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分配する最小国家の可能性について

立岩 真也 1998/12/30
『社会学評論』49-3(195):426-445(特集:福祉国家と福祉社会)
日本社会学会 http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/jss/index.html



■1 曖昧で漠然とした悲観
  福祉国家の危機が言われる。また批判される。言われることはかなり多岐に渡る。実際多様な論点が存在するのだから当然のことではある。だが、その一つ一つが区別されて議論され、それぞれについてはっきりとした答が出ているように思えない。どんな意味で危機を言うのか。何と比べて福祉国家は好ましくないものなのか。こうしたことが実はあまりはっきりさせられていない。それが漠然とした悲観に結びついているように思われる。
  現状の比較分析、また歴史分析の意義は言うまでもないが、それと同時に、どのような前提が何を導くのか、どのような要因が何を効果するのかを論理によって構築していく作業が求められる。本稿は、本格的な作業の準備として、私たちが間違えやすいいくつかの点を指摘しながら、確認できることを確認し、考えるべきことを示す★01。

■2 「自由主義」による自由の剥奪
  自由と介入とを対比し、福祉国家は自由を侵害し好ましくない介入が行われる国家であると言われることがある。そしてこれに反論する側も、自由に平等を対置し、いや平等が大切だと、あるいは平等も大切だと、言う。しかし、まず以下のような主張である場合に、その主張は当たらず、対立の図式自体もまちがっている。
  国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入であるとし、ゆえにこれを排すべきだと主張する説がある。納税は強制であり、その税は自らの労働の果実の一部なのであるから、徴税とは強制労働に他ならないとするのである。「リバータリアン」と称される人たちがこのような主張をする★02。極端な論だと思われるかもしれない。しかし、はっきりと考え、はっきりとものを言わないだけで、福祉国家に対する反感を詰めていくなら、その内実の相当部分はこうしたものではないか。だからその主張は検討するに値する。
  そこで考えてみる。すると、この主張は、「私の働きの結果は私のものである」という以上のことを述べていないこと、自らの生産物に対する所有権を前提とした上でその侵害を言っているだけであることがわかる。そもそもその所有権をどのように正当化するのかが問題だが、それについては語らない。だからその主張をそのまま受け入れる必要はない。これに対して、この主張を認めないなら自由を侵害することになるではないか、自由がこの主張の根拠になっているはずだ、こう言い返すかもしれない。けれども、そう言った人はむしろこの主張を否定せざるをえない。つまり、各人に資源がしかるべく行き渡っていないために、自由――そうおおぎょうなものではない、食べたい時に食べたいものを食べるとか、行きたいところに行けるとか――が奪われている。だから、各人にそこそこの自由を確保しようとすれば、この主張は否定され、代わりに、負担を義務とし、それによって各人に自由を割り振る、というより自由のための資源を割り振ることが支持される★03。
  生きたいように生きるための資源のない状態に放置される時、人は少しも自由ではない。だから、この地点から見るなら、放置も介入も、一人一人の人、その人の生にとって、破壊的に作用することがあるという点では同じである。自由が一番最初に来る価値であるかどうかは検討を要する。ただ、自由という根拠によっても先の「自由主義」は批判されうるのであり、また同じ理由で介入を拒否し、自由のための分配が求められるのである★04。

■3 分配する最小国家
  単にそこそこに(自由に)生きていけることがあるべき状態であり、その人の権利であり、それを可能にすることがなされるべきことだと、私達にとっての義務であるとしよう。義務が現実に果たされるべき義務であるなら、違反は強制力によって阻止される。そして強制力をもつのは国家だけである。こうして、むしろ「強制」が、そして福祉「国家」であることが積極的に支持される。(二重権力状態は認められないから、同一の場に権力・強制力を及ぼせるのは単一の主体である。国家より大きな単位を想定することはできるが、現在それは存在しない。ゆえに現実には国家だけである。)したがって、福祉国家批判が、またある種の「福祉社会論」が、もし徴収・費用の配分における国家の機能の縮減を主張するものだとすれば、その論はまちがっている。その意味では、そしてその意味だけにおいては、徴収と分配の主体はあくまで国家であるほかない。もちろん既に、法は、個人に第一次的な責任を課し、そして家族に責任を課し、その後に全成員の義務を位置づけるのだが、これは否定される。他者への義務=その者の権利が先に規定される。その義務が家族にまず存在し、家族でない者たちが後回しになることに正当性は見出されない。★05
  ひとまずこれを基点におくことにしよう。それが最上のあり方だと決めたのではない。どんな社会が構想されるべきかはよく考えてみるに値する。ただ、これをいったんは座標軸の原点のようなものとして置き、それとの比較で、ここからはみ出るもの、欠如しているものは何なのか、それにはどのような要因がありうるのか、等々を考えることができる。そして、これを採るべき立場と定められれば、その余剰と欠如は除去し解消すべきものとなるのだから、そのための方法を考えることができる。

■4 動機という条件がある
  分配に対する制約条件の第一のものは資源である。どんな場合にもこの条件は存在するが、一つにはここに述べることにも関わって、一つには分配がなされること自体によって問題がより大きくなる可能性はある。これについては11で述べる。ここでは、分配(のあり方)に関わるもう一つ条件について。
  市場においては得るものの代わりに失うものがある。提供するものの代わりに得るものがある。このことによって得るものは抑制され、提供したくないものでも提供することがある。だが、ここではそうではない。そもそも市場に生じる事態を認めないから分配は行われ、交換という手法は採用されえない。事実としてその人だけがその人の働きを働くことが可能だという意味で、分配においては、その労働(の成果)の供出・贈与という契機が含まれている――これは、あらかじめ労働の成果を取得する権利をその人が有しておりその人がその権利を行使して贈与するということではない★06。しかし、得るものがあるから働き、払うものがなければ多く得たいという性向はここでなくなったわけではない。
  国家による、すなわち強制力を介した分配とは、この、得られるものがない時に働こうとしない、贈与しようとしないという性向を前提した上で、なお贈与・分配を実現するための一つの手段である。ここでは自発的な贈与に誰もが同意し、それが十分なだけに達することへの断念がある。あきらめる必要がないなら、そもそも強制の必要もない。その楽観が放棄されたところから市場と国家による分配という体制が採用される。だが、それもそれ以外の途がないから選ばれているのであって、そもそもこの強制に対して同意が得られる保障も、具体的な分配率がどこに定まるか予めの保障もない。その意味で、この機構は不安定であり、不安定であることから決定的に逃れることはできない★07。ここに分配への動機の調達という問題が存在する。
  もう一つ、先の性向を否定できず、しかも贈与・分配が受けられる時、すなわち自らの直接の負担のない時に起こりうることは、贈与する側より贈与される側にまわりたい、そして多めに受け取ろうとすることである。(そして資源は有限である。)
  これらが一番基本的な問題ではある。こうした問題が生じうることを否定することはできない。繰り返すが、もし生じないのだったら、国家の強制力による分配を持ち出す必要もない。だからこれは福祉国家において解消されつくされることのない問題である。
  もちろんこれらの(特に後者の)問題は問題とされ、解決策が考えられてきた。ただ、同時に、その解決の仕方が許容できるのか、好ましいものかを考えることが重要になるだろう。というのも、解決策は、単純で簡潔な分配のあり方に何らかの変更を加えるものとなってしまうだろうから。このことについては14・15で検討する。
  そしてさらに、これらの「根本的」な制約にどれほど現実が制約されるのかを検討することが重要である。というのも、これらの制約を口実とした介入の強化や分配の縮減がなされることもまたおおいに考えられることだからである。これら――その中には、何をもって「口実」と言いうるのかを考えることも含まれる――が考えるべきこととしてある。
  次に、受け取る人と負担する人のあり方、性向・動機のあり方と、分配する最小国家という形態とはどのように関係するのか。5・6で最小限のことを確認する。

■5 無関心であることは悪いことではない
  3で機械として作動する国家を置いた。しかし、人は一人一人個性的であり、一つ一つの人の集合・集団は独自のあり方をしている。民族、宗教、その他…。国家がその個別性や独自性を顧慮しないとすれば、それはそれらの属性に対して、また集団に対して破壊的であるか。必ずしもそうではない。国家、機械としての国家と特殊で独自な人、人々の集まりの存在とは相容れないのではない。個別性、多様性を賞揚する時、また「文化」を語る時、どのようにそれが好ましいのかを言うことになってしまい、かえってそれらのあり方を制約してしまうことがよくある。特殊主義とぶつかるのは、まずは別の特殊主義であり、もし国家が普遍主義、というよりむしろ無関与を志向するのであれば、そのことによってかえって特殊性・個別性は保存されることになるはずだとも言える★08。そして、その人が、一人でやっていくのか、それとも人との関わりを選ぶのか。どちらがよいとは言えない。その選択はその人に委ねられればよく、そのあり方を定めるべきでないとすればやはり、集合・集団を特別に扱う理由は見つからない。
  また、「冷たいこと」によって福祉国家は批判される。だがそれは、必ずしも批判されねばならない点ではない。すなわち、非人格的な関係のもとで、配分が自動的になされ、いちいち気がねしなくてよいことはよいことである。個別の、その時々の善意によってしか発動しない贈与を受けることによって暮らさなければならないこと、その人の善意を発動させ、その人の善意に応答しながら暮らさなければならないことは――与える側、少なくとも受け取る側にいない人達は時にそのことに気がつかないのだが――愉快なことではない。少なくともこの意味では、広いこと、遠いこと、冷たい方がよい。ありがたさを日々直接感じる(感じなければならない)ことは、そのありがたいものの使用の抑制につながり、資源の消費の抑制につながるだろう。けれどもこのやり方は、もちろんありがたくちょうだいすべきものではないという理由によって、肯定されない★09。社会的に負担されるものの使用に関わる「モラル」(→4)は別の方法で求められるべきものである。

■6 国家の遠さは関係の遠さではない
  国家を介した分配においても自発性の契機が要求されることは先述した。とすると、範囲が広くなり関係が遠くなることによって贈与へと向かう動機の調達が困難になるのではないか。こうした懸念がある。果たして身近でないことが、贈与への動機を減少させるのか。このこと自体考えてよいことだが、ここではその可能性はあるとしておこう。知っている人なら同情するが、そうでなければ関心がもてないということはありそうなことではある。さて、国家による個人への配分という方式は個人を孤立化させ、人々の間の紐帯を解き、そのことによって負担・贈与へと向かう動機を減退させてしまうだろうか。
  しかし、国家は社会を運営するのではなくて、資源を与える。このことを述べたし、また後でもう少し詳しく述べる。人に向き合うのはやはり人である。そこでは具体的な他者が遠ざけられるのではなく、人は他者を知らなくなるのではない。むしろ逆である。誰かの支援をしようとする人がいる時に、その人のその活動で生活ができるように負担することを義務として全成員に課するのであり、そのことによってむしろ、その人はその誰かの近くにいることが容易になる。もちろん、(負担は義務とするが)その場にいないこと、近づかないことは許容されるから、その場から逃れる人はいるだろう。しかし、それは、少なくとも支援を受けようとする人にとっては、その場にいたくない人と一緒にいなければならない不快さを避けられるから、悪いことではない★10。
  動機が存在・存続しうるかという問題自体がなくなったのではない。だが、分配する最小国家が動機を減退させるのではないかという指摘には、そうでないと答えられると考える。その先に検討を進めることができる。

■7 余計なことではないかと考えてみること
  分配する最小国家を原点に置いてみると述べた。この地点から見ると、現存する諸国家、そして今ある典型的な国家像のいずれもが、原点から逸出するものであることがわかる。この視点がとられない時に、混乱が生じてしまう。介入する(がゆえに批判されるべき)福祉国家という必ずしもまちがっていない了解があり、この時にそれに対置されるものとして個人の自由が言われる。しかしそういえば「新保守主義」もそんなことを言っていなかっただろうか、そんなものに同調するつもりはなかったのだが、おかしい、と思う。そう思った人は、介入する国家でない国家は放置する国家ではないことに自覚的でなかったのかもしれない。そして考え直してみて、「分配する最小国家」を支持するかもしれない。
  だから課題は、国家を認めた上で、余計なことからどこまで離れられるかである。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行っているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。「厚生経済学」では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。その公共財と個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。港湾、警察、国防…等々があげられる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。また、「とれない」場合には、(かつてはだめだったが、今なら)とれる方法があるかもしれない。例えば、すべての道路を有料化することは技術的には不可能でないかもしれない。次に個々人から「とるべきでない」と言えるもの、つまり全員から「とるべき」だと言えるものがどれだけあるだろうか。例えば、「文化」や「学問」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なことではない。さらに、産業の保護や育成はどうだろうか。景気対策はどうだろうか。これらのことを考えてみてよい。★11
  省いていって現われるのは、全体として積極的な目標が存在しないから退屈な社会であるかもしれず、決定が個々人に分散しているからその各人の愚かさに応じて愚かな社会であるかもしれない。しかしそれではいけないのか、それ以上・以外のものを求めることの正当性はどこにあるのか。考えるべきことの中にこうした問いも含まれる。

■8 生産への衝迫が政策を行わせる
  2で一人一人にとって放置と介入が同じ意味をもちうることを述べた。そして、介入と放置とは、それを行う側にとっても対立するものではない。ある場合には放任、放置が主張されるのだし、ある場合には、政府の介入が支持される。そして多くの場合、両者はまったく同時に、使い分けられ、組み合わせて使われた。ではその介入、そして放置は何に発しているのか。国家が「単なる分配」を踏み超えてしまうのはなぜだろうか。
  ひとつに、生産の増大と負担の軽減の必要、あるいはそれへの衝迫がある。歴史的にみても、社会政策自体が社会をより生産的にすると考えられたから行われてきたのであり、より生産的であるように、生産を阻害しないように行われてきた。★12
  そして今現在あるとされる対立もまた、その現実としては、同じ枠内の手段をめぐる争いでしかない。例えば景気がわるいときに、政府の非介入と介入とどちらが有効なのかという対立でしかない。実際になされる政策の交替、政権の交替、混合、はこのことを示している。「小さい政府」という主張も、現実には、政府に予算を使わせない方が「経済」にとってよいという主張である。つまり、大きな目標、要件を共有した上での手段の違いにすぎない。ここでは、「自由」と呼ばれるものも生産のための手段なのであり、生産に従属している。だからそこに存在するのは真正の自由主義ではありえない。★13

■9 にもかかわらず国家が選ばれる
  このように国家は放置し介入する。人は国家のもとで放置され、介入される。これは事実である。国家はそうした行い(をする/しない)の主体であったし、今でもある。だから、そこからなんとか抜け出さなくてはならない。このように主張される。
  けれど、このように言いたくなる時に私たちが忘れてしまっていることがある。どんな場合にも負担は存在し、ゆえに負担と生産とをどこかで調整しようとする行いは存在しうるということである。例えば家族が成員を養う負担を負うことになるなら、その家族が個人の質に関心をもたざるをえず、そしてその生活とその人の質に関与しなければならないことにもなるだろう。あるいはその人を放置する、放置せざるをえないだろう。もちろん、市場に一人で置かれるなら、その負担は自分自身にかかるのであり、この時(そしてもしできるのであれば)、自らが自らに対して行えるだけのことを行わなくてはならなくなる。
  国家は他のたいていの集団よりも大きい。小さい集団は、負担に耐えることのできる度合いがより小さい。相対的に広い範域を覆いつつその成員を強制することができることによって、国家は相対的により非介入的であることができる。★14

■10 問題は国境の方にある
  むしろ、現に存在し問題にしなければならないのは別の限界、国家でもまだ範域が限られてしまっていることの方である。すなわち、国境が存在していることである。★15
  もちろん最初に確認すべきは、言うまでもないこと、国家が並存しており、国境が存在し、その各々で分配が行われてしまっていることである。ここまで述べてきたことの中にこの状態を正当化するどんな理由もないことははっきりしている。
  次に、存在するのは閉鎖という事態だけではない。国境が完全に閉じられているわけではなく人や物の行き来がある。ここで第一に、人が移ることが許されている場合には、多く徴収される人は、より少ない徴収ですむところに移っていく(企業についても同様)。分配を積極的に行うところに相対的に貧しい人達が流入し、分配を積極的に行わないところに豊かな人達が流出していくはずである。福祉国家は国境の内側で負担から逃れることを禁ずることによって分配を成立させるのだが、国境を越えての逃亡を抑止する装置はなく、逃亡の発生を止めることができない。これが制約条件となって、分配の機能を十分に作動しないようにしている。例えば累進課税を十分に行うことができない。
  第二に、負担のより大きい人をより多く含む国家、生産、成長部門に多くを流さない、流せない国が、競争力において他に劣り、衰退する可能性はある。閉鎖された内部で生ずることはせいぜいが停滞であり、停滞でしかないが、国際競争が働く場面では、単なる生産・成長の鈍化でなく、ある国の産業自体が淘汰されてしまう可能性がないのではない。
  移動を今のところある範囲に押えているのは、第一に、固有の言語、文化、歴史…をかかえている存在としての人間が住んでいる場所を移りにくい、そうそう移りたくないという事情による(企業等の組織にはこれは妥当しない)。第二に、先に述べたことだが、より条件のよい国が、自らの既得権益を守るために人の流入を制限しているからである。
  もちろんここでも4に述べたのと同じこと、つまりこれらの条件が現実にどこまでの影響を与えるのかを――「脅威」を理由にした脅迫の危険を考えるなら――検討すべきである。ただその上で、基本的にどのような方向が採られるべきかを見ておく必要はある。一番単純な(しかし実現困難な)解法は、単位の拡大、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うことである。だが、さしあたり国家という単位が保存されたままでも、分配率等についての一定の取り決めが実現し、財の流れがしかるべきかたちに整序されれば――もちろん、これも、現状から利益を得ている者たちが既得権益を守ろうとするから、その実現は非常に困難なことなのだが――同様の効果をもたらすことはできる。
  述べたのは単位の拡大であり、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。正しくは単位の大きさ自体が問題なのではなく、閉鎖と競争の存在が問題なのであり、それによる格差の拡大と低水準での均衡(の可能性)にどう対処するかが課題だと考えるのである。例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国に税を払うことを拒むといったことが起こる。地域主義者たちは、私達が思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いは本当であるに違いない。しかし、楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。

■11 確かに存在する資源の制約を謎のままに置かないこと
  どれほど実際に存在するのか、ともかく、今述べた要因を除去できるなら、生産へ向かう圧力は低くなる。ただ、生産されるものによって分配もされるということ自体は、やはり当然のことと認めないわけにはいかない。つまり、介入の方へ、あるいは、そして同時に、放置の方に向かわせるその要因自体を除去できるのではない。
  社会の中の仕事の総量が一定である時、社会サービスの割合が高まるだけ、それ以外の仕事の割合は減る。これは明らかなことではある。こうして、たしかに絶対的な制約はどこかに存在する。まったく非現実的で極端な仮定だが、労働をすべて社会サービスにとられるような事態になったとしたら、社会は存続することができない。
  生産されたものは消費される。しかし、その消費が生産につながる場合とそうでない場合とがある。生産、生産の拡大、成長につながらない方に労働力他の社会資源が使われることによって、生産、成長に関係する部門に充分に資源が行き渡らないことによって生産、成長が妨げられる、停滞が訪れる可能性はたしかにある。
  分配するためには生産しなくてはならない。これは一般論としてその通りと言うしかない。この意味で、生産への批判は、批判されるものとつながっているのであり、本性として中途半端なもの、相対的なものであらざるをえない。分配を要求する人たちもまた、(分配のための)租税収入がどれほどあるかを気にせざるをえないことがある。こうした要因が存在しないかのように言うのであればそれは間違いである。ただこのことを認めた上で、どこかに限界があるということと今語られている財政・財源・資源の問題と、どこまでが同じであるのかを考えるべきである。
  まず、「社会的負担」への移行、「国民負担率の上昇」それ自体と、資源(を得るための生産)の問題の出現とは別のことである。供給が一定で、負担の主体が代わるだけなら、もちろん負担の総量は不変である。また、生産(成長)部門・非生産(非成長)部門への労働の配分の割合も不変である。家族による負担から社会的負担への移行の場合に起こるのは、まずこういうことである。★16
  ただ、福祉領域の供給自体が増加し、割合が変化する場合はたしかに考えられる。個人あるいは家族単位の負担のもとでは、負担が過重となるためにすべきことが行われないことがある(この場合に被害を被っているのは、もちろん供給を受けられない本人である)。これが社会的負担に移行することによって、供給自体が増え、そして負担が増える場合がある。もちろん、社会的支援があることによって当の人が生産労働に従事できるようになることがある。また、社会的に供給できるようになることによって、労働力がより有効に使われることもある(例えば育児の「社会化」による女性の労働市場への参入)。これらはよく言われてきたことだが、依然として重要な指摘である。だが、このように言える場合だけでないこともまた認められるだろう。
  問題は「限界」がどのように言われるかであり、実際にどのようなものであるかである。あるゆることについて、例えば「生命倫理」について何か述べると、今は必ず社会資源のこと、例えば医療資源のこと、資源の限界についての漠然とした悲観が返ってくる。しかし、それはほんとうに資源の限界の問題であるのか。
  まず、問題の本体に届いていない言説、例えば「国民負担率」が何かを示しているかのように語る言説、「支える人」と「支えられる人」との割合の推移を語り将来を危惧しながら、そのことと他方での労働力のほんんど恒常的な余剰という現実との関わりに気がつかない言説、等々を、それらが漠然とした危機感を醸し出す一因にはなっているのではあるから、集めて並べて、検証し、何を言い何を言っていないかを確認する必要がある。
  その上で、生産と成長とがどの程度必要とされるのか、この領域に労働力を振り向けることができないほどそれは必要なのか、を考えることができる。どれほどが「絶対に」必要な部分であり、どこからが余剰であるのか、贅沢であるのか、一義的に決められるものではないだろう。ただ、社会「科学」は、計算のためのいくつかの手続きを踏んだ上で、何と何とがどの程度の引き換え率での引き換えになるのかを示すことはできるだろう。そのことによって、資源の限界といった抽象的な漠然とした話でなく、私たちが結局のところどういう状態を好み選ぶのかという具体的な議論ができるようになる。

■12 直接に選択する
  以上、分配する最小国家が発動する条件をめぐる検討を行った。以下では、社会保障・社会福祉の具体的なあり方について考えてみる。
  国家による分配を認めた。しかしこのことは、その資源を使い生活していく過程のすべてを国家が行うべきことを意味するのではまったくない。むしろ逆である。使い生活する人による決定、選択が支持される。
  社会福祉の領域にあった、そして今もあるのは、予め決められたものやサービスの現物を支給するという機構である。日本では「措置」と呼ばれる。(「民間活力」を使う使わないとは直接関係がない。直接的な供給主体として民間組織を使う場合でも、政府が委託先を決めてしまうなら、基本的に同じことである。)その変更が求められる。そして、これは、これまでに述べてきたこととは異なり、現実に存在する実現をめざした主張であり、そして一定の実現をみつつある主張である。それは、必要なものを要求するだけでなく、余計なことを拒絶し、必要なものが供給される経路を変更させようとする。もちろん以前から自己決定が大切だといったことは言われてきたが、それは単なる理念、お題目であるか、予め仕切られた枠内のものでしかなかった。それが、実際になされるべきものとして、そして介入を避け、使い勝手をよくするための現実的な方法として要求されるのである。
  主張自体は簡明なものである。基本的に負担の側面と利用の側面とを分ける。負担のあり方について、「社会」福祉、すなわち社会が責任を負うことを前提とする。その上で、その使い方は消費者が決めればよいと主張する。
  これはもちろんもっともな主張である。まず第一に、自分の金なら好きなものが買えるが税金を使う場合にはそうでなくてよいという理由はない。選べることは当たり前のことである。第二に、供給主体の参入の自由を否定する理由はない(複数あることが利益をもたらさない場合は存在するが、多くはそうではない)。第三に、利用者において選択が可能となり、供給側に競争が生ずることにより、供給サイドが利用者を気にするように仕向け、質の向上を促すことができる。
  第三点について。供給者と利用者とはそもそも利害が異なり、利害が対立する場面がある。市場においては、買ってもらえないものは売れないから、(消費者が金をもっていればだが)消費者の意向が通る方向に調整されうる。しかしここではそれが作用しない。その結果、質が低下することになる。これは構造的な問題であり、そうした仕事に従事する人の心性の問題ではない。問題が生じにくい仕掛けを仕込んでおく必要がある。価格競争を認めるかどうかは検討の必要があるが、少なくとも供給者を選べる機構の採用は可能だし有効である。自らが選択権を獲得することによって、我彼の力関係を変えようとする。
  だから、この主張・運動が、供給者(およびそれに連なる学問)の側からなされることがなかったのももっともなことである。消費者=利用者達の運動――例えば1970年代以降の障害者の社会運動――が以上を主張し、ある程度それを実現させてきた。そのもっとも単純なものは、支給されたお金を使って自分でサービスを買うという方法である。介助サービスではデンマーク、英国、カナダ、米国等で採用され、「直接支払い(direct payment)」等と呼ばれるシステムがこれに当たる。日本にも同様のものがある。ただ方法は必ずしも現金支給に限られない。自分が選んだ人、サービスに費用が支給されればよい。日本では、自身が推薦する人をホームヘルパーとして登録する「自薦登録ヘルパー制度」と呼ばれるものが導入されつつある。★17

■13 さらに媒介と弁護を直接に使う
  これに対して、この方法は「自律的な個人」を前提にしている、そんな人ばかりではない、だから云々、といったことがよく言われる。前半はある程度は正しく、云々の後は多くの場合間違っている。
  以下を認めよう。第一に、自分でいちいち決めるのは、人によって、人が置かれている状況によって、難しいことがある。そして面倒なことがある★18。第二に、消費者による選択を可能にするだけでその人の権利が確保されることが保障されるのではない。
  これらの事情があることが、利用者による選択という機構を採用できない理由とされてきた。「福祉の世界」には自律した消費者たりうるクライエントは少ない。だから、私たちは、その人たちの代わりに仕事をしてきたのだ。むしろこうした場面こそが本質的であり、意志をくみとり代行する仕事が社会サービスの仕事であり、私達はそれをやっている。弁護する人たちはこのように言う。
  こうした指摘の過半は外れている――つまり、利用者を見くびっているだけである――が、それでも全部が外れているわけではない。だが、それを認めることがすなわち従来の機構を認めることになるかと言えば、そんなことはまったくない。今までつながらなかったものをつなぐ仕事、様々に側面から支える仕事は求められており、あって当然だが、それは今まで通りの方法ではうまくいかない。
  第一点については、サービスと利用者とを媒介し、利用者を支援する活動があればよい。しかも、行政府は(財政に対する顧慮等から、少なくとも時に)供給について抑制的に行動するから、別の主体の方がむしろ適している。第二点についても、供給者と利用者の利害はいっしょではなく、両者の予定調和を想定すべきでないから、権利を擁護する人は直接の供給者とは別にいた方がよい。また、ここでは「その人の側に立つ」ことが必要となるのだが、それは役所(の人)がやるのには、あまり適切でない仕事である。行政府を相手・敵とする場合があるのだから、その意味でも独立していた方がよい。実際には、判定・決定と媒介という仕事との違いが意識されず、曖昧につなげられてしまっており、しかも利用者はその人を選ぶことができないといった具合なのだが、そうでないかたちの支援が求められる。実際、様々な民間の非営利組織(NPO)が権利を擁護する仕事、人とサービスとをつなげる仕事を始めている★19。
  そしてこうした活動のための費用もまた社会的に負担されるべきだと言いうる。そしてここでも、組織に費用が渡る形態が利用者に利益をもたらすとは限らない。むしろ、他よりこの場面で、個人より組織に主導権が渡されると、個人の自由が保持されず、なされることが無駄なもの、余計なもの、危険なものになる可能性がある。だからここでも、直接的な決定・選択をどこまで作っていけるかをまず考えるべきである。相談や権利擁護というサービスを利用でき、利用に応じてその費用が支払われるシステムがありうる。

■14 人並みという基準とその達成の困難
  使い道は自由にといっても、そもそもどんな場合にどれだけを供給するかという基準の問題がある。これに対するひとつの答えが「人並みに」というまったく月並みなものである。しかしこれは大切だし、また本当にこれを実現しようとするなら現実は随分と大きく変わるはずだ。配分について、まず「人並みに」という原則を採用すべきものと考えよう。人並みの生活をすることについて文句を言わないこと、行動を制約しないことである。人々は普通の生活が可能になるための負担をしなけばならないとするのである。
  それがどのように可能か。所得保障と個別のサービスの供給の場面とをひとまず分けることができる。まず前者から。
  「楽して得する」ように人が行動することを前提すると、「貧困の罠」と呼ばれるような現象が起こってしまうことをなくすことはできない。そして先に述べたように、この前提を採用せずにすむのであれば、福祉国家を言う必要もないのだった。前提を前提として認めた上で、策を考えざるをえない。働いている場合には働いて得た所得を含めた総額が常に所得保障分を上回るようにするというのが一案である。働くのはそれなりに御苦労なことなのだから、上乗せはもっともなことのようにも思える。とすると、保障だけの場合、その水準は必然的に「最低」であらざるをえないことになる。次に、これを認めるにしても、その最低は「充分」でなくてはならない。だが充分であるなら、それでよいから働かないという人がでてくるかもしれない。そこで水準を引き下げるなら、支給は充分ではなくなり、特に社会保障だけで生活する人に不利益をもらたす。とすると、働けるけれども働く気のない人と働けない人との選別を行うしかないだろうか。ここに一つの困難がある。そうしたことが十分に考えられてこなかったのではないか。あるいは、既に立派に論じられてきたのだが、私が知らないだけかもしれない。後者ならそれを学びさらに考えるべきことがないか考える必要があるし、前者なら考えてみるしかない。★20

■15 判定から逃れようとすること
  次に社会サービスについて。資源をどのように使うかを自分で決めるといっても、その資源をどれだけ受け取ることになるのか。ここでは一律に支給するということにもならない。個々の人にサービスを供給するか否かの決定、そしてどれだけを供給するのかの決定をどう行うかという問題が残っている。
  自分の金なら無駄に使いたくはないから一定に需要が抑制されるが、この場合にはそうではない。利用する人の申請通りに認めると、その人が過度にあるいは不正に使用し、費用が不要に膨張する可能性をまったくなくすることはできない。この指摘を否定できない。この可能性を考慮しないのはたしかに非現実的かもしれない。とすると、「ニーズ」を算定し、評価・査定し、「要介護認定」等々を行うことは避けられないように思われる。
  しかし、決めざるをえないから決めるとするなら、それは、どのような生活を基準とし、それ以上は認めないかいう線引きをすることなのだから、結局生活それ自体を算定し、査定し、生活のあり方に介入するのと同じではないか。一人一人の必要が個別的なものでありまた主観的な要素を含むものだとすれば、それを一定の基準によって測り、供給量を査定することをそのまま認めることがためられわて当然である。本人の申告に応じて支給する、あるいは実際の利用に対して支給することは不可能か。
  これもとても大切な主題なのだが、それほど考えてこられなかった。一歩一歩の前進をようやく認めさせてきた間は、そもそも供給量の上限が必要量に達していないから、どれだけが供給の上限であるべきなのかは問題にならなかったということもある。しかし、供給水準が上がってくるとこの問題は現実のものになる。ところが、この業界には査定し認定することを少しも疑わない人たちの方がずっと多い。それ以外の可能性を考えない。そしてそれ以外を考えてみようと言われたとしたら、そんなことは無理だと言うだろう。
  しかし、例えば医療保険については、サービスを受けるに当たって審査があるわけではない。もちろん医療と福祉とで異なった事情はあるが、共通点がないのでもない。こうしたサービスは、あればあるほどその当人にとって好ましいというわけではない。費用の転用さえ防げれば――そのためには利用者に対する直接的な現金支給よりも、選んだサービスへの支給の方がよいかもしれない――申請の通りに認めても問題は生じない可能性がある。また、医療において供給過剰の問題が生じているのは、供給量に応じて収入を増やせる供給側が決定の実質を握っていることによる。この問題が生じないような工夫をすることも可能である。供給の切り下げへの恐れから多めに申請することがありうるが、これに対してはむしろ希望に応じた供給の保障が有効になる。等々。★21
  監査あるいは審査の類いがまったく不要であると主張するのではない。ただ、どんな方法をとっても無駄はある程度生じるだろう。どの程度の無駄と何とを引き換えにするかである。このように言うと、いつものように、資源は限られていると言われる。しかしそれがどういう意味で言われることなのか、多くの場合明らかでないことは11で述べた。

■16 供給者たちの束に抗う
  だから困難はたしかにあるのだが、どうにもならないわけではない。だがなかなかそうならない。なぜ使い勝手の悪いシステムが採用され、使い続けられてきたのか。
  人を直接派遣し、ものを直接に支給する方が簡単だという説明もあるかもしれない。しかし個々人に資源を支給する方がむしろ面倒でないはずだ。だからこの説明は疑わしい。
むしろ、資源・生産について先に述べたことが大きく関わるだろう。そして、これらと地続きになって「正しさ」についての信念が関わるだろう。地続きだと言うのは、私達の時代にあって例えば「労働」が、誰も働かないと誰も食えないから仕方なく推奨されることではなく、それ以上のものに位置づけられているということを指している。供給の抑制のために、自助への誘導のために、例えば施しであることが示されねばならず、そのためにはしるしがついていないといけない。救貧法の時代ならともかく、今の施策はそうした前時代的なものではないと言う人がいるだろう。しかしそうか。「福祉政策」はよいことに金を出す。これはまったくもっとものことに思える。しかしこれは「よいこと」にしか金が出されないということでもある。
  さらに、供給者たちがいる。信念、習慣、惰性を確信している人たち、無意識にそれを生きている人たち、例えば「生きられるパターナリスト」たちが、一定数、常にすでに存在してしまっている。といってそれは生まれながらの性癖ではないだろうから、上記した事情、そして12に述べたこの業界に特殊な、一般のサービス業の供給システムとは異なる供給のあり方にその発生源があると考えるべきだろう。
  さらにそこには現実的な利害が絡んでもいる。ある職業の人たちがおり、その組織がある時に、そこに仕事を流そう、仕事を増やそうという力が働く。例えば、その仕事を「専門職」にしようとし、その仕事は「専門職」の人(だけ)が行う仕事になってしまうことがある。様々な力が働く。例えば医療から福祉へという決まり文句があって、それはそれでよいのだが、医療職がこの移動に伴って職域を広げようとし、それが要するに同業団体の政治力によって成功するなら、結果として生ずるのは福祉の医療化である。
  そうしたまったく力強い動きをどこまで減殺することができるのかが利用者側の課題となる。そしてここに、納税者と利用者の利害とが一致する局面が生じうることも絡んだ動きが起こる。従来の機構は安くすませることを意図したものだったはずだ。しかし、機構が確立していき、人が配置され、組織が維持されていくと、経費、特に現場でのサービスというより組織運営のための経費が嵩んでいく。専門職者に支払う給料もある。そして、利用者側からの要求もあってある程度サービスの質もあがってもいく。これらによって費用が増えていく★22。12に触れた「直接支払い」方式を求める運動は、自分にとってよい提供者であればそれでよい、サービスの管理は自分で行う、今かかっている経費より安くすませるから、経費一切を私に渡せという運動でもある。
  そして、そもそもどんな場合に資格と結びつけられた専門性は必要とされるのか。消費者が直接にサービスを評価できない場合に、資格を付与する/しない/剥奪することによって質を確保するという方法がある。それ以外に資格の存在意義はない。これは同時に、直接的な評価・選択ができないあるいは困難な場合には資格化が仕方がない、あるいは必要だということなのだが、それが実際にどれほどあるのか。こうした視点で「専門性」についての言説を検証し、専門性のあり方について考えることができる★23。現実には消費者でなく組織や役所が評価することが多い。誰か一人を採用せざるをえない、どこかの組織に委託せざるをえないが、評価能力が組織や役所にはないから、資格が基準になってしまう。理解できることではある。しかしここでも消費者による直接選択という方式にとって替えることは、不可能でない場合があるはずである。

■17 当事者の運動は重要で困難な場面にいる
  当事者の運動もまた、今まで述べてきた厄介事から切り離されたところにいることができないようになってきている。様々な助成金が全国組織やその支部、等に流されてきたが、それは、今までは、大きな、既存の、あまり仕事をしない組織だけに限られてきた。だが、新たに力をもってきた運動、組織がようやくその仕事を認められつつある。それはよいことである。しかしそれもまた、当座の運営を可能にし容易にするために、組織、組織への事業への助成を求める。これはまったく当然の成り行きではある。しかし、このかたち自体は従来と変わらないから、ここまで述べてきた問題が同じく生じうる。供給側が自分たちの思い通りの仕事をしてくれないから自らがサービス供給に関わろうというのが一つの戦略だったし、それは相当の成功を収めてきた(→注19)。しかし、例えば障害をもっていることにおいて同じ「当事者」であっても、供給側にいる時と利用側にいる時の利害は異なる。昨日まで指弾する側にいた者たちが、今日は指弾される場にいることもある。
  当事者たちは、とれるところから金をとろうとやってきた。そして比べればとりやすかったから事業、事業を行う組織に対する助成をとってきた。これはまったく当然のことだ。しかし、それでよかったのかと考え直すことができる。例えば作業所を拠点とする活動が行われてきたし、それは重要な役割を果たしてきた。しかし、全体としてわずかな政府支出の相当部分がそこに割かれるなら、例えば知的障害者の生活のあり方が作業所を中心とするものになってしまうことにもなりうる。
  それでよいのだろうかと思うこと、今ある様々に細かなものをいったん白紙にして考えること、白紙にしながら考えていくことができる。これは、業界を維持・繁栄させるために存在する、とまで言えないとしても、そうでありがちな「業界の学問」にはしにくい仕事であり、そんなことを考えていても日々の生活に困らない人たち、社会学者に向いた仕事であるかもしれない。
  微妙な状況に置かれているのは、とくに当事者たちの運動である。どの方向でいくのか、当事者自身がサービスの供給や政策立案過程に加わっていく中で、考えざるをえなくなっている。これはよいことであり、重要なことである。だが、実現するあてのない大目標を掲げつつ、ものとりに徹してきた今までの運動の方が気楽ではあったかもしれない。かれらは厄介な仕事を抱えこんでしまった。ついでに社会学者も、いつも気楽に外野席で眺めてだけいることを許してもらえず、その厄介さにつきあうことになってしまい、その結果、疎まれたりすることがあるだろう。ただ、「社会福祉」について考えるべきこと、考えるに足りること、そのほとんどが、こうした煩わしさ、厄介さの中にあるのだということ、このことははっきりしている。

■注
★01 もちろん、参照すべき、言及しなければならない数多くの文献がある。しかし紙数の制約があって言及できない。それらの検討は別の機会に譲り、本稿では、不遜にも、筆者が考えていることを述べるだけにとどめる。おそらく1999年に『思想』に掲載される論文で、既存の議論を踏まえながらのより慎重な議論が行われる。なお、本稿に関連する情報はホームページhttp://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm(「立岩」→「分配する最小国家…」、等)から得られる。紙数の節約のため略した注や文献もそこに掲載する。問い合せ等はTAE01303@nifty.ne.jpへ。
★02 Nozick[1974=1992]。重要な書である。最小国家(minimal state)という語もこの書の中にある。cf.立岩[1997b]第2章。
★03 立岩[1997b]第2章・第8章。自由と所有との関係について立岩[1997b:39-40]。
★04 分配を求めることも介入であると言えば言える。これを分配によって可能になる自由より優先すべきでない理由については立岩[1997b:116-127](第4章2節「境界」)。
★05 「社会」福祉について、やはり基本的な問題は、「自分(自助)」でなく「家族」でなく「社会」であることをどう言うかである。ここで社会福祉学は、そして家族や福祉を対象とする社会学も、(家族が担うことの)「大変さ」をもってきたし、それを実証しようとしてきた。大変もっともなことではある。だが例えば、なんとかなるなら自分でやればよい、あるいは家族で負担すればよいと言われたら何と言うか。誰が負担するのかとという問題を、ひとつには正当性の問題として考える必要がある。家族による負担は、正しいか、気持ちがよいか、得か、について立岩[1992][1995a:231-234][1997a]。
★06 所有権という権利とその者だけがその者の身体を動かせるという事実との違い、両者の関係について立岩[199b7:44-49,336-340]。社会福祉を贈与でなく「保険」と捉えるもう一つの考えの限界について立岩[1995a:230-231][1997b:280-285][1998b]。
★07 立岩[1997b:335-346]。
★08 ある属性のもつ人・人の集合がより多く資源を必要とする場合に、均分の配分がなされるならその人・集団に不利になる。後にも述べるように、資源の平等配分ではなく、「人並み」に生きていくための資源の分配が支持されるのだから、そうそうこの問題が現われることはない。ただ、生の様式の固有性と「人並み」という基準設定との間にはずれがあるから、問題が生じえないわけではないし、全面的に解決されるのでもない。
★09 以上述べたことと「共同体主義(communitarianism)」との主張との関係について検討がなされなくてはならない。援助する人とされる人との間の「距離」について立岩[1995a:233,241][1997b:343](の第4点)、これに関連して「ケア」を語る際の「不注意」を立岩[1997a][1997b:369](注6)で指摘した。
★10 立岩[1995a:243][1997b:369](注7)。ところで、国家という単位にしたところで、見知っている範囲をはるかに超え、既に十分に大きく遠い。それでもなんとかはなるのであれば、その数倍から数十倍の規模の集合について規則を設定することもまたはなからどうにもならないことではないかもしれない。紐帯や距離(やそれらを巡る「幻想」)について考えてみるという視点から「国民国家」を巡る論議を再検討したいと思う。
★11 cf.立岩[1997b:346-347]。技術や経済について本文に述べた批判が難しいのは、私たちが(将来)利益を受け取る場合があり、そのための費用を負担しないのは「ただ乗り」行為ではないかという反問に簡単に答えることが難しいからである。
★12 立岩[1997b]第6章「個体への政治」(1「非関与・均一の関与」、…3「性能への介入」、4「戦略の複綜」)。資本制の自己運動・自己増殖という把握がある。しかし、成長はほんとうに資本制に内在するのか。むしろ、膨張型の経済は政治が支えてきたのではないか。とすると「冷たい市場」「停滞する資本主義」を想定することができないか(立岩[1997b:224,234])。もちろんここには、福祉国家の定義要件の一つともされる「完全雇用」(への志向)をどう考えるか等々の問題がある。生産を増やすことによって雇用の問題、また配分の問題を、ゼロサム状況での取合いを避ける方向で、解決、ではないにせよ軽減するというのが今までとられてきた方法だった。しかし、需要が「喚起」され「創出」されること、生産と競争に「誘導」されることの不快は存在する。総労働・総生産を増やすこと(が増えること、でなく)の是非はよく検討されてよい。
★13 「大きい政府」論と「小さい政府」論の同根性については立岩[1997b:347]でも述べた。国家について二つの像がある。一つは経営されるものとしての国家である。統治者が経営を誤ればその国家は衰退する、だから、云々。この立場がほとんどであり、違いはその統治の方法についての考え方の違いなのである。もう一つの方を支持するのは例えば吉本隆明。国家の捉え方については市野川・立岩[1998]でも触れている。
★14 cf.立岩[1997b:306]及びそこに付した注31、そして立岩[1997b:425-426]。
★15 cf.立岩[1997b:347-348]。
★16 家族負担から社会的負担への移行で生ずるのはまず負担の平均化である。それだけなら、今まで負担の大きかった家族(個人)の負担が減り、その逆が増えるということである。特に無償の家事労働があることで誰が得をし誰が損をしているのか。多くのことが語られてきた。誰かが費用の負担を逃れ、その分誰かが得をしていると言う。だが議論はひどく混乱しており、その多くは間違っていると思う。フェミニズムの言説の多くにもおかしなところがある。だから考えた方がよいと思い考えた試みの一つとして立岩[1994]。
★17 基本的な機構については立岩[1995a][1997b:346-347]。これが「福祉多元主義」と同じものでないことは言うまでもない。介助(介護)制度については[1995a:244ff]及び注1に記したホームページ。立派な社会的意義を有する組織であっても、組織への支給は(利用者への支給が可能な場合に)自明に正当ではない。国際援助にしても――国家への援助がもっともな理由で批判されNGOへの援助がより有効とされ、それに異論はないが――同じことを言いうる(立岩[1996])。
★18 自己決定の位置について立岩[1997b:127ff][1998a][1998c]。
★19 非政府組織・非営利組織が非政府組織・非営利組織であることの意味について立岩・成井[1996]。媒介し権利を擁護し(→13)、サービス供給に関わる(→17)NPOとしての「自立生活センター」について立岩[1995b]。
★20 「選別主義」から「普遍主義」へという指摘がよくなされる。かつての特定の(貧しい)人たちに対してだけ給付する選別主義(ゆえにスティグマがともないがちだった)から、誰にでも給付されるようになる体制に移ったのだと言う。そして、それにともなってスティグマが付与されることがなくなるのだと言う。しかし、サービスの多くは一律に与えられるものでありえない。普遍主義だけが解決法だとしたらスティグマはずっとついてまわることになる。基本的な問題はスティグマが付与されること自体にある。
★21 議論は詰められていないが、ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会[1994:16,38-39]、ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会[1998:90-91]で検討されている。なお、障害者運動(の少なくともある部分)は、要介護認定、ケアマネジメントのシステムが組み込まれる介護保険の制度と切り離された介助制度の獲得にむけた検討を開始している。私の書いたものも含め注1に記したホームページを参照のこと。
★22 それで場合によっては特に収容施設での生活にかかる総費用が施設外で暮らす場合にかかる費用より高くなることがある。このことを指摘し、それをもって「自立生活」に対する支持をとりつけようとする主張がある。cf.立岩[1995a:264](注25)。
★23 立岩[1999]で検討した。

■文献
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』、藤原書店
千葉大学文学部社会学研究室 1996 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』、千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会、366p.
ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』、ヒューマンケア協会
ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会 1998 『障害当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』、ヒューマンケア協会・日本財団
市野川 容孝・立岩真也 1998 「障害者運動から見えてくるもの」(対談)、『現代思想』26-2(1998-2):258-285
Nozick, Robert 1974 Anarchy, State, and Utopia, Basic Books=1985,1989 嶋津格訳、『アナーキー・国家・ユートピア』、木鐸社→1992 木鐸社
立岩 真也  1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」『社会学評論』42-2:30-44
―――――  1994 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備―」、『千葉大学文学部人文研究』23:63-121
―――――  1995a 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265]
―――――  1995b 「自立生活センターの挑戦」、安積他[1995:267-321]
―――――  1996 「組織にお金を出す前に個人に出すという選択肢がある」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:89-90]
―――――  1997a 「「ケア」をどこに位置させるか」、『家族問題研究』22:2-14
―――――  1997b 『私的所有論』、勁草書房
―――――  1998a 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」、『現代思想』26-7(1998-7):57-75
―――――  1998b 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」『現代思想』26-9(1998-9)::184-197
―――――  1999 「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」長瀬修・石川准編『障害学への招待』、明石書店
―――――  1999 「専門性と専門職」、進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』、世界思想社
立岩 真也・成井 正之 1996 「(非政府+非営利)組織=NPO、は何をするか」、千葉大学文学部社会学研究室[1996:48-60]


 (執筆終了:1998/11/10)

REV: 20170127
(福祉)国家  ◇立岩 真也
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