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近代家族の境界
――合意は私達の知っている家族を導かない――

立岩 真也
『社会学評論』43-2:154-168(30-44)
日本社会学会 1992年10月 55枚


 私達がよく知っているはずの近代家族について少し考えてみると、次第にその像が曖昧になってしまう。これは一体どういうことなのか。いかなる権利や義務を家族に付与するか、そもそもその権利・義務を与えられる範囲をどこまでとするか。こうしたことを考えようとするなら、現象としての家族の最大公約数を記述するのでは足りず、既存の家族に対する介入・言及が近代に開始されることをふまえ、近代家族の構成に関わる原理・基底要因から、何が帰結するのかを検証する必要がある。(第一節)その一つに合意という要素がある。これを広義の私的所有の規範として捉え、この規範が近代家族への変容の一つの軸を確かに担うこと、しかしこの契機それ自体を切り離した時、家族の外延的な定義、家族に固有に与えられている権利・義務の付与は不可能になることを確認する。(第二節)では他にいかなる契機があるのか。こうして複数の要因が絡んでいるのだとすると、家族に関わる問題はどのように現れるのか。本稿に続く作業を最後に示す。(第三節)

一 近代家族を問うということ

(1) 誰が、何を、何によって規定するのか
 家族はすぐそこにあり、それは近代家族と呼ばれる。家族社会学がその実情や変容を調べている。また、近代への移行において、確かに家族には多くの変化があったに違いない。そこで社会学者は、その変化した家族に一般に見出される特徴を数えあげ、それらを集めて、近代家族とは何か、それを述べる。社会学者でなくてもよい。近代家族について一般的に観念されている標準的な像はある。それは、まず二者の間での愛情があり、それに基づいた契約として婚姻が成立し、そこに生殖が行われ、子が二者のもとにあり、その内的な過程も愛情に起因する情緒的な結合に基づくものとされ、この行為のいくつかは義務として設定されている、といったものだ。これは近代法において宣言され、社会的に承認された観念として存在する。
 しかし、こうして数え上げられ、集められて作りあげられる像は私達の考察の出発点、あるいは、考察の末に再構成され説明されるべき一つの形象であると考える。何故このように言うのか。
 論者の多くは家族に「感情的包絡」「情緒的充足」「第一次的な福祉追求」といった行為の質、動機づけの特質、あるいは家族の機能を見出し、それによって家族、あるいは近代家族を定義する。それらは、様々の家族に部分的にしか当てはまらないと思われる要素を除き、中核的な部分、本質的な部分を取り出そうとするのである。
 だが、このように限定しても、いくつかの疑問がすぐに提出されよう。
 第一に、こうした言明は行為にそうした質が付与される場が家族であると言っているのか。だとすれば、すぐには受け入れ難い。当事者の現実に即せば、この条件を満たさない「家族」がそこここに見出されるからだ。とすれば、家族が存在するとは、情緒的な関係があるという事態そのものではない。では情緒的関係とはどこにどのように位置づくのか。
 第二に、現実として捉えるにせよ、理念の水準で捉えるにせよ、この定義によっては含まれるものが多くなりすぎる。情緒的な関係を全て家族であると言ってよいのか。友情等、通常家族外の関係とされるものが多くある。
 だとすれば、家族を規定するまた別の要素があるということか。実際、論者の定義の多くもそのようなものになっている。それらは成員について述べる。例えば「夫婦関係を基礎として、親子・きょうだいなど少数の近親者を主要な成員とする、第一次的な福祉追求の集団」★01。機能、行為の内容と成員の資格とを立て、両者が交わる部分をとるという考えである。これは私達の実感とかなり近い。
 しかし、まず夫婦とは何か。これはむろん血縁の関係にはない。感情的な包絡によって形成された関係、第一次的な福祉を追求する関係は全て夫婦か。その関係は夫婦であることの必要条件とされるとしても、等置されるものではない。ではここで夫婦を取りだすものは何か。当事者の抱く観念か。だが例えば、感情的な包絡という関係の条件を満たすとする同性の二者、あるいは三者がその関係を夫婦・家族であると主張した時、その主張はどのように処理されるのか。単に当事者の思念というだけでなく、社会的な規制・承認という契機が事実存在している。だが、その根拠はどこから与えられるのか。
 関係の内実についても同様のことが言える。感情的包絡や福祉追求はまず当事者の側に存在するものと考えられよう。けれど、人は様々な観念を抱きうる。妻は夫に配慮する、といった特定の内容はどのように設定されるのか。自然にそうなるはずだというのか。しかし、前述したようにそうなるとは限らない。そうすべきだというのか。だが例えば、ある家族がある行為を引き受けることを拒む場合がある。この時にはどのように処理されるのか。現実をみれば、単に当事者の観念の問題というのでなく、行為の権利・義務に関して社会的な規制が存在する。とすれば、この両者はどのような関係にあるのか。
 だが、従来の論議では、誰が設定するのかという視点の問題が重視されず、複数の視点の対立をどう捉えるかが明らかにされていない。また、ある条件とある条件、ある要素とある要素との関係の如何が主題的に論じられることが少ない。むろん、現実を捉えようとすれば、視点の所在や諸要素間の関係は当然問題となるのだが、社会学は通常の家族の内的な過程の記述に関心を寄せる傾向が強いせいもあってか、この機制を十分に捉えているとは言いがたい。単に定義の問題というのでなく、これらを問う社会学的な道具立てが不十分なのである。家族が公的領域から区別される私的領域、私的自治の範囲内にあるということが強調されてきた。また「制度家族」から「友愛家族」への変容が言われてきた★02。間違いだというのではない。しかしそれでは重要な側面を見落すことになる。例えば「制度」と「友愛」の関係である。ペットを家族と思う人がいる。そのように思うこと、またそういう観念が許容されることの由縁を明らかにすることは重要である。だが、ある人がそうした観念を抱いているだけなら、それは趣味の問題として済ませられる。しかし、ペットを飼うことに対して扶養手当が出、税金が控除されるか、等々を考えてみれば、ある部分には権利・義務を付与し、ある部分には与えないという境界が存在し、その境界の内部として家族が設定されているのもまた事実であり、ペットはさておくとしても、扶養や相続を考えてみれば、これも極めて現実的な問題である。
 こうして確認されたことは、誰が何によって何を決定・規定するのかという問題の存在であった。それは成員の規定と行為の規定の両方について言える。例えば、当事者の観点だけをとった時に、それは私達が知っている家族から逸脱する部分があるようなのだ。だとすれば、第一に、予め視点の所在を消去して各要素を総合してしまうのではなく、我々が漠然と家族として知っているものが何によって構成されているのか、それを規定しているらしい諸要素を取り出し、その各々から帰結する像を確定することが必要ではないか。
 そしてそれは、第二の問い、家族に何を付与し、その範囲をどう規定するかという実践的な問いについて考察するために、あるいは自らそれに答えようとするために、どうしても必要な作業である。何故なら、ある立場を主張しようとすれば、その根拠、あるいはその立場から帰結する状態を提示せねばならないからである。ある立場を評価する場合にも根拠・効果を知らねばならないからである。そして、実際、家族を巡る「問題」の多くはある要素とある要素、ある観点とある観点との衝突として存在しているのではないか。
 ここで何を家族と呼ぶかという問題は大きな意義を持たない。例えば家族に何を付与しその範囲はどこまでとするかという第二の問いは、あるものを付与する範囲をどう設定するのかという問いであり、家族という語を必須としない。何を採りだそうとするのか、その目的と限界を踏まえているなら、例えば、当事者の家族のイメージを記述することは事態の一面しか明らかにしないこと、観察者によって設定された像からの逸脱はそれ自体では「問題」でありえないことが認識されているなら、言葉はどのように用いてもかまわない。無論、多くの論者はこのことに自覚的である。しかし私達は、しばしばそうした自覚を看過し、それ自体では何を問うのか明らかでない「近代家族とは何か」という問いに対する既存の答を議論の前提においてしまい、問うべき問いを問わずに済ませてしまう★03。
 このように考えると何が私達の前にあるのか。立場上、法学者は境界設定を問題にすることが多く、そこに論じられている諸事象は興味深いものだ。だが、やはりその立場上、その議論は実定法を前提にしたものであることが多い。社会史の分野で近年続々と現れた新たな知見は問題の大きさ、多様性を示唆する。だが、古典的な了解との関係を考え、個々の知見を位置づける作業、容易に明確な像を結ばないという事態そのものを捉えるための枠の設定という作業は残されている。また、フェミニズムの側からの批判も視野の拡大に寄与してきた。だが、この運動にしても、家族に関する自らの批判がどのような場に成立しているのか、その場所の検証はこれからなされるべきこととしてあるように思われる。
 こうして、そのまま手軽に使用できるような先行業績はない。この時、私達は、基本的なところから、一歩一歩確認の作業を進めていくしかない。何か全く新しいことを述べようというのではないが、私達が漠然と知っていること、行っていることをはっきりさせる試みがあってよいと思うのだ。

(2) 近代社会と家族
 次に、近代家族と言う時、近代社会と家族はどのような関係になっているのか。★03
 近代に存在する家族の全体が近代的と言える諸要因によって成立していると考える必要はない。家族は、近代への移行においても、社会的な事実として存在している。それは既に目の前にあり、常に、前提された。前提となる場所として、何故、家族は存在するのか。生理的な要因や心理的な要因を持ち出し、近親婚の禁止、親が子を育てること、等々を様々に説明することは可能かもしれない。しかし、その経験的な検証可能性如何を別にしても、少なくとも当の者達の現実としては、既に常に家族と家族でないものの間の境界、内外の差異、そこに与えられる諸規定、そこに生ずる利害を知り、その事実において、家族に関心を持つのではないか。家族は、そのようなものとして常に存在したし、存続してきたと見る方が、社会にある者達の現実に近いはずだ。いつ始まったとも知れぬものが維持される。ここにある関心事は、境界を維持することであり、境界の侵犯を防御することである。そして近代への移行においても、全てが新しく編成されたのではない。例えば近親婚の禁止に合理的な説明が与えられよう。しかし、そういう合理的な理由によって、それらが継承され、近代家族の一部となったと考えるよりは、いくつかのものはともかく継承されたのだと考えてもよい。
 だが同時に、近代への移行において、家族は、操作・言及の対象になっている。その本質が論議の対象になり、維持、変更、解体が主張される。また実際に、改変が行われ、その正当性が議論される。家族は比較考量の対象となる。比較されるものは、別の家族の形態であり、あるいは家族ではないものである。そして家族を評価するという時、それは家族自体とは別の場所から家族が介入され、言及されていることを意味する。規範、制度に対して言及する位置にあるものは、人間の側にあるとされるもの、理念、価値、効用といった言葉で語られるものである。これは家族や親族自体が自明の前提としてある場合、そうした単位の複合として社会が構成されている場合には起こらないことである。家族は他者(社会)の関心事であると述べた。確かにいつの時代にも関心事だった。しかし、ここには別の契機が含まれている。家族を前提とした上でというより、家族自体が問われるべきものとして、作為の範囲にあるものとして、関心事となる。こうして、いったん根拠が問題化され、習俗が習俗であるというだけで効力を持たなくなった時、規範や伝統を主張するにしても、それはそれで行止まりの規範ではなく、まずは一つの意見となる。これが近代家族そして近代の社会形象一般の置かれている基本的な位置である。この地点から戻ることはできない。これは不可逆的な現象である。
 今あるものの全てを近代的な観点から説明しようとする必要はないし、説明されるはずだと考える必要はない。しかし、可能性としては、全てが評価・論議の対象となりうる。まず、近代家族が存在するこうした位相、既にあるものに対して、別のところから関与・言及の可能性が与えられているという状態を確認しよう。こうして家族が問題化されるという事態が近代と家族との関係において本質的なことだとすれば、それは、何が何を規定し、何が何を正当化するのかという(1) に述べた問いの設定が、近代社会自体の内部にあることを意味する。とすれば、家族に対して何が作用しているのかを検証しようとする私達の作業は、第一に、そのまま近代社会と家族の関係を記述する作業となる。第二に、私達は隠された因果関係、相関関係を推定するというのではなく、少なくともそうした作業だけを行う必要はなく、実際に言われ為された言説・行為に立脚することができる。第三に、現実に境界設定について実践的な議論がなされている場所に参入し、その議論を整理し、対立点を明確にすることができる。

 (3) 基点・焦点としての人間
 とすれば、次に私達に設定される課題は、どのような地点から言及・介入が行われているかを考えることである。ある事態を生じせしめる要因、ある事態を正当化する根拠を見出すことである。正確な定式化をはかることはここでは置き、まず挙げてみよう。
 第一に、個々人を社会的行為・関係の基点とするという原理である。ただ人間的な価値に定位して社会的行為・関係・規範が起動するとされるというだけでは、その範囲は非常に広く、(2) に述べたことと殆ど同じことを意味する。ここでは自己決定の原理、次節で私的所有の原理として提示するものを考えている。このように個人が捉えられ、それによって社会が編まれようとする時に、家族という既に存在する中間的な集団の位置づけが問われることになる。
 これが私事に対する不関与の原理であるとすれば、第二に、人間に対する別様のあり方として、その人間のあり方に関心を持ち、関与するという実践・言説がある。特に、その人間の質が問われる場合には、まず人間が生活する場、とりわけ生まれ育つ場としてある家族がどのようなものであるのかが問題になる。
 また、第一の原理は、人々が結果として得るものを第一義的には問題にせず、行為とその評価を個々人に委ねるから、介入の実践は、それと別様の原理として、当の者あるいは他者(達)が受け取るもの、幸福(の度合い)から評価する立場をとる。介入は、例えば、幸福の総和を問題にする功利主義によって、また当の者の幸福をその者の事実的な選択と等値しないある種のパターナリズムによって、行われ、また正当化される。
 だが、第一のものも結果を問題にする原理によって正当化が図られることがある(例えば市場の功利主義的な正当化)。こうしてこれらは複雑に対立しあい、言及しあい、関連しあう。とすると、近代家族の分りづらさの一端もここに起因するのではないか。人間、人間の集団に働く近代社会の作用の複数性が、問題を複雑にしているらしいのだ。
 だとすれば、なすべきことは、いかなる契機から何がなされたかを個々に追い、また個々の原理・要因から導き出される帰結を各々について論理として抽出することである。ここで後者、論理的な帰結の検討が意味を持つのは、第一に事実としての因果関係の確定が難しい場合があるからである。この時、論理として可能な範囲と現実との距離の測定が有効性を持つ。第二の理由は、現在問題となっており、私達が念頭に置いているのが、境界設定をいかに行うか、何を家族に帰属させるか、それをいかなる根拠で行うかという問題だからである。ある前提から可能な帰結を知ることによって、どのような根拠によってどのような主張が成立しうるかが明らかになるだろう。
 こうした手続きを取らず、最大公約数的な像をもって予め近代家族を提示し、それ以外のものを近代家族からの逸脱とするのは、近代という時代が、そしてその中にある社会形象が、複数の作用の交錯する可能性の範囲に、多様な可能性をもって存在しうるという事態を、十全には捉えられないのではないか。また近代家族が既にあるものに対する言及・改変として存在しているという事態をもよく見ることはできないのではないか。
 例えば、冒頭に挙げた近代家族の標準的な像にしても、それが現実にある唯一の事態だというのでも、現実の全体を捉えているというのでもない。情緒的な結合という点だけをとっても、その範囲が限定されるのは、個人を基点とするという第一の原理、合意・私的自治という言葉で語られ、以下で私的所有の規範として検討する原理と、成員への配慮といった心的内容の措定という、二つの作用が交錯する場所に現象する特殊な場合である。前者は、近代社会への変容に相関して重要な意義を有するが、これだけをとった場合には、結合の範囲も、権利・義務も限定されないことを第二節で示す。(本稿で詳論できるのはここまでである。したがって、誰がどこにどのように権利・義務を設定するのかという問いに全面的に答えることはできない。)また後者は、人口の質に対する関心に規定される部分があるとも考えられるのだが、この同じ動機によっても必ずしも家族の維持が導かれるとは限らないことを第三節で述べる。つまり、各々に標準的な像から逸出する契機があるのだと考える。繰り返せば、こうして示される様々な集合、様々な範囲のうち、どの部分を家族、近代家族と呼ぶかは本質的な問題ではない。どのような前提を置く場合にどのような集合が指定されるのか、どのような規定がなされるのかを見定めることがなすべきことなのであり、そうして措定されるものを、それにどういう名を与えるにせよ、私達が受け入れるのか否かが、問われている、問われるべき問題なのである。

二 合意・私的所有権と家族

 (1) 秩序の構成原理としての私的所有権
 近代の秩序を与えるものとしてどういう原理がまずあるだろうか。個人、個人の有する感情、意志が社会的行為、関係の基点となることか。だが、意志に発するというだけでは社会的な行為は決定されえない。双方の意志が対立した場合に、それを解決するてだてが与えられていないからである。その原理はより特定されたものであるはずだ。
 それは広義の私的所有をめぐる規範であると考える。自己の財については自己が権利と義務を持つという規範である。自己のものに対しては、他者がそれを求めても、その者がそれを取得する権利があり、またそれが不都合なことであっても、それを引き受けるべき義務を持つ。損をしたら自分で被らねばならず、得をしたら自分のものにしてよいということである。それを侵害した者は罰せられる。ここで財の帰属が一義的に決定されていれば、権利・義務が定まり、一定の社会状態が帰結する。
 ではその帰属はどのように設定されるか。既に存在しているものはともかく、財は日々生産され加工される。行為はその時々に生ずる。この帰属を定める規範が必要である。ここに位置するのが、自己に発するものは自己のものとするという規範である。
 このことによって相互行為の規定も可能である。Aがbを予期しつつ自らの決定によりBに自らの財aを与え、Bがそれを受け取り自らの財bをAに与える、そういう関係が成り立っている場合、相互の所有権を侵害せずに、自らの財を処分し、他者の財を取得している。Cにとり、この関係が関心事であり、あるいはここで流通する財が魅力的な財であっても、そこに介入することは、A・Bの所有権の侵害となるがゆえに禁止される。
 以上を家族にあてはめて考えてみよう。当事者の合意、二者の契約を尊重し、第三者を排除することの正当化は、意志の尊重ということだけからは導かれない。情緒的な関係の形成自体は感情における自然としてあり、そこである者が排除されることは必然の事態だとは言えよう。嫌いなものは嫌いだということである。しかし恋愛の関係がそうしたものであることと、その関係に基づいてそれ以上の契機が加わるということとは別のことである。例えば、AとBとCがいる。CはAとBが関係を取り結ぶことに反対している。Cもまた意志を有しており、双方の意志が対立し、一方の意志を貫くことが他方を侵害するという意味では同じである。これは数の問題ではない。Cが複数の場合もあるからである。同意という問題だろうか。AとBの間には合意があるが、Cとの間にはない。しかし、婚姻に関して対の関係において同意が必要だとして、同様に親子との関係においても同意がなくてはならないと主張することは可能だ。
 これを解消するのは、自己に発する関係は自己に属するという規範、ここでは婚姻という関係が自己のものであるという観念である。ここで愛情という心的な契機と婚姻との接合が要請される。愛情は自己のものであり、婚姻がそれに起因する関係であるとすれば、それは自己のものであるというのだ。ここで合意とは、Aがあるものを与え、Bがそれを受け取り、自らに発する行為としてAに与える、ここにAはBの所有権を侵害しないであるものを得た、Bも同様であるという事態である。このことに対して、第三者Cは、それがCの関心事であったとしても、関与することができない。合意が優先されねばならないとはこのことを意味する。
 これが、近代家族が合意により形成され、私的自治の領域としてあるという事態である。家族は二人の契約に発するものとされる。同時に、個々の意志が重視される。関係の内部においても、同意、すなわち自己規制以外によって個々の行為が規制されることはない。それは、個々の所有権を侵害しないことを前提とした相互関係である。
このことが、どのような社会の変化、社会における家族と個人の位置の変化と相関するのかを (2)で簡単に述べる。次に、この原理が、特定の権利・義務が付与される積極的な単位としての家族を成立させうるか、境界設定の正当性をもたらしうるのかを (3)で検証する。むしろそれは、家族という形象に対して破壊的であることを見ることになろう。

 (2) 個人・家族の位置の変更
 刑罰にせよ経済的な関係にせよ私的所有、自己決定、自己責任の原理は近代社会の構成上一つの主要な契機となっており、家族についても、法、法思想・社会思想、さらに人々の日常的な規範としてこの原理が登場し現存するのは歴史的・社会的事実である。これをどう捉えるべきか。所有権=処分権の設定は、社会的な規定としてあり、他の可能性を排除する。ここに既に選択が働いており、何らかの効果が生じている。では何が働いているのか、効果として何が与えられるのか。
 第一に、近代社会では、個々人が権利の主体であることが認められ、直接、家族という単位の組合せとして社会が構成されるのではない。権利を設定するより上位の単位(国家)と個人が直接向かいあうのであり、家族が従来、財、行為の決定に対して持っていた権限が奪われる。この意味では明らかに家族の自律性は弱いものとなる。
 第二に、このことは従来の家族・親族関係を基盤とした既存の秩序の破壊の可能性を与える。繰り返せば、伝統は意志を特権化するだけでは排除されない。二者が持つものによって関係が成立し、そうした関係には第三者が関与できないとすることによって、伝統を体現する第三者の介入が排除される。またその際、当事者においては、関係に対する心的な契機が要請される。
 主要な契機が私の意志・感情にあるとされる時、その一人一人は、何か具体的な存在ではない。第三に、家族は「人間」という存在が取り出される場となる。このことは個々の階層、共同体、個々の家族において、習俗・伝統として成員に対する関与がなされていた状態と対照的である。ここに提示される人間が抽象的であるだけ、その具体的な内容、例えばどのように子を育てるかというあり方は可変的であり、社会自体の流動性・可変性に対応し、またこれを導くものにもなりうる。
 同時に、第四点、個々の行為に対する規制から切り離され、誰もが有するとされる人間の内的な契機が取り出されることにより、家族自体も、個々の家族、個々の共同体の習俗に規定された個別的な空間から離脱し、一つの社会・国家という均質な空間の単位となり、そこに繋がってゆく可能性が開かれる。
 こうしてこの規定は、確かに、伝統的な家族を変容させ現在の家族像を成立させたことの一部を担い、さらにはこれが社会空間全体の変容と相関しているのだと言えよう。しかし、決定が個々人に委ねられる場面においては、その決定の内容は特定されない。ゆえに、以上の枠組みの範囲内で、一つに、個々人の心性として伝統的な像が保持されている限り、伝統的な形態が引き継がれうるし、また反面で、当初予測されないような形態が現出しうる。(3) ではこのことが確認される。

 (3) 成員・義務・権利の設定不可能性
 a 成員と意志の内容
 まず成員の規定を考えよう。合意の存在というだけでは関係が限定されない。そこで内容が与えられる。例えば愛情である。しかし、内的な感情としての愛の定義(正常=正当な愛と異常な愛との識別、愛と愛でないものとの識別)は不可能である。例えば、異性愛と同性愛は別のものだと人が思い、その違いを表現しえたとしても、後者を愛でないとして排除することはできない。したがって、成員を外延的に規定することもできない。★04
 第二に、二者が特権的な存在として取り出されたとしても、それは、この二者の全てに事実としてしかるべき心的な契機が含まれていることを意味しない。法的な婚姻においても、必要とされるのは両性の合意であり、自発的な行為である必要があるが、それが問題とされ介入がなされるのは、そうなっていないのではないかと疑われる場合、特に当事者から訴えがなされる場合である。婚姻の成立時に当の者達の感情、同意の現実が審査されるわけではない。恋愛結婚の教説は、まずは人々の間に観念として存在する範型にとどまる。だから、人々の関係の現実は、ここから逸脱しうるし、事実逸脱する。
 では、子という成員についてはどうか。親とはある存在に対して扶養し教育する権利と義務を持つ存在のことなのだから、結局のところ権利・義務の問題として捉えられる。夫婦という関係にしても、その境界の設定は、行為が規定されることなくしては意味を持たない。では、いかなる行為が許容され、あるいは義務とされるのか。
 b 義務
 例えば、結婚した者がその相手を扶養する義務について考えてみよう。
 他者の利益になるある行為を行おうという意志があり、それが他の誰の意志とも競合しないという場合にはそもそも問題化の可能性はなく、義務という必要もない。婚姻時における同意としてAが自らの扶養を引き受けるという場合も基本的に同じである。契約、契約違反として扱うことができる。誰かが、当事者の意志に抗して、あることを引き受けさせようとする場合に義務という規定が必要になってくる。
 近代社会において義務・責任の設定は、一つに、自己に発する行為の結果に対しては義務を負うべきであるという規範によってなされると述べた。因果関係でなく、ある事態がある事態を内包しているというのでもよい。しかし、関係をとり結ぶということの中に扶養ということが必然的に含まれているとは考えられない。
 また、故意という概念をもってきても同じである。ある目的を達成するための手段としてある行為を行った場合に、達成されたその結果に対しては責任を負うべきだと言えるとしても、例えば、関係を結ぶことが扶養を行うための手段であるとは言えない。
 次に事実的な因果関係がある場合。しかしそのすべてではなく結果の予見可能性がある場合にその結果に対する責任が問われる。だが、まず配偶者の扶養については、その関係が実際に配偶者の生活能力を欠けさせるのでなければ義務を設定できない。次に、子が生まれ、その子が誰かの扶養なしに生きられないことは予見可能である。だが、他にそれを行おうとする者がいないという事態は前提として受け入れるべき事実か。子が障害を持つことは可能性として予期しておくべき範囲内にあるのか。出生前に障害の有無を診断できるのにそれを行わずに生まれた障害児の介護は、診断を敢えて行わなかった親の責任とされるのか。これらの問いへの答によって設定される義務、義務の範囲は変ってくる。
 しかもこの関係は人と人の関係である以上、財が向けられる対象の意志が問題である。当事者において、そうした意志、同意が予め常に含まれていると常に想定することはできない。例えば関係を結ぶことには同意したが、扶養されることには同意していない、それは同意の内容には含まれていない、と主張することは可能である。
 以上から明らかなのは、婚姻という関係、親子という関係に対して現実に設定されている種々の義務の少なくともあるものは、所有権・当事者の合意という規範とは別のものによって規定されているということである。
 c 権利
 権利についてはどうだろうか。譲渡・取得の権利が問題になるのはどういう場面か。
 AとBとCがいる。BもCも受け取りたいと思うものを、AがBに与えCに与えないことは正当化されるだろうか。例えば相続、扶養。CでなくBに与えようとするAの意志が特権的な位置に置かれるのは、Aの所有権を承認することによってである。AにおいてBを扶養し、Bに財を継承しようという動機が働いた場合に、財はその範囲の中に流通することになる。
 贈与を受け取る権利をみてみよう。CもほしいものをBが受け取る権利があるか。先にみたように、Aの側に予め与える義務がないのだとすれば、Bの取得を権利として予め設定することはできない。生じているのは、Aがaについて処分権があり、それをBに与えようとし、Bに同意がある時、譲渡が行われるという事態、Aにおける処分権が承認されているという事態である。
 また、Aの動機を問題にし、以上を一種の交換関係とみることも出来る。BがCが持っていないもの、例えば魅力、をAに与え、その結果としてAはCでなくBに与える。先に問題になったのは、例えば結婚することと扶養することの因果関係だった。この場合はBの魅力を受け取ることとBを扶養するという事態の連結がAにおいてなされ、それがAに属するものとされることによって、BがAによる扶養を受け取ることが帰結する。
 所有権=処分権を承認すれば譲渡は成立する。しかし特に家族内での財の贈与のような場合、自己に固有に起因するものであるがゆえにそこから生じたものを取る権利があるという、所有権を導く論理として提示される原理を強くとった時にはどうか。例えばBの持つ魅力からして生来的な属性であると言えるかもしれない。また、その者が偶々位置する社会的な位置が関心事であることもあろう。自己に発するものという論理を厳格に、積極的にとる場合に、家族内での財の流通はむしろその原理にそぐわないものとされることがありうる。関係の形成自体についてはその内実を問うても仕方がないとしても、その関係に関わる財の流通を問題化することはできる★05。処分権を導く帰属の論理、具体的には勤労の美徳、機会の均等といった言葉によって、家族、家族内の財の流通は批判されうる。
 以上は、業績よりも属性が重要な契機となる家族の関係においてより顕在化するものの、私的所有の問題に関して一般に言い得ることである。ここでの主題との関連で特に重要なのは、この権利の設定が、合意の範囲内にしか成立しないということである。関係の成立時に、その成員であることによって、予め権利が設定されているわけではない。ここで成立しうる権利は、当事者の契約によって、その範囲内で初めて成立する。
 d 子という存在
 では親達と子の関係はどのように考えられるだろうか。産んだ子どもを自らのもとに置き、育てる権利があるか、という場合はどうだろうか。
 第一に、子を産むという行為は意志的な行為として起動し、身体的な因果関係において子が生まれる。そうした関係であるがゆえに、自らの身体を用いて得た労働の成果を自らが取ることができるのと同様に、産みの親の子に対する権利は正当化されるのだろうか。 cに述べたのと同様、偶然与えられた身体、身体の機能の差異は、所有や結果の差異を正当化しうるかと問うことも出来よう。だが、ここで特に問題になるのは、子が人格であること、そして生まれたその時には意志を表明できる存在ではないという事情である。
 先の例では、BとCにとって好ましいものをAがBに与えようとする時、Aの所有権によって、AとBの間の同意によってそれがひとまず正当化されるとした。しかし、ある者を自らの子とするという場合には、子供の親となりたいB(生みの親)とCは存在するが、それに対して、少なくとも出生以前、あるいは直後においては、子が意思を表明することのできる存在としていない、すなわちBかCかを選択する主体としてのAが存在しない。したがって、同意によってBに権利があるとは言えない。
 そして、やがて子は一人の事態を判断できる者として現れることになるだろう。この時、子は契約の当事者となることができ、自らの意志によって、自己の位置を変更できることになるはずである。したがって、この場合にも、予めBに権利があると言えない。
 e 結論
 以上から言えるのは、家族として観念される関係が他の同意に基づいた相互関係と同様に扱われるということでしかない。当事者の間では、同意が形成されている限りにおいて、相互的な関係は維持される。それ以上のものは付加されない。こうした単位を家族と呼ぶことは可能だが、他の相互関係との具体的な境界線は設定されない。また、それは相互関係が成立していることを指す名称であるにとどまり、そこでは、当事者間で合意された権利・義務関係以上のものが設定されない。例えば、妻であるから、親であるからという言葉は、それ自体では何も正当化しない。このことは、まず当事者について言えるが、同時に第三者にしても、関係に対して、あるいは個々の成員に対して、特別の権利や義務を付与する理由がここからは与えられないということでもある。
 このように、ここに描かれた家族は、私達が一般に知っている現実の家族とは別のものである。成員の規定、行為の内容、心的な要素の内容、社会から家族に対して与えられている権限・義務、これらがここにはない。合意の範囲内で、合意の内容が予め設定されないがゆえに、伝統的な要素が残る可能性、「普通」の近代家族を逸脱する可能性がある。
 以上に述べたことは少し考えてみればごく当たり前のことである。しかしそれにしては、この当たり前のことと、現実に私達が知っている家族、家族に付与されているものの間にある距離が、驚きをもって受け取られ、検討されることが少なかったのではないか。この距離は考察に値するとされるなら、本稿の目的は一つ達成されている。

三 諸作用の複合と家族の「問題」の位置

(1) 家族への介入
 ではその距離はどのように説明されるのか。残された紙数でこれを本格的に検討すること、つまり本稿冒頭に示した問いに答えることができない。考慮すべき点を示すに止める。
 子や親や配偶者に対する自然な心性があるのかもしれない。また、伝統的な家族の要素の一部が継承されたのかもしれない。しかし、単に既にあるものを受け継ぐだけなら、新たな社会的な規制・介入は不要である。また、例えば女性に不利益を与えるような状態が存続しているのだとすれば、単に規範がある、存続しているというだけでなく、それを存続せしめるような要因があるのかもしれない。男女間、家族内、家族外の利害、利害の相克を検討する必要がある。先行業績の多い市場労働・家事労働における性役割分業、これと男性による女性支配との関係を巡る議論にしても、満足すべき結論は出ていない。★05
 もう一つ検討すべきは、特に19世紀以降、人口、それも単にその量でなく個々人の質に対する関心、社会の幸福の増大という視点から、積極的に人の質を問題にし、質に関与し、質を構成しようとする動きが現れることである。それは人の置かれる環境と遺伝的な要因を問題にし、その中で個の生産が行われる場としての家族に非常な関心が向けられる★06。
 そこに行われたことの一つは、問題があるとされた家庭からの子の強制的な引き離し、断種法の制定等による生殖への介入など、家族あるいは個人への直接的な介入であった。しかし、それらと同時に、むしろピューリタンの教説等を考えればそれに先行して開始されたのは、家族という空間を利用し、その成員に家族に対する特定の観念を与えることだった。伝統から切り離し、個人という単位を取り出すだけではまだ内容は設定されていない。そこに入るのが、その成員に対する配慮という要素である。すなわち、人々の健全な生活、子の健全な育成のために健全な家族・婚姻生活が重視され、この時、それを支えるものとして、成員に対する配慮としての愛情が設定される。家族とはそうした空間であるという観念が与えられ、その配慮の内容が設定される。こうして内容が設定され、これと第二節に述べてきた規範が組み合わさる。むしろ、歴史的事実としては、両者が同時に含まれていた、すなわち同意・契約という場合に、予めその同意・契約の内容が想定されていたと解するべきかもしれない。こうした場合に、本稿の冒頭に簡単に述べた、近代家族として観念される典型的な像の一部が結晶する。しかしこれは可能な組み合せの一つの場合である。愛情を起源においた時、他の解釈が許され、第二節に述べた拡散の可能性が生じる。さらに、ここに述べた直接的な介入にしても、ある場合には、ある家族の破壊、家族という形象そのものの否定が言われたのだった。
 人間の再生産、個の質への注視という契機が、私達が知っている家族の現実のどこまでを説明するか、これは検討すべき課題である。以上にあげた例を見る限りでは周辺的なことのようにも思われるかもしれない。だが例えば、個の質はともかく、人間の再生産に対する価値の付与なくして(ペットやヨットを持つことにではなく)子の扶養に対して特権的な位置を与えることができるだろうか。このようなことから考えてみる必要がある。

 (2) 家族を巡る「問題」の位置
 こうして、家族を巡る諸事象をどのように扱うかについて複数の観点があり、そこから様々な像が導かれ、それらが論議の対象となる。それを考察するための前提的な作業が終わっていないが、いくつかの課題を例示し、どういう場面で本稿のような方向の考察が必要になってくるのか、何が論じられるべきこととしてあるのかを再度確認しよう。
 伝統や規範が伝統や規範であるというだけの理由で正当化されえないのだとすれば、人間的な価値が持ち出される。この価値は一つに「幸福」として表明されるが、それにしても、子とされる者、親とされる者の幸福、それ以外の他者(達)の幸福、様々でありうる。そのあるものは家族に対して破壊的に、あるものは肯定的に作用する。
 例えば、ここで取りだした私的所有という図式自体一つの規範であるとし、幸福の言説を所有の規範に言及する場所に位置させることもできる。結果として人々が受け取るものを問題にし、社会権、結果における平等といった原則によって私的所有の規範を批判することも可能だし、逆に、家族について妥当するかどうかはともかく、市場の合理性、能力主義の功利主義的な正当化のような論法で擁護を試みることも可能だ。
 他方で、この自己決定の規範が認められる場合には、これを採用し、境界設定を緩くし、規定の内容を減らす方向を導くことができ、家族の定義の変更、拡大を求める勢力、例えば同性愛者の権利を主張する運動がこれを利用できる。家族に政治的に与えられる特権を正当化する積極的な根拠が提示できるわけではない。しかし、自らが排除される根拠のなさを指摘することは可能である。他方、家族間の格差は機会の平等を阻害するというように、「私のもの」の定義を問題化することにより、現状の所有の布置の否定が意図される場合もある。さらに、それが結果についての権利の主張に繋がることもありうる。
 このように、どのような論理によって、何を批判するのか、あるいは擁護するのかを明らかにせねばならない。ところが、その作業は、現在現れている現象に追い付いていない。本稿がその一部を明かにしようとしてきた、前提から何が帰結するか、ある事態は何によって正当化されるのかということの検証が十分になされていない。
 例えば、家族、家族政策に対する批判がある。それは第一に、家族への介入に対する批判として現れる。第二に、家族を一つの制度として、他者によって規定されたものとして捉え、家族からの解放を唱える。両者は矛盾するわけではない。各々で言われている家族が別のものだからである。介入を排し、制度的な家族の像から個々の自由な家族・関係の方へ解放されるべきだと言う。
 だが、まず対立が生じる場面、また特に一方の当事者の意志を諮れない場面、私的自治の範囲の設定の場面、こうした場面には、社会的な決定が必ず現れる。第二節にみた所有権の設定にしたところが、社会的な決定としてある時に初めて実効性を持つのである。特に、国家が決定を行うか否かの決定を含めて、強制的な作用を及ぼせる場所としての国家の位置が重要である。対立があるとして、それは無規範と規範の対立ではない。権力と無権力との対立でもない。いかなる権力の行使、規範の形態をとるかという問題である。
 次に、現状を変更しようとするにせよ護持しようとするにせよ、対立が生ずるなら、自らの立場を正当化せねばならない。いかなる論理、いかなる立場を取るのか。例えば子に対して親が特権を持つということ自体、自由という観念からは導けない。反面、家族を自由の領域として設定することは、結果として各自が受け取れるものを問題にする時には、必ずしも最適ではない。配偶者への特権の付与から扶養手当に至るまで、既に与えられている境界・権利・特権をどのように捉えるのか。
 夫婦の関係に関しては、それを特権的な境界を持つものとしては一切扱わないという方向もありうる。全ての者を同等に扱い、この関係も一般の私人間の関係と等しいものとし、対立もそのように調停する。政治的に与えられる権利・義務はすべて個人単位とする。むろん実際にはそうなっていないし、少なくとも私達の国では、批判者もそのような主張をするとは限らない。だとすれば、これらを規定するものは何かを考える必要がある。
 より難しいのは、親・子の関係である。親、すなわち子とされる者に対して権利・義務を付与される者であることを規定するのが、婚姻でも生殖という事実でもないとしたら、それは何か。出生自体が問題である以上、意志に立脚する私人間の契約、自己決定という原理は持ち出せない。親であろうとする者全てに全ての自由に与えるのでない限り、またそこに対立が生じる限り、子の利害を代理する者としてであるにせよ、第三者が関わり、その決定の根拠が問われる。例えば生殖技術を巡って、当の子、あるいは他者・社会の幸福が持ち出される。第二節で見た範囲からは制約の理由が見当たらないから、こうなる背景は理解できる。しかし、幸福の言説だけが私達に残されているのか、伝統・自然と呼ばれてきたものに別の言葉を与えることはできないか。考えるべきことは多い。★07
 こうした事態を把握するために、私達は与えられているだけの言明の位置を検証せねばならない。特定の家族像によりかかることなく、近代家族という現象を見定めること、それを規定しているものを確定することが必要なのである。まず、所有権の規範からは導かれない行為内容に関わる作用の検討、具体的な課題としては、性分業としてある行為の配分の機制、親であることの権利を巡る言説・実践の布置の検証が、次の作業となる。



★01 森岡清美「序論」(森岡編『講座社会学3 家族社会学』、東大出版会、一九七二年)三−四頁。
★02 E. W. Burges & H. J. Locke 1953 The Family : From Institution to Companionship, American Book (2nd ed.).
★03 例えば山田昌弘の「主観的家族像」を明らかにする作業 (江原由美子他『ジェンダーの社会学』、八九年、新曜社、他)、 落合恵美子がとりあえず列挙してみせた「近代家族の特徴」(『近代家族とフェミニズム』、八九年、勁草書房、一八頁)等が、著者達の問題設定、問いの範囲がわきまえられないまま、議論の前提として使われてしまう。
★04 本稿の前提をなす作業として、立岩「主体の系譜」(八五年、東京大学大学院社会学研究科修士論文)「制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における」「個体への政治――西欧の2つの時代における」「愛について――近代家族論・1」(以上八六、八七、九一年、『ソシオロゴス』十、十一、十五号)。特に「愛について」では、愛情が関係の基盤に置かれるという事態が何を意味するのかを記述し、そこに生じうる事態を検討しており、第二節の論点の一部がより詳細に展開されている。
★05 上野千鶴子『資本制と家事労働』(九〇年、岩波書店)、及びこれを巡る種々の議論等を念頭に置いている。私見を別稿で提示する。
★06 Jacques Donzelot 1977 La police des familles, Minuit(宇波彰訳『家族に介入する社会』、九一年、新曜社)等。
★07 これに関連した筆者の文章として、立岩「出生前診断・選択的中絶をどのように考えるか」(江原由美子編『フェミニズムの主張』、九二年、勁草書房)、「出生前診断・選択的中絶への批判は何を批判するか」(九二年、生命倫理研究会報告書)がある。


Boundaries of Modern Family : Consent cannot lead the figure of family we know

 Shinya Tateiwa
                Japan Society for the Promotion of Science

Why does the figure of modern family which we experience everyday become vague
when we begin examination of it ? What rights and duties can we endow on family ?And how can we limit the range which is endowed these rights and duties ? When
we want to consider these problems, it is insufficient only to present the
generally accepted figure of modern family. Based on a fact that references and
interventions to family began in modern age, we should examine what result from
principles and factors concernig modern family one by one. (Chapter 1) One of
these principles is the right of private possession in a broad sense. We will
ascertain effects of it : it takes an important role for transformation of
family and society, but it makes it impossible to define family extensionally
and to endow rights and duties to family positively. (Chapter 2) Then what other
factors exist ? In case multiple factors and their effects exist, how do the
problems about family appear ? Some subjects for next consideration are pointed
out. (Chapter 3)



家族  ◇立岩 真也 

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