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生命工学への社会学的視座

第62回日本社会学会大会  於:早稲田大学  1989.10.22
テーマ・セッション:巨大科学・技術と産業社会 立岩 真也


【T】
  生命工学――生命に関わる実証的な知に基く介入――について法学,倫理学等の立場等から様々に語られるようになった。社会学はこれに何を加え、何を言うのか。例えば脳死や臓器移植についての人々の意識を知り、社会による反応の異なりを明らかにすること。確かにそれは課題である。けれどもそれだけではない。というのも、そこから今現れているもの自体をどう考えるかは出てこないからである。
  選択が問題になっているからには、どうしても倫理という場所へ行き着く。ある基準が持ち出され、それを受け入れるか否かが問題となる。当然のことではある。しかし、そうした議論はしばしば、社会という場がどのように構成されているのかを看過し、いくつかのことを暗黙に前提しているのではないか。倫理・決定はこの社会のどこに発し、どこに及ぶのか。諸領域の複合としてある社会の作動原理を考えながら、問題を縁取る試みがまず必要ではないか。
  検討の対象となるのは以下のことである。生命工学の知・技術はどのような社会に生じたのか。それがその社会に規定されながら、そこにどのような効果をもたらすのか、もたらしうるのか。だが、これだけでは何も言ったことにならない。
  具体的に何が出来るのか。第一に、それが最近に始まったことではないこと、この社会の成立の時から、少なくともその発想とそれを巡る論議が存在することを示せるだろう。だがこの報告ではこの点を具体的に追うことはできない。
  これと関連して第二に、社会の諸領域の編成、その中での主体という形象の有り様を検討することを通して、知・技術の位置の測定と効果の可能性についての考察を行う。
  踏まえるべき事実の提示と具体的な検討は今後の作業として、ここでは視点を示し、課題を設定するにとどめる。

【U】
@ 近代社会は経済・政治・家族、及びその残余領域に分割される。社会的行為となる行為は各々の領域に配分され、それぞれに行為を調達するメディアが存在するとされる(貨幣・手続きの下に集計された意思・愛情・以上に収まらない意思)。そして境界が定められている。政治領域によって規制されるものとされないものとがある。貨幣による交換が認められるものと認められないものがある。こうした決定を行う審級は、多くの場合、政治領域にある。
A 私のもの、私から表出されるものはここで重要な位置を与えられた。それは各々の領域を成立させ、領域内での行為を発動させる基体とされる。それは私に固有なものとして自らを離れず、譲渡不可能なものとして社会的な流通の対象とならない。
B 近代社会に対する古典的な了解は、上の方向に解することができる。そこに入りきらない要素は、原則的に近代とは異質なものと見られる、あるいはそこに生ずる問題を解決、解消するために近代社会の成立後生じたと見られる。しかし、いくつかの歴史的な検証の作業はそうした見方に反論し、諸個人に関する実証知に基づく介入が、既に近代の開始の時に始まっていることを示した。今日生じている事態に技術の進展による部分があることを否定する必要はない。しかし、それに連続する知と実践は、19世紀の初めに既に存在し、しかもそれは近代社会の成立に重要な意味を持つと考えられる。その歴史的な経緯と論理構造を明らかにすることは、現在を考察するためにも意義があるはずである。
C こうして、近代において、個体の内部は、第一にそれ自体が起点として措定されるのだが、同時にそれは関与を受けるものとしてある。両者は論理的、実践論的な矛盾を帰結する。だがこの議論に決着がつくことはなく、現実には、この二者は対立しつつ、併行して近代の推移を形成してきた。しかも、事態はさらに複雑で、実証知の水準においても例えば遺伝説と環境説との対立がある。個体の内部の不可視性が解消できないことにも規定されて、個体は多様な規定・関与を受ける。この多様性、可変性が近代「現代社会の質を規定している。こうした構造が現在に引き継がれているはずである。
  私達は、原則として表明されることと、事実行われてしまっていること、どちらかを無視するというのではなく、その位相の差と相互の関係を確認しながら、検討を進めていく必要がある。

【V】
  現在、そしてこれから問題になりうる事態は、固有に個体のものであるしかなかったもの、それが社会的な対象となり、決定・操作・交換が可能になる、あるいは必要になるということである。身体の内部と表面、その状態、その過程、それらは、ある世界観のもとに、またある部分は長らく意識されることもなく、存在してきた。それが操作・介入の対象となる。外的なものが内部に入ってくる。逆に内的なものが外側に出ていく(→B)。
  1.ここで、内部にあるものが外部に流れ出る、可視化されることによって、内部の意味が変わる可能性が出て来る。あるものについては、初めて意味づけられる、その意味で社会的な対象となり、社会的な問題となる。
  2.そしてそれが社会的に流通する可能性を帯びる時、社会空間(→@)にどのように影響されるのか、逆に社会空間はどう影響されるのか。どのような形で流通するのか、あるいは流通を抑止されるのか。あるいはこのことの決定はどこで、どのようになされるか。
  3.そしてこの社会における個人内部と外部との関係(→A)において、内部の変容によって、その枠組みがどう変容する可能性があるのか。その前にその枠組みの中で科学・技術がどのような扱いを受けるのか。
  以上である(@・A・B…C)。もう少し詳しく述べよう。
  1.について。まず人為的操作を加えるのか否か、人為の領域にもってくるのか自然に委ねるのかということ自体が、社会的な決定過程の中に入ってくる。ここでは既に自然ということの意味が変わっている。決定の対象となったという意味で、大きくいって人為の領域に入っている。このこと自体は不可逆的である。
  例えば、臓器と人との分離可能性が出て来る。かつては、臓器が誰のものかといったことが問題として生じたことはなかった。臓器の所有ということ自体が社会的な規範の水準に移行する。これは自明の権利ではない。この時、どのように、どのような決定がなされるのか。いったんこうした問題が生じた時、それは2.と3.に述べたことと切り離して考えることができないものとなる。

【W】
  2.諸領域の分割、各々に存するメディアという観点からみよう。ここには、あるものが社会的な流通の対象、人為的決定の対象となることによって、それがどの領域に入るか、どのようなメディアによって媒介されるのかという問題が生じている。これは社会学がその本領とすべき対象のはずだが、実はそうまとまった業績があるわけではない。
  まずは、各領域、領域の境界に関する、諸原理の問題として、あるいは諸原理、諸規範の間の関係の問題として考察してみる必要がある。それをふまえた上で、場合によっては原則を超えいるかもしれぬ現実についての検討に移るのがよいだろう。
(1)市場
  例えば固有の身体を離れた臓器はどのような場所で調達されるのか。それを規制する原理は何なのか。この社会では貨幣というメディアの役割が大きい。何故、ここで問題になっているものはそこに簡単には乗らないのか、市場に乗るものと乗らないものはどのような基準で分離されているのか、ということを考える必要がある。
  これを踏まえて、実際に交換として生じている諸事象について、産業化されている部分についてその実態を検討するべきである。
(2)家族
  第一の問題は家族という領域の編成自体の問題である。生殖に関わる新しい技術は双方の合意という近代家族の構成原理を原則的に阻害するものではない。むしろ、それをより一層進める、別言すれば、それだけを残すことになる。
  この時、第一に、他方に存在した自然の基盤の上にあった部分の変容はどこまで許容されるか。第二に、それによって家族という形象はどのようなものとなるのか。対としてある関係と、子とされる存在に対する関係の両方を検討する必要がある。特に後者について、社会はここを事実性にゆだね、十分な規範を用意しておらず、これは前者とも関連する。
  確認すべきことは、ここで家族と呼ばれる領域を区画しているのは個々の当事者というわけではなく、家族とは単なる名ではなく、そこに関わる重要な一つは法、政治的決定であり、その規定により人々は異なった扱いを受けることである。したがって、この場面についての検討が重要になる。
  このような規定を受けた上で、家族という領域には自治が認められている。だがこのことは、この領域が他から影響を受けていないということをいささかも意味しない。むしろ、近代家族は、ここが愛情というメディアによって構成される閉域となることにおいて、特有の個人への関与の形態を作りあげてきたし、これを成立させることにおいて、またこの箇所を通すことによって、家族外部から一人一人の状態を気遣う力が働いている場所てある。このことの検証を抜いて、家族内の諸過程を考察すべきではない。愛情とされるものが何を効果するのか、その前に、それがどのようなメディアなのかを検討すべきである。
(3)政治
  こうした決定、決定の是非が政治的な決定の場に持って来られる。政治が関与するかしないかということを含めて、政治の領域は重要な位置にある。
  表明される原則の一つは、他者の権利を侵害しない行為については基本的に私的自治の範囲にあるということである。しかしここで生じているのは、この原則を認めたとしても、侵害するということの意味をどのように解するかということが自明でないということである。というのも、当事者の判断を求められない場面があり、また直接の当事者を越えていく問題もあるからである。
  しかも政治領域は消極的な規制だけを専ら行ってきたわけではない。規制の境界設定が積極的な効果を及ぼすというだけでなく、明確な目標をもって人を導いている側面があり、これが分析の対象になる。

【X】
  次に、提供・改変されるものが主体それ自体であるという場面について、そのことに関わる問題について考えてみよう。
  脳死・臓器移植にみられるように脳の特権性が保存されている限りこの問題はさほど大きくない。脳の移植は困難で、またその特権性を脅かすために倫理的な抵抗がある。けれども、誕生の場面では既に人工受精の登場によって、変容は現実的なものとなっている。
近代社会では、あるものが自分のものであるがゆえにその結果とされるものに自分の権利・義務があることが正当化されてきた。むろん実証科学からの決定論的な見解はあり、論議がなされてきたが、決着がつくことはなく、そうした未決定な状態で、むしろ未決定であるがゆえに、多様な実践がなされてきた。それが完全に可視化するという保証があるわけではないが、ある部分についてはその度合が高まる可能性はある。他者による能力の操作されることが可能になるとすれば何が効果するのか。可能でなければその技術は無意味なものである。従来、不可能であることがこの技術、技術の発想への反論として専ら持ち出されてきた。しかしそれだけですむだろうか。可能な場合、何が考えられるのか。
  まず先と同様これは人為的な決定・操作としてある。そして現在、出生時が主題になっている限りで、それは他者によるものである。その他者の性格が問題になる。教育環境・教育投資に関する論議と同様、不平等、不平等の再生産の問題がここでもまた指摘されるのだろうか。というか他者が決定に関わるということにおいて、他者の位格そのものが問題になる。
  第二にその当の者は、その者を基点として構成される社会はどうなるのか。この技術の発現自体が能力を巡る帰責の構造に支えられている。しかしその技術はそれを理念的に正当化してきた基盤を崩す効果をもつ。例えば、能力主義的な配分の原理はどのようになるのか。帰属原理と業績原理という言葉が用いられてきた。ここにあるのは業績原理ではある。けれども、それは帰属的といってよい属性によって決定されている。それは帰責の観念、帰責の構制全体の正当性を薄めることにならないか。ある者のために操作して作りあげていく(とりあえずは他者によって)ことによって、技術のある部分がかつてそうなったように、逆にこの場面から人が離脱していく可能性を開く可能性もないではない。
【Y】
  このように考えていくとして、生命工学に対して、またその産業化について、どのような視点をとることが可能か。検討すべきことがまだいくらもあり、ここで何かが言えるというわけではない。ただ一つ指摘するなら、政治的決定を介して社会の全域が強制力によってある状態に至る場合――これまでの批判は主にこれ、その徴候への抵抗としてあったのだが――より、可能性として考えられるのは、そして現実に多く生じているのは、局所局所での実践である。どこにどのように問題が現れるのかを見定めないと、こうした主題への言及・批判は実際に現れている場所を通り越してしまうことになるだろう。

■■■注
  議論を十分に展開するには準備が足りず、また報告の時間も限られている。そこで『報告要旨』とほぼ同内容の口頭報告用の原稿を用意し、それと別にいくつかの論点について覚え書き程度の注を置くことにした。ここから、考えを進め、まとめたいと考えている。
  まず、以下に記すことと報告との位置関係を簡単に述べよう。
  報告では、第一に近代社会で個体がどのように位置づけられているかという点、第二に行為の内容というより、行為が行われることに対する意味づけによって区画される諸領域という面から考察しようとしている。このテーマの場合、これでは不十分である。人は諸領域の中で、またそれを横断して、様々のことを考え、行い、その各々があるまとまりを形作ることがある。科学もまたその一つである。
  1で、行為と知識の一つの系としての科学について、そしてその外部との関係について、2で、その一部でもありまた別の側面も含むだろう生命に関する知と実践に関して、考えるべきこと、留意すべきことを数えていく。
  3で、報告でも触れる家族・政治・市場といった領域について、4で、やはり報告される主体という形象の変容の可能性について、補足的にいくつかを述べる。一部は繰り返しで、一部は具体的な事例の提示という体裁をとる。5では、このセッションのテーマにつつてわずかばかり言わなずもがなのことを並べる。
  このように広く範囲を設定したのは、現在、様々な問題・批判が錯綜しており、個別の論点はほぼ提出され尽くされているのではないか、とすればそれらの位置を、それらが絡まりあった全体がどこに行くのかということを、検討する必要があるのではないかと考えるからである。
  6で報告者自身のこれまでの仕事との関係でこの主題がどのように位置づくのかを簡単に述べる。また論文の要約を付す。
  なお今回は『報告要旨』で予告されている諸事実の紹介を行わない。また先行研究業績についても言及しない。中途半端に言及することにはあまり意味がないだろうと考えたからである。これについては7で資料の扱いについての補足として述べる。

■1■科学・技術
  科学という制度について検討すべきこと、そしてそれと社会との関係に関して検討すべきことは、非常に多いはずだ。この分野のことを報告者はよく知らないが、少なくともこの国の社会学者によっては、包括的な試みはなされていないのではないか。それは研究者達がよくわかっていて、今さら言うまでもないことだと思っているからなのかもしれないのだが、必ずしもそうと思えないふしもある。
  本格的な作業を行おうとすれば、重要な諸先行業績を踏まえながら、様々のことを慎重に検討する必要があろう。とてもここで十分な議論をすることはできない。とりあえず、私達の誰もが知っていることを整理する試みを始めることにしよう。ここではこの方法も有効性を持つはずだ。というのも、この場合は、知識がないことではなく、それが十分整理されていないことが大きな問題だと考えるからである。そこから考察を進めていけば、何を考えるべきかその見取り図を描けるかもしれない。以下には、おかしなところもあるはずだが、それはおいおい修正していくことにしよう。
■T科学は、それを記述・命題の集積として捉えるとき、それ独自の基準をもった体系としてある。これ自体を検討することはここでの主題ではないがいくつか記しておこう。
01ここでは、論理的な整合性が求められる。しかし論理的に整合的な体系ならいくらでも考えつく。
02事実による検証が重要な役割を果たす。これに対して「相対主義」が唱えられるかもしれない。ある知識はある道具で探した時にみつかるものだという意味ではそれを認めてもよいだろう。しかし、その基準、前提をとった場合に、それは動かしがたい事実として受けとめられる。
03法則があるという場合は、対象となる事象全てについて妥当することが求められる。
04また、観察者が誰であっても、妥当するものとされる。03を対象における普遍性とすれば観察者の側における普遍性ということになる。
05次にこうした知識は保存される。全く別の体系に移行してしまわない限り、蓄積、増加を可能にする。もちろん、移行する、変わるということはどういうことなのかということ自体問題になるのだが。
06以上は互いにどう関係するのか。例えば、普遍的であること自体は経験によっては立証できない。そこで反証といった基準が持ち出される。
  以上のようなことをすぐに思いつく。こうしたところを主題的に、精密に考えていくのも一つの方向だが、私達としては、これから述べることとの関係において、幾度かここに戻って考えてみるというふうにしたい。
07科学に対する批判者は全面的な批判に向かうことはあまりなく、その方法によって捉えられないものについては問題にしないということを批判したり、逆に、その方法によって何でも捉えようとすることを批判したりする。両者は必ずしも別のことを述べていない。要するにここでは、その方法によって捉えられないものが存在していることが想定されている。
08具体的にはどのような点が問題視されるのか。03については個別性を無視しているということ、04に関連しては見えるもの、観察可能なもの、実験可能なものしか相手にしないということである。「近代」科学という言葉が用いられる場合、もう少し狭い意味で捉えられているのかもしれない。(本来全体的なものを)要素に分解するということが指摘されたりする。
09繰り返せば、以上のような批判がなされうるのは、実は別の事実、あるいは別の知というものを――それがやはり科学と呼ばれるのか、そうでないのかということはあるにしても――明示的にか暗黙のうちにか想定してのことである。こうした点を含め、科学はその外部につながっていく。
  第一に科学研究は人の営みである。事実と命題自体に固有名が関わるということはない。けれども、少なくとも今のところ、事実は人の営みのなかで発見される。
  第二に科学は、直接にその営みに参加しない人の世界にも影響を与えうる。また、影響を与えることを見越して社会が科学界に影響を与える。一つには「技術」という側面を介して、もう一つは、知識、「世界観」という側面においてである。
  ここで社会科学は少なくとも二つの具体的な対象を見い出す。科学という知識の系自体についても、このことを考えながら、検討をしていくことができるということになろう。
■U第一に、科学界の動きがある。知の体系に人は関わらないが、科学研究はそうではない。人がいて行われる、また、費用が必要な営みである。
01 まず、それは現在職業的専門家の営みとして成立している。職業として成立するだけの社会的な背景があったからであり、契約者・被雇用者としての制約が課される。また、専門的なものとなるのは、知の総量・増殖の度合と人が知り、行えることの量との関係、その他の事情によるということになろう。この専門分化はますます進んでいる。
02 この世界の中で人は科学研究という営みをし、評価される。基準としてはその科学に内在的な基準が適用される。あるいはVに述べる場面と関係して、社会的な、少なくとも誰かに対する有用性もその一つになるだろう。こうした時に、研究の戦略が立てられるかもしれない。短期的に結果が現れる部分が狙われることがあるかもしれないし、その裏をかこうとする者がいるかもしれない。
03 同時に、研究にかかる費用をどこからか得る必要がある。01・02と同様な影響がこの場面を経て行使されるだろう。
04 以上は命題・事実の集積体としての科学の蓄積、展開を、ある特定の方向に、促すことになろう。
05 また、このことによって秘密ということが前に出る。Tでは秘密は問題になりえない。けれども、それが人の営みであり、オリジナリティが問題になることから、ある程度の完成をみるまで、それは秘密にされることがある。だがやがては公開されるのでなければ、その営為自体の対他的な意味は失われる。
■V 第二に、外部の社会であり、それに対する影響であり、与えられる影響である。知識と技術の二つの側面がある。
01 技術に関わる部分ではどうか。技術とは、それが加わらない状態と異なった状態を生じさせることである。そして誰かにとって有用であるという判断が働いている。だから、当然科学を動かす外側からの力が入ってくる。同時に技術が社会に影響を与える。
02 ある技術が直接的に可能にすることについては、有効性の基準は明らかであるように思われる。ただ、比較は比較対象を見渡せる時にだけ可能であり、その条件がどのようになっているかによって、意味が異なってくる。実現されていない場合でも、あることが可能であることを知っている場合と、知らない場合では意味合いが異なってくる。
03 知・世界観について。ある同じ対象について別種の知が既に存在することがある。もちろんそのこと自体に問題があるわけではない。しかし時として両者が矛盾すること――正確にこの事態を記述するとどうなるかはさておき――、少なくともそう見えることがある。
04この時にどうなるのかには様々な場合があろう。一つには科学の基準が適応される。それまでの認識が廃棄されることもあれば、並存との中間的な形態として「本当」と「見かけ」という形での調停がはかられることもある。これは社会が科学を真理の体系として科学を受け入れたということだろうか。それとも、他に説明の仕様があるだろうか。例えば両者の基準自体が別のものではないのだというような。
05こうした時、例えば、もとあった知は証明不可能な領域に追われることになる。そうした領域は大きい。例えば「何故よりによってこの私が?」といった疑問には答きれない部分が残る。分業ということになるわけだ。他方、あくまで問えないことは問わないという方向もありうる。
06そして対立が続く場合もある。だがそれはどのような意味での対立か。関係の類型とその構造をはっきりさせる必要がある。例えば、私達が知っているものとして、「イデオロギーとしての技術と科学」という把握があった。しかしこれは今起こっている事態をうまく捉えているだろうか。科学と生活世界の把握との違いといったかたちで捉えられるものだろうか。また、例えばこれは二つの科学として語られることでもあるのだが、要素論と全体論とは「思想」的な流れを示す符丁のようなものとして機能してしまっているように見える。これらは正確な述語なのだろうか。
07科学知識そのものは公開されるという原則になっている。もちろんこれは社会規範の問題である。これは知識そのものが普遍的であるということとは別のことだ。
08技術、利用という場面、利害が絡む場合には、完成されても秘密にされる場合がある。所有権が主張される場合がある。
09実際には知と技術とは貼り合わせになっているし、科学的知識は一つの分野で全体的なまとまりを有するものだから、07・08の間をどう考えるのかという問題が生じる。
1002・03で、そして01で科学・技術は私達の世界に変化をもたらすことになる。この時にどのような態度を取るべきであるとされているのか。04〜で対決を、07で公開をみたが、それだけではない。知らない権利を立てること、採用しないという選択をすることができる。しかし、それは一つしかない物体を壊し、なくしてしまうことと同じではない。
**以上のようなことを踏まえて、科学性善説だとか両刃の剣説だとかについて考えてみること。基本的には、Vの場面で捉えるべきものであることは明らかである。過去の議論にしばしば見いだされるのは、真理の探究自体を善であるとする、また、世界の制御可能性の増大自体を善とする、それ自体では根拠づけられない命題である。この社会での「真理」の位置、用法に注意を払いながら、T・U・Vの間の過程、関係を検討することがなすべきこととなる。
**またTの科学の知見が私達に伝わるのはマスメディアの報道等によってであったりする。だから、この伝達と変形の経路を検討することも、一つの課題になる。

■2■生命科学・医療
  人間に関する実証科学・技術は、実証科学一般とはまた異なった側面を持つと考えられる。科学・技術全般に関する考察の上でここに進むというのが正当な方法かもしれないがこれだけについて考えられることもあるはずだ。
  医学は科学であると同時に技術であり、社会的な要請という側面が大きく、体系的な知識というよりは個別的な知識・技術として動いているものの、基本的に上に述べたことを共有している。少し異なったところがあるとすればどういうところか。何を特異な、あるいは考察の上で重要な点としてあげることができるか。当然のことだが、人という対象が社会を構成している当のものだからだ。
  先端的な問題について何があるか、生命倫理に関してどのような主題があるか、等などについては既に様々な分類・整理がなされている。だからここではそれは置く。
01目標は社会の側から設定される。これは技術一般について言えることだ。技術としてある限り、その方向自体は社会から送られる。生活の実践に関係する限りで、その方向を科学自体が与えるということは本来ありえない。生と死の定義についても同じである。それは単にある状態に名をつけることではない。それを境にある扱いとある扱いとが分けられるのである。例えば脳死を死とするのは医学ではない。医学はある状態を確認し、その状態に脳死という名をつけることはあるかもしれないが、それを死と認めるのはあくまでも社会の側である。すなわちそれはある規範とある規範との争いであり、医学と社会との争いであるわけではない。
02では科学・技術そのものはここに関係がないかというとそんなことはない。ある技術の出現自体を制御しつくことはできない。またある技術が可能になることが、社会に影響を与え、別の社会的決定の前提を与える。報告で述べようとしたのはその一部である。一部でしかなく、他になすべきことが多々ある。
03まず誕生・病・死・身体についての観念を明らかにすることである。技術としても、知識としても、そこはある種の科学のように先行するものが存在しない空白の領域であるというわけではなく、もともと知と技術が存在する。それが人類学(医療人類学と呼ばれる分野もある)、歴史学、民族学、等々によって検討され始めた。
04後から近代医学と呼ばれる知と技術の体系が生成し、そこに入ってきた。ある知と技術の体制が別の体系にとって代わったということである。そして社会史と呼ばれる歴史学の一つの領域?によって別の制度から近代の制度への移行についての検討が開始された。
05けれども歴史的・民族学的事実そのものをいくら積み上げてもこの領域においては十分だとは考えられない。というのも、相対性だとか、多様性だとかについて、私達はいくらかのことを(言われる前から)知っていて、問題はそこにないと感じているからではないだろうか。相対主義をことさらに主張してそれでどうということはない。
06一つには01に関して歴史的な視座をもった、社会編成という視点からの考察を行うことである。例えば「優生学」を近代社会の一つの逸脱的な病理的な現象と考えていては、それを十全に捉えきることはできないだろう。これは報告者が、これまでの作業において取り組もうとしてきたことであり、報告でも指摘だけしたことである。だが、依然として十分に明らかになっていない部分であり今後の課題である。
07そして、常数とは言わないまでも、これを認めた場合にはこうなるはずだというところを、検討することができるのではないだろうか。それは本質論というのものではないが、ある前提をとった場合の必然的な過程を辿ろうとするもの、可能性の範囲を描こうとするものである。
08以上に関連して、事実性、実証性というものをどう考えるかである。例えば薬が効くか効かないかということはある。このことを無視した場合には、単なる好事家の仕事というに過ぎないかもしれない。このことをどう考えるか、答えは簡単なのかもしれないし、意外に難しいかもしれない。これをはっきりさせる必要がある。
*1身体といって、例えば、表面がある、また内臓がある。内側にあるものは、自分のものではあるが、日常的に意識することはない。ある手続きのもとに発見される存在である。可視性と不可視性といったこと、一義的決定の可能性と不可能性、こうしたことを考える必要があるのである。ある部分についてはその因果についての言明を控えながら、ある場
面についてはある技術が開く必然的な過程を辿った試みとして、私達は『臨床医学の誕生』を読むことができる。
*2人間の行為や内的状態に関して。その説明について実証科学の方法が妥当するか否かについては議論のあるところである。この領域のことをよく知っているわけではないが、以下のようなことが言われているようだ。人間の思惟・行為について、他の条件を制御した上で初めて実験が可能であるという前提のもとで、決定論が可能であるとも不可能であるとも結局のところ証明できない。また、行為について因果論が成立しうるのか否かという議論がある。関連して、意志−行為の因果を社会的な規範からの要請として解すべきだという立場がある。
  私達はこうした議論もよく検討しながら、引き継ぎながら、社会の中での人間存在の諸規定、そのせめぎ合いについて考察していく必要がある。
  ところが、社会学では、実証科学にかかる部分を常に超えた部分がある、それが人間だ、とか、社会には自己を反省する作用がある、それが他の系と違うところだ、といった言明が別の言い方によって何度となく繰り返されてきている。第一には、規則破りの自由といったことも含めた思考の道筋の可能性の境界、問いが内面にもたらされる時に答が決定不能になるという場面も含めた思考の道行の必然性、これらに十分な考慮が払われていないのではないか。第二に、自由と決定といった対立場面が社会的な場として設定されているにも関わらず、ここで社会学は社会学であることを辞めてしまって議論を繰り返しているのではないか。
*3また死について。例えば、現代人は死を忘れようとしているのだと言って、死という現象を再びある観念の中に包摂しようとする動き、等をみると、そういうことなのだろうかと思う。それは、死という観念によって現実を領有しようとする教義(「死を想え」)とどこがどう違うのだろうか。あるいは孤独な死と共同性という対比。どのような意味においてこういう対比が成り立つのか、また、そうした対比の置かれる場所は、この時代、どのようになっているのか。例えばある自然として死後の観念が抱かれている場合と、それを批判する地平が開かれた上で、ある意味で戻ることのできない場所に立って、死を観念として獲得することとは、異なるはずだ。
  こうした主題についての以上のような考察を「思弁的」といって軽視したり、社会学の外におくことは決してできないはずである。
09以上に付け足すなら、これは他に比べいくらかは検討が進んでいるのかもしれないが、いわゆる日常的な了解についての記述も十分だろうか。身体は精神の道具ではあるとされる。けれども、少しでも考えてみれば、道具であると思い切れるほど簡単なものでもない。身体論と呼ばれるものは――それなりの意図と意味はあったのだが――かなりの部分が、私達の身体像を記述する試みではなかった。どの水準でどうなのか、整理する必要がある。
**近代に始まった生命に対する接近の効果が明らかであった、少なくとも明らかであるとみなされていた間、批判はしばらく忘れられていたようにみえる。けれども、それは60年代の後半から、他の科学技術に対する批判と同時に、再び、新たに、始まった。それらはかなり多様なもので、しかも時には性質の異なったものが混ざり合っている。これを明らかにするのは一つの仕事である。
  科学内部で認められている基準をあてはめ、事実と違うという言い方が一つあった。また予想できなかったあるいは予想できたはずの副次的効果をもたらしたことが問題にされた。そして知識・技術が(医療に限ったことではないが)高度なものとなり、誰もが扱えるものではなくなったこと、専門家による管理が批判された。
  こうしたところから発して、より方法論的なところに向かう批判もあった。例えば、局所論に対して身体を全体として扱うべきであるという主張。また、西洋医学の体系に位置づかないいわゆる東洋医学の有効性の主張。これは局所論・全体論に関わるものでもあるのだが、またその処方はかなりの部分経験的なものでもある(両者は両立しないわけではない)。
  結局、これらは、既存の医学・医療が効かない、有害である場面があるという実際上の問題に促されたものである。今後はどうなるのだろうか。例えば二つの医学があるのだとすれば、既にその徴候が現れているように、折衷という方向に一番現実性があると思われる。けれども「近代医学」なり「近代的な生命観」だとかいうものをどのようなものとして受け取るとのかいうこと自体がまず問題である。それによって「限界」自体が変わってくるからである。
**医療や保健、福祉に関わる具体的な諸制度の問題。現実に直接関係するというがゆえに、大きな規模で取り組まれているのは当然のことではある。そして今なされている人間的な医療の主張のおおかたに異論はない。けれども、この報告・文章全体で述べようとしているように、具体的な諸制度の考察につながるものとして、今なされていること以外に考えるべきことは多い。

■3■
■T商品
01商品化が批判されるのは生命・生体と性である。批判されるだけでなく、一部は法律によって禁止されている。これらがいったいどのような理由によって妨げられているのか、よく考えてみる必要がある。
  ある行為が禁止されるのは、第一には、人権の侵害としてである。殺人であったり、暴行であったりするからである。
  けれども、ここに同意がある場合はどうか。行為に対する判断の基準を当事者に措定するか、それと関係なく一般について立てるかで異なってくる。後者をとった場合、自らの生命を失うような契約は無効ということになろう。
  さて、ここで問題になっているのは、さほどの生命の危険はなく、少なくとも形式的には同意がある場合だと考えよう。
  これに対し、一つには実質的な強制であると主張する立場がある。また、強制とまでは言えないとしても、いくつかの意味での平等に反するという指摘がある。男性と女性との間での平等。あるいは、売却の側に回らなければならないという事情、よりその立場に立ちやすいという意味での不平等。あるいは購入する際の、購入者側の財の不均衡に起因する不平等。
  しかし、こうしたことは、程度の差はあれ、大抵のものの売却・購入について言えることかもしれない。もう少し強い理由がある、付加されていると考えるべきである。
  少なくともこれは(例えば生命は)平等に享受できるものであるべきだ、という考え方であるのかもしれない。
  あるいは、金銭によって譲渡されるべきものではないというのだろうか。これでは最初の問いに戻ることになる。より積極的には別のメディアに媒介されるべきだという観念だろうか。例えば、家族という領域の成立、境界設定に関わるがゆえに、禁止が働くと考えることもできる。どの解釈が正しいとどのように決めるのかという問題はある。だが、少なくとも、ある理由が、ある前提のもとでは、商品化を禁止する理由とならないとして外していくこと、そこに残ってものを検証していくことは可能である。
02生体の一部についてはいくつかについて分けて考える必要がある。それがある人の死を意味するものはおこう。だがこれにしても、報告の最初に述べたように、自己の臓器の排他的な所有権が認められなければ、それを瀕死の臓器を移植すれば救われる病人に提供する必要はないとは言えないのだということは確認しておいてよい(このことを加藤尚武がある論文を引きながら述べている(『現代思想』88年8月号))。
032つある腎臓の1つを他者に移植することは、さしあたり生命に即時に直接影響を与えない。しかし危険の可能性は高くなる。次に、減るわけではないもの、言葉の正確な意味での自らの身体による生産についてはどうか。血液、骨髄、精子、卵子。そしていわゆる代理母。各々危険度は異なっている。各々の問題が指摘されている。
04しかも、上記のかなりの部分について商品化は現実に行われている。その現状とそれを巡る論議の検討はここでは置く。
05また、直接の交換とは言えないにしても、様々な場面で、費用計算というかたちで貨幣への換算が行われているとも言える。これについてはどう考えるか。
■U家族
01両性の合意。両性でなければならないのか。合意とは何か。何が合意されていると考えるべきなのか。ここでも、(例えば「性」といった)常数を置くのか、それをどのように扱うかが、問題になる。
02そして、当り前のことだが子供は契約によってそこに参加するわけではない。子のことは人権――それが何かが問題なのだが――を侵害しない限り、家族の内部に委ねられるということになってきた。
03以上のように言われるのも、このような規定が個々の集合においてなされるのではなく、外側から与えられ、特に法的な関係の中で与えられているから、また単なる名付けではなく、この規定によって、この単位の作動、その周囲の作動そのものが変わってくるからである。(この意味で、家族を定義する試みがいったいどこを狙っているのか、疑問なしとしない。)家族内の自治という原則は、こうしたものだということは確認しておくべきだ。すなわち、外枠が規定され、そして内部に立ち入る度合が規定されている。そのうえで存在するものである。
04対そして子の関係の少なくとも最初の部分は自然の過程の中にあった。ところがここに多様な可能性が生じる――もろちん今までも社会はいわゆる実子だけを成員として認めていたわけではないが。
0501で両性でなくてはならないのかといったことも、このことを背景として、また03の契機が入って始めて意味をもつ(でなければ一人一人が勝手にしていればよい。)どのような対処が、どのような原理によって行われるのか。
06このように区切られた単位の内部過程について。愛情という、他者に対する、そして自己に対する、もっぱら単位の内部に向かう、配慮の形式がここに与えられている。愛情というのは対価が決まっていないメディアである。また愛情自体は可視的なものでないから、それが可視的な行為とどう関係してくるのかということが重要な意味を持つはずだ。このメディアの性質については慎重に検討する必要がある。そしてこれだけが絆としてある時、この単位がそう安定したものとなることは難しい。
07またこのことと家族と家族でないものの境界のあり様は関係してくるはずだ。閉じながら、しかし外部からの作用を受け入れる単位となる可能性が出て来る。
08批判は、家族という結び付きを破壊する要因を探したりする。けれどもまず、その結び付きが何なのかということを考える必要がある。上のように考えてみれば、一定の割合で家族が崩壊していくのは必然的と言ってもいい。ところが社会学が行ってきたことは、正常な、普通の状態をおいて、そこからの偏りを記述することではなかったか。またさらに意外なことには、家族は第一次的な福祉追求集団であるなどと言うのだが、そのような概念・言説が一体どこに位置づくのかを述べていないということなのである。他方、法学は実態に即さねばならないだけ重要なことを述べているかもしれない。しかし、実定法の解釈に自己制限せざるを得ない。そういうわけで考えねばならないことがたくさん残っている。
09また、家族が普通とされていない形態をとった場合に生ずる現実の問題、精神的な不安定性であるとか、対社会的な引け目であるとか、について考えることの意義を否定しない。しかし、それはある制度を背景としているのであり、その苦痛、問題を引き起こしているもの自体を正当なものと認めるのか認めないのかということとは、問題が生じているということとは少し別のことである。
*1「普通」の場合を男A・女A→女Aが妊娠→女Aが出産という過程とすると、
  男A・Bの精子×女A・Bの卵子×女A・B・Cの子宮→10通りの可能性がある。
  実際にはAIH(夫からの人工受精):AAA、AID(夫以外):BAA、受精卵移植:ABA、代理母:AABという場合が多いが、実際に可能な以上の技術を組み合わせれば12通りが可能である。
  BBCといった場合、養子を迎えるのとどう異なるのか。人工受精においても、産むということが問題になっている限り、かえって「自分の子」を「産む」ということへのこだわりが大きい、「血」の観念に基づいている、促していると言えるのかもしれない。
  しかし一方で、それはかつては一体としてあった全過程を部分部分のものとし、従来の体制を壊しているのも確かだ。
*2例えばこの国では、腎臓の売買は認められていない反面、生体腎の多くは家族から調達される。このことをどう考えたらよいのか(実際に家族内で腎臓を提供したケースについての家族に生じた問題を追った研究はある。)
■V政治
01法は外枠を決めるということになっている。特に家族と政治との関係について基本的なところから考える必要がある。(ここでは、政治領域の構成、政治的決定過程自体というよりは、むしろ決定内容に関わると思われるかもしれないが、ある内容に関わるかどうかによって境界を自ら設定するということには注目したい。)
02何時を誕生とし何時を死の時点とするかということは、生命倫理と呼ばれる分野で論じられていることである。様々な論議のなされているこの主題についてここで論じることはできないが、一つだけ述べておこう。例えば出生前診断に基づく妊娠中絶について。胎児に人格を認めない場合にそれは殺人ではなく、殺人ではない以上、一般的な妊娠中絶と同様、許容されるとする考え方が一つある。だがそういうことだろうか。例えば、ある属性ゆえに「出生前」に「淘汰」されるとしたら、それはその属性を持つ人全体に対する差別であるということにはならないのか。
03それを法的・政治的に規制することの是非はまた別のことである。02・03の問題はこの国では優生保護法(特に障害を理由とする中絶の条項)をめぐってどういう態度をとるかという場面で、女性の運動と障害者の運動の双方が、ある部分を共有しながら、議論を戦わせてきた、というか方向を模索してきた問題でもある。
04そして政治領域は、より積極的な作用を及ぼしている。境界の設定自体が方向を与えるというだけでなく、より具体的に積極的に一人一人に関与する行いである。まず誰もが思い出すのがナチズムということになり、批判的主張においてもこの語が頻繁に使われるのだが、むしろより重要なのは、日常的なかたちで、さほど常軌を逸してはいないかたちで行われてきた、行われている事々である。これに関しては、既に米本昌平の仕事を私達は知っているが、それで終わりというわけでもないだろう。報告にも述べたように、それを跡付け、位置を確かめるのが一つの課題である。

■4■
01いわゆる能力主義という事態自体は、労働力が商品としてあるということから必然的である。すなわち商品の買い手にとっては、商品の質は問題であるが、他方、それに関係のない商品の来歴自体は関心の対象でない。
02問題は、こうして評価される対象が、売却を決定する者であり、得たものを消費する者であるということである。始点であり、終点であって、そこである商品とある商品の間に差があるという以上のことが生じる。このことから実際上の配分の不平等とそれに対する疑問が提出されるのであり、他方、それを護持しようとする者にとって正当化の必要が現れるのである。
03したがってこのような問題には、観念としての帰属−帰責をどう理解するかということと、市場をどうするかという二重の問いが含まれている。実際、その援護も、原理――こは他の様々な倫理・規範がそうであるように底抜けなのだが――にもっていくのでなければ、ある配分機構をとった場合の相対的な有効性を主張するものだった。
04とは言っても、あまり理不尽でないことをそれなりに納得させる必要はあった。底抜けの原理に繰り返しにしかすぎないわけではあるが、それが他ならぬ私に属することではあれば仕方がない、という観念があり、それが実際そうであることが信じられている必要があるわけである。
05この間隙に社会学における数少ない道具立ての一つである「帰属主義」と「業績主義」という二分法も成立してきたわけだ。
06しかし、経験的な因果がある、何か因果があるらしいことは、誰もが考えることであって、実際その測定の試みがなされてきたし、その線に沿った様々な実践がなされてきた。その歴史的な流れについては、不十分ながら論文@(→6)で扱った。ここで、経験的な因果がよりはっきりしたらどういうことになるのか。
07第一には、その者のところで因果連鎖が止まっていたのが、その背後、決定者が問題になるということである。例えばその場所に位置する家族とは何か。
  SFでしばしばとられるのは、独裁的な決定者がいて、それが大衆を操作・支配するという構図、利用する階級と利用される階級とが分離されているという構図である。すなわち道具と道具の制御主体とに分離されるのである。これに現実性が全くないというのではないが、実際はそんな簡単なかたちにはならないだろう。
  まず操作は局所局所で、例えば家族の内部で、行われるだろう。このことをどう考えるかは、独裁を批判するよりは難しい。
  そして現れる者は、ある種の能力を持つと同時に、それだけでなく、普通に反省し意識を持つ人である。
08第二には、その者自身の位置がどういうことになるかということである。
  ところで、以上は、商品として作りあげるというだけではなく、買われる商品という側面を含んでいる。むしろこうしたところから考えていった方がよいのかもしれない。それはどのような財に似ているだろうか。希少な財でもあるが、複製でもある。高価な版画のようなものかもしれない。
  一つの可能性は、一体となっていた二重性を分離する方向に、すなわち例えば労働の場に提示される私とその外側にある私を分離する方向に、進むということである。(二重性自体が解消されるとは考えられない。)すなわち、部品のようなものになった時に、その部品をそろえ、性能をあげることにますますいそしむことになるのかもしれないが、あるいはそうしたところから離脱し始める、というか、ある力能を持つ部分を、持つこと持たないことを、「私」そのものとは別のことと考え始める可能性もあるということである。
09こうしたことを考えるために、私達が今現実に知っていること、身体に対する顧慮について考えてみてよいかもしれない。そこにはどのような思想が含まれているのだろうか。ここにはむろん鍛錬という観念が濃厚に含まれている。しかしそれがもっと物質的な、外科的な技術に移行する時、そこに何が生ずるだろうか。一つには例えばドーピングの問題にみられるように、鍛錬とか才能とかいった圏域からの批判が生じるわけだが、それを外してみた時にどうかということである。
  こうして考えていくことを非現実的と済ますわけにはいかないと報告者は考える。08に述べたことに近似する現象が既に生じていないとは言えないと思う。近代の社会の中での近代の辿る道の一つの方向を例えばこのように考えることもできる。いずれにせよ、主体という形象を、何か個々人に観念として実在するものとだけ考え、それを近代に本質的なこととして捉え、その実体性が信じられなくなったり、模像と化したりすることをもってその時代の終わりと考えることはできないと考える。虚構であるからといってその虚構が組み込まれる制度がなくなるとは限らない。どの層で、どの場面でどう規定が与えられるのか、私達は慎重に検討する必要がある。

■5■巨大科学・技術と産業社会
01今回は、巨大科学と産業社会というテーマに直接に関連して報告することが出来なかった。今言われていることだけを少しまとめておこう。巨大というのは、まず巨大な費用がかかることを指している。それを担えるのは巨大な企業、でなければ国家だけである。このことが固有の関心事になっているとすればそれは何故か。国家に関しては、まず、租税の負担の主体として無関心でいられないということもあるが、それだけではない。それは人々の社会の行方に直接に関係していると感じられているからだ。国家に関して取り沙汰されているのは、軍備、国家威信につながる技術開発であり、その目的の妥当性、他の要件と比べた重要性がまず問題にされる。次に企業では、その研究・応用を促すのは利潤であるが、このことによる様々な危険性が指摘されてきた。しかもここには、機密、秘密の問題があり、情報の公開を巡る問題がある。また、高度の技術、巨大な経費を必要とすることによる、国家間の技術格差に起因する国際的な格差の問題の指摘がある。このテーマではいくつかの優れた研究があるが、この報告で主題とする医療、バイオテクノロジーの場合には、合衆国の動向を紹介した著作がある他は、より実業に接近した文献がいくつも出ているのを除けば、必ずしも検討は十分ではない。
02この分野では、産業化が一時非常に話題になった。合衆国などでは実際いくつかの企業が新たに設立されたし、日本では既存の企業がこの分野への進出を始めた。予想されたほどの成果がすぐには上がらなかったので、いくらか下火になったが、消え去ったわけではむろんない。
03バイオテクノロジーと言われるものの多くは農業・工業への応用が大きく、この一部については環境の問題として考える必要があるし、また実際それがなされている。
04また医学研究等にも関連する遺伝子組換え実験等についても、やはり安全性、環境、生態系の視点からの問題指摘があり、社会運動が方々で行われている。
05直接に生体としての人間の利用に関わる部分が、大規模な政策・産業として成立するかどうかについてはどうか。今のところ、臓器移植が大規模なかたちで産業化されているかというとそんなことはない。かといって可能性がないわけではない。まず先に述べたように、商品化されることがどういうことが、どのように受け取られているかという点を検討するべきだ。
06より広くとって、健康に関連する分野が、ますます巨大な市場とみなされ、様々な商品の開発がなされ販売がなされることは間違いない。ところでこの領域に関して、欲望の扇動についての批判を言い立てても始まらないと私達は感じていないだろうか。悪徳商法や誇大宣伝を取り締まることはできる。問題はそれからである。
07またそれは、国家政策としてもより大きな比重を占めていくだろう。既に、一貫してそうだったとも言いうる。この動向についても、私達は知り尽くしてはいない。

■6■
01以上述べてきたことの大筋は、論文@からDにかけての仕事の直接の延長上にある、現代への、現代からの展開ということになる。これまでの駆け足で歴史的過程を追おうとした作業には、さらに事実について検証すべきこと、論理について考察すべきことが多々残されているのだが、一度先に進んで眺めてみたいと考えたこともあり、今回の報告となった。残した仕事はこれからも続けていくことになる。
02以上の論文では諸領域の分化・分割という視点は明示的には導入されていない。これについてはFGでごく簡単にふれたにとどまる。この、社会学の最も重要な課題についても、十分な検討がなされているとは言えないようだから、以上の注でばらばらにあげてきたいくつかの論点も含め、少しずつ考察を進めていこうと考える。
03今回のこの主題についての報告は、述べた通り、考えるべき点をいくつかあげたにどどまる。ここまであげてきた中で、出来るところから、仕事を進めていく。
04まず、論文@からDでの仕事と共通する部分でもある、歴史的検討があげられる。ただこれについては資料上の制約が大きい。
05そして科学・技術の現状については各々についてまとめられるところからまとめ、個々の論点を明確にしていく。
06より概括的な検討は、01・02の作業と多くの部分を共有することになるだろう。
  とはいえ、可能な作業量には限りがある。まず、今回の報告を敷延した概括的な論文が書かれることになるかもしれない。
  幸いなことに BIO-SOCILOGY ? を志す研究者が幾人も現れてきている。これからこの分野の研究は、まず歴史的な位置の検証――それは単に史実を追い、変化を記述したものではないはずだ――から始まり、充実していくと思う。
  以下、別に必要があって報告者がこれまでに書いた文章の要約を作成したので、参考までに付す。[要約→省略 1992.11]

【著書】  『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』
【論文】  @「主体の系譜」
      A「制度の部品としての「内部」――西欧〜近代における」
      B「逸脱行為・そして・逸脱者――西欧〜近代における」
      C「個体への政治――西欧の2つの時代における」
      D「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む」
      E「「出て暮らす」生活」
      F「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開「 」
      G「接続の技法――介助者をどこに置くか「 」
【学会報告】1.「個人への「帰属」について」
      2.「身体障害者の自立生活をめぐって――介助の問題を中心に「 」
      3.「生命工学への社会学的視座」

■7■
01何もかも知っていないと仕事ができないというわけではない。だとしても、私達は最低限の事実を知る必要がある。また、簡単に知ることのできることに手間をかけるのは無駄でもある。
02それ相応の――といってもたいしたことはないが――基礎的な知識が必要とされるというだけでなく、秘密に妨げられそう簡単に接近できない部分がある。本質的な要素として秘密が含まれている領域に対してはそれに対応する方法論が必要だろう。
03新聞・雑誌等、二次的な情報については、基本的に接近可能である。かえって膨大な量をどうこなすかという問題がある。またこれを報道・伝達に固有の側面から見ることも可能である。そういう研究業績もないではない。
04社会調査、世論調査が散発的になされ、相互に連接せず、その意義が薄くなってしまうことはしばしば経験するところである。どのような調査が過去になされているのか、把握しておく必要がある。
05さて手近なところから始めるとして、接近の体制をどうするか。報告者は現在、文献リストの作成と基本的な事実に関するデータの集積を行っている。個人的に行う場合の限界もあるだろう。分類、整理方法等、いろいろと検討し、また研究資金の都合がつけば、商業化されているデータベースの利用も含め、さらに検討を進め、その可能性について考え(商業化されているデータベースを個々人が必要に応じて使うのが一番効率がよいという結論になるかもしれない)、何かよい方法が見つかったなら報告し、出来れば実際にデータを提供していきたいと考えている。
  全く個人的なものとして作成中のものだが、何かの役に立ちそうだということであれば、以下の資料を提供する[省略→本資料集冒頭の資料リストを参照のこと 1992.11]。もちろん常に更新の必要があり、継続していくにはかなり手間のかかる作業であることは確かである。協力して下さる方があれば、また、一部については引き継いで下さる方があれば、歓迎する。以上、下記に問い合わせて下さればもっと詳しくお知らせする。



立岩 真也 

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