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性の「主体」/性の〈主体〉

信州大学医療技術短期大学部助教授 立岩 真也



 第35回日本=性研究会議「性の主体性」講演・シンポジウムの記録
 第36回の会議資料に再録

 今日は、性の「主体」と、性の<主体>という、その二重性についてお話ししようと思います。基本的には2つの話です。
 このお話をいただいたときに思い出した人物が1人います。それは、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーです。彼は最後の著作として『性の歴史』という有名な本を書いています。この本は、多分もっと先があったはずなんですが、第3巻まで書かれたところで彼は亡くなってしまいました。
 こんなことを言うことが何らかの意味を持つかどうかわかりませんけれども、彼は同性愛であることを公表しており、そして、HIVに感染し、エイズを発症し、そしてみずから死を選ぶという形で亡くなった。その死の直前まで書いていた本が、未完に終わった『性の歴史』という本です。この本は、私たちが――私は社会学をやっておりますけれども――、社会学、歴史学、総じて社会科学が性というものを扱おうとするときに、非常に大きな意味を持った著作であったのではないかと思います。
 そこに書かれている内容を紹介することがここでの目的ではありませんので、詳しくは述べませんけれども、1つに、彼が特にその第1巻で強調したのは、19世紀のヨーロッパ社会――ビクトリア朝時代というふうに言われたりしますが――に対する我々のとらえ方への異議なのです。
 我々は、19世紀という時代、社会というものが、基本的に性に対して非常に抑圧的な、抑制的な道徳、規範というものを持っていて、それが20世紀、フロイトなどを経て、次第次第に解放というところに向かっていったと考えていました。つまり、20世紀になって初めて、性の禁圧の時代から解放の時代へ向かうという、そういう歴史があったんだととらえてきたのです。それに対して、フーコーは異議を唱えたのです。
 彼は、19世紀に書かれたもの――それは公にされたものも、日記のようなたぐいのものも含めてですけれども――を丹念に調べた結果、この世紀において性というものが非常に頻繁に語られるようになってきた、言説の水準に上ってくるようになってきたということを見いだし、強調しているのです。
 例えば日記の中に、“私”という主語において、みずからの性というものが書き込まれてきている、私の性というものが私にとって主題になってきている。そしてまた、医療の言説の中にも性というものが浮かび上がってきている。そのありさまを、彼は提示しているのです。
 そして、その中で彼は“主体化”という言葉を使っています。フランス語で“assujettissement”という言葉がありますが、それが“主体化”と訳されたのです。一般には“従属”などと訳される場合が多いはずです。英語で“主体”というのは“subject”であり、フランス語では“sujet”ですが、ご存じのように、“主体”という言葉は形容詞として使われる場合に、“〜に従属する”とか“〜に支配される”といった意味もまた含んでいます。フーコーはそのことを知っていて、そういった二重性というものを込めて“主体性”、“主体化”という言葉を使ったわけです。
 すなわち、何かの主体になるということは、何らかのメカニズムのもとでは、何かに従属する、権力に支配される、ということにつながっていく可能性がある。また、性について語るという場面においても、――もちろん語られ方ということがあっての上ですけれども、そこでも我々は、ある種の権力というものに巻き込まれていってしまう。歴史的に見てそういうことがあったのだと、彼は著書で述べているわけです。
 今述べたことがどういうメカニズムで言えるのかということは、彼の本を読んでいただくしかありません。ただ、命題として今言ったたことは、我々が汲み取っておくべき、どこか頭の隅に置いておくべきことであると思っています。

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 以上のような前置きをした上で、2つの話をしたいと思います。
 すなわち「性の主体」あるいは「性の主体性」と言うとき、少なくとも2つの意味があるだろうということ。そして、この2つは、互いに関係しているのだけれども、どこかで微妙に違っており、その違いをクリアにしながら考えていくということが、性――性だけに限りませんが――を考えていく上で大切なのではないだろうか。そういうことを、許される時間内で申し上げようと思います。
 2つのことというのを、仮にここではαとβとします。

 α:身体や性に対して「主体」であると、また主体であるべきだと、はっきり言わなくてはならない場合があります。それはまず、侵入・侵害によって苦痛を受けるのはその人であり、また快を感じたりするのもその人であって、そうした苦痛を防ぐため、また妨げられずに快を得られるために、その人に権利を認める等々のことが必要だからです。
 β:身体・性・他者…を制御できること、その意味で所有・領有していることに価値が与えられることがあります。そして、それがやはり〈主体性〉と呼ばれます。同時に、受動的であること、不如意であること、それらがあらかじめ負の価値のほうに割り当てられることになります。

 αの方にも「主体」という言葉が使われています。私たちが、「私が、私の身体や私の性というものに関して主体である、あるいはその主体であるべきだ」と言わなくてはいけない、言うしかないような場面は、間違いなくいくつもあると思います。
 例えば、私の身体におけるつらいことも気持ちのいいことも、そういったことを感じるのは、とりあえずはその身体に宿っている私です。その私の身体に対して、不適切な、不当な、不快な危害が加えられるということは耐えがたいことです。それに対してそういうことはしてくれるな、これは私であるから、私の体であるから、それに対して何もしてくれるなということを言いたい。言いたいだけでなくて、言うことに正当性があり、そしてまた、言わなくてはいけない場面が、たくさんあります。
 ただそれだけのことです。簡単なことであって、侵入され、侵害されて苦痛を受けるのはまずはその当人でしかなく、そしてまた同時に、快楽というものを得るのもまたその人であるということです。そうであれば、苦痛を防ぎ、快楽を得るために、その人の身体に対する、身体のあり方に対する決定権というものを認めなければなりません。それは、それ以外の人に対しては、とりあえずは差し控えていてもらわなければいけないということでもあるのです。
 ところが、この当たり前といえば当たり前な、当然といえば当然なことを、私たちは、ある意味では残念ながら、ずっと言い続けなければならなかった。それは明らかに、当然の権利というものが守られてこなかったからです。そしてそのような社会である限りは、今後も、私たちはずっと言っていかなきゃならないでしょうし、言うだけではなくて具体的な活動もなされなければいけないでしょう。その点については、このあとで私より適格な方々からお話があると思います。

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 さて、もう一つ別の意味で〈主体〉という言葉が使われる場合があります。βの方です。そしてそれは、今まで申し上げた、身体に対する侵入、介入ということと無関係ではない、そういった位相に存在するようなものではないかと、私は考えています。
 このことに関しては、『私的所有論』(勁草書房、1997年)という著書の中で延々と述べているのですが、ここではごくごく簡単にお話ししましょう。
 私たちの住む近代社会は、「私がつくるもの、私が制御できるものが私のものである」「私のものであるということは別の人のものではない」というきまりをつくって、それを社会のルールとして、成立してきました。このきまりを“私的所有の規則”と言っていいと思います。そしてその規則と同時に、「私の価値というものは、私が制御し、できるということにおいて存在する」、「私が何かに対して制御できる、そのあり方というものが私の価値を証す」という価値もつくり上げてきました。
 そして、そういった文脈の中で〈主体性〉という言葉が語られるのです。これは支配と言ってもよいのかもしれませんし、また別の言い方で述べるほうが適切なのかもしれません。しかし、ある種の客体に対する一種の主体の制御能力という意味では〈主体性〉と言ってよいのかもしれません。そういったきまり・価値というものを私たちの社会はつくり上げてきたということだと思います。
 ところが、身体あるいは性という現象は、「私」に先だって存在するものであり、「私」が制御しきれるものではありません。その事実が、近代社会が与えた教義からはみ出していることから、さまざまなきしみやゆがみが生じてくるのだと思います。
 一つに、こういうことがあると思います。一方で制御するということにプラスの価値が与えられ、同時に受動的であること、あるいは受容するといったことにマイナスの価値が与えられるということが、先ほど述べた価値の中に存在する。そのときに、これはある意味で蓋然的であるのかもしれないし、ある部分恣意的であるのかもしれないのですが、男性の側に能動性、女性の側にその逆のものが与えられる。そのこと自体がどうであるのかという問題もあります。ただ事実としてはそう割り振られ、そして能動性、あるいは制御する側にプラスの価値が与えられ、その逆にマイナスの価値が与えられる。そういう割り振りというものを私たちはつくってきてしまった…。
 そういったことの中に、究極的には肉体的な暴力、そしてまた精神的な暴力として現象するような、一種の支配として、そして赤裸々な暴力としてあらわれるような関係というものが、特に男性から女性への関係として存在してしまっているということがあると思うのです。
 たしかに私たちは、暴力というものを基本的に否定するわけですが、しかし、いままで申し上げたことが当たっているとすれば、実は、どこかでそういったものを否定し切れないというか、悪いんだというふうにいい切れない部分というのも、また私たちは持ってきてしまっているわけです。そうすると、そこに生じてしまうような暴力性といったものを、確実に否定する、批判するという力が弱くなってしまう。そういった時代に今生きているわけです。
 そこの中で具体的に被害を被る人もいるし、あるいはそこの中で、暴力を与える苦痛というものがあるのかどうか知りませんが、支配する一方の側も、ある意味ではその場に縛られているということがいえるのかもしれません。
 βに関わるもう一つは次のようなことです。先ほども申し上げたように、性あるいは身体は、どこかで「私」の制御を離れる部分があると思います。しかしながら、そのことに私たちの社会が価値を与えず、あくまでも制御するという側にプラスの価値を与えるのだとすれば、「私」の身体あるいは性は、「私」にとって余剰なものとなり、持て余してしまうということが生じてしまうような気がします。
 そしてそのとき、さまざまにある対処方の1つに、「私」が性的な身体であることの否認があるような気もするのです。つまり、「私」自身が「私」の身体に対して、例えば物を食べないというような形で、あるいはたくさん食べるというような形で、ぎりぎりまで管理、あるいは制御しようとして、痛めつける。そういうことの中で、マイナスとしてしか価値づけられない身体を自分の手元に置き、手なづけようとする。そうせざるを得ないというようなことが起こっているんじゃないかと思うのです。

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 とすると、私たちは、「性の主体性」をめぐって、困難な二重の課題を抱えているように思います。
 一つは、先ほαで説明したように、何らかの形で性の主体性を防御し、護持すること。いま一つは、βで説明したように、性の主体性の中には、私たちの社会がつくってしまった仕掛けとして、一種の苦痛を与えるようなもの、支配ともいえるようなものがあり、それを自覚した上でその仕掛けを外していく作業も同時に行っていかなければいけないということ。
 つまり、私たちは性の「主体」というものを死守しつつ、なおまた別の意味での性の〈主体〉(性に対する支配/「私」の身体に対する支配でもあり、他者の身体に対する支配でもある)に対する価値の付与、社会的なその仕掛けを、はずしていくといったこともやらなければいけないと思うのです。

討議

司会 宮原忍
シンポジスト
立岩 真也
高橋  都
斎藤有紀子
平川 和子

 宮原 先ほどのお話につい補足することがございましたら、どうぞ。まず立岩先生から。
 立岩 少しだけ補足します。きょうは、特に医療に関係する場面のお話が多く、そういう中で、クライアントの権利、自己決定権というものをどういう形で尊重するのかというお話が多かったように思います。それについては、まったく僕も同感で、僕の話もいろんな意味で関係がなくはないように思います。
 典型的なところでは、自分がコントロールしたいという対象が他者に及ぶ場合、それが一番極端には身体的な暴力として発現するような場合という、深刻なケースがいくつも出たわけですが、それだけではなくて、自分に向かう――自分の身体に向かう、あるいは自分の性に向かうということも、やはりあるわけです。
 それは、ある意味で何かを対象としている自分は主体であるという意味では主体性と言えるのだけれども、実は、身体に対する、あるいは性に対するそういう対し方こそが、さまざまな苦しさ、厳しさを生じさせているのではないか。とすれば、そこにも目を向けなければいけないんじゃないかということです。それは、例えば性的な障害をもっていた場合に、そのことに対して自分がどう感じるかといったことにも関係すると思います。その辺で、みなさんのお話と僕の話とつながりがあるのではないかと思いました。
 宮原 立岩先生には主体性の侵害、もっといいますと、性についてウエルビーイングといいますか、あるべき状態というものが欠如しているというお話をいただいたと、理解しております。
 高橋先生には、病気と性についての関わりをお話しいただきました。……

(略)

 立岩 質問というか、日ごろ考えていることを少し話します。
 僕は、フィールドとして、身体に障害のある人たちの暮らしを追っているんですが、近年になって、身体に障害のある人、それから知的な障害のある人たちが、自分たちの性についてどういうふうに思ってきて、どういうふうにしたいのか、そういうことを言うようになってきました。
 もちろん、ご存じの方はたくさんいらっしゃると思いますが、身体に障害がある人たちがそういうことをしゃべり出したのは、日本だと80年代の初めぐらいからだと思います。何冊か、本当にいい本が出てます。
 それから、95〜96年にかけて、今度は特に知的な障害がある人たちのサイドで、やはり性についての発言が出てきています。もちろん身体に障害がある人の場合にも、頸椎損傷の男性の場合どうかとか、ケースによって問題が微妙に異なり、簡単に整理はできませんが、自分の思いを主張する人が出てくる。並行して、そういうことに関係する海外の動きなども入ってくるということが、ここ10年、20年の間にあったと思うんですね。
 まず、そういう人たちが何を言っているのかということを聞く。別に、全部受け入れる必要はないと思いますが、わからないわけですから、わからないことには耳を傾けたほうがいい。そういう人たちが主張していることというのは一体何なんだろうかということを、正確に知ってるのかというと、まだそうじゃないと思うんです。
 病気の場合、なったばっかりだと、「どう思ってるの?」と言われても、ちょっと答えづらいところがあるかもしれないけれど、障害者の場合、多くはずっと障害を抱えてきていますから、性についてどう考えるかということも割と長い間考えてきたということがある。それで、こうしてほしい、ああしてほしいということが出てくる。こうしてほしいんだ、ああしてほしいんだということが出てきたときに、それを 100%受け入れるということには、必ずしもならないと思うんです。「でも、そんなことはできないわ」っていうことになるかもしれない。そのときに、それは社会的に保障できるのかできないのかを考える。
 彼らの主張を、考えるべきテーマとして、私たちが今までどれだけ取り上げてこれたのかというと、僕はちょっと疑問なんです。そういうことから、まずやるべきだというふうに思います。
 そういう意味では、まず当事者たちの声を、大きい声だったらそれをそのまま聞く。つぶやきだったら、どうやってそれを大きな声にしていくのかということを考える。それを聞いた上で、何か教育のプログラムをつくっていくというふうになるのが順序ではないかと、私などは思います。
 というのは、性に対して今まで言われてこなかったわけじゃなくて、いろんな形で言われてはきた。例えばマスタベーションについて言われてきた歴史は百年以上あるわけです。だから、それは言説が空白だったわけではなくて、むしろある種の言説というものが、例えばある種の障害をもつ人たちの性を抑圧してきたというのがあるわけですね。だから、そういうことも含めて、じゃあ、本人たちは少なくともどういう希望を持っているのかということを知るということが、まず必要ではないか。
 僕は性的な被害においても、それから、かなり性格の違うことですけれども、病気あるいは障害のある人たちの性ということに関しても、それに対する専門家というのが、何か力をつけてきて、こうなんだとプログラムを提示する前に、時間をとって、待って、言われたことを聞いた上で、疑問を感じて、その疑問について考えるというプロセスを、歯がゆくても経る必要があるんじゃないか、そうじゃないと、そんなによくならないじゃないかという感じがしてます。
 もう一つ、僕は医療サイドにそういうことをやってもらうということに対してはわりと批判的です。たしかに今よりはよくなると思います。よくなるとは思いますが、しょせん、医師というのは技術者ですから、わからない部分がやっぱりある。そういう人たちに、もう少しわかるようにしようという教育も大切ですが、そちらにあまり過大な期待をかけるということは、僕は非現実的だと考えます。
 となると、別のサイドの人たちがどういう形でそういう場にかかわってこれるのかを、現実的に考えなくてはいけない。そういう人たちと医師が協力していくシステムというのを病院内に、そして病院外につくっていくということ。それが有効な方法なんじゃないでしょうか。
 例えば話を聞く人というのは、はたして医療サイドの専門家だけなのか。僕はそうじゃないと思う。例えば障害者の性に関して一番アドバイスできるのは、同じ障害を持つ人たちでした。ということを考えると、そういう仕事を専門職が独占するというやり方も拙速であるかもしれず、むしろみずからの経験も踏まえて話を聞き、相談にしても、もっと当事者が参画できる余地を広げていくことが必要なんじゃないかと思う。
 重ねていいますが、医療サイドの人に私はこういう仕事を任せたくないのです。簡単にいうと、適していないと思いますので、別の人たちがやらなければいけない。別の人たちがやった上で、医療サイドはそれと連携しなければいけないというふうに思います。
 そして、別の人の中には、当事者が一定以上含まれていなければならない。あるいはそういう人たちに対して従来の専門家が協力していく形がいい。ある種のカウンセリングのテクニックを伝授するとか、ある種の知識を教えるとか、そういった方向に物事が進んでいくといいのではないかと、私は考えます。

 (以下略)

 ……以上……

Foucault, Michel
摂食障害
障害者と性

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