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立岩真也著『私的所有論』――他者が他者として生きること(世界から・8)
長瀬 修
(ながせおさむ 障害・コミュニケーション研究所 AXV44520@
スパム対策
biglobe.ne.jp)
『季刊福祉労働』
78:104-105
立岩真也の新著『私的所有論』(勁草書房)の出版は九七年の日本での重要な出来事だった。九〇年に『生の技法』(藤原書店)を安積純子、岡原正幸、尾中文哉と共に著し、新鮮な衝撃を与えた立岩が、主にその後の考察をまとめたものである。
立岩は「序」で、自己決定、生殖技術、能力主義、優生学などについて「いくつも矛盾があるように思える。しかし、それでも、その矛盾するように思われるその両方を成り立たせるものが何かあると思う・・・それを探そうとする」とし、「同時に、私はできる限り具体的な答を探そうとしている。このように言うのは、こうした主題に関して言われていることに全く不満だからである」と本書のねらいを明かす。
『私的所有論』というタイトルに戸惑われる方も多いかもしれない。日本の障害者運動が提起してきた「能力主義」への疑問に関連して、「私が私の働きの結果を私のものにする」ことを考える試みである。自分の持っているもの(私的所有)を、自分がどうするか決めること(自己決定)が肯定できるのかを考える。したがって、流行の「自己決定権」がもう一つの主題でもある。
索引を別にしても四〇〇頁を越す大著である。第一章の「私的所有という主題」から順に読むこともできるが、息切れしてしまう恐れもある。厚生省の厚生科学審議会先端医療技術評価部会で議論されているホットなテーマである「出生前診断」や「選択的中絶」を取り上げている最後の第九章「正しい優生学とつきあう」から読み始める手もある。
立岩は出生前診断に関して、「積極的な権利としての選ばない権利」(四一六頁)が大切であるとし、積極的優生については「私達に都合のいいように他者があるべきでない」(四二一頁)としている。私は主張の多くに共感を覚えるが、親と子の関係に関して、例えば小人症の人が小人症の子供を望み、そのために生殖技術の利用を求める場合があるのを考えると、このような主張が、非障害者である親だけでなく、障害者である親にどれだけ通じるのか、通じるべきなのか、考え込んでしまう。普遍的に誰でも適用されるはずだといったんは思う。しかし、例は悪いかもしれないが、中国での一人っ子政策が少数民族には適用されないように、「少数者には別の対応があるべき」という主張もありうる。多数の側と少数の側に同じ基準を単純に適用することが、結果として多数の側を利することは多い。そこがまさしく多数と少数の関係が非対称的である所以だろう。
このような議論は、まさしく立岩が「不満」を持つ「しかじかの難しい問題があると言って終わる」議論であるのは承知しているが、私には少なくとも今は答が出せない問題である。
あと気になったのは、「「胎児の生きる権利」という問題設定を取らない」としている一方で、「子(となるかもしれない存在)の「プライバシー権」だと言うこともできよう」(四一五頁)としていることである。「胎児の権利論」に傾斜しかねない危うさを感じさせる。
『私的所有論』は「注」も充実しているのが特徴である。実際、注があまりにも興味深く、読みふけってしまい、本文に戻れなくなってしまうという困った経験を何度もしてしまった。
また、索引で自分の関心のあるテーマを調べ、そこから読むこともできる。インターネットのホームページ「生命・人間・社会」(http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.HTM)では本書に関連する情報の提供も行なわれている。
立岩は「身体障害者」を特集している『現代思想』誌九八年二月号の「一九七〇年」で本書に至った経緯の一部を述べている。そちらもご覧頂きたい。
値段も六〇〇〇円と安くはないし、読み通すのには気力を要する。それでも、生命、障害に考える際に必携の一冊である。ある人が一つのテーマに一〇年以上かけて取り組んだ時に、とても豊かな実りが得られることを本書は示している。この本が読めることは日本語の世界に生きる喜びである。
深い考察を行うかたわらで、本誌で「自立生活運動の現在」を五五号(九二年)から七〇号(九六年)まで連載したように、立岩が介護保険やケアガイドラインをはじめとする現実の政策動向、政策課題からも目を離さないでいることにも敬意を表したい。(文中敬称略)
REV: 20161229
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