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『ALS』:書評・紹介 (30) 『ALS:不動の身体と息する機械』 ■言及(↓) ■書評・紹介 ◆白石 正明* 2004/11/11 「「生きろ」と言える生命倫理」 *この本の編集担当者 ◆稲葉 振一郎 2004/11/23 書評 稲葉振一郎のインタラクティヴ読書ノート・別館 ◆書評 2004/11/26 『シルバー新報』 ◆川口 有美子 2004/12/01 「まず、口だけでも、口先だけでも言えばよい」 『難病と在宅ケア』10-09(2004-12)(日本プランニングセンター) http://www.jpci.jp/ http://homepage2.nifty.com/ajikun/nanbyotozaikakucare/tateiwa2004b.htm ◆「シリーズ ケアをひらく」について 『朝日新聞』 2004/12/01夕刊 ◆斉藤 龍一郎 2004/12/03 「日常の営みに裏打ちされたことばの強さ」 [boople] ◆最相 葉月 2004/12/19 書評(見出し: 「人工呼吸器をつけて生きる環境を」) 『朝日新聞』2004-12-19:12 http://book.asahi.com/review/TKY200503160394.html ◆小泉 義之 2004/12/25 「04年下半期読書アンケート」 『図書新聞』2707号(2004年12月25日) ◆すずらん 2005/01/02 「望んでいた情報ぎっしり」 [boople] ◆2005/01/02 図書紹介 『JALSA』64:57 ◆佐藤 れい子 2005/01 「膨大な資料から立ち上ってくる 生と死をめぐる論点の数々」 『ナーシング・トゥデイ』2005年1月号(12月15日発売、日本看護協会出版会) ◆内藤 いづみ 2005/02 「”死に傾く”医師たちへ」 『週刊医学界新聞』 ◆中島 理暁 2005/01/28 書評 『週刊読書人』2572:4 ◆芹沢 俊介 2005/01/23 書評 『東京新聞』『中日新聞』2005/01/23 ◆内藤 いづみ 2005/01/26 (今月の3点) 『朝日新聞』2005/01/26夕刊 ◆【洋書部・松】 2005/02/01 「知っておいたほうがいいこと」 『キノマガ』(紀伊國屋書店メールマガジン)第6号 ◆市村 弘正 2005/02/01 「二〇〇四年読書アンケート」 『みすず』47-1(2005-1・2):51 ◆茶虎亭日乗 2005/02/04 http://chatoratei.cocolog-nifty.com/book/2005/02/post_3.html ◆本間 善夫 2005/02/14 「ALSを考える」 http://d.hatena.ne.jp/ecochem/20050214/1108392269 ◆宮坂 道夫* 2005/02/14・21 「『ALS 不動の身体と息する機械』を読んで――ALSの隠喩について」 『週刊医学界新聞』2621(前編) 『週刊医学界新聞』2622(後編) http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2621dir/n2621_02.htm#00 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2622dir/n2622_03.htm#00 *http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/ ◆2005/03/06 「難病患者の生のあり方を深くみすえる本」 『ぜんじんきょう』208:23((社)全国腎臓病協議会 http://www.zjk.or.jp) ◆野村 由里子 (松阪保健所) 2005 「あなたは「それでも生きよう」と言えますか?」 『保健師ジャーナル』Vol. 61, No. 4より http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/review/0001109.html ◆瀬山 紀子 2005/04/10 「書評:立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』」 『われら自身の声』21-1:36(DPI日本会議) ◆宮崎 哲弥 2005/04/** 「廃用生――日本に訪れる大量尊厳死・安楽死時代」(ミヤザキ学習帳58) 『週刊文春』 ◆2005/04/23 ココペリ121書評カフェ 「ALSを考える」 天田城介 書評:『不動の身体と息する機械』 ◆大久保 功子 2005/04/25 「当たり前とされてきた「死」からよく生きるための「社会」へ」 『助産雑誌』59-4→転載:『医学界新聞』2635 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2635dir/n2635_07.htm#00 ◆佐藤 憲一 2005/05/05 「書評:立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』」 『思想』973:152-155(特集:科学技術と民主主義) ◆渡辺 一史 2005/06/01 「呼吸器を付けるか、否か クールで明晰な知性が導き出したシンプルでホットな結論」 『看護学雑誌』69-6(2005-6):632-633 ◆田島 明子 2005/06/15 「本の紹介:立岩真也著:『ALS−不動の身体と息する機械』」 『作業療法』24-3:295 http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/ta6.htm ◆2005/06 http://www.mmm.ne.jp/~yumeya/kan/05_06kan.html ◆2005/08/02 http://blog.drecom.jp/tactac/archive/176 ◆米澤 慧 2005 『ベターケア』 ◆上野 千鶴子 2005/08/06 「「当事者のリアル」に注がれる繊細で心強い視線の快さ」 『週刊現代』2005/08/06(リレー読書日記) cf.『ALS――不動の身体と息する機械』 http://www.ne.jp/asahi/laconic/ikiru/houdou/relay.htm ◆門林 道子 2005/08/25 書評『ALS−不動の身体と息する機械』 『看護教育』2005年8・9月合併号(Vol.46 No.8) ◆http://art-slan.cocolog-nifty.com/nakini/2005/10/ ◆天田 城介 2006/03 「「書評 『ALS―不動の身体と息する機械』立岩真也著、医学書院、2004年」」 『紀要 立教社会福祉研究』25:35-42(立教大学社会福祉研究所) http://www.josukeamada.com/bk/bpp34.htm ◆2006/04/03 http://inthewall.blogtribe.org/entry-364668520c4c706731305ce5b6fbf41a.html ◆畦地 豊彦 2006/06/25 「「生きられる場」の思考――立岩真也著『ALS―不動の身体と息する機械』」 『季刊福祉労働』111:132 >TOP ◆2004/11/26 『シルバー新報』 「筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、運動神経が侵され筋肉が萎縮していく難病だ。手足がきかなくなり、話すことも食べることも、呼吸をすることも困難になる。しかもその間、意識だけは明確であり続ける。本書を読んで何よりもショックだったのは、患者のうち七割は人工呼吸器をつけないことにより亡くなっているという事実だ。 安楽死がいけないのなら、生き延びることのできる道具を選ばないことによる「消極的な安楽死」がなぜ認められるのか。これが本書のテーマ。 善意がうっとおしいような場面で、やさしさやふれあいが語られ」「他方で生死にまつわるような場面になると本人の意思云々という」「これは逆ではないか」というように、誰もしてこなかった問いかけが結論でもあるといえる。 本書の過半は患者本人や医師、家族の書いた文書の引用文。生の言葉の前には安っぽい「べき論」など簡単にねじ伏せられてしまうだろう。分かったと思えるのは、「自然に死にたい」という言葉が、「自然ではない生」を否定しかねないということだ。もう、安易には使わない。」(全文) >TOP 日常の営みに裏打ちされたことばの強さ, 2004/12/03 レビュアー: 斉藤 龍一郎 (プロフィールを見る) 東京都 Japan 〜528の引用がちりばめられた449pの本である。著者は、「中途半端な本」と自著を語る。そうかもしれない。しかし、引用された文章(短いものは一行に満たない)一つ一つが発せられた状況を浮かび上がらせる著者の紹介を手がかりに読み進むと、文章を書いた人々の日常が目に浮かんでくる。何となく息苦しそうだった、人工呼吸器を付けて生きることが、そんな風にも〜〜生きることができるんだ、と選択の範囲に入ってきた。〜 >TOP 望んでいた情報ぎっしり, 2005/01/02 レビュアー: すずらん 東京都 Japan 知人より教えてもらい購入しました。ALSの「闘病記」は数冊読んでおりましたが、『ケアブック』等も読まなくては(購入して)と、思いながら過す日常生活で…。 各種、私が疑問に思っていた事の、答えが沢山のってます。 ただより一層、考えるべき問題点も…。 とにかく一度ご覧になって下さい。 >TOP ◆2005/01/02 図書紹介 『JALSA』64:57 ■生きろと言える生命倫理 ……呼吸器の装着率はあまり高はない。「息が苦しいのに呼吸器を付けない」という不思議な状況に、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の高い生/無意味な延命/自然な死……という口当たりのよい言葉たちが荷担していることを見て取った著者はこう反問する。「質のわるい生」に代わるべきは「質のよい生」であって、「美しい死」ではないのではないか? 死の受容などと唱える前にやるべきことがあり、呼びかけるべき声があるのではないか?以来著者は、ALS闘病記(あまり知られていないが、その少なくない数が「ハリーポッター」の静山社から出ている)やホームページから、当事者の語りを渉猟する。彼、彼女たちが舌先で、眼球の動きで、あるいは額のシワの動きで文字どおり必死に語っていること――それを執拗に追うことによって、やがて「生きろと言えない生命倫理」の浅薄さが浮き彫りにされ、人工呼吸器と人がいれば生きられることが証されていく。《400字詰850枚の過半を引用が占めている。…他の私の本は、できればどうぞくらいだが、この本はぜひ読んでほしい》と著者みずから述べる、渾身の一冊。(医学書院白石氏の書評より抜粋 立岩「小学生のように聞きますけど、身体が動かないっていうのは、退屈ですか?」/橋本「かんがえごとができていいよ。」/立岩「今わりと頭一つあればできる仕事をやってるんで、やれるかなと思って。」/橋本「できます。ふふ」(2002年夏、橋本みさおからの聞き取り) >TOP ◆2004/01 佐藤れい子 「膨大な資料から立ち上ってくる 生と死をめぐる論点の数々」 『ナーシング・トゥデイ』20-1(2005年1月号):54(12月15日発売) 日本看護協会出版会 http://www.jnapc.co.jp 「ALS(筋萎縮性側策硬化症)は筋肉がだんだん動かなくなり、やがて呼吸筋も侵されると自力での呼吸が難しくなる病だ。タイトルの「息する機械」は人工呼吸器のことである。 呼吸器を着けなければ生きられないのに、多くの患者たちが着けずに亡くなっていく。着けないことを自ら選択することによって、「尊厳死」と称される、いわば消極的自殺を遂げる患者もいる。そんなことがなぜ起こるのか?と少しでも疑問に思うなら、本書を手に取ってほしい。これは気鋭の社会学者が、ALS患者や家族などが書いたものを集積し、精査した本だ。致死の疾病を誰にどう告知するか、家族介護は社会的に正当なのか、障害をもって暮らすことの内実、死の自由について、などさまざまな問題が、膨大な資料の断片から次々と浮かび上がり、その一つずつにつぶさな論考が加えられる。実際にALS患者を知らなくても、医療者ならきっと、立ち止まって考え込まざるを得ない論点の数々がここにはある。」(全文) >TOP 書評:立岩真也『ALS――不動の身体と息する機械』 内藤いづみ(ホスピス医:ふじ内科クリニック院長) 医療倫理とは何だろう、といのちの現場でいつも考えさせられる。 立岩がこの本の序章で述べているように、いろいろな場面で同じ言葉が取り上げられると、なんだかもう分かっているような既視感をもつようになるらしい。 長いあいだ難病中の難病という烙印を押されてきたALSという病の現実をゆっくりと、詳しく学ばせてくれるこのぶ厚い本は、「分からない」ことは「分からない」という、当たり前のことを、格好をつけずに正直に認める勇気を与えてくれる。読む側にも体力が要求されるが、(立岩という人物は体力のある人なのだろう)大量の参考文献と、実際の患者の声や主張を載せ、現在の可能性のある方向と著者の意見も文脈に沿って表してはいるが、結論を決めつけない手法に、私は安堵感(救いというべきか……)を覚えた。 私は、平均70日の在宅でのがん患者の生きる日々に関わって、10年以上になる。本人と家族がどんな選択をしても、どんなケアや医療を私たちが提供しようとも、それで100パーセント絶対正解という確証はない。死に至る日々は、悩みと安堵と妥協が混ざり合い、揺れ動く心にみずからが折り合いをつけて、辛うじて、「これでよかった(はず)」とつぶやく結論に行き着くのではないかと感じている。 私の関わる進行がん患者の死はほとんど避けられないものだが、ALS患者にとって、来たるべき時の人工呼吸器の装着の有無は、いのちの継続に決定的に関与するから大問題だ。 はずかしながら、私はこれほどの長期生存者がいらっしゃることを正確に知らなかった。そして、これらの患者の声をまとめて読ませてくれた、立岩の今回の仕事に感謝している。これは、医療現場の外にいる人だからこそできた仕事だと思う。 ALSは難病である、と私たちは教え込まれている。身体筋力能力は失われていくが、思考、知性、意識は保たれる状況を、最悪だと考える第三者の私たちがいる。そしてその第三者が、医療者としてALS患者に関わったときに、"こんな状態では生きている価値がない"と潜在的に考え、人工呼吸器を着けないことを暗にすすめ、その人がいのちを諦める方向に向かわせる力にもなっているかもしれないと気づかされた。医師は、患者の治癒不能という状況がとても苦手である。 私はこういう医師のアティテュード(態度)に対してずっと批判をしてきたつもりだった。中立ではなく、"生に傾く"医師として、ターミナルケアに関わってきたつもりだった。甘かったかもしれないと反省している。 先日、余命1か月と告知を受けた食道がん患者に関わった。退院時にその後の進行予想の説明はなく、(食道が閉鎖すれば経口摂取できなくなり、生存の危機になるのに)週1回の抗がん剤治療に通院するように言われただけだったらしい。退院して、すぐに事態は急変した。飲み食いできなくなったのだ。ALS患者が急に呼吸困難になった状況と似て、くわしく知らされていなかったので、突然こういうことが起きて、本人も家族もかなりパニックになった。末梢静脈からの点滴だけでは体力がもたなくなり、中心静脈からの高カロリー輸液を検討した。 患者に説明すると「もう少し栄養を入れて、私は生きたい」とはっきり言ったのだ。そのためには外科的処置が必要になり、前医に再三依頼したが、「お気持ちは分かりますが、(誰の気持ち?)処置のための空きベッドがありません。できません」という返事しかもらえなかった。ベッドが空くのを待つ余裕はこの患者には残されていなかった。私たちは追い詰められた。 私はそこに"死に傾く"医師たちの力のベクトルを感じた。それは大きな力である。ALS患者が、息が苦しければ、それを楽にする機械があるのと同じように、のどの乾きを癒し、いのちのエネルギーを与える方法があるのに、それを第三者の判断で、その選択肢を勝手に黙殺することが許されるのだろうか。 幸いに友人の外科医の協力で、留置ポートを着けることのできたこの患者は望みを叶え、生存のカロリーを得て、その後の20日間の人生を生き抜いた。 患者の「生きたい」という声を、医療者はくもらない心でききとげるべきだと思う。 >TOP 中島 理暁 2005/01/28 『週刊読書人』 http://www.dokushojin.co.jp/shohyo.html *以下の再録について、まだ著者の承諾をいただいていません(2005.1.23)。 医療を社会科学的に分析する諸領域は、つい最近まで、一部の例外的な研究者を除き、非人道的人体実験に歯止めをかけるべく米国において七〇年代に成立した生命倫理学を、意識しつつも公的には無視し続けてきた。 「規範的な議論に与するべきではない」などという一見尤もらしい理由で、新興の学問領域を対象化し批判的に検討する作業を社会科学が怠っている間に、生命倫理学は自らの文化的被拘束性に無自覚なまま、生きるに値する生と、値しない生の境界設定の倫理的根拠の精緻化を押し進め、自律性の尊重といった原理や倫理委員会などの制度を創出することによって政策への一定の影響力を獲得してきた。今やリベラル新優生学の有力な後ろ盾とさえなるに至り、バイオポリティックスの一大装置として機能しつつある。つまり、本書の取り上げるALS(筋萎縮性側索硬化症)という病いとともにある人々にとっては、ただでさえ生き難い現実に、さらに対峙すべき、学問的権威という衣を纏った厄介な言説が現れたことになる。 何故なら、感覚や思考は正常のまま、運動神経だけを侵し次第に筋力が衰える、原因不明で不治のこの病気は、自力呼吸ができなくなる段階まで進行すると気管を切開し人工呼吸器を装着する必要が生じるが、家族が余儀なくされる24時間介護が必要な「息する機械」を使ってまで「不動の身体」で生き続ける「質のわるい生」よりも「自然な死」を選択すべきではないか、という問いが容赦なく発せられることになるからであり、さらにこの問いが、ALSを発症することが多い「分別盛り」の年代の、それまで生産的な日々を送っていた人々に内面化されてしまうからである。 生命倫理学が産み出した「概念」と「手続き」を実践した結果、すなわち「QOL」についてのについての「インフォームド・コンセント」を「徹底して行った結果……人工呼吸療法を選択される患者は激減しました」(p.137)とALS医療の要職にあたる人物が「成果」として語る現況のもとで、7割以上の患者が呼吸器装着を選ばず、息苦しさの中で朦朧としながら死んでいく。換言すれば、我々は、最近の子どもは命の大切さを判っていないと嘆く一方で、これらの人々を、平然と「死の中へ廃棄」(M・フーコー)しているのである。 本書は、この二〇年あまりの当事者と医療従事者らの語りを分析し、病いの経験が埋め込まれている文脈を丁寧に可視化させることによって、「質のわるい生」が、実は所与のものなどではなく、恣意的に社会によって作り出されてきたことを明らかにしたヒストリオグラフィーであり、さらに、このような近過去の史的分析を踏まえてこそ初めて、倫理的考察が病いとともにある人々の立場に立ち得ることを示した、社会科学による「生命倫理」再構築の試みである。 らい予防法による絶対隔離政策や優生保護法下での強制的不妊手術によって、その心身を深く傷つけられた人々の存在が知られる度に、当事者の声に耳を傾ける必要性が指摘されてきたにもかかわらず、生命倫理に関わる公共政策の形成過程において、実態の精査に基づき当事者の経験が反映されるメカニズムは未だ整っていない。折しも、終末期医療・延命治療に関するガイドラインが作成され、臓器移植法が改正されようとしている現在、「歴史は繰り返す」と開き直るのではなく、歴史を超えていく努力が求められているのであり、本書の知的誠実さが真摯に受けとめられる事を切に願いたい。(なかしま・まさあき氏=秀明大学医療経営学科講師/東京大学大学部客員研究員・生命倫理学・公衆衛生学専攻) >TOP 芹沢 俊介(評論家) 『東京新聞』『中日新聞』2005/01/23 *見出しは「難病患者が延命を拒むわけ」 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、原因不明の難病中の難病といわれており、いまのところ不治とされている。この病気の特徴は早晩体が動かなくなり、ついには息ができなくなることがある。しかし脳は冒されていないので、意識の表出は可能である。 では死を待つのみなのか。そんなことはない。呼吸器をつければ、延命が可能だ。だがここに問題が現れる。ALSの患者の約75%の人たちがつけずに亡くなっていくというのである。なぜ? 著者が問いかけた最大の疑問の一つがここにある。 息ができないのはつらいから呼吸器を求めるのも、死ぬのが怖いから生きたいと願うのも、どちらも本能的な反応である。それに呼吸器をつけさえすれば、さらに十年以上の人生をおくることだって夢ではない。なのに、そういう人たちは全体の四分の一しかいない。そうした人生に対する本能的反応や希望をねじ伏せてしまう何かがあると著者はいう。 「人」と「できること」を強く結びつけてきたこの社会では、「できなくなること」は「人」ではなくなることだ。そのような人間観に立って、たとえば呼吸器を装着することを、生命の質という視点から、いたずらな延命措置とみなす考え方が出てくる。だが、ALS患者には意識があり、意識の表出が可能なのである。つまり世界に触れ、他者とコミュニケーションができるのだ。生命の質だって、十分高いではないか。 であれば大多数であるはずのALS患者の生きようとする意欲が、人工的な延命を拒否するという選択に導かれるのはおかしい。逆に気管支切開を受け入れ、呼吸器をつけるという道へと方向付けられてしかるべきだろう。そしてそのような患者の選択を私たちは支持できるはずだと著者はいう。そのとおりだと評者も思う。生きたいと願うことが、そのまま生きられることと結びつくような社会を目指そうとして書かれた、気鋭の社会学者の手になるALSの社会学というべき画期的な労作。 >TOP ◆内藤 いづみ(在宅ホスピス医) 2005/01/26 今月の3点 『朝日新聞』2005/01/26夕刊 ▽立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院) ▽佐藤学「『改革』によって拡大する危機」(論座2月号) ▽田原総一朗「連載・戦後私たちは間違っていたか29 教育の転換期に『公』の見直しを」(現代2月号) 立岩はALSという難病に向かい合う本人、家族、医療者たちの様々な声を集積し、「いのち」を支える極限的な状況で何が選択されているかを教えてくれる。 多くの改革にもかかわらず学力低下が進んで受験産業が活況だ。パートタイム教師が増加した教育現場では、教職の専門職性と自律性と尊厳を擁護することが急務だと佐藤が指摘。 田原は個人の尊厳を守るために、私たちが他人とどうかかわっていくべきか、戦前とは違う新しい時代の「公」を創造していく重要性を語る。 (全文引用。改行は当方による) >TOP ◆【洋書部・松】 2005/02/01 「知っておいたほうがいいこと」 『キノマガ』(紀伊國屋書店メールマガジン)第6号 紀伊國屋書店 http://www.kinokuniya.co.jp/ 登録・解除 http://www.kinokuniya.co.jp/01f/malmaga/malma2.htm ○『ALS 不動の身体と息する機械 』(立岩真也、医学書院) http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4260333771 ○『教育言説の歴史社会学』 (広田照幸、名古屋大学出版会) http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=481580396X ○『放送禁止歌』 (森達也、知恵の森文庫) http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=4334782256 →何かを考えたり、論じたりする前に、まず「知っておいたほうがいいこ と」が沢山あると思う。そんなことが書かれている、少しは知られてい るけれど、もっと知られてほしい本です。 ○生命倫理などに少しでも興味があるならば、あるいはなくても、まず 読むべき本。人工呼吸器をつければ延命できるのに約7割の患者がつけ ずに亡くなっていくALS。この難病をめぐり、ALS当事者の書いた 膨大な量のテキストから、「たんなる延命」より「自然な死」を、とい ったものいいが間違っていること、たとえ無責任でも「生きろ」という べきことを示す。○「教育の危機」を当然の前提として考え、語ってし まう前に、データや歴史的事実を見よ。○それはTVなどの大衆文化で もおなじこと。「その歌、放送禁止なんだよね」は正しいのか。【洋書部・松】 書籍の検索・ご注文はこちらから [BookWeb] →http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ 店頭の在庫検索・ご注文 [HybridWeb] →https://bookweb.kinokuniya.co.jp/indexh.html 全国店舗案内 →http://www.kinokuniya.co.jp/04f/index.htm >TOP ◆市村 弘正 2005/02/01 「二〇〇四年読書アンケート」 『みすず』47-1(2005-1・2):51 http://www.msz.co.jp 1 M・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石塚・藤田訳、みすず書房 […] 2 P・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳、岩波文庫 […] 3 立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院 私たちが生きる世界を考えるための「別の切り口」を求めて、幾つか手にした不案内な領域の本のなかで、土佐弘之『安全保障という逆説』や加藤典洋『小説の未来』(朝日新聞社)や竹田茂夫『信用と信頼の経済学』(NHKブックス)とともに教えられた。 しかし現場の言葉にもとづく医療社会学的モノグラフを論評する力は、私にはない。ここでは、思考を促す著者の末尾の言葉を引用しておきたい。「たしかに苦痛はある。その人ができないことの多くは機械や他人で代替することができるが、身体自体は取り替えることができず、そのことに関わる苦痛はある。けれどどうやらその苦痛は、この世に未練のある者にとって、未練を断ち切るほどのものではない。」 >TOP ◆2005/03/06 「難病患者の生のあり方を深くみすえる本」 『ぜんじんきょう』208:23((社)全国腎臓病協議会 http://www.zjk.or.jp) 「本書は、運動神経が侵される難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者の言葉が528も引用されており、ALS闘病記という側面も持っています。 しかし本書は、闘病記にとどまらず、著者の粘り強い問いかけによって、ALS患者の「生きたい」という意志と、それを実現させない社会の「〜できる能力があることが生きるに値すること」という価値観との葛藤が浮かび上がってきます。生きたいと願うことが、そのまま生きられることと結びつくような社会を目指そうとして書かれた難病の社会学といえます。著者は『弱くある自由へ』などの本を発表している気鋭の社会学者です。」 >TOP ◆宮崎 哲弥 2005/04/** 「廃用生――日本に訪れる大量尊厳死・安楽死時代」(ミヤザキ学習帳58) 『週刊文春』 「[略] ALSという病気がある。筋萎縮性側索硬化症の略だ。これに罹ると、手足が動かなくなり、発語や摂食が不能になり、やがて自発呼吸も困難になる。然るに意識だけは最期まで明晰だ。立岩真也(G)『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院、2800円+税)は、「生きろ」ということの困難性を承知しながら、なお「死ぬな」の可能性に賭ける。立ち止まり、考えるために。」 *(A)〜(G)、計7冊の本が取り上げられている。また横:肯定的(左)←→否定的(右)、縦:制度へのアプローチ(上)←→実存へのアプローチ(下)という図があって、(G)は右・下に置かれている。 >TOP *白石さんより。 ……以下…… [略] 「書評カフェ」の詳細を転送します。 当事者の中水さんを中心に、少人数でやるそうですが参加は自由です。 ------------------------------------------ ココペリ121書評カフェ 「ALSを考える」 共催:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター ●日時:2005年4月23日(土) 午前11時00分から午後2時30分まで ●場所:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 会議室 ●テーマ:「ALSを考える」 【スケジュール】 午前10時30分:開場、受付 午前11時00分:書評カフェ開始(午前の部 50分) ●司会:中岡成文さん (大阪大学コミュニケーションデザイン・センター長) ●報告者:中水浩貴さん「ALSへの思い」(ココペリ121利用者さん) 午前11時50分:休憩 午後1時10分:書評カフェ再開(午後の部 80分) ●報告者:天田城介さん (熊本学園大学社会福祉学部助教授) 書評する本:『不動の身体と息する機械』立岩真也(医学書院) ●報告者:西川 勝さん(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 特任助教授) 書評する本:『人工呼吸器をつけますか?』植竹日奈ほか(メディカ出版) ●閉会のことば:長見有人さん (NPOココペリ121理事長) 午後2時30分:終了 懇親会:未定 ……以上…… >TOP 解釈学的手法を用いた本であると同時に、医療倫理に社会学から待ったをかけた本。 「価値に中立であることなんてできないでしょう(そうですよね……)」「医療ではできないって白状したら良いでしょう。何も抱え込まなくたって(そうですよね……)」「いいんですか。家族と本人の利害が対立しているのに、家族が決めちゃって(そうですよね……)」。誰もが(医療倫理でも)口を噤み、見てみぬふりをしてきたことが、ALSといきる(た)人たちの膨大な声なき声を紡ぐことで容赦なく暴かれていく。 ALSは意識は清明なまま次第に動けなくなるが、呼吸器をつけさえすれば10年ぐらいは生きられるし、もっと生きられるかもしれない病気である。生きている人が呼吸器をつけないと息が苦しいのだから、「しない」ことは自然な死などではなく、すでに呼吸器をつけている人の呼吸器を外すことと変わりはない。それなのになぜか70%くらいの人が呼吸器をつけないこと(つまり死)を選ぶ。消極的な安楽死とも言えるような「呼吸器をつけないことがなぜ認められるのか?」。認められてきたのか。それも男よりも女のほうが多く……。 いまのところ「なおらないから」が1つの答えだ。呼吸器を外すことよりも、呼吸器をつけないほうが「しなくて済む」から。自分が生きたいと思うことと周囲が生きるために負う負担を天秤にかけるから。本人の自己決定だから……。なおすこと/なおらないこと、外すこと/つけないこと、知らせること/知らせないことなど、著者は対置された言葉で読者を両極に揺さぶりながら、当たり前とされてきた「よくない生活」に対するこれらの答えに何が入り込んでいるのかを炙り出していく。 医療はなおらないことを否定し、なおすことに価値をおき、「補う」ことは二の次におき、動けないまま生きていくことは周囲の人に迷惑をかけるし、本人のQOLも低下してくると、人はいう。知らされるべきことが知らされるべき人に知らされないことがある。そういった生存を困難にしている条件と、生存を否定する価値が、社会の中にある。そういう社会の価値を内面化してしまっている私たちのまわりにある自己決定や告知、「自然な死」ということも疑いたくなってくる。 利得権益を守ろうとする医療と利害が対立しようと、不治の病であろうと、死を選択せずによく生きることはできるし、誰がどこまで責任をもち、負担するのかさえはっきりすれば、よく生きることを支えられるはず。「自分の存在を否定することに、現実に生きることの困難(をもたらしているこの社会の仕組み)と動かない自分が生きること(の価値がないというこの社会)の価値が大きくかかわっているなら、それよりも強い肯定が必要となる。より積極的に、ともかく生きることを支持するといい、勧めることである。そして、同じく、生きるのが実際に可能な状態を作ることである」と著者はいう。 結論は、意外に明るい。それでも、看護は少なくとも「補う」寄りだと思っていたのに、「治すこと」寄りにずいぶん偏っているんではないかと、なんだか淋しい思いがするのは私だけだろうか。 (『助産雑誌』Vol. 59, No. 4より) A5・頁456 定価2,940円(税5%込)医学書院 >TOP ◆渡辺 一史 2005/06 「呼吸器を付けるか、否か クールで明晰な知性が導き出したシンプルでホットな結論」 『看護学雑誌』69-6(2005-6):632-633 約7割が「死」を容認 先ごろ、アメリカで起こった「尊厳死」をめぐる騒動が、日本のワイドショーでもさかんに取り上げられ、話題になった。 15年にわたって「植物状態」にある女性の夫が、「妻は人工的な延命を望んでいなかった」と栄養補給の停止を求める一方で、彼女の両親は「娘が死を望むはずがない」と主張し、法廷闘争へと発展したのである。また、尊厳死を否定する宗教右派と、その動向を気にする政治家が、この問題に介入してきたものの、結局、裁判所は、議会と両親の訴えを退け、3月31日にその女性は死亡するにいたった。 タイム誌の世論調査によると、半数以上の米国民がこの結果を支持、さらに約7割の人が、もし自分が彼女の立場だったら尊厳死を望むと答えたという。 しかし、騒動の経緯や真相はどうあれ、ここには考えるべき本質的な問題が横たわっていると思える。 「人工的な延命は是か非か」、あるいは「本人の意思に基づく尊厳死は認めるべきかどうか」といった、ひどく難しい問題である。どう考えればいいのか―。 今回、立岩真也氏の『ALS 不動の身体と息する機械』を読み、その手に負えなさそうないくつかの難問が氷解していくような快感を味わった。 それでも生きたほうがよい 「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」という難病がある。全身が徐々に動かなくなり、やがて自発呼吸もできなくなる。その一方で、意識と感覚はそのまま残る。いまだ原因も治療法も未解明であることから、「欧米ではがんより恐れられる」という病だ。日本では約7割の人が、人工呼吸器を付けないままに死を選ぶ(消極的安楽死)という現状もある。 立岩氏は、こうした医療現場の実情と患者の声に徹底的に耳を傾けながら、《安楽死でもしないと仕方のない状態というものが、あるのかどうか》を検討していく。そして、結論を先に言ってしまうならば、死ぬことが正しいことであるかのような議論は間違っており、《生きることを否定する価値を信じる必要はない》ことを導き出してみせるのだ。 私もまた、「人に迷惑をかけるくらいなら、あるいは、自分で自分のことができない身体になるくらいなら、その前に死んだほうがまし」という考えを、頭の片隅から追い出せずにいる1人である。しかし、中絶や安楽死を否定するアメリカの宗教右派の「殺してはならない」というヒューマニズムからは最も遠いクールさで、「それでも生きたほうがよい」と主張する立岩氏の論に、私は大いに説得された。 まず「人工的な延命」という言い方について、「人工的」というのであれば、病気を薬で治すのも人工的だし、赤ん坊にミルクをやるのも人工的である。人工呼吸器で生命を維持することと、入れ歯やメガネ、ペースメーカー等で日常生活を補うことの間に、論理的な差異を見出すことはできない。 何をもって「人工的」と言い、何をもって「自然な死」と言うかは、はなはだ不分明なのだ。 また、たとえ身体が動かなくなったとしても、意識がある限りは、それを伝える手段が原理的には存在し、最後までコミュニケーションは可能であること、そして今日では、障害者団体の運動によって、生活をサポートする制度が整ってきており、家族に負担をかけることなく、暮らしたい場所で暮らせることを指摘する。容易ではないにせよ、自らが望み、働きかけさえすれば、「なんとかなるらしい」ことを具体例をもとに検証してみせる。 しかし、そのうえで、ある患者は呼吸器を付けて生き、別の患者は呼吸器を付けずに死を選んでしまうのはなぜなのか、を問うのである。 「死」を容認する動きの深層 人が死ぬにはさまざまな理由があるが、突き詰めると、肉体的苦痛よりは精神的苦痛によって死を選ぶという。それはたとえば、「自分ができることがなくなった」とか、「家族に迷惑をかける」など、生きるうえでの最低条件に思えるものが厳しさを増したときに、そうなる。 しかし、「死を選ぶのが良いか悪いか」を問う以前に、もっとするべきことがあると立岩氏は言う。つまり、生きるための“最低条件”と考えられている価値が、実は間違っているのではないかと問うことである。 《転倒した価値の下にある時、その人は自らの否定の方に行く。あるいは自らを否定することによってようやく自らを肯定することになる。自らの死を成就させることによって自らの生を意味づけようとする》 だから、そのような価値が間違っているのではないか、と私たちは考えることができるし、また、そう考えたことを伝えることもできる。それをするのとしないのとでは大違いであり、「生きるか死ぬかは本人の意思次第」と“中立”を装って言うことは、結果的に苦境に立つ人に「死ね」と言うのに等しい。 往々にして、人は、苦境にあるとき「生きたい」と思いながら、「死にたい」と逆のことを言うのを私たちは知っている。であるのに、なぜ、難病患者の「死にたい」という声には、バカ正直に耳を傾けようとするのか。それは、ひとえに、その人がいなくなったほうが、まわりの人にも、社会にも都合がよいということが事態の本質としてあるからではないのか、との指摘には、なるほどと思った。 価値観の根本をどう変えるか 一昨年、私は『こんな夜更けにバナナかよ』(北海道新聞社刊)という本で、人工呼吸器を付けた筋ジストロフィー患者と、彼を24時間体制でサポートするボランティアたちの交流について描いた。 「自分では何ひとつできず」「人に迷惑をかける」存在である障害者が、ワガママに生を主張することで、まわりを巻き込み、結果的に多くのものを遺して死ぬそのプロセスを描いたノンフィクションである。そして一方で、「自分で何でもでき」「人に迷惑をかけない」はずの、私を含めた健常者の生が、少しもいきいきと輝いていない現状についても考えてみた。結局のところ、人生の本当の意味などというのは、自分では「もう十分生きた」と思ったそのあとから始まるのではないかとさえ感じたものだ。 誰もがキレイな死を望み、人に迷惑をかける生をよくないものとする価値観は、早晩、老いてゆく自分たち自身の首を締めることになるだろうし、私たちの生を窮屈にし、生きづらいものに向かわせる。 そうした価値観の根本を変えるにはどうすればいいのだろうか。昨今、「弱さの力」だとか「病の効用」などといったことがさかんに言われ始め、私の本もその1つということになるのだろうが、しかし、そのように「マイナス」を「プラス」と言いくるめるだけでは不十分なのだろうと私は感じている。 もっと大きな哲学、マイナスをいきいきと生き抜くための知恵が、これからの社会にはますます必要になってくるのだろうと思う。 >TOP ◆瀬山 紀子 2005/04/10 「書評:立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』」 『われら自身の声』21-1:36(DPI日本会議) くるりとタオルでもまけば、ちょうどまくらに程良くなるような、厚さ4p、450ページに及ぶ本書。 この本は、ALS、筋萎縮性側索硬化症という神経難病の人たちが置かれた状況から出発して、人が生きるということについて考察をめぐらせた本です。ALSという難病は、多くの場合、成人してから発症する難病で、発病してからそれほど間をおかずに、全身の筋肉が動かなくなり、その結果、呼吸を動かす筋肉も動かなくなるため呼吸器(息する機械)を装着しなければ生きることが困難になるという病だということです。 こう書くだけで、そうした状況から遠いところにいる人にとっては、なんだかたいへんそうだ、ということになるかも知れません。そもそも、呼吸器を装着しなければ、と書いた時点で、呼吸器を装着するか、しないか、という「選択」、つまりは生死に関わる「選択」を自らが下すという、想像し難い状況が迫ってきます。そもそも、多くの人は、生きることを主体的に選んでいるというよりも、生きているという現実があって、その現実を受動的に得ているという状況があると思います。ALSの人たちも例外ではないはずです。しかし、ALSの人たちは、現実を受動的にただ生き続けるということがあたりまえには続けていけなくなってしまう。 呼吸が困難になれば、苦しいから呼吸器をつけるというあたりまえに思えることが、現実には行われていなくて、生死に関わる決断が患者につきつけられるという現状、いやそうした選択肢があることすら知らされないまま、人が亡くなっていくという現状があるというのです。それも、そのほうが患者のため、患者の尊厳を尊重した結果という、勝手な、他人による、他者の生に対する評価が裏付けとなって。 尊厳死法という法律案が出されようとしている現在、本書に収められた多くの当事者の言葉は、必読に値します。 泊まり介助の際の携帯用まくらとしてもおすすめします。 >TOP ◆門林道子* 2005/08/25 『看護教育』2005年8・9月合併号(Vol.46 No.8) * 昭和薬科大学・前川崎市立看護短期大学非常勤講師 「闘病記」の研究に関わり、がんの闘病記を中心に数多くの「病気体験記」を読んできた。実体験に基づくこれらの本から、病気や死に対峙する個々の患者の緊迫した状況を知る一方で、病をもったがゆえに感じる生の実感や喜びに幾度となく出合ってきた。 本書は450ページもあり、読むには相当のエネルギーを要する。内容は、ALS患者本人と家族の語り、そして著者の分析から構成されており、患者本人が特殊なパソコンを用いて、もしくは眼球などの動きで装置を用いて指し示した「語り」が、その大部分を占めている。「告知」について、病気の進行とともに感じてきた思いなど、あらゆる場面を含んでいるだけに、大変「重い」本である。 ALS(Amyotroplic Lateral Sclerosis、筋萎縮性側索硬化症)とは、意識が清明なまま筋肉が萎縮し運動機能が衰え、ついには呼吸困難に陥る原因不明の難病である。だが、人工呼吸器の装着の後長期にわたって生きることも可能である。そのような現状の中で、著者は呼吸器を装着せずに亡くなる人が患者全体の約7割いることに着目した。医療者側で呼吸器の提供のない場合、本人の意思を問うことなく家族が呼吸器の装着を望まない場合があることをあげた上で、患者自身の「自己決定」による「呼吸器をつけない」という生命の選択を結論づけるものが何なのかを追求している。 呼吸器の装着により生き続けることができる患者が装着を拒む「自己決定」の背景には、自らの生が肯定されなかったり、「これ以上迷惑をかけられない」との思いから発する介護者や身近な他者との関係性が大きく関与している。さらに「(こんな身体で)生き続ける価値があるのだろうか」という社会に潜在的にある「生命の質」も、生をあきらめるという「自己決定」の方向へ導いているのではないかという問題を提起している。 また、生や死に対する考え方は、個人の中でもその時々の身体状況を含む環境のなかでの他者との関わりによって、流動的であるという一見あたりまえだが見落とされがちなことに、ここで著者はあえて言及している。呼吸器をつけない選択を「消極的安楽死」であるとし、どこまでが「自然」なのかと問う視点も興味深い。 病気の性格上、身体の管理を他者に依存せざるをえない部分が大きいALS患者の場合は、がんなどとはまた違う、限られた生を充実させるためのより長期的な視野に立った「緩和ケア」など、患者と介護者双方への社会的な理解や医療支援が必要なのではないだろうか。与えられた命を最大限にいかせる社会、病気や障害をもって人工呼吸器を装着しても「生きていてよかった」と感じられる社会の構築の必要性をあらためて考えさせられる。 「自己決定」だからと本当は生きていたい患者を見送っている場合があるのではないか。「自然死」ととらえられてきたものが、本当に「自然」なのか。本書は、医療倫理に社会学からアプローチした本ともいえるが、社会学は「自明」とされてきたものを問い直す性格をもっている。「患者の思い」に立ち返り、よりよいケアを考えていくためにも、看護に関わる人たちにぜひ読んでいただきたい一冊である。 >TOP ◆畦地 豊彦 2006/06/25 「「生きられる場」の思考――立岩真也著『ALS―不動の身体と息する機械』」 『季刊福祉労働』111:132 立岩さんの著作は『思想』誌上に掲載されたもの以外は読んだことがない。主著『私的所有論』の脚注にぼくの名前があって、批判されているということを、随分前に教えてくれた人があって、「へぇー」といったところで、多少縁がある。 この本を手にしたとき、どういうわけか、『機械の中の幽霊』(ケストラー)を連想してしまった。書名に『ALS』が無ければ、そしてすべてを言い表している『レット・イット・ブリーズ』が無ければ、勘違いするところだった。 ぼくの父は「脊椎軟骨硬化症」に罹患し、その闘病の様を息子として経験している。頚椎の上から三番目の箇所が石灰化し、それが原因で、四肢神経の麻痺から始まって、最後には呼吸系の神経が侵され、呼吸停止にいたる病気だと説明を受けた。 ALS(筋萎縮性側索硬化症)が難病指定を受けた頃の話で、まるきりではないにしろ、この述語にあてはまる病気であった。だから、ALSにも縁がある。 立岩さんは「ALSのことを調べてみようと思ったのは、安楽死でもしないと仕方のない状態というものがあるのかを考えてみたいと思ったからでもある」と述べている。従ってこの本の核心は七章と八章にある。この部分だけを読んで、後は食まなくても(分厚すぎて大変だから)、自分で「死ぬ」ことを日常の風景のなかで、経験則的にか、論理的にか、どうでもいいから考えてみることだ。死を思うことは実は生きることを思うこととさして違わないことに気づく。 そうしたら、ALSにってこの本の他の部分を読むことをお勧めする。 この本は著者の性癖なのか個人が集められる限りのものを集め整理し、それらを通して、著者の思考過程(現実)を追体験できるように工夫されている。 十一章五節にまとめが一挙に出てくる。 十二章からは、自身でとりあげた論点をああでもない、こうでもないと再試行(ママ)している。七節「ロックトイン」以降が前人未踏の思考領域である。気になる文章に番号を付けたら九個になった。その一つを紹介する。 「その論(個人の自由・ALSの激しさ)を全面的に否定するのでなく、そこにある短絡を指摘する。明確な対案を出すのではなく、現実を所与とすれば、どの案も十分でないことを示す。」「安楽死を認めるのも禁ずるのも、どちらの方に向かっても無理がある。死にたくないが死にたくなる事情を減らすのが基本的な解である。それでは答にならないと言われるたら、それは違うと、以上を確認することに意味があると答える。」 論理の尽きるところからの、切り返しの論理の構築と言うべきか? 御都合主義とはちがう”生きられる場”の思考がある。 >TOP ■言及 ◆清水 哲郎 20050805 「医療現場における意思決定のプロセス――生死に関わる方針選択をめぐって」,『思想』976(2005-08):004-022 ◆中山 茂樹 20050805 「法における「尊厳死」の捉え方」,『思想』976(2005-08):062-077 ■入試問題での使用 ◆2006 宮城大学 看護学部看護学科編入学試験 UP:20041208 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b2r.htm REV:1219,20050119,23,25,0201,07 ..0303,13 0414 0521 0605,22,30 0725,27 0802,07 1210 20060810,12 ◇『ALS』 ◇ALS ◇立岩真也 |