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自己決定がなんぼのもんか
立岩 真也
『ノーマライゼーション研究』1994年年報(1994年7月)
■1 矛盾?
自己決定はよいものである。もっと自己決定が認められなければならない。私もそう思う。
ではそれで終わりか。どうもそうはいかない。なかなか厄介な問題がある。これは,とくに,障害を持ってものを考えてきた人,障害を持つ人にかかわってものを考えてきた多くの人が,気になっていることのはずだ。今回の特集にも,このはっきりしないところを問題にしたい,考えてみたいという意図がある。
一方で私達は自己決定を擁護する。今まで,障害を持つ人,病を得た人は,施設の中で,医療・理療の現場で,職員,専門家,等々によって自分達の生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。自己決定権を獲得しようというのである。
だが,他方で,自己決定と言って全てを済ませられない,肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば,死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった。
ここには矛盾がある。少なくともあるように思える。場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義だということにならないか。しかし,私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。これは御都合主義では決してないと思う。多分,両方を成り立せるような感覚があるはずである。それは何なのか。このことについて考える★01。だから表題は「自己決定などたいしたものではない」と言いたいのではない。自己決定がどれほどのものとして,どこに位置づくのかを考えてみたいのである(文法的には「もんや」が正しいのだと思うのだが,以上のような,なおかつ非大阪文化圏的ためらいが「もんか」にさせてしまった)。★02
2で自己決定の主張とうまい具合に整合しない(ように少なくとも見える)ことを@〜Bまで三つあげる。3でそうした疑問に対していや,それは問題ではないのだとする主張,そういう種類の「自己決定論」を検討する。さらに4で,Bについて私達がよく言うことを検討し,それが不十分なものであることを指摘する。3・4は疑問を疑問としない主張,批判を中途半端に終わらせる批判を検討しながら,疑問のありかを探り,「両方を成り立たせる感覚」と先に述べたものを取り出すための準備作業でもある。以上を踏まえ,5で自己決定が第一の原理ではないこと,むしろそれと全く別のものが私達の感覚の基本にあると述べる。6で自己決定がその中にどのように位置づけられるのか,問い@〜Bにどのように応じるのかを述べる。
■2 自己決定を巡る疑問
まず,自己決定しない人(自己決定の手前にいる人,その後にいる人,…)のことをどう考えたらよいか。生まれてくる人,生まれたばかりの人,頭がうまい具合に働かない人,働かなくなった人…。
@:「自己決定できない人はどうなるのか」
もちろん,特に知的な障害のある人について,周囲が自己決定できないと思い込んでいただけのはなしであって,実際には十分に自分の意志を持ち,決定できる場合がたくさんあることは押さえておかないといけない★03。そして,「自己決定」をかなり広い意味にとることは出来るし,そうすべきかもしれない。また,意識を失う前に意識のあった者については,その時に決定したことを尊重するという手はある。だが,それですべて解決というわけでもない。以上をおさえた上でなお,自己決定を見出せない場合は残る。
次に,自己決定という時に,何を決定するのかという問題がある。この何かが決まっていなければ自己決定といっても何のかことか,意味を持たない。
このような問題は,自己決定権だけを考えているとあまり意識されないかもしれない。多くの場合には,何が自己決定されるべきか,それが最初からわかっているからである。もちろん現実には,医療について今まで自己決定が認められてこなかったがそれが必要であると,障害者の自己決定が今まで剥奪されてきたのだがそれを認めるべきだというように,当然のものとされてこなかったから,今それが問題とされてきている。だがそれでも,現状を改革していこうと思う者にとって「自分のことは自分で決める」と言う時,「自分のこと」はたいがい具体的に決まっている。では,それ以外の部分についてはどう考えるのか。全てをと言うのか。その私がこの文章を書いている私のことであるなら,世界中全てのものは私の言うことをきかねばならない。「自分のもの」「自分のこと」とは何なのか。その範囲が問題なのである。そしてなんでそういう範囲が自己の決定のもとに置かれるべきなのかが問題なのである。つまり,古い話で恐縮だが,「私的所有」そのものがここで問題になっているのである。
自己決定の主張は,現実において,自分で何も持たない人も自分の生活に関わる自己決定が出来るようにという主張でもあった。だが,自分のことは自分で決定してよい。自分のものは自分でその処分の仕方を決めてよい。そうだとしよう。その自分のものとしては,通常,自分の能力,自分の稼ぎ,自分の財産が含まれることになろう。この時,その自分のものをたくさん持っている人とそうでない人とが現実にいる。そうすると,多く持っている人からその分配を請求できないということになりはしないだろうか。とすれば,そんなものを全面的に認めていたら,自分で自分の分を生産できない,自分に関わることが自分でできない人は生きていけないかもしれない。その人の働いて儲けたものはその人のものであり,その処分はその人に委ねられる。
それを認めることはできない。そこで,この「能力主義」的な財の配分の仕方を変えてしまうことを求める。市場メカニズムをなくしてしまわない場合には,国家による再分配を要求する。ここにまた一つ問題が出てくる。
A:「財の公正な配分の主張と自己決定権の主張はうまく折合うのだろうか。」
これは,自分が自由に決定し処分してよい部分と,それが認められない部分とをどのように,どういう根拠で分けるのかという問題である。
自己決定を実現させるために,財の配分が必要なのだという主張が当然なされる。当たってはいると思う。しかし,ここでは他のものはなくてもいいが,意志,決定能力があることが鍵になっている。とするとこれはやはり能力主義,限界まで切り詰めたという意味で,究極の能力主義ではないか。ここにもう一度@の問いが現れる。これは自己決定を旗印に掲げてきた,アメリカ流の?,「自立生活運動」に常に投げかけられてきた問いでもある。だから,ここにもまだ考えるべきことが残っている。
まだある。例えば,身体や生命が自分のものであり,自分のものについては自分で決めてよいとしよう。すると,当人がそれを行おうとする限り,二者以上の関係においては同意がそこにある限り(双方が自己決定している限り),ほとんどありとあらゆることが許されることになる。例えば,体外受精や代理母出産などの生殖技術の利用,安楽死・尊厳死,売買春,果ては臓器売買…,等々。
私自身は,かなり無責任な人間なので,なんでもよいと言ってしまいたい気持ちがかなりある。だが,それでも,私のような人であっても,それですべておしまいという具合に割り切ってしまえない部分がある。なんでそう思ってしまうのか。他人がその人の意志を無視して勝手に使うことは認められない,その人の身体はその人のものだ,と思う。しかし,同時にあなたの生命,あなたの身体なのだから,そこに自己決定があるなら,それを利用し処分するのに,売り出したり貸し出したりするのに,全く問題はない,と割り切ってもしまえない。この気持ちはなんなのか。
B:「生命や身体の自己決定に基づく利用・処分を全面的によしと思えないのはなぜなのか。」
さらにこれらのものは,Aのように公平を実現するために分配を要求すべきであるとも私達は考えないと思う。例えば,性的な関係が全ての人々に行き渡るように,それを国家なりが供給するといったことがよいことだとは思わないだろう。
このように,@〜Bのような疑問を抱いてしまうとすると,どうも私達が思っていることはそう単純ではない。あるものについては自己所有・自己決定を認めるが,すべてについてそう思っているわけではないようだ。あるものについては譲渡・交換を認め,あるものは「再分配」が行われることを要求する…A。その者のもとに置かれることには同意するが,譲渡(特に売買,そして「再分配」を含む)を全面的に肯定することはできないものがある…B。そして自己決定を大事なものだと思うと同時に,それが一番最初の原理なのだろうか,人が人であることの資格要件なのだろうか…@,と疑問にも思う。こういう一見一貫しない感覚はどこから来ているのだろうか。
■3 私的所有の論理
2で出した問いを考えるために,まず,@〜Bを問題にしないような論理,「自己決定の範囲なのだから,仕方がない,問題はない」という論理,そのような意味での自己決定権の主張がどこから出てくるのかを検討してみる。そこから,逆に,なんで@〜Bを問題にしているのかがわかってくるのではないか。
自己決定といっても,何が自分の決定の対象なのかが問題だと先に述べた。近代的な所有権の概念では,所有権とは処分権,処分に関わる決定権のことである。このように考えれば,何が自己決定の対象かという問いは,何が自己所有の対象かという問いである。この問題は少しも新しいものではない。土地や物,労働の結果の私的所有をどのように基礎づけるのかが問題だった時代,このことを論じる人達がいた。そこでJ・ロック達が持ち出すのは,自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては,その者が権利・義務を負うと言うのである。
「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても,しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も,なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働,彼の手の動きは,まさしく彼のものであると言ってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも,彼が自分の労働を混えたのであり,そうして彼自身のものである何物かをそれらに附加えたのであって,このようにしてそれは彼の所有となるのである。」★04
ただ,ロックの場合,身体は予めその者のものである。身体そのものは神様が自分に自分のものとして与えてくれるのかもしれない。しかし神様がいないとどうなるのか。身体の所有を疑ってしまうとどうなるか。カントの(初期の)言葉ではこうなる。
「肉体は私のものである。なぜなら,それは私の自我の一部であり,私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は,私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり,私のものである。」★05
自分の精神が自分のものである。これはまあよいとしよう。その精神が肉体を制御し,肉体が外界を制御する。これも事実といえば事実である★06。だが,その制御されるものがどうしてその人のものになるのか。これは事実ではなく,そうなるべきである,そうなるのが正しい,という一つの規範命題,一つの主張である。ここにその理由が示されているわけではない。つまり,「自分が制御するものは自分のものである」という主張は,それ以上遡れない信念としてある。そこで行き止まりになっている。言われていることは,結局のところ,「自分が作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。★07
だがともかく,こういう図式が示される。そしてこれは単に哲学者の著作の中にあるだけではない。これは,現実に近代の社会の中で作動するメカニズムなのであり,人の意識を捉える教えである★08。自身に内属するものを基点とし,それに起因する結果が自らのものとして取得され,その取得したものが自ら(の価値)を示す。「私」という主体に因果の開始点,判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり,それ以外のものは,その外側にあって私に制御されるものである。
ではこの図式の中で,他者はどのような位置を占めることになるのか。
もちろん,「私」を基点に置く論にしても,私の欲望を貫き通すこと,外界を制御し尽くすことが多くの場合に困難であることは知っている。事物の,そして他者の抵抗に会うからである。自然界の法則を破ることはできない。相手は私の言うことを聞いてくれない。しかし,それは外在的な制約条件,利害の対立として捉えられる。完全に自己を実現するのが不可能なのは偶然的あるいは外在的な条件によるのであり,その障害が除去されれば,私の欲望はどこまでも進んでいくことになるだろう。
といって,こういう考え方が,ただ他者を自分に対立する相手と見ているだけであるわけではない。私について言えることは他の者についても当てはまる。主張の普遍性を求めればそうなる。また,自分についての権利を認められるためには,私と同じ他者に対しても権利を認めることである。その私,そして他者とは,選択意思を持ち,その意思のままに外界を動かせる存在である。私と同じ存在を同格の存在として認める。私と同格な存在としての他者を尊重する。他者に対して行う行為は,その者の同意がなければ許容されない。脅迫や強制ではなく,契約,契約に基づいた交換が関係の基本となる。
どんな原理・原則だって,最終的にはそれ以上根拠づけられないような場所に出てしまう。だから,論理が行き止まりになっていること自体をやり玉にあげても仕方がない。問題はこれが基本的な論理なのだろうかということである。例えば米国の代表的な「生命倫理学」の論者であるというフレッチャー(J.Fletcher)という人が次のようなことを言う。基本的な発想は,先の二人と変わらない。
「人間は製作者であり,企画者であり,選択者であるから,より合理的,より意図的な行為を行うほど,より人間的である。その意味で,人間がコントロールできる体外授精の方が,通常の性行為にくらべてより人間的である。」★09
「…であるから」までを認めるとしよう。そして「より人間的である」ことも「人間」にある性質を述べているという意味で認めよう。しかし,それはそのことが「良いこと」である(という意味で「人間的」である)ことを意味しない。確かに私達はそのような「人間」であるが,そのような「人間」で(も)ある私達は,そうしたことを(最も)良いことだとは思わないかもしれない。それは,「そうしたことが良いことだと私は思う」という自らの価値の表明なのである。先に引用した人達はどうもそのように思っているらしい。しかし,みんながそうなのだろうか。
この論理は(少なくとも引用した部分は),@〜Bにあげた問題の上を通り過ぎてしまう。@については,自己決定能力を持つことが「人格」であることの要件になる。Aについては,能力に応じた配分が正当のものとされる。Bについては,自己決定であれば,合意があれば,全てが許容される。しかし,こうした帰結を受け入れらないという感覚がある。とすれば別の価値があるはずである。ではそれは何なのか。
具体的に思いつくのは,「平等」や「生存権」といった言葉である。私もそれにそう異論があるわけではない。だが,その前に,あるいはそれと同時に,何かあるのではないか。ここで見てきたものの言い方それ自体が気にくわないのだと言ってはよくないのだろうか。ここらあたりのことを考えるために,Bについてもう少し考えてみたい。
■4 強制?/不平等?
Bに関してよく言われていること,私達がよく言うことをごく簡単に検討しよう。それが十分なものでないことを言い,では何がこの問題のもとにあるのか,あたりをつけてみる。
例えば,お金のために代理母契約に応じる人がいる。これに対して,それは「本当の」自己決定ではない,事実上の強制だという指摘がある。しかし「本当の自己決定」などというものは,人生の他の場面にもなかなかなさそうなものではないか。お金を稼ぐために仕事をする。もちろんやって楽しいという部分もあるだろうが,お金のために仕方なく,ということだってずい分ある。仕方なく何かするという仕事は全て認められないというのであれば,それはそれで一貫してはいる。だが,大抵はそこまでは言わない。私達は,いろいろある中のいくつかのものについて,お金のために,仕方なくやることが特に問題だと思っているらしい。とすると,「仕方ない」こと自体が問題なのだと言って終わらせることはできない。なぜ私達は,他の場合にはそうでもないのにある場合に,仕方なくやらねばならないことに反発するのかという問いについて考えなくてはならないことになる。★10
次に,多額のお金を払わないと利用できない技術は金持ちにだけ恩恵をもたらすものだという,「利用者」の側における「不平等」が指摘される場合がある。また,お金のない人だけがその仕事につかなければならないという,「提供者」の側の「不平等」あるいは「搾取」を言う議論もある。
だが,第一に,富める者しか利用できないという指摘は根本的な批判にはならない。むしろその適用の拡大を求めるものとなる。貧しい者にも使わせろという主張につながっていくからである。そして例えば公的医療保険制度に組み入れるなどすれば,利用できる人を拡大することは実際に不可能ではないかもしれない。むしろ,性や生殖を商品化した方が,あるいは何らかのシステムで,例えば政治的な決定によって,配分した方が,より「平等」な状態が実現するかもしれない。しかし私達はこれを認めようとはしないだろう。例えば,健康な臓器がたくさんある人からそれを取り出し,臓器移植を受けないと助からない多数の人にそれを提供する方が,より多数の人の生存と幸福を実現する★11としても,私達はそれを受け入れないだろう。
第二に,貧しい者が専ら提供する側に回るという指摘だが,これも,「仕方のない選択」について見たのと同じに,実は(不)公平自体が最初の問題ではない。貧しい者が買えないものもまた,この世の中の他の場所にたくさんある。そのすべてを問題にすべきだと言うのでないなら,なんで,特にこの場面に限って,不平等や搾取を言うのか。本当はすべての不平等が問題なのだが,それを言っても仕方がないから,と言われても,やはり差はつけているわけだから,同じである。なんで,性や生殖をめぐる場面について,特に不平等や搾取を問題にするのか。
そして,特定の人に負担が押しつけられていることが問題だと批判をする人も,その代わりに,みんなが平等に負担すればよいと考えているわけでもないと思う。とすると,本当ならこんなことは望ましいことではないという判断がまずあり,その上で,(特定の階層・階級の人が)望ましくないことをやらざるを得ないことの悲惨を問題にしているということである。★12
だから,なんで(他の場合ならまあいいが)あることについて仕方なくやること(これも自己決定ではある)を問題だと考えているのか,なんで(他の場合ならまあいいが)お金のためにやること(これも自己決定ではある)を問題だと考えているのか。そして,なんで,それが受け取る側の「結果の平等」の実現よりも優先されるべき問題だと考えているのか。これらの問いが本当は答えられるべき問いなのである。
以上で見てきた,「私達がよく言うこと」はそれに答えていない。だが,@〜Bの問いを考える上のヒントは出てきた。何かのために,例えばお金のために,何かをすること,このこと自体を,ある場合に,私達は気にしているらしい。少なくともいくつかの場合に,何かを自分の目的の実現のための手段とすること,しなければならないことを辛いことだと考えているようなのだ。そして何かを手段とするとは,それを自分の制御の対象にするということである。
■5 回答1:他者という存在
私の答は単純なものである。自己による制御から出発する発想を裏返し,逆に考えたらどうだろうかというのである。
私が制御できないもの,正確には制御しないものを,「他者」と言うとしよう。私に制御できないから他者であるのではない。制御できてもなお,制御しないものとしての他者がある。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの,私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を他人から奪ってはならないと考えているのではないか。その人が作り出し制御するものではなく,その人のもとに在るもの,その人が在ることを,奪うことはしない,奪ってはならないと考えているのではないか。
もっと積極的に言えば,人は,決定しないこと,制御しないことを肯定したいのではないか。人は,他者が存在することを認めたいのだと,他者を出来る限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。
そして,その他者とは,自分に対する他人のことだけではなく,自分の精神に,あるいは身体に訪れるものであってもよい。私の身体も私にとって他者でありうる。私が思いのままに操れるものが私にとって大切なものではなく,私が操らないもの,私に在るもの,私に訪れるものの中に,私にとって大切なものがあるのではないか。そしてそれを奪われることに私達は抵抗するのではないか。
ずい分怪しげな話ではある。私達が選択者であることは確かなことである。これを受け入れないことは,何でも決めてくれる神様のいない私達の時代にあって不可能だ。そして実際,領有しない,制御しない,そんなことはありえないことだ。例えば,私達は子をしつけ,教育する。これは必要不可欠なことだ。少なくとも好都合なことだ。
私達は,人が自分の思う通りに動いてほしいと思う。だから,こうした観念のもとにだけ私達がいるなどと到底言えない。しかしそう思い,実際そのように行動する私達は,他方で,こういう世界は良い世界かと問われる時に,どこかで,そうではないだろうと考えていると思う。むしろ自己によって制御不可能であるゆえに,私達は世界,他者を享受するのだと考えるのである。私達の欲望はどこかで否定される。他者との関係の中で,自己による他者の領有という観念が抵抗に会い,挫折する。私達の欲望は欲望として残りながら。しかし,その挫折を私達は失敗とだけ受け取るのではない。世界が私によって完全に制御可能である時,世界は私と等しくなる。すべてが私の意のままになる。このような私としての世界を,私達は好ましいものと思わないということではないか。だいたい,その世界は退屈な世界である。そこでは私は私にしか会わない。私の価値や欲望はその時々にはそれなりに切実なものであったとしても,それなりのものでしかない。そういうものによって世界が充満しているのだったら,うんざりしてしまう。私ではない存在,私が制御しないものがあることにおいて,私達は生を享受しているのと思う。
だから,私の選択と価値を信用しない感覚は確かにあるのだと思う。私がやったことが私を指し示し,私の価値を表示するという,全てが自らに還ってくるように作られているこの社会の仕掛けを信用しない感覚がある。そして,その人が「在る」ことを受け取る。私ではない者としてその人が在るということ自体が,苦痛であるとともに,苦痛をもたらしながら,快楽なのである。
そしてこれは,他人についてではなく,「私」についても言えることだと思う。
障害者の社会運動においてしばしば口にされてきた「かけがえのない私」とは,私が私のものとして執着する私の支配下にある私のことではなく,他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような自己であり,「私の肯定」とは,そうした他者性を消去してしまうことへの否定ということではないか。だから,「生命」が尊い,「生命一般」が尊いということではない。肯定とは,個別の他者が私でないものとして現われることである,あるいは私のものさえもが他者として私に現われることであることの肯定ではないか。★13
こうして辿り着いたのは,自らに発するものが自らのものであるという論理,論理というより価値観,の単純な裏返しではないにしても,それと全く別の感覚・価値である。私はそれを私達が有する価値の事実として提示したいだけだ。それ以上の理由をつけようとは思わない。私達がそれを好むということなのだ。この価値も,全ての価値が結局のところそうであるように,それ以上遡ることができない。しかし,その点では,私が私の作ったものを所有するという観念も同格である。そして,5に述べたこの価値の中で「自己決定の擁護」は消えてなくなるわけではない。そして同時に,先の@〜Bの問い,私達が抱く疑問がどういうところから発しているのかを記述し,基本的な答を与えることができる。このことを6で述べる。
■6 回答2:自己決定がいる場所
「自己決定の尊重」について。
他者が私ではない存在としてあることの中に,私がではなく他者がそれぞれのやり方で生きている,生きていくというあり方がある。生命などといういかにもたいそうなものについてだけではない。重たいあるいは軽い「思想・信条」を取り下げることを強いないこと,制服を着ないことや,髭を生やすことをやめさせないこともまた同じである。それらを奪おうとしないのは,髭を生やすことが何かすばらしいことだから,その人の何かもっとな理由によって選択されたことだからではなく,その人の生の様式が許容されるべきだと私達が考えているからではないか。
その人を他者として認めることの中に,その人がその人のように生きていることの承認があると考える。これがその人の自己決定が擁護されるべきであることの理由である。
次に,先に出した@〜Bの「問題」について。
@:決定しない人,決定しない存在に対して何を言うか。 ここで私がとる立場は,「独立した人格の尊重」とどこが違うというのか。この立場においても,今述べたように,その人の意志が表明される時,まずはそれを受け止める。ある場面までは,内実として擁護し批判するものはほとんど同じだ。しかし違いはある。
その者の意志,決定能によって「人格」は定義される。ならば,「人格」と「他者」の範囲は同じではない。何か他者に積極的な契機があるから,他者を尊重するのではなく,ただ私と同じでないこと,もっと正確には私ではないこと,こうした消極的な契機によって,私達は他なるものを尊重するのだろうと述べた。すなわち,その者が決定する(能力がある)ことに,他者が他者であることの,人が人であることの根拠を求めない。決定(能力)はその者が私ではない存在であることの一部である。
A:公正な配分と自己決定はどのように折合うのか。
ここまで述べてきたのは,人(の行うこと)の全てを受け入れよということではない。ある者を他者として扱うとは,あるものを奪う(受け取る)ことによって,その者が他者として(すなわち私でない者として)在ることができないようなものを奪わないということである。
その人にとって手段であるものは,その人が制御の対象とするものは,その人が在ることから切り放すことができる。また,その人が手段として使用できるものの多くは,別の人も使うことができる。他者が他者であるまま移動させることができる。先に見た,私の制御するものは私のものであるという言明は,一つの信念を語るだけである。同じく一つの価値として,私が制御するものは私が独占的に保持し処分できるものではないと言いうる。
ただ,その手段は,在ること自体ではないが,在るためのの条件,場合によっては絶対的な条件であることはありうる。生きていくためには食べねばならないということである。もしその者が在るための最低限しか持っていないなら,それを要求することはできない。だがそんなことはそうない。あるものがその者のもとに置かれることを認めるのは,その者が他者として在ることを認める限りでである。同じ理由で,他の者が在るために必要なものの分配が指示される。★14
以上から,資源の公正な分配とその資源を用いた行為の自己決定の両方が支持され,両方を両立させることが求められる。すなわち,生きていくための手段として人が必要なものについては,生きていくのに必要なだけが分配されねばならない。それを用いてどのように生きていくのかは各々の人が決める。このことを実現させる方法を見出していかねばならない。これまで国家による再分配策として与えられてきたもの(例えば介助者の派遣)は,いくらかのものが与えられるかわりに,それに対する自己決定が認めらないものだった。与えられる側の者は,与えられるものに口を出すことができなかったのである。そうではなく,資源については必要なだけの分配を求めつつ,その資源の利用の仕方を利用する側の者が決定する。ただ,それは一人では難しい。そこで当事者の主体となる組織が間に入って役割を担う。現在,「サービス」の供給・媒介主体として活動を行なっている「自立生活センター」等の組織は,今,行政がやるべきだがやらないことを仕方なく肩代わりしているというのではなく,自ら活動の積極的な意味をここに見出している。★15
B:自己決定である限りで,すべてよし,問題はない,とするのか。
例えば,(私自身は死ぬのは嫌だが)人の欲望のあり様は自分とは違うものとしてありうるのだから,人が自ら死を選ぶことの全てを止めはしない。だが,何かに苦しめられて,例えば借金に苦しめられて自殺が「選ばれる」ことがある。あるいは腎臓を提供する。性を提供する。確かにその人はそれを選択した,自己決定した。しかしそれは少なくとも無残なことである。
自殺だったら,生命という私達の大抵が大切にしているものが天秤の片方に乗っているから了解が得られやすいのかもしれない。けれど,天秤に乗るものの大切さの大きさ(重さ)が基本的な問題なのではない。お金よりも腎臓や性が現実に大切なもののはずだと言うのではない。大切さは状況相関的に決まる。その者達にとっては確かに売って得られた生活,あるいは死んで避けることができたものの方が,売られたものより,死ぬことより価値が大きかった。大抵は生きていくことの方が「本当に」優先される。金がなければ金の方が大切だ。これを否定する必要はない。だがなお抵抗がある。私達は,これらが悲惨なことだと考える。
その人が在ることと切り離せないもの,在る時にはついてまわるものを切り離さねばならない。手段として扱うことができないものを手段とせねばならない。手段として扱うことができない両方を比較せねばならない。その一方を失うことによって初めて他方を得ることができる。他者が他者であること,自らが他者であることが尊重されるべきだという感覚は,そしてそこに生ずる快楽を得ようとする感覚は,これらを悲惨なことだと,このような場に人を置くべきでないと,そこから利益を得ることを卑怯なことだと感じる。また,たとえ人々の幸福を増すものであったとしても,平等をもたらすものであったとしても,この切り離し,譲渡を求めることはしない。
こうして,譲渡を求めるべきではない範囲は,同意がない(強制されている)範囲よりも広い。問題になるのは「強制」だけではない。「強制がない」から,「自己決定である」から,「同意の上のこと」だから何も問題がないのではない。その人のもとにあることによって,その人に訪れるものであることによって,その人に享受されるものについては,それが手段として用いられる,用いねばならないことがあるべきではない。そしてそのような苦しい選択を生じさせる状況,例えば貧困が問題にされねばならない。5に述べたことを認める人はこのように考えるはずである。またこのように考える人は,5に述べた立場にいるはずである。★16
以上述べたことが,どのような具体的な主張につながっていくのか。そのためには,さらに考えるべき主題を考え,具体的な主題について具体的に検討していかなければならない。ひとまず考えられたことは,これだけである。
■注
★01 私にとってこの文章は,新しい論点を提出するものというよりは,過去に書いたこの主題に関連する論文(→「論文etc.一覧」),特に「自己決定」の問題に深くかかわるものとして,「出生前診断・選択的中絶」について検討した12・15,「生殖技術」の利用について検討した25・31・27,「身体の私的所有」について検討した30,「性の商品化」について検討した40,「能力主義」について検討した38の中からいくつかの論点を取り出してまとめたといった性格のものです。できるだけわかりやすくするよう努力してはみましたが,論文中の一部をそのまま使った部分もあります。これらの多くは書店で手に入るというようなものではありませんので,興味をもたれる方には送らせていただきます。お金がたくさんある方からは実費をいただきます。問合せは立岩まで(〒181 三鷹市上連雀4-2-19 電話・ファックス0422-45-2947)。
★02 ちなみに,安彦一恵・大庭健・溝口宏平編『道徳の理由』(昭和堂,1992年)という本の帯に「道徳ヤテ,そりゃナンボのもんや?」とあり,その本の中に永井均の「よく生きるヤテ,そりゃナンボのもんや?」という文章が入っている。本論ととりあえず関係ないが,おもしろい文章である。
★03 今私が勤務している千葉大学部文学部社会学研究室の3年生の1993年度の社会調査実習報告書(1994年5月刊行)は,東京都内の3つの自立生活センターとそのスタッフ・会員などに対する聞き取り調査から得たものを中心にまとめられたものだが,その中で寺本晃久が「知的障害者の自立のために:序説」として知的障害者の運動「ピープル・ファースト」について紹介・検討している(上に記した連絡先に問合せて下さい)。この運動については他に『季刊福祉労働』61号の特集を参照のこと。
★04 John Locke, Two Treatises of Government, 1689→鵜飼信成訳,『市民政府論』,岩波文庫,1968年,p.32-33(第27節)
★05 lmmanuel Kant,Bemerken zu den Beobachtungen uber das Gefuhl des Schone und Erhabenen,1764-1965→「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」(尾渡達雄訳,『教育学・小論集・遺稿集』(カント全集第16巻),理想社,1966年,p.259-355),p.309
★06 ただ厳密に考えると問題はある。まず,この論理は「私」が因果の「起点」であることを要請するから,自由意志といった決して決して経験的には存在を検証されないようなものを存在させねばならない。また,少なくとも,身体そのものは私自身が作り出したものではない。その内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから,この主張によって身体の所有を正当化することはできない。後者については論文30で検討している。
★07 これではいくらなんでも,というわけからではないだろうが,「私的所有」の正当化としては,別に「機能主義」によるものがある。こういうやり方で財を配分した方が,社会にとって,社会の成員にとって,「得」だというのである。これについては論文30・38で検討している。
★08 論文02・04で若干の歴史的な検討を行なっている。
★09 1971年の論文敵enetic ControlA 一節(J・マシア『バイオエシックスの話』(改訂増補版,1985年,南窓社)のp.108に引用されている。
★10 この段落に述べたことについて詳しくは論文25(と40)。
★11 この辺については論文30。
★12 以下4つの段落に述べたことについて詳しくは論文31(と40)。
★13 この段落は論文12の一部をそのまま使用。5でなされている主張は,論文12で「出生前診断・選択的中絶」についていろいろ考える中でだんだんとはっきりしてきたもので,論文27・30・40でさらに(少しは)展開されている。もっと遡れば,私が「所有」とか「主体」とかいったことを巡ってずっと思い煩ってきた(今でも)こと,また障害を持つ人の社会運動についていろいろと調べたり考えたりしたことが,こういう話につながっている。例えば,私達は1990年に次のように書いた。
「障害者問題を考える場合,一つには,意志を起点とする立場があろう。そして他者との関係はそれ以後のこととされる。これは,他者の介入を受け入れないための有効な戦略である。だがこれで十分だろうか。そしてこの原則が通用しないと考えられる時なされること,直接に言葉を通じ合わすことのできない人に対して普通行われることは,一般的に人間を尊重すべしという原理を立てるか,あるいはもっと積極的に彼らの幸福を措定する,措定してあげることである。それが無意味なことだとは言わない。けれどもまず為すべきは,その人をどのように認識しているのか,その人に与えられるものがどういうものなのかを知ることではないか。その時には,彼らに与えた幸福もまた反省に付されることになるだろう。だからここでは,意志決定という砦を残すことが一番重要なことなのではない。むしろ,彼らに加えられる諸力を認識し,ある場合には振り払い,存在を肯定することである。この書の対象であった人達はこの作業を行ってきた。このことを確認すれば,私達がみてきたものが,自立生活の理念との接合がむずかしいと言われた重度重複の障害者を含めてのものであることが理解できる。」(安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也『生の技法「「家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,1990年,pp.290-291(終章))
この書では他に,岡原との共著論文07での「障害を肯定すること」についての考察を参照されたい。また,「自立生活運動」について書かれた最近の書物として定藤丈弘・岡本栄一・北野誠一編『自立生活の思想と展望』(ミネルヴァ書房,1993年)がある。
★14 このあたりのことは,「能力主義とのつきあい方」について考えた論文38でもっと詳しく論じている。
★15 私も検討・執筆作業に参加した東京都八王子市のヒューマンケア協会作成の「地域福祉計画」(1994年3月発表)は,普通「地域福祉計画」といってイメージするものよりはずっと「大風呂敷」のもので,基本的にこうした考え方によって,「福祉」のシステム全般を作り変えようというものである。(注03に記した報告書と合せて製本したものが手元にあります(1500円)。御希望があればお送りいたします。)個々の具体的な制度等の現状・展望については連載中の報告13〜を参照のこと。
★16 「性の商品化」,というより売買春(のある部分)について検討した論文40(他に生殖技術を巡る考察として論文27)を参照のこと。自己決定を持ち出して簡単に現状を肯定してしまう論に対する批判がなされている。
(40字×40行×12頁)
◇自己決定
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