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>HOME >Tateiwa 『朝日新聞』1999-05-30 立岩 真也 199905 電話で打診がある 19990517 メモ・1をEメイルで送付 19990520 取材を受ける この時にメモ・2 19990527 関連部分のFAXを送っていただく 19990528 FAXのやりとり 19990530 塩倉裕「探検キーワード・命」,『朝日新聞』1999-05-30 ■メモ・1 19990517 「いのち」「生命」…? 〇 思考の消失点としての 思考の停止点みたいなものではある。そうであるべきなのかもしれない。 しかし、それにしても? 例えば 〇苛立ち 今の社会のもろもろの問題は 利己主義にある だから… 究極的に「命をさしだせ」(さしだす覚悟をもて)〜犠牲 戦争 愛国 という言説 B の A に対する 犠牲的=利他的な行為 をC が B に強いる〜勧める この時、B→Aにおいて行われることを 「よし」として しかし C→Bにおいて、なされていることはその「よさ」自体を否定しはしないか。 直接的なメッセージとしては「お前=Bは死ね」ということなのだから。 こういうところが 難しいんだと思う。 であるのに …… 〇他方で、純粋に、「私のこと」としたとしても… 「よい生命」 と同時に「質」 QOL=クオリティ・オブ・ライフって 生活の質 と言われればわかる気がするのだが でも 「生命の質」でもある。 〇「私は私としての死(生)をいさぎよく…」というのと 「私たちは(あるいは、お前は…)…」というのと そう違うだろうか。 (移植を待っている人のだけじゃない) 野蛮な、美しくない、生存への執着というものを、仕方なくでもなんでも 認める?ところから始めないと まずいんじゃないか。… ◆cf.◆ ◆ 「「生命尊重」、この言葉は敵の殺人的意図も罰せられないという意味を内包している政治スローガンである。「生命」は、いまや粉石けんから浴槽にいたるまですべてのものを推奨するのに最もよく使われるキーワードの一つになっている。…「生命」なる言葉は、今日では無内容であると同時に内容に満ちあふれ、ほとんど分析に値しないのに闘争宣言にもなる。」(Duden[1991=1993:162]) (拙著『私的所有論』第5章冒頭に引用) ◆ 99/03/01 「遺伝子の技術と社会――限界が示す問いと可能性が開く問い」 『科学』1999-03(800号記念特集号(いま,科学の何が問われているのか) 「★06 ……。強制されてはならないとはとりあえず言えるだろう。しかし同意しているならかまわないと言えるか。これは、自らが犠牲になる、「身を切る」行いである。自己犠牲は賞賛される行いだが、犠牲になることを認め推奨することができるか。犠牲について、これまで私たちはたいしたことを考えず、決めてこなかった。そうしたことが行われたり行われなかったりするのは、閉ざされた極限状況であり、その時どうするかはその場で考えるしかなかったからである。しかし移植は日常的な可能性をもつことととして現われてくる。この時、「犠牲」をどう扱うかという難題を社会は抱えることになる。 私自身は脳死をどう考えたらよいか定見を得ていない。だが、基本の問題が「脳死は死か」ではなく「何が死であるか」であることはわかる。「何が死か」という問いに答えることができ、次に脳死状態がどんな状態かを記述できるなら、「脳死を死としてよいか」という問いに答えられる。次に、「死」とはA:状態を示すとともに、B:どのように存在を遇するのかを示すものであることを確認すること。A:「この世にいない」、つまり少なくとも普通の仕方では、その人と(その人のその人自身との関わりをも含めた、この)世界とのつながりがなくなることを死とすることがある。そしてこの時、B:焼いたり埋めたり、葬いの過程に入ってよいとされる。私自身は、言われていることが信ずるに足るなら、「ある種の」脳死状態は、私たちが死と思い死としてきた状態に重なると考える。次に、死の捉え方が人によって異なる時にどう考えるべきかという問題がある(cf.[1997:191-195][1999])。これらを考えた上で、さらに移植について、一人の人の生命・生活と一人の人の死とが引き換えになることを巡る危うさを考えることになる。」 ◆ 99/**/** 「大切で危険なQOL」 『第3回21世紀医学フォーラム報告集――QOLを考える』 「……きょう、私は矛盾してしまうかのようなことを言ってしまったかもしれません。つまり、一方ではQOLは大切だと言い、一方では、QOLを医療の基準に使ってよいのだろうかという疑問を述べました。また一方で、何がよい生活かということを開いておく、オープンにしておく必要があると述べ、一方で、私たちのもつQOL観が問われなければならないと述べました。 しかし、次のように考えれば、言ったことは矛盾していないのだと思います。 生きていくで、その生活がよい生活、生活の質(QOL)が高い生活であることはよいことです。これはほとんど同語反復的にその通りです。しかし、よい生活がよいということと、そのよい生活とはどういう生活であるのかを決めるということは、また別のことです。どうやって生きていくのかということを問わなくてすむような状態がむしろ当然のことであり、それをことさらに問わねばならないということ自体を、どこかでそれでよいのかと思ってみる必要がありはしないか。そして、その人がこういう生活がよい、こういう生活でよいということがそのまま通るのであれば――ここにも常にそれでよいのか、パターナリズムをどこまで否定できるかという問題はありますけれど、しかし――それを受け止め、それがダイレクトに医療に反映されるようなメカニズムを作る必要があるだろう。 他方で、特に医療を受ける人の直接的な意志が不在である場合、当人以外がなんらかの決定をすることを余儀なくされることがあります。また直接的な選択に頼るだけでは医療の質を保つことが困難である場合、医療の質の統制、向上という観点から、何が望ましいかを評価する必要のある場合があります。この時には、特にそれが生命の維持・存続それ自体に関わる時には、その決定の基準、評価の基準が何であるのかを厳しく問わなくてはならない。今我々が現に持ってしまっている価値、社会の中にあってしまっている価値は医療の中にも当然入ってくる。また時には、例えば「安楽死」を望む人自身の中にも入ってきている。つまり、何を価値のある命とし、何を価値のない命としているのかという、我々が今持っている価値については、不断にそれでよいのだろうかということを問い直していく必要があるのではないか。今日はこれ以上述べませんけれど、特に医療そして生命の継続や終了に関わる場面で用いられる、生命の質という意味でのQOLの使われ方には非常に危ういところがあると私は思っています。 もちろん、以上述べたことの続きを考えることが、考えるべきことなのではあります。しかしそのことをどう私が考えるのか、それは少々、少々ですがこみいった話でもありますし、それをお話しする時間的な余裕がありません。先ほどあげた私の著書の中である程度のことを述べ、その後書いたものの中で考え、また今後書くものの中でさらに考えを進めていきたいと思っております。 以上で私の話を終わらせていただきます。」 ◆ 99/**/**(近刊?) 「死の決定について」 大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版 より 「……加賀乙彦が言う。なお,文中の「この宣言」は日本尊厳死協会「尊厳死の宣言書(リビング・ウィル)」(一九七六年二月)とほとんど同文である。 「この宣言の趣旨は,回復不能の植物状態でいつまでも生きたくないという意思とともに,そのような状態でいつまでも生き続けて,医療費や精神的気遣いの負担で家族や知人を苦しめたくないという気持ちと,自分がふさいでいた病院のベッドをもっと必要で緊急な病気の人のために早く明けわたしてあげたいという願いが含まれている。私は自分の死に方をそのような方向で決定しているのだ。むろん,ここでも消極的安楽死や尊厳死に反対という人に私は反対しない。人の死に方は人さまざまであって,むしろそのように多様であるほうが人間の自由を守るし,また自然なあり方であるという私の考えは変わらない。 こういうリビング・ウィルは自分で文章を作るだけでなく,私の場合は妻や息子や娘に自分の意思をよく説明し,宣言内容についての承諾を得ている。 死んだ人間をあとで世話するのは家族や友人である。私は,死ぬときに,家族や友人に余分な負担をかけたくないのである。」(加賀乙彦[1997:28]) この稿で主に念頭に置いてきた積極的安楽死についての発言ではない。むしろ,加賀はそれについて(テレビ番組でこの主題について対談をした相手である日本生命倫理学会元会長・星野一正より,はるかに)慎重である。そして彼はともかくそう思って,そう決定して,そのことを書いた。それを否定しようと思わない。 ただ彼は,それを,『素晴らしい死を迎えるために』という題の本の「素晴らしい死を迎えるために」という文章に書いている。その限りにおいて,彼は呼びかけており,その意味でこの行為は純粋に個人的なことではありえないのだが,しかしあくまで個人的なこととして彼は語る。語ればよい。しかし,「人さまざま」だから人それぞれであとは各自勝手に,とはならない。彼が彼自身について何を決定したかと別に,ここに書かれる様々なことは公論の主題である。例えば,「素晴らしい死」,「安楽な死」をその通りけっこうなものだと肯定しながら,しかし,いささか粗野ではないかと,あるいは,ただ生きようとする,あるいは(美しい)死に方などを考えたりしない粗野な粗暴な生のあり様に対して鈍感であり,その点で粗野ではないかと,言うことである。 ただ,表に現われる言論は次第に「洗練」されていくに違いない。それ以前の歴史を表に出すことも必要だが――尊厳死協会も以前に比べれば随分「紳士」になったのである――,しかし過去を「反省」し,より慎重になり,危ないことを誰も言わなくなる時がやがて来るかもしれない。その時にもなお,何を言い得るのか。それをも含めて,言い得ることを考えないとならなくなる。だから,以上で,安楽死がなされようする時,既にそこに生じてしまっていることは何かと考えようとしてみたのだった。」 ◆ 書評:鷲田清一『悲鳴をあげる身体』(1998,PHP新書) 『東京新聞』1998-11-29 ひどく身体(からだ)のことを気づかっているようで、身体を痛めているのではないか。というより、身体への気の使い方そのものが身体を痛めることになっていないか。筆者は、私たちがなんとなく感じていることを、食べることや装うことや性のこと、様々な題材を取りあげ考えていく。村上龍や吉本バナナの小説が引かれる。フランスの哲学者マル セルの『存在と所有』というあまり注目されてこなかったがとても重要な著作が紹介され 検討される。きものや山本■司や川久保玲らの衣服と身体との関わりが論じられる。 身体はゆるみとすきまをもっている。しかし近代のそして現在の社会は身体をそう捉えない。身体を私の身体とすることが私たちを苦しくさせていると、私の身体と言うが考えてみれば身体が私のものだとそう簡単に言えはしないのにと、筆者は述べる。読んでいって、私たちは、私たちが漠然と感じているのはこういうことかと思う。 ただ、この息苦しさから抜ける道はどこにあるだろう。筆者が「現在の身体が抱え込んでいる痛みと希望」とプロローグに書くとき、希望はどのように現われるのだろうか。人間にとって本来の「自然」は存在せず、他人との共同生活の中での「段取り」がその代わりをつとめてきたのだが、それが失われ、人は自らの身体を過剰に気にし攻撃してしまうと筆者は言う。そうかもしれない。といって、来た道を戻り何か生活の様式を作るのは簡単でなさそうだ。また筆者が最後にあげるのは「添い寝」に見出される「間身体性」で、これもこれでわかるのだが、例えば摂食障害の人にそれはどう伝わるだろうか。苦しくさせているものと別のものを別のところに見出して楽になろうとするより、なぜこんな具合になっているのかをその場に即して考え、その場から出発しながら、苦しくさせているものを剥ぎ取っていくしかないように私には思える。つまり、一つだけこの書への不満を書くならそれは、今ある痛みそれ自体をもっとていねいに辿ってほしかったということ。この時、この書のメッセージは、痛めている人、痛んでいる身体によく届くだろうと思う。 ■メモ・2 19990520 いのちを大切にしよう 全然反対じゃない いのちのことを考えよう 前線反対じゃない しかし ◇一方で 曖昧にされてしまう ◇一方で 妙に具体的に 実感をこめて よいいのち〜よい生〜よい死(同時に よくないいのち…) が語られてしまっている ◇総じて 問われるべきことが問われなく終えられるしまうに際しての 「符丁」のようなものになってはいないか。 ◇曖昧にされ方はいろいろ 例: 自然科学による「生命の探究」がそれ自体としてなにか「私たちの生き方」に ついて何かを言うかのように受け止められてしまうこと 論理的に? そして様々な「科学」が「利用」されてきた歴史への無感覚 cf.『大正生命主義と現代』における発言 例: 「いのちにふれる」 こういうことの大切さを否定しない しかし、人のことを考えてみれば、そうそうふれられたくないことだってある 例: 「犠牲」〜メモ・1 (これはちょっと考えてみないと… まだうまくまとまらない。) ある種の「共同体主義」のようなものが言われだす 「社会問題」のいっさいがそういうことに起因するのだというような言われ方 をする。 そのいう言い方のすべてが間違っていると断言するものではない。 しかし、… (移植 少なくともドナーが生きているのであればこれはいのちの ゼロサムの やり とりである 一方が得る時には一方が失う これをかろうじて 脳死という「死」が… そうではあっても、(仮に生きている場合であっても)いのちを誰かのための 差し出すということはうるわしいことではあるに違いない しかし、それを「推奨」するということは… ◇よいいのち QOL〜尊厳死 延命治療 と呼ばれるものをすべて肯定しようとかそういうことではない むしろ「延命治療」を批判するために、「無意味な生」を言わなくてはならな いのか そういうことを考えるべきであるのに、… 多分そういうことは気づかれてきている。 そんなにがんばって、かっこつけることはないのだ、というように… 赤瀬川源平の本が売れたりすることもこれと関係がなくはない。 (しかしこの時でさえも、これまでよくないとされてきた何か別のものをよい ものとしなくてはならないような苦しさがないわけではない。) ■1990527 FAXで送っていただいた原稿 では生と死をどう考えるのか。立 岩さんは「その人(他者)がいる、 とはどういうことか」から考える。 「それはきっと、『私の世界では ない世界が、その人のもとにある』 ということなのだと思います」 ならば、死とは? 「その人のもとから、そういう世 界がなくなったとき、『その人は私 たちの世界にはいない』ということ ちなり、そうなったら、その人の体 とおさらばしてもいい。そんなふう にしてきたのではないでしょうか」 その考え方に照らしたとき、脳死 は死だ、と言えるのだろうか。 「死と言える余地はあるかもしれ ない。そんな予感はありますが、ま だ考えるべきことが多いです」 ■1990528 送った「案」 では生と死をどう考えるのか。立 岩さんは「その人(他者)がいる、 とはどういうことか」から考える。 「それは、『私の世界ではない世 界が、その人のもとにある』という ことではないでしょうか。ただそれ は明確な意識の存在と同じではない」 ならば、死とは? 「その人のもとから、そういう世 界がなくなったとき、『その人はこ の世から去った』と、そして、その 人と別れる過程が続く。そんなふう にしてきたのではないでしょうか」 その考え方に照らしたとき、脳死 は死だ、と言えるのだろうか。 「その余地はあると思う。けれど 言えたとして、その上でどう対すの か、考えないとならないことは多い」 ■0530 塩倉裕「探検キーワード・命」,『朝日新聞』1999-05-30 新聞を御覧ください。 |