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―という社会学の計画― 立岩 真也 2000/06/30 『理論と方法』27:101-116(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論) ■■1 抽象的な計画 ■1 手段・目的 「〇〇社会学」の近年の動向や、将来について、何も知らないからでもあるが、書かない。さしあたり単に私がしている、しようと思っている仕事のことを書く。そして、何が見出された(と思ったのか)、何が見出される(と思っている)のか、その中身について述べない。それらのいくつかは発表されており、またこれから発表される。ここでは、このような方向で仕事を進めていこうと思っていることを書く★01。ただ、私は、そうして述べることがそう突拍子もないことではなく、むしろ社会学の「伝統」につらなるものだとも思うし、これから様々に様々な人によって論じられることにもなるだろうと思う。 私自身がやりたいこと、そして社会学にもっとあってよいと思うことは、こんなことをこの雑誌に書いてはならないのではあるが、一つに少し論理を追って考えてみることだ。現にある事態がなぜこうなっているのか、結局のところ確定することはできない。しかし、何がどのような効果をもたらしうるのかを論理によって言うことはできる。そしてその効果をある基準から評価することはできる。そして評価していらないと思ったら、なくそうとすることもできる。もちろん、正と負と両方の効果があったりして両方の重みをどう見るかといった問題は残り、それは何かして計測したりしなくてはならないのであろうが、それでも、まず言えるところまで言うことはできる。 次に、そうやって何を考えるかなのだが、社会学がもう少しやってみてよいと思うのは、「規範的な問題」を考えることである。つまり、社会、社会の様々な事々がどうあったらよいのかについて考えることである。 まずそれは、人が、あれがよいとかわるいとか思い、だからするとかしないとかしながら生きているからである。そして社会はそんなことが重なって、集まって、対立があったり妥協があったりして存在している。例えば社会が積極的に正しさを追求すべきでないという考え方もまた一つの正しさについての態度である。そして、単に様々な価値があるというだけでなく、あることがらに対してどうしたらよいかすぐには思い浮かばなかったりする。対立する二つのどちらをとったらよいかを考えることがある。考えたくなくても考えなくてはならないし、時には考えなくてもすむようにどうしたらよいかについて考えなくてはならないこともある。 もちろん社会学はずっと人々の例えば価値意識についての調査を行なってきたし、その意識がどのような要因と関連するかを調べてきた。他方で、自らが価値を語ることを禁欲してきた。ところで私は、自らの価値を語るべきだと言いたいのではない。このような前提を立てるとこうなるはずだと述べたり、このような態度はつまりはこういう前提に基づいているのかを述べたりもっとしてよいと思うし、私自身もそのような仕事をしたいのだが、その人自身がその前提を採用しているかどうかはどちらでもよい。とにかく筋道をはっきりさせた方がよいと思うだけだ。それでもなお社会学は、「偏ってしまう」おそれをおそれて、価値判断が絡む場面について表立って言わないことにしてきたのだろうか。しかし、実際には、なにかしらの思いというものはあって、それでこのそれほど実入りのない仕事をやってきた人もいるのだと思う。すると、その仕事は、なにかしらのものがありながら、それを表立っては言わず、事実に語らせる?、絡め手で行くというものになる。しかしそれで、そのことについて自覚的である場合もあり、そうでない場合もあるのだが、かえって混乱を招いた部分があると思う。例えば社会学はある種の「恣意性」を言う。ある事象が「社会的」であることを言う。さまざまなことが社会的であり、歴史的であり、他でもありうることを示そうとしてきた。「これしかない」と思っている時に、「ほかでもありうる」ことを知らされることには、それなりの、時には非常に大きな意味がある★02。しかし、社会性・歴史性の指摘自体は、これだけではそのこと以外に何も言ってはいない。あることが歴史的であり社会的であることと、そのこととよしあしとは別のことだ。(さらに、すべては社会的であるという社会学帝国主義的な了解を通すなら、そもそもここに区別、判別は存在しえない。)ところが、そうは読まれない。あるいは書き手自身がそのように思わないで、書いている。そんな営みが堆積されてきた結果、おかしなことになってしまっているところがあると思う。だから、むしろ直截に問題にすべきことは問題にした方がよいと思う。★03 次に、そうした仕事を政治哲学であるとか、倫理学であるとかがやってきたではないか。もちろんやってきたのではある。しかし、そこですでに出来上がったものがあって、それを拝領すればよいという具合には残念ながらなっておらず、まだ考えるべきことは多く残っており、そして考えることは誰にも禁じられていないのだとすれば、誰が考え続けてもかまわないのであって、その一部に社会学者と称する人がいてもかまわない。そして、ことは社会という場に置かれている。なにが正しいとか言うことができ、それはそれでよいとしても、例えばある原則が社会に実際にどのような効果を及ぼすのか、等々はそんなに単純ではない。基本的な線が明らかになったとして、それをどこにどのように可能にするのか。そのようなことを考える時には、社会学はなかなか使える学であるかもしれない。 しかしそれにしても、例えば「倫理」を問題にするとは、堅苦しい窮屈な行ないではないか。そうと決まったものでもない。少なくとも私が思うには、これは、様々な事象に対して様々に引ける線のうち、どうしたものだかわからないから、あるいはどうもこれでは困るから、仕方なく考えるしかないことを考えるという仕事だ。それは、一人一人が考えたりすることを全体としてわかろうとか、ある現象や時代や世代をなんでも解釈しようとは思わない。つまり、人それぞれいろいろと事情はあって生きているいるのだろうし、あなたの出自をこと細かに詮索しようとは思わない、ただこの部分はどうしたものだか考えないとならないからその限りにおいて問題にする。こうした姿勢でことに臨もうというのである。 ■2 対象 どうあることができるのかを論理として明らかにするのが一つの仕事としてある、と述べた。次にその社会という対象のどんなところを、どういうところから(私は)見るかについて。ずいぶん前に次のように書いた。 「第一に、近代社会においては、意志・感情・能力といった個体の内的な性質とされるものが基点あるいは焦点とされ、このことを巡って社会的な装置のいくつかが形成されているし、またそれゆえにそこは、抗争の場ともなっている。……第二に、この社会は、政治・経済・家族といった諸領域の複合として捉えられる。これは新しい視点では全くない。しかしこの境界設定と相互関係の基本的なところについて十分に検討されてきたとは言えない。」([1991:35]) 第一に、としたうちの「能力」のこの社会の中での位置、「働き」(と「所有」)をどう考えるかという関心は私にとっては最初からあるものだ。一つには、業績に対応して受け取りが決まる社会であることになっているということ。二つには、この社会は生産が要件あるいは目標である社会であり、そこでは能産者、生産者としての人間がいる、というよりそのように人は作られること。一つめのものは、(近代社会における、いわゆる)私的所有権の付与とともに生じ、市場に――市場自体はそうでなければならないなどと言わない、市場はそもそも何も言わない、が――現われる。二つめのものは様々な回路を経由してもたらされる。二つは同じものではないが、この社会では二つが相伴う。★04 このことがもっとも近代社会をもっともよく特徴づけるものだと言えるかどうか、人によって大切だと思うものが違うから、それは決定できない。ただ例えば、「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」というまったくなつかしい、古典的な二項対立を見ても、あるいはパーソンズ、などという名前を持ち出すこともないのだが、の「属性原理」から「業績原理」へという把握を見ても、「業績原理」「能力原理」「能力主義」というものは、やはり近代の社会を特徴づける一つのものではあり、そうばかにしてはならないものだと思い、ここで「主義」とか「原理」といった言葉を使うべきか、使うとしたらどのような意味でかも問題なのだが、そのことも含めて、もっときちんと考えた方がよいと思った。そこで考えることにした。 と同時に、もちろん、それだけでない、ありえないのであって、属性・帰属という契機はこの社会からなくなっていない。というよりむしろ、この社会にも強固に存在し、存在することの強さが意識されざるをえないようなことになっている。またそこには「感情」はどう位置づくのか。そしてそれ以前に、やはりここでも境界が問題なのであって、例えば「属性」を本人にとっては所与のものだとするなら、「能力」の少なくともある部分も所与のものではあり、この二項は単純に何かを二つに割って出てくる二つではないのだが、こうしたことをどう考えるのか。 第二のものとしたことは、誰もが知っているように、のっぺらと一つ社会があるのではなく、経済/政治/家族/その他の自発的な行為の領域――という名付けが妥当かどうかはおくとして――という具合に、社会が編成されていることであり ――例えばパーソンズが様々に持ち出す4つにしても、あるいはメディアについてのルーマンの議論にしても、これらを把握しようという志向があるだろう――、これらの各々が何をなすのか、これらの間の関係について考えるということである。これらが相互に関係しあっていることは、もちろん誰でも知っていることであって、言うまでもない。ただ単に相互に影響を与え合っているということではない。境界自体が社会内的に規定されている。例えば家族だが、あるかたちの家族を規定し、それに対して義務・権利が付与される、あるいはある義務・権利が付与される単位としての家族が、他の関係から取り出される。そしてこれは、政治が、法による規定において行なっているものでもある。★05 それを相手にする仕事をやろう(やってきた人がいるなら続けよう)ということである。例えば家族と(家族外の)自発的な関係・自発的な活動の領域との境界、そしてその境界設定に関わる領域について、という具合に、それらの組み合わせを、例えば4つのものの他の3つとの相互関係、合せて6つ。そして、その各々に関わる他の2つずつとの関係、計12といった具合に組み合わせてその各々について述べてもよいだろう。しかしここではそのような論の運び方をしない。「天下国家」について論ずるということが、少なくとも社会学において、そして社会学に限らず、しばらくあまりなされなかったのだが、それは、つまらなく天下国家を語ってしまってきたからなのだと私は考えている。そのことから述べていくことにする。 ■3 論じられなかった もっと基本的なことを、基本的なところから考えたらよいのではないかと、つまりそうした仕事が十分になされてこなかったと述べた。とはいえ、もちろん、実際に大きな対立がなかったのではない。おもに政治と経済の領域にあり方について、二つの陣営の間に対立があり、社会科学もそれと無縁ではなかった。というより社会科学とはその対立の場そのものだった。だが時は流れ、一方の一人勝ちという事態に立ち至り、そこで対立が存在しなくなり、従来あった議論が成立しなくなった、とよく言われる。しかしこれは少し違うと思う。★06 この対立はおおざっぱすぎる対立だった。各々の主張とも「教条主義」的であって、一つに各々の基本的な前提を自らが問うことがあまりなかったし、一つに、現実には存在し、そして論じられてよい様々なことが考えられることがなかった。 その後、この対立軸と違うところから、「近代を問う」流れが現われる。これは、少なくとも以前には問われなかった前提のいくつかを否定あるいは懐疑するものだった。ただ、これはそれだけでは問題をより困難にするものでもあって、これもまた言うだけは言ってみるのだが、しかしその続きが続かないということになってしまった。 そしていま、おおまかにいえば経済は市場と政府とが組み合わさった場にあって、混合経済などと言われたりする。いま仮に、「体制」をめぐる問題が終結したのだとしよう。ならば、その世界において国家と市場との関係のあり方をめぐる対立がもっとも大きな対立であるはずではないか。ところが、それは、それ自体が行き止まってしまった場、すなわち体制の選択という図式からもより小さい対立と見えるし、また、その一つ後の反時代的な懐疑の場からはさらにそう見える。見えるだけでなく実際にそのようなものであってしまっている。もちろん、知られているように、そのあり方をめぐる攻防は現実にあった。「福祉国家」あるいは「大きな政府」を批判して別のものに代えるのだと主張した勢力があり、同時にそれに対する反論ももちろんあった。学問の世界における論争もあった。しかし、その対立はどんなものだったか。 一つに、大きい政府か小さい政府かといった――それ自体がひどく大味で、乱暴な――論議が、どちらの方が「経済」に有効かという観点からなされ、そして実際の政策の選択がなされてきた。その曖昧さ、つまらなさ、退屈さがある。と同時に行き詰まった感じ、閉塞感がある。「小さな政府」を主張し、税金を減らし、市場に委ねた方が経済が「活性化」するという議論があると、そうではなく「公共投資」の方が有効だという主張がなされる。しかしこれを対立と言えるのかどうか。 景気が悪くなれば野党が議席を増やし、税金が増えれば野党が議席を増やす。有権者の一人である自分自身にしても、「政府に期待することは」と世論調査で問われれば、「景気対策」と答えるそういう人たちの一人ではあるのだが、しかし一方でそういうものではないのではないかと思っている。こうした対立の中では、自由の主張とされるものは、具体的には経済活性化のための政府の縮小という主張なのだが、そういうものをいったい自由と言うのだろうか、そんな疑念を実は相当多くの人が抱いているのではないか。 つまり「生産」という場を共有しつつ両陣営が対峙しているだけなのだ。どちらが景気をよくするかで、政策が争われ、政権が交替する。なにかしないと経済がまったく破綻してしまうというような状況であればわからないではない。しかし今の状況はそんな状態だろうか。これはエコロジストが言うことでもあるだろうが、その立場からに限らない。こんな対立でよいのか。人々の感覚の中に、どうもそういうことではないのだがという感じがあったのではないか。このような不快感、つまらなさがある。そんなこんなで「天下国家」を論ずることがしばらく流行らなかった。 加えて社会学には固有の事情があったということだろうか。一つには社会学が、政治学や経済学等の社会諸科学のおまけのように、それらが相手にしない部分、周辺的、周縁的な部分を相手にする学として自らを位置づけているということかもしれない。しかし、例えばパーソンズの(私自身はそんなに感心しない)体系は、やはり大風呂敷と言うほかないものであり、彼にとっては社会学は社会の他の社会諸科学が相手にする部分以外を相手にする学ではなかったはずだ。だから、それは社会学にもともとのことではない。 そして全体を相手にする時、社会学の方が有利であったはずだと思う。というのも、誰もが知っているように、社会の各々の領域は自存するのでなく、他との関係において成立しているのだが、しかし、おのおのの専門の学問はどうしてもそれなりに背負っているものがあってしまって、そこから距離をとって仕事をするのには相応の労力を必要とするのに対して、社会学にはそんなものはない。社会学は、要するに何を対象にしてもよい、何をしてもよいのである。しかしそうした仕事はあまり多くはなされてこなかった。とすると、社会学の仕事としてなされていることの範囲が今見られるような状態であるのも、社会学に内在的な要因からというよりは、上記したような事情も関わってのことではないか。おもしろく語られることのない領域に新たに仕事をしようとする人が近づかないのは当然のことである。 ■■2 考えどころ ■1 自由と強制、市場と国家 ハイエク、フリードマンといった人たちの主張は、自由、反介入主義の主張としてある。少なくともそれなりにいさぎのよい感じはする。ただ、その人たちもまた経済学者であるだけに、結局は、経済がしかるべき位置に置かれる。それに対して、ノージックのリバータリアニズムは、もっと潔癖な自由主義、反介入主義としてある、少なくともそのように映る。これは先のものと比べれば、まだ原理的な対立のように思える。左翼の主張・運動にしても、少なくともそのある部分は介入に抗する運動だったのだから、その一部はリバータリニアニズムの方に流れていくことがありうる。 しかしそれでよかったのか。ロックからの古典的自由主義者、そしてリバータリアンは「最小国家」を主張し、それ以外・以上のことをする国家を自由を阻害するものとして否定する。私はそれに相当共感できる部分があり、とりいれた方がアイデアがあると思う。しかし、ひどく頭があっさりとした単純な人でもなければ、簡単にリバータリアンに転向するわけにもいかない。現状を肯定しないことが、彼らの批判に同調することかといえば、そうではないと思う。だが、ではどう違うのか、それをはっきり言えない。それでここでも手づまりになる。つまり、何を基準に批判し、別の形態を模索することができるのか、その原理をはっきりさせることができない。ただ、考えるとすれば、やはり出発点はこの辺りのはずである。 一方に原理として「自由」が立てられた。自由と平等が対置され、「平等」が自由の側からの批判にさらされる。だが問題は何が自由なのかである。またこの対立の構図はそれでよいのかである。 あるいはこれは自由と強制の問題である。強制がない状態が自由な状態であるとしよう。国家は強制する。ならば、今ある状態から国家を差し引いたものが自由であるのか。そして、差し引いて残ったものが市場であるとするなら、市場に起こることは自由であるのか。 自由について、[1997b:39-40](第2章2節3「「自由」は何も言わない」)で論点の一部に触れたが、さらに[2000g]で、古典的自由主義、リバータリアンの主張を検討しながら、いくつかの点を補って考察する。稲葉[1999]が考えるべき材料を提供してくれている。 「自由」を根拠とする批判は自らを堀り崩し、自由の主張によって、むしろ社会的分配が擁護されることを述べる。自由主義の基本的な問題は、自由の分配問題とでも呼ぶべき問題から逃れることはできないにもかかわらず、この問題がないかのように振舞う、そして/あるいは、特定の分配形態――しかもそれは自由という根拠からも支持されない――を支持していることにあることを証す。 今現に交換が生ずる場では、すでに所有権が設定されている。なにもないところに市場は成立しているのではなく、所有の初期値が決まった上で市場は始まるのである。問題にされるべきは、その初期値の決まり方である。それを設定するのが所有権であり、だからこれを問題にすべきである。所有と自由とはどう関わるのか。そして、これを考えることは単に市場でやりとりされる財の所有・流通のことを考えることにとどまらない。述べたように、帰属/業績という二項の前者から後者への移行はこれに対応する。私にとってはそれが考えようと思う基本的な主題だった。著書([1997])の第2章・第8章で考えた。 そのきまりがないこともあるかもしれない。なかったらどういうことになるのか。なにもないところには文字通り何もないのであって、どんなことも生起しない。あるいは前提となる状態を特定しなければ、生起することを一つに決定することができない。一つどころかある範囲内に状態を絞りこむこともできない。だから何らかの前提は常に存在する、あるいはある特定の状態を導こうとすればその前提を設定せざるをえない。例えば一人一人が自然に与えられる諸力を前提としよう。その諸力をほぼ同じとしてゲームを始めるかもしれない。しかしこれは、現実からは乖離があり、その上でなおその前提を置くなら、なぜそうするか説明しなくてはならないだろう。他方、そうすることをせずに、一人一人の差があるという、より現実に即したところから始める場合もあるかもしれない。そこには予め定められた規則はなく、争いやら駆け引きやらさまざまあって、それである状態に落ち着く、かもしれない。しかし、そのようなゲームの過程が想定できることと、その行き着く状態が正当な状態として認められることとは、もちろん、別のことである。そこに正当性を想定しているとすると、それは一つには何も考えずに、である。もう一つは、そこに正当性の根拠としての自由を想定しているから。しかしこの状態を、どのような意味で正しく好ましいものとしての自由と言うことができるか。こうして、「理論的」な社会学がしばしばとってしまう「契約論」的な論の構成とはいったいどのようなものであるのか、秩序のないところから秩序の形成を論じていくということの意味がどこにどのようにあるのかについて考えることにもなる。 そのようなことも少し考えて、その上で、基本的な原則を設定するとしよう。例えば自由であることの条件となるものを含む財の分配が要請されるものとしよう。その上で、権利と義務との再配置を構想することができ、社会の具体的な機構を考えていくことになる。ただ、制約条件として、資源の問題はあり、(時には目標としてかかげられるのだが)生産の維持がある。もっぱら生産という要件によってことが論じられることがつまらないと先に述べたのだが、そう述べたからといって、問題そのものがなくなったのではない。また、現状を説明するとともに、方策を考える上でも必要なこととして、「利害」の布置を見ておくことがある。さらに、財の性質、供給可能性や流通可能性に関わる問題がある。例えば「情緒」というものはいったいどのようなものであるのか。こうしたことを考える必要があるだろう。そして、先に述べた社会(科)学の有利とは、こういったこといっさいを考えながら考えていくことができることにあるのだと考える。まずこれらについて簡単に記しておく。 ■2 生産・資源 「生産」をめぐる争いに問題が回収されることが批判され、それに「自由」が対置されるのだが、その「自由」が再検討され、少なくとも普通に自由が語られる時とは別様に原則が立てられたとしよう。しかしもちろん、依然として、生産の必要そのものは残り、資源の制約の問題はある。 国家による介入を否定し、自由を盾にして闘う時、相手の背後に見たものは生産だった。急いで、自由市場を持ち上げる人々の大多数も同じ場にいることをつけ加えなければならないのではあるが、それにしてもこの認識は本質をついたものだった。だが、とするとより大きな論点がある。生産はよいことではないか。生産が社会に不可欠なものではあるということについての十分な考察を欠いていたのではないか。福祉国家は生産を停滞させ資源を食いつぶしてしまうとする。これをどう言うか。ここでもいったんは立ち止まらなくてはならなくなる。 例えば私が、今ある福祉国家を擁護しようというのではないけれども、社会的分配を擁護しようと言う。すると、誰もそれに反対はしていない、誰に向かってわざわざそんなことを言っているのだと言われるかもしれない。しかしそうだろうか。つまり、「財政問題」がおおいに語られている。少子化、高齢化、「今のままの福祉」を続けていけば、大変なことになる、財政が破綻すると言われている。 もちろんそれに対して、他方にはそんなことにはならないという反論がある。あるいは大変だからこそ「社会化」が必要だという主張がなされる。そもそも福祉国家とは、不況から脱し、成長を持続させる、あるいは成長とともに存在する経済政策でもあった。だから、それも半ばか、あるいは半ば以上、当たってはいるだろう。しかし、それで反論として十全かと言えばそうでもない。 この問題は、人の労働を含めた物質的なもの、物質的なものの量の水準にあるとともに、それを巡る観念、言説の水準にある。それを解きほぐしながら考えていく必要がある。それでいくつかのことを[2000a]に書いた。 (とくに人が、とくに生産する人が)足りない、足りなくなることを言うまったく夥しい言説を、この時代と社会を彩る記念し記憶すべき現象として、誰かきちんと収集してくれないかと思う。ただ、ここのところ社会学がやってきた言説分析だけではことに対処するのに十分ではない。なにかを消費しないと生きてはいけず、消費するためには生産しないとならず、生産するためには生産する人(と自然の資源)が必要であるというのはひとまずは嘘でない。そういう意味での「現実」との照合の作業が必要になるとともに、しかし、かといってすぐにお金の勘定を始めるのではなく、というよりその勘定というものがいったいどんな意味をもつのかを考えながら考えること、言説を論理によって分析し、評価することが求められるのだと思う。また、生産・増殖への衝迫がどこからやってくるのかについての分析が必要なのだと思う。そんなことはすでにいくらでも行なわれているではないかと言うかもしれない。しかし私にはそう思えない。だから考えてみようとした。 ■3 利害 この社会にあってしまっている様々な事象をどう説明するのか。もちろん様々なことが考えられるし、考えなくてはならないのだが、一つに、素朴に、「利害」について考えることがある。もちろんその利害は人がいる場によって異なり、受け取るものにせよ、剥奪されるものにせよ、そのあり方はまだらになっている。現実がこのようにあるについては、その利害の配置が関わっているはずだと単純に考えてみるのである。 前項で述べたことにも関連することだが、社会学でも、「社会の維持」といったわかったようなわからないようなものを想定する理論、単一性を想定するモデルに対して闘争・抗争を考えるべきだという主張があったということにはなっており、とすると今述べたことは、後者の方に近いということになるのかもしれない。ただ私は、おおまかにどんな姿勢をとるべきだというようなことより、個々に具体的に(しかし論理とともに)見出すことのできる差異や衝突自体がきちんと捉えられていないのではないかと思う。 もちろん、具体的な主題に即してみても、利害や利害の対立については幾多のことが言われてきた。しかしそれが十分なものであったと思わないというとだ。特に、利益と損失を言うことが告発、批判として機能するためには、そこに正当化されない損失があること、正当化されない利益があることを言わなくてはならない。ということはすなわち、正当とされる基準は何であるかを考えないとならないということである。そして、どのような基準に基づいて、誰が誰に比べて利益を得ているのか、損失を被っているのかを、もちろん、言わなくてはならない。ところがこのことについてどれほど敏感であり、慎重であったのか、疑わしい。 このことは特に、少し後でふれる性別分業に関わる議論に感じることだが、そうした場面に限らない。最初にあげたこと、生産物の生産者による取得、仕事に応じた対価という機構そのものが、結局のところは、人々の利害・選好のあるかたちを前提した上ではこの機構が自生してしまう、生産の維持のためには必要とされるというものでしかない。このことを確認しておくことは、利害は制約条件として働くし、制約条件として働くことを無視すべきではないが、しかし、所有権が無制限の基本的な権利であるのではないこと、他の方法と比較可能なものであるというところから出発できるということである★07。政治的分配に関しても、同様に思考していくことができる。 ■4 訪れるもの こうして考えていってなお残る問題がある。というより、これまで述べたことも、これから述べることを含みながらなされる必要がある。 私たちの社会の規範は、基本的に、必要なもの大切なものは自分で作る、自分でもってくるというものであったのだが、それを変更して必要なものを分配することにしたとしよう。その変更に当たっては、今述べた、自らの労を少なくして自らの益を多く得ようという人々の利害が制約条件となるが、それにしてもそれは、現に交換という形態においては譲渡に関わる制御が可能であり現に流通がなされている財を分配に供するということであって、それ自体は単純なことである。しかし、少しでも考えてみれば、そんなところばかりではない。 例えば「承認」といった言葉で語られる事態があり、その承認が求められることがある。まず、私という存在が承認されることを自らだけの力でもってくることはできない、あるいは自らがもってきたものを承認とは言わないのかもしれない。あるいは「帰属」という事態。ここに選択が存在することはあるだろうが、しかし、帰属しときには帰依する対象自体は、やはり自らが作ったものではないだろう。そしてそのことに関わる意識というものもまた、自らにとって所与のものだと言われることになるだろう。そしてこの「帰属」や「帰依」という契機(少なくともそれに関わりがあるとされるもの)が社会に占める部分を小さくしているとは、社会学者の当初の予測に反してかもしれないのだが、言えない。 他方には「好み」というものがある。それは自らのものであるが、しかしやはり自らにとって所与のものである、とされる。「感情」は訪れるものだとされる。 さて、承認されること、あるいは愛されることを私は求めているとして、しかし、愛すること、あるいは少なくともある種の承認は、他者に委ねられており、しかもその他者にとっても自在になるものでないとしよう。このことを、あるいはこのように言われることをどのように扱ったらよいのだろうか。★08 これは、結局は「好み」の問題だから、という拒絶や回避の正当化根拠としても使われる。そしてこれ自体が先に述べたことと分離された問題ではなく、境界自体が問われるのである。例えば、容姿やら何やらによってあるお店や航空会社の客の入りが違うとして、この場合に、「容姿端麗」な人の方を雇用してよいのかどうか。これは市場という、言葉の使い方によって、私的な領域とも言えるが公的な場であるとも言える場で起こることだった。次には、非営利の自発的な組織が、参入者(組織に対する構成員としての参加、その組織が財を供給する組織である場合にそれを供給する範囲)をどのように制限することができるか、できないかが問われるだろう。さらに、より私的な関係とされている場があるだろう。フェミニズムによる「私事の政治化」とは、問題をここまで追い込んでしまうものではあった。ではどのように考えるべきか。満足な考察はなされていない。例えば美醜に関わる評価、好みの歴史性・相対性の指摘は正しいとしても、それは最初に述べたように、直接に規範的な立論、批判的言明に結びつくのではない。これは例えば「国民国家」を論ずる論にも無関係なことではない。国民国家なるものの歴史性、あるいはその具体的な諸相についての歴史性は言えるだろうし、そこに絡む様々な作為、思惑を明らかにすることもできるだろう。しかし、その解毒作用というものをどこまで期待できるだろうか。 ある人(たち)の「好み」が否定的に――もちろん他方にはそれで得をしている人(たち)もいるのだが――作用する場合があると述べたのだが、もう一つ、人々から、あるいは特定の誰かによって承認されること、愛されることが求められている場合がある。それをどのように考えたらよいのか。例えばその承認がどこにあることができるかというような問いを問うてみてもよいように思う。それがもし大切なものであるとすると、それは配分されるべきものではないか。しかし他者による承認とは意のままになるものでなく、訪れるものであるというなら、それはある種の恣意性の領域だということになるだろうか。とすればそこで仕方がない、終わりとなるのか。 しかし、例えば一つに、このような筋で考えること自体が間違っているのかもしれないと考えることができる。また一つに、そのものを思い通りに出現させ分配することはたしかに不可能であるとして、しかしそれが現われることが容易なようにすることはできるかもしれない、ではそれはどうしたら可能だろうか、このようなことを考えることはできる。 これらの問いもまた、4つの領域とその各々の間の関係を考える時に欠かすことができない。以下その4つについていくつかのことを述べる。本稿では、その各々に政治の領域、国家が関わる部分を少し多く、述べる。 ■■3 4つについて ■1 自発性… 「NPO」(非営利組織)が、おおむね肯定的に語られ、社会学の中でも注目する人たちがいる。「特定非営利活動法人」を規定する法律もできた。しかし、原理的には考えておいた方がよいことがあると思って少し書いたことがある(成井・立岩[1996])。そこでは、営利組織との関係についても記したのだが、以下では、特に政治・政府との関係について考えてよいことを少し。 NPOの活動は参加者の自由な意志に基づく。NPOは自発性によって組織され、強制力は不在である。NPOは人々を強制的にその活動に従わせることはしない、できない。強制的に参加させることもしない、できないし、強制的に寄付金を集めることもしない、できないし、全ての人がその活動方針に従うように強制することもしない、できない。 このことによってNPOは肯定的に評価されもするのだが、その肯定がどのようなものであるかを考えることはできる。一つには、自由であること、強制されないこと自体がよいことだと評価される場合。例えば皇室を財団法人にしてしまうとか、王様同好会で王様を養うとか。こういうのが気にいる人もいるかもしれない。 もう一つ、自由であること、強制でないことの効果が問題にされることもある。政治の領域では決定は多数決でなされ、結果として少数派の主張は採用されず、また多数派の決定に従わなければならない。49%の人が、自らの意に沿わないことに税を使われるかもしれない。それに比べたら、少数派は少数派なりに自らの必要とするものにお金が使われる方がよいではないか。よいように思われる。しかし常にそう言えるか。この問いは次のような場面で現実的な問いになる。 現在「特定非営利活動法人」に対する税制上の優遇措置の獲得が非営利組織側の課題であるとされる。私は、それが実現しても問題はなく、有効に作用するだろうと考えてはいる。ただ論理の問題として考えておくべきことはある。税については、組織にかかる税の問題と非営利組織に寄付する寄付者に対する税金の減免措置がある。ここでは後者について。仮に寄付したのと同じだけ政府に支払う税金が安くなるとしよう。仮の、極限的な場合だが、税金と寄付とを完全に代替可能なものとするのである。 まず、この措置が贈与一般に対して行なわれるということになれば、その贈与には例えば家族に対する遺産の贈与も含まれることになるだろう。そこで例えば公益的な活動に限定することになる。とすると、ここで対象となる公益的な活動はどのようにか規定されることになり、それは、政治が規定し限定することになるのだが、それでよいのか、よいとしてその線はどのように引かれるべきかが問題になる。また、こうした措置の結果、どんなことが起こるのか。社会の中の贈与は増えるのかそれとも減るのか。さらに総量だけが問題なのではない。多くを贈与できる人が多く贈与しようとする対象にはやはりなにかしらの傾向というものがあるかもしれず、実際、調査の結果によってこのことは示されているようなのである。とするとそれをどう評価するのか。等々。 さらに、贈与における「自発性」「直接性」をどう評価するか。もっとも単純な人たちは、それをただよいもの、うるわしいものとするのだが、そうとは限らないはずだ★09。 この問いは何が強制されるべきなのか、義務であるのか、何がそうでないのかという問いであり、国家に何をさせるのか、何をさせないのかという問いと基本的な共通点をもっている。しかもこの問題は、国家か民間かといった単純な二分法でとらえるべきでなく、むしろどのような組み合わせを考えるのかという問題であるはずなのである★10。 「民間」の活動、「市民」の活動に、あるいは「地域」といった言葉に肯定的である人たちの相当部分は、それらがとりうるあり方の総体というよりは、あらかじめその活動やあり方の内容や姿勢に特定の肯定的なあり方を見込んでいる。しかし、この主題はもう少し広げて考えることができるし、考えた方がよいと思う。 ■2 家族 次に家族、あるいは国家と家族との関わりについて。「家族とはなにか」といった問いに直接に答えようとするのは多分まちがっている――「とはなにか」という疑問文の使い方を、私たちは多くの場合まちがってしまう。また、現代の家族関係がどんなものであるかに関心のある人はもちろんいてかまわないと思うけれども、そのような人たちだけが家族について論じるのもつまらないと思う。家族がどうなるか、どうしたいか、そんなことは知らない、各自が勝手に考えるなり、考えないなりすればよい、という人もいてよく、ただそういう姿勢の人であってもおもしろいのは、あるいはそういう人であるから不思議なのは、この単位が、財の配分のあり方を含む、権利・義務の配分に関わる限りにおいて、自存するものではなく、権利・義務――遺産に関わる特権や扶養義務等々――の配分において他と差がつけられることそのものによって規定され、存在するものだということ、そして、当の家族社会学がそのことに対してあまり自覚的でないように思えることである。 もし、家族とされる単位、その成員に特別の権利・義務を設定しないのなら、誰を家族を形成する対とするかという問いは事実上意味を持たない。家族とは、単なる名称に過ぎないものになる。 それでよいではないか、それではなぜいけないのだろうかと問うことができる。まず、なぜ義務(と同時に権利)が付与されているのか。そうでなければならない理由を探しても、まったくとは言わないまでもしても、強力なものは見つからない。次に、人の権利に関わる義務を負うことについて差をつけることに正当性が見出されないから、家族を特別に扱うことは否定される。ならば否定し、そしてさらに前節4に述べたことも考えるなら、家族、性愛を基礎とする関係を、他の行為・財の生産・流通と切り離してしまうことはできないか。 ただそれは、もちろん今のところ言ってみるだけのものではある。しかしでは現在の現実は何によって構成されているのか、どのような利害によって維持されているのか。このように普通に、問い、考えていくと、家族のこと、例えば家族による介助(介護)のことが語られる時に語られること、その語られ方が幾重にも不思議なものに思え、そのいくつかは受け入れがたいと思えるはずだ。★11 家族、家族と市場、家族と政治に関わり、性別分業、家事労働といった主題は、少なくとも多くの人にとってそれが切実な問題だと考えられたからだが、ずいぶんと活発に論じられてきた主題である。しかし少し言われていることを検討してみればよい。頻繁に利益や損失が言われるのだが、それがどのような基準で言われ、どのような根拠で正当とされ、あるいは不当とされているのか、よくわからないことがたくさんある。だから検討してみたいと思った。[1994a]では「不払い労働」として行なわれている家事労働について、それに対する支払いの可能性について検討した。 家族による負担、性別分業の現状が、男性そして/あるいは資本(家)そして/あるいは国家に利益をもたらしているといった主張がある。ともかくその根拠をはっきりさせ、この全てが利益を得ていると主張するならそれでもかまわないが、受益者を特定してほしいと思う。あるいは「国」が利益を得ているとは、少なくともこの場合には官僚たちによる横領ではないだろうが、とすると具体的に素朴にどういうことか。そしてまた、あの歴史的現象としての「専業主婦」という存在だが、あれが、何か役に立つものであるとはどうしても思えない。等々。このように思ってみるなら、よく言われていることもどうもなかなかに怪しいのではないか、よく考えてみよう、となるはずである。 (不当な)利益を得ているものを家族外のものに求めるのでなく、楽をしている家族は(不当な)利益を得ており、楽でない家族は(不当な)損益を被っているのではないか、と素朴に考えたらどうか。また、家族にしか依存することができないことによって自らが望む生活を送れない人たちがもっとも損失を被っている(その状態に置くことによって自らは負担を免れている人たちがもっとも利益を得ている)と考えることはできないか。 ■3 市場 市場において起こる属性に関わる差別をどう考えるか。商品の質(能力)しか考慮されないのであれば(能力によってしか差別しないのであれば)、例えば「人種」「民族」「性別」による差別は、そこには存在しないはずではないか。しかし現実には夥しい差別が存在する。ではなぜ存在するのか。そういう単純な問いがある。さまざまなことが言われてはきたのだが、この問いがきちんと答えられているようには思えない。★12 購入者にとって、購入の際の選択に関係のあるのは商品の質だけであるという視点をまずとってみる。そうすると、能力が等しいとした場合に格差をつけることが労働を購入する側にとって有利にならないことは明らかだろう。ではどのように説明するのか。一つには、市場には、購入者だけでなく、労働の売り手の側もいるということである。仕事を得られる労働の売り手があらかじめ制限されていることは、排除されない側にとっては有利である。例えば女性があらかじめ排除されることに決まっているなら、男性の就労の機会、昇進の可能性は2倍に増える。★13 もう一つ、購入する側も、実際には商品の質だけを考慮しているわけではないと考えることである。誰が売り手の側にいるのかが可視的である場合、買い手の側の好みが購買に影響する可能性がある。そして、何が商品そのものであり、何がそれ以外のものであるのかそうはっきりしていない。消費社会といった言葉を持ち出すまでもなく、誰もが知っていることだ。これは第2節4で「好み」をどう扱うかという問題があると述べたことに関わる。容姿についてはともかく、ある「人種」や「民族」が、統計的には、消費者に好まれるからサービス業でそれを反映した雇用の仕方をするというのはまずいのではないかと思う人もいるだろう。しかし総じて「好み」によって消費というものはなされているではないか。もちろんこう言われた後にも言えることはあるはずである。それをどのように言うか。★14 さて、仮にある仕事に「本質的な部分」以外の部分で差別することを禁ずることができたとしよう。それでも、もちろん差は残る。それには生得的なものに由来するものもあるだろうし、あるいはこれまで過ごしてきた環境に関わる部分もあるだろうし、あるいは今現在自らが抱えている様々の事情も絡んでいるだろう。そして、要するにいま使えるのかそうでないかだけに関心が払われているなら、それらの理由、事情は無視されるだろう。これにどのように対するのか。 いくつかありうる。一つは市場に起こることと別建てに社会的分配を置くことである。これはこれですっきりしているが、それでは十分でない、あるいは適切でないと主張されるかもしれない。そこでもう一つ、市場への介入、例えば労働市場への介入が主張されることがある。これがどのような理由でどこまで支持されるか。また格差に関わる政策に限られない労働に関わる政策、政府による介入に限らない労働の場の再編成のあり方について、基本的なところから考えてみるのはおもしろいことだと思う。ワーク・シェアリング、アファーマティブ・アクション、割り当て制、等々をどう考えるのか。こうした主題は、様々に話題にはされるものの、そして理論的に詰めていく価値のある主題であるにもかかわらず、実はそれほどきちんと考えられることなく残されている。★15 そしてもう一つ、市場、職場以外で、その手前でなされることがある。出発点で、社会環境に差がある時、その差を是正する策が取られることがある。例えば教育。しかしどうなのだろう。もちろん、教育が実際には格差を縮小させるような効果を与えてきていないことはいろいろと言われている。ただそれはそれとしてさらに言えることはないか。「機会の平等」が格差を温存、拡大させると指摘されるが、では代わりにどうしようか。もっと実効的な策をとることだろうか。しかしそれは時に、追いつく(追いつかされる)側から何かを奪っててしまうことはしないか。また、結局、本当に追いつくことなどそうはないではないか。そして(苦労しなくてすむ人より多くの)苦労もしなければならない。これらについて考えてみてよいのではないか★16。 ■4 国家 以上で述べたことの多くが国家に関わっている。 昨今は「国民国家」について様々に語られ――もしかして、その「はやり」はもう過ぎてしまったのだろうか、だとしたら嘆かわしいことだ――、むろんそれはそれで大切なことなのだが、単純に考えて、政治の領域、とくに国家というものが、他の領域と異なるのは、それが強制力をもつという点にある。とすると問いは、何が強制されるべきであるのか、何が強制されてはならないのかという問いである。このことについてあまり考えられてこなかったと思う。 政府の役割を言う時、経済学は「市場の失敗」、「公共財」といった言葉をもってくるのだが、いずれも曖昧であってそのままでは使えない。その吟味も含め、検討を進めていくと、国家は今行なっている少ない部分から撤退しうるのだし撤退すべきであるかもしれないことを言うことができるだろうと考える。 例えば――第1節でふれたことでもあるが、そしてこの主題は、同時に市場、経済のあり方をどう考えるかという主題であるのだが――経済(の成長)政策というものは、はたして正当化されうるのか。されない、としよう。しかし行なわれている。なぜ行なわれてしまうのか、つまりそれを行なわないための条件とは何か、こうしたことを考えることができる。★17 ではなにをするか。国家はなすべきことの一つとして分配とそのための徴収があるとする。第2節1に述べたことを考えていくとそうなる。 しかしどうやって分配するのかを考えていくと、ここにもそう簡単でない問題があることがわかる。人が一人一人異なるなら、均分の分配では足りない。とするとどうするか。「ニーズ」の査定――それは生活のあり方を査定し規定するものであるかもしれない――は不可避なのか。こんなことも、もちろん何も言われてこなかったわけではないが、そんなに考えられてきてはいない。そして国家はこの分配にあたってどこまでのことを行なう(どこから先は行なわない)のがよいのか。これもまた、国家と市場、営利組織・非営利組織との関係のあり方の問題として考えていくことができる。 そして第2節4にあげたこと。福祉国家の「限界」として、杓子定規、官僚主義、等々、福祉国家に「血が通っていない」ことがあげられる。一人一人の人は一人一人としてその固有な生を生きているのだが、国家というものは、その大きさ・冷たさ・遠さは、それに対応できていないではないか、その存在を承認し肯定しているとは言えないではないかというのである。 しかし同時に、「外」の者たちへ無効もまた感じられる。福祉国家で行われていることは、しょせん豊かな者たちの間における分配でしかないではないか。そしてこのことを考えてみると、同時に、国家は十分に熱い領域、範囲でもあり、国家という単位があってそれで紐帯が存在し保たれているのだとも言われる。もちろんここで「国民国家」を巡る議論も関係はしてくるのだが、ただ今多くとられている歴史的な接近法以外にも、ものを考える考え方はあるだろう。例えば、置かれた状況や人の性格やさまざまなものによるのだろうけれど、「帰属」を求める意識はあり、そしてそれが時に国家に向かうことのあることを考えに入れて、なお何が可能であるかを考えること、等。 多分、私たちは、ひとつに少し単純すぎるのだ。例えば、国家が広く遠いことと、近くに何かがあってほしいこととは矛盾するものではないのかもしれず、考えていくと、むしろ国家は小さすぎるのかもしれない★18。そして時に単純に考えること、つまり基本的なところから考えることを怠ってしまう。例えば国家に何をさせ何をさせないかについて、私たちは各々の場を占め、それぞれの利害を有しているから、まったく当然のことではあるが、それを背景にものを語る。しかしそれによって考えてもよいことが考えられず、「政治のこと」を語ることがつまらないことになってしまっている。けれど、様々に紆余曲折あった末、そろそろどのようになにを考えるとおもしろいか見えてきている、そういう場所に私たちはいると思う。 ■注 ★01 以下人名がなく単に[1997b]等と記されているのは筆者自身の文章。本稿では本来なら引かれるべき幾多の文献を、分量の制約から、またその多くはよく知られているものでもあろうし、あげることをしない。また[1997b]はそれ以前に書かれたいくつかの文章が取り入れられて書かれている――その経緯については[1997b:23-24](第1章・注12)が、それらについて記す必要はないから、文献表にあるのは、それ以外の文章。http://www.arsvi.com「立岩」→「こうもあれることのりくつをいう」に、全文を掲載している文章へのリンク、本来なら当然あげるべきだった他の著者たちの関連文献リストなどを掲載する。 ★02 原稿の依頼をいただいた時の仮の主題は「臨床社会学」だった。「臨床社会学」については、日本社会学会で部会があり、また有斐閣から本がでることになった。けれども、私自身は、「臨床社会学」が何があるかを知っているわけでもないし、それを担っているわけではない。それでも、何も知らず、担ってもいない立場から、その本に一つの章を書かせていただくことになる([2000h])。 ★03 [1997b:71-74,296-299]で、生殖技術に対する批判についての検討するなかで、また(「身体の政治学」と等と言われる時に使われる意味での)「政治学的接近」について述べる中でも、このことにふれた。 ★04 [1997b]に考えたことを書いた。二つめのものについてはその第6章2節「主体化」。[2000e]でも関連したことを述べている。 なおこれは「自己決定」という主題に直接につながっている。まず、何について決めることができるのかという点において原理的につながっている。また、例えば、自らに関わることが自分でできることと、自分で決定できることとは異なるが、決定できることもまた能力の一つではある、といったことについて考えてみることもできる。また、できなくなることと死の決定との関わり、例えばその死をおしとどめようとする思い、行ないをどう考えるか、等々。[1997b:127-144](第4章3節「自己決定」)に基本的なことを記した。その後、[1998a][1998b][1998c][1999a][1999c][1999c][2000f]。 また、決定し制御することと「訪れること」(本稿第2節4)との関係、摩擦について[1995c]、そして[1997b:153-162](第4章5節「生殖技術について」)。 ★05 安積他[1990](→[1995])がそのきっかけになった。「1985年から1990年にかけて、家族に対する依存と収容施設での生活を共に否定し地域での生活を試みる障害を持つ人達の生活に関して、共同調査・研究を行い、90年に共著書としてその成果を発表した。これは、能力、障害という属性と社会との関係を問題にするものであるとともに、政治・市場・家族・その他の自発的な行為の領域(地域社会・ボランティア等)という、社会の諸領域の間の境界設定、関係についての考察を開始させるものとなった。」(1991年提出の調書) ★06 社会(科)学について、[1997b:12ff,290ff](第1章2節2「社会学」、第7章4節「より「根底的」な批判」」)。もう少し多くのことを[2000d]で述べた。ところで、共産主義運動は、ひどくあっさり言ってしまえば、4つの領域について、まず市場を政府によって代替し、ついで政府を解体し、そして家族と家族でない関係との垣根を取り払い、1つの共同体を作ろうとする運動だったとも言える。 この国で規範的な議論が流行らなかった時期、正確にはそれより少し前から、米国では『正義論』とか『アナーキー・国家・ユートピア』などといった本が一定読まれ、論議されたりした。もちろん、かの国は、戦争をして負け、様々な社会問題が起こり、それにどう対応するのかが大きな問題となったといった事情もあったのだろうが、一つには、体制の選択という問題ではないところで議論が行なわれた、あるいは行なわれざるをえず、その分、「体制内在的」に、したがってもちろんそれに起因する弱点もまたあったのだとしても、しかしそこそこ基本的なところから考察がなされ、議論として成立しうる議論がなされたのだとも言える。 ★07 私的所有の否定のしがたさ、機能主義的な正当化論――これはすでにアリストテレスも言っていたことだった――について記した[1997b:43-50,335-338]がこの部分に対応する。 ★08 こうしたことについて最初に書いた文章は[1991]。[1997b:365-367,372](「他者が他者であるがゆえの差別」)でも関連したことを述べている。 ★09 「介助(介護)」について考えた[2000b]でもこのことにふれている。介助のこと一つとっても「距離」の問題はそんなに単純ではない。 ★10 すでに何度も述べたことだが([1995a][1995b][1996a][1998e])、財の直接的な供給主体と(その財を購入するための)資源の徴収・供給主体とを分けることは可能であり、また分けることが望ましい場合が多い。さらに資源の供給を受けた上で、それを使ってどこから財の供給を受けるのかを決めるのは基本的に本人であってよい。[2000b]でもう少し述べる。 ★11 「(現代の)家族では担いきれない」ことだけが語られることを批判し、何を問題にすべきか、[1995a][1997a][2000c]で述べた。 ★12 「差別の経済学」と呼ばれるものがこうした主題に取り組んではいる。[1997b:367-369](第8章注2)で文献をいくつか紹介しながら、「学歴社会」がどうしてあってしまうかについて――この主題については[2000e]でもう少し長く論じている――少し考えてみた。 ★13 労働の場における性差別について[1994b]で検討している。ここで誰を不当な受益者として名指すかは、労働の対価のあり方をどう変えるべきかに直接に関わる。姜尚中らとの座談会の中でもこのことに触れた(姜他[2000:154-155])。 ★14 [1997b:348-351](第8章4節「III<能力しか評価してはならない>の肯定」で関連したことを述べている。 ★15 「労働の分割」がどのように正当化されうるのかについて[2000a:下127-128]に述べた。 ★16 少し異なった視角からではあるが、[1997b:246-248,271ff](第6章4節4「個体への堆積」、第7章1節「別の因果」等)で関連したことを述べた。 ★17 [2000a][2000e]で検討した。 ★18 分配についてこのことが言えることを[2000a:下]に述べた。 ■文献 *の付してあるものは、注1に帰したホームページで全文を読むことができる。 安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店 ――――― 安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店 千葉大学文学部社会学研究室 1996 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』*,千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会 稲葉 振一郎 1999 『リベラリズムの存在証明』,紀伊國屋書店 姜 尚中・井上 泰夫・立岩 真也・中村 陽一・川崎 賢子 2000 「アンペイドワーク――現状と展望」(座談会),中村陽一・川崎賢子編『アンペイドワークとは何か』,藤原書店,pp.138-174 立岩 真也 1991 「愛について――近代家族論・1」*,『ソシオロゴス』15:35-52 ――――― 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」*,『社会学評論』42-2:30-44 ――――― 1994a 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」*,『千葉大学文学部人文研究』23:63-121 ――――― 1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」*,『Sociology Today』5:46-56 ――――― 1995a 「私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265] ――――― 1995b 「自立生活センターの挑戦」,安積他[1995:267-321] ――――― 1995c 「何が性の商品化に抵抗するのか」,江原由美子編『性の商品化』,勁草書房,pp.203-231 ――――― 1996a 「組織にお金を出す前に個人に出すという選択肢がある」*,千葉大学文学部社会学研究室[1996:89-90] ――――― 1996b 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」*,『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126 ――――― 1997a 「「ケア」をどこに位置させるか」*,『家族問題研究』22:2-14 ――――― 1997b 『私的所有論』,勁草書房 ――――― 1998a 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,『仏教』42(特集:生老病死の哲学) ――――― 1998b 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:身体障害者) 70枚 ――――― 1998c 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定権) ――――― 1998d 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」『現代思想』26-9(1998-9):184-197(特集:遺伝子操作) ――――― 1998e 「分配する最小国家の可能性について」,『社会学評論』49-3(195):426-445(特集:福祉国家と福祉社会) ――――― 1999a 「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」,石川准・長瀬修編『障害学への招待』,明石書店 ――――― 1999b 「大切で危ないQOL」*,21世紀医学フォーラム編集委員会編『21世紀医学フォーラム――QOLを考える』pp.142-147 ――――― 1999c 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書D,pp.21-44 ――――― 1999d 「資格職と専門性」,進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想社 ――――― 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について 上・下」,『思想』908(1999-2):65-88,909(1999-3):122-149 ――――― 2000b 「遠離・遭遇――介助について 1・2・3・4」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179(特集:介護),28-5(2000-4),28-6(2000-5),28-7(2000-6) ――――― 2000c 「過剰と空白――世話することを巡る言説について」,副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房 ――――― 2000d 「正しい制度とは,どのような制度か?」,大澤真幸編『社会学の知33』,新書館 ――――― 2000e 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見達哉編『知の市場』,東京大学出版会,越境する知・6(近刊,執筆:1999.2) ――――― 2000f 「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版(近刊,執筆:1998.7) ――――― 2000g 「自由の平等」,『思想』 ――――― 2000h 「(未定)」(依頼は「自立と所有の臨床社会学」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』(仮題),有斐閣 立岩 真也・成井 正之 1996 「(非政府+非営利)組織=NPO,は何をするか」*,千葉大学文学部社会学研究室[1996:48-60] *後日(20020906)記 ――――― 1998b 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:身体障害者) 70枚 ――――― 1998c 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定権) ――――― 1998d 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」『現代思想』26-9(1998-9):184-197(特集:遺伝子操作) ――――― 2000b 「遠離・遭遇――介助について 1・2・3・4」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179(特集:介護),28-5(2000-4),28-6(2000-5),28-7(2000-6) は、『弱くある自由へ』(2000,青土社)に収録された。 ――――― 2000e 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見達哉編『知の市場』,東京大学出版会,越境する知・6(近刊,執筆:1999.2) は 2001/06/25「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5),東京大学出版会 pp.99-124 ――――― 2000g 「自由と平等」(仮題),『思想』 は 2001/03/05「自由の平等・1」,『思想』922(2001-3):54-82 2001/05/05「自由の平等・2」,『思想』924(2001-5):108-134 2001/08/05「自由の平等・3」,『思想』927(2001-8):98-125 2001/11/05「自由の平等・4」,『思想』930(2001-11):101-127 *資料 ――――― 2000h 「(未定)」(依頼は「自立と所有の臨床社会学」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』(仮題),有斐閣 は 2001/07/30「なおすことについて」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196 UP:20020906 TOP(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2000004.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |