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資料

19990929 立岩 真也 1999津田塾大学公開講座 テーマ《いのち》



 私が考えてきたことは『私的所有論』という本(勁草書房,1997)に書きましたが,そこでは,最初この公開講座についてお話があった時に提示していただいた「脳死」といった主題をほとんど扱ってはおらず,その状態は今もそう変わりません。それに私は「死」について,「死ぬのはやだよ」くらいのことしか思ったことのない人です。ですからここで話をする人として私は適任ではありません。けれども少し…
 「何が死であると私たちは思っているのだろうか?」という題で少し考えていたのですが,これはあきらめました。ここでは,「素晴らしい死」「きれいな死」という言い方について。これは一方ではわかる気がする。誰もが気持ちの悪い環境のもとで死にたくはない,というか死ぬまで生きている時間を送りたくはない。しかし…,という話です。

◆98/01/15「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」
 『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学)

 「私たちの社会は人に間違った価値を教えてしまっている。もしそう言えるのであれば――私は言えると思っている――人は私たちの間違いによって死ぬのだということである。そしてやはり同じ価値を受け入れてしまっている私たち、あるいは単に死んでくれたら好都合だと思う私たちが、それを受け入れ、手伝ってしまう。
 間違いを教えてしまったことによって死ぬことを認めないなら、「安楽死」もまた認められないと言えると考える。というか、今からではもう遅すぎるのかもしれないけれど、申しわけないけれど、私たちの間違いによって死んでもらいたくない、と言うしかない。」

◆98/05/30「難病患者の自己決定の意味・介護人派遣制度の可能性」(講演)
 第3回日本ALS協会山梨県支部総会
 
「私たちは、自分の体を含めて身の周りのこと、身の周りのもの、身の周りの人が自分の思う通りに動いてくれたらよいと思い、動かなくなったら悲しいと思います。ですから、それが僕らが生きていることの一部分として大切であるということは誰も否定できない。しかし同時に私たちが生きていくことの何割かは、世界というか身の回りのものが自分がコントロールでき思うように動かせる対象じゃないものとして自分の外にあるということにあるような気がするんです。そして、そのこと自体が嬉しいというような気がするんです。私の周りにその世界があって私に入ってくるというか、私はその世界を動かせないけれども感じることはできるといったことでしょうか。そして言ってみれば、私の意のままにならない身体もそういう世界の中のものであるといった経験は、多分言いわけじゃなくて、私たちが生きていく中でかなり重要な大きな部分を占めていることは確かであると思います。
 もし自己決定の主張が、そういった私たちの経験を否定して、何もかも自分の思うように動かしていくことこそが価値であるという主張だとすれば、それは少し違う。
 実はこのような少し抽象的なことを申し上げるのも、山口さんとも電子メールのやり取りの中で1、2度話題になったことなんですが、安楽死というものがオランダである種の合法化がなされてきたり、アメリカでもオレゴン州だけに限られているけれど合法化されてきている。そこで、何が人を死に向かわせているのか。かつてはそれはガンなどによる耐え難い苦痛であったりしたのでしょう。しかし近年は技術の進歩によってある程度痛みそのものは押さえられるようになってきた。その時に何が死に向かわせるのか。オランダで、カナダで、アメリカで、いわゆる積極的安楽死を望む人たちの姿がテレビ番組の映像に映し出されます。その中にはALSの患者さんもいます。彼らの言葉や姿からわかることがあります。西欧で何百年か前に始まった近代社会は、自らが自らの意志によって自らの周りのものをどれだけ自由に動かしコントロールできるかに非常に重きを置いた社会で、そういった社会の中において、次第次第に世界に対して自分のコントロール能力というものが衰えていくことが、非常に大きな否定的な意味をもってしまっている。単にできなくなるという不便さとかを超えた絶望として彼らにのし掛かってくる。あるいは先取りされた絶望、やがてそうなるのではないかという絶望としてのし掛かってくる。それが積極的な安楽死を呼び込んでしまっている現実があるように私には思えるのです。
 自分の体をどうして欲しい、ああして欲しいということを他人に伝えて、その通りにやってもらうような自己決定は今後とも、当然のこととして追求されていかなければいけないのと同時に、本来ならば自分でコントロールできるはずのものができなくなったら人間としての敗北であるというような意味での自己決定主義といいますか自立信仰みたいなものが、逆に障害がある人たちの生き方を狭めてしまう現実があるように思われます。
 …(略)…世界というものはどこかで自分の思い通りにならないけれども生きていくことはけっこうおもしろい、同時に、そうやって生きていることの一部として日々食べたり寝たりする時には自分の気持ちのよいようにやってほしいという自己決定を保障しよう。そんなことになるんだろうと思います。介護・介助の制度の充実を求めてきた運動もまた、実は、そうした運動であったのだと思います。
 私がたいへん尊敬する人の一人に横塚晃一という脳性まひの方がいて、1977年にガンで若くして亡くなってから20年になります。「青い芝の会」という一部ではかなり有名で、今では伝説的な、見ようによっては過激な集団の全国的なリーダーだった人です。その人が亡くなる時に遺言を残しています。それは「はやく、あわてず、ゆっくりやっていくように」という言葉でした。
 なんのかんの言っても暮らすためにはいろいろそろえなければならない。そのために時間があまり残されているわけではない。急がなければいけない。けれど、ゆっくりとあわてずにやっていけという、それだけの単純なことです。ただ考えてみますと、生きていること自体が本当はゆっくりとした営みであるとも、彼は死ぬ間際に言ったのではないかと私には思えるのです。生きていくということは、ゆっくりと緩慢に流れていくようなものである。たしかに、ゆっくり生きていくためには早く何かしなくてはいけないということもあって、それがこうした社会運動にとってはなかなか厄介なことです。しかし私は、彼の言葉から聞こえてくるのは必ずしもそういう矛盾とか悲壮感ではなくて、早くしなければいけないけれどもゆっくりでもよい、本来ならば矛盾する二つのことが並んでいてよいのだ、自分が死んでからもそうやっていってほしい、ある意味では自分がやってきたこともそうであったのかもしれない、そういう言葉だと思います。これには一種の快活さと言いますか、ある種のユーモアがあるような気がします。
 私は、障害のある人たちの動きを15年くらい追ってきましたが、それは私に勇気を与えてくれます。それは今述べたような意味においてです。なにかけなげに、努力して、なにかを克服して生きる姿に感銘、というのではないのです。…(略)…早く実現されるべきことはやむを得ずのかたちでも早くしなければいけない。しかしこの中でもゆっくり悠々と生きていけるのですし、また、ゆっくりと過ごしていくためにこそあった方のよい様々なものがあって、その中のある部分をみなさんは獲得された。
 これから、みなさんはどのように生活を過ごしていかれるのか。また、この会はどのようなかたちで活動を継続し発展させていくのでしょうか。そうしたことを考える時に、「はやく、ゆっくり」という言葉を思います。」

◆98/08/01「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」
 (インタヴュー)『ヒポクラテス』2-5(1998-1):26-31

 「しゃべり言葉でどこまできっちり言えるかどうかむずかしいですけれども、その死に対する希望というか志向みたいなもの自体が、自分の身体を、そして世界を制御し続けたいという、価値というか、価値を介した欲望みたいなものから来ているんだと考えられる。ここに私的所有という規則、所有をめぐる価値と安楽死との関わりがあり、そしてそれは、実は、先に都合、不都合と述べたものと別のものではない。こうした規則、価値がどのような組み立てになっているのか、そしてそれが否定されるとすれば、それはどのような場所からなのか、そうしたことを『私的所有論』という本で長々と考えてみたのです。
 結論的に言えば、自らが制御するものが自らのものであり、自らが制御できることが自らの価値であるという、規則と価値が、身体的な激烈な苦痛の回避のためではもはやなくなっている安楽死を駆動します。この規則と価値を問いつめていくと、それはそうした規則と価値とがあると都合のよい者たちにとって都合がよいという以外の根拠をもっておらず、そしてそれは、私が制御しないものがあること、他者が存在することを受理することが私たちの生の根底にあるとするなら、それに反するものです。
 ですから、安楽死をそのまま受け入れらないと思う。基本は単純なことです。ただ単に「おまえ死ぬなよ」って、それから「そんな理由で死ぬなよ」とか、そういうことだと思うんです。
 身体を自分が常にコントロールしていないとそれは自分ではないとか、人間ではないというような考え方というのは、ここ何百年のあいだに与えられたものであって、それをいつまでも信じていることはないんじゃないか。だからそれを、どこまでぼくらの社会が解体できるか。そういう問題じゃないかと思います。」

「【−−】 いまおっしゃったおまえ死ぬなよっていうのは、他者一般の死みたいなところでは起こらないですね。まったく知らない人間に対してそういう感じは抱き得ないという感じがする。
【立岩】 ほとんどそうでしょうね。
【−−】 私が知っていて、長年つき合ってきた人間が、目の前で死のうとしているというときに初めてやっぱりそうなると思うんです。
【立岩】 その通りだと思います。大切なことを言われたと思うんですね。少なくとも顔ぐらい知っている人、たぶんそうだと思うんです。けれど、どうなんだろう。今、私はその人から遠い。しかし、もし近づいてしまったら、私はその人の死を平静には受け取れないだろうということはわかっているということがあると思うんですね。そのことをどう考えるか。そしてまた、近づかないですむように現実が組み上がっているということもある。まったく知らないですんでいる人たちと、日々死に接して摩耗している人たちと、その二種類しかいないように現実が作られてしまっているとしたら、それはどうかということ。そして、その存在の現われを受け止めずに済ませられるような、その存在を門前払いにしてしまえるような価値がこの社会にあるということをどう評価するかということがあると思います。」

◆99/**/**(近刊?*)「死の決定について」
 大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版 より
 *私の分の原稿は1998年7月に送ってあるのですが,まだ当分出ないかも?。小松美彦『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房,1996)を取り上げています。

 「……加賀乙彦が言う。なお,文中の「この宣言」は日本尊厳死協会「尊厳死の宣言書(リビング・ウィル)」(一九七六年二月)とほとんど同文である。

  「この宣言の趣旨は,回復不能の植物状態でいつまでも生きたくないという意思とともに,そのような状態でいつまでも生き続けて,医療費や精神的気遣いの負担で家族や知人を苦しめたくないという気持ちと,自分がふさいでいた病院のベッドをもっと必要で緊急な病気の人のために早く明けわたしてあげたいという願いが含まれている。私は自分の死に方をそのような方向で決定しているのだ。むろん,ここでも消極的安楽死や尊厳死に反対という人に私は反対しない。人の死に方は人さまざまであって,むしろそのように多様であるほうが人間の自由を守るし,また自然なあり方であるという私の考えは変わらない。
 こういうリビング・ウィルは自分で文章を作るだけでなく,私の場合は妻や息子や娘に自分の意思をよく説明し,宣言内容についての承諾を得ている。
 死んだ人間をあとで世話するのは家族や友人である。私は,死ぬときに,家族や友人に余分な負担をかけたくないのである。」(加賀乙彦[1997:28])

 この稿で主に念頭に置いてきた積極的安楽死についての発言ではない。むしろ,加賀はそれについて(テレビ番組でこの主題について対談をした相手である日本生命倫理学会元会長・星野一正より,はるかに)慎重である。そして彼はともかくそう思って,そう決定して,そのことを書いた。それを否定しようと思わない。
 ただ彼は,それを,『素晴らしい死を迎えるために』という題の本の「素晴らしい死を迎えるために」という文章に書いている。その限りにおいて,彼は呼びかけており,その意味でこの行為は純粋に個人的なことではありえないのだが,しかしあくまで個人的なこととして彼は語る。語ればよい。しかし,「人さまざま」だから人それぞれであとは各自勝手に,とはならない。彼が彼自身について何を決定したかと別に,ここに書かれる様々なことは公論の主題である。例えば,「素晴らしい死」,「安楽な死」をその通りけっこうなものだと肯定しながら,しかし,いささか粗野ではないかと,あるいは,ただ生きようとする,あるいは(美しい)死に方などを考えたりしない粗野な粗暴な生のあり様に対して鈍感であり,その点で粗野ではないかと,言うことである。
 ただ,表に現われる言論は次第に「洗練」されていくに違いない。それ以前の歴史を表に出すことも必要だが――尊厳死協会も以前に比べれば随分「紳士」になったのである――,しかし過去を「反省」し,より慎重になり,危ないことを誰も言わなくなる時がやがて来るかもしれない。その時にもなお,何を言い得るのか。それをも含めて,言い得ることを考えないとならなくなる。だから,以上で,安楽死がなされようする時,既にそこに生じてしまっていることは何かと考えようとしてみたのだった。」

◆99/05/31「大切で危険なQOL」
 21世紀医学フォーラム編集委員会編『第3回21世紀医学フォーラム報告集――QOLを 考える』

 「……きょう、私は矛盾してしまうかのようなことを言ってしまったかもしれません。つまり、一方ではQOLは大切だと言い、一方では、QOLを医療の基準に使ってよいのだろうかという疑問を述べました。また一方で、何がよい生活かということを開いておく、オープンにしておく必要があると述べ、一方で、私たちのもつQOL観が問われなければならないと述べました。
 しかし、次のように考えれば、言ったことは矛盾していないのだと思います。
 生きていくで、その生活がよい生活、生活の質(QOL)が高い生活であることはよいことです。これはほとんど同語反復的にその通りです。しかし、よい生活がよいということと、そのよい生活とはどういう生活であるのかを決めるということは、また別のことです。どうやって生きていくのかということを問わなくてすむような状態がむしろ当然のことであり、それをことさらに問わねばならないということ自体を、どこかでそれでよいのかと思ってみる必要がありはしないか。そして、その人がこういう生活がよい、こういう生活でよいということがそのまま通るのであれば――ここにも常にそれでよいのか、パターナリズムをどこまで否定できるかという問題はありますけれど、しかし――それを受け止め、それがダイレクトに医療に反映されるようなメカニズムを作る必要があるだろう。
 他方で、特に医療を受ける人の直接的な意志が不在である場合、当人以外がなんらかの決定をすることを余儀なくされることがあります。また直接的な選択に頼るだけでは医療の質を保つことが困難である場合、医療の質の統制、向上という観点から、何が望ましいかを評価する必要のある場合があります。この時には、特にそれが生命の維持・存続それ自体に関わる時には、その決定の基準、評価の基準が何であるのかを厳しく問わなくてはならない。今我々が現に持ってしまっている価値、社会の中にあってしまっている価値は医療の中にも当然入ってくる。また時には、例えば「安楽死」を望む人自身の中にも入ってきている。つまり、何を価値のある命とし、何を価値のない命としているのかという、我々が今持っている価値については、不断にそれでよいのだろうかということを問い直していく必要があるのではないか。今日はこれ以上述べませんけれど、特に医療そして生命の継続や終了に関わる場面で用いられる、生命の質という意味でのQOLの使われ方には非常に危ういところがあると私は思っています。」

……以下,おまけ(話そうとして断念したことの一部)……
◆99/03/01「遺伝子の技術と社会――限界が示す問いと可能性が開く問い」
 『科学』1999-03(800号記念特集号(いま,科学の何が問われているのか)

 「…私自身は脳死をどう考えたらよいか定見を得ていない。だが、基本の問題が「脳死は死か」ではなく「何が死であるか」であることはわかる。「何が死か」という問いに答えることができ、次に脳死状態がどんな状態かを記述できるなら、「脳死を死としてよいか」という問いに答えられる。次に、「死」とはA:状態を示すとともに、B:どのように存在を遇するのかを示すものであることを確認すること。A:「この世にいない」、つまり少なくとも普通の仕方では、その人と(その人のその人自身との関わりをも含めた、この)世界とのつながりがなくなることを死とすることがある。そしてこの時、B:焼いたり埋めたり、葬いの過程に入ってよいとされる。私自身は、言われていることが信ずるに足るなら、「ある種の」脳死状態は、私たちが死と思い死としてきた状態に重なると考える。次に、死の捉え方が人によって異なる時にどう考えるべきかという問題がある(cf.[1997:191-195][1999])。これらを考えた上で、さらに移植について、一人の人の生命・生活と一人の人の死とが引き換えになることを巡る危うさを考えることになる。」



安楽死 

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