>HOME

再分配と承認のジレンマ?
アイリス・ヤングの勉強会のためのメモ・2
立岩 真也
初回2003/11/22の勉強会のために UP:2003/11/18 以後頻繁に更新

アイリス・ヤング
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/young.htm
アイリス・ヤングMLへのeMAILs
アイリス・ヤングの勉強会のためのメモ・1


20031120:ファイル分離12752bytes→30528bytes 20031121:45625bytes
20031123:大幅改稿中(順序入替等)47905bytes
20031124:改稿中 1125:改稿中・50653bytes

 *いま以下で検討することになる論文を第1章に置いたFraser[1997=2003](『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的考察』)が届いた。これから読みます。訳もこちらの方がよさそうだが、時間がなく、以下は『アソシエ』に掲載された方を用いる。またこの本の第8章は「文化、政治経済、差異――アイリス・マリオン・ヤング『正義と差異のポリティクス』について」で、これも当然読まなくてはならないのだが、これもこれから。(2003/11/21)

■■読む前に

 感触としては:かつて社会問題といえば(再)分配を巡る問題のことであったが、ある時期、この問題についてはある程度のところまで行った(かのような)状況があり、あるいはそれはそれとして残るとしても、こうした「経済的」問題で解消されないような、文化的?少数派の問題が表に出ることになった(ように見える)。そして、一方が他方を批判・否定するような流れも生じた。つまり、「経済」を問題にする(旧来の)左派は、基本的な問題を看過して文化だのなんだの言っていると批判するし、他方の「マイノリティ」の運動は、旧来の左派が自分たちの主張の意義を理解しようとせず、無視するか、旧来の図式のもとに引き込んでいると感じる。
 こうした状況、状況の変化をどう読むか、あるいはどのような道を示していくかが問題になった。例えばフレーザー(にまったく限らないと思うが)は、両方ともが問題であると思ったのだろうし、であるのに双方の間でもめているようではいけないと、だからその間を整理し、ではどうしたものかを考えて言ってみようとした。か?
 ただ、この対立は、たんによって立つ場の違い、また双方に対する誤解?によるものというより、もっと内在的なものであると考えられたのかもしれない。そこで「ジレンマ」ということになる。とするならば、その機制を解明し、そこから抜ける道を見つけて言おうということになる。
 なんとなくはわかる話だが、問題はその「ジレンマ」というものがどんなものであるかである。
 一つに言われていることは、再分配を求める(受ける)ことの条件として同化を受け入れなければならないということになるということ。?
 また一つに…

 そしてここでフレーザーは問題が二元的であること、一方が他方に還元されないことを主張し、その主張を維持しているようだ。(水上英徳[2003/11/14]が紹介するFraser & Honneth[2003])。
 ここで問題が二元的であるということと、双方の間にジレンマが存在するということとは別のことであるには注意しておこう。

 とここまで書いてようやく、フレーザーの1995年の論文を読むことになった。おおむね上記したようなことがまず書かれている。さてジレンマとは何か。

 「承認に対する要求がしばしばどのような形態を取るかというと、まず、ある集団のものとされている特異性に注意を喚起する。たとえそうすることによってその特異性自体を創り出さないまでも。そしてその特異性の価値を肯定する。こうして、承認に対する要求は集団の分化を促す傾向にある。対照的に、再分配に対する要求は、しばしば集団の特異性を補強している経済上の取り決めの廃止を求める(一例としては労働におけるジェンダー区分の廃止を求めるフェミニストの主張があげられるだろう)。このように、再分配に対する要求は集団の脱分化を促す傾向にある。したがって二種類の主張は互いに緊張関係にある。両者は互いに干渉し合い、悪影響を与え合う可能性すらある。
 という訳で、ここにジレンマが生じる。今後このジレンマを、再分配と承認のジレンマと呼ぶことにしよう。」(p.108)

 「ジェンダーの二価的特徴はジレンマの源である。[…]二つの救済策はそれぞれ反対の方向に引き合っている。この二つを同時に追求するのはそうたやすいことではない。再分配の論理がジェンダーそのものを廃止しようとするのに対し、承認の論理は、ジェンダーの特異性の価値を設定しようとするからだ(22)。そこでフェミニスト版の再分配と承認のジレンマが生じる。どうしたらフェミニストは、ジェンダー区分を廃止するために闘うのと同時に、ジェンダーの特異性を評価するためにも闘うことができるだろうか。」(p.113)

 「ジェンダー同様に、「人種」の二価的特徴はジレンマの源である。有色人種が少なくとも二つの分析的に異なる不公平を(p.114)被っている限り、少なくとも二つの分析的に異なる救済策が必要な筈であるが、この二つを同時に追求するのはたやすいことではない。再分配の論理が「人種」そのものを廃止しようとするのに対し、承認の論理は集団の特異性の価値を設定しようとするからだ(26)。そこで反人種差別主義者版の再分配と承認のジレンマが生じる。どうしたら反人種差別主義者は、「人種」を廃止するために闘うのと同時に、「人種」としての集団の特異性を評価するためにも闘うことができるだろうか。」(114-115)

 「不公平に対する肯定的救済策とは、不公平を生じさせる基礎構造を乱すことな(p.115)く、社会的取り決めによる不公平な結果を修正することを意図した救済策のことである。対照的に、変容的救済策とは、不公平を生み出す基礎構造をまさしく再構築することによって、不公平な結果の修正を狙う救済策である。」(115-116)

■■考察



 読んでみて(2003/11/20)、なかなかもっともな部分もあるが、やはりおかしいように思った。多分この議論は成功していない。
 AとBとを――相互に複雑に絡まりあっていることはフレーザーも再三強調し、また私たちも認めつつ――独立のものとして捉えることができることについては同意するとしよう。ここではこの部分については置いておく。
 問題はやはり「ジレンマ」という把握である。
 (以下「メモ・1」に書いていることとかなり重複があるが、乞御容赦。)

◆A「再分配」(の要求)はB:ある属性、属性に関連する集団性の解体を求めることになるか?
 そんなことはない、というのがひとまずの答になるだろう。
 私(たち)は〇〇である(に属している)ことが肯定されたい、肯定されてよいということと、その私(たち)は得るものが少ないからもっと多くいる、欲しいという要求とは、基本的には、両立する。両立させるべきであるという主張は可能であり、また妥当だと言えるはずだ★01。
 例えば「再分配の論理がジェンダーそのものを廃止しようとする」とは言えないはずだと思う。(同様の例。この論文には中に入る単語だけ違ってあとはほとんどまったく同じ文が、多分意図されているのだろうが、頻出する。「分配の論理が「人種」そのものを廃止しようとするのに対し、承認の論理は集団の特異性の価値を設定しようとするからだ。」(p.115)

 では両立しない場合、「ジレンマ」が生じてしまう(ように思える)場合はどんな場合か?

A→B

 あるかたちのA:〜分配がB:例えばある文化の維持…承認を困難にすることはある。ごく一般的に言えば経済が文化に作用するという場合である。(この局面もフレーザーはあまり考えているように思えない。)

 ◆1A:財が少ないことが人のあり方(〜B)を害する場合。例えば一律の「基本財」の分配(だけ)ではある集団の文化や言語を衰退させてしまうことにつながるような場合。この場合には、そのような事態を帰結させないようかたちのAが求められる。ただしここには現実的な困難があるというだけでなく、通約可能性といった理論的な問題が残存している。この「通訳」「計算」の際により強い影響力をもつ集団の力が作用して…ということもありうる。

 ◆2(これは2003/11/22に北本氏に指摘されて思い出したのだが)(財が過小であることによってではなく)、分配が(なされないことによってはではなく)なされることによって、文化…の変容が起こるという場合がある。
 フレーザーの他の文章(=ヤングの『正義と…』を批判した文章)を読んでみると、そんな事態を指していると思われる部分がある。
 「経済的に根ざした抑圧に対する主要な治癒は、労働の分業のラディカルな再構造化である。これには、例えば、課題を定義する仕事と課題を実行する仕事の分割を除去し、社会的に価値があり、スキルを増す活動を全員に提供することが含まれる。」(Fraser[1997=2003:302])
 「経済的抑圧が再分配によって治癒されるとすれば、”無力さ”と”尊敬に値しなさ”という共通の経験に依拠する親近性集団が生き残るというのは、ありそうにないことだからである。例えば、課題を定義する仕事と課題を実行する仕事の分業が廃止された、と仮定してみよう。その場合、全ての仕事が両方の種類の仕事を含むことになり、専門家と非専門家の間の階級分裂は廃止されるだろう。専門家を非専門家から差異化する文化的親近性も恐らく衰退していくだろう。他の存在基盤は持たないように見えるからである。従って、無力さという政治経済的抑圧との闘いに成功を収めた再分配のポリティクスは、事実上、集団を集団として破壊して(p.304)しまうだろう――ちょうど、プロレタリアートの課題は、階級としての自己を廃棄することだ、というマルクスの主張のように。」(Fraser[1997=2003:304-305])

 なるほどこういう場面を問題にしたかったのかと思う。次にたしかにそんなことはある。ときに大きな問題になる。ただ二つのことが言える。
 1)変容する場合はあるかもしれない。しかし、その変容自体はその文化の存続に本質的なことではない(と受け止められる場合)があるだろう。
 「例えば、入ってくるのは仕方がないのだ、そこで変容しながら生き延びていくものは生き延びていくのだ、と言っているように読める文章としてHabermas[1994=1996:185-187]があったりはする」(立岩[2004:342])
 あるいはたしかに変容があったとして、その方が選ばれるのであればそれでよいのではないかという解があるだろう。ここでは、分配を受け入れるか否かはその受け手によって選ぶことができるものとされているとしよう。
 「分配が「物質的な価値」の優位を確認することであり、そこへの傾斜を助長するものだという指摘に対しても、同様のことを言いうる。たしかに分配派は物質的諸条件の確保を目的とし、それは特定の価値基準を前提にしているとは言える。しかし第一に、それは、より多くを持つことがそれ自体として正しく、多くを持つ人がよい人だと言うことと同じでない。ある人たちが今よりましな状態に行くことが多くの場合に望ましく、そのための現実的な条件があってよい。それだけを主張している。第二に、むしろ、ここまで述べてきたのは、生活・消費の水準を人を示す指標にしないという方向である。第三に、いったんなされる分配を個々の人が受け入れなければならないことを主張しない。分配を拒絶し飢える自由は否定されない。」(立岩[2004:99])

 フレーザーの話に含まれているのは、もしそこで(A:分配が関わる場面で、ここではまず市場で)劣位に置かれる集団が、同じだけを得ようするなら、その集団はその集団であることをやめることになる、「同化」を強いられることになる、という仮定があるように思える。とすると、以上のことを述べているように思える。しかし必ずしもそうでなく、以上と無関係ではない(というより組み合わされて使われる)もう一つのものを以下で見る。

B→A

B→A・1

 B(のある形態が、あるいはBを利用して・理由にして)Aが十分でなくなる場合はある。(このことをフレーザーは言っていないように思えるが。)
 あるかたちの文化(を理由とする人)のあり方(〜B)がA:分配を困難にする。
 一つに、労働の場で、B(例えば「人種」)ゆえに、あるいはBを利用して(口実にして)、ある人たちが働くことができない、あるいは待遇が悪い場合。
 また一つに、いわゆる「再」分配の場面。自文化中心主義者が他の文化集団に属する人への分配を拒むといった場合。

 ただ、その人たちの属性とその「私たち」性とが重ならないといった場合はありうる。例えば「国民」であることによってその「私たち」性が担保されていて、その中にある様々な属性、例えば女性であること等は否定されないといった場合がありうる。ただ、ことが「民族」に関わったりする場合にはそううまくはことが運ばないということはある。
 ここではその人(たち)の属性(B)とその人(の労働力)の市場での(正確には購入者にとっての)価値(〜A)とが無関係である場合を想定している。この場合、その場におけるある人たちの劣位は、(〜A)によっては説明されない。別の要因による。これを私たちはよく「差別」という。*
 *これは必ずしも「文化」的な要因と言う必要はなく、例えば他の集団に属する人たちが職を確保しようとする「経済」的動機によると考えてよい場合も多々ある。(ある集団に属することが予め明らかであり、その集団が優遇されることは、自らが優遇されることを当然に帰結するから、まったく「経済的」なものであると考えてよいことが多々あるはずだ。)この辺をごちゃごちゃにすると議論が混乱する。この場合のB→Aとは、ある人たちの経済的な状態が影響されるということなのだが、それはそのある人たちの市場での価値とは別のものが影響しているということだ。
 そしてここで見ておきたいことは――市場経済の信奉者がよく言うことだが――市場が――正確には安くてよいものを買いたいという購入者の存在が――この差別を解消させる方向に向かわせることがあるということである。

 この事態によって、さらに被差別者のあり様が変更を強いられることがある(B→A→B)。A再分配のために「同じ」であることが(分配する側から)求められるという場合である。つまり分配に関わる「動機付け」の問題である。「私たちの一員」であるから、「私たちと同じ」であるから、その人たちにも分配しようという気になるが、その人たちは私たちと同じでないから、分配しようとする気にならない、そこで分配を求めようとすればその人たちはその「私たち」と同じであることが求められてしまうというような場合、結果としてその人たちのその人たちとしての承認がなされないといった場合。

◇事態の理解・方向

 これは「ジレンマ」だろうか。この差別のもとで、差別されないために(等しく扱われるためには)「同化」しなければならないこと(承認されることをあきめるしかないこと)をジレンマと言うのであればそうも言えるかもしれない。しかしそれは、差別があるからであって、その解消は、それをなくすることであり、それが可能であれば、差別がなく、そして同等に扱われるということになる。
 だから、Bのあり方(他の集団への分配を否定するようなかたちでの自集団の肯定、差別する側の自己規定・他者規定のあり方)を問題にすべきである。この場合に、例えば黒人が同じだけの経済的地位・報酬を(ここでは労働市場で)得るために、黒人であることを捨てなければならないとしたら――ここではそもそもそんなことは不可能なのだが、例えば「改宗」というような場合であればいちおうは可能である――それはつまりはたんに「差別」に屈しているということでしかない。主張すべきことは、たんに差別するなということである。
 むろんそれが現実にはうまく実現されず、「同化」の圧力に屈すること、差別が継続することはある。「徒に」違いを強調したらよくないというのも現実的な処方としてはあるかもしれない。しかし、…

 そしてそれはリベラルもまた基本的には支持する路線のはずである。

 帰結するとは限らないことはさきにも述べた。敵対なものとは捉えられないことがある。
 第二に、こちらの方が重要だと私は考えるが、基本的には、分配は、「同じ」であることを根拠になされるべきものではないと主張することはできる。主張としてはこれで終わりである=ここが出発点になる。ただ、人間の心性における事実の問題として、同じであることによって分配は容易になるのであるから、その事実に妥協せざるをえないということは残るかもしれない。これに対しても、事実の問題として、そうなのかと反問することはできる。ここでは、そうでしかありえないだろうという言説、「距離」(の近さ)を重要な契機とみなす言説との対峙がなされるべきであることになる(このことについては拙著『自由の平等』で少し論じた*)。また、事実そのようなことがあるとしても、それは――どのようにという問題は残るのだが――変革されるべきであると、少なくともそれに居直るなと言うことはできる。(フレーザーの言いたいこともそうは変わらないのかもしれない。「肯定」でなく「変革」だと言われる場合に、その「解体」が言われているのなら、こちちはそのことを求めているのでなく、その集団性をそのままに分配を求めているのだからやはり違うと言うこともできよう。ただここではそれに対する「構え」が変わっている、人は〇〇であったり××であるのだが、それだけに拘って分配するだのしないだのということがあってはならないという主張をしているのだから、Bの位置づけ、Bに対する「構え」が変更されるべきであるというのが「変革」の主張であるとするなら、そう違わないのだと言うことはできるかもしれない。)

*「その人が近くにいればその人のためにという気にもなるだろうが、そうでなければそんなことは思わないではないか。それなのに普遍性を持ち出すのは空疎であるか欺瞞的ではないか。こうした疑念がある。それは先に述べた実感主義の一つでもあるのだろうが、単なる流行と片付けられない。これは、リベラリズムが人間一般のようなものを持ってくることの虚構性を突き、人間をその具体性において捉えるべきことを言う共同体主義の主張をどう考えたらよいかにも関わる。/これは分配を行う単位、範囲として、国家は適切なのかという問題にも関わる。この単位に居直り[…]」(第3章「「根拠」について」第3節「普遍/権利/強制」1「普遍性・距離」)

B→A・2

 次に分配のなされ方、また分配に対する位置づけに関わる問題がある。
 「特別扱い」されている集団として位置づけられ、「お荷物」な人たちであると、「劣った」人たちであるとされてしまう。この意味で分配を求めることによって承認が困難になる。
 フレーザーはこうした場面について語っているようだ。これは社会福祉の業界でも「選別主義」(その反対語は「普遍主義」、この論文の翻訳で「ユーバサリスト的」と訳される時に使われる語と同じ語)とか、それにまつわる「スティグマ」の問題として語られてきたことである。(こないだ当大学院主催の映画祭で上映されたワイズマンの『福祉』(Welfare 1975)という映画もこのような文脈で見ることができる。)
 こんなことも実際あることを認めよう。しかしまずここで起こっている事態がどんな事態であるのかを考えなければならない。これはやはり――「メモ・1」でも問題にしている――労働と所有との間の連関の問題である。

 ある人がある人であること(〜B)と市場における価値(〜A)とが結びついている場合がある。この場合には、
 1)一つに、この結びつきが解消可能であり、またその解消が望まれている場合(両者は同じことではない)、解消してしまえばなくなることになる。
 2)一つに、解消不可能である、そして/あるいは解消が望まれていない場合がある。

 1)の場合には解消されてしまえばそれで解決ということになる。ただ実際にはなかなか解決されない。そこで、一方の側は、それは解消のための社会の側の努力が足りないと言うことになる。他方、もう一方の側は、そうではない、それは本人(たち)のせいだと言う。(ある集団が得ている所得は他と比べて低いという事実をどのように理解するか。一つに、努力が足りない(怠け者である)と理解される。一つに、能力において劣っていると理解される。努力するという能力にそもそも欠けていると理解されることもあるから、二つはつながっていることもある。)この間の争いが繰り返されてきた。
 ここでもこの認識の妥当性自体が問われるだろう。むろんこのことを巡って幾多の議論が闘わされてきた。上のように言われる側は、たいてい、そんなことはない、と反論してきた。一つに、能力はあるのに、それと別の要因で労働市場から排除されている、劣位に置かれているのが問題であるとしてきた。一つに、その集団が社会的にしかじかの状況に置かれてきたために、能力を獲得することができないのでいるのだと言ってきた。多くの場合にその反論が当たっていることを私は認める。(ただこのように言うのはよいとしても、このようにしか言わないことの問題性がある。このことついては『自由の平等』

 この水準にジレンマがあるように――フレーザー自身はともかく――言われることがある。一方が分配を求め、他方がそれは贅沢な要求であると反発し、かえって反発を受ける前者の範疇が浮きたって、反目が深まるという具合に。

 2)だがまず、個人の水準で言えば、また「できない人」という括り方で括られる――そもそもこの特性によって括られるのだから当然のことなのだが――集団について言えば、できない人(たち)はおり、そしてできないことが得られないことに繋がっている社会においてはその人は得られず、それでも得て暮そうとすれば分配を求めることになる。
 そしてこの際、そのような人でない人は社会的分配から得ることは不要なのだから、ここでは「選別」は不可避であるとも言える。ただこのことはもう少し丁寧に言う必要がある。高額所得者も含め、選別することなく、すべての人に同じだけを給付するというやり方はありうるし、それは可能である。それは、例えば、今までは5万円の税金を払っていた人が、他のすべての人と同じだけの10万円の給付を受け取る代わりに、15万円の税金を払うようになるというようなことである。ここでは給付の際の査定でなく、納税の際の収入の把握だけが行われることになる。こうしたシステムの変更の意味合いはそれなりに大きいのかもしれない。ただ、みかけのお金の出入りはともかく、事態を冷静にみれば、やはり(市場においての受け取りとの比較において)払う側の人たちと受け取る側の人たちがいるという事実はやはり残り、そのことについての(支払う側の)「怨念」というものは存続しうるだろう――「ベーシック・インカム」といった主張をこうしたところから吟味してみる必要もあるだろう。(羨望やルサンチマンをどう考えるのかについては、やはり拙著『自由の平等』第2章)

 ならば、その人たちが(おとしめられることなく)分配を受けることの条件は、一つに、その怨念がただの怨念であって、正当化されうるものではないことを示すことになるだろう。(このことをもって「肯定」でなく「変革」であると言って言えなくはないだろうがが、ここでもフレーザーが想定するものとは若干の異なりがあるように思える。)
 そしてここでも基本はそうだと言えるとしても、実際にはこの怨念は解消しがたいものであって、そのことの是非はともかく、事実としてそれを前提せざるをえないとすれば、別のところでなにか考えるべきだということにはなる。そのことも私は否定せず、ならば(そして他の理由からも――cf.「メモ・1」)、(他の人たちの働いている分を少なくしても)今までより多くの人が働けるようにするべきであると言う。

 この場合には、それは(そこに生ずる事態に手がつけられない)市場では解消不可能であるから、別の手段が必要になる。それが再分配であったりする。そしてその再分配が認めらるべきであるとすれば、これも、基本的には、ここで終わりである。ここでもそれが実現困難である場合にはやはり格差は保存される。しかしやはりここでもそれはそれとして批判すべきことであり、これを「本来」存在するジレンマであると言うことはやはりできないはずだ。



 問題はこの問題があっさり片付けられてしまう(が実際には片付かない、その結果生じている事態は仕方のないことであるとされる、結局当人たちに押しつけられてしまう)ということである。2)の解決法に限界があることについては既に述べている。ここでは1)、すなわち――常に程度問題なのだが――可能である場合について。
 ここで言われる「解消」が「同化」に他ならないと言える場合があるだろうと思う。つまりある属性をもつ人(たち)が、その社会(市場)において他の人たちと同様の結果(収入…)を得ようとするなら、自らの属性を捨て・否定しなければならない、それ自体が困ったことだし、またそれを完全に遂行することができないので、結局得ようとするものも十分には得られず、そこで再分配に頼るしかないのだが、そのことが否定的に評価されてしまうという事態である。
 例えば言語的少数者について、このような事態が生じうる。機会の平等→能力の平等→結果の平等という戦略で行くことが不可能であり、また不適切であることについては、やはり今度の本の第5章「機会の平等のリベラリズムの限界」で述べた。
 ではこの事態に対する解はどのようなものになるのか。これだけでいけるという解はない。いくつかのことが同時になされなければならないだろう。例えば言語の場合なら、他言語もその人が習得しようするとしたらそのための費用、そうでない方法をとる場合には通訳などの手段、…。そして、職を得るに際しての…。(このことについて、上農[2003]は様々なことを考えさせる。)(性・と・労働という主題については立岩[2003])

 要するに(古典的な用語系に乗れば)「属性」(〜B)と「能力(市場での価値〜A)」との間に連関がある場合、そして能力と受け取りとの間に連関がある場合、受け取りを多くしようとすることによって属性を否定しなければならないような場合があるということ、その属性を保持しようとすれば(あるいはするしかないのであれば)、受け取りが少ないことに甘んじなければならないことがあるということ、再分配によるその補正を求めることはできるが、それが歓迎されないことであるなら、やはり問題は完全には解消されないこと…

 どう考えればよいのか。
 1)まず、このような状況について、不当な立場に置かれている側がその状態を改善するためにそのB:「アイデンティティ」の流動化を、という指摘は、基本的には不当である。(私自身は固定化をあまり支持しない側にいるが、それでも)指摘できない。固定化は、そのことによって不当な利益を得る側について問題にすべきことである。

 2)次に、私たちはA:分配自体を、再分配を否定的に捉えてしまうような分配についての価値自体を問題にすべきである。
 フレーザーの論じ方に対する若干の違和感は、望ましい分配の状態が達成される「ためには」、固定的なアイデンティティを…といった言い方に受け取れてしまう部分があるということによるようにも思える。フレーザーはアファーマティブ・アクション絡みのバックラッシュに心を痛めているようだ。

 「ジェンダーに関わる不利益を生み出している深部構造には手を触れないでおくので、肯定的再分配は、表面的な再配分を何度も繰り返さなければならない。その結果、ジェンダーの分化が強調されるばかりでなく、女性は、不完全に飽くことを知らず、いつも更に要求を重ねてばかりいるというイメージで捉えられるようになる。やがて女性は特権的な存在にさえ見え出す。特別扱いと分不相応な贈り物の受け手という訳である。こうして、分配の不公平を是正するためのアプローチは、反動的な承認の不公平を煽る結果を招きかねない。
 この問題は文化的フェミニズムという肯定的承認型の戦略が加わったときに更に悪化する。このアプローチは、一般に女性のものとされている文化的な特異性や違いにしつこく注意を喚起する。たとえそうすることでその特異性や違いを創り出すまでいかなくても。状況に拠っては、そのようなアプローチは男性中心主義の規範を偏心化する方向に貢献できるだろう。しかし、現在話を進めている設定では、アファーマティブ・アクションに対する憤りの炎に油を注ぐ効果の可能性の方が強い。この見方で読み解くと、女性の違いを肯定する文化政策は、人の平等な道徳価値という自由主義福祉国家の公約に対する公然たる侮辱のように見えてくる」(p.121)

 たしかに厄介な問題ではあるが、この問題に対する対応として彼女の言い方で言っていくのがよいのか。
 (アファーマティブ・アクションに対する反感をどのように理解するか。それはある範疇に関して行われるものであるから――そこでその範疇が浮き上がるということがたしかにあるとともに(しかし、だからといって何もしないというのでは「寝た子を起こすな」式の議論とどこが違うのかということになるだろう――)「確率」的な対応にならざるを得ないところがある。このことにかかわる反感はある程度もっともである。しかし、そもそもの差別自体が確率を(不当に)使ったものであることがここで想起されるべきではないか(「統計的差別」について『私的所有論』第8章注2)。

 私は、フレーザーのAについての案についても、Bについての案についても反対ではない。基本的にはよいと思う。しかし、上述のような事態に対する対応として言われると、疑問に思う。Aの変革――その具体像は、ここでは意図的に示されていないのだから、わからない――は「メモ・1」でヤングの議論に対して述べた意味において肯定される。(ただ、アファーマティブ(肯定的)・アクションの位置づけについては略。)
 ここではBについて。差別する側が、自らのアイデンティティ、他者像を固定させ(あるいはそれが理由だとして)、その結果が差別される側の不利益になるなら、それは困る。ただそれは、「変容的救済策=脱構築」ということ(に限られる)だろうか。

■■vs.ヤング

 で、ヤングはどういうことになるのか。『正義と…』で言われていることをすなおに解するのであれば、主題・問題自体の二元性は認めているように思われる。
 しかし基本的に「ジレンマ」はない、そう主張しているということになるのだろうか。(この主張についても、フレーザーとの間に実質的な差異はない、とさらに言うことも可能ではあるだろうが。)

 『不幸な結婚』に入っている論文も二元論批判なのだが、…。これとの関係は。(結局、誰の議論についても言えることなのだが、例えば経済と文化の二元論といった場合、それが何を指しているのかについての混乱があって、そのためにほとんど議論が成立していない、噛み合っていないということが多々ある。)

 まだYoung[1997]を読んでいないのでどうもよくわからないのだが、大川の文章に一部引用、紹介があり、また大川自身がヤングの見方に同調している。(他方、山森は基本的にはフレーザーの線に沿って論じている。あるいはフレーザーの議論を紹介している。)
 「フェミスニトや反人種主義の運動が自己敗北的なジレンマに陥ると彼女は示唆しているけれども、私にはこのジレンマは政治戦略の具体的な問題であるというより、彼女の抽象的な枠組による構築物であると思われる。……フレイザーによる再分配と承認の二項対立は、さらに、ニューレフトの理論活動からの後退をかたちづくる」(Young[1997:148],大川正彦による引用・訳,大川[1997-1998:18])
 「わたしは、フレイザーが指摘する政治的ジレンマとは、フレイザー自身による「抽象的な枠組みによる構築物」、さらに言えば、J・ロールズの主張をその代表とするような福祉国家擁護のリベラリズムと、それへの批判を企てるC・テイラー流の「承認の政治」との理論上の対立を、現実の複雑性のうちに無造作に投げ入れたことの結果ではないか、という疑念をヤングと共有している。こう言ってもいい。彼女のいうジレンマとは、「差異のジレンマ」[Minow 1990]というべきものである、と。「差異のジレンマ」とは、マイノリティが現状批判を企てるさいに追い込まれがちな「平等か、それとも差異か?」という二者択一(し(p.18)かもその「平等」は「同じ」であることを前提としたものであり、マイノリティによる平等の要求には、マイノリティ自身の側の「同じであること」の挙証責任が課されもする)をあらわしている。しかし、これはそもそも、そうしたマイノリティが生きている現実を構成している(とその都度受け入れられ再生産される)関係の凝縮物、磁場の効果にほかならないのではないか。」(大川[1997:18])

 「メモ・1」でも紹介したように、ヤングはミノウの「差異のジレンマ」という論を肯定的に引いている。

◆Fraser, Nancy 1992 →
「文化、政治経済、差異――アイリス・マリオン・ヤング『正義と差異のポリティクス』について」『中断された正義』第8章
 *「この章は、1992年12月29日ワシントンDCで開かれたアメリカ哲学会の東部大会の「著者が著者に出会う」セッションに提出したペーパーの改訂版である。」(p.310)

二焦点的シェーマにおける承認の問題の優位 289
抑圧を定義する 292
社会集団を定義する 295
抑圧の五つの顔 299
応用 304
差異化された差異のポリティクス及び承認の批判理論に向けて 307

 フレーザー的に言えば:
 1)本来二元的なものをヤングは一つにまとめて論じている、論じようとしている。しかし、読んでいけば書かれていることを二つに分けていくことができる。そしてヤングの一つにして論じていく試みは失敗している。それは二つの間の関係についての理解がまずいことによる。
 2)
 3)また「差異の政治」をまちがって全面的に肯定してしまっていることによる。そんなようなことが書いてあるということになろうか。

〇分配について

 「「配分のパラダイム」に対するヤングの批判を、全く額面通りに受け取るべきではない。私から見れば、それは曖昧で混乱したものである。一つの側面から見れば、それは、個人に割り当てられた収入や仕事や地位といった目に見える財や地位の配分の最終状態のパターンのみに――それが生産される際の隠された構造的プロセスを問うことなく――焦点を当てるアプローチに対するマルクス主義の批判を繰り返すものだ。この場合、批判のターゲットになるのは、「生産の視点」に対するものとしての、「配分の視点」である。しかしもう一つの側面として、ヤン(p.289)グは、潜在能力に対立する意味での商品の配分に焦点を当て、それによって人々をエージェント(行為体)ではなく受動的な消費者と見なすアプローチに対するアマルティヤ・センの反論を繰り返している。この場合、批判は配分それ自体ではなく、財の悪しき配分に向けられる。そして最後の第三の側面では、ヤングの批判は、センのそれのように、潜在能力のような知覚できないものを、配分の焦点かつ対象として扱うアプローチに向けられる。ここで批判のターゲットになるのは「物象化」である。」(pp.289-290)
 「ヤングの議論は、物象化についての彼女の懸念にもかかわらず、広い意味での配分のパラダイムの中にはっきりと位置付けられることになる。」(p.290)

 このまとめ方は理解できるものではある。ヤングによる「再分配パラダイム批判」――訳書では「分配」でなく「配分」という語が使われている――は幾つかの要素によって成り立っている。このことの指摘としてはわかる。
 ただ、その上で、的を外しているように思う。一つに、ヤングは「再分配」を否定していないし、その重要性を認めている。一つに、フレーザーの言う「再分配」とヤングの言うそれとが一致していないように思われる。

〇承認について

 「ヤングの議論が、現代の「新しい」社会運動に帰属意識を抱いていることを反映して、承認のパラダイムは、否定しようもなく支配的な位置を占めている。実際、彼女が明言している目標とは、フェミニズムやゲイ、レズビアンの解放運動、反人種主義といった運動の政治的実践に潜在している正義論を解明し、擁護することにである。彼女が呈示している運動が他の運動と異なるのは、それが支配的な文化を抑圧の中心と見なし、「同化という理想」を拒否し、差異の承認を要求している点である。従って、文化的承認の問題を理論化することは、ヤングの著書のプロジェクトにおいて中心的な意味を持つ。」(p.291)
 「ヤングはまた、「差異のポリティクス」を支持するという視点から、近年の社会運動を取り上げている。彼女はそれを、社会集団の差異が、単一の規範からの逸脱と見做されることがなくなり、文化的なバリエーションと見られるようになる「文化革命」と考えている。ヤングは、そのような差異を廃棄するというには程遠く、むしろそれらを保(p.291)護し肯定することを目指す。このような差異のポリティクスが、ヤングのヴィジョンの中心にあり、ゆえにその著書のタイトルになっているのである。それが、彼女自身が提案する、承認のポリティクスの独特で好ましいヴァージョンなのである。」(pp.291-292)

 「ヤングは、この著書の他の箇所では、様々な異なったシナリオを練り上げている。あるケースでは、社会集団を構成している親近性は、例えばエスニック集団の場合がそうであるように、単純に共有される文化形態の帰結として現れる、としている。しかし他のケースでは、ヤングは社会集団を構成する親近性は、労働の分業における位置の共有の帰結として現れると主張している。そして興味深いことに、その例としてジェンダーが挙げられている。更に他のケースでは、ヤングはとどのつまり、集団を構成している親近性とは、文化を共有したり、労働の分業における位置を共有したりしていなくても、外部からの敵対の経験の共有の帰結として生じることもあると示唆している。」(p.296)
 「私は以下のような語法を提案したい。集団の親近性が、文化形態の共有に基づくものである限り、それを「文化に基づく集団」と呼び、それに対して、集団の親近性が、労働の分業における位置の共有に基づくものである限り、それを「政治経済に基づく集団」と呼ぶことにしたい。」(p.297)

 「ヤングが採用している差異のポリティクスは、とりわけエスニック集団の状況に適した解放のヴィジョンである。問われている差異が、エスニック集団の差異である場合には、それらの差異を肯定し、それによって文化的な多様性を促進することが正義に資すると考えるのは一見して説得力がある。反対に、文化的な差異が、政治経済における差異化された望ましい位置とつながっている場合には、差異のポリティクスは、不適切であるかもしれない。例えば、正義が、労働の分業を再構築することによって、まさに集団の差異化を掘り崩すことを要求するかもしれない。その場合には、再配分によって、承認の必要性が回避される可能性がある。」(p.298)

 「私が取ろうとしている第四の立場は、異なった種類の差異があるというものである。ある差異はタイプIであり、除去されるべきである。他の差異はタイプIIであり、普遍化されるべきである。更に他の差異はタイプIIIであり、享受されるべきである。この立場は、私たちが、どの差異がどのカテゴリーに入るか決定できることを含意している。それはまた、私たちが、劣等か、優越か、等価かといった結論に通じうる規範、実践、解釈、判断の選択肢の間での相対的価値について規範的に判断できることを含意している。それは、あらゆる総花的で差異化されていない差異のポリティクスに対抗することである。」(p.309)


 

[以下、未整理]



 AとBとの「ジレンマ」はあるか。あるとしたらそれは何か。
・以上だけでないとするとそれはAの位置付けに関わる(このことをこのメモの前半で記してきた)。
 1)いわゆる(生産の場面はそのままにしての)所得の「再分配」というかたちをとるにせよ、とらないにせよ、分配されること(ごく単純に言えば、働いた以上を受け取ること)に対する否定的な価値付与があるとしよう。
 2)働けること/働けないことがある人・集団の属性(〜B)と(なんらかのかたちで)結びついているとしよう。
 その場合に、3)その人・集団は否定的に価値付与され、その人たちが分配を求めることも否定的に価値付与され、その人たちの要求はその集団に対する否定的な価値付与を増幅させることもあるだろう。これを分配を求めることが承認を困難にするという「ジレンマ」であると言って言えないことはない、かもしれない。
 それに対し、社会改良主義的リベラルは、「機会の平等」政策等――肯定的政策?――によって2)の仮定・現実を改善することによって対応しようとしてきた。しかしそれには限界がある、ように少なくとも見える。つまりその策はうまくいかず、やはりあいつらはもともとだめな奴らなのだ、そんなことに金を使っても無駄だ、といった言われ方をしてしまうことにもなった。
 ではどうするか。2)を放棄する必要はない。しかし基本的には1)が間違っているというところから(ゆえにA:分配もまた肯定されるのだというところから)出発することだ、と言うしかないのではないか。
 とするとつまり、「ジレンマ」(と見えるもの)は、分配に対する否定的価値付与を行わないという条件があってはじめて作動するものであって、それ以外のものではないということになるはずだ。

 さてこのように述べたことの「具体的なインプリケーション」と言えるものがあるだろうか。
 ここでは女性のことについて考えてみよう。その人(たち)が、「女」であること――どのようにかはいまはおく――が大切なことであると考えているとしよう:B。そのことを実現するためには、…[続く]

■解決策?

 その上でフレーザーが示す「戦略」について考えてみよう。

 分配と承認それぞれについて α「肯定(是正)」→β「変革」
A分配について:β:社会主義の戦略
 「表層的な所得の再配分に限定されず、集団=階級の差異化を引きおこす生産関係に焦点を合わせ、搾取的な分業体制それ自体を廃止することを正義とみなすものである。」(向山[2001:139])
B承認について:β:脱構築の戦略
 「アイデンティティを集団固有の属性として本質主義的に肯定するのではなく、むしろ、特定の権力関係における一方の項と位置づけることによって、そうした関係それ自体を改訂することを正義とみなすものである。」(向山[2001:139])

・文化的不公平
 「同性愛嫌悪や異性愛至上主義に対する肯定的救済策は現在、ゲイ・アイデンティティ政策に結びついているが、これはゲイとレズビアンのアイデンティティを再評価しようとするものである(29)。対照的に、変容的救済策には、「クィア理論」のアプローチが含まれるが、これは同性−異性の二分法を解体し得るものである。[…]変容の目標とするところは、ゲイのアイデンティティを強化することではなく、同性−異性の二分法を解体し、全ての固定化された性的アイデンティティを動揺させることである。」(116)
 「肯定的承認型の救済策は、現存する集団の分化を促進し、変容的承認型の救済策は、長期的には分化を動揺させ将来の再編成のための余地を作ろうとする傾向にあると言える。この点についてはまた後で触れたい。」(117)

 肯定的再分配の救済策「この手の救済策は、必要とされる物質援助を供給するのも確かだが、強烈な敵対心に満ちた集団分化も創り出す。
 ここでの論理は肯定的な再分配一般に当てはまる。このアプローチは経済的不公平の是正を目指すものであるが、階級の不利益を生み出す深部構造には手を付けない。したがって、表面的な再分配を何度も繰り返さなければならない。結果として、最も不利益を被っている階級は、本質的に不完全で飽くことを知らず、いつも更に要求を重ねてばかりいるというイメージで捉えられるようになる。やがてそのような階級は特権的にさえ見え出す。特別扱いと分不相応な贈り物の受け手という訳である。こうして、分配の不公正を是正するためのアプロ(p.117)ーチは承認の不公平を創り出す結果を生じかねない。」(117-118)
 「肯定的再分配は、不利を被る者に汚名を着せ、剥奪という傷に誤った承認という侮辱を摺り込むことがあり得る。反対に、変容的再分配は連帯を促し、ある種の誤承認を正すのに役立つことが可能だ」(118)


・A:分配について。このことは「メモ・1」でも述べたことだが、基本的に単純な分配でもかまわないというのではないかという問いをいったんは立ててみてよく、それでおおむねかまわないと答えてかまわない。ただ、既に(別のところで)述べたが、分配はやはり(水準自体は相当に高いところに設定しえたとしても)やはり最低限であることを事実上免れないこと、そして働けるし働きたいが働けないという状態はやはり好ましくないという理由で、たんなる分配・再分配ではやはり不十分であるということになり、労働の場自体の編成の変更が求められることになる。ここから導かれるものとフレーザーが主張しているものとの異同とどうか。フレーザーはそれについて具体的に述べているわけではない。
 「変容的な救済策は、歴史的に社会主義と連なってきている。この救済策は、基礎となる社会経済構造を変容させることにより、不公平な分配を是正しようとする。生産関係を再構築することにより、最終結果として生じる消費シェアの分配を変更するのみならず、社会的な労働区分も変化させ、こうして全ての人の生活ぶりを変えてしまう。(34)」(p.117)
 「(34)[…]本論文の目的にとっては社会主義の観念に正確な真意を与える必要はない。むしろ、表面的な再配分に対照的に、政治経済構造の深部の再構築によって分配の不公平を是正する、という一般的な概念を引用するだけで十分である。」(132)  「変容的な救済策に典型的に連合して含まれるのは、ユニバーサリスト的社会福祉政策、急激に進歩的な税制、完全雇用の創生を目指したマクロ経済政策、労働市場に含まれない大規模な公共部門、割合的に大きい公共/共同所有、基本的な社会経済上の優先事項に関わる民主的な意思決定である。」(118 進歩的な→progressive=累進的な)
 「変容的救済策は社会的不公平を改善するに当たり、特別な贈り物の受益者としての汚名を着せられた弱者階級を創り出すことがない(38)。したがってこれらは、承認の関係において相互依存と連帯を促す傾向にある。こうして分配の不公平を是正するためのアプローチは、承認の不公平(の幾つか)を是正するのにも役立つ(39)。」(118)
 「(38)私は意図的に、社会主義は確固たる社会民主主義の違いを曖昧にしている。[…]Marshallは、たとえ完全なスケールの社会主義が存在しくても、「社会市民権」に基づくユニバーサリスト的な社会民主主義制度は、階級の文化を損なうと論じている。」(132)
 「より正確には、変容的再分配は、政治経済構造に起因する誤承認の形態を是正するのに役立つ。対照的に、文化構造に起因する誤承認を是正するには、独立した承認の救済策を加える必要がある。」(133)

・B:承認について。[続く]

■注

★01 ・Bはそれとして肯定されてよいとしよう。
・むろんそれにはある属性に(また他のありようをしている、またありようであることもできる)その人自身が束縛されてしまう、さらに他の人たちの排除…に向かってしまう契機があり、そのことはそのこととして考えるべきである。(ヤングもフレーザーも、フェミニストはずっとこのことを考えてきた。)
・そしてこの否定的な作用には、「物質的」要因というものが関係しているだろう。例えば裕福な集団に対する(それをその集団の属性とされるものと結びつけた)非難、どうにもならない鬱屈が関わっているだろう排外主義…等。ただこれは、分配と承認とのジレンマではない。むしろ分配の不足が関わっていることが多い。
・A:分配もまたそれとして肯定してよいとしよう。(私はこれまで、自分の仕事でおおむねこのことしか言ってきていない。)
★02 既に書いたこと

 私は(これまでも再三出てきた)今度でる本で次のように書いている。

 「再分配/承認という対置、その間に存在する困難、という事態の把握とその妥当性を巡る議論があるようだ。そこには人の様々なあり方の各々について、かなり多くの論点があり、それを切り分けて考えていく必要があるのだが、ここでもさほどの仕事がなされていないと感じる。例えば分配が承認、とくに人がある属性を有する人であることの承認、その属性を共有する人たちの「集団」の承認に対して抑圧的だという主張はどんな主張だろうか。」
 1)「まず、この社会にある問題のすべてがただ右から左に財を移転することで解決されるものではないことは述べたとおりだ。これまでその部分にだけ議論の焦点が当てられてきたなら、その批判は当たっているだろう。」
 2)「次に、仮に分配が人を一律に扱うことであるとして、かえってそのことが各々の人の特性を保存する方向に作用することもあるのではないか。」
 3)「次に、そうでない場合があるとしてそれはどんな事情で生ずるのか。分配との関連だけを言えば、その属性に関係してより多くの資源を必要とするのにその分配が妨げられている場合だろうか。しかしそれは基本的には必要な財の分配が妨げられているという問題ではないか。」
 4)「あるいは、特定の集団により多く貧困が存在するために社会的分配が多くなされ、そのことがある集団に対する負の価値づけに結びつくといった指摘があるかもしれない。しかし、事実そうした現象があるとしても、その基本的な問題は分配を得ることに負の価値が与えられることにあるのではないか。そう言えない場合があるとしたらそれはどんな場合なのか。」
 5)「また、ある範疇で括りその全体について他と異なる扱いをすべき場合もあると考えるが、それに対しては反論もある。これらの集団的属性と分配との関係について、例えばアファーマティブ・アクションについて具体的に見ていく中で考えてみたい。(この主題について日本語で読める理論的な文章は少なく、Dworkin[1977=1986:299-323]、Nagel[1979=1989:145-166]、石山[1987]、山森[2000a]、等。土屋[1996:72-96]にも記述がある。)
 これは「承認の政治」(Taylor[1994=1998]等)、「差異の政治」(Young[1990]等)と呼ばれたりもする事態に関わり、フェミニストによっても多く論じられている。集団としての規定・同一性の肯定性が主張されるとともに、それが他の範疇の人々の排除やそこで規定される属性に回収されるものでない個人の抑圧につながりうることが問題にもされる。そしてそれに分配の問題が重ねられるという具合になっていて事態はなお複雑なのだが、しかしそれでも私は議論がおおまかすぎると感じる。例えばテイラーが持ち出すケベック州でのフランス語の問題についてどこまでのことが言えるのか、言語は他のものとどこが共通しておりどこが異なるのかを考えるといった仕事を一つずつ積んでいくことが必要だと思う。文献だけいくつかあげる。バトラーとその関連まで含めると膨大だから省く。それでも一部にすぎず、より詳しい情報はHP。Young[1989=1996][1990][1997]、Fraser[1993][1995][1997a][1997b][1998=2001]、Olson ed.[2002]。これらの論、論争に言及する文献に千葉[1995:130ff.]、山森[1998][2000a]、大川[1997-1998][1999:1-7]、Rorty[1999=2002:291-296]、金田[2000:155ff.]、向山[2001:129-143]、挽地[2001][2002]、竹村[2002:288ff.]、等々。またKelly[1998=2002:259-265]、Benhabib[1999=2000]、竹村[2000a]、等々。二〇〇四年にヤングが私の勤務する大学院で集中講義を行うこともあって、いくつかを大学院生と読んだ。何本かの論文の翻訳に論点の解説と考察を付して出版するとよいかもしれない。多文化主義、マイノリティ文化の権利についてはKymlicka[1995=1998]、Kymlicka ed.[1995]、工藤[2000]、西川[2002]、等々。また井上[2003a:171-211]では多文化主義とリベラリズムとの関係が検討されている。(井上の言うリベラリズムとこの語の本書での用法とは同じでないが、本書では論者による語の理解の異同を確認していくことはできない。)」(序章・注15より――原文では改段落はない、また1)〜という番号もふられていない)

 1)は(通常の意味における)分配という問題設定だけで片がつく問題だけがこの世にあるのではないことを言っている。これはフレーザーが言っていることであるし、ヤングが「分配モデル」を批判するときに言うことの一部でもあるだろう。
 4)はさきに述べたことを短くしたものである。

 ここでは2)について。これは基本的に「ジレンマはない」、という主張である。(私自身は同様のことを2冊目の本でも書いたと思う。)そしてそれは普通の?リベラリストが言うことでもある。*
 問題はまず3)にある。つまり、例えばある文化を保持することについて他の文化を保持するよりも費用がかかり、同じだけ貨幣を分配したとしたら、前者が衰退してしまうことになるような場合である。その場合には、前者により多くを、ととりあえず言えるが、資源分配にかかわる条件から、その重みづけ、優先順位の設定の必要が出てきた場合にどう考えるかという問題である。これはなかなかやっかいな問題である(ことがある)ような気はするが、しかしむろん、分配を行う(要求する)ことから生じる問題ではない。(傾斜的な)分配を行わなければかえってこの問題は生じやい、拡大しやすいと言える。(ただこの問題はリベラリズムの限界につながる論点ではあって、考える必要のあることではある。)

* ローティや井上達夫が言っている(この2人が、またこの2人と私が同じであると言っているのではない)。まず(これはヤングについての言及だが、また直接には分配と承認という問題設定での議論ではないが)ローティ(先端研のHPのローティのファイルでも同じ箇所を引いている。

 「まず、「アイデンティティ」と「差異」が政治的熟慮にとって重要な意味をもちうる概念だとは思わない理由をてみじかに説明したいと思う。[…]」(Rorty[1989=2000:291])
 「ヤングは、リベラルな伝統、ミルとデューイの伝統が、差異の「均質化」という企てに力を注いできたとみなしている。この見方はわたしには間違っていると思われる。ミルとデューイは、多元主義のために――個人が多様化し、また、自己を再創造する個人の能力を育成してくれるものである限りにおいて集団も多様化する、そういう機会を最大化することに――献身したのだとわたしなら考えただろう。リベラルな伝統が要求する均一化とは、多元主義を最大限拡大するために作られ(p.295)た諸制度のサポートを目的として、互いに強調しようという、グループ間の合意だけであるとわたしは思う。差異の政治というものが、議会制民主主義の歴史を通じてつねに存在してきた通常の利益集団の政治と、何か興味を惹くような点において異なっているとは思えない。」(Rorty[1999=2002:295-296])

 これはリベラルに対する「差異」や「承認」を言う側の批判が「効くか?」というなかなか大きな、おもしろい問題でもある。
 (私自身は、近代社会における所有の範式から抜け切れないものである限りでのリベラリズムに限界があることをやはり今度の本の第4章から第6章で言ってみている。)
 よく言われることは、一方が「抽象的な個人」を持ってくるのに対して、実際の人間というものは様々なものを纏って存在であって、云々ということなのだが、しかし、それに対して、具体的なものを様々纏っていることができるために(も)、抽象的なところで人間を規定しておいた方がよいのだという反論は、比較的安易に、できる。安易な感じは残るのだが、ではどのように安易なのか。


■文献の一部(発行年順)

◆Fraser, Nancy 1993 "Recognition or Redistribution? : A Critical Reading of Iris Young's Justice and the Politics of Difference," Jounal of Political Philosophy 3-2:166-180
◆Fraser, Nancy 1995 "From Redistribution to Recognition? Dilemmas of Justice in a 'Postsocialist' Age," New Left Review 212:68-93=20010115 原田真美 訳「再分配から承認まで?――ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」,『アソシエ』5:103-135(加筆修正の上Fraser[1997]に収録)
◆Fraser, Nancy 1996 "Equality, Difference, and Radical Democracy: The US Feminist Debates Revisited", Trend ed.[1996]=1998 岡野 八代 訳「平等、差異、ラディカル・デモクラシー――合衆国におけるフェミニスト論争再考」,Trend ed.[1996=1998:323-343] <295,340>
◆Young, Iris Marion 1997 "Unruly Categories: A Critique of Nancy Fraser's Dual Systems Theory", New Left Review, no. 222, pp. 147-160.
reprinted in Cynthia Willett, ed., Theorizing Multiculturalism: A Guide to the Current Debate (Oxford: Blackwell Publishers, 1998), pp. 50-67.
◆Fraser, Nancy 1997 "A Rejoinder to Iris Young," New Left Review, no. 223, pp.126-129
reprinted in Cynthia Willett, ed., Theorizing Multiculturalism, pp.68-72.
Butler, Judith 1998 "Merely Cultural", New Left Review227:33-44.
[Social Text (Fall/Winter 1997), 52/53, pp.265-277.にも掲載]=1999 大脇 美智子 訳,「単に文化的な」,『批評空間 2期』23 1999.10 pp.227-240 太田出版
[Nancy Fraserを批判したもの。これに対するFraserの応答も、New Left Review, Social Text, 批評空間の同じ号に収録]
] ◆Fraser, Nancy 1997 Justice Interruptus: Critical Reflections on the "Postsocialist" Condition, Routledge amazon=20031110 仲正 昌樹 監訳,『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的考察』,御茶の水書房,364 3400 ※
Rorty, Richard 1999 Philosophy and Social Hope, Penguin Books.=20020725 須藤 訓任・渡辺 啓真 訳,『リベラル・ユートピアという希望』,岩波書店,334p. 3200 ※
◆Fraser, Nancy 2002a Adding Insult to Injury: Social Justice and the Politics of Recognition, ed. Kevin Olson, Introduced by Richard Rorty, Verso.
◆Honneth, Axel 1992 Kampf um Anerkennung: Zur moralischen Grammatik sozialer Konflikte, Suhrkamp=20030930 山本 啓・直江 清隆 訳,『承認をめぐる闘争――社会的コンフリクトの道徳的文法』,法政大学出版局 3200 ※

大川 正彦 19971201「分かち合い,分かり合い,その困難(上)」,『未来』375(1997-12):16-23 ※
◆大川 正彦 19980101「分かち合い,分かり合い,その困難(下)」,『未来』376(1998-01):08-15 ※
山森 亮 199804 「福祉国家の規範理論に向けて――再分配と承認」,『大原社会問題研究所雑誌』473:1-17(大原社会問題研究所)
◎全文:http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/473/index.html
◎概要:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9804yt.htm
◆向山 恭一  2001 『対話の倫理――ヘテロトピアの政治に向けて』,ナカニシヤ出版 <295>
上野 千鶴子足立 眞理子 20010115 「表象分析とポリティカル・エコノミーをつなぐために――マルクス主義・フェミニズム・グローバリゼーション」(対談),『アソシエ』5:009-037
 *フレーザーの論文[1995]の訳が載っている号に掲載。その論文、その後のバトラーとのやりとりにふれている。上野はあいかわらずいろいろ言っている。いろいろ言えば中には当たっていることもあるが、いつものように乱暴である。(乱暴であること自体が悪いといっているのではない。)
◆立岩 真也 2003/11/05 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215 資料
◆立岩 真也 2004/01/** 『自由の平等』,岩波書店

[新着]
◆水上 英徳 2003/09/10 「Fraser, Nancy and Williams, Jeffrey, 1999, “Politics and Philosophy: An Interview with Nancy Fraser,”the minnesota review, 50/51: 143-159.」(学説研究ノート)
 http://www.saturn.dti.ne.jp/~mizukami/studies/studymemo/030910.html
◆上農 正剛 2003/10/20 『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』,ポット出版,505p. 2700
◆水上 英徳 2003/11/14 「Fraser, Nancy/Honneth, Axel, 2003, “Vorbemerkung,”Nancy Fraser/Axel Honneth, Umverteilung oder Anerkennung?, Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 7-11.」(学説研究ノート)
 http://www.saturn.dti.ne.jp/~mizukami/studies/studymemo/031114.html


 

□メモのメモ

 それに対してヤングがこのジレンマ自体を認めないというかたちで応ずる。
 …そういう構図になっている?
 ただ、一見したところ不思議な感じもするのは、ヤングが[1990]で分配モデルを批判して、「差異の政治」を言っていることである。

・Aについて。
 それでよいのだが、しかし、なぜそれではいけないのかという問いにどう答えるかである。
 仮に…「再」分配であっても、分配が十分になされるのであれば、それはそれで問題はない。それでうまくいかないのは、


 しかしこれは、違うのではないか
 あるいは分配と再分配という論点か?
 あと、どんなポイントがあったか?
 集団/個人。
 これはいったいどういう問題なのか?
 「私たちが」と言いたいこと、それが有効と思われることはある。

 私は(「メモ・1」にもそういうところがあるが)できない人たちの集団、というところから考えることが多いので、その限りで、以上はわりあいあっさり言える。ただ他の集団の場合にはそう単純でない。もう少し考えよう。ここには大きな問題がある。


 人種にせよ性にせよ、その区別で区分される集団が市場で劣位に置かれているという事実はたしかにあるのだが、それをどのように解するかである。

 これはとても単純な問いなのだが、実際には、あまり考えられたことがない(ことが不思議な)問いである。いくつかの原稿でこのことについて考えてきた。


UP:10031018,20(ファイル分離),21,25,26,29

HOME(http://www.arsvi.com)