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(医療と社会ブックガイド・16) 立岩 真也 2002/05/25 『看護教育』43-05(2002-05) http://www.igaku-shoin.co.jp http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/ ●表紙写真を載せた2冊 ◆大熊 一夫 1973 『ルポ・精神病棟』,朝日新聞社→1981 朝日文庫,241p.,480円 ◆大熊 一夫 1985 『新ルポ・精神病棟』,朝日新聞社,274p.,950円→1988 朝日文庫,331p.,520円 医療社会学を一回休む。とはいえ連続性はある。前々回紹介した『医療社会学を学ぶ人のために』(世界思想社)の「医療施設」で、金子雅彦は「医療施設の研究には、医療サービスの受容者、つまり患者サイドに立って医療施設の世界を考察するアプローチがある。日本ではこのテーマの研究は皆無に近い(ルポルタージュとしては、大熊一夫『ルポ・精神病棟』などがある)。」(p.92)と記した上で「欧米におけるこのアプローチを代表する研究」として前回取り上げたゴッフマンの『アサイラム』の紹介に移るのである。 1970年代に生きていた人の中には『ルポ・精神病棟』という本を覚えている人がいると思う。この本の著者、大熊一夫は、1963年から朝日新聞社で新聞記者、『週刊朝日』『AERA』に関わった後、1990年退社、フリージャナリストとなる。1998年から3年間大阪大学(人間科学部・大学院人間科学研究科)の教員(ソーシャルサービス論)も務めた後退職。今はまたフリージャーナリスト。 この本の経緯は大阪大学のホームページ掲載のインタビューでも語られている(www.hus.osaka-u.ac.jp/interview/interview05.html)。いつものように私のホームページからもリンクしたのでどうぞ。 そこで「世の中ほんとめちゃくちゃなことがあるもんだな、僕の知らないことがいっぱいあるもんだな、と思ったよね」と大熊は語るのだが、私はこの本をたしか中学生のときにどうしたわけだか読んだ。旧ソ連での強制収容所のことを書いたソルジェニーツィンの小説が話題になっていたりした時期でもあった。とにかく、げっ、という感じだった。私がいまの仕事をしていることになにがしかの影響を与えたようにも思う。 昔ふうの言い方でアル中患者を装って精神病院に12日間入院して経験したことを書いた記事が、1970年に『朝日新聞』に連載され、それが冒頭に来る。本はずっとその話のような記憶があったのだが、再読するとそうではない。むしろその部分は短い。この部分の印象がそれだけ強かったということかもしれない。 ただ一つ、調べたり書いたりすることの意味に関わり、この本(のもとになった連載)の反響について大熊が書いていることについて少し。 彼は連載への反応は大きく、その中には非難も多くあったことを書いている。そして自らの罪状を「一部の悪徳病院を誇大に取り上げた罪」、「一生懸命やってる人をがっかりさせた罪」、「暴露に終始した罪」、「政治が悪いからだ、といわない罪」の4つに分け(文庫版p.73)、それぞれに対して反論を加えている。例えば、第一番目については一部の病院の問題ではないこと、四番目については直接に医療に関わっている人が免罪されてしまうこと、等。また「あとがき」でも、「ある新聞の精神病院攻撃」について「書くほうは、精神病院をやっつければ、病院が向上すると考えている」と非難した上で、事実は逆で、よいところをとりあげてほめた方がよいのだと斎藤茂太が著書で書いているのを取り上げ、再反論を加えている。 後の著書『精神病院の話』でも大熊は次のように書いている。「過去一七年間、私は怨念の標的だった。「入院者の虐待」を問題視するよりも「入院者の虐待を指摘すること」のほうを問題視するというのは、あきらかな倒錯である。この倒錯がこれからも続くのかと思うと、気も重くなる。」(p.276) こうした部分もまた直接読んでもらうのがよいのだが、思うのは、今でもこうした反応は変わらないということである。それは多くの場合、「関係者」からある。一つは医療者、看護者である。一つには家族である。病院の他のまじめな職員の努力が無になるとか、業界で普通にやっている病院もいっしょにひどい病院にされてしまうとか、それで施設・病院に入れるのが肩身が狭くなるとか。 こうして「マスコミの扇情主義」を非難したい気持ちはわからないではない。しかし、全体のイメージが下がってしまうからというような言い方で、一部の(かもしれない)やはりひどいとしか言いようのないことが隠されてきたことがいくらもあることは否定できない。わるいことを指摘すること、暴露することは、その事実について間違っていない限り、大切だと考えるよりないと、やはり私は思う。そして結局、そういうことを、業界の外側にいる人たちでない当の業界・学界内部の人たちが、どれだけ言えてきただろうか、言えるだろうか、と思う。 ただ、この本を書いてしまった大熊は、外野の、無責任な、一時的な、扇情主義者ではいられなかった。わるいことばかりあげつらうという非難は彼には当てはまらない。すでにこの本ではいくつかの改革の試みが取り上げられている。そしてその後もずっと取材を続け、ずっと書き続けていくことになる。 『ルポ・精神病棟』の刊行から12年後、新聞連載の15年後の1985年に出された『新ルポ・精神病棟』では、栃木県の報徳会宇都宮病院の事件のことがまずとりあげられる。石川文之進というとんでもない医師・経営者が経営していた、看護人他による患者のリンチ死事件他で有名になったその病院のことは誰もが覚えている、知っている、だろうか。心もとないものがある。 また、『精神病院の話』は『ルポ』冒頭に収録されている『朝日新聞』の記事や『新ルポ』の前半にある宇都宮病院についての『週刊朝日』の記事等、本になったものを含む、大熊の書いた記事が掲載年月日入りで再録され、それに大熊自身による後日談とでもいった性格の「ノート」が付されている。 そして同時に、これらの中でもさまざまな改革の試みが取材され紹介されている。大熊も、日本に比べてまともなところとして外国、とくに北欧の国を取材し書いている。大熊由紀子――知らない人もいるが、そして知ってどうなるというものでもないが、両人は夫妻である――のロングセラー『「寝たきり老人」のいる国いない国――真の豊かさへの挑戦』(ぶどう社,1990年)もそうした本である。ただ、知っている人には知られているように、精神医療ではイタリアがおもしろい。『精神病院の話』の後半では、イタリアでの精神病院をなくしていく改革が取り上げられている。 そしてより多く国内での試みが紹介されている。『新ルポ』の第U部は「「宇都宮病院」をなくすために」で、本全体のちょうど半分の分量が、もちろん斎藤茂太に言われたからではなく、様々な精神病院や地域での活動の紹介に割かれている。病院でないところで有名な(はずの)ところでは埼玉の「やどかりの里」とか、私がおもしろいと思うのでは四国・松山の「ごかい」――「病」者の本出版委員会編『天上天下「病」者反撃!』(社会評論社,1995年)といった本をそのうち紹介できればと思っている――とか。 彼がこういう本を書いていく理由はまったくはっきりしている。いまある状態がひどいからであり、だからなんとかしようと思ってそれで書く。異議はない。さて「学者」は何をするか。大熊は前記のインタヴューで、学者の作品は「味も素っ気もないものになっている。つまらない文章ばかりだし、こんな研究して何で障害者のためになっているのかわからないようなものばかり目立つ。」と言う。そうかもしれない。 もちろん、統計的な調査がこうしたルポルタージュと並存し互いに補って意味があることはあるだろう。では、前回取り上げたゴッフマンの著作のような質的調査、フィールドワーク、エスノグラフィー、エスノメソドロジー…、などど呼ばれたりするものはどうだろう。私は、ジャーナリズムの作品とこれらの間になにが違うというほどはっきりした違いはないし、またある必要もないと考える。ただ、大熊の批判を肯定しながら居直るような妙な言い方になってしまうのだが、衝撃・感動・…をとりあえず与えなくてもよいという自由が「研究」にはあって、それがうまくいった場合には利点になるとも思っている。このことについてはまた別の機会に書こう。 ◇大熊一夫 ◇精神障害 ◇医療社会学 ◇書評・本の紹介 by 立岩 ◇医学書院の(白石正明が担当した)本 ◇BOOK TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002005.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |