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妻の家事労働に夫はいくら払うか
――家族/市場/国家の境界を考察するための準備――

立岩 真也 1994.3
『人文研究』23号(千葉大学文学部紀要)pp.63-121 220枚


  *この時に考えたことを引き継いだ連載を2005年から『現代思想』で始めています。そちらの方をお読みいただければと思います。

目次


■1 主題の設定
 □1−1 不払い労働という主張
 □1−2 問いの範囲
 □1−3 夫が支払うということ
■2 夫は妻にいくら払うか:通常の場合
 □2−1 夫に対する労働に対して
  2−1−1 妻は夫に要求できる
  2−1−2 だがそうたくさんは受け取れない
  2−1−3 関係の売却
 □2−2 子に対する労働に対して
  2−2−1 自己決定・自己責任
  2−2−2 子供から親に
  2−2−3 夫による支払い

■3 夫は妻にいくら払うか:その他の論理
 □3−1 A:機会費用という論理
 □3−2 B:市場価格以外での算定方法
 □3−3 C:共働・共有
 □3−4 行為の外部化
 □3−5 歴史
 □3−6 問いは解かれていない

■4 専業主婦という存在
 □4−1 市場は利益を得ていない/男性労働者は利益を得ている
 □4−2 家族内での合算
 □4−3 顕示的消費としての専業主婦の存在
 □4−4 支配/従属→従属による従属

■5 家族という境界
 □5−1 市場/国家による支払い
 □5−2 家族に行為を担わせることによる利益はない
 □5−3 家族という境界設定

■6 結語

 

■1 主題の設定

□1−1 不払い労働という主張

 男は市場/女は家庭(+市場における差別)という性別分業のあり方が、夫/資本/国家…に利益を与えているという主張がある。この分業がかくも根強く在る時、ここから利益を得ている者がいるのではないかと考えるのはもっともなことだ。その一つの説明が、家事労働は、真実には支払いを受けるべきなのに、支払われていない不払い労働であり、これにより女性が不利益を被っているというものである。フェミニズムの少なくともある流れの主要な成果とされているらしい上野千鶴子の『家父長制と資本制』(上野[1990])等でなされているのはこうした主張であり、それが吟味を経ないまま流通している。
 だが、妻は家事労働に専念し、夫は会社勤めに専念するという分業の形がある。むろん、現在より広く問題なのは、共働きで家事労働が妻に押しつけられていることである。しかし、例えば次のように言われる。

「女性の抑圧には物質的な基礎がある。それは、家事労働という不払い労働の家長男性による領有と、したがって女性の労働からの自己疎外という事実である。家父長制は、この労働の性別原理によって利益を得ているから、既婚女性は、階級のちがいを超えて「女性階級women class」を形成する」(上野[1990:66]★01)

 とするなら、専業主婦も不利益を被っており、その夫は利益を得ているのだろう。しかしこれが私にはよくわからない。
 家事労働は「再生産に関わる不払いの労働である」というのは、第一に、現実の記述である。家事労働は、賃金労働のように、労働自体が評価され、それに応じて払われてはいない。生活費は夫が負担しているとしても、それは、家事労働に対する賃金として支払われているのではない。だからこの指摘は当たっている。
 第二に、それは現実の説明である。この分業はいかなる契機によって存在しているのか。男は外で仕事、女は家事という規範があるということだろうか。しかしただそれだけではない、何かこの現実を支えるものがあるはずだと考えるのは当然だ。当事者の利害が一致しているからかもしれない。しかし、専ら女性に不当性が意識されているとすれば、そうは考えられない。実は男性(少なくとも女性でない誰か)が利益を得ており、その分女性は損失を被っているのではないか。そして利益を得ている者が利益を手放そうとしないことにこの事態の存続の原因があるのではないか。フェミニストにとっては、この感覚をいかに表現していくかが問題になった。その解答の一つが「不払い労働」という主張である。
 無論、これに対しては、一方が得をしており、一方が損をしているという状態がどうして存在しうるのかが問われるだろう。多数者が少数者から利益を得ている場合、強者が弱者の犠牲のもとに利益を得る場合はありそうだ。だが少なくとも女性は少数者ではないし、常に物理的に強制されているのでもない。これに対して論者が持出すのが、「愛という神話」である。女性が家事労働に専念するのは当然という観念が、この現実の不当性を覆い隠しているというのである。この「愛の神話による隠蔽」という言い方については、既に別稿で検討を加えた★02。
 第三に、この言明は、不当性の告発であり、実践的な指針に結びつくものである。受け入れるべき配分等の基準があり、それに現実が違反しているならそれは不当であり、告発可能である。「不払い労働」という言葉が含意するのは、ある者が行うならその者に支払いが行われるべき労働ということだ。この基準で換算するということはすなわち、それが正当であるということを意味する。そうでなければ、単にある基準を恣意的に設定したということに過ぎず、設定する意義はない。
 さて、負担すべき者・(不当に)利益を得ている者(の少なくとも一人)として夫はいるのか。本稿の2・3では、夫によって支払いが行われるとして、それがどれほどのものになるのかを考える。

□1−2 問いの範囲

@「家事が「収入を伴わない仕事」であるとは、それが不当に搾取された「不払い労働」であることを意味する。この「不払い労働」から利益を得ているのは、市場と、したがって市場の中での男性である。
  市場が排除したこの労働は、市場の側からは、排除に足る理由があってそうしたにちがいない。人間の活動の全体に、市場は市場に含まれる労働と市場が排除する労働の区別を圧しつける。」(上野[1990:37])
A「家事労働は、金になろうとなるまいと、労働にはちがいなく、主婦がやらないとなれば誰かに代行してもらわなければならない。その意味で「有用で不可欠」な労働でありながら、女性に対してどんな法的・経済的な補償も与えられず、無権利状態におかれているとなれば、これは不当に報酬の支払われない「不払い労働 unpaid labor 」だということになる。…主婦はそれを「愛」の名のもとに行っている」(上野[1990:38-39,40])
B「自分は愛する妻子のためにこそせっせと稼いでいるのだという言い分があるかもしれないが、女性は第一に貨幣費用(カネ)ではなくて現物費用(テマ)を再生産労働というかたちで支払っており、この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている。」(上野[1990:97])
C「妻の再生産労働は誰からも――夫からも、夫を通して資本からも、また国家からも支払われていない」(上野[1990:98])
D「男性が自己の利益を守る「家父長制的戦略」には二つある。第一は女性を賃労働から排除することであり、第二は女性の労働を男性の労働より低く位置づけ、女性をそこに封じこめておくことである。」(上野[1990:59])
E「労働の場における性支配から資本家ばかりではない。男性労働者もこれから利益を得る。」(上野[1990:59])

 まずはかなり限定された主題の検討が本稿の目的となるが、同時に、それは、家族が行っている行為、行うべきとされている行為が、どんな要因によって成立しているのか、どんな効果を生じせしめるのか、そしてそれをどのような原理によって正当化あるいは批判しうるのかを考ようとする作業の準備でもある★03。家族と市場との関係、家族と政治との関係、市場と政治との関係が本格的に問われてよいのであり、しかもそこでは、既にある家族と既にある他の領域との相互交渉を問題にするだけではすまず、この境界設定を原理的に問題にする必要がある。それは一つに、どのようにあるべきかという規範的な問題としてあるからでもある。
 上野[1990](『家父長制と資本制』)★04に言及しながら議論を進めるのはこのような意図があるからでもある。この書は、欧米のフェミニストの議論の紹介に多くの部分がさかれ、実に様々なことが書かれており、著者自身の立場がはっきりと見えてこない。議論が体系的に展開されていれば、それを追って検討すればよいが、多くは成立根拠・前提、言明が覆う現実の範囲が明示されない、断定・命題の並列として提出される。ただこれをを、著者によるこの主題の処理の仕方にだけ帰すことはできない。
 まず、上野は、市場・国家・家族といった社会的諸領域の関係の問題として、財・資源の配分の問題として、論を立てている。このことは積極的に評価されてよい。このような視点から書かれる文章自体がそう多くない。こうした領域を主題とする諸研究にしても、着実な、そして優れた実証研究はいくつもあるものの、原理的な水準で論じようとしたものは少なく、また、そのようなスタイルをとっているものの中で、諸領域の間の基本的な関係、それらの内部の構成を考えながら、論証すべきことを論証しようとして書かれているものはさらに少ない。上野は、問うべき事態に対してより意識的であり、しかも現実に対して誠実であろうとしている。この主題は、ことの本性としてうまく論ずるのが難しい。この主題に関係する諸領域が相互に関係しあっている。また、事実を記述すればすむというものでもない。例えば、実際には家族内で支払いは行われていないのだから、その時にどのようなあり方が正当なのかという規範的な議論を行う必要がある。論点の混在と混乱はこのような事情からも来ている。だがともかく、上野はそれを問おうとしているし、考えるべき論点のかなりの部分を提出してもいる。
 と同時に、そこでは、私達が何かを問題し批判し変革を求めようとする時に、ひとまずとってしまう典型的なかたちがみられる。
 T:家族内で男性が利益を得ているという主張、その一部として「不払い労働」という主張がある(引用BC)。「資本制」の利害とまずは独立に「家父長制」の利害を認める「二元論」をとり、Sokoloff[1980=1987]を引いて、市場と家庭の双方に家父長制の存在を言う上野(上野[1990:25-26])は、Tにおける夫・父の利益を認めており、その中心となるのが不払い労働としての家事労働が女性によって担われているという論点である。これが本稿の2・3で考察する主題である。
 ただこの本を読んでいくと、女性以外の全ての者が全ての場面で利益を得ていると書かれている、というのは言い過ぎにしても、様々な利益・受益者があげられている。
 U:ある行為を家庭内(の女性)にとどめることが市場に利益をもたらすという主張(引用@・A)。
 V:家族(女性)に行わせることで、国家が利益を得ているという主張(引用C)。
 W:市場で、女性を排除することによってあるいは性別に応じた格差を設けることによって利益(不利益かもしれないのだが)を得ているという主張(引用D・E)。
 だが、Uについて、あるところでは市場と言われ、あるところでは資本(家)と言われるのだが、市場という利益を得たり損をしたりする主体があるわけではない。市場の中の誰が、どういう利益を得ているのか。
 同様にVについても、国家の中で(あるいは国家間の関係の中で)誰が、どのような層が、どのような意味での利益を得ているのか。
 WではA:女性を雇わない場合と、B:雇うが男女間に格差を設定する場合とについて各々検討すべきである。さらに、ここでも市場の中の誰が、という点を考えねばならない。ひとまず@:資本(家)、A:(女性が被害者だとすれば男性)労働者があげられる(他にB:消費者という可能性もある)。例えば、@A:女性を雇わないこと自体による雇用者の利益がはたしてあるだろうか(だが多くの論者は論証のないままここに利益があると言う)。この場合利益がありうるとすれば、雇わず、家事に専念させることによる利益と考えられる。とすれば、これは実際にはUの論点として扱うべきものである。Uを含めて考える場合には、むしろ、雇わないことで家族・女性に行わせることによる利益と、女性を労働市場から締め出すことの「不利益」との比較を行わねばならないことになる。B:雇う場合には、低賃金での雇用による利益等が指摘される。だがこれもどうか。
 市場は(少なくとも資本家は)私ではない。国家は私ではない。(そして妻にとっては夫も私ではない。)私が不利益を感じている以上は、それらが利益を得ているのだろう。支払いが少ない、あるいはない。企業が面倒を見るべきだ。国が面倒を見るべきだ。……。無論、企業に要求すべきものは、国家に要求すべきものは、要求すればよい。そして(マルクス主義)フェミニズムは「私的な領域」とされてきた家族内の行為を「初めて」こうした場面に登場させたのだと言う。だが、いかなる根拠で不当性を言うのか、いかなる根拠で、どの部分に対していかなる計算によって負担を求めるべきなのか★05。これを考えないと仕方がないと思う。
 私は上野の著書を一つの体系とし、その体系を検討しようというのではない。個々の論点を引出す材料として利用し、個々の論点を解きほぐし、一つ一つ確認し、まずはそれを積み重ねていこうと思う★06。2・3はその一部をなす。その結果は妻の不利益を言う主張を否定する。では、不利益・抑圧を言う契機は何もないのか。そうではないと考える。4でひとまず一つの代替案を提出するが、そのために4−1でWについて少しだけ述べる。ただ、それで家事労働の問題が片付くわけでは決してない。5でさらに若干のことを述べる。だが、4以降の各論点を詳細に検討するにはなおかなりの分量を要する。またここでは議論の再編成が必要である。その作業は別稿で行なわれる。4・5(そして6)は検討し主張しようと思うことの予告に過ぎない。

□1−3 夫が支払うということ

 先に引用した言明には実感に添う部分が確かにある。例えば、夫が妻の労働の対価を現実に妻に支払うなら、夫は破産してしまうという話である(→引用B)。損をしているような気がしている妻や疚しいところのある夫は、そういうものかと思う。確かに週40時間の妻の労働に対して、同じく週40時間働く夫が払うとすれば、そしてその時間当たりの賃金を夫と同じにすれば、彼は妻に稼ぐ額の全額を与えねばならない。しかし、本当にそういうことなのか。貨幣への換算によって家事労働の有意義さ、現実の不当性が論証できるかどうかを見よう。つまり問題は、誰が、何に対して、どういう理由で、いくら払うべきなのか、そして、その額は妻一人分の生活費を超えるのか、いかほど超えるのかである。妻の生活費は賃金ではない。これはその通りである。しかし、想定される賃金が現在の生活費を上回らねば現状から(少なくとも経済的な)不利益を被っているとは言えない。
 なお2・3では高齢者、障害を持つ人の介助労働については考えない。私自身は、他の多くの人と同じく、このような労働が非常に大きな負担となっていると考える。だから、こういう労働が家族の中でなされていることを無視しようとするのではなく、むしろ、そのことを明らかにするためにも、まずは範囲を限定して考えてみたいと思う。例えば再生産を「労働力の再生産」とした上での主張一般が対象とするのは、現在あるいは将来労働する者であるのは明らかである。とすると、このような論理でどこまでのことが言えるのかを考えておこうとするのである。
 実際には支払われていないところに支払いを想定するのだからその作業は慎重に行わないといけない。実際、そこに慎重さが欠けているのが、この主張の難点なのである。
 以下で、考えられる4つの計算の方法を検討する。
 @個々のサービス労働を市場価格に換算する。まず、2−1で夫に対する労働について、計算し、その結果支払われるものはそうたいした額にならないことを述べる。2−2で子に対する労働については、通常夫に支払いを求められない理由を述べた後、均等の負担を相当として考える。その結果は、ほぼ現状と変わらないだろうことを述べる。両者を総合した場合、女性の側の現状での不利益を言えない。
 これに対して、単純に市場価格で換算してはならないという論がある。といって、それに代わる計算方法が明確に提示されているわけではないのだが、3でいくつか考える★07。
 3−1でA「機会費用」という考え方をどのような場合に用いることが出来るか考える。
 3−2でB市場価格以外で労働を評価する方法として何があるのかを検討する。
 3−3でC共働→平等な権利という論理――これは現状で採られている、採られるべきだとされている論理である――を検討する。
 結論的にはいずれも成功しない。これは、少なくとも妻と夫との関係において、専業主婦の側が現状から経済的な不利益を被っていないということである。3−4で、このことは家族にとって専業主婦という存在を置くことが利益にならないことも意味することを述べ、3−5で歴史的な限定性という論点を処理し、3−6で以上の検討の結果を確認する。

■2 夫は妻にいくら払うか:通常の場合

□2−1 夫に対する労働に対して

2−1−1 妻は夫に要求できる
 しはしば夫に対する労働と子に対する労働がしばしば同列に、むしろいっしょくたに論じられる。例えば引用Bでは、夫が妻の夫・子に対する労働に対して支払うべきことが前提されているように読める。しかし、「妻子」と一緒にして「夫」と対置すべきでない場面があるはずだ。まず夫に対する労働について検討する。
 家族は損得抜きの関係だと言われる。だから、支払いを要求すること自体に疑義があるかもしれない。これに対して上野がおくのが「神話としての愛」という理解である。これをまずどう考えるかが問題であり、別稿(立岩[1994c])で検討した。そこで確認されたのは、相互に相手の生活を支える義務はないことである。ある事態がある事態を内包している場合、前者について義務・権利を持つ者は後者についても同様である。しかし、関係をとり結ぶことの中に扶養や家事労働は必然的に含まれていない。当事者における関係に対する同意にこれが含まれているとも考えられない。例えば関係を結ぶことには同意したが、家事労働をすることには同意していない、それは同意の内容には含まれていない、と主張することは可能である。両者に事実的な因果関係がある場合、しかしそのすべてではなく、ある結果を目的としそのために行為が行われる場合、あるいは結果の予見可能性がある場合に、その結果に対する責任が問われる。配偶者との関係については、関係の形成によって、配偶者の生活能力を欠けさせ扶助の必要を帰結することにはならない。また、それ自身の正当化が問題になっている、夫婦は互いに扶助すべしという社会規範を前提するのでなければ、関係の形成が扶助の必要を予見させるとも言えない。さらに、関係を結ぶことが扶養・家事を行うという目的実現のための手段であるとも言えない。
 したがって少なくとも各自の生活を維持するための行為については、支払い支払われる関係とすることに問題はない。自らの労働は自らのものである。行うべき義務はない。同意の関係であるはずなのに、同意の内部にそれがないとすればそれは不当である。それを相手に与え、そこから相手が利得を得るのであれば、その相手に対価を要求することができる。これはそうとっぴな考え方ではない。二者の関係を維持した上で、要求は可能である(要求せねばならないのではない)。
 次に、支払いの相手が家族である/家族でないという境界は無視してよい。つまり、家族に払うこともできるが、それが不利なら市場に行為者=支払い先を求めることも認められる。また、支払いの額は市場における額に相応したものになる。それを否定する根拠はない。つまり、市場価格と比較され、同じ基準によって払われると同時に、それに妻が応じず、なおかつ市場への移転が可能なら、実際に市場化が選択されるということである。論者が、このことにどれだけ自覚的であったのか、これは疑問である。
 そして夫に対しても同じ条件が設定されるのは当然だから、夫による妻の扶養義務は否定される。実際言われているのも、妻の生活費は妻の労働を換算した金額に及ばないということである(→引用B)。したがって、いったん扶養の義務を解かれた上で、改めて払うとする。妻は従来夫の収入から支払われていた自身の生活費(住居費等一切を含む)を要求しない。この上で、妻が得る収入が従来の生活費を上回る場合に、妻は、従来置かれていた立場が不当だと言い得る。

2−1−2 だがそうたくさんは受け取れない
 ここで問題になっているのは夫に対する労働である。子どもに対する労働は別に考え、夫に対する労働の部分だけを取り出さねばならない。例えば、妻が自分のための昼食を作り後片付けをする時間はここには入らない。彼女が昼食を取ることもまた、夫の再生産のための妻の労働力を生産する労働であるという言い方ができなくはないかもしれない。しかし、夫の労働に対する支払いにおいても、このような部分は考慮されることはない。
 とすれば、現状で妻達が申告している家事時間から夫に関わる時間だけを取り出し、それに例えば平均的な時間給をかければよいのだろうか。専業主婦の子どもの世話を除いた家事労働時間は平日約6時間20分だと言う★08。これを単純に2で割るわけにはいかないにしても、かなり縮小される。しかし、それでは済まない。
 妻は夫にサービスを提供する労働者になる。この時、妻は、その夫の妻であることと別に(それと関係なく、それに加えて)第三次産業の労働者(あるいはむしろ自営業者)であり、妻以外の労働者・業者と、労働者・業者であることにおいて区別されることはない。夫は個別のサービスについて、妻に払うか別の者に払うかを選択することが出来る。
 例えば夫は夫の分の食費を払う。妻が実質的に受け取るのは、そこから材料費を抜いた部分、最終的な加工費である。これらの積算価格が妻の実質的な所得になる。労働時間に同業種の労働者の一般的な時給を掛けた額と、個々の行為についての市場での価格を計算する場合では、後者では分業が発達し規模の経済が働く市場での購入費用になるから、前者の方が高くなるだろうが、妻はその高い方を要求することはできない。例えば炊事が2時間かかるとしよう。この2時間に時給2000円なりを(もちろん材料費、光熱費、設備費と別に)払うことを夫は選択しないだろう。外食すればもっと安く済むからである。ここでは、家庭だから、妻だからといって特別の扱いはされない。もしこの場面で、妻が対価を失いたくないとすれば、妻は市場での労賃の方に合わせて要求額を引き下げねばならない。価格が高くなるのは、夫の帰りが遅く、家庭でしか食事が出来ないといった場合に限られる。こうして、受け取り分はかなり少なくなっていく。
 その他に、洗濯・掃除その他の仕事がある。この場面では確かに具体的に競合する業者はいないかもしれない。自分で行おうとしないのであれば、妻に依託することになるかもしれない。時間を算定し、それに標準的な時間給を掛合わせた分を払うことにする。だがこれもどれほどのものになるのか。例えば、単身者が、(ここでは食事に関わる部分は別にすることにして)いったいどれだけの時間を洗濯・掃除等のために費やしているだろうかを考えてみればよい。そうたいした時間、労働量にはなりえない。(このことは、市場あるいは国家が夫に対する労働への支払いを仮に行う場合にも基本的に同じである(→5−1。夫と妻は単身者と同じ額の支給を受け取ることしかできない。)
 妻が夫から夫に対するサービスの対価として受け取ることが出来るのは、これだけである。妻は従来夫の収入から支払われていた自身の生活費(住居費等一切を含む)を失い、この収入だけで暮らすことになる。これが以前より高い生活水準をもたらすとは決して言えないはずである。

2−1−3 関係の売却
 こうした縮減は不当だと考えるかもしれない。実際、他の根拠、計算法がないのではない。2−3以降でそれを検討しようとするのだが、ここでも一つの支払いの対象の拡張の仕方を検討しておこう。
 夫と妻の二者の関係(の以上で取上げなかった部分、あるいは総体)を金銭的な契約関係とすればよいのではないか。
 例えば家庭でとる食事は単なる食事ではなく、そこから安らぎを得ているのかもしれない。彼は彼女の食事を食べたいのだから、外食で安く済ませるのと同じだけを払えばよいというわけにはいかないかもしれない。さらに、それは彼女一人が与えることができ、そして彼がそれをあくまでも望むのなら、完全な売り手市場となり、妻は希望するだけの額を得られるかもしれない。例えば、妻は夫に性交をただで提供しているのだといった話がある。ただと言えばただである。これを市場で調達しようとすれば、随分なお金がかかる。彼女がお金を払わないと応じないのなら、彼は払わねばならないだろう。お金を払って愛人になってもらうというような話である。そういうことがあって悪いわけではない。
 だが第一に、ここで支払いが行われるのは、この行為が対価を払われないと行われない行為である場合である。そうすると、既に確認したように、その行為を自発的に行いたいという人、自発的な行為としてある部分、無償性について合意が形成されている行為の部分に対して、その代価を支払う必要はない。この部分の要求について、女性の全てが足並みを揃えるのは難しい。
 第二に、お金を払って関係を維持することが特に否定されるべきでないにしても、少なくとも関係一般のあり方として、支払いがなされないと関係が維持されないような関係として二者の関係を置くことは、論者自身も肯定しないはずだ。
 第三に、「イデオロギー」を剥がしてしまえば、やりたくないこと、やる必要のないことをやっているという事実が残るのなら、そこから単純に導かれるのは、やらないこと、関係をもたないことではないか。
 そして、これらは言ってみれば彼の趣味に関わるものであり、労働力の再生産に関わる費用とは認められない。後で検討する、夫以外の者に労働力の再生産を理由に支払いを求める時にも、この部分の支払いを求めることはできない。無論、事態を把握し批判する論理としても「労働力の再生産」という議論は無効になっている。

□2−2 子に対する労働に対して

2−2−1 自己決定・自己責任
 子を育てるには金と時間がかかる。だから、子を育てることは少なくとも一面では負担である。妻・母は子のために労働している。この労働に対する対価を払うとすれば、どのような根拠が、誰が、いくら払うことになるのか。
 扶養に関わる義務は誰もが知っている。すなわち家族の成員の扶養は、他の成員の私的な義務の範囲にあり、国家は補足的にそこに介在するにすぎないということになっている。その範囲が問題だが、欧米諸国の多くではその範囲は狭く、夫婦間の相互の扶養義務と未成年の子に対する両親の義務だが、日本ではよく問題にされるようにさらに広い。
 子供を持つことは選択である、勝手に出産・育児をやっているのだ、それの方が親にとって利益になるから、経済的な利益は得られないとしても好きでやっているのだ、別に頼んだことはない、やれと強制しているわけではない、という主張がある。
 近代社会において権利・義務の設定は、一つに、自己に属する行為、あるいは行為の結果に対しては権利・義務を負うという規範によってなされる。他者に対する行為は同意のもとで許容される。この規範を置いた場合に、私的扶養が正当化されるか否かは、夫婦の間の場合と、子供と親との場合で異なってくる。
 夫婦の間に扶養の義務のないことは先に述べた。では子供の場合はどうか。第一に、合意など始めから存在しようがない。また合意があっても、子はそれを破棄することもできる。したがって、親子という関係に対して設定されている義務は合意の規範とは別のものでなされなければならない。
 子を持つことの中に扶養が必然的に含まれていると考える必要はない。具体的な子育てに関わらないが子との関係を持つことはできる。したがって前者が後者を内包するという論理も成立しない。
 故意という概念をもってくることもできない。ある目的を達成するための手段としてある行為を行った場合に、達成されたその結果に対しては責任を負うべきだとしても、関係を結ぶことが養育を行うための手段だとは言えない。
 次に事実的な因果関係があり、その結果の予見可能性がある場合にその結果に対する責任が問われる。結局これが残る。男女の関係においては、関係を持つが扶養はしないと主張できる、妻に対する扶養の義務はないと主張できると述べた。子供の場合はどうか。  扶養せねばならない存在をこの世に生じさせることは事実的な因果関係であり、予測可能なことである。子が生まれ、その子は扶養を必要とすること。これは予見される。では扶養を必要とすることと親が扶養することとの連続はどうか。実の親でなくても子を育てることはできる。自然界の法則によって親が子を育てることが予め定まっているわけではない。つまり、これは規範の問題であって、ここに事実的な因果はないという反論が成り立つだろうか。しかし、自己責任の議論は、規範を設定し根拠づける原理である。例えば、車を買えばその維持費は自分で持たねばならない。子の扶養・育児については、子を産むことによって子が存在し、その子が誰かの扶養なしには生きていくことができないことが認識されているとした場合に、子を育てることが義務として設定されることになる。選択である以上、自己責任の原理が適用される。また、子は物のように生産物ではなく人であるという事情も、子に対する親の権利を制約することにはなり、また親が負担を負いきれない場合には、その子が生きらないような状態を是認しないのであれば一定の援助をすることを帰結することになるにしても、義務を回避させることにはならない。
 このような意味で、扶養義務を全面的に解除することはこの原則のもとでは難しい。ということは、育児・扶養に関して家族外の社会的給付を求めるなら、別の論理を提示せねばならないというこである。この点についての私の考えは後で述べる(→5−3)として、以下、両親による扶養を前提した上で続ける。ここで基本的に問題にしているのは夫から妻への支払いなのだからこれで問題はない。

2−2−2 子供から親に
 生産者は原材料の提供者にその対価を支払う。子供が今あることができるのは、また労働できるのは親が扶養してくれたからである。親の労働、親が子のために支払ったものは、現在子供が生きていること、労働していることの原材料になっている。だから、親が支払いを求めるとすれば、その相手はまずは子供であるはずである。
 その支払いの形態は、それを労働に対する代価と言えるかどうかは別として、第一に子による親の扶養である。しかし、予めの契約はない以上、契約が義務を発生させるとする論理からは、支払いの義務は言えない。親は子の同意を得てから子を産み育ててきたのではない。親孝行な子なら親に孝行するだろうが、近年の動向をみれば、この関係は親から子へのほぼ一方的な贈与になりつつある。しかしそれは親の側の子を産み育てようという選択、自己決定であるがゆえに仕方のないこととされる。親は子から経済的な利益を得てはいないにせよ、子からあるいは育児という行為から情緒財を受け取っているのではないか。選択である以上、自分の得になると判断してのことだろうと言うのである。これは実際に困難な中でなお子供を産む者がいる以上、なかなか否定できない。実は後にみるBの論議(逸失利益)はこの点を看過しているのだが、これについても後に述べることにする。

2−2−3 夫による支払い
 以上のように考えれば、夫が育児に対する負担を全面的に負わねばならず、妻に対して育児労働の対価を払わねばならないとは言えない。ところがこの点に関する言及が見当たらないのである。例えば引用Bだが、ここで言う再生産労働とは、文脈上まずは夫と子の再生産労働だろう。そして「この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている」と続く。この文章が意味を持つためには、夫が負担すべきだがそれは夫が負担できる額を超えているということである。しかしそのように言えるのか。
 第一に、専ら夫が子供を欲しがり、妻はいらないと思っている場合。妻自身は子を産み育てることを希望せず、その労働に見合う額を保障されることによって初めて、妻が子を産み育てるのだとすれば、その対価を要求し、自身の労働に対する全額を受け取ることができる。これは相当の額になる。母親が育児に費やしている時間に同種の労働の平均的な時間給をかけ合せただけを受け取ることになろうか。あるいは、育児に携わることによって、市場で労働できない、あるいは再就職した場合の賃金が低く押さえられるということを考えるならば、それらの損失分も考慮されるべきだろうか。とすれば、支払われるべき額は、夫が払うことができない額になるかもしれない。しかしこれは、妻は子を産み育てる希望がなく、夫が子のために妻を雇用するといった場合である(→3−2)。
 第二に、共同の意志として子供を持つことになった場合。この場合には例えば負担は折半というのが妥当なところだろう。育児を全くしない夫と専業主婦の場合を考えよう。夫はお金を供出する。AIU保険会社[1989]の試算によれば、子供1人に親が直接にかける費用は、大学を卒業するまでに基本的な養育費1549万円+教育費(けいこごと等にかかる費用も含む) 647万(幼稚園から大学まで国公立)〜1392万円(すべて私立で大学は理系)、総計2196万〜2941万円★09であり、ここには住居費や水道光熱費は含まれていない。これらを含め、子供2人とすれば、かかる費用は4500万〜6000万円を(特に大都市圏でははるかに)超える額になるだろう★10。
 他方、専業主婦の妻は労働だけを提供する。その総時間は、調査から大まかに試算すると約23000時間(有職の主婦の場合14000時間)である★11。例えば時給2500円として換算し両者を比較するなら、両者の負担はそう異ならない。★12
 ここでは市場での価格との比較を行わなかった。たしかに、育児全般を機械化できるわけではないから、工場で弁当を大量に作るのと同じようなコストの削減ははかれない。だがそれにしても、妻1人が子供1〜2人の世話をしており、その昼間の分の労働に例えば週40時間月32万円を払うより、保育園に預けた方が(公的な助成がないとしても)少ない支出で済むだろう(理想的な保育の形態としてあげられている人数を見ても、子供2人に対して保母1人が配分されるべきとされるのは0歳児に限られ、それ以降は保母1人当たりの保母の数は増えていく)。子供2人を育てているとして、保母が受け取っている給料÷保母1人あたりが受け持つ人数×2が、妻の側の労働・負担を換算する方法である。こうのように計算し合算した額が先の夫・父の側の負担額を下回るなら、そして育児に関わる負担をあくまで均等にすることにするなら、妻はむしろ夫に対して支出せねばならない。
 さらに、現実には、いくらかは育児・教育に対して政治的な配分が行なわれている。そのための税負担はここには算入されていない。直接には夫が払っているからといって、その夫のための労働を妻が行っているのだから、夫だけの負担とは言えないと主張されるかもしれない。しかし、先の計算によれば、既に夫は妻に対してその労働に対する対価を払っている。したがって、この負担は夫の側の負担分とされる。この部分の公平を求めるから女性も等しく払わねばならない。このように再計算する場合にも、女性の負担は現状より大きくなる。
 妻の夫と子に対する労働の両方、夫の妻と子に対する負担の両方を合せるとどうか。子に対する負担が双方で変わらないとすれば、妻が受け取れるのは夫に対する労働からの夫による支払いだけになってしまう。

■3 夫は妻にいくら払うか:その他の論理

□3−1 A:機会費用という論理

 2では、@:個々のサービスを市場価格で評価した。これに問題があるのかもしれない。
 妻は家事労働とりわけ育児労働を担うことにより、就労の機会を奪われた。再就労しても、その賃金は継続的に雇用されていた場合に比べて低い。それを損失と考えるなら、その総額はかなりのものになる。ここまではその通りである。「機会費用(放棄市場賃金)」「逸失利益」という論理は、このようなところから用いられる★13。問題はこの計算がどのように位置づくかである。上野は引用Bのすぐ後に以下のように書く。

 「第二に女性は、この現物費用を負担するために生産労働の場から離れるという形で、ありうべき貨幣収入(逸失利益 lost income)を犠牲にし、この期間の離職は、後に再雇用を得てもハンディになって響くから、生涯にわたって回復できない格差を背負いこむ。」(上野[1990:97])

 第一の計算と第二の計算は意味が異なっている。どちらをとるのか。論点は並列されており、この点について明確な主張はなされていない。おそらくはどちらの計算によっても不当性を主張できるというのだろう。ただ第一の計算については既に検討し終わり、ここからはたいしたことが言えないと述べた。第二の計算について考えてみよう。
 まず確認しておくと、ここでなされるのは、家事労働はその内容自体において価値ある労働であるという主張ではもはやない。ここで行われる評価は、家事労働に対する評価ではなく、通常労働に対して払われる時間あたりの価格×時間、(家事労働を担当することになったことによって)奪われることになった労働に対する評価である。不払いの労働を行わせているというのではなく、その労働を行わせなければ行ったであろう労働(とその対価)を奪ったということなのである。
 次の問題は、それを誰かが(ここでは夫が)支払うべきだと言えるかである。夫がそれを支払わねばならないとすれば、妻が結婚して退職した後の、あるいは子を産む前に退職した後の、就労していれば得られた賃金を全て支払わねばならないということか。妻が得られただろう賃金が夫の賃金と変わらないとすれば(そう考えるのが合理的である)、夫は賃金の全てを、妻が退職した後、支払い続けねばならない。これは確かに夫が払える額ではない。しかしこの論理は妥当なものだろうか。
 1):まず逸失利益・機会費用の計算は当事者(妻、あるいは夫を含めた)が、将来の行動を決める時の一つの計算に使われるものである。機会費用(=選択しなければ可能な利益)が、選択することによる利益(所謂「情緒財」の消費として得られる利益を含む)を上回れば、その者はその選択を行わないだろうということである。この限りでは、機会費用の計算は支払うべきだという論理ではない。
 家事・育児についてこうした妻(+夫)によるコスト計算が働いていることは想定可能である。例えば子を持つことによって退職することで利益を失う。だから、子を持たないという選択をするかもしれない。しかし子を持つことによる利益が、子を持たないことによって得られるだろう利益を上回る場合もある。そこで子を持つ。この限りではそれだけのことである。失われた利益を誰かが支給せねばならないという論理は少なくともこの場面ではない。計算した上で子を持つことを選択したのだからというのである。また計算の上で妻あるいは夫婦が子を持つことを選択しないことがありえよう。これもそれで終わりである。★14
 だからといってこの計算を払うべき額の算定根拠として用いることができないわけではないかもしれない。それはどういう場合か。
 2):例えば、私がAという場所では月 100万円受け取っていたが、今度の就職先Bでは月10万円になった(あるいは全くのボランティアとして働いている)。あるいは私がAという場所では35年間の雇用が保障されていたのだが、今度の就職先(例えばプロ野球選手として就職する場合)は10年しか働くことができない。Bで働いていれば、月 100万円なのだから、その差額(90〜 100万円)を払えと言えるのか。あるいは10年働く分に対し35年分の給料を払えと言えるのか。言うことはできる。そして、そのように言ってBが応ずることがあるかもしれない。しかしそれは、それだけ支払っても私をBで働かせたいということ(仕事に対してそれだけの価格をつけたということ)であり、私がAとBの仕事自体には同じ価値を認めているなら、Aに戻ることを阻止するために、逸失利益以上の額を払うのは必要条件となるということである。無論、Bではそんなことはできないから、あるいはそれでは利益にならないから辞めて下さいということになる場合もある。
 3):私の意志に反して私がAで働くことをBが奪ってしまった時に、例えばBが交通事故で私に働けなくなるほどの怪我を負わせた時に、Bが奪わなければ得られただろう収入を保障せよという場合があろう。こうした場合でも、このような計算が妥当かという議論はある。この計算は、その者の能力を基準にするから、例えば収入の低い職業しか得られないあるいは全く職業につけない者には、この計算による支出は減らされるあるいはなされない。私自身はこうした帰結に否定的なので、この計算方法に対しても否定的である。しかし、ともかくこういう計算の仕方は確かにあり、一定の合理性を持つものとしよう。
 さて、問題はここで問題にしているものがこのような場合にあてはまると言えるかである。この場合も、まず労働の提供を受けた者が支払うべきだとすると、払うのは子である(その子をやがて雇うだろう資本なり、その労働の結果たる生産物を購入する消費者が負担すべきだという主張については別に検討する)。だが、子に支払いを強いることが出来ないことは述べた通りだ。夫が支払うべき場合があるだろうか。
 3)の場合と同様の要求がなされるのは、全く子を持つことを望まない妻をだまして妊娠させ、出産させ、しかも何らかの理由で妻しかその子を育てることができないといった、通常はそうない状況においてである。この場合には、その被害の補償として、妻は失われた収入の全額を要求することができよう。
 ただ通常は、何らの選択が働くことなく既に起こってしまった事故とは異なり、事前に行為の決定がなされるから、事前に交渉が行われることになる。このような交渉の場で、妻は夫に対して2)のような計算を提示して要求することがあるかもしれず、そうでないと応じない場合があるかもしれないが、それは妻にとって子を持つことが全く利益をもたらさず、損失でしかない場合に限られる。つまり、先(→2−3の第一の場合)にみた、妻は子を持つことを少しも望まないが、夫がこれを強く望んでいる場合、そしてそのために妻が働くのをやめさせたという場合である。このような時には、夫が支払わねばならないのは、先に見たように家事・育児労働に対する対価ではなく、辞めなければ得られたであろう全生涯に渡る収入であるから、この金額は非常に大きなものになる。
 だが、それはこのような時だけである。多くの場合、妻自身もまたいくらかは子を持つことを望んではいるのだとすれば、妻にとって子を持ち育てることが何かの(物質的な利益ではないにせよ)利益だということであり、計算は異なってくる。夫の要求に応ずる金額は減少していく。そして、妻自身が、機会費用と子を持つことによる利益を等しいものと考える時には、妻の受け取りは全くなくなる。
 それでもあくまで子を持つことを全面的に負担であるとして、その全額の支払いを主張することは出来るかもしれない。彼女の選好関数自体は他者にとって不透明だから、交渉の仕方としてこのように言っていく手はある。そして夫はこれを払えない。あるいは払うくらいなら、子を持たないことにする、あるいは自ら育児に参加する等の別の選択をする。これこそが望んでいたことなのかもしれない。しかし、実際の交渉のやり方としてこれがあるとしても、そこに虚偽が含まれている以上、正当性を主張する原則とはなりえない。
 つまりこの論理は、自発性を否定し、行為に快楽の部分があることを否定して、その否定した分だけが認められるという論理なのである。例えば、どんな支援も受けずに子を育てた者がいたとすれば、それは子を育てる利益が機会費用を上回ったとされるのである。この論理を 100%貫くためには、本来は育児労働はただの労働なのだが、例えば「愛の神話」によってこれに意義があるかのように騙されているのだという主張をせねばならないことになる。これは、論者自身によってもとられる論法ではないだろう。フェミニストの主張は産み育てることが快楽であるような状態を求めるものだったのだから。しかし、逸失利益・機会費用の計算自体が、そのような基盤の上に乗っている。もしこれを避けたいのなら、別の基準を立てねばならない。

□3−2 B:市場価格以外での算定方法

 市場での労働と比較することに問題があるのだろうか。労働の市場価格を基準とした再計算を行なわないとした場合にはどうなるか。
 だがまず第一に、そのような言明ははっきりとしたかたちではなされていない。そしてその市場での計算によるものでないという算出の仕方はどのようなものなのか。
 第二に、夫の労働そのものは市場価格として払われている。とすると、そのような夫がなぜ、妻に対しては、別の根拠、算出方法で払わねばならないのか。わからない。(夫ではなく、他の誰かが払う場合については別に検討する。)
 1):まず労働時間に応じた分配という方法をとってみることにしよう。夫の収入を妻・夫の労働時間に応じて分配したらどうかというのである。また、妻・夫は家族に対して等しく貢献すべきだという考え方があるだろう。貢献をどう計るかが問題だが、時間が同じなら同じ価値を持つとする一応の計算方法があるかもしれない。とすると、妻による子のため夫のための労働時間が、夫による子に対するそして妻に対する労働時間とつりあえば、双方の負担に違いはない。妻については総労働時間−自分(妻)のための時間=夫・子のための時間、夫についても総労働時間−自分(夫)のための時間=妻・子のための時間とする。ここで自分のための時間とは、余暇時間のことではなく、自身の生活を成り立たせるために自身が要する時間である。この自分のための時間が違わないなら、双方の総労働時間を比較すればよい。一方が他方より多ければ、その時間を均等にするか、あるいは差の分を支払ってもらうことになる。どちらにしても、妻・夫の労働時間を考えればよい。
 これは、決して、同じ時間働く者が同じだけ働く者に全てを渡すというような計算にはならないことを確認しよう。1−3でみたように、週40時間働く者(夫)がその働いて得たものすべてを週40時間働く者(妻)に提供し、その結果前者(夫)は受け取り分がなくなってしまうということにはならないということである。男性と女性が同じ時間働くなら、両者が受け取るのは同額・同量となる。
 1981年の総務庁「社会生活基本調査」によれば、非共働き(夫が有業・妻が無業)夫婦の2次活動(義務的、拘束的な活動で仕事、家事、育児など)の時間は妻が平日7時間51分・日曜日6時間19分、夫が平日9時間38分・日曜日3時間38分★15で、これから計算すると妻が週53時間26分、夫が61時間26分となる。そう変わらない。とすれば現状にそう大きな問題はない。夫の時間の方が長い場合には、むしろ夫の方が不利益を受けていることになる。★16
 2):労働の価値を基準におく考え方は、労働の形式的な時間ではなく、労働の実質を問題にするだろう。夫は妻に対して合理化を要求することが可能である。例えば同じ1981年の調査で専業主婦が買物に費やす時間は週7時間11分で、「兼業主婦」の場合は4時間54分である。約1.5倍多くかかっているのだが、細かいことを気にする夫はこの部分の合理化を要求するかもしれない。また分業や共同化によって生産性が向上するのであれば、それを求めることに問題はない。このような効率化が困難であるとされる育児にしても、ある程度は共同化による効率化をはかることができる。このように考えていくと、ここで計られる価値は、(資本家による取り分のことを除外して考えれば)市場での価格に近づくことにならないか。そしてこのような計算によってさらに不利な立場におかれるのは、不当性を主張しようとする主婦の方である。
 では1)にとどまればよいのか。しかしこの論理を単純に、すなわち労働の内容・質を一切考慮しない方向に、拡張していけば、全ての時間は労働時間だということになり、結局のところ、(本稿が検討する範囲内では一つの家族の中での)人間が過ごす時間に応じた配分、すなわち全く均等な配分が指示されることになる。そのような分配方法が現実に可能かどうかは別として、これはこれでよいあり方かもしれない★17。しかしその場合には「家事労働」を言う意味が全く失われてしまう。
 3)「労働価値説」に立って計算すればよいのだろうか。しかし、まず労働価値説にたった計算というものがどういうものであり、そしてその正当性をどこまで主張できるのか。そして、そもそも問題になっている場面に労働価値説が妥当するものかどうかが問題である。ただここではおおまかに、一般的に了解される労働価値説というものが、生産物の価値は本来は労働者の労働によって形成されたものであるのに、それが資本家によって奪われてしまうということを問題にするものだとすれば、こういう論理に対応するのは、次のような主張だろう。例えば、母親の育児労働は子が働けるようになるための必要条件だった。ところが母親はその労働から支払いを受けておらず、せいぜいのこころ、かつかつ生きていけるだけのものだけを(しかも家庭内においては賃金という形ではなく)得ているに過ぎない。生存の最低水準にとどめられている。この差額が「搾取」だというのである。

 「労働力の再生産がある一つの労働過程を前提にしていること…、この労働力の再生産が前提としている労働過程において、その担い手となっているのが女たちであるということ」(Dalla Costa[1986:29-30])

 夫も(金銭的な負担という形で)子の労働力の再生産に携わっているという点を加えれば、上の言明は事実を語っている。
 ここではとりあえず、資本による搾取という契機を考えなくてもよい場合を単純に考えよう。例えば、子と夫は農業に従事し、その家族はその生産物を消費して生きていく。ここには資本の利益はない。そしてこれは、市場における資本の利益を考えにいれない場合(それが存在しないと決めてかかっているのではなく、留保しておく場合――これは夫を支払う主体とする場合には妥当な条件である――)についても同様に言えることである。
 さてその夫と子が働けるのは妻のおかげである。だが同様に、子と夫の労働もなければ生産物もない。前者の労働は時間的に論理的に後者の労働に先立つ。しかし先行する労働だけが特権的に扱われるべき根拠はない。前者も必須であったが後者も(他の自然的な条件等々とともに)必須である。この場合に農産物はどのように分配されるのか。人間達だけで分配されてよいのだとして(必要条件となっているもの全てに分配せよというなら、自然にも返さねばならないのだが、大抵の場合、渡そうにも渡しようがない)、その配分の比率はどうなるのか。これは基本的に規範の問題であり、労働過程自体をいくら観察しても配分の比率は出てきようがない。生産に対する必要条件を構成しているという点では両者に優劣はない。この両者の労働は全く異質のものであって、そもそもその間に共通性がないと主張することもできるが、これでは労働に応じた分配は行われえない。とすると結局のところ、1)か2)に近付いていくことになりはしないか。
 また最終的な生産物を基準に置く時には、例えば単身者と夫婦がいて、両者が同じだけのものを生産する時には、各々は各々の生産物を受け取ること、単身者1人と夫婦2人が同じだけを得ることに問題はない。そして、労働が結局生産物に結びつかなければ、その成果は受け取れない、対価は払われないことになる。生産に対する貢献という論理からは、こうした帰結を積極的に排除する根拠は与えられていない。
 違いは、子に対する労働に対する対価は支払われるべきことになるという点である(契約の論理からは、子に対する支払いを求めることは出来ない)。(両親とも負担しているなら)両親は子から、生産物・貨幣の供与を受けることになる。しかし、子はそれを払わねばならない。全ての者はかつては子だったのだからこの支払いを誰も(もちろん女性も)免れることはできない。とすればやはり結局は同じことではないか。さらに、大人になっても生産しない子からは、親は育児に対する対価を何も受け取れない。
 少なくとも通俗的に理解される「マルクス主義」が(資本家の取り分の問題をいったん別にすれば)結局のところ、物・サービスの「生産」を第一の基準に置いているのだとすれば、こういうことになる。マルクス主義とはそういうものではないと言うかもしれない。別段「マルクス主義」を持出す必要もない。主張したいのはそういうことではないと言うかもしれない。ではどういうものなのか。これがわからない。

□3−3 C:共働・共有

 予期していたのと反対に、以上のような論法では困ったことになってしまいはしないか。例えば離婚に際しての財産の分配に際し、女性が現状よりむしろ不利になることが考えられないか。例えば、子に対して投下された労働は夫・妻双方で等しく、したがってこの部分について夫から受け取ることはできず、また、夫に対する寄与分は既に消費されてしまったなら、財産の分与を要求する権利を失ってしまうことにならないか。
 このような帰結を認めないとして言えるのは、以下のようなことである。両者は結婚生活を始める時に、例えば夫が勤めを続け、妻は退職して、子供を産んで育てるという共同の目標を立てた。あるいは双方がこのことに同意した。この時に、この目標を達成するためには、両方が職業を続けることはできず、片方が退職せねばならなかった。その際、例えば将来見込まれる賃金の低い方が退職した方が有利だという理由で、妻が退職することになった。あるいは職業を続けることも可能ではあったが、いろいろと考えると退職する方がよいという結論に双方が落ち着いた。こうして例えば妻は職を失ったのだが、これはそのことに対する同意の上のこと、共同の目標の実現のためのことだった以上、夫は妻の生活を支えることにも同意したとみなさねばならず、夫はその同意のもとで職業を続ける側に立ったのだから、その収入を勝手に処分してもよいというわけではなく、また妻にしても、夫の収入を自分の生活のために、無制限にというわけではないにせよ、使うことができる。例えば離婚に際し、その時点での資産は、このような分業に両者が同意し行ってきて形成されたものである以上、均分に配当されるというのである★18。これは負担の実質、実際の労働(時間)を問題にするのではなく、その不均衡を含めて合意がなされたのだから均分に配分されるべきであるという主張である。
 実際にそのような明示的な同意があったかどうかはわからない。ないのが普通かもしれない。しかし婚姻がなされたとはそのような同意があったということだとみなせば、このような帰結を想定することはできる。この同意は、先のように、妻と夫が互いの生活の維持のための行為について互いに義務を負うものとせず、この部分については両者が新たに契約を結ぶというのとは異なる同意である。
 だが、この論理を採用する場合にも、行なわれていることは家事労働固有の価値の評価ではないことは確認しよう。これは、家族の中で一緒になり不可視化されている女性の労働を男性の労働と別に採り出し、それに固有の価値を計ることによって、互いが互いのためにという観念のもとに、より多く働かされてきた事実を明らかにし、女性の置かれている場の不当性を言おうとする立場とは相いれない論理なのである。そしてこれは、行為・財の配分のあり方と家族という関係を営むこととが切り離されてあるべきだとする考え方からは受け入れられない立場でもある。

□3−4 行為の外部化

 @で考えたのは、現在の義務関係+無償性を廃棄した上で、夫が妻に対して払うという形であり、実質的にそれは家族成員を市場内での労働者として扱うことだ。そして確認したのは、この時、むしろ支払う方が夫の側にとって有利なことだった。とすれば、家庭成員を労働者とみなして払うのではなく、実際に市場化しても、やはり利得があるということでもある。つまり、(他者から行為を引出すための財の供給は家族内で行われるとしても)、行為の家族外への移転は利益になることがありうる。家事としてなされている部分を外部化する。その部分が、集中・分業による効率化、規模の経済の利益が出る可能性がある。家族の単位を超えて共同化し、互いが分担することによって、負担の軽減をはかることができる。さらに租税の再分配を通してこれを行うことも出来る。通常これが「社会化」と呼ばれる。またこれを市場に委ねるという手もある★19。最もそのような効率化をはかりにくいとされる育児労働にしても、ある程度の共同化・外部化は可能であり、実際行なわれている(その全ての時間を他者にまかせるなら、単に子孫を残すため、あるいは将来その子から何らかの経済的等の利益を得るために子を持つというのでないのなら、子を持ち育てることの意味自体が失われる)。
 無論、今まで家族内で生産されていたものを商品として購入する場合には、同じものを手にいれるための支出が増え、家族の手元に残る分は少なくなる。しかし外部化した分浮いた時間、外に働きに出られる。両者の労働生産性が同じだとすれば、同じだけを手にいれられる。むしろ見てきたのは、一定の条件下では外部化した方が利益になることだった。また、外に出て働かないとしても(もし金銭的に余裕があるなら)空いた時間を「余暇」にまわすこともできる。この場合にも、生活水準が向上したと言える。★20
 このように家族総体の(経済的)利益を考えた場合にも、夫は市場、妻は家庭という形態を保存する理由はない。

□3−5 歴史

 例えば上野は以上を認めるかもしれない。著書の後半、約半分の分量が費やされている「歴史篇」では、いくつかの時代区分がなされている。専業主婦化として捉えられる「第一次の妥協」が行なわれた第一期、未婚女性の労働力化が進む第二期、主婦が家事労働+パートタイム労働の両方を行い、部分再生産者であるとともに部分生産者となるという「第二次の妥協」が成立した第三期に区分される。そして現在はさらにここから変化しつつあり、資本制と家父長制との関係の再編が行なわれつつある時期だとされる。とすると、現在の家事労働の現実に対応するのは第三期以降であり、第一期について妥当する専業主婦を置くことによる利得を、現在の家事労働の現実から主張するのは不当であり、むしろ、今まで私が述べてきたことは、第二次の妥協、第三期への移行についての上野の説を支持し補強するものだと反論されるかもしれない。
 しかし、第一に、歴史篇での「第一次の妥協」についての記述の中で、上野は、実はこの不払い労働、労働の搾取という論理を用いていない。
 資本制にとって(その総体の利害において)女性を家庭に置くことに利益があったということは述べられている。(これについて私は否定的である。別稿で詳しく検討するがひとまずの結論は4−1に述べた。)では他方の「家父長制」の側はどうなっているのか。まず書かれているのは、資本制の初期には、むしろ女性が賃金労働者になっていったことである。このことは事実として承認できる。この時にも家事労働は主に女性に担われていたと考えておこう(そうではないという記述はないし、これを否定する事実を私は知らない)。専業主婦の成立とはここから市場での労働を女性から奪うこと、女性が市場から撤退することであった。つまり専業主婦化は、労働者階級においては、生産労働+再生産労働→再生産労働への移行として捉えられる。家庭内の家父長制はこのことからどのような利益を得ていたのか。常識的に考えればこれは変だ。というのも、それまでと同様、妻にも働かせ、その上家事労働もさせた方が利益になると考えるのが普通だろうからである。
 書かれていることは、女性が労働市場に出ていくことによって、(その収入が個人に帰属するものと意識される限りでは)、女性の相対的な地位がむしろ高くなってしまうことである(上野[1990:174-175])。ここから普通に考えられるのは、それを抑止すべく男性が生産の場から女性を追い出した、あるいは格差を設定したということである(市場における家父長制)。実際、そのような記述もなされている(上野[1990:176-177])。とするとおかしなことになりはしないか。つまり、専業主婦化(資本制との関係においては「第一次の妥協」)という変化自体は、無償の家事労働を行わせることより家庭内で家父長側が利益を得るという論理からは説明できないということである。とすると、家事労働が不払い労働であるということに「基盤」を認める論述は、一体何を説明したのか。
 第二に、(上野自身が述べている/述べていないとは別に)、これまで行なってきた計算が、本当に第一期には当てはまらないのかという問題。まず、第一期に家庭の側で分業を受け入れた、受け入れざるを得なくなった要因として、どのようなものがありうるだろうか。@職場と家庭との間の距離が広がったという空間的な要因、A職場に拘束される時間が長くなり、職場か家庭かいずれか一方でしか働けなくなるという時間的な要因、B家事労働に時間がかかるようになったという時間的な要因、が考えられる。@について、当時の実態を知らないが、少なくとも現在の日本ほどではなかっただろう。Aについて、全ての労働者がフルタイムの労働者であるしかなかったのか、これも疑問である。
 そして、Bについて。考えられるのは、当時は今より子供の数が多く、長時間、長期間の家事労働が必要だったのではないかということだが、実際には、家事労働時間が今より長かったとは必ずしも言えないことは上野自身が述べている。確かに今よりは子供の数は多かっただろうが、同時に、今のようには子供を育てることに時間をかけることはなかったのであり、むしろ専業主婦の誕生によって、それまでになかった家事労働が出来、その質が上がったことにより、その分の時間がかかるようになったというのである★21。
 例えば、労働生産性を考えに入れず、家事労働時間と夫の労働時間がつりあえば一方が他方から不当な利益を得ているとは言えないとするなら(→3−2の2))、少なくとも、第一期の全期間、全ての階層について男性の不当な利益/女性の不当な不利益を主張することは出来ないだろうと思う。
 第三に、「第一次の妥協」以降「第二次の妥協」までの期間、女性(兼業主婦)の側の不利益が仮に言えたとしても、これまで述べてきたことが認められるなら、「第二次の妥協」以降、少なくとも、現在でも少なくなりつつも一定部分を占める専業主婦については、夫・父の利益はないこと、「搾取」されていないことを認めるということになる。そして、以上述べた限りでは、「階級としての女性」を立てることは出来ないことになってしまう。確かに、不利益を被っている者もいるだろうが、少なくとも一定の部分は不利益を受けていないというのである。上野はこれを認めないだろう(私も認めない)。では何があるのか。これに答えねばならない。

□3−6 問いは解かれていない

 自己決定をとるべき原理とすれば、否応なく行なわねばならないことが不当であり、自己決定が利益だとすれば行為を強いられること自体が不利益だが、さらにそこで自己決定を侵害されて行なう行為の結果が自己決定としてなされた結果に比べて低いのであれば、そのような意味でも不当な不利益を被っているということである。
 親による子供の養育以外は、自己決定・契約という近代社会の権利・義務設定の原理によって、義務を設定することはできない(このことはこの主題を巡る議論ではあまり明示されないのだが)。ここから、行わない、対価があれば行う、支払いがなくても応ずるという選択が可能である。私達は夫と妻が生活について相互に交換関係に入るというモデルを立てて計算し、そこから女性が現状に比べて利益を得られないことを述べた。また、行う以上は対価が払われるべきであるという規範を設定しても結果は変らなかった。つまり、論者が想定した、夫が不当な利益を得、妻が不当に剥奪されているという事態は、以上の検討の範囲内では見出されず、むしろ誰も得をしていない。ここで生ずることは、結局、場合によっては家庭内での分配率が可視化され、(場合によっては妻に不利な方に)若干変更され、いくらかが移動するだけのことである。家事労働に賃金をという主張は、妻の貢献分を無視して稼いだ金を全て自分の飲み食いに使ってしまうような全く身勝手な夫に対しては有効かもしれないが、大抵の場合は予期したほどの成果は得られないようなのだ。
 とすると一体「搾取」「支配」「領有」を言う議論は何を主張しているのか。何を主張したいのか。「支配」を言うにはやりたくないのにやらされていると、「搾取」を言うには本来払われるべきであるのに払われていないと、言わねばならないだろう。
 端的に「させられている」ということが問題なのだろうか。まず法が家族内での生活維持の義務を規定している。ただこの限りでは夫にしても同じく義務を負っている。さらに、家庭内のことは、まず女性が、女性(だけ)がやるべきだという意識、規範、そして夫(に限られないが)による具体的な行為の押しつけは確かにある。やりたくないならやらなければよい。やっている以上はそれを自らに有利なこととして選択しているのだというのは間違いである。他の事情を考えて受け入れることがあるとしても、このこと自体をやらされているという事実は残り、そのこと自体の不当性は言えるからである。
 そしてここで「イデオロギー」を指摘することもできよう。義務がないのに義務があるかのように言うのは、愛があるからといって家事をなさねばならないとは決して言えないのに愛があるなら家事をなさねばならないと教えるのは不当である(立岩[1994c])。
 上野は、家族は「性と年齢に応じて役割と権威が不均等に分配されている」制度であり、家父長制とは「年長の男性が権威を握っている制度」だと言い、女性は「労働を家長に領有されており、労働および労働の生産物への自己決定権をもたない」と言い、「家事労働という不払い労働の家父長男性による領有」を言う(上野[1990:66])。やらされている、決定が男性に委ねられていることを言っているならそのようなことも確かにあろう。しかしそれだけを言うなら、ただ性別分業規範があってそれに従わされていると言ってもそう変わらず、上野がその存在を主張したい「物質的的基盤」には行き着かない。「家族の中にはっきりとした男性支配や、あからさまな経済的搾取があること」(上野[1990:60])の前半は仮に言えたとしても、後半は言えていない。こうして第一の問題は、(男性の)利益を言えず、分業の成立要因も言えないということである。
 そして@とAは本来払うべきであるという論理ではない。払わないと行なわないこともあり、その時に行なわせるには払うことになるということだった。行なわないか行なうか、払うか払わないか、いくら払うかは当事者間の交渉で決まる。契約による支払いという論理では契約がなければ支払う必要はない。B・Cも満足できるものではなかった。第二点、本来は誰がどういう論理で負担すべきなのか。ここが結局はっきりしない。★22
 子を育てることについて。ともかく夫の収入によって妻の生活も成り立っている現状に比して、妻の受け取りが明らかに多くなるのは、@・Cで子育てを専ら労働として請け負う場合、仕方なくやっている場合、やらされている場合だけであることを確認した。現実にそういうことがあるかもしれない。しかし、依って立つべき原理としてこれを採用すべきかどうかが問題である。ここでもまた「イデオロギー」によって、「労働」という本来の姿が覆い隠されているのだという「説明」がなされる★23。しかし、これが望むことなのか。これが本当に主張したいことなのか。第三点、求めるべきなのは、自発的な行為であることを認めながらなお現状を問題にすることができる論理ではないか。★24
第四に、「層」「階級」としての女性が抑圧されていると言いうるのか。先の「イデオロギー」の否定は、(全ての者が)が行なうべきであるという言明の否定ではあっても、支払いがなくても行為を行なうというあり方の存在を否定するものではない。その存在を否定する権能は誰にも与えられていない。自発的に行為を行なう者も含めてなお女性が全体として構造的に支配下にある、従属的な立場に立っているということをいかに言いうるか。また、第一点との関連では、現状から経済的な不利益を得ている女性もいるが、不利益を得ていない女性もいるとして、なお女性全体の被抑圧を言えるかということでもある。
 まず、専ら女性が家庭にい(て家事労働を担ってい)ること、「世話する補佐役」であること、その典型としての「専業主婦」の存在の説明がまだなされていない。ここから利益を得ている者がいることは証明されていない。女性が専ら家族の中にいるということは、同時に、女性が労働市場にいないということでもある。こちらから考えてみたらどうか。

■4 専業主婦という存在

□4−1 市場は利益を得ていない/男性労働者は利益を得ている

 女性を市場から全面的あるいは部分的に排除していることによって、誰が利益を得ているか。(→1−2の主張W。なお以下の特に@については立岩[1994e]で検討する。)
 W@・B:1.労働能力の有無に無関連なある範疇の人を排除することが雇用側そして消費者側にとって有利であることは全く立証されていない(できないと考える)。
 2.上と同じ範疇の人を差別的に待遇することは資本、労働による生産物の購入者にとって有利か。これはかなり説得性を持つようにも思われる。また、女性の平等な雇用に対する資本の抵抗もこのことを示すかのように思われる。しかし、障壁がないなら、労働者は賃金の高い方に移りその結果労賃は下がるはずである。とすれば、雇用する側(そして消費者)にとってこの分業形態は利益をもたらさない(男性労働者の賃金切り下げを求めにくいという状況において――切り下げができなければ、雇用費用の総額が増加してしてまう――雇用者は格差の解消に抵抗する)。検討すべき主題はこれに限らないが(馘首の予備軍・労働内容による差別…)、全てについて利益のないことを証明できる。
 3.さらに、この範疇が女性である必然性は何もない。出産・育児を持ってくる議論が当然あるだろう。だがまず育児に関わるそれなりの負担(資源の提供)は必ずしも損失でない(→5−1)。そして(育児をその子の女親である女性が担って初めて子供の――「社会」にとって有用な――「質」が維持され、そのために女性が「家庭に入る」ことによって市場が被る損失を「質」の確保による利益が上回るというのでなければ)、男/女に対する現行の振り分け(行為者の限定)が有利だとも言えない(→5−2)★25。こうして、以上からは、性別分業の現状が労働(による生産物)の購入者(資本家・消費者)に利益を与えているとは言えない。
 A:他方、この体制から確実に利益を得ている者がいる。男性労働者である。ただ男だというだけで女性より多い雇用機会、高い収入等々を得ることができる。★26
 つまり、主張Wについて、@:資本(そしてB:消費者)が性差別の存在する現状から利益を得ていることは否定され、A:男性労働者が利益を得ていることが確認される。

□4−2 家族内での合算

 けれど、これだけで市場からの女性の排除、専業主婦の存在を説明することは出来ないという反論があろう。家庭の内部を見た場合、現実には男性と女性が夫婦としてセットになっており、総収入を分配する形態が一般的に採られている。ならば、夫婦の片方が(少なくとも経済的な)利益を得ているとは言えないのではないか。例えば白人に対して多く黒人に対して少なく支払われているとして、白人はその得たものを黒人に再分配するなどということはないから、明らかにこれは白人の利益になる。女性も、独立して生活している場合、特に子供を一人で抱えて生活している場合には、明らかに一方的に不利な立場にある。しかし、男性・女性の対の場合はそうではないと言うのである。労働市場にある者が家庭を持っているなら、労働市場で格差があったとしても、結局男性・女性双方に利益も不利益もないということにならないか。むしろ、家族の存在は、この格差の問題を消去させてしまう場としてあるとさえ言えるのではないか。
 さらに、妻が働けないことになっているのなら(そのことによって夫が2倍稼げるというのならともかく、そうでないとすれば)かえってその家族全体にとっては(無論夫にとっても)不利益になっているのではないか。
 確かに収入の総額をみる限りではその通りである。そして市場に出て労働をせずとも、その生活が可能なのであれば(家事労働が市場での労働より楽なのであれば)、かえって女性は楽をしているとも言えるのではないか。とすると、主婦を一人家庭の中におくことの意味についてまだ答えは出ていない。この問いに答えねばならない。

□4−3 顕示的消費としての専業主婦の存在

 一つの説明として、夫が稼ぎ妻は家事という性別分業の形は、家計全体にもまた夫にも物質的な利得を何ら産み出さない、だからありそうもない不思議なことなのではない、むしろ不利になることを承知してなお行われていることだと考えたらどうか。専業主婦の存在は一種の顕示的消費としてあるのではないかというのが一つの仮説である。
 専業主婦化は、経済的に困窮した階層から始まったわけではない。夫一人でも家計を維持していけること、妻が働かなくてもすむこと自体が、当の家族の家計の余裕を示し、自らの位置を高めることであるとされ、当初妻の多くが働いていた階級にしても、収入の水準が一定以上に(ともかく夫一人でなんとかなるように)なると、それを模倣した。これは西欧諸国でも日本でも見られたことである。無駄であり、ある場合にはやせ我慢であることを人々はあえて行ったのである。
 これに対して、この時期の上流(やがては中流)階級の「専業主婦」は、一家の経営を采配する「主婦」だったのであり、実際の肉体労働は家事労働者にまかせていたのであって、その後の、実際に家事労働も行う主婦とは異なっていたのだという議論があるかもしれない(上野[1990:40-45])。事実としてはその通りである。しかし、中流以下の階層の過去との比較では、専業主婦化は明らかに労働の縮小としてあった(→3−5)。
 誤解はないはずだが、別にこれは悪いことではない。無駄であること、非生産的であること、物質的な利得を最大限に追求しないことが悪いわけではない。主婦の時間が、いわば顕示的な消費として使用されることが悪いわけではない。そしてそれは、こうした動機のもとでは充分に合理的な行動である。

□4−4 支配/従属→従属による従属

 こう考えると、少なくとも家庭内だけを見、家計の一体性を考えた場合に、夫あるいは妻だけが利益を得ているあるいは損失を被っているのではないということになる。市場での格差については(その格差が結局家庭でならされるなら)、働かないだけ、少ない時間しか働かない分だけ妻は得をしていることになるのか。また家庭内においては、妻は夫とともにその贅沢の、その顕示の共犯者である――この契機は確かに存在する――だけなのか。両者を支配・差別という観点から捉えることはできないのか。そうではないと考える。
 第一に、商品を購入することによって生活のかなりの部分を成り立たせている場合には、その生活を貨幣をもたらす行為、通常は賃金労働に依存していること、これは否定しようのない事実である。生活が夫なくしては不可能になる。彼女は生活の糧を握られている。特に生産の場が構造的に女性を排除している場合には、この依存関係を断つことは難しい。家事労働と市場での労働の労働のどちらが大変な労働か、これが第一の問題なのではない。この大変さの度合いは場合によって様々であり、全ての女性が男性より多くの(価値を有する)労働を行なっているとは言えないことは既に述べた通りである。それに対して、ここにある関係は、個々の関係のあり方に対する予件として、構造的な制約として働く。男はこれを切り札にすることができる。つまり、夫は妻の生活を支配しているのであり、その結果として家事労働を領有することができるのである。
 この依存自体が即、支配・従属を帰結するものではないとは言える。すなわち、生産する者、お金を稼いでくる者に事実として生活を依存するが、だからといってそれは、依存する者が依存される者より劣っていること、従属していることを意味しないと主張することができる。人の世話になっているが、世話になっていることに引け目を感ずる必要はない。だから、ここには確かに価値観という契機が入っている。
 だが、まず、労働の場では予めこの価値の優劣が組み込まれているのだろうし(だから男は女を排除する)、家庭内についてもこのことは言える。というのも、誰かが賃労働をしないことは、その分を誰かが稼ぎ、養うことができることを示すものとしてある時、稼ぐことが消費に優位するという価値観が既にここには組込まれているからである。これ以外の動機があることは否定しないが、それがかくも広範な現実の全部を説明するとは思われない。価値の序列を認めないのであれば、上下の関係はなく、支配・従属の関係にもない。ならば性別分業を維持する理由もまたなくなる。にもかかわらず分業が成立しているということは、他の要因を考えないなら、この観念が存在することを意味する。
 夫婦の双方がこうした価値観を持たない場合もむろんあるだろう。そして、例えば市場で女性が不利だという現実を考慮して、分業が行なわれることもあるだろう。そして、家族内の関係が家庭への資源の供給のあり方と全く切り離されたところで維持されているのならば、その関係の内部には支配・従属は確かに存在せず、それはその限りでは麗しいことなのかもしれず、別段異を唱える必要もない。しかしこれは危うい。理解のある夫が常に理解のある夫であるかどうかはわからない。それは全く夫の気持ちのあり様にかかっている。そして理解のあるなしにかかわらず、何かしらの理由で、その夫と別れようとする時に、この社会の分業の現実はそれに対する制約として働くことになる。むろん、夫と暮らすにせよ自分が生活する部分については自分でまかなおうと考える場合にも、あるいは一人で、あるいはそれに子供を加えて生活していこうとする場合にも、同じことは言える。
 こうして、稼ぐ者はその稼ぎで消費する者に対して優位にあり、後者は前者に従属している。前者に夫が、後者に妻が充当される場合に、妻は夫に対して価値的に劣位にある、従属していると言い得る。むろん、稼ぐ/稼がないという区別と男性/女性の別との対応は自然に、必然的に帰結されるものではない。だから、まず、男性/女性に対する順位付けがあって、それが稼ぐ/稼がないという価値序列の設定された場に当てはめられたのだと考えた方がよい。既にある両性の間にある非対称性をこのように配分したものが、非対称性を現実のものにしようとして行なったのが、近代における性分業という現象である。
 なお、これは同意の有無とは独立の事象である。同意があったとしても、この分業が支配・従属の関係だと認める場合、それは従属に対する同意である。むろん従属がそれ自体でいけないことだと考える必要はないとすれば、そして双方がそれなりに満足しているのなら(それはおおいにありうることだし、実際ある)、これに口出しするいわれはない。しかし従属であるのは確かである。
 さらに、男は単に自身の甲斐性なりを示すだけではない。私は高級車を持っている、といった具合にだけこの立場を利用するのではない。
 第一に、この分業を従属として受け入れる場合、従属しているだけの分彼女は言いなりにならねばならない。これに対して妻が払うものは大きくなる。その結果、夫は、市場ではなかなか得られない質のサービスを、自分の都合のよい時に得ることができることになる。これは本当にサービス自体の質というよりは、むしろ、そういう存在を自らのもとに置くこと自体に意味を認めているのだといってよい。他方、夫が妻になすことは恣意的に決定される。まずは、生活をどうにか維持できるだけの水準であればよいことになる。それ以上である場合には、どれだけその存在に与えてよいと、与えたいと思っているか、あるいは対外的に妻をどれほど着飾らせることに意味を認めるかによって決まる。
 第二に、こうして妻がサービスの水準を引き上げても、妻が夫にこまやかに尽くしてもなお残る、生存が不可能になることとの間にある到達不可能な差異の存在とそれを従属と認めることによって、夫は自らの価値を引き上げ、優位を保つことができる。

 「女の場合は「労働時間」と「自由時間」の区別がない。…「女の仕事には終わりがな い」「女はいつも出番である」…「女の人生のすべての時間は労働時間である」」
 (Dalla Costa[1978:31])

 こうして、妻は、夫が贅沢三昧をすることに、場合によってはけちな贅沢をすることに付き合わされている★27。これはずるいと言えばずるい。贅沢品として手元に置きながら、飾り棚に飾っておくわけではなく、実際にははっきりとした上限もなく働かせ利用していることになる。夫は二重の現実的な利益を得ているわけだ。ここまで考察した範囲では、これが近代の専業主婦の歴史的な位置である。
 ここには現実的な動機が存在している。そして、現実にこうした行為の配分の関係によって、実際の妻の行為は制約されている。これは、妻は内にいるべき、夫は外で働くべきという規範が存在しているという事態以上のことである。夫が外に出て稼いでくるのが大変なのが確かだとしても、それでもなお、夫がそうした妻に依存される関係を維持し、このことによって上記のような利得を得ようとすることはありうる。このように、夫は現実的に妻を支配し、その関係をこの分業において再生産している。単に自己決定を剥奪している(これは告発の必要条件ではある)のではない。
 この場面では「性差別一元論」が正しい。すなわち、この社会に存在する事態は、(別稿で行う議論が正しいとしてだが)資本・市場の側からの要請ではなく、男性による女性の支配、格差の維持の動機に発した(あるいはそれを効果させる)、労働市場からの隔離・市場における格差の設定である。この分業体制は、市場・資本に利益を与えるのではなく(利益を得ようとしたところから発しているのではなく)、男性に利益を与える。このような意味で、性別分業は、男性にとって、その存続の合理的な根拠を有している。確かにここに存在するのは単なる差別意識、観念ではない。

 「家父長制の物質的基盤は、男性による女性の労働力の支配にある。この支配は、重要な経済的生産資源から女性を遠ざけることにより、そして女性のセクシュアリティを制約することにより維持される。」(Hartmann[1981=1991:53])

 支配を現実化するための少なくとも一つの手段・足場、現実化された支配という意味で「家父長制の物質的基盤」という語を使用してよいなら、私は上の言明(のひとまず「そして…制約することにより」以外の部分)を受け入れる。「性差別一元論」と「物質的基盤」(この言葉が最適かどうは問題だが)の存在とは矛盾しない★28。「物質的なもの」をその足がかりとして、「家父長制」が市場と家庭で作動している。
 事態の根本は、まず市場からの排除そのものにある。その不当性は、夫の再生産に関わる労働が不当に(市場価格と比較して)低く評価されていることにはなく、むしろ予め市場と家庭との間に相互に交通不可能な境界を設定し、しかも家族から市場を見させることによって、夫が与えるものと妻が夫の再生産のために与えるものとの格差を確認させ、その格差を利用し、予め支払われないことに決まっているサービスを引き出す、あるいは妻の時間の全域を従属として意味づけることにある。★29

■5 家族という境界

□5−1 市場/国家による支払い

 だが以上でも夫の(そして家族全体の)「物質的」な利益はない。そして何より、家事労働が、家事労働として引き受けられている、家族(の中の女性)によって引き受けられている現状の問題性がこれで明らかにされたとは、とても思えない。問うべきところを問わずに済ませてきてしまったのではないか。本来なら、以下は別に稿を起こすべき部分なのだが、それでも最低限のことは言っておく必要がある。
 国家あるいは市場が利益を得ているのだろうか。その可能性の一部を検討することで(5−1・5−2について詳細は立岩[1994c])問題の所在を探るとしよう。
 市場に支払いを求める一つの根拠となっているのは一種の因果論である。すなわち、大人はかつては子供だったのであり、子供として養育され、教育されたことは現在労働可能であることの条件をなしている。また成人労働者にしても、労働者が1日何時間か働くことができるのは、家事労働が背後にあるからである。ゆえに、労働者を雇用する者はその分についても賃金を保障すべきだと言う(→3−2のDalla Costa[1986]からの引用)。
 しかし、通常、商品の購入者Aは、商品の価格に含まれる原材料費の一部を原材料の生産者に別途に払ったりはしない。同様に、市場において、労働力の形成にあずかっている者に対して、その労働に対する対価と別に、支払いが行われることはない。支払ったらそれは二重払いということになる。またその商品の生産にいくら(原材料費が)かかっているかを顧慮することもない。(それに価格がつくのは、原材料の生産者Bとその受け取り手Cが市場に現われBとCの間で取引を始める時である。夫と妻の関係ではそれがありうること、ただ、契約して親子関係に入るわけではないから子との関係では難しいことを述べた。このことを市場は感知しない。)そして仮に分離して払う場合でも、Bの受け取り分はそれだけ減ることになる。つまりここにあるのは基本的にB・Cのゼロサム状況であり、B・Cの総受け取り分は不変である。支払う側に特に利益/不利益はない。
 これで満足しないなら、Aにより多くの支払いを求めねばならない。Aが(通常Bに)より多くを支払う場合がないわけではない。夫の労働については、1.労働者の側が妻子持ちであるために生活費が余計にかかることを理由に、より多くの支払いを求め、なおかつ雇用側(結局は製品の購入者)がそれに応じざるを得ない場合。この場合は、要求に応じて、本来払いたくはない部分を払っているというだけである。2.家族が労働力の再生産を担当することで労働者の生産が増える場合(どれほどのものか)。生産がそれだけ上昇し、それに対してその分の支払いが行われただけのことである。
 それ以外の場合があるか。そしてそれはどのような根拠によってか。そしてその最終的な支払い主は誰か。労働による生産物の購入者だとすれば、支払いの上昇分は商品価格に転嫁される。生産者BCであるとともに消費者であるB・Cはそのことで利益を得るわけではない。では資本家か。だが、先の総額を超えて、そしてその分を主婦に支払うべきものとして、資本家が負担せねばならないというためには、資本家が主婦の「再生産」労働から特別な恩恵を被っていることを言わねばならないのだが、これに対する満足のいく説明は与えられていない。
 Bに一括して払っていたものをB・Cに分割して払うというのは、先にみた@と同じことを例えば雇い主が代行するというに過ぎない。通常このような支払い方がなされることはない。ただ、考えられるのは、将来生産する者としての子が生産されることが関心事である場合★30であり、ここでは子:Bではなく、親:Cに払わねば意味がない。そしてこの支払いを個別の雇用主が行なうことは無理だから、結局これは国家が行なうことになろう。支払い額の算定に当たっては逸失利益も考慮されることになろう。その支払いは子が受け取るものの一部の親への前払いとも考えられる。親と子への支払いが以前の子だけへの支払いを超えるとしても(資本に固有の利害、ゆえに資本に固有の支払い義務を言えなければ)、それは結局のところ納税者である国民一般が負担をすることになる。
 生産の生産、生産に対する貢献に応じた分配(→3−2の3))という方法を国家がとることも出来る。ただこの場合も結局のところ、Bの生産物をBとCに分割して渡すという形そのものは変わらない。夫の労働に関する分配では、単身者も夫Bと同じだけ生産するなら、その一人の受け取り分はB・Cの総受け取り分と変わらない。子の再生産労働に対する支払いもなされる。先には、子が自発的に支払いに応じない場合には親から子への一方的な贈与としたが、ここで取られているのは、貢献を受けた者は返さねばならないという原理だからである。しかし、かつて子だった親は、親の親に返却せねばならならない。二人の夫婦に子供が二人とすれば、親への返却は子からの受け取りと同額であり、差し引きすれば何も行なわれないのと同じである。
 ここにあるのは、生産する者から生産を生産する者への財の移動である。そして、(ここでは子を持たない者も負担しなくてはならず、その分を除けば)結局のところ家庭内の配分のあり方の変更である(先のゼロサム状況は続いている。総額が変わるのは、家事労働だけをやっていた者が生産労働に携わり、生産そのものが増加する場合である)。
 さらに支払い額を正確に労働に対応した分とするなら、稼ぎの少ない夫の場合は減額される。稼ぎのない夫なら何も支給されない。子については、確かに親の生産には左右されない額が支給される。しかし、子に対する支給が均等になるのは、子がどのような労働者になるかを単に予見できない限りでである。将来労働できないことがわかっている子に対しては払われない。得をするのは、親が貧乏で出来のよい子だけである。つまり、以上では、定義上、生産しない者に対する負担は考慮されず、むしろ積極的に除外され、支払いは現在の夫のそして将来の子の生産に規定される。
 この原則をとる限り、3−2の3)に見た問題はそのまま残っている。これは、家事労働に対する資源の給付が家族内の生産者の生産からなされていることによっている。国家は、それを一定の基準を設定して行っているにすぎない。生産に対する貢献と言う限り、この枠から逃れることはできない。市場での支払いについても基本的に同じである。市場(の中の誰か)が、従来家族の中で行われていた再分配を代行するだけである。

□5−2 家族に行為を担わせることによる利益はない

 家事労働の外部化により、家事労働として行われていた部分が効率化される。さらに家庭の中にいた者が市場に出ることで、生産が増大する。また、労働市場が拡大し流動化することは、労働を購入する側にとって有利である。とすれば、家族にその行為を担わせることが有利だとは必ずしも考えられない。(再生産される者の「質」を言う議論がある。例えば家族(母親)のもとでしか子はよく育たない、ゆえに家族外にそれを委ねるのは生産にとってマイナスだといった主張がなされる。しかしこれは疑わしい(→4−1))。
 こうして、資源を給付する主体、支払いを行なう主体を一定とすれば、家族に給付し家族に行為を行わせるのではなく、直接に市場化・「社会化」した方が有利な場合がある。つまり負担だからその分を払えという論理では、では別の人にやらせましょう、その方がコストがかからないから、ということにもなりうる。

□5−3 家族という境界設定

 以上から、生産に対する貢献に対する支払いという論理によっては、家事に関わる資源の供給を家族に担わせること(現状)が家族内の男性・家族外の誰かに利益を与えていることは論証されない。むしろその逆も考えられる。そして、貢献しない者に対する労働に対価が与えられない。そして誰が行為を行うかについても、家族に行わせるのが最も利益になるとは言えない。これは、家族がそれを担いたいと思う場合でも、その希望が叶えられないことがありうるということでもある。ゆえに現状の不当性を言おうとするなら、あるべき何かを示そうとするなら、別の根拠・基準を提出すべきである。
 説明の要因として出されているもの、立てるべき根拠として出されているものを消去していった時、残る部分が見えてくる。何が消去されたのか。生産に対する貢献という論理だった。この(夫・子の)労働力の(妻による)生産という論理は、結局のところ、従来夫(と子)が受け取っていたものを二つに分割することにしかならない。意味があるとすれば、貢献が可視化されるぐらいのことである。
 生産者は夫・子であり、その生産の生産者は妻である。重要なのは、ここで、(市場が支払うことがあるからといって、政治領域が業務を担当するからといって)家庭(の中の労働者の労働に応じた分配)という枠が取り外されたのでは決してないことだ。家族が家族の行為を可能にする資源の給付を担当している。(そして給付者である夫・父は給付者であることによって、権威を維持しているのだった→4−4)
 第一に、家族という境界が(核家族という新しい形態の中に)保存されていること、そのこと自体をまず問題にすべきである。以上見てきた範囲では、市場や国家が払うとは言っても、結局、市場で働く者とその背後に控える家族が単位になっている。実際現実の法制度においても、家族を単位として義務及び権利が設定されている。扶養は(扶養すべき範囲は国によって違うとしても)義務であり、また、家庭内の贈与は、私的な財産の処分権としてだけでなく、特権的に認められている。夫と妻の間の分配のあり方が一番重要な問題なのではない。それは個々の家族により異なる。それに対して家族という境界設定は全域を覆う制度である。不可視化されていた家族という単位から個人を取り出すという戦略に異存はない★31。ただ、家族という単位をそのままにして家族の中で行なわれていることを個人単位にするのではなく(個人単位にしても今見てきた限りではうまくいかなかったのだが)、その前に、家族という単位が設定されていること自体を、その正当性を、問うべきだということである。
 第二に、この家族という単位の中で、まだ/常に/もはや生産しない者の生活の維持が行なわれることである。現在生産する者(その者は恐らく健康な人手のかからない者だろう)の労働力の(再)生産労働はさほどの労働ではない。またその者は収入を得、それによって自らの再生産労働を購入することもできるし、また家事労働に対する対価としてではないにせよ、収入を家庭内にもたらす。しかし、そうでない者は、現状では家族によってその生活を維持しているのであり、その人の生活はその家族の中で市場に出て労働する者の収入に規定される。
 これに問題があるのなら、原則を変更すべきである。
 @親・配偶者について:a相互に(扶養・家事労働の)義務はない。つまり、生活を支える義務について、家族と家族外の者との間に境界はない★32。b私達の社会は、収入を(十分に)得ることが出来ない者、自らの生活を維持するのに他者の援助をより多く必要とする人に対して、政治的な給付を行う。(一般に承認されていない)aと(aが承認されていないゆえに現状では家族を単位としている)bを同時に認めればよい。
 障害を持ちあるいは病を得て介助や各種の生活上の資源を他者から受け取る必要のある者に対して、他の家族成員は扶養や介助の義務を負わず、少なくとも単身者と同様の社会的・政治的保障はなされる。今一番問題なのは、例えば高齢の親あるいは配偶者の世話ではないか。とりわけ少人数の核家族の中でのこの負担は膨大なものになっている★33。この義務が解かれるなら、家事労働の問題の大きな部分は解決する。
 (再)分配は、必要とする者に対する誰か(例えば主婦)の労働に対してではなく、必要とする者の必要に応じて本人に行う。資源はまず財・行為を必要とする本人に渡り、その者は行為者を家族から得るか、それとも別の者とするか選択できる。これは家族が(行為のための資源の提供のみならず)行為の義務を有しない(このことは家族が行うべきでないということを意味しない)とする立場から、そして行為を受ける当人の選択が尊重されるべきだとする前提から、当然である。★34
 A子について:自己決定→自己責任の論理からは子の扶養は親の義務となる。この原則を維持しつつ、給付を予め受け後に返却するといった機構を考えることもできる。これは相応の合理性を持つが、結局時間軸上の負担の平準化ということである。これでは足りないとすれば、1.子を持つこと、あるいは自らのもとに子がいること・育つことを、単に個々人の選択・自由であるというのでなく、それを選択しようとする時には、他者からの資源提供を要請できる強い権利として認めることである。あるいは、2.子が育つことについて、社会総体が負担を負うものとすることである(1.と2.の違いについては省略)。これは子が生産者とな(り社会に「貢献」す)るか否かには関係がない。この原則は、ある部分までは支払いを予め受け、後に(1.親、あるいは2.子が)返却するという形態と、現実にはそう変わりはない。しかし、将来も負担できない者(1.親、あるいは2.子)も社会的諸資源の支給を受ける対象となる。
 以上で家族(現実には妻・母)にかかっている負担の主要な部分が解決される。(家族内の贈与をどう扱うか等、検討すべき多くの問題が残っているがそれらは別に検討する。)
 このような原則をとった時に、現状に比してより多く負担する側にとっては不利益、負担が軽くなる側、受け取りが多くなる者にとっては利益になる。別言すれば、この原則から現状を評価した場合に、前者は不当な利益を得ており、後者は不当な損失を被っている。この前者は誰で後者は誰か。国家が果たすべき義務を怠っているというのは、抽象的で事態を曖昧にする言い方である。国民の誰か、どれかの層が利益を得、不利益を被っている。
 第一に、ある家族は利益を得ているし、ある家族は損失を被っている。個々の稼ぎが個々の生活を規定しているのでなく、個々の家族の生活が家族成員の稼ぎに規定される。しかもその財が家族内の贈与を通じて継承されることによって、家族間の格差は個人の有限の生を超えて維持あるいは拡大される(女性は、このような継承の中心に位置するがゆえに、そのための手段となり、介入の対象となる)。多くを得ている家族の成員は利益を得ているし、そうでない家族の成員は不利益を被っている。また家族内の収入で(特に常に)生産しない者の生活を維持せねばならない家族(の成員)は、そうでない家族(の成員)に比して不利益を被っている。
 第二に、生産しない者、生産に貢献しない部分の「再生産」が家族内に閉じられ、その部分の支出が限定されることによって、一つには、生産しない者を家族に抱えていない生産する者の受け取りが増えるのだが、また、その者達が消費するのでなく次の生産に投下するならより多くの生産が可能になる(それが次の時点での一人あたりの配分の増加をもたらすことはあるにしても)。逆に言えば、生産しない者に対して現状より多く支給することは、次の生産のために投下できる分が減るということでもある。つまり、生産しない者への支給と、「蓄積」、生産の拡大との関係が問われる。ただし、そのような者の生活の維持の必要を「社会」が認めた時に、そのために一番コストのかからないやり方として、家族への依託という手が取られるとは必ずしも言えない。例えば施設への収容の方が安くあがるかもしれず、またそのことで浮いた労働力を他に振り向けることができるかもしれないからである(→5−2)。また、資源の給付主体を家族外に移動させる方が「生産」にとって有効なこともある(例えば出生率が問題とされる場合→5−1)
 これらのことを確認した後に、私達は、ようやく、近代の所有、資本制の作動と家族との関係を問いうる場所に立つことができるのだと思う。その考察をさらに進めることが今後の課題となる。だが、第一に問題とすべき点は明らかになり、それに対して対置すべき原則をひとまず提出した。すなわち、家族に行為が閉じられており、その中で生産しない者(生産に結びつかない部分)の「(再)生産労働」が行なわれている、このことが主要な問題であり、それに対置される原則を提出することによって、現状の不当性を示すこと、現状から不当な利益を得ている者と不当な不利益を被っている者を特定することができる。
 つまり、不正確な言い方を改めた上で、Uの@を一つの基本的な論点とすべきことを私は主張する。人を生かすこと自体が「再生産」だと言うなら、「再生産」という言葉を使うのはかまわない。上野はそのような意味でも「再生産」という語を使っている。そちらの方に主眼が置かれていると言ってよいかもしれない。そして、市場はそもそも有用でない者には何も払わないから、これは確かに「市場」の外にある。ただ以下のように言われる時、様々な要素が混在している。

 「成人男子が産業軍事型社会の「現役兵」だとしたら、社会の他のメンバー、たとえば子供はその「予備軍」だし、「老人」は「退役兵」、病人や障害者は「廃兵」である。そして女は、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流市民として、彼らと共に「市場」の外、「家族」という領域に置き去りにされる。」(上野[1990:9])
 「「市場」には「自然」と「家族」という<外部>があり、「市場」はこの<外部>に依存してはじめて成り立っている…、この「市場」にとっての環境を維持するにはコストがかかる」(上野[1990:10]、傍点は本稿では全て上野自身によるもの)

 私達が(かなりの部分の論証を省きながら)見てきたところでは、生産のための子供への前払いは(市場そのものがそれを実際に担うことは無理だとしても、生産という目的のために例えば国家によって)行なわれうるのだし、実際行なっても、総生産が子供に渡る分と前払いの分に分割されるだけである。上の引用にはないが、女性は「ヒトであるヒト」である男性の世話もしている。この者に対する労働についても同じことが言える。これらの労働は、確かに市場内で払われていないが、払われるとしても、現状の家族内の分配に比して有利になると言えないこと、少なくとも全ての女性が不利益を被っているとは言えないことを述べた。
 また、市場に<外部>があるのは事実その通りだが、もはや/常に生産しない者がいなくとも市場自体は作動しうる。この部分では市場は<外部>に「依存」しているわけではない。市場の外でそれらの人は死んでしまうだけである。そのような人達も生かそうとするのは(「市場」ではなく)私達であり、この時、確かに市場はその役には立たない。ここで市場を全て消去してしまうのでなければ、別に市場と並存させて再分配の機構が必要である。それが家族という単位の中で行なわれてきた。これが問題である。ただし、その行為者・資源の給付主体が家族の中に閉じられることが「生産」にとって最善の選択であるとは、家族は生産に最も効果的に奉仕しているとは、必ずしも言えない。私達は、家族に閉じられることによる分配のあり方、それ以外のあり方を、階層・階級の布置を視野に入れた上で比較検討すべきであり、その時の実践的な原則は、効率・生産への貢献ではなく(この観点を無視すべきだというのではない)、生産に結びつかない者、生産に結びつかない領域をどのように在らしめるのかというところに求めるべきである。以上を述べた。そして、ここから言いうることは、次の言明と基本的に矛盾するものではない。私の試みはこのようなことを(ことも)言うために、余計なものをはぎ取り、必要なものを加える作業でもある。

 「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることである。後者の点については、(1) 再生産費用を子供自身の権利として自己所有させること(家族手当ではなく児童手当 child allowance)の支給と、(2) 老人が独立できるだけの老齢年金の支給と公共的な介護サーヴィスの確保、の二点があげられる。もちろんこれは第一に両性間の相互依存(その実女性の男性への依存)と第二に世代間の相互依存…とを断ち切る点で、「家族破壊的」な戦略である。というより、もっと正確に言えば、家族の性/世代間支配の物質的基盤を破壊し、家族の凝集力を、ただたんに心理的基盤の上にのみ置くための試みである」(上野[1990:106-107])

■6 結語

 現状が男性 and/or 資本 and/or 国家に利益をもたらしているという漠然とした主張は、以上の検討により、次のように言い替えられるべきである。
 @市場における性別分業、市場/家族に対する男性/女性の配分のあり方に関して:1.男性労働者が利益を得ている。2.家庭内でも市場への接近を独占することを介して男性が利益を得ている。
 A家庭が家族に対する負担をしていることについて:1.自己労働→私的所有+補則的原理としての公的保障の原則をまずは維持しつつ、その単位を家族に替えて個人とする(あるいはより強い原理として配分の平等の原則をとる)。そして、2.子を持つこと/子が育つことにおける平等の権利をとるべき原則とする(これは「生産」を第一義的な要件とはしないということでもある)。ここから現状を見る時、この原則をとった場合により多くを負担せねばならない者は不当な利益を得ており、逆の者、家庭内に手のかかる者がいてその面倒を見ねばならない者、面倒を見る側にせよ見られる側にせよ十分な財・行為を提供されていない者は、不当な不利益を被っている。
 確かに利益を得ている者がいる。これらは正当な利益でないとして、変更を求めることができる。しかし、利益を得ている者達は利益を放棄しようとしないだろう。例えば@で利益を得ている者が多数派でより大きな力を持つ労働市場を放置して、現状が改善されるとは考えられない。ゆえに積極的な介入策が必要となる。
 概略だけ述べたことの検証、基本的な枠組みを設定した上での議論の再構築が次稿以下の主題となる。何より「生産」という言葉をどのように規定すべきかを明らかにせねばならない。その上で、家族/市場/国家の各々について、それらの関係において、行為主体/行為に関わる資源の給付主体が、どのような原則でどのように配分されるか、配分されるべきかを検討せねばならない(以上では専ら「支払い」を取り上げてきたためこの二者を分けて系統的に論ずることが出来なかった)。こうした作業を通して、具体的に何がなされるべきなのかを考えることになる。

■注

★01 「とデルフィは言う」と続く(→Delphy[1984])。以下、本稿でも他に何人かの欧米のフェミニストの発言が引かれるが、多くは上野の引用そのままの孫引きである。上野による理解の妥当性についての判断は行わない(行えない)。
★02 立岩[1994c]、また立岩[1991][1992]。
★03 この作業は、立岩[1991]を経て立岩[1992]で開始された。なお本稿の2、4にあたる部分の骨子は、1992年6月に「専業主婦は再生産に関わる不払い労働者であるより誇示的消費の対象である――ただし夫婦の間の場合」という題で書かれ雑誌に投稿されたが、審査員とのやりとりの中で所定の枚数に収められないことが明らかになり、投稿を取り下げた。さらに加筆された草稿は『WORKS』と題する私家版の講義用資料集に収録された(本稿では本格的な記述をしなかった4、5に関わる草稿も収録されており、希望する方には差し上げる)。さらに、1993年6月の関東社会学会、同年10月の日本社会学会で本稿の内容の一部(2、4、5――4、5については本稿で省略した部分を含む)の概略を報告した。かなりの分量を短い時間に圧縮した報告だったので、参加者の理解を得にくかったと思う。本稿によってこれを補えればと思う。
★04 関連する同じ著者の文章として上野[1982a][1982b][1985]があり、これらには上野[1990]に重なりその読解を助ける部分とともに、いくつかの点で無視しえない主張点の違いも見い出されるのだが、そうした比較・対照の作業はここでは行なわない。
 上野[1990]に対する論評のリストは金井[1992:239-241]に掲載されている。フェミニズムからの評価は批判的なものも多かった。本来ならそれらにも言及しながら論を進めていくべきだろうが、本稿では行うことができない。一つには単に煩雑になるからだが、それだけではない。一つに、ここでの内容自体を検討し、別の論を対置するといったものが多くなかったことによる。一つに、特に「二元論」に対する反論には、上野自身の論よりさらに論証されるべきことが論証されないままのものが多かったからである。
 他方、フェミニズムの「外」からの評価は、比較的肯定的だったのではないか。例えば、「高齢化社会」について経済学の立場から堅実な議論を行なう宮島[1992]、平等について徹底的な考察を行なう大庭[1990]等に見られる、内容の検討を行なわないままの肯定のあり様は、いったいどうしたことだろうか。
★05 同じ著者が8年前に「家事労働有償化論が答えなければならなかったもう一つの課題は、家事労働が有償であるとして、金銭的報酬をどこから引き出すのか、という問いである――家事労働の受益当事者である子どもや老人からか、それとも夫からか…、企業からか…、国家からか…。報酬源がいずれの場合も、解決しなければならない困難な課題がある」(上野[1982b:253])と述べている。
★06 だからここで検討する範囲では、私も「われわれが闘っていかなければならないのは、退屈で息の長い「正気」の闘いである」(上野[1992:106])という認識を共有する。
★07 当初、家族内での分配のあり方として検討していたのは、2の範囲だった。3を加えるにあたっては、日本社会学会大会での私の報告(→注3)に対する上野の質問と当日のその後の対話によるところが大きい。この点で私は上野に感謝せねばならない。
★08 NHK『国民生活時間調査』(1985年、全国10歳以上の国民5797人から20歳以上の既婚者3502人について集計)から作成された表(井上・江原編[1991:171])によれば、家事労働時間の平均は、非共稼ぎ夫婦の場合、妻が平日7時間23分、夫は28分(行為者率36%で、行為者だけの平均は1時間19分)、夫婦共稼ぎの場合、妻が平日4時間19分、夫は22分(行為者率33%で、行為者だけの平均は1時間08分)。また同じ調査から30歳代の生活時間をまとめた表が経済企画庁編[1992:79]にあり、それによると家事時間は専業主婦平日8時間44分・日曜7時間1分、共働き(フルタイム)の主婦平日3時間45分・日曜5時間45分、共働き(パートタイム)の主婦平日5時間12分・日曜6時間12分。
★09 東京都民の「生活費調査」(『都民の暮らしむき』)や各種データをもとに1989年の物価水準で算出したもの。桝潟[1991:136ー138]に紹介されている。なお経済企画庁編[1992:128-130]では、全て幼稚園から大学まで公立の場合の教育費(学費)543万円、小学校のみ公立でそれ以外私立の場合1057万円(大学生活費を加えた場合、公立自宅〜市立下宿、714万円〜1057万円)となっている。
★10 他に、結婚総費用768万5千円のうち、親の援助額が40.3%の309万9千円などという数字もある(1991年の三和銀行の調査、経済企画庁編[1992:130])。
★11 総時間を求めるのに、育児にかける時間とされる一日あたりの時間(NHKの調査(→注8)では「子どもの世話」は非共働きの妻で行為者(行為者率44%)平日2時間22分、共稼ぎの妻で行為者(行為者率26%)平均1時間21分(井上・江原編[1991:171]に採録)をそのまま積算することはできないだろう。今回は、結局適切なデータを探し出すことができず、ひとまず、直井編[1989]に掲載されている、A末子未就学、B末子小学生、C末子中高生以上、D同居子なしの場の家事時間のデータを用い、2年を隔てて2人の子が生まれるものとし、AからDを差し引いた時間を8年間、B−Dを6年間、C−Dを6年間積算し集計した。
★12 上野は先の引用BCの後、教育費の負担のために母親が働いていると述べる。これは、現実の大勢として確かにその通りである。しかし、第一に、そうではない(今や少数派の)妻・母親についてはどういうことになるのか。この点についての言及はない。そして上野は、この事実を指摘した後、「したがって、子供を育てる第一次社会化にかかる現物費用も、第二次社会化にかかる貨幣費用も、結局母親が負担していることになる」(上野[1990:99])と続ける。妻・母が負担しているのは確かだが、妻・母が全てを負担しており、夫は負担していないという主張なら違う。金額としてそうなる場合はあろうし、実際そうした意識のもとに働きに出ている場合もあろう(多いだろう)。しかし、このことをもって夫は子に対する負担をしていないとは言えない。妻の分が子供のために使われ、夫の分がそれ以外のために使われたとは、夫の稼ぎからだけ子供に対する支出が行われ、妻の稼ぎはそれ以外のところにまわったというのと同じように主張できないからである。
★13 1960年代にJ.Mincer、G.S.Beckerらによって開始された家族の経済機能に関する研究の中に登場したものである(→Becker[1981])。これを紹介し、分析に使っている文献として、宮島[1992:106-108]、島田・清家[1993:126-128]、八代[1993]。
★14 例えば出生率を回復させようという目的のもとで、その妻あるいは夫婦の計算を考慮し、そのコストを軽減することによって子を持たせるために、(例えば国家が)一定の給付を行うことがありうる。しかしこれはこうした目的が設定される限りのことであって、それを給付すべきであるという論理はここにはない。しかも給付されるのは、機会費用の全額ではない。子を持つことによる利得が計算に入れられるからであり、具体的には目的とされる出生率が得られる金額である(→5−1)。
★15 江原・長谷川他[1989:161]に採録されている。別のデータを見よう。1991年度の総実労働時間(30人以上の規模の事業所、全産業平均)は2008時間だと言う(経済企画庁編[1992:244-246,444]、労働省「毎月勤労統計調査」より)。他方、妻の年間の家事労働時間が1週間55.6時間(無職主婦の場合、専業主婦・無職主婦の全体の平均は43.2時間)で、年2891時間(主婦全体の平均では2246時間)になる(直井編[1989])。この限りでは確かに妻が多い。だが、いくらかは家事労働をしているらしい専業主婦の夫の労働時間は1時間余りであり(→注11)、この全体の約3分の1程の人達についてはこれを加えれば(そして仮にその分専業主婦の負担が軽くなっているのだとすれば)、 700時間程の差はなくなり、絶対時間はそう変わらない。このような人達はわずかで、あまり考える必要はないかもしれない。それでもたった1時間の家事負担で計算はひっくり返ってしまうことがあるということである。そして、上の年間労働時間の中に入っていない労働時間が(少なくとも人によっては)かなりある。また通勤時間として例えば1日2時間〜3時間、年に500〜750時間ほどを加算すれば(さらにその他の仕事に出ることによって自由にならない時間を加算すれば)、そう変わらないか、場合によっては夫の負担の方が大きい。
★16 以上で述べたことを確認した上で、例えば上野の論議に感心している上原[1992]の計算を検討してみるとよい。そこではまず「兼業主婦」についての計算となっている。その場合には計算がかなり変わってくる(女性の負担・受け取り分の方が多くなる)のは確かである。私はこのことを否定したいのではない。ただこの違いを置いても、上原の換算の仕方にいくつかの問題を見いだすことができる。
★17 これに関連する議論として小倉・大橋編[1991]。私自身の立場は「能力主義」について検討した立岩[1994a]で述べた。
★18 夫婦財産制のあり方については法学界で論議が続けられている。新民法は別産制をとった。これは妻の財産的地位の独立性を認めるものと評価されたが、性別分業を背景とする場合にはかえって女性の従属的地位を固定化するものとして共有財産制にすべきだとする主張がなされ、別産制か共有財産性かという論議が続いている。また民法 768条は離婚にあたっての財産分与について具体的な基準を設定していないが、「婚姻及び離婚制度の見直し論議に関する中間報告(論点整理)」(1992年12月、法務省民事局参事官室、『ジュリスト』1015号(1993年)・日本婦人団体連合会編[1993:248-256]等に収録)の768条についての意見bは「財産形成に対する夫婦双方の寄与度を考慮すべきことを明示し、その割合は原則として二分の一とすべきである」としている(これを巡る議論として『ジュリスト』1019号(1993年)の特集、等)。(以上について金城[1991:244-253]等、金城自身はCの論拠によって、「共有財産制」「公平分割」を支持している。)
★19 「市場化」(いわゆる「社会化」の場合もその行為は労働市場から供給される)については批判的な論議(すなわち現状を擁護する議論)がむしろ多いかもしれない。しかしその多くは十分説得的ではない。ただ、商品化に対する抵抗感自体は、さらに検討されるべき課題である。「生殖技術」を巡って書かれた立岩[1993a][1993d][1993b][1993c]、「性の商品化」について論じた立岩[1993b]を参照のこと。
★20 落合・落合[1991]の結論とほぼ同じことを言いたいのだが、あの論議については、縦軸=「市場において購入される財・サーヴィスの量」、横軸=「家事労働の量」の「家族再生産関数」の線が原点に向かって凸型の曲線であるとする時、ほとんど結論は出たも同じではないかという素朴な疑問を抱いている。そして、私達は「誰の利益にもならない」のになぜあるのか、「その次」を考えてみようとする。
★21 「…「主婦」の行なうすべての労働が「家事労働」だというわけではない。梅棹忠夫氏が第一次主婦論争の中で鋭く指摘したように、「主婦」の行なう労働の中には、編み物やパンづくりのような趣味的な水増し労働――梅棹氏の言葉によれば「擬装労働」[梅棹、1959]――が含まれる。その他にも、床柱を磨き上げること、玄関に花を活けること、などは、「主婦」身分が成立したのちに、その身分に付随して生まれた労働である。「主婦」身分が大衆化する以前には、人々はそうじ、せんたく、炊事のどの局面をとってみても、そんなに水準の高い日常生活を営んでいるわけではなかった。「主婦」が誕生してから、それにともなう高水準の「家事労働」が発明され、そのためにかえってそのレベルの暮らしを維持するには「主婦」が家庭に不可欠になっていった。」(上野[1990:40-41])文中の梅原の文献は梅原[1959a](→注28)
★22 「『家父長制と資本制』において展開されている上野氏の最大の問題は、上野氏が「不払い労働」という概念を「お金をもらわない労働」(無償労働)という意味と、「搾取された労働」という、二つの異なる意味で使用しているにも拘らず、「家事労働」=「不払い労働」=「搾取された労働」とおくことで、あたかも「家事労働」が不当に「搾取された労働」であることを論証しえたかのように主張していることにある。」(江原[1992:102])
★23 「母性イデオロギーは、再生産費用負担にひきあう、いやそれ以上の無形の報酬があることを説得するけれども、もはや文化のイデオロギー装置のトリックにはひっかからないほど、彼らは現実をよく知っている。文化のイデオロギー装置が効かなくなってはじめて、再生産という行為が、「人間の自然」でもなんでもなく、文化のたくらみの結果だったということがわかってくる。異性愛や母性イデオロギーなどの文化の装置が、あのてこのてで人々を再生産へ強制するからこそ、人々は再生産を行ってきたのである。」(上野[1990:250])。次の注の言明とどう折合いがつくのだろうか。
★24 「たとえば子育ては、ほんとうに「再生産労働」と言えるようなものだろうか? それは何ものかを「再生産」するための「労働」なのだろうか?…女性の経験を家父長制的資本制の用語で、できる限り記述してみるというマルクス主義フェミニズムの努力は、ただそれが廃棄される対象であることを明らかにするためだけにある。」(上野[1990:288-289])家事労働を(市場での)労働との類比、関連で語ろうとする者がそれは「本意」でないと言う。しかし、他方で確かに中心に据えられている不払い労働であるという論点はどこに位置づけられるのか。
★25 「どんな保育専門家による共同育児も、再生産労働の密度と熱意において、個別の母親の育児に及ばない。…育児の完全な社会化が――その公共化であれ市場化であれ――成り立たないのは、それがあまりにコストの高くつきすぎる選択だからである。」(上野[1990:269])。本稿の他の部分で述べることが妥当だとすれば、「あらゆる育児科学は、…科学の装いを持ったイデオロギーである」(上野[1990:246])とも言うこの論者にとって、これが市場にとって性別分業体制が有利であることの唯一の根拠となってしまう。
 ただ、生産される人間の「質」に対する関心から、それが家族による育児・家事によって形成・維持されると考え、家族に着目する動きがあったのは――こうした観念(上野の言葉では「イデオロギー」)の存在とそれが事実であることとはひとまず別のことではあるが――事実である。このあたりの歴史・現状分析は別に行ないたい。
★26 上野もこのことは(このことも)指摘していた(→引用DE)。ただ、この後「男性主導の労働組合がこの二つの家父長制的戦略のうちいずれか一つでも採用しなかったということは、ほとんどありえないことである。」(Walby[1986:244]、上野訳)という引用がなされ、次のように続く。「極論」と言うのだから、全面的に支持しているわけではないということなのだろう。「ウォルビイは、さらに極論して、再生産場面における女性の劣位が生産場面での女性の不利を説明するのではなく、男性集団による女性の組織的な排除と貶値が、逆に女性に再生産場面での不利な状況を甘受するほかなくさせているのだと主張する。」(上野[1990:59])
★27 以上は、既に所謂第一次家事論争においてなされている「家事時間の水増し」「偽装家事労働」という指摘にうまく接合する(梅棹[1959a][1959b])。梅棹の論を正しく評価している上野(→注21)は、どうしてこのように考えないのだろうか。
★28 「統一理論」・「二元論」、等々の用語の混乱については別に論じる。
★29 繰り返すが、以上では、専業主婦という存在が何か良からぬものであるというようなことを言っているのでは全くない。個々の関係において、どちらが稼いで来るというようなことが問題にならず、それでうまく行っているのなら、その限りでは全く問題はないのである。では、反対に、専業主婦であることに何か積極的な意味があるのだろうか。そのような議論もしばしばなされる。ない、というのが私の考えである。以上の点を含め、4−2、4−3の記述をもっと入念に行わねばならない。日本での「家事論争」(上野編[1982a][1982b]に収録)を振り返って整理するのもそのために有効だと考える。また歴史的な検証も必要である。別の文章でその作業を行う。
★30 まず考えるべきは、そもそも人口の確保がなにゆえに、誰にとって関心事になるのかである。別稿で検討する。
★31 「家庭内で女性によって遂行される「家事労働」という労働に焦点を合せることは、不可分の一体と考えられていた「家庭」の中から、男と女という「個人」を引きずり出し、その間のポリティックス(性という政治)を明らかにすることである」(上野[1990:65])こうした立場から、一つの歩き出し方をすると、家族についての(近代)経済学的な分析(この分析自体は面白いし意味があると思う)との親和性が出てくる。さらに「愛の神話」を剥がしてしまうと、「情緒財」の「消費」の側面がなくなり、より「経済学的」になる(→3−1、注13)。
★32 福島[1991]がこの立場に近い主張をしている。
★33 そして、東京都「高齢者の生活実態」(1990年)によれば、家庭で介護を受けている者のうち、介護が必要とする人が男性の場合は96%、女性の場合は72.3%が、家族内の女性から介護を受けている(経済企画庁編[1992:98-99])
★34 これは、行為者として予め設定される家族成員に支給される(家族への介護手当等)形態とも、資源の提供者(例えば行政)が行為者(例えばホームヘルパー)を直接提供・派遣する形態とも異なる。障害を持つ人達の社会運動が先駆的にこれらのことを考えてきており、いくつかの興味深い試みを既に開始している。立岩[1990a][1990b][1992-]を参照されたい。

■文献

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八代 尚宏  1993 『結婚の経済学――結婚とは人生における最大の投資』,二見書房,1350円

    ※たていわ しんや 千葉大学文学部行動科学科助手(社会学)
    ※1993.11.19千葉大学文学部紀要『人文研究』23号
    ※40字×52行×30頁 (本文+注:400字×145枚 文献表含め:154枚)
    ※40字×40行×39頁 (本文+注:400字×145枚 文献表含め:154枚)


UP:1996 REV:20051225
性別分業  ◇労働  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 

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