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>HOME >BOOK 立岩 真也 『東京新聞』1998-11-29 http://www.tokyo-np.co.jp/ ひどく身体(からだ)のことを気づかっているようで、身体を痛めているのではないか。というより、身体への気の使い方そのものが身体を痛めることになっていないか。筆者は、私たちがなんとなく感じていることを、食べることや装うことや性のこと、様々な題材を取りあげ考えていく。村上龍や吉本バナナの小説が引かれる。フランスの哲学者マルセルの『存在と所有』というあまり注目されてこなかったがとても重要な著作が紹介され検討される。きものや山本□司や川久保玲らの衣服と身体との関わりが論じられる。 身体はゆるみとすきまをもっている。しかし近代のそして現在の社会は身体をそう捉えない。身体を私の身体とすることが私たちを苦しくさせていると、私の身体と言うが考えてみれば身体が私のものだとそう簡単に言えはしないのにと、筆者は述べる。読んでいって、私たちは、私たちが漠然と感じているのはこういうことかと思う。 ただ、この息苦しさから抜ける道はどこにあるだろう。筆者が「現在の身体が抱え込んでいる痛みと希望」とプロローグに書くとき、希望はどのように現われるのだろうか。人間にとって本来の「自然」は存在せず、他人との共同生活の中での「段取り」がその代わりをつとめてきたのだが、それが失われ、人は自らの身体を過剰に気にし攻撃してしまうと筆者は言う。そうかもしれない。といって、来た道を戻り何か生活の様式を作るのは簡単でなさそうだ。また筆者が最後にあげるのは「添い寝」に見出される「間身体性」で、これもこれでわかるのだが、例えば摂食障害の人にそれはどう伝わるだろうか。苦しくさせているものと別のものを別のところに見出して楽になろうとするより、なぜこんな具合になっているのかをその場に即して考え、その場から出発しながら、苦しくさせているものを剥ぎ取っていくしかないように私には思える。つまり、一つだけこの書への不満を書くならそれは、今ある痛みそれ自体をもっとていねいに辿ってほしかったということ。この時、この書のメッセージは、痛めている人、痛んでいる身体によく届くだろうと思う。 ◇鷲田清一 ◇身体 ◇立岩真也・書評 |