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遺伝子診断と知的障害(今月の問題)

編集委員 玉井真理子

『手をつなぐ』に掲載される原稿の草稿
(Sunday, September 28, 1997着)



 「遺伝子」という言葉は、今や「遺伝子」は、「遺伝子が『遊べ』と言う」という旅行キャンペーンのポスターや、「キムラの遺伝子」というカップラーメンのコマーシャルまで、アイドル系タレントの笑顔の大写しとともにマスメディアのなかに登場しています。ひとたび「遺伝子」と言うと、「遺伝」という言葉の持ついささか暗いイメージとはちがったおもむきになるのは不思議です。では、「遺伝子診断」、「遺伝子検査」となるとどうでしょうか。
 医学・医療の分野では、様々な病気の原因となる遺伝子が次々と発見され、病気の種類も、がんや、さらには心臓病・高血圧・糖尿病などの生活習慣病(かつて“成人病”と言われていたもの)の一部にまでひろがっています。いわゆる遺伝する病気として知られていたものは数多くあり、それらの病気を引き起こす遺伝子がつきとめられつつあるというだけではないのです。こうした病気に関して、症状の出ている人が確かにその病気であることを遺伝子を調べることによって確かめ(確定診断)、病気への対処方法を考えたりするするわけです。遺伝子検査はさらに、病気になる前にその病気になる可能性がどのくらいあるかを予測したり(発症前診断)、ときには生れる前の胎児に関してそれを行ったり(出生前診断)することにも使われることがあります。もちろん、そのようにして知ることができる病気の種類は、増えてきたとはいっても
 まだまだ全体から見ればごくわずかです。したがって、あくまでも、普通はこの遺伝子がこの病気を引き起こすという関係がはっきりしている特定の病気に関してだけではありますが、その特定の病気の原因遺伝子あるいは責任遺伝子と言われるものを調べることになります。そうした検査そのものが「遺伝子検査」であり、単に検査をするだけでなくその検査の結果をつかって医師が病気の診断をするのが「遺伝子診断」です。
 「遺伝子」というのは、体をつくっている設計図のようなものですから、遺伝子を調べることによってわかるのは、「現在」にとどまるものではなく、ときには「未来」でもあります。今あなたのからだの状態はこんなふうですよ(主に病気のこと)、ということを少しでも正確に知るというだけではなく、病気になるかどうかも含めてあなたのからだは将来こんなふうになっていくでしょう、ということを知るためにも使うことができるのです。
 さて、医学的には「知的障害」も「病気」の範疇に入ります。もしそうならずに済むものならそうならない方法(予防)を、もしそうなってしまったらそうではない状態にもどす方法(治療)を選択するのが当然であり、少なくとも多くの人がそのような選択をし、しかもそのような選択をすることは妥当なものとして世の中に受け容れられれている、という意味において、「予防」や「治療」の対象であるわけです。たとえば、フェーニールケトン尿症などの病気を新生児のうちに確かめ、特殊なミルクで育てることによって「知的障害」を引き起こさないようにする方法は、社会的に受け容れられれています。しかし、そのような病気はむしろ希です。そのことがわたしたちに様々な問題を投げかけています。「診断」が「治療」や「予防」に必ずしも結びつかないことがもたらす問題であり、「遺伝子検査」の登場によって「診断」がより正確にときには早い時期に可能になったことで、その問題が膨らんだとも言えます。そのひとつが、出生前に胎児(ときには受精卵)の遺伝子検査をするというものでしょう。
 たとえば、脆弱X症候群という「知的障害」を伴う病気がありますが、一時期これが受精卵の遺伝子検査の対象のひとつとして名前が挙げられていました。また、ダウン症の症状のひとつである「知的障害」と関連があるかもしれないという予測のもとに、その遺伝子の研究が進められていたりします。それらは、「知的障害」という状態によってもたらされる、少なくとも持たれされるであろうと多くの人が信じている「本人の不幸」と「家族の負担」という決まり文句で正当化されているように思います。しかし、知的障害者団体がその運動のなかで繰り返してきたのは、「知的障害だからとしてもそれは社会的に解決されるべきものである」ということです。遺伝子検査・診断はごく一部の病気にしか適応されてはいませんが、その進展を一部で支えている論理が、旧態依然とした「本人の不幸」と「家族の負担」であるとしたら、運動の理念の根幹に触れものです。知的障害者の人権擁護団体として、そのような視点をもって遺伝子検査・診断を含む先端医療技術の行方を注意深く見守る必要があるでしょう。

以上

以下は、字数の関係で削除した部分です。

 知的障害を理由に含んだ出生前診断と選択的人工妊娠中絶が、苦渋に満ちた個人の選択としてぎりぎりのところで容認され、だれもその個人の選択を非難できないのだとしたら、それは「その病気をもって生れてきても大丈夫」・「その病気をもった子どもを産んでも大丈夫」というメッセージを確かに受け取れる状況の中でその選択が行われたかどうかではないでしょうか。
 しかし、将来どんな病気になるか知りたいので「遺伝子検査」を受けたいと言っても、簡単に受けられるものではありません。また、仮に受けたからと言っても将来どんな病気になるかが、無制限にわかるわけではありません。すでにあらわれている症状や遺伝子を調べる以外の検査の結果から、その病気が遺伝性のものではないかと考えられる場合や、あるいは、家族や血のつながった親族が確かにそのような遺伝性の病気であるか、その可能性が高い場合に限って、はじめて「遺伝子検査」を受けることができるわけです。


REV: 20161231
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