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>HOME >BOOK (医療と社会ブックガイド・17) 立岩 真也 2002/06/25 『看護教育』43-06(2002-06):494-495 http://www.igaku-shoin.co.jp http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/ ■表紙写真を載せた2冊 ◆野口 裕二・大村 英昭 編 2001 『臨床社会学の実践』、有斐閣、318+ivp.、2000円+税 ◆樫村 愛子 19980623 『ラカン派社会学入門――現代社会の危機における臨床社会学』、窓社、340p.,2900 ISBN-10: 4906388698 ISBN-13: 978-4906388691 ※ [amazon]/[kinokuniya] ※ まず御挨拶。職場が変わり引越して、ホームページを変更しました。http://www.arsvi.comです。ラテン語でars vivendiは「生の技法」といった意味で、それがいわれです。 さて今回と次回は「臨床社会学」の本。最初取り上げようと思った本がまだ段ボール箱に埋もれているという事情もあるけれど、もう一つ、前回大熊一夫が学問が役に立たないことを嘆いていたのだが、臨床社会学は(臨床に)役に立つことを目指すものでもあるらしい、それをどう捉えるかというつながりもある。 有斐閣から2000年に『臨床社会学のすすめ』、2001年に『臨床社会学の実践』が出た。編者は大村英昭と野口裕二の二人、後者は野口・大村の順番になっている。他に、もうしわけなくも執筆時未見だが、大村英昭編『臨床社会学を学ぶ人のために』(世界思想社、2000年)、畠中宗一編『臨床社会学の展開』(現代のエスプリ、至文堂、2000年)。短い間にずいぶんたくさん出ているとも感じる。『すすめ』の序章「臨床社会学とは何か」で編者の大村もふれているが、「臨床社会学」という領域はアメリカにも以前からあるにはあって、ただ近年はそう活発でもなくおもしろいものではない、だからそれはそれとして、こちらで始めていこうというところのようだ。 目次などは例によってホームページに掲載した。いずれにも多くの文章が収録されていて、一つ一つについて紹介し検討したら散漫になるし、また分量が多くなってしまう。私なりに思うことを書こうと思う。『すすめ』の第1章「サイコセラピーの臨床社会学」で編者の一人の野口は、臨床社会学には二つの側面があって、一つは臨床と呼ばれる現象を対象とする「対象としての臨床」という側面で、もう一つは臨床現場・実践への貢献を直接追求するという「方法としての臨床」という側面だと言う。このことを下敷にして考えてみたい。 「対象としての臨床」の方から。この臨床という括りはどういうものなのか。一つに、野口から直接に聞いた話だが、医療というのでも福祉というのでもしっくりこない領域、あるいは両方にまたがる領域があって、それらを包括する語として「臨床」はよいという判断もあるようだ。例えば「看護社会学」というものもあってかまわないが、そうしていくと少し細かくもなり、むしろ隣接する部分といっしょにやっていった方がよさそうだ。そしてこういう領域についての「需要」が増えてきていることもまた確かなことではある。それで、そうした領域でも(もっと)社会学が仕事をした方がよい、仕事ができるはずだ、ということになる。こうした事情は、「ケア」という語の頻出や、「臨床哲学」といった領域を立てようという動きにも共通する。そしてそんな状況があるから、一定注目を集めるだろうという(出版社側の)読みも成り立ちうる。もう4冊本が出ているのにはそんな事情もあるだろう。 そんな章を含みつつ、『すすめ』は252頁の本に9章あって、家族、学級、保育政策、政策過程、等々が論じられる。一つ一つが短く、文章は短ければ短い方がよいという人もいるだろうけれど、私はいささかもの足りなかった。また『学ぶ人のために』の方も、目次を見る限り、かなり多様な主題が並んでいる。まずは一冊という意味があるにせよ、なにやら散漫な感じがしないでもない。 扱う領域が広いのがいけないということはまったくない。ただ、なんでもよいということになれば、とくに社会学の前に言葉を加える必要もないということにもなる。私自身はいささかもこの領域を背負ったりはしていないから、その未来を心配したりもしないのだが、そのようにして本が作られていく状況が続いていくと、その像が拡散していって、訴える力が薄れるという可能性はある。この辺りはこれからどのようになっていくのだろうか。 それに比して『実践』は11章構成だが全体の分量が多く、精神障害者福祉、老い、ホスピス、呆け、死別、子ども虐待、等、より普通に臨床といってイメージする領域、困難なことがありそれで具体的に人が出会う場所に着目する。「なおすことについて」という妙な文章を書いている私以外は、それぞれその臨床の場のまん中で、あるいは傍で仕事をしてきた人たちが書いている文章で、その場に存在する切実さが生み出す力のようなものがあって、読むと重めの手ごたえを感じる。 大雑把な印象はそんなところなのだが、ではそれは、一つに対象領域をある程度絞りながら、もう一つに「目的意識」をはっきりもったものであること、つまり野口の言う「方法としての臨床」というもう一つの側面、臨床に「役に立てる」ということが大切だということだろうか。 目的をよしとすれば、そのために役に立つことはよいことである。ただ、わざわざそういうことを言うにあたっては、社会学が外側、外野から好きなことを言ってるだけで役に立ててないという感覚がある。編者、とくにその一人の野口の苛立ちは私にもわかるような気がする。で私は、まずは野口の提起に賛成する。 ただそれは問題の対象もそれが解決されるべき方向もはっきりしていて、あとはそれをどう解決していくかだけだということでは――むろん野口はそんなことを言っていないのだが――ない。ここで急いでつけ加えると、そんな部分もあるのではある。精神病院の状態がとにかくひどいから、なにをしたらよいか、いくらも行なうべきことがある。ただ、その上で、というより同時に、「まだわからない」と仕方なく言い続けなくてはならない部分もあり、そしてそれは「対象としての臨床」という主題に再び関わってくるとも思う。 一つに、そこで「何が起こっているか」について知らないことがまだたくさんあるということ。ただこのことを言うだけでは、「それはそうでしょ」と言われるだけだろう。具体的に何を知らないのか、何がわからないのか、あげないとならない。そこで今回一つ、次回にもう幾つか、例示しようと思う。 副題にではあるが「臨床社会学」の語があるのはこの本が最初かもしれない。本の「帯」には「社会を読み解く技として誕生し、やがて細分化されすぎていった社会学。「臨床社会学」は、今、ここにある「ひと」を捉え、その生を支えることを目指す。」とある。ご存知のように、本の帯の文はたいてい出版社が書く。本人だと恥ずかしくて書けないようなことも書けるからだ。ただそれを見てすぐに(臨床に)役立つ社会学、と願って手にとると、その人は困ってしまうかもしれない。この本は著者の論文集といった性格の本であり、第1章がセミナーについて論じた本である他は、主体、他者、性、コミュニケーションについて考察が展開される。精神分析派の中でも難解をもって知られる(ということは私を含むほとんどの人は何も知らない)ジャック・ラカンの理論についての、『源氏物語』やアンゲロプロスの映画についての論考他が収録されている。それをこの連載で紹介する1冊とすることのいささかの無理は承知しつつ、しかし「こころざし」という古風な言葉をひとまず使うが、その強さから、表紙写真の方は『すすめ』でなくこちらの方にした。 樫村のセミナーの解読の妥当性はどうなのか、私は納得できたが、その評価は分かれるかもしれない。ただ一つ言いたいのは、私たちは、臨床について考えるとき、場合によっては、あくまで場合によってはだが、めんどくさくてもなんでも、こんなことも、こんなところまで考えないとならないのだということである。 そしてそういうかまえは臨床社会学の主唱者・首謀者の一人である野口の論考にもある。その著書『アルコホリズムの社会学』(日本評論社、1995年)については次回とりあげることにしようと思う。 ◇医療と社会ブックガイド ◇書評・本の紹介 by 立岩 ◇医学書院の(白石正明が担当した)本 TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002006.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |