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『ALS:不動の身体と息する機械』序章

『ALS:不動の身体と息する機械』



 ■1 ALSという病

  筋萎縮性側索硬化症=ALSという病がある。ごく簡単に言うと、身体が次第に動かなくなる病気である。次の二つの紹介を合わせて読むとほぼ概要がわかる。
[1]「ALSは、英語名(Amyotrophic Lateral Sclerosis)の頭文字をとった略称で、日本語名は筋萎縮性側索硬化症といい、運動神経が冒されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病です。アメリカではメジャーリーグ野球選手のルー・ゲーリックが罹患したことからゲーリック病とも呼ばれています。また、イギリスの有名な宇宙物理学者ホーキング博士も三〇年来の患者です。/病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、次第に話すことも食べることも、呼吸することさえも困難になってきますが、感覚、自律神経と頭脳は何ら冒されることがありません。進行は個人差がありますが、発病して三〜五年で寝たきりになり、人工呼吸器を装着しなければ呼吸することができなくなります。/残念ながら、原因も治療法もわかっていません。一般に四〇〜六〇歳で発病し、患者は全国で五〇〇〇人ほどと言われています。」(現在わかっている人数はもっと多く、二〇〇二年三月末、申請して交付される特定疾患医療受給者証をもっている人の数は六一八〇人。)
[2]「ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、脊髄の左右の部分がおかされることよって運動神経が機能を失い、筋肉も消失してゆく病気です。具体的な症状は、手足の筋肉が次第に力を失うことに始まり、やがて口のまわりや体幹の筋肉も力を失って「言葉をはっきり話せなくなる」「食事を食べられなくなる」「呼吸ができなくなる」ことへと進行してゆきます。そして、原因や治療法の研究が国の内外で進められつつありますが未だ原因と治療法について確立されたとは言えず、不治の難病、難病中の難病と呼ばれています。[…]/現在では、人工呼吸器が進歩して一般的な条件で使用可能になったため、ALSが直接の原因で命が奪われることは有りません。しかし、呼吸器の故障、喉を詰まらせての窒息、体力の衰弱に伴う肺炎などの合併症などにより、命を失ってしまう患者が非常に多いのが実状です。また存命している場合でも、全身麻痺に加えてコミュニケーション不能の問題があるため、患者の苦痛はもちろんのこと看護・介護にあたる人々、特に家族の苦労には想像を絶するものがあります。さらに、中高年での発病が多いため経済的な面でも問題が発生する場合が多くあります。」★01
【★01[1]は日本ALS協会のホームページ(http://www.jade.dti.ne.jp/~jalsa)の「ALSとは」の項、[2]は日本ALS協会山梨県支部の「設立趣意書」(一九九六年設立、http://www.nemoto.org/ALS/index.html#SHUISYO)より。ALSは一八六九年にフランスの神経学者シャルコーによって初めて独立した神経疾患として記載されたという。シャルコーについては池田[1992]。また、総数について、一九八八年の推計値として一八〇〇〜八〇〇〇という数を記しているのは佐々木他[1990](近藤喜代太郎[1991:235]に引用)。】

  ■2 不思議なこと

  ALSのことを書こうと思った時、急がなければと思った。どこからか二、三年で亡くなると聞いていて、話をうかがった人も早くに、来年か再来年には亡くなってしまうかもしれないとその時には私も思っていたのだ。しかし実際はそうでないらしいことがやがてわかってきた。しかしこんな基本的な大切なことで誤解してしまうとはどういうことだろう。まずそのことが不思議だった。そして他方には、やはり早くに亡くなる人もいるらしい。
  この病気では内蔵の働きは妨げられないのだが、筋肉は働かなくなり、肺を動かしているのも筋肉だから、やがて呼吸が苦しくなることがある。それで人工呼吸器を付けるか付けないかという場面がある。付けないで呼吸できなくなって死ぬか、それとも呼吸器を付けてひとまず死なないことにするかということだ。それが、生きられると言われる時間と、実際に生きられる時間との差を作っているらしい。そこに分かれ目があるらしい。しかし、私は、そんなことがなぜ選択の対象になるのだろうと思う。息が苦しくなって死ぬのはかなわないと思う。だが実際には、この国で七割強の人が呼吸器を付けずに亡くなるという(橋本[1998a]、木村[2004:10]、この本での引用としては[472])。
  それを普通は安楽死とは言わないかもしれない。しかしなにかすればもっと生きられる時にそれを行なわないこともまた安楽死(消極的安楽死)と言うのであれば、これもまた安楽死ではないだろうか。安楽死がいけないなら、呼吸器を付けないことはなぜ認められるのか。この疑問はおかしな疑問だろうか。
  さらに、より積極的な行いが行なわれることもある。Veldink et al.[2002]という論文がある。これは私がこの本を書くためにただ一つ読んだ英文の医学誌に載った論文で、山梨県に住むALSの人、山口衛[58]――本書では引用に通し番号を付け[]内に記し、同じ人や文章がどこに出てくるかわかるようにする――に教えてもらい、送ってもらった論文だ。著者たちが調査したところによれば、一九九四年から九九年に亡くなったオランダのALS患者について、医師から回答のあった二〇三人のうち三五人(十七%)が、安楽死を選んで亡くなった。加えて六人(三%)が、医師の幇助による自殺で亡くなった。前者は致死性の薬物を注射される、後者では医師の処方した薬物を自分で飲むといった方法がとられる。オランダのALSの人の五人に一人はそうして亡くなったということだ★02。
【★02諸外国におけるALSの人の安楽死、幇助された自殺について伊藤[2004]にまとめられている。本書では、第11章1節でこの国での安楽死を報道したテレビ番組への反応にいくらか言及する他、ごく断片的にふれられるにすぎない。】
  安楽死について書き、ALSに言及したことがある(立岩[1998a])。そこに書いたことは今もその通りに考えている。ただ、もっと知られるべきこと、知りたいこと、考えたらよいことがあると思ってもいた。それはこの主題についてこの国で何が行なわれ、ALSの人たちが何を言ってきたかということでもあるのだが、さらに、もっと様々な事々を知りたいと思った。
  様々な病気に伴う苦痛が薬物の使用等によりある程度は抑えられるようになってきている。だから末期の激痛に耐えかねてという古典的な安楽死の存在意義は薄れる。しかし、ALSの場合、感覚も意識もそのままに残るのだが、また眼球の動きはかなり長く損なわれないのだが、それ以外は動かなくなる。私は安楽死について、御自由にどうぞ、とは思わない。しかし、ALSである状態とはやはりたいへんなことのように思える。となると仕方がないのだろうか。ひどくつらいようにも思う。しかし死ぬほどのことではないようにも思える。どうなのだろう。
  また「自然」や「機械」について、例えば機械との関係について。医療が「人間的」であるべきことを語る人たちは、人間的でないあり方を「スパゲッティ症候群」といった言葉で言ってきたのだが、ALSの人たちは、スパゲッティのようにたくさんの、ではないし、検査のためにでもないが、それでも人口呼吸器の管に「つながれ」、機械に「つながれて」生きている。しかし、ならば眼鏡をかける人、自動車で移動する人はどうなのだとも思う。もう少し具体的に知り、考えてみたいと思う。
  私は、この病気は悲惨であると言うのも、悲惨でないと言うのも違うような気がした。そしてその中間だと言っても仕方がないように思った。ALSについて何を言えば何か言ったことになるのか、よくわからないまま書き始め、ひとまず書けることを書いた。この本ができるに至った経緯はあとがきに記す。すこし調べたが、調べるべきことを調べたとはとても言えない。きちんとした本を書こうとすれば、もっと長い間の準備が必要だろう。さらにALSと共通するところもあり異なるところもある他の病・障害がある★03。しかしまずこの程度のものが一冊あってもよいと考えた。そのうちもっと本格的な研究がなされ、本が出るだろう。そのためになればと思う。
【★03呼吸器の一九八一年七月に生まれ、その年の十二年に呼吸器を付けて暮らしてきたウェルドニッヒ・ホフマン病(進行性脊髄性筋萎縮症)の立石郁雄が書いた本に立石[1994]、同じ病気で八一年に生まれ生後四か月で呼吸器を付けた児玉康利の母親が書いた本に児玉[1996]。同じくウェルドニッヒ・ホフマン病でシンガーソングライターをしている一九六六年生まれの上田賢次の著書に上田[2000]。筋ジストロフィーの人や人に関わる本はさらに多い。一九五二年生まれの山田富也に数多くの著作がある(山田[1999]、山田・白江[2002]等)他、一九五七年に生まれ一九八七年に二九歳で亡くなった福嶋あき江の本(福嶋[1987])、轟木敏秀のホームページ(轟木[-1998])、鹿野靖明[417][449]について荒川[2003]、渡辺[2003])、等。私のホームページにあといくつかの文献リストがある。】

  ■3 書かれたものを読む

  以下、ALSの人自身によって書かれたものを読んでいく。自費出版も含めてかなりの数の本が出されている。また近年では多くのホームページがある。ALSの場合、考えて書く時間が、ある人にはたくさんある。コンピュータを介し、身体の微弱な動きをゆっくりと文字にしていく仕掛けについては後に紹介しよう。引用には通し番号を付け、同じ人の文章がどこにあったかわかるようにする。文献の表記法についてはこのあとに付した「凡例」に記した。引用の仕方、文献やホームページの記載の仕方は社会学の業界で使われているものの一つで――ただあまり杓子定規にそれに従うとかえって不便なので少し融通をきかせている――最初はよくわからないかもしれないが、慣れればなかなか合理的なやり方であることがわかると思う。
  もちろんそうして情報を発信できる人はまったく限られてはいる。私たちが読めるものは、書ける人が書き、ホームページを作れる人が作り、そして本を出版できた人が出版できたものである。ホームページを作るのは本を一冊出すよりは簡単ではあるが、それでも誰もができることではない。コンピュータの知識があるとかないとかいうことではなく、機械をつなげない病室にいる人にとってはそれは完全に不可能なことだ。ものを書き、自らの考えを雑誌やホームページに表明した人たちは、それができる人だということであり、そうした人は少数派ではある。
  だからそこに現われない現実はある。現実はそんなものではない、もっと大変だと言われる。たしかにその通りにちがいない。書ける人は書ける環境にいる。その意味では恵まれた人であり、その人たちにしてもつらい部分は書いていないかもしれない。家族や医療者に頼っているなら、その人たちの支援で文章が書けるなら、そう悪口は書けない。しかし、そのことを忘れないようにしながら、まず書かれたことを読み、言われていることを配置してみる意味はあると思う。安直な方法ではあるが、にもかかわらずあまり行なわれていないから、一度はやっておいてよいと思う。書かれて目の前にあるのに、それを読まず、とにかく調査し、調査する前からわかっているようなことを書いて論文にしてどうするのだと、私は思ってきた。
  多くの人の場合、直接の会話はとても時間がかかる。そしてその人が言いたいことはときに込み入っており、そう短くはならないし、短くしてしまったら、意が伝わらないこともある。書かれたものは、多くの場合とても長い時間をかけて書かれている。私は、その場その場で即興で語られることの方に大切なことが語られているとは考えない。書かれたものがあるなら、まずそれを読むべきだと思う。
  書店、古書店で買える本は入手した。その際、闘病記専門のインターネット古書店「パラメディカ」(http://homepage3.nifty.com/paramedica/★04)にお世話になった。
【★04店主・星野史雄が書き、インタビューにこたえた記事に星野[2004]。これが掲載された雑誌に闘病記の意義について門林道子の文章(門林[2004])もある。】
  自費出版のものなど入手していない本がまだたくさんある。けれど、すべて集めてから書いたらもっと時間もかかり、そして分量もさらに増えてしまうと思い、文献表にあげたような文献、ホームページしか読んでいない。医学、看護、リハビリテーションの領域の論文、厚生労働省が資金を提供して行なわれてきた研究の報告書等もまったく読んでいない、あるいは使えていない。読んだのは一九九五年の創刊号から約十年分の『難病と在宅ケア』(日本プランニングセンター、月刊)と、機関誌では、日本ALS協会刊行の『JALSA』の二一号(一九九一年)以降だけである★05。
【★05各地の組織の刊行物はほとんど入手できていない。これらの検討は今後の研究者による作業に委ねられる。『難病と在宅ケア』『JALSA』の不完全な書誌情報はホームページに掲載してある。】

  ■4 名前を記す

  公刊されたもの、ホームページに掲載されているものは、その人が公開したいと思ったもの、公開してもかまわないと考えたものである。それ以外にもその人にとって本当のことはあるだろうが、まず公開されているものを集めてよいと思った。公刊された書籍、公開性のある機関誌等の媒体、ホームページに記された文章については、その出典を記した上で引用し、記されている固有名もそのまま示す★06。(なお、本書に記される人の肩書などは基本的に当時のものである。「〇〇大学医学部附属病院」も「〇〇大学病院」等となっていることが多いが、差し支えないと考えそのままにした。「国立療養所〇〇病院」は「独立行政法人国立病院機構〇〇病院」に変わったがこれも旧称のままにしてある。)
【★06豊浦[1996]からの引用をホームページに載せたことについて、その本で言及され紹介されている人から取り下げを求められ、取り下げたことがある。豊浦の本は幾人ものALSの人(実名の場合も仮名の場合もある)を描いた優れた貴重なもので、紹介し宣伝する意義はあると考えてはいたが、掲載されていたのは自分のためのノートに近いもので引用について文脈の説明もしていないものであり、紹介の役には立っていないと思い、まずはファイルを削除することにした。今回、全国組織の機関誌『JALSA』からの限定的な引用にとどめ、他の機関誌から引用していないのも、雑誌が公刊されおり、文章を公表しているという意識で書かれていない場合、また取材に応じている場合もあるかもしれないとも考えたことによる。ただそれは今回はそれだけでも書くことができたからということでもあり、その方針を常にとるべきだと考えているわけではない。少なくとも公刊されたものであれば、積極的に引用、紹介する必要、意義のある場合があるだろう。】
  それには、公表された文章からの引用には問題がないというだけでなく、より積極的な意味もある。
  一つに、知ることから遮断されたり、様々なことがばらばらに押し寄せたり、浮動し見晴らせない、そのような様相も含む現実の連関の中に一人の人が置かれ、またその人自らもけっして態度や思いを一貫させているわけではないそのようなあり方が、書かれ考えられるべき対象だと思う。その浮動や振幅が見えるのは一つには人に即する時だ。それを見ていこうと思う。ただ一冊の本で行なえることには限りがある。この本で一人の人に即して読んでいくのは、第7章、第8章に限られる。ただ人に即するという限りでは仮名でもかまわないかもしれない。しかしまずその人たちは自らの名を明らかにして書いている。また私は、賞賛や感動が表現されることのないこの本で、それでも敬意を表するのに、その名を記すべきだとも思う。そしてその多くの人は、これからも生きていって、何かを書いたり言ったりするだろう。そしていつかは亡くなる。その時にあの人だと思えたら、その方がよいと思う。
  そして一つに、事態をよくしようとすれば、具体的なところをわかる必要がある。たとえば個々の病院がどんな病院であるかがわかることは、一人ひとりが病院を選択する際の条件でもある。今度のこの本は、このような意味で実際に役に立つ本であることを目指したものではないけれど、そうしたものを発表する意味があると私は思い、そうした書き物、とくに研究報告の類いがとても少ないのはよくないことだと思っている。もちろん、その理由の一つは、人は知らせたくないことを知らせたくないからであり、それを調べたり公表するのが難しいからである。だが、自分がかかった医療機関や医療者がどうだったかを言うことはできる。また公刊・公開されている文章に書かれている。それが間違い、誤解であることもあるだろうが、ならばそれに抗議することができる。むろんその人が置かれている社会的位置によっては、それが容易でない場合はあるが、医療機関や医療者は非力ではない。誤解をただしたければただすことはできるし、抗議したければ抗議することもできる。私もそれをホームページに掲載するなどして、公開する用意はある。

  ■5 必然的な限界について

  次に、ここに載せることのできる情報は一部であり、もちろん引用や紹介の仕方が恣意的だという批判はありうる。私はたしかに一部を切り取って引用している。切り取ることは、たしかに暴力的な、少なくとも危険なことである。次の文にはまったく違うことが書いてあり、それを含めて読むなら反対のことを言っているといった場合もある。
  まず簡単にできることで、当然すべきこととして、出典を示した。それによってもとの文章の全体を見ることができる。ただ既に絶版になった本も多数あり、入手のやさしくない文献の方が多い。そこでホームページに、より広い範囲の引用、別の箇所の引用・紹介を置いて読んでもらえるようにした。それは、これでも十分長くなってしまったのだが、いくらかでも本の厚さを薄くするための工夫でもある。また、一部を切り取ることで全体の文意と異なった理解がなされないように、必要な場合には長めに引用するようにした。
  紙数の関係で省略せざるをえない前後の記述の引用、個々の人についてのファイル、文献表からホームページへのリンク等、ホームページhttp://www.arsvi.comの最初の頁から辿れるALSのファイルとそれに連なるファイル群がある。人、組織、文献等について、この文章に盛ることのできないより多くの情報、情報へのリンクがある。また末尾の文献表とほぼ同じでより詳しい情報が付加されたファイルがホームページ内にあり、そこから人、組織、文献(について)のファイル、ページにリンクされている。
  そして以下に記されるのは多数派についての記述ではない。それ以前に、私は量的な調査をしておらず、数の報告はできない。その意味を否定しているのではまったくない。むろんそれは必要な時には必要である。たんにこの度は、そして私は、できないというだけだ。情報の不足を補うべく、足りない数的な事実、全般的な状況について過去の調査結果を紹介できればよかったのだが、調べが足りず、わずかに何箇所かで言及するにすぎない。私でなく誰かがやればよいのだが、この主題に限らず、そうした基本的な作業がなされないまま、労力も費やしただろう多くのアンケート調査の結果がただ散在しているという状況がある。これは好ましいことではない。過去になされた調査研究をまとめ、検討することもまた別の課題となる。
  ただ、一つ自明なことを付け足しておけば、多数決をとればあるいは平均値をとればそれでよいというものではないだろう。なにかが多数であるからそれでどうなのか。多かろうが少なかろうが、ある人、ある人たちがいることがそれとして知られてよいことはある。また、数として少ないにしてもそれが一般的な意味、普遍的な意味をもたないということにはならないだろう。私たちの過去の仕事(安積他[1990][1995])も、そんなつもりで行なってきた。

  ■6 書き方と読み方

  この本全体の概要を記すことはここではしないが、第11章5節にそれまでに書いたことを簡単に振り返った部分がある。また目次を見ればどのような流れになっているか、大きくはつかめるだろう。
  この本は、ALSの人たちが書いてきたことを列挙しながら、ところどころ、またある場所はずっと、この本の筆者の考えたことが記されるといったすこし不思議に思えるかもしれない構成になっている。
  本のもとになった『現代思想』の連載(立岩[2002-2003])は文章の大部分が引用だった。それをきちんと読みさえすれば、私たちが言うべきことの大方はそこから読み取れるとも思う。少なくともこの本のある部分は、引用を連ねていくだけでよいはずだとも思った。ただ、私たちは意外に書かれた文章を読まない。あるいは、とてもざっとしか読まない。当然伝わるはずのことが伝わっていないことがよくある。だから、すこしくどく確認すべきことを確認していった方がよいだろうとも思った。
  そしていくらかは、私自身としても考え、整理した方がよいこともあると思った。病気のことを知らせる「告知」について、吸器を付けない/付ける、死ぬ/死なないという決定について、何も動かなくなるという状態について、書かれたことを読んで、考えられたことを書く。医療について「正しいこと」はたいていもう既に言われていて、誰も反対はしないという状況がある――そのようにいつのまにか「時勢」が変わったことになっている。けれどもまず、医療倫理や生命倫理の議論において、具体的には死の決定について、私は話が終わっていない部分があると思い、違うことを言いたいところがある。だからこの本を書いた。
  第3章では「告知」に関わる引用が連ねられるが、人によっては長すぎると思われるかもしれない。また近年、次第に本人に知らせる方向に――その含意が詰められないまま――変化してきてはおり、過去になりつつある部分もあるかもしれない。次の章に行っていただいてよい。また場所によってはよくわからないところがあるかもしれない。ここも飛ばしていただいてかまわない。例えば第2章7節は「学問」をしている人を多少意識して書かれている。その業界でこれまで言われてきたこと――そんなことを知らなくて当然だ――を前提とした上で、それについて述べている。この部分はそれを知っていて少し妙なところがあると思ってきた人向けに書いたところがあり、そんな関心をもたない人にとってはひとまずは不要なはずである。あるいは、例えば次段落からの文章のような、意味不明と受け止められるかもしれない箇所も時々ある。そこも気にいらなかったら、あるいは気にならなかったら、放置してもらえればと思う。繰り返すが、引用だけ読んでいけば、知るべきこと、考えるべきことは皆そこに書いてある。
  何が起こっているか。それを私たちは知っているような気がしている。何についてであれなんとなくはもうわかっているという感覚がある。既視感がある。それにどう対するかである。
  まず、たしかに私たちは知っている。しかし知っていると言うことで、その都度忘れている。例えば「正しいこと」が既に言われながら、現実にはそれと別の事態が存在している。これをどう見るかである。多分、それは何かがまだ不十分であるという事態ではない。この状態はずっと続くような仕掛けになっているのかもしれないのだ。ではすっきり原則を通せばよいか。すると今度はその原則はそれでよいか、おかしなところがないか、このことを今までよく考えたことがないことに気がつく。
  既視感から逃れる特権的な方法はない。ただまず少し詳しく、少しゆっくり見ていくことだ。するとはっきりと確認されることもある。そしてやはり知らなかったと思えることもある。
  ALSの人に起こるのはたしかに特殊なそして極限的な事態なのだが、しかしとても普通のことが起こっているとも言える。あるいは普通のこととして起こっている。それぞれにそれなりのわけがあり、その限りでは合理的でもある。あるいはそれぞれ心情としてわかることが起こる。しかし、そうしてそれぞれは普通に進行してしまうことがそのまま不思議なことでもあり、極限的なことでもある。さらにその現実はいつのまにか変わってもいく。変わったという痕跡を残さずに変わることがある。また、変わっているところはあるのに、他ではいっこうに変わらないこともある。否定されているのではないが、遅らされている。そしてただ遅らされていることの積極的な機能がありもする。こうした事々を跡付けられるなら跡付け、記述することが必要だと考える。


UP:20041028 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b20.htm
『ALS:不動の身体と息する機械』  ◇立岩真也 

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