HOME >

「新生児医療とインフォームドコンセント――患者家族の立場から」

玉井 真理子 1996 Neonatal Care 1996年9巻6号、492-494



新生児医療とインフォームドコンセント−患者家族の立場から−

信州大学医療技術短期大学部 玉井真理子

Neonatal Care 1996年9巻6号、492-494

■新生児医療における「患者」の自己決定権

 医療における患者の自己決定権、すなわち、従来は医療者の裁量の範囲であったところの治療方針に関して患者本人が自らの自主性・主体性に基いて意見を述べ、判断し、そして意思決定することの重要性が認識されるようになってきた。
 しかしその一方には、意思決定できない患者もまた存在する。ことに新生児にとっては、意思決定することも、意思決定できない状況をあらかじめ想定し条件付きで意思決定の権利を放棄することも、あるいは自らの意思で特定の他者にその権利を委ねることも、いずれも不可能である。新生児の権利はあくまでも結果的に他者に委ねられることになるのであって、患者本人である新生児本人の、一般的な意味での「意思」がそこに介在することは決してない。
 この点が、まず、「新生児医療における『患者』の自己決定権」をめぐる議論の独自性であろう。そもそも、「新生児医療における『患者』の自己決定権」という言い方自体が語義矛盾であると言えなくもない。
 一般に、医療内容に関しての理解能力・判断能力を有する患者に対しては、医療者は患者本人に説明し、患者本人の承諾を得たのちに医療行為を行うものとされている(緊急の場合にはこの限りではないが)。小児医療の分野では、親権者(父母)・後見人などの法定代理人に対して必要な説明をし、承諾を求めることになる。
 しかし、後者の場合、医療行為を承諾するにしても、あるいは拒否するにしても、承諾する者と承諾することによって治療を受けることになる者、あるいは拒否する者と拒否することによって治療を受けなくなる者はいずれも別人格である。そこで、患者が小児の場合には、何歳から前述のような理解・判断能力があるとみなすのか、ある年齢ではどういった内容をどの程度理解し得るのか、個人差をどう考えどう評価するのか、といったことがしばしば問題となる。
 新生児医療では、患者本人が新生児であるという絶対的な制約から、こうした患者本人の理解・判断能力はそもそも問題にはなり得ないものの、本来別人格であるところの親権者(父母)・後見人などが法定代理人であるという点においてはなんら変わるところがない。

■「親に最終判断をせまらない」という原則

 新生児医療においては、いったいだれが患者である患児の最善の利益を代弁し得るのだろうか。とりわけ、いわゆる生命予後が不良である児の治療を停止する、あるいは積極的な治療を差し控える(以下、「予後不良児に対する治療停止・制限」とする)といったような重大な意思決定が求められる場面で、その決定をなし得る主体として現実的な妥当性を備えているのは果たしてだれなのであろうか。
 まず第一に、「それは親に代表される患者家族である」という回答がある。すなわち、「最終的には患者家族が意思決定をする」という原則である。
 第二に、「それは医師に代表される医療者である」という回答がある。すなわち、「最終的には医療者が意思決定をする」という原則である。
 第三の可能性としては、倫理委員会、裁判所などの機関も考えられよう。ただし、本邦においてこうした機関に前述のような問題が持ち込まれたことはない(★文献1)との報告があり、今後の方向性のひとつとしてはともかくも、とりあえず現実的な選択肢とは考えにくい。
1)医療者と患者家族との間のコミニュケーションの特性から
 第一の立場に対して第二の立場からは、次のような反論があり得る。いわゆる予後不良児に対する治療停止・制限が問題になる場面において、実質的には患者家族の判断によって児への対応が方向づけられことははない、あるいはきわめて希であることを根拠とした反論である。
 なぜなら、家族の判断は医療サイドの判断に大きく左右されるからである。それ以外の選択肢がないような形でしか伝えられない場合は言うに及ばず、それ以外の選択肢もあるのだとうことが仮に伝えられたとしても、医療サイドで望ましいと判断された選択肢以外のそれを家族が選ぶ状況というのは、もちろんまったく考えられないことではないが、現実に決して多いとは思えない(★文献2)。であるとすれば、一見すると家族が最終的に意思決定しているような状況も、実際は医療サイドの決定を家族が単になぞっているに過ぎない状況ということになる。
 さらに、社会心理学のなかで導かれた説得型コミュニケーションに関する知見として、次のようなものもある3)。それは、情報の提供者側が自らの主張に対する反論や自らの立場が不利になるような情報を提供したとしても、それは、論理の展開と最終的な説得という目標のために有効であるという予測が成り立つからに他ならず、説得力を高める目的以外で自らの主張に対する反論や自らの立場が不利になるような情報を提供することはないというものである。
 医療サイドでおおかたの結論が出ている場合、医療者は、医療サイドの結論に患者家族が同意してくれることを暗に願っている(そのことに対してどれほど自覚的であるかは別として)であろう。児の生命予後が不良であり、治療停止・制限が問題になっていることを家族に伝えなければならないだけで充分にストレスにさられているであろう医療者が、その問題をめぐって家族と意見が対立するという事態で感じるストレスは、おそらく前者の比ではないであろうと推測されるからである。そのような前提のもとに行われる説明は説得型コミュニケーションになりがちであり、むしろ不可避的であるとさえ思われる。
 以上のように、新生児医療、とりわけ予後不良児に対する治療停止・制限が問題になる場面において医療サイドと患者家族との間に交わされるコミュニケーションの現実に鑑みると、「最終的には患者家族が意思決定をする」という原則は机上の理念であるかのようにも思えるのである。
2)患者家族にとっての医療情報の特性から
 また、次のような問題もある。
 医療情報のなかには患者および患者家族によって理解されにくいものも少なくないが、とりわけ新生児医療におけるそれには、患者が新生児であるがゆえに派生するいくつかの問題が必然的に付随している。
 ひとつは、疾患そのもののわかりにくさに起因していると思われる。治療停止・制限といったような重大な意思決定を迫られるような場面に登場するのは、生命予後がきわめて不良な疾患であり、そうした疾患を有した児を通常の社会生活において実際に見聞きすることは皆無に近いのが普通であるという事実がある。したがって、患者家族にとって、眼の前にいる医療者から伝えられる情報がすべてであると言っても過言ではない。患者家族は、当該の疾患についての情報をごく小数のかぎられた医療者から与えられるしかなく、加えて、それらの情報の適切性について判断するなにものも持ち合わせてはいない場合がほとんどである。
 もうひとつは、児が重篤な疾患を有してこの世に生を受けて間もないということは、児の家族はそのような疾患を有した児の家族になって間もないという事実である。思い描いていた健康な児という対象を突然失い、多くの家族は悲嘆と混乱のなかにある。冷静な状態のときに時間をかけて説明されれば理解可能な情報であっても、およそそのような余裕は失われているであろう。生命予後の不良な疾患を有した児がわが子として出生したという事実を事実として受けとめきれない家族の場合、心理的防衛反応として児に関する情報を理解することを拒むことさえ考えられる。最終的な意思決定のためにその時点で考えられる限りの適切な情報がよしんば患者家族に与えられたとしても、医療者が期待するように患者家族が理解できるとは限らないのである。
 したがって、新生児医療において治療停止・制限といったような重大な意思決定を迫られるような場面で、医療者によって提供されなければならず、同時に患者家族によって理解されなければならない医療情報は、一方では当該の疾患そのもののわかりにくさによって、もう一方では悲嘆と混乱のなかにある患者家族の心理状態によって、不十分にしか処理され得ないことが予想される。

■患者家族にとっての「意思決定しなかった」という重荷

 先述の1)に加え2)ような点も考慮すると、「家族が最終的に意思決定をする」という原則はますます机上の理念であるかのように見えてくる。最後のひとことを患者家族に言わせているだけで実質的には医療者が判断しているのだから「最終的には、医療サイドが意思決定をする」という原則の方が実態に見合った原則である、と主張することは、ひとまずできるかもしれない。
 たとえば、仁志田(1991、★文献2)は、Duff(1973・1979、★文献3・4)の作成した基準を一部修正した形での4段階のクラス分類に基づいて、倫理的観点からの議論と治療方針の決定を行っていることを報告している。
 こうしたクラス分類には、現在行っている、そして、これから行おうとする治療の内容を相対化できるという利点がある。同一の疾患でも、その症状の重篤度や進行の程度、あるいは合併しているその他の疾患などによって、病態および生命予後は異なるため、単なる疾患名によってではなく、個々の患者の病態および生命予後によって治療方針は決定される。したがって、治療しないことも含めた治療方針、すなわち、どの程度積極的な治療を行い、どの程度治療を差し控えるかという内容をも含んだ形での広義の治療方針が、クラス分類によってある程度は相対化されるであろう。
 さらに、仁志田(1991)は、こうした治療方針決定の過程においては、「明確な意見を持つ家族おいては、当然その意見が優先される」としながらも、「原則的には家族に最終判断を迫らない」とし、それが欧米とは著しく異なる点であることを指摘している。理由は、「日本においては、特に医学情報も乏しく心の準備も不十分な新生児医療においては、医療側がどのような考えで接するかが家族の意志決定に大きな影響を与えるからであり、それならば、意志決定という一生の重荷を家族に負わせるより医療者が負うべきであろう」というものである。
 しかし、患児に対する治療を停止する、あるいは、差し控えるという意思決定をしたことが家族の「一生の重荷」になるのなら、同様の意味で、意思決定しなかったことも家族の「一生の重荷」になり得るであろう。たとえ、実質的には医療サイドの判断をなぞっているにすぎず、決定の内容が結果的に同じであっても、最終的には自らが納得して決定したのだと患者家族が認識できるような状況の方が、医療サイドから提示された決定を単に承諾したのだという認識しかもち得ないような状況よりも、長期的にはむしろ精神的負担が軽くなるということも十分考えられる。
どちらがより過酷な「一生の重荷」であるかという問いは、おそらくここでは不毛であろう。「どちらが、より〜」という問いには、患者家族の個別性に忠実になれば、いかようにも答えられるからである。ある状況におかれたある家族にとっては「意思決定する」ことが「一生の重荷」になるかもしれなし、また、ある状況におかれたある家族にとっては「意思決定しない」ことが「一生の重荷」になるかもしれない。問題の性質上、一定の法則は成り立たないであろう。
 ここで言い得るのは、意思決定をしたことが家族の「一生の重荷」になるかもしれないと斟酌することは、少なくとも「家族に最終判断を迫らない」という原則にとって甚だ希薄な根拠ではないだろうか、ということのみである。

■何を原則とするか、を自覚すること

 先述の通り、倫理委員会や裁判所のような第三者的機関に予後不良児に対する治療停止・制限の問題が持ち込まれたことがないとすれば、最終的な意思決定の主体は、医療者か患者家族かということになる。
 「最終的には、医療者が意思決定をする」、すなわち、「家族に最終判断を迫らない」ことを原則にしてしまうこととは、患者の自己決定権を尊重するという流れに逆行することにならないだろうか、という危惧がまずある。
 一方で、「最終的には、患者家族が意思決定をする」ということを原則にすれば、医療者からみて児にとって当然必要と思われる治療を家族が拒否した場合、それも認めるのかという問題が起こるであろう。
 どちらの立場に立つとしても、難しい問題であることに変わりはなく、原則論だけで現実が対処できるとも思えない。
 しかし、あくまでも何を原則とするのかは、具体的な対応の仕方に反映される。さらに、あることがらを原則とし、そしてその原則について自覚的になることは、原則が必ずしも当てはまらない事例についての対応を検討する際にその思考過程に微妙な陰を落とすであろうし、緊急避難的対応が求められる場面での臨機応変な対応のなかにも当然反映されることになるであろう。
 したがって、今まさに何を原則としているのかということに対しては、各々の医療者が十分自覚的になっている必要がある。同時に、あることがらを原則とした場合に、当然対比されるあることがらは原則とはされないのだという事実にも自覚的でなければならない。さらに、ある原則を適応させて現実に対処していることに自覚的になるということは、そのその原則を原則としていることによってもたらされる、あるいはもたらされる可能性があるリスクの現実についても、同時に自覚的である必要がある。
 具体的に言い換えるなら、「最終的には医療者が意思決定をする」すなわち「家族に最終判断を迫らない」ことを原則にすれば、これに対比される「最終的には患者家族が意思決定をする」ことを原則にしないということになる。「最終的には患者家族が意思決定をする」ということがもはや原則でなくなるとすれば、それは「患者のため、家族のため」という大義名分のもとに医療サイドの裁量の範囲が際限なく拡大される道に突破口を開くことになりはしないだろうか。少なくともそのリスクは内包されていると言わなければならないであろう。
 新生児医療において予後不良児の治療停止・制限が問題になるような状況そのものが、医療一般のみならず新生児医療においてもきわめて例外的な状況であり、したがって、例外的な状況のなかで「家族に最終判断を迫らない」ことが原則とされても、それ以外の場面に一般化されることはないという反論もあり得 れないが、果たしてそう言い切れるのだろうか。
 「最終的には医療者が意思決定をする」、すなわち「家族に最終判断を迫らない」ことをあくまでも原則とするのか、「最終的には患者家族が意思決定をする」ことを原則にし、例外的に「家族に最終判断を迫らない」こともあり得ると考えるのか。どちらを原則にしても、予後不良児の治療停止・制限という状況のなかで結果的に導かれる現実的決定がおおむね同じであるからといって、原則がどちらでもいいということはない。
 最後に、多少なりとも現実的な提言をして稿を閉じたい。患児の家族にとって治療停止・制限という重大な意思決定したことが「一生の重荷」になり得るのだとしたら、自助グループを紹介することなどにより、ピア・カウンセリングを通して家族がその精神的重圧から解放されることを輔けることも可能であろう。医療者のなすべきことは、患者家族と決定の不確実さを共有し共感とともに考える作業を分かち合うことであって、意思決定という「一生の重荷」を医療者が最初から肩代わりしてしまうことではないと、筆者は考える。

文献

1)Nishida H. Future ethical issues in Neonatology. -A japanese perspective. Semin Perinatol 1987;11:274.
2)仁志田博,山田多佳子,荒井敏彦,他.新生時医療における倫理的観点からの意志決定(Medical Decision Making).日本新生児学会誌 1987;23:337.
3)Duff RS, Cambell AGM. Moral and ethical dilemmas in the special care nursery. N Eng J Med 1973;298:890.
4)Duff RS. Guideline for deciding care of critically ill or dying patients. Pediatrics 1979;64:17.

以上

ご意見は、mtamai@スパム対策gipac.shinshu-u.ac.jpまで


REV: 20161231
全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)