04/25 『看護教育』46-04(2005-04) http://www.igaku-shoin.co.jp http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/ 前回の最初にふれた「尊厳死法制化」の動きはどうもまじめなものであるようで、新聞等でもときどき報道されている。2月23日には「尊厳死法制化を考える議員連盟」が結成されたという。 この今回の動きには、今や会員数10万人を超えるという「日本尊厳死協会」が大きく貢献しているようだ。この協会、この協会の前身の「日本安楽死協会」という団体、その団体が1978年に作った法案のことについては、やはりこれも前回お知らせした『Webちくま』(筑摩書房)での連載(「良い死」という題にした)の第2回で短くふれた。今出されている案は27年前とほぼ同じものである。むろんその時は法律にならなかった。今度はどうなるのだろう。法案が通ったとしたら、27年前に私たちは間違っていたのだろうか。それとも何か、例えば善悪の基準が、変わったのだろうか。とにかく過去が振り返られないのは困ったことだと思って書いた。 また同じ2月の14日には、昨年ALSの息子の呼吸器を外して死なせた母親に対する裁判の判決が横浜地方裁判所であった。息子から外してくれ、殺してくれと頼まれて実行した「嘱託殺人」だとされた。懲役3年、執行猶予5年。またその前、1月28日の『読売新聞』では厚生労働省の研究班で呼吸器を外すことの是非の検討が始められたと報じられた。この報道に、研究の意図が伝わっていないと主任研究者がコメントを出したりもした(私のHPに掲載)。 さて、例えばこの呼吸器の着脱のこと――拙著『ALS』(医学書院)の多くの章に呼吸器のことは出てくるのだが、外すことについても第12章2・3節で少し記してある――と尊厳死法との関係はどうなっているのか。関係していると思われている。そのように解釈されうるということ、そうした解釈が流通していること自体が、実はなかなかに深刻な問題を含んでいる。このぐらいの法律なら心配ないと考えたいし杞憂だと思いたいが、そう言い切れないことをこのつながり方が示している。 そんなこともあって、4月16日に東京で「尊厳死っ、て何?」と題した集会が行われることになった。ALS等の人たちの在宅生活を支援している「さくら会」という小さな組織の人たちが考えついた。私も呼びかけ人ということになってしまっている。案内をやはりホームページに掲載している。よろしかったらどうぞ。 さて、かような「時事問題」の方はこちらでは扱わないことにすると言って、歴史ものの方に撤退すると前回述べたばかりだった。そして、アリエスそしてエリアスという人たちの書いたものをすこし紹介してきたのだった。 エリアスは、かつての時代の死への対し方を美化しているとアリエスを批判した。批判には当たっているところがある、しかしどっちもどっち、両方がある程度は正しいということだと述べた。 問題は、近代(化)をどう捉えるかだ。ゴーラーの「死のポルノグラフィー」という話は紹介した。アリエスの場合には、「飼い慣らされた死」から「荒々しい(野性化した)死」と訳される死に移行したと捉えられる。エリアスはどうか。彼の基本的な理解が「文明化」というものであることは前回述べた。ならば死も文明化されてめでたしという話かというと、そうでもない。むろん、文明化のことも書いてはある。 「中世の社会では、人の一生は今より短く、手に負えぬさまざまな危険はいっそう多く、死はもっと苦しいものであった」(p.24-25) 「他者と自己とを同じ人間として考える態度が、今日では昔より広がっていることは否めない。罪人の打ち首、八つ裂き、車裂きの刑を見物しに行くのが日曜日の娯楽であった時代ははるか昔のことになった。」(p.4) だが孤独が現われたと言う。 「今日では、臨終の苦痛は緩和できることが多いし、罪の意識からくる怖れはかなりの程度まで抑えられている。しかし、ひとりの人間の死にほかの人間が居合わせ、関わりを持つということはずっと乏しくなった。」(p.25) 「死を間近に控えた人が早々と孤独に陥ってしまう現象が、とくにそう意図したわけではないのに、発達した社会の中でこそ頻繁に起きている」(p.4) 「これから死んでゆこうという人々が、かくも衛生的に健康な人々の目の前から姿を消し、社会生活の舞台裏へと追い払われるようなことは、人類史上未だかつてなかったことである。」(p.36) 今は誰もが知り、語ることである。なぜそうなったのだろう。幾つか指摘されてはいるが、十分な説明と思われない。例えば「死の病院化」という言い方はすぐ思いつく。これ自体は事実だ。しかしそこからすぐ孤独を言うのは短絡ではないか。死は瞬間のことであっても、それに至る時間は長くなっている。その長い時間に本人も他人たちも面していて、その意味では近くなっているとは言えないか。さらに私は、死を避けることと死の「受容」を語ることとが同じ場に発することがあるようにも感じる。このことはまた別の機会に述べる。エリアスの本にはそうした視点は見当たらない。現在では典型的な語りが語られている。 むろん間違っていないのであれば、そこに止まり、同じ話を繰り返していけないことはない。ただ、もっと先に何かあるはずだ、と思えることもある。 松原洋子・小泉義之編『生命の臨界――争点としての生命』という本が最近出た。筆者は、私が務めている大学院の<生命>というテーマ領域の専任教員である編者の2人と遠藤彰、そして大学院生の大谷いづみ。他に私と市野川容孝が対談相手で出てくる。私のは小泉との「生存の争い」という対談(小泉の本については連載第43回)。市野川は松原との対談。いずれも初出は『現代思想』。 こうして、既に雑誌に掲載されたもの7つ。うち文章が4、インタビュー1、対談2。加えて遠藤、大谷へのインタビューのようなもの(「語りおろし」となっている)が2。計9つ。安直な作りの本ではある。傍で見ていたから知っているが、とても手早くできてしまった本でもある。しかしそのわりには、と言ってよいかよくないか、わるくはないと思う。 テーマは多岐に渡る。目次等をホームページに掲載した。多くの場合、何かが積極的に、明瞭に語られているというのではないが、その先に(あるいはその「もと」に)もっと何かあるはずだという気持ちでは書かれている。 そして意外にも、というかむしろこのように書かれたから、入門書として使える。というのも、それなりに長いこと、見て考えてきた人たちに今のところの状況がどう見えているかがわかるからだ。入門書や概説書なるものの多くは、結局、ある部分を閉じられた形で提示する。結局その部分が何であるかはわからない。それに距離をとる、そのとり方のようなものを知ることの方が、かえって相手がよくわかることがある。むろんそうした読み物によって、読者が事態から距離をとれた気になった分偉そうな気分になるという害がもたらされうるのだが、それについては、何かに言及する人は言及される相手より偉いのだといったまるで愚かしいことを信じないよう気をつけろと諭すしかない。 ただ、状況を見るその見立て方がおかしなものであったら、かえってことを混乱させ、見通しをわるくさせるから、それは困る。しかし、この本に出てくる人たちの多くは標準的な人たちではないと言われたとして、それを認めたとして、その人たちが言っていること自体はいちおう筋は通っており、おおむね理に適った話にはなっているから、だいじょうぶだ。使えるものになっている。 そして具体的な主題を追った論文もある。そしてここで今回の最初の話に戻ることになる。大谷いづみ「「いのちの教育」に隠されてしまうこと――「尊厳死」言説をめぐって」。初出は『現代思想』2003年11月号、特集:争点としての生命。この号のことは第34回(2004年1月号)で紹介したが、そこでもこの論文はとりあげた。(それからの変化といえば、筆者が高校の教員をやめてしまい、大学院生だけの身分になってしまったことだ。)これだけ読みたいなら、私は、今度の単行本でなく、『現代思想』の購入の方を薦める。まだ売っている。価値のある文章がいくつも収められている。 この大谷論文には、日本安楽死協会について、日本尊厳死協会について、そしてその中心人物であった太田典礼という人物のことについて、関係して、「尊厳死」という言葉の始まり方や広まり方について、そう長くはないが、記述がある(長いものは今後発表される)。「尊厳死法制化」に共感する人もしない人も、わからない人も、まずはこれを読んだらよい。 [表紙写真を載せた本] ◇松原 洋子・小泉 義之 編 20050225 『生命の臨界――争点としての生命』,人文書院,306p. ISBN: 4409040723 2730 [boople]/[amazon] ※ UP:20050302 TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005004.htm) REV:0305(誤字訂正) ◇「死/生の本・5――『性の歴史』」 ◇身体×世界:関連書籍 ◇医療と社会ブックガイド ◇医学書院の本より ◇書評・本の紹介 by 立岩 |