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>HOME >Tateiwa ―素描― 立岩真也 2003/11/05 『思想』955(2003-11):196-215 *この文章は改稿され、拡張されて別の文章となります。 ■一 一言で括られてしまうものを括らないこと ■1 解かれていない 資本制と家父長制という主題がある。性別分業の体制が資本制にとって機能的だと言われる。だがそうだろうか。 例えば、労働を欲する側としては多くの労働の供給があった方がよく、男を市場で働かせ女を家庭に置くという形が得だと思えない。男も女も労働力とする方が得ではないか。 とすると、そのことではなく、家庭での家事労働のことを言うだろうか。しかしそれで女が外で仕事ができないことを考えるならどうか。家事・育児は時間をとる仕事ではあるが、ずっとそうではない。一人の人に行わせるなら、時間の使い方としてはむらが大きすぎて効率的だと言えない。外での仕事も中での仕事も両方してもらう方がよいのではないか。 他方、この社会で、この社会だからこそ、女は損をしている、損をしている分他方は得をしているとやはり思える。それは間違いだと思えず、間違いだと言うならそう言う方が間違っていると思える。その思いは信用できるように思う。 運動の内部にも二つの方向の言い方がある。一方では女性が社会の犠牲になっていると言うのだが、他方では、もっと社会を合理的に運営していくためには、女性を入れた方がよいと言う。実際、共同参画社会といったことを主張する際には、その方が社会はうまく行くと主張もする。政策提言、政府の委員会等ではそのように言った方がよいということもあるだろうが、それだけのことでもないようだ。 資本制は近代家族を必要とするとか、性別分業を利用しているとか言われるのだが、それは本当か。少なくとも私はどうどう考えればよいのかわからなくなる。問いは単純だが答を見出すのが容易でないように思える。もちろん、もっともなことは今までいくらも言われているのだが、そこには幾つか罠があって、そこにはまってしまうと、部分的に当たっているが、全体としては外れでむしろの事態を見えにくくするようなことを言ってしまうことにもなる。オセロ・ゲームのようなところがあって、次の一手で白が黒に変わるのだが、それを間違えると、白が白のままに置かれる★01。 分けるべきものを分けて順序を踏んで考えていくしかない。そもそも「資本制にとって」という言い方がわかるようでわからない。「資本」とは資本家のことを言っているのだろうか。必ずしもそうではないだろう。では何なのか。まずもっと素朴に言い直してみることにしよう。それで言い尽くされている保証はない。しかし少なくともこのような試みを行っていく中で、ではどのように言い尽くせていないのかを考えることができる。次項でこの作業を行う。 その上で、家族という単位に権利・義務が設定されることをどう捉えることができるかを第二節で述べる。第三節で古典的な近代家族、勤め人の夫と専業主婦という体制について、第四節でそこからの変位をどう捉えられるかを考える。 ■2 構成要素 1)格差 一つは分配・所有の問題、誰がどれだけを得るのかである。私たちの社会における財の流通・所有のあり方に対する古典的で典型的な捉え方・批判は、この体制は資本家が搾取している体制であるというものだ。どのように搾取を論定できるかという問題は厄介で容易に答えられない問いだが、それが不当に多くを取られている事態を指しているのは確かだ。だから、第一に、ここでの少なくとも大きな一つの問題が「取り分」を巡るものであることは明らかである。第二に、経営者も含む労働者の間にも取り分の格差があるのは事実である。労働者は高給取りでも管理職でも使われており働いて賃金を得ているのであり、資本家とは異なると言うかもしれない。違いがあることについては認めてもよい。しかし取り分の格差が問題なら、そこにもある格差を無視すべきであるということにはならない。実際、同じ企業の中、異なる産業の間の格差、また国際的な格差が大きく、それが問題になっている。これを無視する方が間違っている。 そこで、ある仕組みに格差を維持・拡大させる傾向があるかどうかを見ることになる。ここでは、家族の形態、性別分業の形態が、何と比べた場合、格差の維持・拡大にどのように作用するのかが問題になる。 2)拡大 次に資本制の社会は生産を拡大していく社会、拡大していこうとする社会であると捉えられる。とすると生産に対して促進的に作用するとはどんなことか。 一つはとても単純なことでたくさん働くこと、働かせることである。またそのために人々の働く力能を増やすことである。次に、ただ生産されただけのものを消費したら生産は継続して増大しないから、次の生産により多くを回すことである。それは現在の消費を控えて未来にまわすことによっても実現されるが、生産をより増加させると思われる部門を優先する等、複数の領域の間の調整としてなされることもある。例えば工業については資本の投下による生産の拡大、発展が見込めるが農業はそうでないといった理由で、後者を抑制して、前者を有利に作動させるような装置が存在するなら、その装置は成長に対して促進的であるとされる。 何を成長の指標にするかという問題を別としても、実際に何が成長をもたらすと言えるのかは自明ではない。例えば工業化がよりよいこととしてあらかじめ前提されてしまっている場合もあるだろうし、そして結果として失敗に終わることもある。だから、実際にどのような事態がもたらせるかということとともに、どのような方向がよしとされているのか、どこに社会を向かわせようとしているかを捉える必要がある。 そしてこれを自然に発生するものと捉えるべきではない。生産の拡大による利益の拡大への志向はたしかに存在するとして、対応する消費がなければ生産は拡大しない。少なくとも労働者にとって、労働は労苦でもあるから一定の水準の消費が可能になればそこで働くことをやめてしまって少しも不思議ではない。それ以上のことが生じてしまうなら、労働を昂進する装置が働いていると考えることができる。さらに私たちの社会ではしばしば経済の回復や成長のための政治的な介入がなされる、つまり強制的に生産を拡張しようとする。そして既に、より基本的な場に仕掛けがある。つまり所有に関わる規則自体が開発、競争を促す。開発者がその結果を所有できるという規則があると、技術開発は戦略的な位置を有することになり、それに資源を優先的に投下せざるをえないことになる。小さな差が売れるかまったく売れないかを分けるような機構になっている場合には、その差の部分に多くの力が費やされることになる★02。 3)維持 失業者がいる。そして専業主婦も、本人が働きたいと思っているかどうかは別に、たいていは外でも働けるのだから、失業者だとも言える。また仕事ができずに働けない人がいる。そしてむろん、仕事ができないで仕事がない人と仕事ができるが仕事が得られない人とはまったく連続している。 市場で買い手は売りものがある人に払う。そしてその人が売れるものは有限であり、個別に異なる。この場だけでは、買い手が見つからなかった人はそのままに置かれる。少なくしか持っていない人は少なくしか受け取れない。また働く人が限られいて働けなかった人は得ることができない。その人が一人だけでそこにいるなら死んでしまう。そのことに買い手は無関心だとしよう。それで職のない者は死ぬことになる。 それが当人の外側に何をもたらすかと別に、この状態を不正とする立場を採ることを後で述べる。ただ、例えば常に雇用される者は働ける人よりも少なくてよいとすれば、働く人は減少し続けていく。それでもその社会は、そのような社会として滅亡するまで存在するとも言える。だがそれは、それは経済の存続にとって、具体的にはものの売り手にとってよくないと言うこともできる。これだけでは社会は成立しないし、維持されないから、付加的な装置が必要だという言い方もある。その生存を可能にする装置があるのであれば、それは社会を維持していると言えるし、また市場が維持され、そして資本制の経済が維持されていると言える。 ■3 関係 こうして、3)分配の機能がいくらか存在し生存を維持しながら、1)格差が維持・拡大され、2)生産を拡大する方向に事態を動かすような装置があった場合、もう少し正確には、他と比べて――これは何と比較するかが問題になるということである――このような方向に向かう度合いの大きい装置があったときに、それは、一時期よく使われてきた言い方を使えば、資本制に奉仕する装置だということになる。 だが、誰もがすぐ気づくように、1)多くを得る人と得ない人との格差を維持・拡大する方向に動いていること、2)生産の拡大、成長の方に仕向ける体制であること、3)人の生存・生活を維持すること、この三つの間の関係はそう単純ではなく、ゆえにある機構・装置についての評価も単純でなくなる。 まず1)格差と3)生存は当然相伴わないことがある。つまり、1)格差がどこまでも拡大していくことを是認するなら、3)多くの人の生活の維持は不可能になる。それでもかまわないかもしれない。しかし労働力が余った時に馘首した人がそのまま死んでしまうのでは、将来また人を雇いたい場面が出てきた時に困るかもしれない。あるいは、格差が明白な不正と受け止められることにより格差を維持することにも困難が生ずるかもしれない。また、そうした打算とは別に、仕事を失った人あるいは仕事を得られない人がみな死んでしまうような社会はよい社会だと思われず支持されないということもある。 また2)成長と3)生活について。生産に励み、やがて得られるものが増え、利得を人々にもたらすことがあるだろうし、その方が望ましいと言える場合があることも否定できない。そこから利益を受け取れない人がいるのは1)格差の問題であり、生存のために生産はむろん必要であり、生産が増えることは生活によいことではある。ただ同時に、存在・生存が生産の優先によって毀損されることがある。成長部門に資源・労働が回されることにより、生存を維持するのに必要だが直接には成長には結びつかない領域への支出が削減されることがある。また、その人の生産の価値がその人の存在の価値を規定することにより、生存の手段としての生産の価値が生存の価値を凌駕するといった倒錯が生ずることがある★03。 そして2)成長に対する1)格差と3)の関係も一通りではない。1)成果に応じた格差があり、それで失敗すると生存の維持もおぼつかないという社会である方が人はよく働き、2)生産の拡大に寄与することになるかもしれないが、他方では、3)生活の基盤が安定していた方が人は安心して働くことができるからかえってその方がよいとも考えられる。実際、この双方が両方の陣営から言われてきた★04。 これだけを考えても、どんな場合に「経済」「資本制」が最もうまく作動するかの規準は単一でなく、家族の存在やその特定の形態や性別分業のあり方がその作動に対し促進的に作用しているのか抑止的に作用しているのかも単純に言えない。関係が錯綜し互いが正比例するわけではないそれぞれの要素をどの程度に見るか、どのような因果連関を想定するかによって、族や性別分業の存在・形態がこの体制に対してどのように作用しているかについての判断も変わってくる。 まずはこうした事情があることをわかりながら考えていくしかないのだが、もう一つ、このような場合には、どのような規準から事態を捉えるか、自らの規範的な立場をはっきりさせることで、議論を明確にするという方法がある。ここでの主題を議論してきた人たちの多くは今の状態に批判的であり、それが変わるべきだと考えている。今の状態が多面的な様相を見せているなら、むしろどのような状態が望ましいかをはっきりさせて、そこから論じた方がよいということである。でないと何を言っているのかわからなくなる。もちろんいくつも立場はあり、同じ事態が別の立場からは否定されたりするのだが、だからこそはっきりさせた方がよい。 私が採るべきと考える立場は、ごくおおまかに言えば、以下のようになる。3)各々が生活できることを肯定し、これを基本的な価値とする。ゆえに、1)格差の存在を当然のことと考えず、仕方なく必要な範囲でこれを認める。また2)成長は、言葉通りの意味ではよいことで、それ自体は否定しないが、そのために他が犠牲になり、それが3)各々の存在に対して抑圧的に働く場合にはそれを否定する★05。 ■二 家族という単位 ■1 それが位置する位置 家族の存在、性別分業の体制はどのように機能するか。述べたように、これは他の機構との比較において言えることであり、このことを曖昧にすると何を論じているのかわからなくなる。ここでは市場と政府とそして家族とをあげる。 市場で、というより私たちの社会のような所有権の付与がなされた市場において、1)一人一人の間の格差は生ずる。そして2)生産から利益を得ようとする人たちはその増大を目指す。ただ売れないものは買われず、消費に限界があるなら成長にも限界はある。3)生活の維持を市場にまかせることができるか。市場は場だから、市場にとってという言い方は何かを略している。そのことが分かっていればよいのだが、そうでないと時に誤解を生じさせる。問題は売り手と買い手がそこでどのように行動するかである。例えば乞食に金を恵むといった行いも交換、購入だと言い張ることはできなくはない。あるいは市場でも贈与することはできるとも言える。だが、それが十分になされることがないなら、端的に生きていけないあるいはよく生きていくことができない人が生ずる。 政治的決定は、このような市場の作動を保障しそのままにしておくこともできる。また、より強い格差を作り出し、切り捨てようとする部分を切り捨てることもできる。それによって生産の拡大体制を図ろうとすることもある。あるいは家族が担ってきた仕事を「社会化」し、効率化をはかり生産を高めようとすることもある。ただ、人々の生活・生存が権利であり、その権利の承認がすべての人の義務であると考えるなら、それは政治的決定、強制力を介した社会的分配によってなされるべきであることは言える。つまり3)の十分な実現のためには、政治の関わりが要請される★06。 家族は、その内部に権利と義務とが配分された単位として存在する。家族が行うべきであること、また権利を有することは、成員相互の契約、近代家族の成立要件とされる愛情から直接に導くことはできない。実際、権利と義務とは法に定められてもいて、これ自体が権利・義務の社会的規定の一つのあり方であることは当然に踏まえておく必要がある★07。 その家族において実現する事態は、さきにみた二つの機構の下に生じうることのおおむね中間に位置する。つまり何もしない(ことによって維持できなくする)のと、社会的に行うこととの間を行くことになる。つまりそれは3)人々の生存をある程度可能にしながら、1)格差が存在しそれが維持される機構である。そして、すべてが家族に委ねられるのでなく、例えば家族による負担と税金からの支出とが組み合わされ、その程度が調節されもする。 1)について。まず各家計に入る収入は異なり、その格差が維持される。(ただこれは稼ぎ手がどのように配置されているかによって変わってくることを後で述べる。)そして家族は世代間の贈与によって格差を伝承する装置でもある。すなわち世代間の贈与があり、相続がある。これは、世話したり扶養することとの、交換の比率が確実ではない交換と見ることができることもある。また例えば親にとっての子の経済的な価値、位置づけの歴史的な変化もある。交換と贈与との境界はここでは不分明になっており、家族は、格差を維持すると同時に、一定の再分配機能をも有する。 市場で行われる交換においては3)の機能はとても弱い。それに対して家族が生計の単位になる時、例えばその中で失業者を養うことが、むろん失業していない者がその家族にいればだが、できる。さらに家族に属するのは、多く異なる人生の時期を生きている人たちであり、生死があり、誕生の後と死の前が含まれる。直接に世話することかそのための費用を支出することがこの単位の中でなされ、この人たちの生活が維持されるなら、1)だけの場合に生ずる格差は縮小される。家族という単位があることで、一人一人が独立して市場にいる場合と比べれば格差は少なく、3)生活の維持が可能になる。 ■2 利害の布置とその評価 これが、家族が市場を補完し、資本制の存続に有利に働いているといった言われ方で言われる事態である。また市場が家族を利用しているとも言われる。ただこれはさきにも述べたように不正確な言い方だ。問題は、誰がどんな場合に比べて利益を得るのか、それはどんな規準から正当、あるいは不正であるかである。 家族の中で分配することの基本的な問題は、それをもっと大きな範囲で行う場合と比べた時、はっきりしている。ある人が何をするのか何ができないかが家族に依存せざるをえず、家族の状態に左右されることである。このこと自体はその家族が裕福であろうがなかろうが、すべての人について言える。 ただ、どの程度の暮しが実際にできるかは家族の状態により様々だ。資源が多くある家族とそうでない家族があり、扶養し世話する人が多く仕事の量が多い家族とそうでない家族とがあり、その利益や負荷の量は異なる。だから格差は、まず家族と家族の間の格差である。得をする家族(の成員)とそうでない家族(の成員)がいる。これはどこにいようと、どんな家族がいようと同じ程度には暮せていけるとよいと考えるなら不当な利益であり不当な損失である。 家族が世話することに即して、このことをもう少し詳しく見ておく。たまたま世話する相手がいない家族といる家族がいる。世話を家族の責任とすることは、負担を回避できる前者にとって利益になり、後者にとってより大きな負担になるということか。しかし、将来は不確実だからどちらの立場に立つことになるかはわからないことの方が多い。だから、負担の範囲を拡大することは多くの人にとって合理的な選択のはずだ。にもかかわらず、このことが容易には実現しないのはなぜか。この部分について社会全体が責任をもつことは格差全体を縮小することにつながり、そのことに抵抗する人たちがいることが関わっていると考えることができる。例えば介護に関わる費用を社会全体の生産から取り出し、それを必要に応じて分けるとしよう。そしてその後に余っただけを、税か保険料を支払う前の格差と同じ割合の格差で分配するとしよう。すると全体としての格差は縮小することになる★08。これは1)格差を維持したい側からは支持されないことになる。家族単位での扶養や世話を社会全体に拡張することに対する抵抗はまずここにある。同じことを別言すれば、3)一人一人の必要が充足されるべきだとする立場からは、1)格差が維持されてしまい、必要の充足を困難にする家族単位の体制は否定されるべきだということになる。 次に2)生産・成長にはどのように関わるのか。 まず稼ぎの多い人の収入に依存することで、稼ぎのわるい人が生活できること、収益率が低い仕事を存続させることができることがある。家族に稼ぎ手がいることで、売れない文章を書いている人がそれでも暮すことができるかしれない。儲からない商店が存続したり、収益率のよくない産業部門が存続したりすることもありうる。 他方で、同様に外の家族による生活の支えがあることにより、その人を低賃金で雇用することができ、あるいは自ら事業を起こすことができ、そのことによって次の生産のためのものを蓄積することができ、その産業、産業部門の発展に寄与するといった場合がある。他に家族に稼ぎ手がいるために、時間あたりにしても総賃金にしてもそう高くなくても働いてくれるなら雇い主にとってはありがたい。実際に家族内分業がそのように機能した部分があることを次節ですこし見る。 どちらに作用するかはあらかじめ決まらない。親からの遺産が道楽に使われるのか、あるいは何か新しい産業の創成に結びつくのか。支えがない危機感によって生産が促進されるか、それとも安心を得られないためにかえって活動を収縮させるか。相続によって人々の間の格差が保存されることが生産についてどちらに作用すると見るのか。家族にある1)格差の維持機能、3)生活の維持機能は、2)成長に対して両方に作用しうる。そして、家族の単位の中で財の分配がなされる場合と全社会的に分配がなされる場合、それぞれの2)生産に対する寄与の度合いも場合によって異なる★09。 ただ一つ確実に言えるのは、家族においては3)が十分になされないことであり、それが何を効果しうるかである。家族ができることには限度があって、その限度内に留まることになる。それを「社会化」することによって、家族に負担させていたために十分になされなかった仕事を増やすことができるし、まただからこそ、とくにそれを必要とする人たちから、要求されている★10。これと比べれば、家族に委ねることはこの仕事が圧縮されるということである。その圧縮された分が、生産・成長に寄与する部分に振り向けられる。そしてそれは、2)生産のために3)生存が圧迫されるということだから、さきに述べた立場からは肯定されない。 もちろん他方では、家庭内の仕事が軽減されるなら、軽減された人が家庭の外で別の仕事に就くことができるようになる。しかし求められているのが、より多くの人が働けるようになること、労働の総量が増加することではなく、別の形態の人の働かせ方であり、働かせ方による生産の拡大であるなら、この仕事の軽減の効果はそれほど重視されないかもしれない。以下に見るのも、この社会では、生産の拡大が求められながら、同時に労働の供給可能な量は既に十分であり、その調整が家族を介してなされていること、そしてその形態が変化していることである。 ここまでは、家族という単位があることだけから言えることを見てきた。実際には、性、性差が関わり、その分業のあり方が効果しているものがある。以下ではそれを見ていく。 ■三 古典的な近代家族体制 ■1 その成立 一方が市場に金を稼ぎに出て、もう一方が家にいてその中での仕事一切をする、前者が夫であり後者で妻であるというかたちについて。 第一に、この体制は労働の買い手の側からは直接には説明されない。買い手にとっては労働力が少ないのはよいことではない。市場での労働だけを考えるなら、働こうとする人の数は多いに越したことはない。女性の労働を使わないのはもったいないことであり、その労働力に差のない集団を排除することの利益はない。むしろいずれかの範疇に限ることは、購入の可能性を狭め、不利益をもたらすはずである★11。 第二に、家事労働、人の再生産労働を言い、それが報われないことを言う人たちがいる。しかし、この仕事は新たに加わったわけではなく、その多くの部分を既に女性は担っており、それをいわゆる生産労働とともに行っていた。少なくとも家事労働が増えたから仕事をやめたのではない★12。 だから以上からは説明できない。別のことがあるはずだ。いまみたことから言えるのは、人手が不足している状況にないなら女を労働市場に引き出そうとする要因は弱くなるということである。とすると、むしろこの時期、生産性の向上、生産力の上昇に伴って、労働力の過剰という状態が現われたと考えることはできないか。完全雇用がすくなくともある時期には成立していたということになっている。しかしこの計算で主婦は失業者には入っていない。実際にはその時、既に可能な労働力をすべて使うことなく生産が可能になっていたと考えてよいはずだ★13。 それで、一人分の稼ぎによっても一家が暮せるほどになってきた。私たちは、家事以外の仕事を一人で担うことによって生活が可能になること、一人の稼ぎで例えば四人分が暮せてしまうことにもっと驚いてもよい。ただこの要因は専業主婦体制が可能になる条件ではあるが、それを積極的に進める要因ではない。この要因があることに関わって、この体制の方に押し出す契機があったと考える。 一つに、外で仕事をしなくてもすむことによる利得はある。さらに、専業主婦として妻が存在していることを顕示的消費と見ることができるのではないか。このことを[1994a]で述べた。夫が稼ぎ妻は家事という性別分業の形は、家計全体にもまた夫にも物質的な利得を何ら産み出さない、だからありそうもない不思議なことなのではない、むしろそのことを承知してなお行われていることだと考えたらどうか。つまり妻は収入を確保するために働かなくてよい、それだけを夫が稼いでいる、そのこと示す。それは、より上の階層の形態の模倣でもあり、その実現は社会的地位の上昇でもあった。 もう一つは――いま述べた契機もさっそく利用されるのだが――市場から人を退出させようとする動きである。これにはまず男の労働者の側の利害、動きがある。働く人にとっては、自分(たち)以外の者を排除できれば有利になる。競争相手が少ない方がよい。男が市場で仕事を得られるなら、まず男はその限りで得をする。 ただ多くの場合収入は家族内で合算される。職場で自分の職が確保できても、家に帰れば仕事がない妻がいるということだから、世帯単位で考えれば有利でなく、二人とも働いた方がよいかもしれない。しかし労働力が過剰な状態がある。それが恒常的でないとしても景気の変動によって人が余ることはあり、誰かを雇用の場から退出させなければならないことはある。この時に女が指定される。男が主たる家計の維持者でありその雇用は譲れない、女が雇われなくても夫の雇用が守られるのであればなんとかなるはずだとも主張される。家族に一人ずつ労働者が割り当てられるのは「社会不安」に結びつきにくいとも思われる。 では雇用主にとってはどうか。家計や社会の安定や不安定は個々の雇用主にとっては関心事でないかもしれない。しかし、一つには労働者への対応において影響力のある部分を無視できない。次に、ここでも、職を求める人が少ないこと自体は望ましいことではないのだが、誰でも来てくれなければ困るほどには人はいらないという条件が作用している。その上で、仕事をさせやすい方を採用することになり、家での仕事が少ない男の方を選ぶことになる。 以上は、歴史的な事実によっても傍証されるだろうと考える。近代の工場の労働力となったのはまずは女・子どもだった。技術をもつ職人の世界と違い、工場での労働は人に指図されする仕事で、仕方なく選ばれることだった。一人前の仕事とは捉えられなかった。そんな仕事を男がするわけにはいかないというのだ。また賃金も労働条件も悪かった。家族の現金収入を確保するために女・子どもが働きに行った。家族の中で余っている労働力の提供先と考えるなら、その賃金は、場合によっては一人分の生活に必要なだけ下回り家計をいささか補助する程度の額ですむ。そこに存在する産業全体を考えれば、それがとくに有利なことだとは言えないだろう。しかしこのときに興隆しつつある工業の発展を資本制の発展と考えるなら、このようなかたちが資本蓄積と資本制経済の発展に作用したと言うことはできるだろう。前節に述べた中の、3)家計による合算、成員の生活の維持が2)成長を促進する方向に作用すという線がここにある★14。 しかしやがて農民にせよ職人にせよ本業の仕事の方が厳しくなってくる。彼らが守ってきた農業や手工業の相対的な位置が低下する。土地、仕事場が奪われる。また比較して、工場で働くことは相対的に稼ぎのよい仕事になっていく。男もその仕事に就くようになる。しばらく、男も女もそうした仕事場で働くことになる。働けるものがみな働いてそれで暮すことになる。やがてその仕事の中に、むろん景気の状態等にもよるのだか、さらに稼ぎのよい仕事が出てくる。そして労働力の供給は過剰になる。ここで男が残ろうとする。こうして雇われて働く人は入れ替わった。 専業主婦の普及はここに存在し始める。夫一人でも家計を維持していけること、妻が働かなくてもすむこと自体が、当の家族の家計の余裕を示し自らの位置を高めることであるとされ、当初妻の多くが働いていた階級にしても、収入の水準が一定以上になると、ともかく夫一人でなんとかなるようになると、それを模倣した。ただこの余裕は、かなり無理のある余裕でもあり、ある場合にはやせ我慢だった。夫一人の収入に依存し一定以上の生活は望めないということでもあるから、解体に向かう可能性を既に存在させているのでもある。 そしてこの社会にあっては、主婦にしても、ただ家にいることでなく、その場で働くことが求められ、それがその人の価値を示すとされる。たしかに家電の普及等にもかかわらず家事の時間は減らないのだが、家事労働の時間が増えたから外で働くことができなくなったと考えない方がよいだろう。むしろ家事をする人としての専業主婦が現われることによって、主婦の仕事としての様々な家事が発明されていった。 ■2 作用 以上を第一節、第二節に記した枠組みから見るとどうなるか。まず1)格差を維持した上での3)生活の維持はここでも達成されている。そしてここでは労働力の調整という性格がつよい。人が過剰だと失業が生ずることになるが、家計における合算によって(潜在的な)失業による生活の困難が緩和される。性別と無関係に雇わないあるいは首を切るという場合に、男女二人の受け取りは0+0、1+0、1+1となり、合計では0・1・2の三通りになる。他方、男を雇い女は雇わない場合には1+0、1+0、1+0と1・1・1になる。失業をそのまま放置することは「社会」にとっても得策でないと考えられるとしよう。そして、男一人の収入が一家を養えるほどになり、この形態がまがりなりにも可能になった部分からそちらに移行していく。そうでない家族は総出で働く。家族という単位を前提すれば、子どもも含む生活を維持していくには、この体制はそれなりによくできた装置だとも言える。 すると、女に多くの仕事をさせ、そしてそれを報わないことによって、女に損失を与え女以外が利益を得る体制だとしてこの体制は批判されたのだが、そうも考えられない。労働の調達の面では、この体制はむしろ調整の装置として作用した。また、この体制の下で、そう多く働くことはなく、そのわりには多くを得て暮している人もいる。無償で家事をしている分損をしているという主張はことを単純にしすぎている。しかし同時に、この体制は基本的に抑圧的なものであり、ある部分にとっては実際に迷惑なものである★15。 まずこれが成立するのは男女が対になっていればのことであり、でければこの機構は働かない。このような対を形成しない人や、そこから外れた人には不利で、3)個々の生活は困難になる。また、家事も賃労働もという状態から離脱できることは少なくない人に歓迎されるとしても、もちろん、やはり少なくない人たちは仕事をしたいと思う。どちらかを各々が選べればよいではないかと思うのだが、そうもならない。「統計的差別」という要因が効くことになる★16。雇う側は仕事を続けそうな人を採用するとして、それに性別が確率的には作用していて、女の方が職から離れやすいとわかっており、個別の人については将来の予測ができず、そして他の条件が同じならば、男が採られてしまう。仕事をしたい人にとって、それが動かしがたい現実として現れてしまう。暮してはいけるとしても、その生活は稼ぎ手に依存せざるをえず、この意味でやはり3)生存・生活は不安定であり、留保なく肯定されていると言えない。 そして、誰かが賃労働をしないことがその分を誰かが稼ぎ、養うことができることを示すものとしてある時、2)生産することの価値が既にここには組み込まれている。そして稼ぐ側にいるのは男であり、男はその位置にいることによって優位であり続け、優位であることを示す。生産の優位と男の優位が前提され、そして示され、示されることによって確認され再生産される。働くことにおいて意味を付与されるのだから、その一人一人の生産への傾きは強いものになる。これは、数多くの人が仕事を分けて働くのでなく、働き手の数を限った上で競争的な状態で人を働かせるのに適合的であり、そのような労働が求められる産業の成長に促進的に作用する。 まとめれば、この体制は、3)可能な労働供給が必要より多い状態において、それを夫が賃労働に就き妻が家庭にいるという形で回収し、その限りでこの形態が存在しない場合に比べて1)格差を緩和し、3)人々の生活を維持する機能を果たしつつ、1)男と女の構造的な格差と、家族と家族の間の格差を積極的な条件として成立している体制であり、またそれを維持する体制であり、そして労働能力を人の価値とすることによって成立し、そこで2)競争的・拡大的な生産を肯定し、その方に人と社会を向かわせる体制である。 ただこの体制は、この形態そのものの不安定性からすぐに変化することになり、そのことによって一部は再編成され、一部はより不安定になる。次にこれを見る。 ■四 変容について ■1 解体と変位 夫が外に行って稼ぎ、妻は家にいてその中のいっさいをするという体制はそのまま続くことにはならなかった。これはそもそも完全に成立したことはなく、作られたときから解体していく。つまり妻も働くようになる。 その経緯はわかりやすい。しばらくやってみたのだが、多くの人にとってはそうよいものではなかったということだ。第一に、他との差異によって価値があったのものがみなのものになることによって魅力が減じていく。第二に、稼ぎが少ない。この分業は、経済的に余裕がある人のまねをして、実際にはかなり無理してやせがまん的に始まった部分もあったから、家を建てて子どもを学校にやるのにお金が足りない、余裕のある暮らしのためにもっとほしい。そこで育児が一段落ついたら働きに出ることになる。第三に、何かをしたいと思う。子育てをしている間はおもしろくもあるのだが、それはやがては終わる。で、何をしようかということになる。何もしなくてよいと悟れればよいかもしれないのだが、多くの人はそう達観できない。趣味の活動でよい人はそれでかまわないのだが、そうは思えない人もいる。 さらに稼ぐ側を見れば、一人が家事・育児以外の仕事をし、一家の暮らしをまかなうには長く働かなければならない。また他に稼ぎ手がいないから自分が稼げなくなったら生活が立ち行かない。また仕事して養えることが甲斐性ということになってしまっているから、仕事はただ収入を得ること以上の意味をもってしまっている。だから稼ぎ手の側にも無理はかかっている。そして、子どもたちもこれらを見てきて、あまりおもしろそうではないようだ、自分たちは違うように生きよう、と思ったかもしれない。 こうして、女は労働市場に入っていったのだが、現実には、男が一時間に二を得ているのに対して、女が得た仕事は同じ時間に一を得る仕事である。 このことをどう考えるかについても夥しい言説の堆積があるのだが、その一つの流れは、もし女が男と同じ能力があるのなら同じ待遇の仕事に就けるはずで、格差はなくなるはずだと言う。そしてこのことを指摘する人たちは、第一に、もし力が同じなら自然に待遇も同じになるはずだから、放置すればよいと言う。そして第二に、結果として違いがなくならないなら、それは違いがあるということであり、ならばその格差もまた当然だと言う。仕事と仕事との間の格差は仕事の価値に見あったものだとし、どの仕事に就けるのかはその人の実力の差によるとする。これにどう答えるか。 まず第一点から。たしかに同じだけ働けるなら、それを区別する理由はないとしよう。しかし、家庭の仕事があり、その分市場での仕事に融通がきかない人、途中で仕事をやめる人、中断があって再就職を望む時にもその間の蓄積がない人がいる。これはもともとの能力の差でないとしても、実際に働く場面での差となる。 ならば、この要因を外せば、ほとんどの仕事について同じであると言える。とすると、とくに育児について、家族の支出により外部化するにせよ、あるいは社会的に供給されるのであれ、その負担が男と同じ程度になれば同じになる。(それが完全には実現しにくいなら結果は違う、このことについては後述する。)人口の維持・増大に関心をもつ★17人たちも、その人間の生産への投資には見返りがあると考えるから、それを受け入れることはありうる。とするとこの部分の障壁はなくなる。また明らかに遂行能力が同じである場合の差別は公認されない。この限りでは1)男女間の格差は解消の方向に向かう。またこの方が2)生産的でもあるはずだ。 能力の差は本来ある差ではなく、家族内の仕事が女に配分されていることによるから、家庭の仕事の負担を軽減するなりしてその差を補正すれば、男と女の能力は同じになり、同じ労働能力を有するのだから、同じだけの価値を付与される仕事をすることができ、同じ待遇を得ることができる。これがリベラルな平等派、機会平等主義者が想定する道筋である。これは全くの絵空事ではなく、半ばは実現する。しかしだからこそ増幅する問題があり、そしてそれと性差との関わりは結局は残る。以下このことをさらに簡略に述べる。 ■2 何を狙うしかないのか ひとまず性別の配分は置いて、仕事と仕事の間の格差について考えよう。仕事自体には差がないにもかかわらず格差がつけられていると思われる現実があるから、それを批判するのだが、現状を弁護する側は差異はなくはないと言う。例えば、同じ仕事をしているように見えるが、いざというときに会社に残るとか責任をとるとか、違いがあり、だから格差は正当化されると言う。同じ仕事については格差はなくすべきだして、仕事の間の格差はあり、より待遇のよい仕事に就けないのは実力の差だと言う。これをどう考えるべきか。 私たちは現にある格差が正しい格差か否かを考えたくなり、職務の遂行に関係していないものによって生ずる格差は不当だと考える。労働者による労働者の排除等は間違っているが、そうした要因が排除された上で市場で実現する格差は正しいものと考え、ここにある格差はどちらだろうと考えてしまう。直接の売り手と買い手の意向以外の要因――労働者の間の力関係、組織内での力関係、等――を排して設定された価格は正当な価格であり、受け取りの格差も正当なものだという前提を受け入れているということである。私は、そんなことはないと思い、それでこれまで考え、文章を書いてきたのだが、ここでは次のようにそれを言おう。 価格は、売り手がもっているもの(の全体における位置)と買い手の必要・欲求との関係によって決まるとされる。一方にあるのはその遂行能力について希少性のある仕事Aであり、他方の仕事Bはそうでない。前者にはよい値段がつき、後者はそうでない。これは自然に生ずることであって正当だと、あるいは仕方がないとされる。しかしそれは違う。すこしも仕方がなくはない。そしてこのことに再度、性という契機が関わってくるはずである。むろん仕事の間にある格差は様々の要因によっていて、以下に述べるのは、そのすべてではない。その一部である世話をする仕事を取り上げよう。この仕事の待遇がよくない。それは女性の仕事だとされるから、そして女性の仕事は低く扱われるから、と言われるのだが、さらにもう少し説明が必要だろう。なぜ格差があるのだろう。 他方に待遇のよい仕事、仕事Aがある。その仕事を遂行する能力の希少性がある場合のあることを認めよう。この社会の機構を信仰する人は、ゆえにその格差は当然であると言うだろう。けれども、この希少性、ゆえに高い対価が当然であるという構造がどこから出てきているのか、何が希少な仕事を生み出すかである。技術のことを考えてみる。ただしここではそれを狭義の科学技術と考える必要はなく、様々な商品開発や経営戦略、組織運営術が含まれる。今までにないもの、他と少しだけでも異なるものを作り出すということがそれなりに特殊な能力や訓練を必要とすることは認めよう。そしてそうした能力の存在自体は、むろん何のためにその才能を使うのかということがあるのだが、ひとまずよいことであるとしよう。しかし、だからといってこの仕事が特別に遇されるのが当然だとは言えない。なぜ相対的に新しいものが求められるのか。その新しい技術によって生産されるものの取得が権利として認められており、この規則の下ではその相対的な優位が収益の格差をもたらすことがあるからである。ゆえに、そのような仕事について、選抜や優遇がなされる。これはあくまで先んずるものに利益が与えられるという規則の下に生じていることである。所有の規則が競争と成長への衝迫を作り出している。財に向かう人間の無限の欲望が資本制の運動を作っているとただ考えるなら、この面を見逃してしまう。 比べて低く遇されている仕事、仕事Bがあり、その一部に世話をする仕事がある。このことについても働く側が多くの場合に未組織で交渉力が弱い等幾つもの要因があり、それを単純化して捉えるべきでないことはふまえた上で、今述べたことと対になる要因だけをここではあげる。 この仕事の待遇をもっとよくすべきだと考える人たちは、そのことを言うために、この仕事の「専門性」を示そうとしてきた★18。行う人、技能の希少性を言うのである。そのような部分があることを否定しない。しかしその上で、この言い方にはやはり限界がある。例えば介護と呼ばれる仕事の相当の部分は、自分で行っている人もいるその日常的な行いを手伝ったり代わりにすることである。それですまない部分はある。だが、例えば子育てもそのようなとても微妙な複雑な仕事でもあるのだが、同時に、多くの人ができてきてしまってきた行いである。難しいけれども、多くの人ができた方がよいし、なぜだかできてしまうことである。 そして、この仕事は、基本的に贈与としてなされるし、またなされるべき行いである。例えば子を育てることは生産者の生産であったりもし、ゆえに将来見返りがある行いでもある――そしてマルクス主義フェミニズムと呼ばれる流れは多くこの部分に注目し、見返りがあってよい労働に見返りがないことを問題にしてきた――のだが、しかしだからその行いをなすのではなく、例えば生産者とならない人もまた育てるのであれば、それは基本的には贈与としてなされる。消費者としても生産者としても人間を必要とする人はいるから、人間を生産すること、子を産むことは持ち上げられるのだが、実際にここで起こるのは別のできごとである。この社会で優遇される仕事が相対的な違いを作り出すことを目指すのに対し、これは絶対的に個別なものの支持である。 間違えてならないのは、贈与であることはその仕事が無償の仕事であることをまったく意味しないこと、むしろそれが社会の義務としての贈与であるなら、その実現の形態として社会が支払うことが求められるということである★19。つまり、生産されたものの一部をその仕事に、その仕事をする人たちにまわすことになる。この行いが基本的に格差を縮小する方向に作用することをさきに述べた。そして、この仕事を十分に行おうとするなら――むろん「社会化」することによる効率化という側面もまた確実に存在するのではあるが――それが、生産の拡大につながる部分を削ることになることが懸念される。だから、1)格差を維持したいという力が働く限り、そして2)成長のためにそのような部分を無視しようとする力が働くと、この仕事は劣位に置かれる。 こうして世話する仕事は現実には次のように現われるだろうし、実際現われている。まず、私事として実際上は家族のこととされる場合とそこに社会が入ってくる場合とある。前者、依然として実際の担い手として家族が関わる場合でも、そのための費用を家族が支出し実際の行いは「外部化」して家族成員自身は別の仕事に就く場合でも、また後者の場合、具体的には政府を介して支出する場合にも、1)格差を是認し、2)成長を優先し、その結果としての3)生活の困難をそのままにする社会、仕事Aが優遇され仕事Bはそうでないという仕組みになっている社会では、その担い手は、そしてつまりは世話される人たちは、よく扱われることがない。 この仕事から逃れて仕事Aに就く人もいる。しかし、その仕事にそう多くの人が必要なわけではないから、Aの枠はすぐに一杯になる。そしてBの仕事についてもとくに世界に広げてみるなら、世界にはたくさんの人がいるから、供給不足からその対価が自然に上昇するということにもならない。社会的な贈与の性格が十分でなければその待遇は低く抑えられるし、私的に雇用される場合も同様である。 こうして、3)人々の生活を最低限維持しつつも、1)格差を是認し、2)成長の方に促す機構・規則のもとでは、仕事AとBの格差はなくならない。とすると、この仕事の区別と性差とを完全に切り離してしまうべきであり、また切り離すことができるのであれば、「資本制」は性差別を必要とする、性差別を帰結するとは言えないが、切り離せないあるいは切り離すべきでないと考える場合には、そうではないことになる。 私は、この問いに対する答と関係なく、AとBとの格差が問題だと考える。この構造自体を変えることなく、所得保障策によって格差を小さくするという方法はあるが、それが十分に行なわれることを期待するのは難しい。だから直接にAとBの仕事の格差を縮小する方向を考えるべきである。それはただ格差の拡大を支持しないからというだけではなく、この仕組みの下では端的な存在・生存が肯定されないと考えるからだ。だから、切り離しの戦略によってこれを性差別の問題でなくしたとしても、依然としてこの構造は変えた方がよいと言うことはできるのだし、私たちの立場からは、そう言うべきであり、そのためにうつべき手を打つべきである。 このことを述べた上で、問いに答えてみよう。 一方には、性差と家族という単位がとり払われる動きがある。2)性が関連しない限りにおいて、より効率的であり生産的である社会に向かう。1)格差については、男女の差が解消されるのであれば、かえって家族間の格差は大きくなる可能性はある。その結果、古典的な近代家族の体制、専業主婦体制の場合より、3)家族による生存・生活の維持の機能は低下することがありうる。前節に述べた1・1・1という分配が2・1・0になるのである。それへの反動として、この変化のなかで困窮の状態に置かれる人たちから、もとの状態に戻そうという動きが出てもくる。しかしそれは支持できない。 性差と仕事との関連が弱くなることは、様々な人が様々な仕事ができるようになることにおいて、よいことだ。しかし乱暴に言えば、仕事と性差との関連はなくならない。あるいは、なくすことができたとしてもなくす必要はない。女にBの仕事に近い属性が割り当てられているとしよう。すると、以上に述べてきた「経済」のあり方の下で女が(持ち上げられつつ)劣位に置かれ、それが利用されていると言いうる。しかしAの仕事とBの仕事と性差に本来関係がないのなら、社会的につなげられているこの関係を切り離せば――AとBの格差は残るのではあるが、それは不問にした上で――性差はなくなるというのが主張だった。それに対して、切り離すことはできない、いやできるかもしれないが、するべきではないと答えられるはずだ。このことをきちんと論ずるのは難しい。ごく簡単に述べる。 男はしかじかの性格で、女はしかじかの適性があるといったことのどれだけがもともとのもので、どれだけが作られたのかはわからない――そもそもこの種の問いがどこまで有効なのかという問題がある。ただとりあえず一つ、女が子を産むということはある。もちろん、それが面倒な人はやめればよい。また例えば、忙しいから代わりに産ませることも可能ではある。だが少なくとも、それを自らが引き受けようとする時には引き受けさせたらよいだろうとは言えるだろう。こうして統計的に女の方に多くそれが傾くのであれば、仕事の違いと性差とを完全に切り離すことはできない。 このように考えるなら、そしてここで述べてきたような所有と生産のあり方が存在する時代が近代だとするなら、近代を徹底することによって女性が解放されることは、ありえない。この時代のあり方について資本制という言葉を使うなら、性差別と資本制とが連関し連動していることを、他でなくここで辿ってきた道筋の論によって、論証することができる。 だとすればその構造を変えるのがよい。そしてそれは、完遂することはできないとしても、できないことではない。規則は可変的であり、生産と開発の促進が有効である範囲で一定の存在意義は認められるが、例えば必要な財が広範に利用可能であるべきであるなら制約される。さらにそれを国策として奨励することの正当性は得られない。むしろ国境を越えた開放と分配が求められる★20。そうして機構を変えれば、開発的、戦略的、競争的な部分を特別に優遇しなければならないことはなくなる。すると仕事AとBとの間の格差はなくならないにしても、小さくなる。そしてそのことは、各自が自らの性を生きるにあたってよいことのはずだ。 話を大きくしただけのように思われるかもしれない。そうではないと考える。どこを撃てばよいか、またどの方向では限界があるかを示そうとした。ここまで述べたことをさらに考え言葉を足していけば、よりはっきりと示せるはずである。 ■注 ★01 立岩[2003a](以下立岩の文章については著者名略)でもこの主題が解かれていないと言い、その主題を論じないと断った上で、これまでの経緯について次のように記した。 障害者の介助のことを調べたり考えたりした時([1990]、後に改稿して[1995])、家族が家族であるから家族が義務を負うことを法が強制してしまうという現象を不思議に思って――今でも不思議で不当なことだと考えている――、それで家族のこと、近代家族に付随するものとされる愛情と家族という形態との関係やそこに見込まれる行為、そして権利と義務について少し考えることになり[1991][1992]を書いた。同じころ、ひととき話題にもなった上野[1990]が出て、読んだが私には書いてあることがわからなかった。多くの間違いがあり、意味不明の箇所があると思った。それはその本だけに限らない。そんなこともあって[1993a][1993b]の報告を行い、[1994a][1994b]を書いた。もちろん以下に述べることについて膨大な文献がある。それらと私が述べることの異同を確かめながら進む必要があるが、それを行えば文章の量はすぐに十倍程にはなるだろう。それは別の機会に発表することにし、当然参照すべき文献もここではあげず、以下に述べることについていくらか詳しく述べた箇所のある筆者自身の文献を紹介するにとどめる。ホームページhttp://www.arsvi.com内の本稿と同じ題のファイルから約五〇〇点の文献をあげた文献表を見ることができる。 ★02 生産を自動的に昂進していくものとして捉えるべきでないことについては[2001b]でも述べた。 ★03 cf.[1997]第六章二節「主体化」、[2003b]第二章「嫉妬という非難の暗さ」。 ★04 cf.[2000a]第一節「不安と楽観について」。 ★05 [1997]に続き、[2001-2003]を改稿しまとめた[2003b]で社会の基本的なあり方について考え、説明している。 ★06 強制の意味については[2003b]第三章三節「普遍/権利/強制」で述べた。なお以上であげた三つの他に民間非営利の活動領域がある。四つの領域の境界と関係を考えることの重要性は[1990]を書いた頃から感じていることで、[2000e→2004]でも簡単にだがこのことを述べている。 ★07 このこと、そして家族についての議論の多くがこのことに気づいていないかのようであることを[1991][1992]で述べた。[1996]では、愛情という「神話」が不払い労働の不当性を覆い隠しているという言い方をもう少し正確にし、関係は行為の義務を導かないと言えばよいのだと述べた。 ★08 例えば次のように考えてみる。初期状態においてAの持ち分はa、Bはbとし、aはbより大きいとする。それぞれの暮しに必要な分cがあり、それについては全体(a+b)からその必要に充当することにする。次に全体から2人分のcを引いて残った分(a+b−2c)については初期状態と同じ割合a:bで分配するものとする。結果として、AとBの受け取りの格差は縮まることがわかる。 ★09 生産の可能性に依拠して分配する場合には、生産に促進的に作用するだろう。例えば育児支援にはそのような性格がある。これは生活のための分配であると同時に、あるいはむしろ、生産のための投資という性格をもつ。このように、子どもと、現役で働く人と、引退した高齢者と、それ以外の障害者と、各々の生活を維持することの意味は同じでない。ここでは論じられないが、これまでこのことが曖昧に処理されてきたことが議論の混乱に関係していると考える。世話する仕事への支払いという観点から[1992a]で検討した。 ★10 例えば世話する仕事の場合、それを担う家族は一般に負担の肩代わりを求めるのだが、世話されて暮す人にとってはその量が増えなければ意味がない。同じ量の仕事を誰が担うかという問題と、その仕事の量の増減が何をもたらすかという問題とは分けて考える必要がある。前者は1)格差にだけ関わるが、この仕事の量が増える場合、そしてこの仕事がただ生活を維持するための仕事である場合には、3)生産の拡大と競合することがある。このことは[2000a]でも述べた。 ★11 本節でみる賃労働する人としない人の区分けと次節で取り上げる待遇に格差のある仕事への振り分けの両方について、性別による能力差がない場合、それが買い手にとっての利益にならないことは――自明のことではあるが、このことについてさえ誤解があるので――[1994b]で確認した。 ★12 家事労働、とくに労働者を(再)生産する労働が無償であることからこの分業形態の不当性を言い、同時に、それを行わせる男・資本・国家――多くの場合、これらが曖昧に列挙される――による(不当な)利益の獲得にこの分業形態の成立・存続の理由を求める議論について[1994a]で検討した。この議論には様々におかしなところがあるのだが、近年の論調は、それに感づきながら、しかしそれを確認せず、それを通り越し、いつのまにかパートタイム労働や「ケア労働」の方に議論の場を移行させているように見える。 ★13 これは落合[2000:154ff.]の理解と共通する。そのことを述べた上で、落合はこれからは労働力が不足する時代だからこれまで通りではいけないと言う。向かうべき方向について同意するが、私は、全体として労働力不足になるとは言えないのでないかと考え、また不足でないのに不足とされる部分と不足しているのに不足とされない部分が同時に存在する状況が現われる、既に現われていると理解しており、その理解の上で考える必要があると考えている。次節でそのことを述べる。なお私は、労働力が余っていることは基本的にはまったく歓迎すべきことであり、失業の問題は、既に実現可能性を失いそして望ましいことでもない生産の拡大によってでなく、労働の分割によって対応すべきだとと考える([2003b]序章三節三・四「生産の政治の拒否」「労働の分割」等)。ワークシェアリングについて熊沢[2003]。 ★14 だから一方で自給的な農業など支払われない労働により生活の維持がなされることによって、他方の産業への安い労働の供給が可能になるという事態――これはこの時期にあり、また特にいわゆる開発途上国において現在でも広範に存在する事態である――における「不払い労働」の位置と、本節が対象にしている専業主婦の家事労働の位置とを同一視すべきでないと考える。 ★15 このことについても[1994a]でもう少し詳しく述べた。 ★16 統計的差別については[1997]第8章注2。 ★17 これがなぜなのか、「少子化」がなぜこれほど問題とされるかについて[2000a]で述べた。 ★18 この仕事の社会化、地位向上を言おうとする言説の意義と限界について[2000c]。「専門性」を論拠にすることについては[2000b→2000d:283ff.]でも論じている。 ★19 贈与という性格とその仕事が支払われる労働であることとが矛盾しないことについて[1995]姜他[2000]他。 ★20 cf.[2003b]序章三節七・八「国境が制約する」「分配されないもの/のための分配」、[2001a]。 ■文献(*のあるものはhttp://www.arsvi.comで読める) 安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店→1995 増補改訂版 姜 尚中・井上 泰夫・立岩 真也・中村 陽一・川崎 賢子 2000 「アンペイド・ワークから見えてくるもの――グローバリゼーション、ポストコロニアル、家族・地域」(座談会)、中村陽一・川崎賢子編『アンペイド・ワークとは何か』、藤原書店 pp.137-174 熊沢 誠 2003 『リストラとワークシェアリング』、岩波書店 落合 恵美子 2000 『近代家族の曲がり角』、角川書店 立岩 真也 1990 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」、安積他[1990:227-284]* ――――― 1991 「愛について――近代家族論・1」、『ソシオロゴス』15:35-52* ――――― 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」、『社会学評論』42-2:30-44* ――――― 1993a 「誰が性別分業から利益を得ているか」、関東社会学会第41回大会報告* ――――― 1993b 「家族そして性別分業という境界 ――誰が不当な利益を利益を得ているのか」、日本社会学会第66回大会報告* ――――― 1994a 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」、『千葉大学文学部人文研究』23:63-121* ――――― 1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」、『Sociology Today』5:46-56* ――――― 1995 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265] ――――― 1996 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」、『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126 ――――― 1997 『私的所有論』、勁草書房 ――――― 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下)、『思想』908(2000-2):65-88、909(2000-3):122-149 ――――― 2000b 「遠離・遭遇――介助について」(1〜4)、『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[2000c:219-353] ――――― 2000c 「過剰と空白――世話することを巡る言説について」、副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房,pp.63-85 ――――― 2000d 『弱くある自由へ』、青土社 ――――― 2000e 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」、『理論と方法』27:101-116→2004 盛山和夫・土場学・織田輝哉・野宮大志郎編『社会学の現在』(仮題)、勁草書房 ――――― 2001a 「国家と国境について」(1〜3)『環』5:153-164,6:153-161,7::286-295 ――――― 2001b 「停滞する資本主義のために――の準備」、栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知5)、東京大学出版会 pp.99-124 ――――― 2001-2003 「自由の平等」、『思想』922(2001-3):54-82,924(2001-5):108-134,927(2001-8):98-125,931(2001-11):101-127,946(2003-2):95-122,947(2003-3):243-249 ――――― 2003a 「<ジェンダー論>中級問題」(1〜3)、『環』12:243-249,13:416-426,14:416-425 ――――― 2004 『自由の平等』、岩波書店(近刊) 上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』、岩波書店 UP:20040429 REV:0507(リンク追加) ◇女性の労働・家事労働・性別分業 ◇立岩 真也 TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2003051.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |