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労働の購入者は性差別から利益を得ていない

立岩 真也 199412
『Sociology Today』5号,pp.46-56 1994年12月 40枚



1.はじめに

 (1) 課題

 性別分業、性差別はなぜあるのか。その「起源」がどこにあるかはおくとしても、この現在の社会になぜかくも強固に存在しているか。それに対する答えとして、それによって誰かが利益を得ているのだという主張がありうるだろう。また実際にある。では誰が利益を得ていると言えるのか。これを考える必要がある。考えてみようと思う。
 ただ、本稿が扱う範囲はごく限られたものであることをまず述べておかねばならない。ここで検討するのは、女性を市場から全面的あるいは部分的に排除していることによって、誰が利益を得ているのかという問いである。女性を家庭に置き家事労働を担わせることによって誰かが利益を得ているのではないかという問題は別に検討し(立岩[1994a])、ここでは扱わない。しかも本稿で主に述べるのは、誰が利益を得ているのかではなく、むしろ通常利益を得ていると言われる者が実は利益を得ているとは言えないのだという、それ自体は消極的なことである。
 しかし、私はそうした作業をやっておくべきだと考える。何が問題ではないのかをはっきりさせておく必要がある。「敵」を特定しておくことが必要だからである。敵でないものを敵であるとするなら、それに基づく戦略・戦術は誤ったものになり、実践的な成果を得ることができないだろう。場合によっては運動にとってかえってマイナスになるだろう。
 にもかかわらず、このところが十分に検討され、明確な答が出ているようには思われない。不当に扱われている自分(達)以外の全ての者達が、全ての場面で利益を得ているような言われ方さえされる。本当にそうだろうか。一つ一つの論点が十分に検討されることなく、疑念が提出されてもそれに全面的に答えられることがなく、「だがこちら側を見れば」といった具合に論点がスライドさせられていってしまう。一つ一つ考える必要があると思う。性別分業とそれが与える効果を全面的に検証するためには、本稿の何倍もの作業が必要となる。本稿で行なうのはそのごく一部である。しかしそのごく一部についても相当の分量の考察が必要なのだから仕方がない。また具体的な論者の主張をあげ、それを検討していくという手法もここでは採れない。述べたように、多様な論点が十分に明確にされないまま、並列され散在していることが多いため、それに逐一つきあうと議論を順序立てて展開することができなくなってしまうからである。本稿を含む一連の作業の中でそれらの個々の主張に対する評価がなされ、終わった時に総合的な評価もまた下されることになるだろう(1)。このように意識的に主題を限定しているのだから、そしてそれは別の論点があることを意図的に隠そうとして行なっていることではないのだから、以下に対する評価・批判も、提出される論点に内在して行なわれることを私は希望する。
 労働市場に女性を置かないことによって、あるいは男性との間に格差を設定することによって、誰かが利益を得ているのか。まずここに誰がいるか。労働を購入する者と労働者である。これ以外の者はいない。両者を考えればよい。結論としては、前者は利益を得ておらず、後者の中の男性は利益を得ている。このことを述べる。

 (2) 考えるべきこと

 性別分業によって利益を得ている主体として、一般に言われるのは、労働の購入者、通常は資本家(2)である。かくも広範に分業・格差・差別の現状がある時、そのように感じられるのにはもっともなところがある。しかし、現実から離れて少しでも常識的に考える時、これは不思議なことだとも確かに思われる。それは以下のような事情による。
 A1:基本的には、ある範疇の人間を労働の場から排除すること、あるいは格差をつけて待遇することの効果である。労働に関わる能力・適性により格差をつけることは利益をもたらす。しかし、それ以外の境界設定は不利益ではないか。
 A2:次に、その範疇が女性であることの意味である。もし男性/女性の区別が労働能力の差異に対応しないなら、A1から、この境界設定は不利益ではないか。(3)
 ただし家族に関わる領域設定は、以下のような点で他と異なる。
 B1:女性の多くが夫とともに家族を形成しており、ここで夫婦の収入が合算され、家計としては一体としてある。また、一方が専ら家事を担当するなどによって他方が市場で働くのを容易にすることができる。ここから、雇用/非雇用、常勤/非常勤、解雇困難/容易な者をペアにするのが有利だとする考え方がある。例えば、夫を常勤の労働者とし、妻は非常勤の労働者とする、例えば、不況時に妻を切っても夫の収入でなんとかやっていける、というのである。これは説明として十分か。ただしここでも、
 B2:この配分が家族内の男性/女性のどちらかに固定されていることが有利かどうか、夫が外/妻が内にいることが意味を持つかどうか。これはB1とは別の問題である。
 市場では労働する能力の違いにより差異を与えることが認められる。というか、良いも悪いもなく、事実、差異が与えられる(4)。だが、仕事を行う能力の分布は性別とは関係がないとしよう。これはフェミニストの少なくともかなりの部分の基本的な主張である。さて、そうだとすると、労働という行為においては基本的に男女という属性は関係のないものにならないか。市場は基本的に性別に言及しないはずであり、にもかかわらず性別に応じた配置を行うとすれば、それは雇用する側にとってはむしろ反機能的ではないか。こういう状態が存在していることの方が不思議ではないか。以上のような疑問に、資本制にとって性別分業は有利であると主張する論者達は答えてくれているだろうか。
 Aに述べたことは全く単純なことである。しかし、この全く単純な指摘に正面から答えられていないと私は考える。ただ、この単純な事実を見えにくくし、格差の存在が利益につながるという感覚を支えている事情がある。それは一つに上に述べたBの契機だが、それだけではない。それは何か。このことについて2の(2) の前半で述べる。事情と言って、そう複雑な事情ではない。だがこれがかなりの混乱を生じさせている。だから、はっきりさせておく必要があると思う。自明のことを自明のこととしてただ指摘するので終わるのでは確かに不十分である。なぜ、自明のはずのことが現実に存在しないのか。2の(2) の前半が一つの視点を与える。この部分は誤解を解こうとする部分であるとともに、積極的に誰が利益を得ているのかを見るために必要な部分でもある。読者は、そこで述べることが3で指摘することに直接に連接することを容易に理解されるはずである。

2.労働を買う側は利益を得ていない

 (1) 女性を雇用しない場合

 A1:女性を雇用しないということは、労働力商品の市場の規模が半分になるということである。女性を雇用の対象とすれば、可能な労働者の供給量は2倍になる。供給が多い方が、一般に供給される商品の価格は下がるはずである。この方が明らかに購入者側にとっては有利である。仮に、質・量ともに労働力の確保が人口の半分ほどからの供給で十分という状況だとしても、労働の供給量が増えれば、価格競争が生じ労働力の価格が下がるだろうから、購入者にとっては有利である。
 A2:さらに、この労働力として採用する半分なりある割合の人口を選択する際の境界設定は恣意的であってよいはずであり、必ずしも男性/女性という境界である必要はない。
 B:これが家庭内での役割分担として成立していること、男性1人が働き、女性が家庭にいるということが、購入者側にとって有利だと主張できるか。まず購入者にとっては、労働者が家庭を持っていようといまいと、同じ働きをするなら関係がないとも言えよう。だが、労働者は、家庭を維持するために、賃金交渉の中で家庭を養えるだけの賃金を要求するだろう。こうした者が労働者の大多数を占めるなら、購入者は、それがどれほどの額であるにせよ、より多くを支払わねばならないことになる。これに対して、仮に妻と夫とが働き、双方に対して扶養者の存在を考慮する必要のない賃金を払うのなら、購入者にとってはその方が有利だと考えられる。
 また、一方が他方に関わる家事を担当することで、市場でのより多くの労働時間を引き出すことができるだろうか。これは疑問だ。まず労働を購入する側総体の利害をみた場合に、1人に1人ずつそうした人を置いて1人だけを長く働かせるよりも、各々の労働時間の量が若干減っても、2人とも労働者とする方が有利だと考えられる。また、個々の購入者を見ても、もしその購入者がその背後にいる者が生活するための費用を実質的に支払わねばならないとすれば(家族総体の生活がとにかく成り立っている以上そういうことになる)、そうした者を抱えずに暮らし、より少ない賃金に応ずることのできる者と比較すれば、前者が後者より常に有利だと考えることはできないはずだ。(4)

 (2) 女性が部分的に市場に参加する場合

 こうして男性だけが市場に参加し女性が全く参加しないという状態が購入者にとって有利であることが説明できない。また、現実にも、こうした完全な分業の形態は一時期の限られた部分(西欧であれば、19世紀末から20世紀前半にかけての一定の社会階層)に現われた事態にしかすぎず、その後、別の形態が出現したことも説明することができない。そこで、(先の問題を論じ切らないまま)論者が向かうのは、低賃金労働者、パートタイム労働者、非熟練労働者としての女性があること、女性が首切りの対象に真っ先になることが、購入者にとって有利であるという主張である。

@賃金格差
 賃金等の格差を設けることが、労働の購入者にとって一般に有利なのかどうか。まず同一労働に賃金格差を設ける場合を考えてみよう。
 A:これが有利に思えるのは、例えばあるグループの人々には時間あたり1000円だが、あるグループの人々には2000円払うといったように、同じ労働に対して、後者より前者に少なく払うので済むなら、その分購入者は利益を得るはずだという感覚に基づいている。1000円払われる人と2000円払われる人の間の境界は恣意的であってよいだろう。例えば黒人と白人でもよい。女性と男性でもよい。女性/男性でなければならない必然性はないが、このような境界設定が受け入れられるものなら、購入者はそれを利用する。
 ならばこうした差別的な待遇は購入者にとって有利ではないか。これはかなり説得力を持つように思われる。また、女性の平等な雇用に対する購入者の抵抗もこのことを示すかのように思われる。男性を雇うのであれば、時給2000円払わねばならないところが、1000円で済む。実際そのような動機によって雇用主は雇用することがあるだろう。これが、先に述べた性別による格差の設定に対する疑問を打ち消す強力な事実であり論拠だと思えたとしても不思議ではない。しかしそうではない。これが本稿の中心的な論点である。
 これが有利であるように思えるのは、図1を思い浮かべるからである。だがもしここに障壁がないなら、当然、賃金の低い方にいる労働者は賃金の高い方に流れてくることになる。その結果高い方の労賃は下がるはずである(図2)。つまり、ここに生ずるのは、前者が時間あたり2000円になることではなく、両者の間の差異が縮まるという事態のはずである。したがって、障壁の存在が購入者に利益をもたらすとは言えない。

  (図が消えています。すみません)

    2.0  
利益?→     1.5     
    1.0  


      ♀  ♂      ♀  ♂     ♀  ♂     ♀  ♂
       図1       図2       図3       図4

 労働の購入者が利益を得ているように私達が思うのは、図3のように考えているからである。つまり、本来なら男も2、女も2得られるべきなのに、女は1しか得られない。残りの1を損している。しかしなんで本来は2が払われるべきなのか。市場での価格形成原理から言えば、例えば図2のようになるはずだと述べた。
 もちろん、市場での価格を「正当」な価格と決めてしまうことはできない。他に正当な基準があってよい。「搾取」という論理がここに入ってくるのだろう。正当な労働者の取り分が設定された上で初めて「搾取」を言いうるのである以上、ここには何らかの正当な水準が想定されているはずだからである。そしてそれは、当然、市場での価格そのものではないはずだ。しかし、少なくとも私は、どれほどが本来の正当な水準であり、その理由は何なのかを説得的に論じた上で、主張が展開されるのを見たことがない。
 けれども正当な基準の設定は、例えば「マルクス主義経済学」にまかせておけばよいのであり、それを当然前提にしてよいのであって、今さら論証すべきことではないと主張されるかもしれない。しかし、仮にそのように言えるとしても、それでもやはり労働市場における性差別が購入者にとって利益であると言えない。これが次の論点である。
 仮に本来は2払われるべきだとしよう。それでも女性を差別的に扱うことが利益になるとは言えない。なぜなら、本来男も2、女も2得られるべきであるとしても(図3)、男1.5、女1.5であっても(図4)、男2、女1(図1)でも、雇用する側は1儲けることになり、利益は同じになるからである。つまり、女性を特に差別的に扱うことによって利益を得ているとは言えないということである。
 実際には男性労働者の賃金は2に固定されており、容易に 1.5に切り下げることができない、それに対して、女性の場合にはそれが容易であるということが主張されよう。確かにそうかもしれない。男性労働者の賃金切り下げを求めにくい状況下で――切り下げができなければ、雇用費用の総額が増加してしてまう――雇用者は格差の解消に抵抗する。しかし、ここで言いたいのは、そうだとしても、やはり、それは性差別から市場が利益を得ていることを意味しないということである。これは、男性労働者と女性労働者の側に交渉力等の差があること、あるいは女性には男性より低い賃金でもかまわないという社会意識があること、市場にとってこうした外的な条件があって、それに市場が適応しているということであり、それがなければ、市場は別様に作動するだろう。そして前者(「社会」の言い分を聞いて男性2、女性1とせねばならない場合)の方が後者(そうしたことを考慮する必要がなく男性1.5、女性1.5とする場合)よりも市場にとって利益であるとは言えないということなのである。
 これに対して、境界の存在は、一部の購入者、一部の産業分野には利益をもたらしうるという議論があるかもしれない。上で2000円のところは例えば1500円になったが、1000円だったところは1500円になってしまう。ゆえに後者にとっては境界があった方がよいというのだ。例えば、低い賃金の女性だけを雇用する企業・分野と高い賃金の男性だけを雇用する企業・分野とが並存している。この境界が設定されていることによって、前者の方が後者より賃金コストが低いゆえに有利である、あるいはより弱い経営基盤をカバーできるといった主張があるかもしれない。
 しかし、購入者がより賃金の低い方の労働市場に参入することは禁じられてはいない。購入者の側をとっても、同一労働に賃金格差があるなら、賃金のより低い方からそれを得ようとするだろう(例えば、「第三世界」への進出)。とすれば、高い方の労働者は職を失うことになる。とすれば、高い方の労働者もまた、賃金を低くすることに同意せざるを得ない。こうして賃金格差は縮まるはずである。そして1000円から1500円への切り上げに対応することができなければ、その企業や産業部門は衰滅することになる。つまり、労働市場が分断されていることによって利益を受けている部分はあるだろうが、それは、市場経済にとって正常な状態であるとは言えず、また労働の購入者総体を考える時には利益をもたらすとは言えないということである。
 以上、A1:労働能力に対応しない賃金格差の境界を設定すること、その境界を前提として賃金の支払いに対応することが購入者に利益をもたらすとは考えられない。なお、言うまでもなく、A2:この格差をつけられる範疇が女性である必然性はこれまでのところ何もない。これは、労働能力の差に無関係などんなグループの分け方をしても同じである。
 B1:賃金が家庭で合算されることによって、一方が到底暮らすことのできない賃金しか支払われなくても、他方がそれを埋め合せることのできる額を得ているのであれば、この2人は生きてはいける。したがって、家庭内での合算はこのような賃金分配が行われるための必要条件である(例えば白人・黒人の間では家庭内のような調整は行われないから、低い方の賃金も最低生活を維持できる額でなければならない)。
 しばしばこのことが指摘される。事実としてはその通りである。例えば、時給500〜700円で年間2000時間働いたとしても(仮に働けたとして)、100万〜140万円である。これで暮らしていくのは難しい。
 しかし、以上で見たところでは、このような格差を維持しようとする要因は市場には内在しない。繰り返せば、1時間 500円の支払いで済ませられることで得をしている企業があるにしても、そしてそれは家庭内での収入の合算を前提に成り立つのだとしても、それを前提にし、その格差を保存しなければならない理由は、市場総体には存在しない。また、そこから市場総体が利益を得ているとも言えない。
 さらに、B2:もちろん前者が女性となる、後者が男性となる理由はない。仮にB1について述べたことが間違いだと論証しえたとしても、すなわち一方を家庭に置き他方を市場に出すことが、あるいは家庭/市場に置く割合を双方に不均等に割り振ることが、有利であると言い得たとしても、それは両者に男性/女性を割り振ることが有利であることを少しも意味しない。
 以上を別の言い方で繰り返そう。確かに雇用主が主婦層をパートタイム労働者として安い賃金で労働市場に取り込んだ時、それはその方が、その部分に相対的に賃金の高い男性労働者を使うよりも有利だったからである。労働の購入者側に利益があるという私達のリアリティ、そしてその利益の不当性についての私達のリアリティはここに発している。しかし、その格差を維持しようとする要因は市場には内在しない。男性と女性に求めているものが実質的に同じ労働であるなら、購入者は価格の安い女性の労働を購入しようとし、価格の高い男性の労働を買わなくなる。その結果、前者の価格は高くなり、後者の価格は安くなり、同じ水準に達する。この時点での賃金の支払いに比べて、格差があった時点での支払いの方が労働を購入する側全体として有利であるとは言えない。格差によって利益を得る者は一部に過ぎず、しかもこの格差はこの一部の者以外の購入者によって縮小されていくはずである。
 さらに、Aに見たのとBに見た要因は独立であり、両方を足して考えることができる。つまり、労働市場における供給量の拡大と1人が扶養すべき人数の減少の双方が購入者側にとって有利に働きうるということである。ここでは、家事労働自体をどう評価するか検討していないが(これを入れて考えてもなおこの分業の形態が有利だと言えないと私は考えている)、これを別にすれば以上のように言える。
 賃金の決定そのものが、実際には以上考えたのと別様の仕方でなされているという反論がありうる。実際頻繁になされる。この指摘自体は正しいのだが、反論にはなっていない。誤解されやすいところなのでもう一度説明する。
 事実としてどの程度そのように言えるのかという問題はおくが、賃金の決定が需要・供給によって完全に決定されているのではないことは私も認める。しかし、それは本質的な批判にはならない。なぜなら、ここで議論しているのは、労働の購入者の側がより安い賃金を求め、それによって利益を得ようとする時に、性別分業は有利なのか否かということだからである。労働の購入者を、より大きな利益を得ようとする存在とする場合に、その者にとってどのような形態がどのような形態よりも有利/不利なのかを問題にしているのだからである。そして、性別に対応する格差の存在という現実と、格差のない非現実とを比較した場合に、前者の方が後者よりも購入者にとって利益であると言えないことを述べたのである。これは、以下で述べることについても同様である。
 後者は現実ではない。しかし、出来る限り安く労働を購入したい者として労働の購入者を捉えるならば、事態がそうならない要因は、その者の側にあると考えることはできない。また購入者を受益者と考えることもできない。格差があるという現実そのものを否定したいのではない。これは現実である以上否定できない。これを説明しようとすれば別の要因を考えねばならないということである。

A首切り要員として
 A:不況時の首切り要員として予め女性を指定することが利益になるか。ならない。これは、ここで基本的に採用している、雇用する/しないという区別に男性/女性の区別は関係がないという前提から言える。また、仮に誰の首を切っても同じだとしても、それは女性の方がよいということではない。
 B:そもそも個々の購入者が、家庭内の一人の首を切るだけならそれほど困るまいといった配慮をするのかも疑問ではある。だが仮にそうした配慮をすることもあるのだとしよう。しかし、首を切るのは首を切った場合に購入者にとってより有利な者のはずであり、それが常に女性だということはないはずである。むしろいくらかでも差異をつける方が有利なら、それを予め男性/女性に割り振るのは不利益である。またたとえ誰の首を切っても同じだとしても、首切りを免れるのが夫で首を切られるのが妻である必然性は何もない。

B熟練労働/非熟練労働
 次に、同一労働ではなく、熟練労働、より重要な部門、例えば時間あたりの生産量の多い(したがって支払われるものも相対的に多くなるだろう)部門に男性を配分し、そうでない部門に女性を配分することによる利益があるだろうか。
 雇用する側は労働者の適性・能力を問題にするとしよう。こう考える方が自然である。賃金の格差と性別を対応させるのが有利かどうか。男性/女性の区別と職業への適応とは関連がない。とすれば、この就業形態に差異を設けるとしても、それは男性/女性の区別とは別の、能力・適性に応じたものになるはずであり、男性/女性の区別とするのは企業にとって損失になるはずである。
 他方、原材料としての労働力の質は同じでよい(全ての労働者は同じ質をもっている、あるいは同じくもっているような質しか必要とされない)とすれば、その境界設定は恣意的であってよいことになる。すなわち、男性の側から熟練労働を得、女性の側から非熟練労働を得ても、各々に必要にして十分な労働力があるゆえに、わざわざ対象を両性から得る必要はない。しかし、この場合でも、やはり男性/女性に両者を割り振る必要はないし、質として変わらない資源が潤沢にあるのなら、各々の部門で労働力購入の範囲を広くすることにより値下げ競争を起こさせ、価格を低くすることができる。したがって男性/女性に予め割り振るのは不利である。ゆえにこの説も十分ではない。

C労働時間
 最後に、フルタイム労働者とパートタイム労働者との区別について。既に述べたことの確認も含め検討しよう。この場合には労働時間の長さに応じて前者がより多くを受け取るだろう。また、フルタイム労働が購入者にとってより有用で希少な労働なら、時間あたりの支払い額も前者の方が多くなる。購入者が、このような長い時間の労働を要求する場合があるだろう。だが、パートタイム労働をこそ購入者が求めており、こちらにより多くを支払おうとする場合もありうる。
 次に、労働者側には、一定の時間以上働かないと賃金が生活可能な額に達しないという事情がある。1人(あるいは家族成員の半数)の生活を成り立たせればよいのなら、その必要時間はそう多くはなく、例えば週20時間程度でも生活を維持できるかもしれない。また、複数の職場をかけもてるなら、一つの職場での労働時間が短くても生活を維持することはできる。しかし、双方の条件を満たさない場合もあろう。もし十分に多くの人が一定の場所で一定時間以上働かねばならないとすれば、購入者は、仕事の配分を変更し一人あたりの労働時間を増やさねばならない。それが不可能なら、時間あたりの賃金を増やさねばならない。それをしなくてすむなら、その分その個別の購入者は利益を得ることになる。
 他方、労働時間が一定を超えると他の家族成員の家事労働なしでは自らの生活を維持することができなくなることが考えられよう。例えば、活動できる時間の全てを市場での労働に取られる者がいるような時には、他の成員が家事労働の全てを担当せねばならなくなり、このことでそのその成員が労働市場に参入できなくなる場合、十分に参入できなくなる場合があるだろう。
 例えば以上のような事情が、個々の労働時間、そして家族内で分業が行われる場合には成員達の家庭及び市場での労働時間を規定する要因として存在するだろう。
 A:まずこの2種類の労働を担う人のグループを分けることが利益となるだろうか。むろんこのことは、2種類の労働を設定すること自体が有利か否か(有利な場合があろう)ということではなく、労働能力の格差に対応しない人間の2つのグループを予め両者に割り振ることが有利であるか否かということである。有利であるとは考えられない。例えば、白人・黒人を両方に割り振ること自体から得られる利益など考えられない。
 だが一般的に有利か不利かの前に、これは家族内での家事労働の配分、収入の合算を前提にして行われている議論である。家族のなかの後者が家事を肩代わりすることで前者の労働時間を長くできる。また、後者の労働時間が短かすぎれば、その者達は生活するのに充分な賃金を得ることができないだろうが、賃金を合算することで、後者の賃金が1人分の生活費に達しなくても2人とも生活していける場合がある。ゆえに私達は
 B:家族内での収入・時間の配分を考える必要がある。
 1.より長い労働時間を調達しようとする場合。
 単なる総労働時間ではなく1人の長時間労働が必要な場合、あるいは労働時間の質として、例えば跡切れることのない一定の時間の確保が必要な場合があるかもしれない。これだけを確保するためなら、その者の背後に控えその者の生活を支える人間がいるのは有利なことがあるかもしれない。ただし、まずそうした労働がこの社会の総労働のどれくらいの部分を占めるものなのか。その有利さを見積もってみた場合、一体いかほどのものになるのか。家族内の2者のうち前者の労働時間が非常に長く、しかもそれが固定されている場合(休暇が自由にとれない、残業から逃れられない)、後者は、市場に出ることができない、あるいは非常に限定された時間しか市場で働くことができない。とすると購入者は後者も生活できるだけのものを前者に支払わねばならない。このような就業形態を求めなければ、前者に支払う額は少なくなる。両者を比較した場合にどういうことが言えるのか。一方に長時間労働を負わせることが労働の購入者にとって有利であることが論証されているのを私は見たことがない。
 2.より少ない労働を求める場合。
 一方の労働時間が少なく、あるいは時間あたりの賃金が少なく、あるいはその両方の要因によって、自分1人の生活をそれによって成り立たせることができず、家族の他の成員の収入によって埋め合わせているという場合がある。両方の収入が家族で一緒になることによって、なんとか2人はやっていける。
 一方がこうした就労の形態をとることが購入者側にとって明らかに有利である、あるいはある購入者はそのような形態をとる他ないといった場合、分業の存在は購入者にとって有利だと言えるか。家族で合算しないと彼女は生活できないから、こうした労働を行うことができない。よって家族の存在はこの就業形態があるための必要条件である。その意味では確かに購入者の側にとって都合がよい。しかし労働時間だけを考えるなら、それは購入者の側が不当な利益を得ていることを意味しない。また労働を売却する側にとっても不当な損失を被っていることを意味しない。そして同一労働に対する時間あたりの賃金格差については既に述べた。
 そして何度でも繰り返すが、以上を認めた上でも、この2人を分けて雇用することが、夫がより長く市場に出、妻はより少なくという組合わせを意味しないことは明らかである。

3.男性労働者は利益を得ている

 他方、この体制から確実に利益を得ている者がいる。男性労働者である。これは全く自明であり、何の説明もいらない。ただ男だというだけで女性より多い雇用機会、高い収入等々を得ることができる。アパルトヘイト政策によって黒人の雇用機会が奪われ、賃金が低く押さえられていることで白人の労働者は得をする。それと同じである。
 ただし、白人/黒人の場合と違うのは、現実の多くの場合には、男性と女性が夫婦としてセットになっており、総収入を分配する形態が一般的に採られていることである。ならば、夫婦の片方が(少なくとも経済的な)利益を得ているとは言えないのではないか。例えば白人に対して多く黒人に対して少なく支払われているとして、白人はその得たものを黒人に再分配するなどということはないから、明らかにこれは白人の利益になる。女性も、独立して生活している場合、特に子供を一人で抱えて生活している場合には、明らかに一方的に不利な立場にある。しかし、労働市場にある者が家庭を持っているなら、労働市場で格差があったとしても、結局男性・女性双方に利益も不利益もないということにならないか。ひとまずはそう言える。しかしこれは男性(夫)の側が利益を得ていないことを意味しない。このことを別稿(立岩[1994a])で述べた。

4.まとめと残された課題

 女性を市場から全面的または部分的に排除していることで誰が利益を得ているか。
 労働能力の有無に無関連なある範疇の人を排除することが雇用側そして消費者側にとって有利であることは全く立証されていないし、出来ない。さらに、この範疇が女性である必然性は何もない。
 他方、この体制から確実に利益を得ている者がいる。男性労働者である。ただ男だというだけで女性より多い雇用機会、高い収入等々を得ることができる。
 つまり、労働の購入者が性差別の存在する現状から利益を得ていることは否定され、男性労働者が利益を得ていることが確認される。以上で労働市場に即した検討は終わりになるか。そうではない。他に性別分業、性差別をこの場面で説明しうる要因が2つだけある。
 一つに、雇用する側が女性を雇用するのが単に「嫌い」だという場合がありうる。実際こうしたこともあるだろう。しかしこれは、市場の競争原理からは余計な要因であり、ある場合には企業の競争力を弱める方向に働くものである。
 もう一つは、最初に置いた仮定をとりさげ、実際に男女の間には差があるとすることである。男性と女性の間に本来能力の差があると考える必要はない。社会の側の現実として、仕事の遂行に差が出るということである。特に出産・育児が問題になってくるだろう。次の課題はこの場面を考えることである。




(1) 具体的にあげれば、上野[1990]、竹中[1991]、久場[1991]などの論考に「触発」されてこの一連の作業は行なわれている。ただ、述べたような事情でそして紙数の関係で、論点の対応を逐一示すことはできない。
(2) 労働を購入する側にいるのは資本家だけではない。労働による生産物を購入する消費者も同じ側にいる。後者ではなく前者こそが利益を得ていることを主張するためには、それなりの根拠を提出せねばならない。以下では、購入者、購入者側といった表現を用い、雇用者・資本家だけを受益者(であるとされる者)として特定することはしない。
(3) こうした論点、また以下で行なう考察には、近代経済学者によってなされてきた「差別の経済学」を巡る議論と関連する部分がある。例えば八代[1980]等に本稿に述べることに対応する言明を見い出すことができるだろう。だが本稿では紙数の関係でこれらについて言及できない。別論文で検討する。ただ、経済学者達(もちろんその主張は一様ではない)の述べることに正しい部分があることは、彼らの示す実践的な提言を受け入れねばならないことを意味しないことは言い添えておいた方がよいだろう。市場(というよりも市場への参加者)に一定の仮定を与えて、そこから何が帰結するかを見ることと、市場の機構を信奉することとは同じではない。このことについても詳しくは機会を改めて述べる他ない。
(4) では「能力主義」自体についてどう考えるのか。立岩[1994b]で考えを述べた。
(5) 以上の2つの段落で述べたこと、そして2の(2)のA で述べることは、まずはこのようにも考えられはしないかという憶断である。その妥当性を言うためには、家事労働がどの程度の時間必要とされるものなのか等を検討する必要があり、本稿ではこの部分の論証は行われていない(立岩[1994a]で一定の作業を行っている)。
 ただ、例えば、竹中[1991]で、「なぜ…労働力商品化体制のなかに性役割分業が組み込まれたのか…。労働力商品化体制は、なぜ性役割分業を基礎とするのか、性役割分業において、家事労働のほうを担当するのがなぜ男でなくて女になったのか」という壮大な問いが提出され、それに対する答えとして大きく3つあげられ、その3番目、性別分業が「経済効率的」であるという答えとして4点があげられている中の最初のものが、「一人の人間であればできないような労働時間が生活時間にまでくい込んでできる」という点なのだが、以上のような疑問については考えられておらず、したがって答えもない。これを積極的な主張点とする以上は、「くい込んでできる」という事実――これは確かに事実ではある――を指摘するので終わるのではなく、それが他に考えられる様々の場合(そのいくつかを本文にあげた)に比べて、どうして、そしてどれほど有利であるかを言わねばならない。拠証責任は、まずはこのような主張する側にある。こうした議論の現状は他の論点についてもそう変わらない。


文献

久場 嬉子 1991 「資本制経済と女子労働」(竹中恵美子編『新・女性労働論』、有斐閣選書496、335p.):001-031
竹中 恵美子 1991 「差別の仕組み――その根源に迫る」、関西婦人問題研究会編『ゼミナール女の労働』(ドメス出版、251p.):019-056
立岩 真也 1994a 「妻の家事労働に夫はいくら支払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」、『人文研究』(千葉大学)23:63-121
――――― 1994b 「能力主義とどうつきあうか」、『解放社会学研究』8
上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』、岩波書店、341p.
八代 尚宏 1980 『現代日本の病理解明――教育・差別・医療・福祉の経済学』、東洋経済新報社、251p.

Purchaser of Labour does not Profit by Sex Discrimination
                             Shinya Tateiwa

……以上……

* 「能力主義とどうつきあうか」は加筆・改稿され、立岩『私的所有論』第2章・第8章となりました。



性別分業  ◇労働  ◇『Sociology Today』  ◇立岩 真也 

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