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彎曲する空間 ―医療に介入する社会学・序説2―

日本社会学会大会 1997.11
於:千葉大学
立岩 真也(たていわ しんや)
信州大学医療技術短期大学部


 例えば,医療の供給者と利用者との関係を契約関係とすることは「徒らに」両者
を敵対関係に置くものであってよろしくない,信頼関係が大切だといったことが言
われる。例えば,利用者は非力であり,決定主体であることができず,この時,供
給者がその弱さを補うような存在としてあらなくてはならないといったことが言わ
れる。しかしこれはとても不思議なことだと言わねばならない。そして,この不思
議さがそれとして了解されているかどうかも疑わしく,不思議が不思議として受け
取られないこと自体がこの場を関係を編成しているのだと言える。
 まず,そうした不思議な言説を列挙して提示する。当日の発表ではこの言説空間
の存在自体の指摘を一つの目的とし,一定の時間を使う。それにしても口頭で報告
するには時間が足りないから,種々の具体的な言説は,当日配付する資料及び,ホ
ームページ★01から提供されるものとする。
 何が不思議なのか。第一に,論理的に繋がらないということである。仮に,A:
病者=利用者に十全な決定能力,あるいは決定の意志がないとしよう。この時,で
は,B:医療の供給者に決定を行う権限があると言えるか。言えない。Aに決定が
不在であることは,Bに決定が委ねられることをいささかも意味しないのである。
たしかに,その場にAとBしかおらず,Aの決定が不在であり,しかも決定が余儀
ないものであり,Bが決定するしかないような,あるいはBが決定について悩んで
しまう状況が現実に存在するだろう。しかし,ここで問題とされるべきは,そのよ
うな状況が設定されていること自体であり,なされるべきは,Bの決定を前提とし
て議論を進めることではなく,Bに悩んでしまう権限があるのかと考えること,な
いはずだというところから考え始めることである。★02
 第二に,両者の間には,対立の可能性が,つねにその対立が現実化されるのでは
ないにしても,現実的な可能性として存在する。このことを閑却して「信頼関係」
云々を言うのは,まったく現実的ではない。★03
 第三に,供給者側の能力の問題である。仮に,医療という技術を提供する存在が,
利用者の意向を尊重しつつ,決定のあり様に(も)関与する存在であってもよい場
合があるとしよう。しかしその供給者にそれを担えるだけの能力があるか。これは,
個々人の資質のあり方というより,職業や職業教育の構造に関わることである。★04
 少なくとも以上を検討する必要がある。そして以上から,医療社会学が行ってき
たことを検証してもよい。たしかに医療社会学は以上に簡略に述べたことに関わる
多くの事実を明らかにしてきた。ただ,ある前提を立てた時に導かれる帰結は何で
あるのか,それと現実との偏差は何であるのか,といった問いの立て方が自覚的に
採用されることはあまりなく,そしてこのことは,医療という領域を特殊なものと
して語る言説空間,そして医療実践の空間に,それを解明の対象とする「学」が巻
き込まれてしまうことに繋がりはしないか★05。また代わりに何を構想するかとい
う構想力を欠けさせることにならないか★06。時間的に可能ならこの点についても
口頭発表で言及したい。

■注
★01 「生命・人間・社会」(仮称)。http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEI
WA/1.HTM。本報告の内容に関連して報告者が書いた文章は立岩[1996a][1996d]
[1997a][1997b]。本報告の前提となる基本的な主題についての検討は「私的所
有」を論ずる[1997b]で検討した。「自己決定」の問題がその第4章「他者」第3
節「自己決定」(1「自己決定は肯定される」2「自己決定の/を巡る困難」3
「自己決定は全てを免罪しない」4「決定しない存在/決定できない事態」5「自
己決定のための私的所有の否定」6「条件を問題にするということ」)で検討され
ている。医療の領域が具体的に念頭に置かれている。なお本報告の主題については
別書を用意する。
★02 「良心的であるほど,その人は悩むのだが,しかしそこにしばしば欠けてい
るのは,(少なくとも自分だけが「悩む義務」がないのと同時に)自分には「悩む
権利」がないのだという当たり前のことの自覚である。悩む(悩んでしまうほど良
心的である)ことと(過剰な)自尊はしばしば相伴って現われ,それが決定を他の
人達に渡そうとしないことにもつながってしまう。」(立岩[1997b])
★03 「契約関係は日本社会には「なじまない」から,医者と患者の間の「信頼関
係」が大切だといったことが言われる。「信頼関係」はきっと大切なものではある
だろう。しかし,良心や心構えでどうこうなるというものではない構造的な要因が
絡んでいるからこそ,「患者の自己決定」や「インフォームド・コンセント」が主
張されてきたのであり,それを無視するのはその意味を否定することでしかない。
このことは文化の差等々とまずは独立に言いうることである。」(立岩[1997b])
「…問題を生じさせてしまう関係自体の問題性が消去され,権利を侵害する可能性
を有する側の「良心」の問題として語られてしまうことの倒錯,この倒錯を倒錯と
しない倒錯をはっきりさせることである。供給者(医師等)はもっとよく利用者
(患者)の要求を聞くよい供給者にならなければならないと言われる。間違っては
いないだろう。しかし,両者の利害は対立する。少なくとも対立しうることを前提
にして考える必要がある。本節2でその要因の一端をごく簡単にだが述べた。それ
らは医療の領域に限らず構造的に生じうるものだった。さらに,供給されるサービ
スについての供給者と利用者の知識の差異,供給者は供給を職業とし,同業者の集
団を作るのに対し,利用者は多くの場合,一時的に個人としてそのサービスを利用
するだけであることによる力の差がある。ただ,これも医療に限らずどこでもよく
生ずることであり,医療だけを特別視することはない。(教育や選抜のあり方等も
背景とした)医療者個々人の資質に起因する部分があることを否定しないが,少な
くとも問題はそこにだけあるのではない。よい人になればよいと言って解決しない。
だから,問題が問題として現われている。にもかかわらず,供給者がよい供給者に
なることを期待する,供給者の良心に期待する,これも供給者にやってもらう,と
いう主張の仕方には限界があるのに,この領域ではこのように語られてしまう,そ
して供給者サイドが語ってしまう機制が分析されるべきである。」(立岩[1997b])
 「対立しうる要因」については,立岩[1996d][1997a]でも述べた。そして,
注意すべきことは,またここであげた文章に述べたことは,当事者(=利用者)と
直接の供給者の間の関係だけに対立の可能性があるのでないこと,そして,対立
(の可能性)だけがあるのではないということである。
 「自己決定を認めることはひとまず1)@周囲にとって負担だが,A周囲の利害に
添う決定だったら利益になる。2)@決定を本人に委ねることによって心理的な負荷
を免れることがありうるが,Aその本人にかかった負荷が周囲に波及するなら結局
周囲にとっても負担になりうる。」(立岩[1997b],[1997a]でより詳しく述べ
た)
★04 末期医療に関し医師が担おうとするが担う準備もなく実際に担っていない役
割について佐伯・山崎[1996]。
★05 ★03の記述を参照のこと。「社会学は医療を特別視しすぎてないか…例えば
専門性自体は医療に限られず,「専門家支配」もどこでも生じうる」(立岩[1997
b])立岩[1996b]も参照されたい。
★06 「受験が上手な学生ばかり医学部に入ってきてよくないと指摘され,その指
摘はその通りだとして,著者がそれに対して提案するのはリベラル・アーツ(一般
教養)の重視である(終章)。これもよいことだと思う。けれども,問題にもっと
直接に応ずる手はないものだろうか。あまり現実性のない話ではあるが,たとえば
たくさん学生をとってしまうとか。そうすると供給過剰になるだろう。しかしそれ
は悪いことだろうか。あるいは,感染症から慢性疾患へという疾病構造の変化にと
もなって,医者が「技術者」から「援助者」になる,なるべきだと言う(第5章)。
これもそうだと思う。しかし,たとえば医者はあくまで技術者であってよく,技術
を発揮する場面がもし少なくなるなら,医者の仕事が少なくなればよく,技術以外
の部分は医者でない人が対応すればよいのではないか。こんなことも考えられなく
はない。医者がよい医者であってほしいという主張はまったく正しく,そのための
改善策の主張も正しい。だが,権威主義や,受験における人気等々から医療と医者
を解き放つことがもしよいことなのであれば,医療をもっと突き放して考えていく
こともできるように思うのである。」(立岩[1996c])

■文献(◇のあるものはホームページで読むことができる)
佐伯 みか・山崎 喜比古 1996 「末期患者の意向尊重をめぐる医師の役割認知
          に関する研究」,『保健医療社会学論集』7:26-36
立岩 真也  1996a 「医療に介入する社会学・序説」,『病と医療の社会学』
          (岩波講座 現代社会学14):93-
          108
―――――  1996b 「書評:黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と
          課題』(世界思想社,1995年)」,『日本生命倫理学会ニュ
          ーズレター』10:6-7 ◇
―――――  1996c 「書評:村上陽一郎『医療――高齢社会へ向かって』(読売
          新聞社,1996年)」,『週刊読書人』2160:8 ◇
―――――  1996d 「だれが「ケア」を語っているのか」,『RSW研究会 研
          究会誌』19:3-27 ◇
―――――  1997a 「私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のため
          に」,太田省一編『分析・現代社会――制度/身体/物語』,
          八千代出版:154-184
―――――  1997b 『私的所有論』,勁草書房



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