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「脳死と臓器移植:心のケアを」

玉井 真理子 1999/03/01 『信濃毎日新聞』掲載



 先日、臓器移植法施行後はじめて法に基づく脳死判定が行われ、家族の同意も得て脳死状態からの臓器の摘出と、そしてその臓器の移植が行われることになった。
 脳死状態からの臓器摘出に際しては、直前までの最善の医療と十分なインフォームドコンセントが必要である。臓器の移植に関する法律の運用に関する指針(ガイドライン)には、「法に基づき脳死と判定される以前においては、患者の医療に最善の努力を尽くすこと」とある。今回のケースでも、臨床的に脳死と判断されるまで、そしてそのときから第一回目の脳死判定で「脳死とはいえない」という結論が出るまでの間、患者は最善の医療を受けていたのだろうと想像するが、そのことに関する情報公開が今後十分に行われる必要がある。
 また今回のケースでは、地方であったことも手伝って患者の住所・氏名はすぐにマスコミの知るところとなり、自宅にまで取材陣が押し掛けたという。情報公開とプライバシーの保護という二律背反を、どうバランスよくシステムに組み込むかという問題もある。
 さらにガイドラインには、「家族の承諾の任意性の担保に配慮し」と明記されている。脳死判定やレシピエントの選定などと同等にかあるいはそれ以上に重要なのが、この「承諾の任意性」である。しかし、どんな方法で任意性が担保できるのかに関しての具体的な示唆はない。
 主治医は、臓器提供の機会があることを家族に説明する際に、「説明を聴くことを強制してはならない」ことになっている。しかし、そこに無言のプレッシャーがあることは想像に難くない。臓器移植コーディネーターも、家族の眼には移植をすすめる人としか映らないかもしれない。
 家族の心情は実に様々である。せめて心臓あるいはその他の臓器が誰かの体のなかで動いていてくれると思うことで癒される場合もあれば、逆に「心臓だけが今でもあくせくと働いているかと思うと切ない、あの人のからだと一緒に安らかに眠らせてあげれば良かった」と、あとから思う場合もある。両方の想いが交錯している場合もある。時間とともに変化する場合も少なくない。
 柳田邦夫氏は、死を「一人称の死=私が死ぬ」・「二人称の死=あなたが死ぬ」・「三人称の死=誰かが死ぬ」の3つに分けているが、きわめて身近な存在であった家族を亡くすことは、単なる「二人称の死=あなたが死ぬ」にとどまるものではない。あなたとの関係において存在していた私の一部分、たとえば夫との関係において存在していた妻の部分、子どもとの関係において存在していた親の部分を、失うからである。一部ではあるにせよ、まぎれもないこの「わたしが死ぬ」のである。
 身近な人を失うとともに、その人との関係において存在していた自分自身の一部をも失う経験をした人は、深く傷ついている。こうした傷を癒すプロセスは、グリーフ・ワークと言われる。亡くなった人の思い出を語り、残された身の辛さを嘆き、どうして死んでしまったのかという理不尽さを訴える。どうして?という問いにどんなに正確な医学的説明がなされても、どうして死んでしまったのか?とその理不尽さを訴えずにはいられない家族の心情がある。こうした様々な心の動きを抑圧せずに、悲しみを十分に悲しむのがグリーフ・ワークである。
 家族の心の問題にもっと眼を向けてほしい。揺れる気持ちを抱えながらも、本人の意思を尊重して臓器を提供して良かったと、ある種の肯定的感情とともに家族に納得してもらえない限り、移植医療は定着していかないだろう。


REV: 20161231
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