>HOME >Tateiwa
「愛の神話」について
――フェミニズムの主張を移調する――

立岩 真也 19960229
『信州大学医療技術短期大学部紀要』21,pp.115-126



1 考察の開始

   家族(内の特定の成員)に与えられている行為、家族と家族でないものとの境界は,どんな要因によって成立しているのか、どんな効果を生じさせるのか、どんな原理によって正当化あるいは批判しうるのか。その答として既にあるものに、私はあまり説得されない。そこで考察を始めた。
   これまで行ってきた前提的な考察1)2)において、私は、近代家族の特徴を愛情や自発的結合に求める時、家族(の成員・行為)の外延的な定義が不可能になること、家族に義務を付与する根拠が見い出されないことを指摘し、にもかかわらず、例えば法的には、家族の外延が設定され、義務が付与されているという現実(の不思議さ)に着目すべきことを述べてきた。「家族社会学」について私達が驚くべきことは、こうした事態に対する無自覚さである。これは、「機能」という語が全く曖昧に使用されていること、当事者による規定とその外の者(達)による規定との存在性格の違い、存在と当為の差異に無自覚であることによる2)。
   「社会福祉」について「社会福祉学」や「家族社会学」(に限らないが)で語られることにもまったく同様のことが言える。「核家族化」や「高齢化社会」が語られ、「家族が担いきれない」という現実が指摘される。それは現実としてその通りではある。だが、はたして本来家族は(もし担えるのであれば)「担うべき」なのか。この問いに対する答え方によって、実践的な指針はまるで異なってくる3)4)。にもかかわらず、この問い自体が発せられず、見られるのは、「担いきれない」という「現実」から、家族外の誰かが(たとえば「社会」が)「担うべき」という「当為」への横すべりである。
   これらと比較した時、フェミニズムが行ってきたことは、「普通」の状態の中に問題を感じ、それを言語化し、さらに別のものを対置しようとする試みであるがゆえに、現実の基本的なところを根本的に問おうとし、自らの主張の根拠を提示しようとするから、上記した主題を考える上で貴重な作業となっている。
   フェミニズムは、一つに現実を説明しようとする。ある規範が存在するというだけの理由でそれが存続するとは考えにくいとすれば、それ以上の何かが働いていると考えるのはもっともである。そこで利害関係の存在が疑われる。利害が一致しているからその状態が存続しているかもしれず、あるいは多数者・強者の側が物的・心理的な利益を得ているのかもしれない。また、利害の不等性を覆い隠す何らかの装置があるのかもしれない。
   もう一つは正当性の検討、あるいは批判の根拠の吟味である。利害は当然対立することがある。論理によって現実が決しているというのではないが、対立の中で対立する双方が持ち出さねばならないのは論理である。どういう基準から正当あるいは不当なのかを示さねばならない。
   だが、問おうとする対象自体の複雑さと、その時々の現実に対応せねばならないことによって、フェミニズムの主張の中には様々な要素が混在し、その中には根拠が明らかでないもの、主張自体に曖昧さのあるものがあり、その各々が十分に吟味されないままになっている。家事労働の問題一つをとってもそう単純な問題ではない。家族と家族でないもの、例えば市場との境界という根本的なことに関わっている。その着眼を損わずに、分析・分節の作業を行うことが必要だと考える。
   本稿は、特に家事労働を巡る議論に持ち出される「愛のイデオロギー」という理解について検討する。そこに「批判」の言説全般にしばしば現れる問題点が見出されることを指摘し(→2)、これまでの考察1)2)から言い得ることによって議論を立て直し(→3)、それでも残る問題を指摘する(→4)。ゆえにここで行われるのはきわめて限定された作業でしかないが、議論を先に進めるための準備として一度やっておく必要はある。
   これからの考察において念頭にあるのは、例えば以下のような言明である。

@「家事労働は、金になろうとなるまいと、労働にはちがいなく、主婦がやらないとなれ ば誰かに代行してもらわなければならない。その意味で「有用で不可欠」な労働であり ながら、女性に対してどんな法的・経済的な補償も与えられず、無権利状態におかれて いるとなれば、これは不当に報酬の支払われない「不払い労働 unpaid labor 」だとい うことになる。……主婦はそれを「愛」の名のもとに行っている。」(上野5)pp.38-40)
A「「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の 労働を搾取してきたイデオロギーである……「愛」とは夫の目的を自分の目的として女 性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福と見な して献身と自己犠牲を女性に慫慂するための、イデオロギー装置であった」(上野5)p. 40)
B「女は自分の生存のみと引き換えに働かされているのに、それは労働者の家族というも のが形成されたおよそ十九世紀後半以後、先進資本主義諸国において、ロマン主義的愛 のイデオロギーと定義すべき特殊な「愛」のイデオロギーによって神秘化されてきた。」
   (Dalla Costa6)p.23)
C「愛をめぐる特殊なイデオロギーこそ、無償労働としての家事労働を正当化するために 資本が作り出し、維持しているものだ」(Dalla Costa6)p.24)
D「資本主義の下では、愛は「素晴らしいこと」であるどころか、労働関係を覆い隠す神 秘化の中でももっとも重大な神秘化にほかならない。賃金も支払われることなく家事労 働を供給するよう女を駆り立てているのは、この「愛」なのである。」(Dalla Costa6) p.24-25)
E「女に単なる生存と引き換えに際限のない重労働を負わせるという極悪非道なやり口を、 資本はこの愛という言葉によってごまかすのである。「愛は惜しみなく与える」という わけだ。」(Dalla Costa6)p.40)

   基本的な主張は、A:家事労働は支払われるべきだが支払われていない労働だ、B:それを愛のイデオロギーが隠している、というものである。Aは、第一に本来支払われるべきものが不払いであることを言うことによって不当性を主張する。第二に、男性(あるいは資本、あるいは国家)が利益を得ていることをもって現実の説明の一部とする。利益を得ているなら、この利益を放棄することはしないだろうからである。だが同時に、不当な損失を女性が被っているのだすれば、この現状の変革がなされてもよいはずだ。にもかかわらずこの不当な現状が存続していることの原因の少なくとも一端をBが説明する。男女間の現実の不当性が覆い隠されているというのである。また、この「神話」は、家事労働が労働であるという見解に対置される観念、したがって否定されるべき観念でもある。
   例えば、フェミニズムの理論的営為の一つの集約的な成果と見なされているらしい上野5)の主張がこうしたものだ。これに対しては、様々な批判がなされているが、議論の中核であるこの部分に踏み込んだものはそうない。
   まずAについて。主張されているのは、家事労働は本来なら支払われるべき労働だということである。ひとまず支払いを想定してみるだけというのでは、初めからこの基準を採る意味はない。この支払いは、当事者達の多くが現実に行っているわけでも、支持しているわけでもないから、誰かが(これが、残念ながら、多くの場合特定されていない)支払うべきことを、現実がどうだということと別に、論証せねばならない。その上で、家事労働を市場での労働と比較してその賃金を算定し、それと(例えば夫が払うべきだとすれば)現実に払われている妻の生活費とを比較し、前者が後者を上回っていることを証明せねばならない。これらについての考察は別稿7)に委ねる。
   本稿ではBを検討する。家事労働の現状を当然とする「愛の神話」が「神話」――この語はこのような場合、信じられてはいるが「虚偽」である観念・言明を指す――なのであれば、本来家事労働は支払われるべき労働ではないという主張に対する反論の可能性は出てくる。Aの課題に部分的に答えることになるわけである。さて問題は、それが、どのように、言えているかだ。

2 何が言われたか

(1) 合意の内部にあるとする主張
   どこにも問題はないのだと主張する人がいる。先の引用は、こうした主張に対する反論なのだが、その検討のためにも、まず、問題がないという人の主張がどのようなものなのか見ておく必要がある。
   その人は、家事労働が婚姻という合意に基づいた関係の内部にあり、特別誰かに強制されたわけではなく、自発的に行われているようだと言う。行為が自己充足的なものであれば、それは対価を(与えられれば受け取るに吝かでないとしても)必要としないだろう。行為自体が快楽である場合、あるいは愛情の表現としてなされる場合である。ある行為を行うこと(弁当を作ってあげること)自体が楽しいのであれば、対価を要求することはないだろう。一方は他方に尽くす。これが片方だけだと尽くしきって死んでしまうことになるかもしれぬが、相互的である限り、二人の生活は成立する。夫は愛によってお金を妻に与え、妻は愛によって夫に対する労働を行う。近代家族における夫婦関係というものはそういうものだとされてきた。あるいは、これを交換関係にあると考えることもできる。夫は外に出て賃労働を行いお金を入れる代りに、妻が家事全般を担当するという交換が成り立っていると考えるのである。互いに反対給付のようなものを受け取っているようだから、ここには何ら問題はないというのである。
   事態が以上のようなものだとすると、分業の現状を告発できないかもしれない。これを受け止め、うまく反論しないと、現実に果敢に挑戦する主張は理解されないだろう。

(2) 幻想?
   むろん批判する側もこのことはわかっている。その批判はこうした主張に対してなされてきたのだ。だがそれは何を言ってきたのか。
   愛があれば無償であることを受け入れるはずだとし、その無償性を否定したい場合に考えつくのは、愛情が存在しているわけではないのに、家族は愛情によって存立しているわけではないのに、それが存在するように思い込まされているのだという主張である。だがこれは本意ではないと言うべきだろう。フェミニズム自身、愛情を、行為が愛の関係のもとにあることを、否定していない。とすれば第一に、ここで「神話」とされているものが「愛情」全般でないことをはっきりさせねばならない。問題とされるべきは、「愛情があれば、(無償で)行為を行うのが自然である、当然である、行うべきである」という観念である。批判されているのは、「奉仕」「献身」を意味する、他者に対する無償の行為を自然に当然に帰結するものとしての愛情である(引用A)。
   ではこの愛、正確には献身としての愛なるものは、幻想だとか、男(そして/あるいは資本家)に騙されているのだとか言うのか。確かに愛情など夢、幻のようなものかもしれない。しかしそれはこの世のものは全て夢、幻だと言うのと同じであり、この「唯幻論」をことさらに否定する必要はないとしても、そこから「現実」を選り分けることもできないのだから、何かを積極的に言ったことにならない。
   次に、「神話」という以上は、それを信じている人がいるのだろう。自己決定の原則を受け入れる限り、例えば自殺が道徳的に悪だと主張することができてもそれを禁止することができないように、その当人の信憑を無視して、強制することは、この原則のもとでは、認められない。実際騙されているかもしれない。けれど、好きでやっている、好きでやっていると思っているのだとして、そしてそれが他者に害を及ぼさないのなら、その行為を止めさせることはできないことになる。相手のために尽くしてあげたいと思う人がいる。このことを否定しようというのか。行為についての自己決定という原則との兼ね合いをどう考えるのか。現状で満足している人がいるという現実に対してどのように言うのか。

(3) 歴史性・相対性
   ある観念の不当性を主張する場合に、あるいは主張している文脈で、次に論者がしばしば持ち出すのは、その歴史性である。特に家族・性愛を主題とする社会史の領域のいくつもの業績は、私達が普遍的・絶対的なものと考えてきたものの特殊性・相対性を明らかにした。あるものを絶対的なものと考え、その範囲に縛られている時に、他の現実、他の可能性を認識できることは、それだけで意味を持つ。上に述べたような意味での配慮としての愛情が、歴史的な性格を持っていることは確かだと考える(この歴史についての私自身の理解は3-(3)で述べる)。だがここでの問題は、歴史性・相対性を確認した後、その歴史的であり相対的であるものをいかに批判するかである。当然のことながら、しかししばしば看過されていることだが、歴史性・相対性を指摘することは、善し悪しを言うこととは別のことである。古いから良い、新しいから悪いとは言えないし、自然のものだから良く、社会的なものだから悪いとも言えないからである。およそ私達が有している価値観のあらかたは前の時代から継承されたものであろう。他者から植えつけられたことをもってそれを批判すべきだとすれば、これらの全てもまた否定せねばならない。
だから、歴史性・相対性の指摘と独立に、不当性をどのように言うかが問題である。
   しかし、例えば Dalla Costa6)のどこを見ても、上野5)のどこを見ても、十分な記述は与えられていない。自明だと考えているからかもしれない。しかし、自明でない人がいるとすれば、その人に対する親切としても、はっきりとさせる必要がある。そして、そこから見えてくることもあるはずだと考える。私は、「現実」と「幻想」、「真実」と「イデオロギー」という厄介な二元論を採らず、関係の形成原理として一般的に承認されうる原理から考える。それ自体としては否定する必要のない部分を含む2-(1)の言明から曖昧さを剥ぎ取り、認められる範囲から明白に逸脱している部分を指摘する。

3 義務はない

(1) 愛情は特定の行為・行為の義務を導かない
   愛情は感情であり、感情は個々の人のものであり、その人に訪れるものだとされる。通常、人は正常な愛と異常な愛とを区別して認識するだろう。あるいは愛と愛でないものを区別して認識するだろう。けれども、第一に、我々がそれぞれ愛の定義を持つからといって、あるいは社会の相当の部分にそうした定義が行き渡っているからといって、他者のそれを、正当でないものとし、愛でないとする主張の正当性を言えるわけではない。むろん、現実には、境界の設定がなされ、異常とされるものの排除が広範に行われているのだが、その境界設定の正当性を問うていくならば、それが根拠を欠いていることをみることができる。これが私にとっての愛情だと言われた時に、それを排除する根拠を私達はたいていの場合持っていないのである。
   ゆえに、第二に、愛情は特定の行為を指示しない。愛はあるが弁当は作らないと主張することはできる。要するにこれは範疇化の問題であり、境界設定の問題であり、愛情はそれが指示する行為の範囲を特定することができないのである。(以上2点についてより詳
しくは別稿1))
   また第三に、(仮に上に述べたことを否定することができたとしてもなお)愛情から行為の義務を導くこともできない。愛情は当人に存在するものであり、その存在から当為を導くことはできない。愛があるゆえに夫の弁当を作ることを否定することはできないし、否定する必要もないし、むしろそれは大変結構なことだ。また愛している者は同時に愛されたいと思うのであれば、相手の愛情を得るために弁当を作るかもしれない。愛は全てを可能にすると言う。実際にそうであってもかまわない。しかし、愛によって全てをなさねばならないとは、愛があるならできるはずだとは、言えない。

(2) 関係は特定の行為・行為の義務を導かない
   次に家族という関係を構成していることが行為の義務を導くか。相互の愛情の存在と関係の存在とを等値するなら、上の議論で済んでいる。しかし、家族とは、愛情の存在を前提しつつ、一緒に生活を行うなど別の要素が加わったものであり、そうした関係を取り結ぶに際しての合意が行われている。愛情から何が帰結するかは既に見た。だから、ここでは二者の関係の形成という側面だけを見ることにする。確かに、民法は扶養義務を規定している。しかしここで問題にしているのは原則であり、実定法の規定を前提にする必要はない。関係の形成は行為の義務を導くか。
   ここで近代社会が基本的にとる原則は、自己決定、自己責任の原理であり、広義の私的所有の原則である(これについて本稿では詳述できない。別稿8)9)で考察している)。その者の行為とされるある行為をその者が行おうとする場合には、また他者の権限に属するものと関わりがある時にはその他者の同意、他者との契約があれば、その行為はなされてよく、その行為の結果に対する権利と責任は当の者(達)に帰属される。
   男と関係を持つことは選択であること、自己決定・同意の範囲内にあることを認めるとしよう。関係が当事者のものであることを受け入れるとしよう。問題は家事労働や扶養との関係である。婚姻は、全てを契約済にする、一切合財についての契約のように観念されているかもしれない。しかし、愛情による結合、また双方の意思の合致による関係の形成の中に、こうした義務は予め存在しない。
   第一に、当事者において、家事労働や扶養を行おうとする意志、あるいは行為についての同意が常に存在すると想定することはできない。私は扶養されたくない、家事労働を行いたくない、夫もそれに同意しているという場合はもちろん、当事者のどちらか一方だけでも同意しなければ、義務は生じない。基本的にはこれだけである。そして他に考えられるのは次の2つの場合だけである。
   第二点。ある事態がある事態を内包している場合、前者について義務・権利を持つ者は後者についても同様である。しかし、関係をとり結ぶことの中に扶養や家事労働が必然的に含まれているとは考えられない。また当事者における関係に対する同意にこれが含まれているとも考えられない。例えば関係を結ぶことには同意したが、家事労働をすることには同意していない、それは同意の内容には含まれていない、と主張することは可能である。つまり、関係を持つことと、その男の面倒を見ることとは別のことである。両者を繋げる責任は、両者は別のことではないと主張する側にある。
   第三点。自己に発する行為の結果に対しては責任・義務を負うべきだという規範がある。両者に事実的な因果関係がある場合、しかしそのすべてではなく、ある結果を目的としそのために行為が行われる場合、あるいは結果の予見可能性がある場合に、その結果に対する責任が問われる。少なくとも配偶者との関係については、関係の形成が配偶者の生活能力を欠けさせ扶助の必要を帰結することにはならない。また、それ自身の正当化が問題になっている、夫婦は互いに扶助すべしという社会規範を前提するのでなければ、関係の形成が扶助の必要を予見させるとも言えない。さらに、関係を結ぶことが扶養・家事を行うという目的実現のための手段であるとも言えない。(以上は、別稿2)で述べたことの一部と重なる。)
   こうして、愛情の存在、関係の形成は、扶養・扶助の義務を帰結しない。ところが、2-(1)にみたところの扶養・家事労働を当然と主張する者は、同意が現実にあることを言うのではなく、婚姻や愛情がそれを当然帰結するかのように言うのである。その者に言うべきことは以上である。
   予想される反論を検討しておこう。私が行為・資源の提供と切り離すことが出来ると述べてきた感情、それに基づく関係は、愛情についての一つの解釈、一つの考え方に過ぎないのではないかと言う人がいるかもしれない。確かに、これを一つの立場として積極的に取ることもできる。例えば、愛情に基づく関係と生活とは別のこととすべきだという立場、例えば、自分のことは自分のことであり、身近な他人であっても自身の生活に関わることは他人に依存しない、迷惑をかけないという立場。しかし、私が基本的に行ったのは、相手に対する貢献を導くような愛情を否定しないが、別のかたちのものも許容されるはずだということであり、ある特定の感情、特定の関係を賞賛あるいは非難することではない。
   次に、このようなことでは家族の絆がなくなるという反論があるかもしれない。しかしその絆が扶助・扶養のことを意味するのだとすればそれは論点先取である。関係が扶助を含むはずだ、あるいは帰結するはずだという議論に対しては、どういう根拠でこの義務を導くことができるのか、と疑問を投げ返す。導けないはずだ。また、扶養・扶助を解除することで愛情の絆が失われると言うなら、そのように思う人は失われないようにすればよいと言うだけである。私が言うのは義務を解除してなお失われない関係がありうるということ、またこれと別に、仮に失われることがありうるとしても、それと、関係の冷却をわさわざ心配してくれて、義務として扶養・扶助を課すこととは全く別のことだということである。

(3) 批判の言説と批判されるものの位置
   以上で行ったのは、関係の形成について一般的に承認されうる原理から、その関係に現実に付与されているものを否定するという作業だった。(言うまでもなく、これは、前者と後者のどちらが現実において勢力を有しているのかということとは別種の議論である。)なぜこのように、ある関係に含まれる原理からその関係の現実を批判するといったことが可能になるのか。これを十分に論じようとすれば、近代家族の存立自体を説明しなければならないが、それは本稿の主題ではない。先の歴史性の指摘を私がどう考えるかという視点から、また私自身の本来の立場を明確にするために、ごく簡単に述べておく。
   恋愛結婚は近代に誕生した、家族の情緒的結合は近代家族に固有に見られると多くの論者が指摘する。これに対して、親の子供に対する愛情は古くからあったのだといった批判がなされる。たしかに、少なくとも異性間について、かつて人が異性に特別の感情を抱いたことがなかったなどとは考えられない。だが、感情そのものの歴史性を言えない、あるいはその検証が困難だとしても、感情に対する意味付与、感情の位置、感情の用法の歴史性を言うことはできる。この場面では変化は明らかである。感情が家族を成立させ維持する重要な要件として措定されることになったのである。
   まずこのように家族が構成されることは、関係に対する他者(に具現される伝統)の介入の排除を意味する。愛情が個人のものであり、関係が愛情が基礎とされる関係であるとすれば、その関係も当然当事者のものであり、原則的にそれに関与することはできない。こうしてこの契機は、第一に、過去とその共同性に対して一定の断絶をもたらしうるのである。
   ただ、家族内での相互扶助は、その範囲が現在の核家族の範囲とは異なるとしても、過去の社会にも存在しただろう。それを近代家族も、その範囲を変えて、受け継ぐ。だが、かつて家族に関わる労働は責務としてあった。それは愛情ゆえに行うという観念とは別のものだ。第二に、愛情ゆえの義務の遂行という言葉は、関係が作為されるものとして考えられるようになった時に、その関係の中に存在する責務を正当化するものとして(実は少しも正当化できていないことを述べてきたのだが)、位置づく。
   そして第三に、単に義務を履行させるというのでない積極的な人間(夫・子)に対する配慮を導き出すものとして、(妻・母の)配慮としての愛情が設定された。それは、世俗生活の重視→家庭生活の重視というプロテスタンティズムの教義に先駆的にみられる。この教義のもとで現世での活動が重要視され、その中で家族が着目された。さらに特に19世紀以降、宗教的な観念を離れて、世俗的・政治的な政策・介入過程の中でも、社会の維持・成長という関心から家族が主題化された。積極的に人間の質を問題にし、それに関与し、構成しようという動きが現れる。それは人の置かれる環境と遺伝的な要因を問題にし、個の再生産が行われている場所である家族に非常な関心を向ける。社会環境への注視の一部を構成するのが、成員に対する配慮が行き届くべき空間として家族を設定し、その配慮の内容を与え、それを人々の観念にもたらそうとする動きである。健全な社会を維持するために、社会的な対立を解消するために、良き家族を重視し、そのための条件として背離=としての愛情が設定されたのである。(以上につき別稿10)11)で論じている。ただし、家族を主題としたものではない。)
   現実には、以上の諸契機は、相互に衝突するような場面をいくつかの歴史的な状況で見せることがありながらも、常に明確に分離されていたというわけではなく、むしろ愛情という範囲の定まらない言葉の中に混在し、近代家族という形象を形づくってきた。だが、それらを分離してみる時には、近代家族の構成に関わる契機(第一点)から、その関係の現実、正確には関係に対する規定・介入の現実(第二点・第三点)を批判することも可能になる。以上で行ってきたのはこうした作業である。

4 言いえたことと言いえなかったこと

   「愛の神話」という議論に以上のような主張を対置する。あるいは、従来の議論が明確でないのでそう言っていいかわからないが、言い直す。些細な違いしかないようにも思える。それにいかなる意味があるのか。また、愛情や関係の存在と行為の義務とが無関係だと述べた。愛情とは○○だと積極的に述べるのではなく、××を意味するとは限らないと述べた。賃金を払われる権利、扶養される権利ではなく、義務の解除を述べた。このように批判を限定することで、主張が弱くなり、実践的な意味が損われないだろうか。最後に、生じうるこれらの疑問について考えながら、本稿の含意を確認する。
   @:取り上げた論者達が「神話」と言う時、それに対置される「現実」は、多くの者が通常現実として受け止めているものではない。むしろ一般に現実とされているものが「神話」だと主張されるのである。これが(隠されているが)見られる「べき」「現実」(むしろ「真実」)だと言う時には、事態はこう捉えられねばならないという価値基準が存在する。現実そのものに正しいこと/正しくないことの区別が書き込まれているわけではない。ある基準によって始めてことの正当性/不当性を言い得る。価値観が議論の中に存在すること自体には何の問題もない。むしろフェミニズムが実践的な批判・主張を志向する以上、それは当然のことである。ただその際、自らの立場の明示は基本的な条件である。しかし、それが必ずしもなされていない。それを指摘し、何が暗黙の前提になっているかを探り、それに照らして何が言えるのか、言えないのか、では何を立てるべきかを考える作業を行く必要がある。自明とも思われることを一つ一つ確認していく中でしか、有効な議論を組み立てることはできないと考える。それを怠った時には、確実に、議論は混濁し、主張は曖昧なものになる。論争が論争として成立しないことになる。私がここで採ったのは、近代社会において承認されうる前提から導き出されない現実を見出し、それを批判するという方法である。
   A:ここで前提として使ったものの一つに自己決定の原理がある。実際、フェミニズムは自己決定を掲げているのでもある。この立場では、夫に尽くしたくて尽くしている者を無理やり「改宗」させようとはしない。その当事者の観念を最終的に否定する権能は他者には与えられていないのである。(フェミニズムの主張に対して「押し付けがましさ」が指摘されることがある。そうした言明の全てにつきあう必要はない。しかし、自らの主張の内容と自らが支持する自己決定の原理との関係に敏感である必要はあると考える。)
   B:確実なのは、この原則から、当事者の少なくとも一方が同意していない場合には、分業は正当化されないことだ。家事労働には満足していないが関係の全体を放棄するわけにいかないから、それを行うしかない場合もあろう。だが、関係そのものが破綻していないから問題がないとは言えない。その中の個々の行為の変更を求めることはできる。
   C:では、以上の主張は、現状の大勢を否定する少数派、現状に不満を持つ者にしか及ばないのか。そうではない。生活様式の選択という原則を認めた上で、当事者に対して、別様の捉え方、別の決定も可能であることを示すことはできる。現実を何とはなしに受け入れている者達にしても、愛や婚姻からある行為を行わねばならぬことが導かれないということを、実はそう自明のことと認識してはいないのかもしれない。とすれば、このことをはっきりさせておくことには意味がある。また、愛情・婚姻から妻・母の義務を言い立てる主張の無根拠性を指摘し、その撤回を求めることができる。
   D:こうして関係の内部に対してその不当性を主張することは可能だ。だが、むしろこの問題設定からはっきり言えるのは、婚姻という関係に対して現実に設定されている種々の法的・社会的な義務が、自己決定、当事者の合意という規範と別のところで設定されていることである。民法がそうであり生活保護法がそうである。信じさせられてはいるが、それは他者によって不当に注入されたものだというイデオロギー論議と別に、明白に自己決定、合意を逸脱した部分があるのだ。このことをどう考えるのか、家庭という領域をどのようなものとすべきだと考えるのか、以上の確認はその検討を迫る。
   主要な一つの主張として自己決定権を掲げるのなら、夫と妻の関係内に限定された扶養・扶助義務(と対になった権利)は破棄するのが原則的な方向のはずだ。これに対して、扶養義務の解除は妻の地位を不安定なものにし、女性に不利になるのではないかという懸念が提出されよう。確かに現状ではそうだ。だが、基本的な立場が自己決定にあるとすれば、義務を放棄することを基本として戦略を考えるべきではないか。女性が一人分の収入で生活できない現状で、夫による扶養が一つの現実的・暫定的な手段としてありうるにしても、生活保障の要求の対象とすべきは個々の夫でしかありえないのか、また夫を介したあり方でしかありえないのか。かえってそれは夫への従属を帰結することにしかならず、暫定的な戦略としても誤っているのではないか。扶養手当、主婦年金、等々についてもこのことが問われる。「事実婚」について考える際にもどうしてもこのことは押さえておく必要がある。議論がなかったわけではない。しかしフェミニズムはこれらに対する基本的な立場をどのように提示することができているだろうか。
   E:以上で、少なくとも関係を形成する二者間相互に義務は存在しないことは確認した。これは、行為に対する対価を(夫に、要求したければ)要求できることを意味する。では、その妻は、本当に不当に低く支払われているのか。あるいは、夫に支払われる分と別に、夫の雇用主に支払いを要求することはできるのか。夫に対する行為と子に対する行為とを分け、これを検討することになる。これらについては別稿7)で考察した(本稿は、その考察に移ることができることを確認する前提的な作業でもある)。得られた結論は否定的なものである。つまり、上野らが採っている論理によっては、女性が置かれている位置の不当性を説明することはできない。では、何によって、確かに存在する不当性を明らかにすることができるのか。この点についても、その論文では検討されている。
   F:これまでの記述を見て、既に読者の多くが、子どもの扶養はどうなるのかという疑問を持ち、この場合には恐らく今までの論がそのままのかたちでは成り立たないだろうと感じたに違いない。その通りである。子を持つとは、育児・扶養という負担がかかることが確実に予見される存在を、自らの意志によってこの世に出現させることである。自己決定→自己責任という原則をとった場合に、その責任はまず親にかかることになろう。とすれば、子の育児・扶養の社会化を求めていくならば、私達は、また別の論理を構築していかねばならない。
   また、足腰が立たなくなった(あるいはもともと立たない)夫の面倒を誰が見るべきなのかという時にも、今まで述べえたことは、それは妻であると言えないということだけであり、では誰がという問いには答えられていない。どのような根拠で何を言っていくのか。労働力の再生産への貢献に対する対価の要求という理路はこの場面で有効か。
   A〜Dについて十分に納得しないならば、またEFでごく簡単に指摘したことに同意するならば、それは、実は、私的所有・自己決定の原理(この中には労働力を再生産する労働を評価すべきだという主張も含まれる)を採用すべき究極的で唯一の原理とはしないという立場をとることを意味する。私自身(出生前診断・選択的中絶についての検討12)13)、性殖技術の利用・「性の商品化」への抵抗感の在り処についての考察14)15)16)17)、能力主義についての考察9)18)他でこの主題を巡って考えてきた)もこの立場をとる。本稿であえて以上のような立論を行ったのは、第一に、繰り返しになるが、関係・家族の形成についてこの原理が一般に承認されており、にもかかわらずそれと明白に矛盾する義務の付与が曖昧に受容されているからであり、そのことに注意を喚起したいからである。第二に、最初の原理としてではないにせよ、自己決定が擁護される場面、擁護される根拠があると考えるからである。私は、上記したいくつかの考察から、最初の原理として、「他者の倫理」とでも呼ばれうるものが立てられる(私達に存在する)と考え、この原理から導出される一つの原則として(私的所有の論理とは独立したものとしての)自己決定の原則がある19)と考えている。ゆえに、本稿で述べたことは、EFにも関わる考察を経た上で、もう一度位置づけ直されることになるはずである。

文献
1) 立岩真也:愛について――近代家族論・1.ソシオロゴス,15:35-52,1991
2) 立岩真也:近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない.社会学評論,42-2:30-44,1992
3) 立岩真也:接続の技法――介助する人をどこに置くか.安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学,227-284,藤原書店,東京,1990
4) 立岩真也:私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論,安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也,生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学,増補・改訂版,227-265,藤原書店,東京,1995
5) 上野千鶴子:家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平.岩波書店,東京,1990
6) Dalla Costa, Giovanna Franca:Un labora d'amoure, Edizioni delle donne, Roma(伊田久美子訳,愛の労働,インパクト出版会,東京,1991)
7) 立岩真也:夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備.千葉大学文学部人文研究,23:63-121,1994
8) 立岩真也:身体の私的所有について.現代思想,21-12:263-271,1993
9) 立岩真也:能力主義とどうつきあうか.解放社会学研究,8:77-108,1994
10) 立岩真也:制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における.ソシオロゴス,10:38-51,1986
11) 立岩真也:個体への政治――西欧の2つの時代における.ソシオロゴス,11:148-163,1987
12) 立岩真也:出生前診断・選択的中絶をどう考えるか.江原由美子編,フェミニズムの主張,167-202,勁草書房,東京,1992
13) 立岩真也:出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか.生命倫理研究会生殖技術研究チーム,出生前診断を考える,95-112,生命倫理研究会,東京,1992
14) 立岩真也:生殖技術論・2――自己決定の条件.年報社会学論集,6:107-118,1993
15) 立岩真也:生殖技術論・3――公平という視点.Sociology Today,4:40-51,1993
16) 立岩真也:生殖技術論・4――決定しない決定.ソシオロゴス,17:110-122,1993
17) 立岩真也:何が性の商品化に抵抗するのか,江原由美子編,性の商品化,203-231,勁草書房,東京,1995
18) 立岩真也:能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について.差別と共生の社会学(岩波講座 現代社会学15),岩波書店,東京,1996
19) 立岩真也:女性の自己決定権とはどのような権利か.早川聞多・森岡正博編,現代生命論研究――生命と現代文明,国際日本文化研究センター,京都,1996


和文題名  :「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する
著者名   :立岩 真也
欧文題名  :On Myth of Love : A Transposition of Feminism's Assertion
ローマ字著者名 :Tateiwa, Shinya
所属名   :信州大学医療技術短期大学部
欧文所属名 :School of Allied Medical Sciences, Shinshu University

key words  :家族,家事労働,性差別,フェミニズム
       family, domestic labor, sex discrimination, feminism


   Some feminists insist that A: domestic labor should be paid but is not paid labour , and B: myth of love hides this fact. This paper examine B. Historicity of idea of love as devotion is frequently pointed out. We can certify it by knowledge given by social history, but its historicity and relativity do not result in criticism of this idea. Instead I prove that if we adopt definition of love we cannot but admit principle of self-decision and contract in family relationship, duties on family members become denied. Based on this recognition we can make clearer assertions.


UP:1996
家族  ◇家事労働  ◇フェミニズム/フェミニスト (feminism/feminist)  ◇立岩 真也 

TOP HOME(http://www.arsvi.com)