「レポート 第10回米国障害学会年次総会」
長瀬 修
『働く広場』1997
(米国障害学会)
本年の米国障害学会は5月22日から25日にミネソタ州ミネアポリスで開
催された。同学会は正式名称が Society
for Disability Studiesである。学会の目的として「障害と慢性疾病の人文、
社会科学的側面を研究する学際的研究の促進」を掲げている。1982年に「
慢性疾病、インペアメント、ディスアビリティ研究学会」として発足し、86
年に現在の名称に変更している。したがって、本年の総会は新名称での第10
回となる。
学会の目的は障害者の経験に関連する情報交換の場作りと障害者の社会への
完全参加促進である。創始者は故アーヴィング・ゾラ氏で、約300名の会員
はほとんどが米国人で、役員をはじめ障害者が大きな役割を果たしている。参
考までに連絡先を記す。
Society for Disability Studies
c/o David Pfeiffer
Suffolk University
Eight Ashburn Place, Boston MA
02108 USA
e-mail: dpfeiffe@スパム対策suffolk.edu
私は昨年に引き続いての参加となった。昨年はワシントンDCでの開催で、
筑波大学の名川勝氏と一緒に日本から参加した。(注1)
今年の日本からの参加者は、作家の花田春兆氏、静岡県立大学の石川准氏、
花田氏の介助者であるライターの坂部明弘氏だった。現在、ジョージタウン大
学客員研究員である大阪市立大学の土屋貴志氏もワシントンDCから参加され
た。
(出生前診断と選択的中絶)
昨年はほとんど取り上げられることがなかった「出生前診断と選択的中絶」
が大きなテーマとして取り上げられたのが、今年の会議の最大の特徴だった。
国立障害・リハビリテーション研究所(NIDRR)の資金援助を得て、「
遺伝的障害の出生前診断」、「羊水検査を受けた/受けなかった理由、そして
その意味」、「障害児と生きることの家族への影響」の3分科会と「多様性?
差別?遺伝的検査を制限できるか?」の1全体会と全部で4セッションが出生
前診断に費やされた。
生命倫理学のシンクタンクであるヘイスティングセンターの「遺伝的障害の
出生前診断」というプロジェクトのメンバーが招かれ、障害者自身を多く含む
障害研究者と生命倫理研究者の交流が企画された。同プロジェクトの目的は、
「障害者の一部から打ち出されてきた、選択的中絶をもたらす出生前診断の存
在は、ある意味で、完全な社会的平等を目指す障害者の目的を阻害する、とい
う主張を検討することである」とされている。(注2)
議論の内容は日本でのそれとほとんど同じで特に新味は感じなかった。産む
女性本人の選択を重視する立場と、障害を理由にして中絶することは障害者を
否定することだと問題視する立場の対立である。(注3)
ただ特徴的なのは、日本での議論ならば必ずといっていいほど出てくる「優
生学」「優生思想」があまり出てこないことである。「日本では優生政策とい
う言葉が諸外国よりも広い意味で使われる場合が多い」という米本昌平氏の指
摘がある。(注4)最近の遺伝学と倫理に関する英国発行のニュースレターで
も、「病気でない胎児を中絶するのは優生学の行為であり、90年代の米英で
はなく、40年代のドイツである。許されてはならない」と米国スタンフォー
ド大の研究者が述べたと記されている。(注5)「病気である胎児」を中絶す
るのは優生学ではないという前提があるのが読み取れ、強い違和感を覚える。
日本の場合には特に「青い芝」をはじめとする障害者運動の成果で優生学、優
生思想としてとらえる範囲が広く確立されてきたのが特徴のようである。
この議論に関連して、昨年「障害もしくは差異」と題して、ろうと障害の共
通点と相違点を詳細に論じたロチェスター工科大のスーザン・フォスターから
、ろう夫婦の場合に、ろう児を望む場合があり、もし出生前診断でろう児かど
うか分かるようになった場合には、聴児を選択的に中絶することも起こりえる
という指摘があった。
従来の女性、障害者という軸に、ろう者すなわち<文化・民族>という別の
軸が確実に加わってきている。身体的条件に基く文化的、民族的、言語的集団
であるというろう者の主張(注6)から、<文化・民族の存続>を念頭に、こ
のような選択への希望が生まれてくるのは驚くに当たらない。しかし、性や障
害による選択的中絶と同じように、「他者の生を決定することの意味」、「出
生前診断・選択的中絶という選択をしないという選択」(注7)を考えること
も重要な意味を持つに違いない。(注8)
(花田氏の報告)
私が昨年から出馬をお願いしていた花田春兆氏が、「文化と障害者:ゑびす
誕生」という演題で発表をされた。「比較的視点ー日本」という分科会である
。通常4名程度の発表者が各分科会には割り当てられるが、この分科会は花田
氏と私の二人だけで90分と時間の余裕があり、非常に助かった。
花田氏は翻訳済みの発表原稿(プリント、テキスト・ファイル)を配布し、
冒頭だけ自ら発表され、後は私が代読した。日本の障害者史、特に芸能を含め
た文化史を主題として、英文ビデオ「ゑびす曼陀羅」(35分)上映を中に折
込み、最後は、ヒルコの話を取り上げ、今回の会議の大きなテーマである出生
前診断と選択的中絶とも深い関係がある「障害者の生命」で話を締めくくられ
た。ユーモアもあり、スクナヒコナノミコトの話では、UFOや「ET」を持
ち出して、会場に爆笑をもたらしたあたりはさすがだった。
反響は大きく、発表の直後に国際的短波放送の Disability Radio World-Wi
deから花田氏にインタビューの申込があり、ただちに実現した。インタビュア
ーは視覚障害の女性である。私が通訳をしたが、放送用のインタビューの通訳
は初めてで緊張した。同放送の最近の番組には、生殖と障害女性、障害者史、
障害文化の価値、ホロコーストと障害者、北京NGOフォーラム、ヘンリー・
エンズ(元DPI世界議長)インタビューなどがあり、中米コスタリカから発
信されている。
帰国後も、ミネソタ大学で障害の国際比較をカリキュラムとしてまとめてい
る研究者から「ゑびす曼陀羅」に関する問い合わせがあるなど、インパクトは
強かった。
個人的にも感慨がある。日本の経験の海外での共有という意味で、花田氏か
ら依頼を受けて、「ゑびす曼陀羅」英文ビデオを、93年秋から94年夏の国
連事務局障害者班勤務時代にニューヨークのジャパン・ソサエティーに持ち込
んだが、関心を呼び起こすに到らなかった経緯がある。足かけ4年で「ゑびす
曼陀羅」の海外での上映を実現できたことは本当に嬉しい。
花田氏の発表実現には国際交流基金からの派遣助成に加えて、今回のプログ
ラム委員長のリチャード・スコッチ氏(テキサス大)と障害文化研究所のステ
ィーブン・ブラウン氏の尽力があったことを申し添える。
私自身は「優生保護法から母体保護法へ:女性と障害者のダイナミックス」
と題して、日本の近代的障害者政治運動の成立、女性の運動との対立・対話、
母体保護法成立の経過などを報告した。
(プログラムの概観)
出生前診断関係以外の全体会や、分科会を以下に紹介する。
なお、来年の総会は6月第1週に西海岸のオークランドで予定されている。
今年の総会の報告書は、来年の総会時までに見本が出来る予定である。
*全体会
我々は何者でどこに向かっているのか
*ラウンドテーブル
障害を持つ教員
*分科会
アイデンティティ
リサーチに関する問題
比較的視点
地域社会と学校での障害
空間と障害
デザイン:アクセシブルな環境作り
高等教育
権利
障害学プログラム
政治
米国政治の眠れる巨人:障害者票
障害とコミュニティ
障害について教える
マイナスに働く社会保障:改革の機会 保健
比較的視点ー日本
QOLとコミュニティ
共通点と相違点:障害学の根本概念と成立
過去と現在の障害学会長が障害学会の過去、現在、未来と障害学分野に
ついて語る
表象、ポリティックス、隠喩
HIV・エイズ
障害とリハビリテーションに関する1997年医学研究所報告・勧告
歴史
雇用・就労
障害のイメージ
障害データ
(分科会から)
顔を出せた分科会は限られたが、印象に残った発表をかいつまんで紹介する
。 23日の「権利」分科会の「障害政策の権利への移行への原因と結果」と
題する発表で、ウェルスレー大のトム・バーク氏は、ADAに代表される権利
法を採用している国々すなわち米国、オーストラリア、英国などは英国系のコ
モンローの伝統を持ち、公民権の伝統を持つ反面、福祉国家的伝統が弱いと指
摘した。権利アプローチは公民権の伝統の中で、分かり易く、障害者運動に「
武器」を与えた。しかし、法廷中心主義で実施、実効性には疑問が残り、特に
雇用に関しては「権利」が果たす役割を過大評価している。権利、訴訟万能主
義に受け取られがちな米国での、このような指摘は興味深い。
同じ「権利」分科会でのジョナサン・ヤング氏(国立リハビリテーション病
院研究センター)は「レーガンの革命:公民権、ADA、全米障害評議会、1
984年ー1990年」と題して、保守派のレーガン大統領が指名した全米障
害評議会から革新的なADAの原案が提案され、同じ共和党ブッシュ大統領の
もとで成立した過程を分析した。鍵となったのは、追加的な予算措置が必要な
いどころか、障害者関係予算の削減にも将来的には結びつくという「財政保守
主義」であり、これに共和党が乗り、障害者の権利推進に積極的な民主党との
超党派の支持が成立したという見方である。前述のバーク氏の発表といい、A
DAへの多様な視点を与えてくれる。(注9)
「障害について教える」分科会では、アーカンソー大のチェリル・リード氏
とジーン・ニース氏が「多文化主義の教室でのパワーとエンパワーメント」に
ついて発表した。「文化」論は障害分野で最もホットなテーマとなっているが
、リハビリテーション関係の講座での多文化主義(マルチカルチュラリズム)
の役割が強調された。(1)障害アイデンティティと障害文化の強調、(2)
全ての形態の抑圧への関心、(3)パワーと資源の平等な分配を保障するため
の社会の再構築の3点を強調するラジカル・デモクラティクアプローチがリハ
ビリテーションの多文化教育には勧められるという内容だった。
「表象、ポリティクス、隠喩」分科会は文学を取り上げ、非常に盛り上がっ
た。発表者に加え、著書の一部が邦訳されているレナード・デイヴィス(ビン
ガントン大英語学科)が指定討論者として参加し、議論が深まった。(注10
)デイヴィスはろう者の両親を持ち、自らは「聴覚障害ではないが、文化的な
意味でのろう者」であるとしている。これまでの障害学で、アーヴィング・ゴ
フマン、ハーラン・ハーン、マイケル・オリバー、ハーラン・レインなど社会
科学系からの貢献が中心を占め、文学や文化批評などが「刺身のつま」扱いさ
れてきたと批判した。障害の文学・文化分析は、障害を持つ登場人物の描写の
仕方を批判する第1段階、テキストの中で障害登場人物を肯定的に描写する第
2段階を経て、表象と文化的生産自体を見直す、すなわち障害というカテゴリ
ーを形成する文化総体を見直すという第3段階に、今さしかかっているとした
。
「歴史」分科会も充実していた。「精神薄弱」とジェンダー、古代ギリシャ
の幼児殺害、奴隷制と障害、南部の綿工場と障害の4つの発表があった。
特に興味深かったのが、古代ギリシャの幼児殺害を取り上げたトルーマン大
のマーサ・エドワーズ氏の発表だった。昨年の米国歴史学会の年次総会で障害
史を取り上げるよう彼女自身を含む七人の歴史学者が提案したが、同学会は医
学史には7つの分科会を当てたのにもかかわらず、障害史の分科会は実現しな
かったと冒頭で述べ、歴史学会など障害学会の場以外での障害史の認識の重要
性を訴えた。次に本題に入り、古代ギリシャ、特にアテネとスパルタで障害新
生児が殺害されていたという「歴史的事実」を取り上げ、このような「事実」
を証明する証拠がほとんどないことを指摘した。羊水検査が当たり前となって
いる現代の医療中心の欧米的価値観で古代ギリシャで何が行われていたかを考
えることの問題点、出産を医療の対象と考える習慣がなかったこと、審美的視
点から障害児、奇形児が恐怖の対象となったと見なす根拠がないこと、身体の
正常さの基準が確立したのは19世紀の統計学、20世紀の優生学の成立以降
であること、障害者が経済的な重荷になるというのは近代、現代的な価値観で
あることなどを述べ、最後に「障害史の確立がないかぎり、語られ続ける障害
者の歴史は偽りに満ちたままだ」と締めくくった。
エドワーズ氏は、発表後の質疑応答の中で、花田氏の発表、特にヒルコに言
及していたのが嬉しかった。
(日本の「障害学」に向けて)
ミネアポリスまで足を伸ばした動機は二つある。一つは、日本での障害分野
での経験を海外と共有することである。土屋氏も述べているように、特に日本
の障害者運動と女性運動の苦しい議論が生み出してきたものは大きな成果であ
る。
もう一つは、日本での「障害学」の確立に役立てたい、参考にしたいという
思いである。既に、障害学の日本での確立を目指して、石川氏と私が編者で、
『障害学への招待』(仮題)という本を来春の出版に向けて準備に入った。今
回出席された花田氏にも参加を頂いている。
ここでの障害学とは、「障害」という切り口から社会と人間を見つめ直す作
業である。同時に、社会福祉、人権、差別、医療、教育、リハビリテーション
などといった専門分野やジャンルからいったん、「障害」を解放する取り組み
でもある。キーワードは、アイデンティティ、文化、テクノロジー、言説であ
る。
今回の会議では興奮を覚え、多くの刺激を受けた。日本での障害学の発展を
花田氏と語った、帰りの機中だった。
(注)
1、 昨年の会議に関しては以下を参照。
長瀬修「96年障害学会年次総会に参加して」『リハビリテーション』199
7年2・3月号、第391号、44ー47頁
2、 Ash, A (1997) "Letter to SDS Members", SDS
3、この点に関しては土屋貴志氏が「アメリカ障害学会第十回年次大会」『ノ
ーマライゼーション』97年9月号(予定)で、より詳細に述べているので参
照されたい。なお、花田、石川両氏も会議に以下で触れている。
花田春兆「蟹の足音第50回 水のミネソタ」『リハビリテーション』97年
7月号、42ー45頁、
石川准「新任教員の前途を祝す」『ノーマライゼーション』97年7月号、1
0ー11頁
4、米本昌平「出生前診断は優生政策か」『出生前診断を考える』92年、生
命倫理研究会、113ー117頁
5、"Watson causes storm over abortion for homosexuality"
GenEthics News No. 16, Jan-March
1997, p.5. この発言は、性的指向を決定する遺伝子が見つかった場合の性的
指向を理由とする中絶に関して、自らゲイの活動家である研究者からの、同性
愛は病気ではない、したがって病気でもない胎児を中絶するのは許されないと
いう主張である。
6、木村晴美・市田泰宏「ろう文化宣言」『現代思想』1995年3月号、3
54ー362頁
7、立岩真也「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」『フェミニズムの主
張』92年、江原由美子編、勁草書房、167ー202頁
8、ろう者と選択的中絶に関しては別の機会に、より深く論じたい。
9、Shapiro, J. (1993) "No Pity",
New York: Times Books(現代書館より邦訳刊行が予定されている)の第4章
がADA成立過程を取り上げている。
10、Davis, L.J. (1995) "Enforcing Normalcy", London: Verso. 第5章の
冒頭が「ろうと洞察」『現代思想』山本卓訳、1996年4月臨時増刊ろう文化
総特集、305ー312頁、に掲載されている。
REV: 20161229