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障害者の権利と障害者の文化――オランダ便り・6(最終回)

長瀬 修
19960325
『季刊福祉労働』70



 昨年の12月中旬に帰国して「オランダ便り」第6回を横浜の鶴見で書いている。3年半ぶりに日本で暮らす事になった。最終回であり、「オランダ便り」を書くに至る経緯に触れ、オランダで書き上げた修士論文「差異、平等、障害者:障害者の権利と障害者の文化」を紹介したい。
 振り返ると、92年の夏に当時勤務していた八代英太参議院議員事務所から同議員の推薦を受けて、オーストリアのウィーンにあった国連事務局の障害者班に赴任した。障害者班は国際障害者年、国連障害者の10年などの実施を担当した国連機関内の障害者に関するまとめ役である。私の赴任中にも「障害者の機会均等化に関する基準規則」(機会均等基準:本誌63号に拙約で掲載))という現在の国際的障害者政策の最重要文書策定の事務局を担当した。2年間の契約だったが、その期間中に障害者班がニューヨークに移転してしまい、わが家も93年の秋にニューヨークに引っ越した。
 94年夏に国連を離れた後は、オランダの社会研究大学(Institute of SocialStudies:ISS)で「開発と障害者」をテーマに修士に取り組んだ。国際開発高等教育機構から潤沢な奨学金が得られたおかげで家族4人暮らすことが出来た。同機構には深く感謝している。国際開発に関する研究の促進を目的とする公的機関である同機構では、その事業の一つとして途上国の問題に取り組む研究者養成のために奨学金を出している。障害者分野での受給は私が初めてだった。「障害」分野の認知として嬉しく思う。
 同じくISSでも修士課程で障害・障害者に取り組んだのは私が初めてだったと教授陣から聞いている。ISSは途上国の開発研究のための大学院大学であり、評価が高い。同級生のほとんどがアフリカ、アジア、ラテンアメリカの途上国から来ていた。行政官、NGO、ジャーナリスト、労働運動家、研究者等といった多様な背景を持った仲間と1年4カ月の研究生活を送れたのは本当に幸いだった。
 自分自身のこの16カ月の最大の課題は「なぜ、障害者の優先順位は低いのか。それはどうすれば解決できるのか。」という疑問に応えることだった。例えば「健常者の教育も十分じゃないのに、障害者の教育までは手が回らない」といった趣旨の発言をISSの同僚から聞くこともあったからである。 また、八代事務所時代に国際協力事業団の協力を得て、障害者リーダーシップ養成セミナーをパキスタン、タイ、フィジー、ジンバブエ等、開催国政府からの要請を受けて行っていたが、国際協力の枠組みで日本政府からの協力・資金を出すための要請が開催国政府から、なかなか出てこなかった経験がある。もちろん、障害者の優先順位が低いのは国際協力だけではない。
 学生時代にボランティアとして偶然に出会い、それ以降は職業としても取り組んできた障害・障害者問題を自分の中でも整理する絶好の機会でもあった。以前は「大学院に行くのは、よっぽどの勉強好き」などと思い、自分自身が大学院で研究するーしかも30代後半にーなど想像すらもしなかったものだ。これだから人生は面白い。
 読者の中には職業経験を積まれている方も多いと想像する。機会があれば大学や大学院でご自身の体験を学問や別の視点から考え直して見ることを是非お勧めする。日本の雇用体系では容易ではないかも知れないが、大学院の社会人入学など機会は広まっている。初めは机に向かって論文を読んだり、書いたりするのは確かにしんどいが、社会経験を持ち、問題意識がはっきり分、得られるものは多い。
 さて、修士論文はおおよその構想を昨年の春から夏にまとめた。はじめの切り口は権利だった。障害者は当然の権利を侵害されている。私の場合は国連で「機会均等基準」など、国際的な障害者の権利の取り組みに関係してきたせいもあり、介助を含む社会の環境整備を障害者の権利の推進という視点から考えた。社会が障害者に対して作り出している障壁の除去が最重要課題としたのである。
 しかし、実際に秋口に入って書き進めるうちに考えは変わり、軌道修正を余儀なくされた。障害者の権利と少なくとも同等、もしかすればそれ以上に重要なのは「障害者の文化」の認知であると気づいたのである。
 修士論文の構成をたどり、どのように「障害者の文化」にたどりついたのかを紹介する。
 まず第1章は、背景として社会進化論や優生学など歴史的な障害者への否定的な態度・実践とそれに対抗する形で生まれてきた障害者の権利運動(例えば日本では「青い芝」であり、英国では「隔離に反対する身体障害者連盟」)を論じる。
 第2章では障害に関する理論的発展をテーマにし、米国の自立生活理論や主に英国の運動家・研究者が推進している「障害の社会理論」を取り上げた。個人的・病理学的な問題であるという視点から政治・社会的な問題であるという視点への移行があった。松兼功氏の「障害者に迷惑な社会」(94年、晶文社)という言い方が分かりやすい。
 第3章では運動や理論的発展がどのように機会均等基準など国際的な障害者政策にどのように反映されてきたのかを分析した。障害者を社会に適応させようとした時代があったが、社会を障害者に適応させようする時代に変わってきた。機会均等基準の採択はその象徴である。
 障害に対応する「妥当な配慮」(REASONABLE ACCOMMODATION)など、社会環境の整備が障害者の平等を実現するためには不可欠である。社会の環境整備、すなわち障害に応じた対応は障害者の権利であり、そういった対応を行わないことが差別となる。この発想は米国の障害を持つアメリカ人法(ADA)や国際人権規約の社会権規約の解釈でも採用されている。
 さて、ここまでは主に権利を中心に考えてきた。しかし、第4章では少し視点を変えて、「我々は文化・言語集団である。障害者ではない。」という最近とみに盛んになっているろう者の主張を考えてみた。手話を核とする文化・言語集団である点に関しては全く同感であるが、「障害者ではない」という点については慎重な判断・対応を望む。障害者ではないという主張をする際に、「障害者」をどのように定義しているのか。機能的制約(disability)を持つ人間に対して社会がもたらす不利益(handicap)がある。その社会的不利益を共有するという点で、ろう者も「障害者」ではないだろうか。
 ろう者の文化的側面に目を向けたことからたどり着いたのが、「障害者の文化」を取り上げる結論部の第5章である。
 障害を持って生きること、障害者として生きることを一つの生き方、文化としてはっきりと認めることが、権利の実現や環境整備と少なくとも同じだけ重要である。
 ろう者が生み出した手話やろう文化は「障害者の文化」の素晴らしい例である。ろう者の場合には「聞こえない」という状態から手話という確固たる視覚的言語すら生み出した。
 しかし、ありのままの自分として生きる、障害と共に生きることを誇りにしているのはろう者だけではない。日本には青い芝という脳性マヒ者の世界的にも先駆的な運動がある。現在の日本の自立生活運動にもその影響は明らかにある。それは「障害は個性」であるという表現で現れている。米国でも「障害に誇りを持つ」、「障害を肯定する」障害者の文化運動は自立生活運動ともあいまって盛んになっている。
 こういった動きには障害の予防を否定する面があるが、私は予防を否定しない。障害にはどの国でも政治・社会・経済的な要素がある。そのような要素を無視して、全ての障害が自然現象であるかのようにみなすことはできない。途上国では栄養不良や医療の不備によって障害を持つこどもたちがいる。カンボジアに国連の平和維持活動(PKO)の要員として赴任する機会に恵まれたが、地雷の被害者を見かけた。地雷を含む武器・兵器によって障害を持つ人が一人でも少なくなるように望む。例えば日本の労働災害、交通事故や薬害の被害者も同じである。
 といって障害が全て予防されるべきと主張しているのでもない。例えばろう児を望むろう者が多くいる。自分と同じ障害を持つ子供が生まれると分かっていて子供を持つ人たちがいる。それは、その人たちの決断であり、尊重されるべきである。
 「障害者の文化を認めるのが大切だ」という結論には自分自身でも少なからず驚いた。それまで権利や社会環境一点張りで考えていたためである。
 しかし、障害者の文化を認めるという価値観の変化なしで社会環境の変革を進めることは困難だし、ともすれば逆に障害者への偏見を強めてしまう。障害者の文化を認める、すなわち障害と共に生きる価値を認めることは、社会環境の変革に魂を入れる作業である。障害による差異を祝福として受けとめられる社会を目指すことである。この両面からの取り組みを進めることは、障害自体への見方をも変えるだろう。
 この論文で私なりに「障害者はなぜ後回しか」という疑問に答える少なくとも第1歩を踏みだしたと感じている。
 修士論文(英文93頁)と日本語の要約(3頁)に関心のある方は左記まで、ご連絡頂きたい。
230 横浜市鶴見区下野谷町1-13-1-632
電話・ファックス045-505-9558
メール ek6o-ngs@スパム対策asahi-net.or.jp
 さて、連載を終了するにあたって「オランダ便り」にお付き合い頂いた読者に感謝する。この連載がきっかけで、ある読者の方と個人的に知り合うことが出来た。
出会いは貴重である。
 最後に、この連載の機会を提供して頂いた「福祉労働」編集委員会に深く感謝する。常に次の「ネタ」を考えさせられ、連載の苦しみと楽しさを味わわせて頂いた。この連載で書いた内容を修士論文等で活用したこともあったし、その逆もあった。またの機会を楽しみにしている。

季刊「福祉労働」誌1996年春号


REV: 20161229
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