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「近づくことと、遠ざかること――障害がある子の親の自己変容作業」


中根 成寿(なかねなるひさ)
障害学研究会関西部会第11回研究会
日時:2001年6月10日(日) 午後1時30分〜5時 会場:京都教育文化センター



●参加者自己紹介

●報告A:「近づくことと、遠ざかること−『障害がある子の親』の自己変容作業」
 報告者:中根成寿(なかねなるひさ・立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程)

【レジュメ】([ ]は当日のレジュメにはない、報告者による補足)

「近づくことと、遠ざかること−『障害がある子の親』の自己変容作業」
                      立命館大学大学院博士後期課程
                      中根成寿(なかねなるひさ)

1. はじめに
○ 自己紹介
基本となる論拠は、社会病理学、ラベリング論、演劇論、構築主義…
 ただ、社会病理学の限界というか、「結局どうしたいの?」の問いに答えられずに
、困っている。可能性としては臨床社会学に可能性を感じている。
○ 「私が」障害学とどうつきあうか
「障害」=ネガティブでない、とはっきり言ってくれるところに最大の魅力を感じる
。少なくとも学部で学んだ「社会福祉学」や「発達心理学」からはこうした視点を感
じなかった。私は非常に素直な人間なので、この問題を保留したまま前に進むことが
できなかった。
 障害学は、自立生活運動から誕生した学問故に、まだまだ「運動論」的な側面が前
にでていると思う。いずれ(いや、もう既にか)障害学に携わるものは「障害学」を
洗練させるための課題に取り組まねばならないだろう。ただ、数十年前フェミニズム
が興ったときと同じように、これは実践の中で答えていけばよい問題であると思う。

2. どうして親を対象とするか
[おそらく、「障害を理解する」という体験を一番持っているであろう存在だからで
ある。また障害を持つ本人の理解の仕方とは全く違う理解、すなわち子どもができて
から初めて障害を理解しようとする気持ちをもつため。おそらく先天的な障害とも中
途障害とも違うのではないかと思う。]

3. 「障害児の親」へのアプローチと「障害がある子の親」へのアプローチ
○ 「社会問題」としての「障害児の親」はどう語られてきたか?

* 医学的言説
医学的立場からは、ほとんど明確な対象とされず。かろうじて「精神医学」の対象と
して語られてきた。Ex)久保紘章、渡辺久子
* 心理学的言説
発達心理学的立場からは、「療育活動」の積極的担い手であることが求められている
。伝統的な母子相互作用(アタッチメント理論)から。「子どもの発達のために」献
身的に尽くす親役割を期待される。
* 障害学的言説
自立生活運動において、親は否定される存在だった。「我々は愛と正義を否定する(
横塚)」という言葉の「愛」と「正義」を実践する存在として親は否定された。

第一に障害者が独自の人格として周囲のとの対等な関係を作りつつ、自分の責任で望
む生活を営むと言うこと。第二に、彼らが真の意味で社会に登場し、障害を持って生
きることの大変な側面を家族という閉鎖空間にのみ押しつけないようにするというこ
と。第三に、障害を望ましくない欠如とし、障害者を哀れむべき弱い存在としてのみ
理解しようとするような否定的観念を排すること。第四に、愛情を至上の価値として
運営されるべき家族、といった意識がもたらす問題点を顕在化すること。第五に、家
族関係の多様なあり方を示すこと。1)

* 被差別者としての親を巡る言説
「障害児の親」の社会学的考察としては、現在要田洋江の業績を避けて通ることはで
きない。『障害者差別の社会学』という大著は「障害児の親問題は障害者差別と女性
差別の複合問題である」という観点から、丁寧で広範にわたる議論によって構成され
ている。

社会問題としての「障害児の親」という立場がどのように構築されているか、という
課題は、以上のようなさまざまな言説を丁寧に分析することで明らかにできるはずで
ある。しかしこうしたアプローチは従来、社会病理学が本職としてきたことである。
だが社会病理学が社会問題の定義と分析の厳密さに重きを置くあまり、それにどのよ
うに対処するか、という問題は忘れ去られがちであった。
 故に私は、社会問題としての「障害児の親」を念頭に置いた上で、彼らの臨床的現
実へ「ナラティブ」を通してアプローチする方法を選んだ。

[あくまでも当事者が物語の主役である。しかもその物語には正解がない。真実がな
い。紡ぎ出される物語が、その人の理解そのもの。
物語を書き換えることこそが、まさに「障害を理解すること」につながる。
もちろん、書き換えはたいていスムーズに進まない。ドミナントストーリーは実に執
拗に個人にへばりついている。どんな些細なことばにもきずつき、ほんの些細な変化
にも影響を受ける。
社会学者は「無知という専門性」をもってここへ立ち会い、物語の承認者という立場
をとる。]

○ 「障害がある子の親」の日常的世界の再構成−修士論文から−

「自分をないがしろにするストーリーを他者から無理に与えられ、その中に生活する
ことを強いられてきた女性が、それと反対にもし自分には自分のストーリーを書き直
す資格があることに気付き、その資格を取り戻し、「自分のストーリーを語る権利」
を得たら、いったいどういう変化が彼女に起こるだろうか。」2)

人は何らかの「ネガティブ」な経験をそのまま放っておくことはできない。「存在証
明」を求めて、自己や他者になんらかの行為を仕掛け始めていく。たとえば、ピア・
カウンセリング・グループがその代表例である。人がそこにまず求めるのは「語る場
所」、そして「承認されること」である。そこで語られるのは、親たちの「物語」で
ある。子どもが生まれたときのこと、ダウン症であることを知らされたときの記憶、
医師の対応、周りの反応、子どもに対する思いを親たちは自分の言葉で、迷いながら
紡ぎ出していく。

A「あ、病院の先生と看護婦さんどっちかに言われたのが、「若いからね、そんなこ
とはないと思ってた。」って言い訳したんですよね。先生が。だから、そのことを聞
いて、なんかすごいそれが頭に残ってて、その後看護婦さんが、「二人目の時は検査
があるからね」ってすっといわはったんですよね。でそれもずっと残ってて、まあ今
は二人目のこと考えるより、今前の子でしょ。だからそんな、今聞いたら、もうすご
い言い返すと思うんやけど、まあその時は、うーん、みたいな流して聞いてた。まあ
今から思えばそういう病院やったから、二人目は違うとこで産んだんやけど…やっぱ
りなんでM病院で産みたくないって思ったかは、やっぱりその出産したときに、そう
いうことを言われて、傷ついた自分がいたからかなって。やっぱりその時点で、もう
生まれてその時点で、命は大事なんやなって自分でも思ってたんかなって。例えば、
絶対障害持った子なんかいやって思ってたとしたら、その看護婦さんがそういうこと
いわはったときに、ほんまやなって思ったと思う。何で検査しいひんかったや、二人
目なんか絶対検査しなうめへんって多分そう感じてたんやろうと思う。もしそうなら
。だけど、○○(長男)が生まれて、障害持ってるって言われれても、「看護婦さん
なんであんな事言うんやろ」って思った自分がいたから…」

B「で、やっぱり私、うちの小学校もあの、特殊学級ありましたからね。あたしらの
時は。今はないけど。ダウン症の子何人も知ってました。で、とってもハーモニカの
うまい子とか…でもやっぱりよう近づいていかんかった。集団で7、8人だったのか
な?なんか、それこそダウン症の子が2,3人いたのかな?同じような顔した子が何
人もいて、近づけようともしなかった、あの頃の先生たちも。一生懸命やってる先生
みたいだったけど、だってその、(教室も)端っこの方にあったしね、そんな今みた
いに交流とかなかったしね。「やだな」っていう想いは…学芸会の時の劇も、運動会
の時も全部別。あ、うちの子がそこへ入るのやだな…って。腰が引ける?やだなって
いうのはなくはなかった。(「やだな」っていう感覚をもう少し聞きたいのですが)
なんか、哀れみとかね。かわいそうとか、こわいとか。そんなですね。自分の子は怖
くもないし、かわいそうじゃないと、なんかだから、特殊学級というところがいやだ
な…でもそれしかないかなって思ってたんだけどね、宮本さんの話聞くまではね。だ
から、ええーっそんなんあるんだって。」

C「で、(医療を考える会に)行ったんや。その時に初めて脳性マヒの人、全身不随
意運動や言語障害がある人、に会えると思って、楽しみっていうかね、何いわはるか
とおもってね、どんな話が聞けるやろって思って。そうしたら、その人が、私に向か
って「親は障害者の最大の敵やねん」っていいよってん。もう私、あの時忘れられへ
んわ。私はあの言葉でね、私ね、生かされてんねん、今。ちょっとオーバーやけど。
でもね、私その時ね、すごい「え、なに言うてんの!?私これから無茶無茶がんばろ
うおもてんのにから、なんで、なんで私が敵になんねん?」ってすごい思ってん。で
もね、その人がね、あの、自分はそのままの自分を認めてほしかったのに、親は僕ら
のことを健常者に近づけるために手術はせいっていう、施設に入れって言う、でも施
設なんかはいりたない。家におりたいのに、施設に入って訓練してこいっていう。も
うあんな自分らの生き方を疎外っていうか、足引っ張る親、親が最大の敵やねんって
いうてね、それが1歳前後やってん。あたしはその言葉にしがみついて生きてんのや
んね。あのそうならんようにって。もう常にそうならんようにって。でもね、それは
正しいと思うねん。絶対的に正しいと思って、反発よりね、なんとなく妙にね、そう
かもしれんって頭下げながら帰った覚えがあんねん。ほんまに、あの時あれを言うて
もらえへんかったら…でもね、それでも私、あの時も療育に失敗しかけてたからかな
あ。」

親たちは、差別の体験や自身への非難など多くの経験を「自らの物語」として引き受
ける。引き受けた後に、それを少しずつ変更していく。「障害をもつ我が子」や「障
害をもつ子の親である私」を自らの物語として理解していく。一般にいわれる「受容
」とは、私の理解ではこのプロセスを指す。
だが、親たちが子に近づいていくだけでは親は子にとって抑圧者となる可能性を秘め
ている。「親は最大の敵」という言葉は、子に近づきすぎる親を表現した言葉である。

○ 遠ざかることを意識する親
子どもが自分とは違う存在であることを意識した親は、「子どもに近づきつつ」、「
子どもから遠ざかる」。相反する二つの仕事を意識して行わざるを得ないのが「障害
を持った子の親」といえる。いや、本来はすべての親がこれを行うべきなのだが、社
会によって、必要以上に「近づくこと」を要請された親たちは、自らと子のために「
遠ざかること」を意識して行わざるをえないのだ。

C「ほんまにあの子が無茶無茶ちっさいころから自己を主張する中で、あの…こうい
う活動をしながらいろんな人と出会う中で、あの…人はそんなに、悪い人ばっかりや
ないな、と思うこともたくさんあって、だってすごく支えられたしその助けてもらっ
てるわけやから、そういう中で私が死んでも何とかなるんちゃうかっていう、すっご
いね、それとあの子の知恵のつきかたっていうかね、そう思ったからこそ普通学級入
れて、あの…一般ていう中での知恵の付け方をこうあの子なりにさせてきて、今現在
大変うまいこといってると思ってんのやんか。だから、どれくらいからかな、あの、
学校行き始めて私の手に負えへんっていうか、学校行っている間はなにがあるかわか
らへん、多分いじめられたしいやな思いもあったやろうけど、かばえへんやんか。か
ばえへんって思って、あの子に、結構面と向かってね、もう自分のことは自分引き受
けてっていうたことがあんねん。小学校の一年か二年かそのぐらいに、言ったことが
あんねん。もう…つまりそれは私の中の整理のつけかたやってんで。なんでかって、
私がいっつもいっつもそれが気になって気になって気になってね、何とか手だそう何
とか手だそうって、で、手だそうとすればするほどその、手出すって言うことは、あ
の子をコントロールしようと思うことやから、あの子から反発くらうやん、で、すご
い疲れちゃって、もう、あの、自分でやってんかって言ったとたんに、あの子はさ、
さささささってうまいこと行き始めて、そういう経験があんねん。」

○ 障害学とぶつかる問題の浮上
親たちの語りの中には、どこかで障害学と相容れない部分が生じることはさけられな
い。衝突が起こるのは、親たちが障害をネガティブなものとして考えてしまう時の言
葉が生じたときである。

A「…その障害の人がこう、言ったら、あの、言い方ちょっと悪いけど、障害の人が
がんばって運動会をしている場面でがーっとすごい涙を流している自分の不思議とか
ね、私の(こと)ね。つまり自分の中にある障害者差別、すごい、障害者差別って、
そりゃ障害者だけじゃないね、自分の中にある差別にね、いつも結局は向かい合うこ
とになったんよ。それはね、あの人が、あの親は最大の敵やと言った人がね、あの辺
からか、それとも重度の障害の子をみながら何となく違和感を感じている自分に対す
る違和感とかね、だから、○○(長男)がどうのこうのというよりも、いつもいつも
なんで私はここで立ち止まるんだろうとか、何でここで違和感を感じるんだろう、何
でここで涙をながすんやろう、なんでここで、あの、どんなんかな…抱けへんやろう
、触れへんのやろう、涎垂らしている人の手が握れへんのやろうとか、そういうこと。」

B「まわりもダウンの子がいっぱいいて、あ、こんなふうになるのか…それは何とも
言えない思いでした。あのね…やっぱり、あの、今でも思い出すんだけど、今度合宿
があるでしょ?初めての合宿からずーっと皆勤賞なんですよ、最初は9月だから半年
の子ども連れて行った時はね、やっぱりね、周りの子を受け入れられなかったですね
。自分の子はかわいかった。自分の子は最初からかわいかった、でもかわいいとか何
とかいうもんじゃないですね、これはもうかわいいとかいやとかいうもんじゃなくっ
て、そのここにいるわけだから。もちろんかわいいんですけど、周りの子はかわいく
なかった。最初の年。やっぱり知恵遅れ?っていうそういうことですね。あのしっか
りしてる子見れば、うれしいけど、ぼーっとしてる子見れば、切ない。切ない…いや
だ、こんな子にならないでほしいっていうのが、あったですね、最初の年はそれは何
とも言えない思いでした。」

こうした「親の感情」を私が否定することはできないと思う。その感情を否定するこ
とができるのは、唯一その感情を持った親自身である3)。
 親は子にとっての他者である。障害の当事者ではない。このことから生じる「なに
か」は文化の溝として残しておいて良いのか。「異なる」ということから生じる「な
にか」まで抹消しなけばならないのだろうか。

4. まとめ
○ いったい私は何がしたいのか?
おそらく、親と子の間にある「なにか」に言葉を与えることだと現段階では思ってい
る。杉野昭博が「私は、『健常者』と『障害者』との間には、『翻訳』によってのり
こえられるべき『文化の壁』が存在すると考えている4」」(杉野、1997)と言うと
きの「翻訳」の手法とは何か、を「私が」知りたいのだ。
 この「翻訳」は親たちの物語によってなされるはずである。そしてもっとも大事な
のは社会がその物語を共有することである。「援助」や「共生」を語る前に必要なこ
とは、ここにあるような気がしてならない。

[母親は、やはり母としての「優しさ」を持っているのではないか。こんなことを言
うとフェミニストに怒られそうだが、ある程度子どもを言葉で理解せざるをえない父
親へのアプローチは、私の目的である「障害を巡る文化的摩擦を読み解く」というこ
とに、必要不可欠な気がしている。]

(全くの余談です)
余談となるが、先日のハンセン病を巡る裁判とその判決に関するゴタゴタは、当事者
たちにとってのナラティブ・セラピーとなりえたような気がした。当事者たちにとっ
て生きにくい物語(ドミナント・ストーリー)を書き換えずに、援助だけを行おうと
する官僚の言い分は、生きにくい物語を背負わされた人々が何を求めているかに鈍感
であった。「裁判」というある程度客観性のある場所で「物語の書き換え」が行われ
たことに価値があると私は思う。
「これで明日から人間として生きていける」という象徴的な言葉と同時に「本当の戦
いはこれから」という言葉も実に重い。「書き換えられた物語」を、社会に共有のも
のとするためには、まだ時間と手間がかかると思われる。

1) 岡原正幸1986「制度としての愛情−脱家族とは」『生の技法−家と施設を出て暮
らす障害者の社会学・増補改訂版』藤原書店、p80
2) Epstin, D. and White, M. 1992 ;"A Proposal for a Reauthoring Therapy : Ro
se's Revisioning of her Life and a Commentary" McNamee, S.and Gergen,K.J.(ed
s.),Therapy as Social Construction. Sage Publication. pp.96-115(=野口祐二
・野村直樹(訳)、1997『ナラティブ・セラピー−社会構成主義の実践』金剛出版.
3) 岡原1998「生理的嫌悪感」『ホモ・アフェクトス−感情社会学的に自己表現する
』世界思想社,p230.
4) 杉野昭博、1997、「『障害の文化』と『共生』の課題」青木保ほか編『岩波講座
文化人類学第8巻 異文化の共存』、岩波書店、p247-274.

【質疑応答】
(A)「親は敵だ」と主張したのは青い芝。青い芝の運動も自立生活運動ということ
はできるので、「自立生活運動のなかで言われた」とするのもまちがいではないだろ
うが、やはり不正確。それに、「自立生活運動」というと、一般には80年代後半以降
の運動が想起されてしまう。(コメント)
(B)1.障害者に出会ったときに感じた「もやもや感」について、もう少し説明し
てほしい。一般の人々は障害者に出会うとき戸惑うことが多いので、同じなのかなと
思った。
2.一般社会の目は、障害を持つ子の親は、死ぬまで子の面倒を見なければならない
と期待することが多いので、親がこの面倒をすべて見なければならないと思って、子
の自立を妨げるように思われるが。
:2番目についてはその通りだが、親がそれに気づきにくい。1番目については「僕
が『ああ』なったらどうしよう」という単純な恐怖心。「僕が『ああ』なっても構わ
ない」と思えるように言葉がほしい。
(C)本音で言うのはいい。パパは働くことで精一杯。しかし決断すべきところでは
決断している。
(B)障害者になっても生活に困らなくなる環境になることが大事。
:環境よりも、人が人をどう思うか、という根本的問題。自分とは何か違うというも
のに出会ったときのもやもや。
(B)障害を持たない仲間と関わる機会をふやして、共に生活するようにしたら、も
やもやはなくなっていくかもしれない。環境というが、かかわる機会があまりに少な
いから、そういう環境にしていく必要がある。
:環境という言葉を制度やお金という意味で使ったが、そういう意味ならわかる。共
生のためには、まず共にある場、「共在」が必要。共在なくして共生なし。ダウン症
の子どもの多くが分離教育を学校側から勧められる現状では、共在するのも一苦労。。
(B)電動車椅子で梅田とかに出かけると、子供が寄ってきてお母さんに自分のこと
を聞いていることがある。出会わないことがもやもや感になる。出会う機会が必要。
:その通り。
(D)中根さんに合わせて語りが構成されているということをどう認識しているか?
聞く前に研究目的や結果の扱いについてどう説明したか?
:聞く人によって変わるのがナラティヴ・アプローチの問題。例えば、医療の知識が
ある人や、心の専門家には話しにくいことも、何も知らなさそうな若い社会学者には
話せると言うこともあると思う。
(E)質問紙などの調査方法は併用したか?
:インタビューのみ。調査票などは用いなかった。「あなたの話を聞きたい」と、個
人的に仲のいい人にだけ聞いた。親自身の見方がどう変わったかを中心にした。
(F)セルフヘルプグループからのアプローチを取らなかったのはなぜ?
:ピアカウンセリングに参加すると発言権がないので、自分が聞きたいことを正直に
聞きたかった。だから一対一で聞いた。
(G)引用されている母親の言葉はいまは肯定的になれた親が多いが、いまだに否定
的な親の聞き取りはあったか?
:否定的な親は親の会に来ない。否定的な親にアプローチする方法が難しい。
(H)ドミナントストーリーからオルタナティヴストーリーに変わるが、その新しい
ストーリーが足かせになることもある。それがさびついたりドミナントになってしま
うこともある。健常者の調査者だから語ってくれること・語ってくれないこともある
。(コメント)
(E)グラウンデッドセオリー、第三者としての立場で行っている?
:データをグランデッドセオリーで分析。調査者が自分の観点で対象を記述する……
(H)いや、グラウンデッドセオリーは米国の60年代からで、第三者・客観的という
立場を相対化する。
:グランデッドセオリーは看護学から。ただ、看護学の人だけでは、記述だけになり
、またその記述も看護学的な観点からになりがち。記述を分析する際には社会学の知
識が必要になる。入門書もたくさんある。
(A)なぜグラウンデッドセオリーのように自己の立場を消去する方法を採るのか?
問題意識との整合性を考えると、他のアプローチのほうがいいのでは。
:たしかにグランデッドセオリーは客観的にしようとするが、ナラティヴで取ったテ
ープデータの扱いに困った。主観主義を優先するナラティヴとの矛盾は気づいている
。だが、質的データ分析にはいつも客観主義の誘惑がつきまとう。
(I)もやもや感はいつごろ?この場は「僕が『ああ』なったらどうしよう」と言っ
ても安全だと思う。でも、そのもやもや感の解決を目指すのなら、それを口に出して
顕在化する場が必要なのでは?それはどうやったら作れるのか?
:中学生から高校生にかけてかな?もやもやを口にできる場所が必要だと思う。現状
では、正直に話すとすぐに「差別だ!」という人たちがいて怖い。文化的コンフリク
トを差別といってしまう。きっかけを作って社会問題化しなければならないが、社会
問題化すると、問題が自分自身から遠ざかり、語りたくない・参加しない人もいる。
ここは安心して闘争できる場。ちなみに闘争と書いてふれあいと読みますけど。
(A)ここは学問的訓練を受けて相対化できる人が多い。ここ自体がそういう場にな
る必要がある。
(B)これまで生きてきて、どうしても障害者と健常者は対立関係になるが、そのま
まではいけない。共に生きていく関係が必要。
:建設的なコンフリクトも必要。青い芝のように、告発しておいて連帯を迫るやりか
たもある。そして、おのおのの感情を否定しないこと。「障害がある子どもが愛せな
い」という親には、「そうだよね、でも大丈夫だよ」と声をかけたい。頭からその感
情すら否定してしまうと、親自身が自分を責め、子どもとの関係を建設的に構築でき
なくなる。ピア・カウンセリングや、ナラティブ・セラピーが大事にしたいことと、
障害学の言説は時に対立する。だけど、その対立の言葉の中にこそ、生産的なものが
含まれていると思う。

【途中休憩 15:19-15:30】

  *松本学さんの報告に続く

REV: 20161229
障害学  ◇中根成寿  ◇全文掲載 
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