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死/生の本・2
医療と社会ブックガイド・43)

立岩 真也 2004/11/25 『看護教育』45-10(2004-11)
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  前回の終わりに斉藤義彦の『アメリカ おきざりにされる高齢者福祉――貧困・虐待・安楽死』(ミネルヴァ書房)をとりあげた。私は、いま書く意味があるのは、まずこの本のようなものだと思う。
  米国での安楽死論議が紹介されることはあるし、高齢者の虐待防止のための活動が紹介されることもあるが、それがなされている、あるいはなされざるをえない文脈がある。一番簡単に言えば、金のない高齢者、あるいは医療や介護のために金を使い果たしてしまった高齢者が生きることは辛く困難なことだということである。それを見ないで安楽死について議論しても、また、たしかに意味はあるだろう権利擁護のための活動を取り入れようと言っても、仕方のないところがある。もっと時間をかけた取材、調査をすれば、また別の本ができただろうとは思う。しかし、米国の高齢者福祉や医療について書かれたものは他にもあるが、こうした本はこれまであまりなかった。実際を知るために、読んでおいたらよい本だと思う。

◇◇◇

  さて。前回、斉藤の本の前に紹介したのは、死が隠され遠ざけられるようになったことを言う本だった。そして、では、ここ数十年おびただしく現われてきた死についての言説――それには現代社会では死が隠されていると言うものも含まれる――のことはどう考えたらよいのだろうと述べた。また、隠してきたものを表に出そうと言われても、それがどういうことなのか、どうしたらよいのかわからないと述べた。そして私は、死生学とか死の臨床といった言葉を冠せられる本をいくつか読んでも、やはりわからない。
  弱っている人にはやさしくしたらよいとか、傍に付き添っていたらよいとか、話をよく聞いたらよいとか、それはよいことだとは思う。しかしそれは、既に誰もが知っていることで、それ以外のことは書いていない、と思えてしまう。そう決めつけてもいけないのだろう。私がただひねくれ者なのかもしれない。ただ今のところはそう思えてしまう。
  では何を書いたら、生や病や死について何か書いたことになるのか。私にはよい案がまるでなく、書きようがない。だからその部分はさておくことにしてきた。しかし、ひょっとしたら書きようがあるのかもしれないと、最近、小泉義之の本を読んで思った。
  小泉は1954年生まれの哲学者。私がいま勤めている大学院の教員だから、職場の同僚でもある。
  単著が6冊、そして対談の本が1冊ある。発行年順に並べると、『兵士デカルト――戦いから祈りへ』(1995、勁草書房)、『デカルト=哲学のすすめ』(1996、講談社現代新書)、『弔いの哲学』(1997、河出書房新社)、『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未来のために』(2000、講談社現代新書)、『レヴィナス――何のために生きるのか』(2003、日本放送出版協会)、『生殖の哲学』(2003、河出書房新社)。そして対談に各々の文章を加えた本として永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』(1998、河出書房新社)。最近のものはいくつか読んでいた。他はぱらぱらと頁をめくったくらい。最初の2冊は手にとったことがなかった。
  『現代思想』(青土社)の昨年の11月号の特集は「争点としての生命」だった。この号については第34回で紹介した。1年後、10月末には発売になる今年の11月号は「生存の争い」という特集になった。私は「死の尊厳」といったお話についての原稿も書いているのだが、それ以外に、小泉と対談することになった。そんなこともあって、読んでいないものに目を通すことになった。読んだら、とくに、デカルトについて書かれている最初の2冊がおもしろかった。
  その前に、他の本は別の機会に紹介するが、『弔いの哲学』からは一箇所引用しておこう。死を遠ざけている社会であるということになっているにもかかわらず、あるいはそれゆえに、私たちの社会では――第41回に紹介した小松美彦の本の題名でもあるが――「共鳴する死」といったもの言いの方が受けがよい。しかし、それはどこか違うのではないか。それだけでは言えることが言えていないのではないかと私は思ってきた。この本には次のような箇所がある。
  「誰かの死と誰かの生の断絶を思い知ることは、おそらくとても大切なことである。遠くの隣人であれ近くの隣人であれ、誰かが死ぬことは、私の生とはまったく関係がないということを思い知ることが、ほんとうの弔いである。このことを具体的に誰かの死を念頭におきながら述べると、きっと非難や反発を招くだろうし、私自身にも違和感が生ずるだろう。それはどう応ずべきかは、今はわからない。ともかく、誰かの死と誰かの生は断絶しているという真理を、絶対に手放さないで思考をすすめていきたい。」(p.10)

◇◇◇

  そしてデカルト。社会科かなにかでいちおう名前は教わり、「我思う、ゆえに我あり」と言ったと聞いて、「そんなばかな」と思ったり、「なんだか高慢なやつだ」と思ったりして、それで終わり、という人が多いはずだが、小泉の最初の著書『兵士デカルト』を読むと、どうやらデカルトはすごい。
  パスカル(とカント、さらにヘーゲル)が時々、かたき役というか、だめなやつとして出てくるのだが、なるほど、死を哲学的に、あるいは臨床的に語るというものの多くがどうにもおもしろくないのは、それらがパスカル的というか、パスカルをさらに通俗的にしたものであるということにあるのか、と思える。しかしそれでは、デカルトはどうなのか、よく伝わらなくても当然だ。引用する。
  「デカルトの懐疑が徹底的でありえたのは、私が欺かれても現に生きていること、これだけを真で確実なこととして肯定して、他の一切のことを欺く神に由来する欺瞞として退けたからである。だからデカルトにとっては、生きるか死ぬかという問題以外は、すべて取るに足らない問題である。そしてとくに、病気や死をめぐる言説も価値を失う。例えば、ホッブズの自然状態、ヘーゲルの主人奴隷論、生命倫理、民俗誌的社会史は無意味になる。病気や死について何を語ろうとも、人間はいずれ病んで死ぬからである。[…]<真で確実なことは、人間が生きて死ぬことだけである>と本当に知る人、そしてその知に相応しく生きる人は少ない。ここにコギトの核心があり、<老人>の智恵がある。」(pp.4-5)
  こうして引用しても、まったく単純なことが言われているようでもあり、やはりわからないようにも思える。そこでこの本を読むのがよいのだが、難しい本であるのはたしかだ。そこでまずは、2冊目に新書で出された『デカルト=哲学のすすめ』がよい。それで論証の部分が気になったら、その部分は――私自身はまだまったく読みこなせていないのだが――『兵士デカルト』に戻るという読み方もあるだろう。
  より断定的で、明瞭で、同時に「なぜそう言えるの」と疑問が現われてくる『デカルト=哲学のすすめ』から引用を幾つか。
  「今はデカルトとともに、「病気であるときに健康でありたいと欲望することはない」賢者が現存することだけを確認しておこう。私たちは少なくとも、賢者に学んで、病気と健康についての真実の探究を始め直すことではきる。私たちは少なくとも<聴く耳>をもつことはできるのである。」(p.50)
  「実際、私が少なくとも一箇所、体を動かせるのでなければ、私は他人の力を借りてリハビリを遂行することさえできないし、私が本質的に老いるのでなければ、私は生きているとは言えないし、生きているのでなければ、他人との関係を取り結ぶことさえできない。これがデカルトの独我論であり、このことを「コギト・エルゴ・スム」は言い表しているのである。」(p.79)
  「デカルトが<私は存在する>という言明によって言い当てようとした真実とは、死にゆく者が徹底的に独りで生きているということであるし、死にゆく者が共同性や社会性から完全に離脱しているということである。<私は存在する>という言明は、死にゆく者が生きていることを示すために発する最後のサインとして聞き取られなければならないのである。」(p.97)
  「デカルトによれば、身体に損害があっても痛くないときがあるし、痛いときでも苦しくも悲しくもないときがある。さらには「痛みを喜びをもって堪えることがある」。では、なぜこのようになっているのか。なぜこのような賢者が可能になっているのか。」(p.183)
  最後の問いに対する答えがこの本に記されていると読むか、それとも読まないか。そんなことも確かめるために、まずは読んでみるしかない。

小泉 義之 1996 『デカルト=哲学のすすめ』,講談社現代新書1325、213p. ISBN:4-06-149325-6 \735 [boople][amazon] ※


UP:20041004 REV:1006
「死/生の本・3」  ◇小泉 義之  ◇医療と社会ブックガイド 
医学書院の本より  ◇書評・本の紹介 by 立岩

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