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――障害者の労働と雇用の基本問題―― 立岩 真也 2001/12/25 『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所) http://www.ipss.go.jp/ ■I 問いの場 本稿でできないのは、一つに現在の状況の分析と具体的な指針についての検討であり★01、一つに、これまで何が問われ何が主張されてきたのかを辿ることである。とくに後者はこれまであまり記述され検討されたことがないが、重要な課題だと思う★02。 ここでは考えなくてはならないと思う基本的なことのいくつかについて初歩的な確認をするだけのことを行なう。障害があることの意味の少なくとも一つ、大きな一つに、できないということがある★03。そして労働とは何かができてそしてそれをすることである。とすると障害者の労働・雇用とはどういうことなのか。労働の場での障害者の排除、格差の設定は――すべきでないこととしての――差別なのか。たしかに就職に困難があるのだが、それが不当であるかどうか自体が問題になる。 障害者と雇用という問題を問うことは、労働市場をどう評価するか、その介入はどのような場合になぜ認められるのかを問うことに等しい。このことについて学の側も社会運動の方もはっきり言えていない部分があると思う。それは基本的な問題であるとともに、やっかいな問題ではある。しかしそれを考えないと、議論は建前に終わり、空疎なものになるだろう。だから考えることになる。 労働の場は働くことが求められ、機能・能力が問題になる場である。そのことと相関的に、労働に関わる場における差別(と言われうるもの)の現われ方を、ひとまず、3つに分けることができる。その場で求められているものに差はない。差はあるかもしれない。差がある。この3つである。ひとまず、と述べたのは何をもって差があるとするか、この境界も含めて問題になる、あるいはその境界こそが問題になるからである。 (1) 第一に、そこで求められている能力と関わらない差別がある。例えば雇用主が人種差別主義者で、自分の気にいらない人種の人を雇用しない、等。これに対して、競争が働く市場の中でそんな採用の仕方をしていたら、その企業、雇用主はかえって不利になるはずで、市場での競争によって淘汰されていくはずだとも考えられる。属性に関わる差別が近代社会において徐々に減少していくだろうという観測も、一つにはこのような了解から来ている。しかし現実は必ずしも予測通りにはならなかった★4)。この要因が有効に働くのは一定の条件下である。もちろん、機能の関係しない場では依然として排除、差別は行われるのだが、機能・能力が求められそれが差別を抑止する可能性のある場でも、差別することで競争に負け完全に淘汰されてしまうほどこの要因が強く働くことは少ない。まず雇用が行ななわれ人が働く場でも、消費者のことを気にかけたり財の質と価格を気にしたりする必要が少なく、それで事業が成立するような組織では能力以外のものを評価から排除する誘因は小さくなる。総じて、差別することによって得られる快が、差別しないことによってもたらされる利益を上回るなら差別は続くだろう。 (2) 次に「統計的差別」と呼ばれるものがある。とくに常雇用の場合には、先物を買うという性格が強い。どれだけの価値があるのか確実にはわからない中で判断せざるをえない。完全情報の仮定は多くの場合に仮定にとどまり、むしろ不完全な情報によって選択せざるをえない。その場合に、その人が属する集団についての情報によって判断することがある。女性差別や学歴差別にはこの要素があるだろう。女性は出産・育児を巡る社会的条件・規範に関わり早く退職する可能性が高く、そしてその可能性を雇用時に個別に予測することができないとしよう。すると他の条件が同じなら、まとめて雇用しないあるいは雇用の条件を違えることが生じうる。そしてここには雇用条件の格差〜退職〜格差、という循環が引き起こされることにもなる。また学歴差別では、とくに新規採用の場合に他に仕事ができるかどうかを知る手がかりが少ないことが要因になる。その中である程度の正の相関がある要因なら、それが仕方なく採用されることになる★5)。 身体障害ならできることできないことがある程度はっきりするがいつもそうではない。例えば精神障害のある部分については、様々な要因が絡み、仕事がうまく続けられる場合もあるが、そうではない可能性、確率が他よりも高いことがある。それを理由として雇用されないことがある。雇用に限られない。ある集団は犯罪を起こす確率が高い、あるいは高くないといった議論やそれに関わる実践にも関わる。それをどう考えるかという議論が十分になされてきたと思われない。 これは悪意がなくても起こる、ときには偏見がなくても起こる。雇用する側にすれば合理的な行動であり、悪意はない。しかし悪意のあるなしは問題のあるなしに重ならない。確認しておくべきは、ここに生ずることが、本人に非がないにもかかわらず不利に扱われるのだから、やはり否定されるべきものとしての差別だということである。その確認の後に、確率を用いることをどこまで実際に禁じられるかという問題が続く。そして確率を用いずに直接に評価できるようにすればよいというのが一つの解決法である。また、ある集合について認められる差異が社会的に、そして妥当な方法で解消あるいは軽減できるなら、それも――例えば女性が仕事を継続できる条件を整えることも――一つの方法になり、この場合には本稿のVで述べることに連続する。これらの正当性と実現可能性を検討することが課題になる★6)。 (3) これらと境界を接してその人の能力による選別、格差の設定がある。仕事ができない人は雇われない。少なくしかできない人は少なくしか受け取れない。ここではこのことについて考えるが、例えば(1)の側から考えていっても、その境界の設定自体が核心的な問題である。とくに直接に消費者に対する仕事で、客が太ったスチュワーデスや、年をとった店員を好まず、そんな客が多いと客が減るといった場合があるとしよう。その人は求められている能力を有していないから雇用されなくてよいあるいは馘首されてよいとすべきか。それは「本質的な能力」ではないからそんなところで評価してはならないと主張はできようが、能力とは消費者に求められているものであるとするなら、それこそが求められている能力だと反論されるかもしれない。こんなことも念頭に置きながら考えてみることにする。 ■II できること・と・とれること 事故で足が動かなくなった会社員のAさんがいる。新規採用の場合でもかまわない。その人は事務の仕事をしていて、またはすることになっていて、車椅子を使えば仕事ができるが、そのための環境がその会社にはなく、それを整えるコストを考えると同じだけ仕事ができる他の人を雇用した方が得なので、その人を雇用・採用しない。これは不当か。他方、Bさんは頭がしかるべく働かない。ある仕事をするには一定の知的能力を必要とする。それでその仕事ができない。それで採用されない。またCさんは、そこで求められている仕事をすることができるが、しかし他の人の倍の時間がかかる。それで雇用されない。 この3者の扱いについて、人によってはどれにも問題がないと言うかもしれない。人によっては、Bを雇用しないのは仕方がない、Cも遠慮してもらうしかないが、Aを解雇したりするのはよくないと思うかもしれない。とするとどこが違うのか。一つに思うのは、怪我したことについてその人に非はないではないかということである。事故なのに、足が折れただけでその人を解雇するのはひどい。しかしそれはBについても言える。頭がうまく動かなくて仕事ができない。このことについてもその人に非があるわけではない。その限りでは同じである★7)。どのように考えるべきなのだろうか。 まず、できること、行なうことについて。少なくともその仕事が誰かの利用のためになされるものである限り、使えるものが生産されなくてはならない。使えないものは使おうとしても使えない。むろんそれが使えないと思うのもその人の欲求に相関的ではあるから、絶対的なものではない。また、その相手が望むものを生産できないことについてその人自身が責任を負う必要のないこともある。自らの意のままにならない部分として障害を捉えるなら、少なくともその部分についてはそう言いうる。ただ、以上をふまえた上で、その人ができないことがあり、その人に求められないことがあり、そのこと自体はよいもわるいもなく、ただ認めるしかない部分は残る。そして仕事をしてもらうとき、それが得られることが目的であり、それが是認されるなら、仕事ができる人の方にそれを行なってもらう。ここでBがその仕事につけないことは、その仕事ができないのだから、認められるしかない。 しかしこのことは、できること・行なうこと・得ることの関係について、仕事ができ、それで仕事をし、そしてそれに応じてその生産物を取得する、あるいはその対価を得るというつながりを当然のこと、正しいこととすることではない。近代社会は業績原理・能力主義を積極的な原理としたのだが、そこにはまず2つの意味があって、その一つは人の配置原理としての業績原理、適材適所の原理とでも呼びうる原理であり、もう一つが取得・所有に関わる原理としての業績原理・能力主義である。この2つは、ときにいっしょにされてしまうのだが、分けて考えなければならない。後者を分けて取り出し、そしてこの部分についてその正当性を吟味することが大切であり、それを考えるか考えないか、どう考えるかによって答はまったく異なってくる。 このことについて言われてきたことを検討し、考えてみると、自己の生産物の自己による取得の正しさを言うことができないことがわかる〔立岩 1997,pp.25ff.〕。それは権利ではない。もちろんそう考えない人もいるからこれは議論になるが、この結論は動かないと考える★8)。ゆえに、AもBもCも、十分に生活のためのものを受け取れないことを、正当で当然なこととして受け入れなくてはならないことはない。 その代わりにどうあればよいか。暮らすためには消費することは必要で、そのために生産、生産のための労働は必要である。まったく原則的には、生産と消費とが別の原理でなされればよい。つまり、人は能力に応じて働き、必要に応じてとる。仕事は仕事ができる人がする。生活は生活したい人が生活する。一番基本的にはそれでよい。 ただ実際にそれがどこまで可能かという問題がある。益がなければ働かない、労少なくして多く得られればそれがよいという心性、行動を前提するなら、人の労働を引き出す手段として、多く生産した人が多くとれるという機構が有効であり、それをどれほどかは採用せざるをえない、格差をつけることを仕方のないこととして認めるしかないという立場をとらざるをえないことがある〔立岩 1997,pp.41-50,335ff.〕。そして、人が今述べたように行動するなら、市場は自生的にそのような格差を生み出す。そこで、それに介入しつつ、そのいくらかを認める。一つに、市場を認めながら、そこから徴収しそれを再分配するという方法をとることになる★9)。これは所得保障、公的扶助がなされることを前提とした上で、それを条件に、ある程度の差別を、それが正しいからという理由によってではなく、生産と消費のための手段として認めることである。市場は市場としてそっくり残し、あとは政治的再分配で対応するというこの方法は、なかなかすっきりとはしている。だが、それが唯一の形態ではなく、一番よい方法だと決まったわけでもない。 ■III 分配ではたりない ここで問われていることは、一つには、市場は市場として置いた上で他の場で対処するという方法と、市場内部に介入すること、このいずれがどのような場合にどの程度、望ましいのかである。そしてこの問題は、生産から消費という過程のどこに介入するかという問題の一部でもある。そこでは機会の平等と結果の平等といったわかるようでわからない言葉をどう捉えるべきかも考えるべきことになる★10)。 いったん述べた方法ではすまない、すませるべきではない理由、そして別のあり方が可能になる条件がある。 一つには、この分配の方式に基本的な限界があり、それは仕事を得られない人の側の不利になることである。現実に今この国で支給されている生活保護や障害者年金では生活するのに足りないということもあるが、それがもっとまともな額になったとしてもやはり、その他の人々より受け取りが少なくなる。所得保障によって支給される水準は最低限度にとどめられる。これを解消するのは難しい。労働への動機づけを与えるために、労働しない人よりも労働する人が多くを得られるようにすること、その傾斜をつけないと人はより多く働かないとしよう。とするとこの水準の設定はそこから導かれてしまうのだった。 それに対し、私はやる気がないのではなくできないのだと言うことはできる。できたくてもできない人とできるがしない人を分け、しない人はできない人よりも少なくしか受けとることができないようにすればよいだろうか。しかし両者をどうやって区別するのか、そしてそれを判定することがよいことかという問題もある。また、働く人はそれなりの苦労をしているという事実は――働けない人は苦労したくてもできないというのはその通りだとしても――残る。とすると、それに応じて受け取りを多くすることは認められてよいとも言いうる。最低限度というその水準自体を上げることはできる。また各自が受け取るものの差異を少なくし、傾斜をゆるやかにすることはできるし、そうすべきであることがここまでの論から導かれる。しかし最低の水準になること自体は動かない★11)。 こうして分配されるものを受け取るだけではその受け取りは最低限であることになってしまう。それは現実にそうだというだけでなく、いま述べた説明を受け入れるなら、動かしがたいところがある。それでよいならよいが、少なくとも人によってはうれしくない。もっと稼ぎたい人もいる。とすると、働けた方が多くを受けとることができてよい。だから当人にとっては、労働への参加を求める一つの理由はより多くが欲しいからである。 もう一つ、お金のためだけでなく仕事をしたい、その場に参加したいという要因がある。仕事は労苦ではあるけれど、それだけでもない。おもしろいこと、楽しいことがあることもある。働けないとそれが得られない。仕事ができること、参加できることの意味のために働きたいと思ってしまう理由は私たちの社会が労働に重きを置いているからだと主張することもできるだろうし、それには当たっている部分があるだろう。人の価値が労働・生産によって表示されるというのが、能力主義・業績原理の第三の意味だが、これを受け入れる必要はない。またそれを受け入れないことは、仕事ができなくても雇われなくてもそれはそれで仕方がないと言えるための条件でもある★12)。しかし第一に、それだけだと言い切ることはできないだろう。第二に、そう思う必要はないとしてもそう思ってしまっているということはあり、そのことについてその本人に責任はない。仕事がなくなれば、あるいは得られなければ、収入が少なくなる。仕事に生きがいを感じていたのにできなくなる。それはいやだ。以上の二つがあることを述べた。 できなければ、できないものはできない。それはそれですっきりしてはおり、その上であくまで再分配を求めていくしかない。また楽しみとしての仕事という面については別の楽しみを見出すことになる。他の人が対価を払って求めるか求めないか、本来どちらが優れているというものでもない。ただ実際には、まったくできないということはそうはない。できる/できないの度合いは様々である。一つ、その仕事自体は他の人と同等にこなすことができる。それを妨げているのは環境であり、環境が整えばできる。これはAの場合である。一つ、ある程度のものは作れたり、2倍手間をかければできることがある。これはCの場合である。実際には同じ人がAでもありCでもあることがあるだろうが、ここでは2つを分けて考えることにする。できなければ腹を括ればよいのだし、それは、一人ひとりが暮らせればよく、そのために働ける人が働ければよいと考えればまったく悔し紛れでもなんでもない当然のことなのだが、他方、自分でできることがあり、そしてそれを生かして多く稼ぎたかったり、仕事を楽しんだり、ときには人を喜ばせたいと思うこともまた当然のことではあり、両者は両立してある。 次に雇う側について。その者は、働く側が受け入れるからといって、また受け入れざるをえないからといって、どのようにも条件を設定できるとすべきでない。それを制約する条件として、人の配置に関わる能力原理も認められる。一つには、仕事を行なうにあたっての条件を広くあるいは狭く、恣意的に設定することで、その人の存在のあり方を毀損してはならないからである。雇用主が自分の好みで人を採用することは、そんなことをしていたら企業の存続が危うくなるという理由からだけでなく、認められない。このことは消費者の側についても言える。仕事の遂行に中心的な部分を定め、それ以外を評価すべきでないとする★13)。Iの最後に挙げた事例についての答は、ごく基本的には、こうなる。もう一つ、働くことを求めることは上述したように認められるべきであり、その望みに応えられない場合は限定的であるべきであるからである。その仕事ができなければ仕方がないが、できるのであればそれを受け入れるべきであるとする。 ■IV 半分できる人のこと 同じ仕事が短い時間でできる人もいるし、多くの時間を要する人もいる。仕事の中には短い時間で仕上げないと困る仕事もあり、この場合には手早くできないことはすなわちその仕事ができないということになるが、そうでなくゆっくりであっても仕事の結果自体には影響がない場合もあるだろう。そのような場合にはどうなるのか。 これは所得の分配のあり方を考えるときどこに介入したらよいのかという問題でもあり、雇用・労働の分割・分かち合い(work sharing)というアイディアをどう考えるかという問いでもある。同一労働同一賃金という、困難を含みながら、しかし重要な主張をどのように考え、どのように実現していくかということでもある。 これはどんな価値前提を置くのか、どんな状態を望ましいとするのかにもかかってくる。またどのような制度的条件を置くのかにもよっている。生産が必要ならそのための労働が必要であり、次に一人当たりの労働が少ない方がよいと考えるなら、多くの人が働いた方がよい。この単純な意味において、多くの人が働くことはよいことである。IIIに述べた以外にこの理由がある。 半分の速度で働く人に同じだけ払ったら雇う側としては利益が減ってしまうが、半分の人には半分しか払わなくてよいとしたらどうか。仕事を半分する二人の人一人ずつに机を与えるより全部する一人に一つの机を与えた方が安くすむと言われるかもしれないが、ならばそれらの費用も計算に入れて半分ずつ生産する二人分と一人分への支払いを同じにしたらどうだろう。それが実現されるなら、雇う側にとっては同じになるはずである。むろん半分では暮らしていけず、それは今まで述べたところからは正当化されえないのだが、その部分については分配によって対応することになる★14)。いくらかは働く人は、そのいくらかの分が「最低限」に上乗せされることになる。つまり、分配が前提とされた上で、市場で仕事に応じた支払いが許容される。労働という商品は他の商品のようにそのような価格の付けられ方がされないと言われる。しかしそれは分配が背後に存在しないという前提で起こることだろう。でなければ事情は変わってくる。半分しか働かない人に半分しか出さなくてよければ、その人はその半分の賃金で雇われるかもしれない★15)。より少なく働く人も市場に受け入れられるなら、労働の分割というそれ自体は望ましい状態の方に向かう。 他方、労働者の側にとってはどうか。仕事を得られた人が収入を得られる、多く働く人が多く取れるという規則になっているとき、長い時間働いてもそれで得られるものが多くなる方がよいと思う人にとっては、他の人を働かせず自分が余計に働いてその分を自分のものにできるのが望ましく、他の人が自分の仕事に参入してくることは歓迎されないことがある★16)。しかし、もし働く働かないにかかわらず分配がなされることになっているのであれば、働いてもらった方がよい。生産・労働の総量を一定とすればそれだけ働かずにすむ人もでてくる。つまり、基本的に分配を行われるべきとする前提をとるなら、ただ分配を受け取るしかない状態に人を置くより生産・労働を担ってもらった方がよいのだから、労働を一部の人が独占するよりも多くの人に分割した方がよいということになる★17)。 ■V 周辺を補うこと その人が仕事を行なうことにともなう費用は常にかかるのだが、ある人に余分にかかる費用がその人に帰せられるなら、また雇用主に帰せられるなら、その仕事ができない、その人が採用されないあるいは同じだけの待遇を得られないことがある。それが不当であることについてIIIで述べた。しかし市場には、その人ができることとその人ができるにあたっての条件とを分け、後者を補う装置はない★18)。そこで、当該の仕事の本質的・中核的な職務の遂行能力によって採否を決めること、待遇を定めることを認めるが、それ以外の部分については補われるべきものとする。 本質的な部分とそうでない部分とを分けることが実際に可能だろうか。この区別は相対的だと言う人もいるかもしれない。だが、ときにその境界は微妙だとしても、それは区別がないということではない。容易でないことは可能でないことを意味しない。ただ、区別が可能であるとは、なにか目に見える線がそこに引かれていることではない。これは人、人の労働を必要とし使用することに関わる規範・倫理の問題である。求められていることができるのであれば基本的には採用すべき、排除すべきでないとする立場に立つか、それとも逆の方から考えるか、どちらの側から区別するのかという意志が関わっている。前者をとるべきだとした。 では補うことをどこまでも認めるべきか。例えば職場における介助をどう考えるのか。その費用がその人の生産を上回ることもあるかもしれない。一人分の労働のためにもう一人分の労働が必要となるなら、それは無駄というものではないか。またCの場合にしても、時間がかかるために、その活動を支えるための費用が算出するものを上回ることがあるかもしれない。 しかし仕事につかずに暮らしていても介助は必要である。そして人並みの生活を維持できるだけの費用が社会的に支出されるべきだとしよう。きちんとそれを行なうなら、一人分の生活のためにもう一人分の労働が常に必要なことがある。その水準と比較することになる。暮らすことに一人の人が必要であるとき、同じく一人の人の介助を得て生産活動が可能になるなら、また働く上での費用が、働かずに暮らしていくために必要な費用より多くかかるとしても、それを補う利益があるなら、それは費用と便益の計算からは正となる。 そうでない場合も考えられる。その人が暮らしているのに必要な費用の方が、その人が働くためにかかる費用から働いて得られるものを差し引いたものより少ない場合もあるかもしれない。人的資源の絶対的な限界、例えば人の世話をきちんとしていたら社会が成立しなくなるといったかなり空想的な状況を考えるなら★19)、すべての場合について認めるべきだとは言えないかもしれない。そして、その仕事の結果を必要とする相手があって成立する仕事があり、そのことを含めて考えれば、仕事をする権利は生活する権利と等しくはないだろう。しかし仕事として成立するのであれば、それを人並みに行なう権利はあると言える。とすると、仕事をするにあたっても介助は認められ、生活するのと等しくそのための費用を受け取ることができると考えることになる。 それを誰が負担することにするか。個々の雇用主の側に負担させることを義務づけてよい場合もあるだろう。公共交通機関にエレベーターをつけるのを各機関の負担とするのと同じである。例えば各社にほぼ均等に応募があり、雇用にあたっての費用が変わらないなら、個々の企業に対応させても問題はそうない。その費用は最終的には商品の価格の一部となり、消費者が支払うことになるとして、各社の商品1単位あたりに含まれる費用に差がなければ、企業間の競争で費用をかけた方が不利になることはない★20)。ただこれは義務とすることが前提になる。義務としなければ費用負担から逃れることができ、その結果、雇用しない方が有利になることがあるからである。 しかし費用負担が偏ることがあり、それが雇用をためらわせることもある。また、雇用の費用が商品の価格に転嫁される場合、その商品がすべての人が使うものなら結局それは税金として払うのとそう違わない。そして、そうでない場合には商品を買わない人には負担がないが、その人たちにも義務があるとすればむしろ政府が徴収し費用を支給すべきだとなる――これは個々人に責任がないという主張ではなく、個々のすべてにあるという主張である。こうして、負担の義務化だけでなく、費用の直接的な社会的支給が求められる。 ■VII 禁止と割当て 分配と働くための条件の提供。それが十分になされればそれで済むとも言える。だが実際には常に十分ではない。その時に取られる手法として2つがあげられる。どちらがよいのかは実際にそれがどのように行なわれ、どのように機能しているのかによるから、2種類のモデルを一般的に考えるだけでは評価できない。ただ基本的に言いうることを確認しておく。 その一つは禁止である。当該の仕事の本質的・中核的な職務の遂行能力によって採否を決めること、待遇を定めることを認めるが、それ以外を考慮し、それを理由に採用しないこと、格差をつけることは認めないとする★21)。 それでうまくいくか。この方法の問題は、それでも依然として採用する/しないという選別と格差の設定自体は行なわれるから、そこで行なわれること一般と上述してきた意味における差別とを区別することが困難なことである。雇用主は選別し格差をつけた理由を明らかにしないこともあるだろう。その理由を報告させることが有効であることはあるが、しかし結局はっきりはしない部分は残るだろう。採用する側は別の理由を言うこともできるのである★22)。 思い起こせば、アファーマティブ・アクション、割当て制の主張は、このことの認識にも発している。いわゆる機会の平等では十分でないという認識があって、そこから主張された。だから割当ての方が古い発想なのではない。むしろ新しいとも言える。 ただこれも十分ではない。日本に現実に起こっている問題は、つまりは法定雇用率を守らない雇用主がおり、そしてそれがわずかなお金を払うことで許されてしまうことなのだが、達成されるとすればどうか。仮に雇用率を障害者が人口に占める比率と同じ率とし、それが遵守されれば、すべての障害者が雇用されることになる。しかし実際にはそうはならず、その場合、雇いやすい方から雇用していくということが考えられる。それに対して障害に応じた費用の支給があるわけだが、それが十分になされ、十分な効果をあげることをなかなか期待できない。また一つ一つの、とくに小さな規模の組織をみれば、障害者を除外しようとしたのではないが、結果として適切な人材がいなかったという場合がある。それはしばしば言い訳でしかないのだが、実際にそんなこともある。そこで小規模の組織については雇用率の適用除外とすれば、今度は雇用されなくなる。 もう一つ、雇われようとする側の問題として、自分は仕事ができるから雇われたのではなく、障害者だから採用された、法定雇用率を満たすために雇われたのだと思う、その疑念を払拭することができないことがある。雇用に際して助成金が払われるといった場合には、それが目当てで雇っているのではないかと思えることもあり、実際にそのように扱われることがある。気にすることはないと言えるだろうか。自分では雇われたのは当然だと思っても、まわりはそう思っていないこともある。実際そう言われることがあり、言われているのではないかと気になる。しばしば「逆差別」が指摘される。とすれば気にしなければよいと言ってすむものでもない。 だから、禁止と割当てを組み合わせるという方法もある。雇用における本質的な職務に関わらない部分での選別・格差の設定を禁止するとした上で、それが実現されているかどうかの指標として雇用率を見、それに基づいて対処するといったことが考えられる。けれども、たんに割当てられ、雇用率が問題とされる場合には、費用が個々の雇用主の負担となるなら、その雇用主はやはり障害の軽い、負担の軽い人から採用していくだろう。それを抑えるべく、できるかできないかだけを基準にすることを課し、雇うことになったとして、今度は職場に居づらくさせられることもある。禁止も割当ても費用負担の問題の解決とともになされねばならない。 以上、ごく基本的な、むしろ初歩的な事々を略述した。考えるべきことはまだいくらもある。 ■注 1) 様々に派生するこの主題の全容を、その具体的な部分を落とした上で、先行業績への言及を一切省略させていただいた上でなお、論じることができない。その代わりにはならないが、私がこれまでに書いた関連する文章を注で示す。他に、関連する情報をホームページhttp://www.arsvi.comに掲載している。「50音順索引」の「障害者と労働」、他に「欠格条項」「能力主義」「ADA」等。関連文献もそこに掲載する。 2) 障害者福祉政策はまず、「職業的更生」を目指す、働けるようになるための施策だった。そしてもちろん当人たちも職業的自立を求め、そのための施策を要求してきた。とともに、そのようでしかなかったことに対する反発として運動の展開もまたある。完全になおってしまうのでなければ(それは障害者でなくなるということである)がんばっても結局一人前にはならない。そして働けるようになる見込みのない人は取り残される。口と手が動くなら他の人とそう変わらずに働くことができる。だが例えば手が使えず言語障害がきつい脳性まひの場合にはそう簡単ではない。そしてそこでは、できるようになるために人より多く支払わねばならない労苦は当然のこととされ、それが成果をあげなかった時にはそのままに置かれる〔立岩 2001c〕。だから労働の場からの撤退という路線があった。働けなくてかまわない、「ただ飯食い」を肯定しようというのである〔安積 1990,pp.28-29〕。と同時に、障害者にしつらえられた場を否定し「一般就労」を主張する運動があり、さらに「協働」を掲げ自らが働く場を作ろうとする運動があった。問題の複雑さを示すこうした多面性を記述しつつ――私自身は〔立岩 1990〕〔立岩 1998〕にわずかのことを記したことがあるだけだ――その上で考えていく必要がある。 3) 一般に障害と呼ばれるものに関わってだけでなく、人にできる/できないの差はあり、それには解消されない部分があることを、たんにそのように言うことの危険性を承知した上で、つまり能力の有無・差異が人に求められることにおいて顕在化するものであることを承知した上で、また以下に記すようにその意味が社会の中での労働と所有の関係や働くための条件によって変わってくることを踏まえた上で、認めながら考えていこうというのが私の立場である。障害があることが「ないにこしたことはない、か」について〔立岩 2002〕。 4) 「差別の経済学」と呼ばれるものがこの認識から現われてくる。経済学の前提からは市場にあるはずがないものがなぜあるのか。それをさらに経済学的に考えようとするのであり、その答の一つが次に述べる「統計的差別」ということになる。〔立岩 1997,pp.367-369〕でいくつかの文献をあげて簡単に紹介した。帰属・属性について、これらに関わる排除・差別について、それと近代社会との関係について考えるべきことがいくつもあることについて〔立岩 2001b(3)〕〔立岩 2001d〕。 5) 〔立岩 1997,pp.367-369〕で学歴・性別に関わる差別に簡単にふれ、〔立岩 2001a〕で前者についてもう少し詳しく説明した。労働の場における性差別について言われていることを基本的なところから吟味する必要があることを〔立岩 1994〕で述べた。また「統計的差別」もまた否定されるべきものとしての差別であることは〔立岩 2001b(3)〕でも述べた。 6) 欠格条項をどう考えるかという問題はこういう問題でもある。欠格条項の撤廃を求める運動は、運転のできない人が運転免許をとれるようにという主張をしているわけではない。なぜ制限されているかその理由が見出せないものもある。また障害があるからといって、一律にあらかじめできないと決めつけることはできないのにそのように規定されているから、その撤廃を求めている。すぐになくすべき規定がいくらもあり、そのための活動の意義がある。だがやっかいな問題もその彼方にある。むしろ既に内在している。それを知りつつ、しかし今なすべきことがあって、その活動は行なわれている。上記したホームページに若干の情報があり、活発で重要な活動を行なっている「欠格条項をなくす会」のページにもリンクされている。なお本稿での作業は、こうした権利のための/権利についての活動を研究する科学研究費・基盤研究(C)12610172の一部でもある。 7) 選択できること/できないこと、本人の責任であること/ないこと、社会的分配の対象になること/ならないこと、これらの区別がときに誤ってなされ、誤って関連づけられていることについて〔立岩 2001-2002(4)〕で述べた。 8) リバタリアンの所論を検討しつつ〔立岩 2001-2002(1)〕でもう少し詳しく論じた。 9) もちろんそれを見越した上での反作用も生ずる。つまり、再分配によって調整された結果が実際の個人の持ち分で、それが個々人が働く誘因となるから、分配後の取り分を見越した形で市場ではより大きな格差が設定されることになるだろうというのである。この少なくともいくらかはもっともに思えるこの指摘については、ここで定見を示すことができない。 10) この主題について、本稿にあげた論点を含め、〔立岩 2001-2002(5)〕で検討している。 11) 労苦に応じて、また例えば労働時間に応じて分配するという方法もありうる。〔立岩 2001-2002(1),p69〕とその注で少しふれたが、その意義と困難について言うべきことはいくらも残っている。 12) 〔立岩 1997,chap.7〕に示した能力主義I・II・IIIは、これまであげた人の価値の表示・財の所有の原理・人の配置の原理としての能力主義・業績原理の3つにほぼ対応する。 13) 「能力以外を評価しない」理由について述べた〔立岩 1997,pp.348-351〕でこのことをもう少し詳しく述べている。 14) これはそれをどこで渡すのがよいかという問いに直接に答えるものではない。社会的分配の部分も雇用主を介し給料に含めて渡すのがよいという主張もある。 15) だから最低賃金を法で定めるのは間違っているという主張があるが、たんにそのことを主張するのとここで述べた立場とは異なる。 16) 設定される条件によっては、労働者の排除が労働者によって支持されることがあることを無視すべきでない。労働の場における女性差別に関してこのことを〔立岩 1994〕で述べた。分配が前提となった場合に事情が変わることについては〔立岩 2000a(下),pp.127-128〕。 17) これは労働の分割についての基本的な立場でもある。労働力は不足しているのか過剰なのか、こんなことについてさえ矛盾したことが平気で言われているのだが、私は後者であると考え、それに生産・消費の増大によって対応すべきでなく、労働の分割によるべきであることを〔立岩 2000a〕〔立岩 2001a〕で述べた。 18) これは市場経済が採用されているからではない。その人の仕事の能率が低いためにあるいはその人が働くための条件のためにその生産物がより高くついても、消費者がそうした事情を汲んで、より高く購入するなら、それで解決する。しかしそれがどこまで可能か。それにはまず、消費者の側がその事情を知っている必要があり、また高くても買おうとする動機が存在しなくてはならない。贈与・分配に応ずる動機・自発性と政治権力を介する強制との関係については〔立岩 2000b,chap.7〕〔立岩 2001-2002(3)〕で考えた。 19) このことについて〔立岩 2000a〕で検討した。 20) ユニヴァーサル・デザインといった標語のもとに環境の整備を主張する側は、その方が社会にとっても、また企業にとっても、長期的には、益になることを主張してきた。ここに述べたことはそれを否定するものではなく、その主張と矛盾するわけではない。ただ「福祉の経済効果」をもっぱら主張することの限界もやはり見ておかなくてはならない。このような思いから〔立岩 2000a〕は書かれている。 21) こう述べることは、能力原理を採用せず就労の困難な人を積極的に雇用しようとすることを否定するものではない。そうした組織を設立し運営しようとする活動が続けられてきた。それが可能になる条件、困難にする条件がいくつかある。能力原理に基づかない組織がうまくいかない理由としてよく労働意欲の低下が挙げられるが、意欲があればうまくいくわけではない。その条件の一つを注18に述べた。また、他から排除される人たちがそこに集中してしまうことがその経営を難しくする。民間の活動の積極性を認めつつ、しかしそこに生じてしまう困難を無視すべきではない。 22) ADA(障害のあるアメリカ人法)には「資格のあるqualified障害者を障害ゆえに差別してはならない」とあり、「資格のある障害者」とは、「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を意味する」とある(第一章・第一〇一項・八)。〔立岩 1997p.325 etc.〕〔立岩 1998〕で少し触れたが、この法律の実効性を巡る議論の検討等はまた別の機会に譲らなくてはならない。 ■文献 安積 純子(遊歩) 1990 「<私へ>――三〇年について」安積他『生の技法』藤原書店(増補改訂版1995年) 立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」安積他『生の技法』藤原書店(増補改訂版1995年) ――――― 1994 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」『Sociology Today』No.5 ――――― 1997 『私的所有論』勁草書房 ――――― 1998 「一九七〇年」『現代思想』(立岩〔2000b〕に再録) ――――― 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下)『思想』No.908,No.909 ――――― 2000b 『弱くある自由へ』青土社 ――――― 2001a 「停滞する資本主義のために――の準備」栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5)東京大学出版会 ――――― 2001b 「国家と国境について」(1〜3)『環』No.5,No.6,No.7 ――――― 2001c 「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』有斐閣 ――――― 2001d 「常識と脱・非常識の社会学」安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座)ミネルヴァ書房 (目次等) ――――― 2001-2002 「自由の平等」(1〜5)『思想』No.922,No.924,No.927,No.930,No.933[→『自由の平等』 2004補記] ――――― 2002 「ないにこしたことはない、か・1」石川准・倉本智明・長瀬修編『障害学の主張』(近刊)明石書店 Foundamental Problems of Labour and Emplyment of People with Disabilities UP:2001 ◇障害者と労働 ◇労働 ◇差別 ◇能力主義 TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2001043.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |