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2002年度前期レポート




◆「結婚制度・家族制度の多様性」
◆「現代社会にみる複雑化する女性差別と社会構造」
◆「戦後の日本女性について」
◆「法におけるジェンダーについて」
◆「現代女性−境界例」
◆「表現のジェンダーを考える──マスコミの報道を例に」
◆「女性の高齢者と日本経済復活プラン」

 

結婚制度・家族制度

SM(立命館大学政策科学部3回生)
掲載:20020801

・はじめに

 現在、世界は少なからず男性優位社会で成り立っているといえる。女性/男性と社会とに関わることについて考えた時、その世界の定説とは逆に、女性が中心として社会がまわっている部族があるというTBS系テレビ番組を見たことを思い出した。婚姻制度には、夫婦の結びつきによって一夫一婦制、一夫多妻制、一妻多夫制をとる形があり、文化人類学者ジョージ・マードックにより、世界中の849の民族社会を調査した結果、一夫一妻制が16%一夫多妻制が83%、一妻多夫制が0.5%であることを明らかにされている。今回はそのなかで、少数派である一妻多夫制、また、多数派の一夫多妻制のついて紹介し、考察する。


・世界ウルルン滞在記(2002年5月19日放送)より
 ネパール北西部に位置するフムラ県、標高3500bの山中に、一妻多夫の村がある。チベット系フンレリ族が暮らすタングシェ村であり、人口は71世帯700人、男女比はおよそ半々だ。チベット社会の一妻多夫婚は、高地という厳しい生活環境の中から生まれた結婚の形で、大きく二つの理由からなる。
 1番の目的は、財産の分配を防ぐためだ。高地に住む彼らには、限られた耕作地しかなく、兄弟全員に財産を分けることがでない。そこで、長男が結婚した相手と弟達も次々結婚し、生まれた子供を全員、便宜上、長男の子供とすることで家族の畑と家畜を守っている。
 もうひとつの理由は、かつては男達が1年の半分以上の家を留守にしていたためだ。そんな時、複数の夫がいると順番に役割を決めて仕事に出かけ、残った男が家を守ることができたのです。また夫としての役割も果たしてよりたくさんの子供を作ることができたという事も理由にあげられる。
 例をあげると、23歳の妻と24歳、17歳、13歳、の3兄弟が結婚している。結婚式を挙げた8年前は末弟はまだ5歳だった。この末弟は成長し、もし他の女性を好きになったら妻と離婚する事ができる。その際は村から出て暮らすというきまりがあり、このきまりによってフンレリ族の一夫多妻婚が成り立っている。
 チベットにおける一妻多夫制の目的は、土地財産の散逸を防ぐことにあった。土地を分割せずに、無傷の状態で相続するために兄弟全員が一人の妻を共有したものであり、その結婚制度は、社会の安定と土地の完全相続を確保するために編み出されたものだ。
また、世界には他の形をとる一妻多夫制もある。

・母系社会 中国雲南省モソ族

 モソの人たちは人口約1万人、一般には、納西(ナシ)族(約30万人)の中の1グループとされるが、モソの人たちは固有の民族であるとして、モソ族と名乗っている。
 ここでは、女性たちは成人すると家の別棟に部屋を与えられる。男性は、その家の娘が好きになり、娘もいいとなったら、男性は女性の家族に知られずに、娘の部屋を訪ねることができるのである。そうして通ってくることを「走婚」という。
 この村の婚姻の形態には、(1)走婚、(2)一夫一妻の結婚、(3)初めは走婚だったが、後で結婚の形をとって独立したもの、の三つがある。婚姻形態としては走婚が圧倒的に多数を占めている。
 子どもは女性の家族がみんなで育てる。家の子どもとして育てるのだという。このとき、子どもの「舅々(チウチウ)=おじさん」、つまり、母の兄弟、がいちばん子どもの教育の責任を負う。人としての善悪や、社会生活のきまりなどは、舅々が子どもに教えるのだそうだ。子供たちがいちばん怖いのは、舅々で、その舅々にしっかりとモラルを教え込まれているので、この村のこどもたちは、泥棒やスリはいない、夜どの家も鍵をかけないでいいという。
 生みの父親は自分の子どもの養育・教育にはいっさいかかわらないが、自分の子どもの代わりに姉妹の子どもたちを育てているわけである。また、この村の子どもたちは、自分の父親がだれであるかは知っているが、その男性が来ても「パパ」とは呼ばすに「舅々」と呼ぶ。子どもは家の子どもであり、村の子どもだという意識が強いのだ。
 どの家の家長も女性である。その家族の中で、最もよく働き、家の管理のうまい女性が選ばれる。長女である必要はない。選ばれた女性は、選ばれたことを誇りに思い、家の繁栄のために真剣に取り組む。
 家計の現金収入は、男達が観光業に従事して得てくる。男達が得てきた収入は、自分の小遣いを残してそれ以外は家長に渡す。家長は大きい金額の出費は家屋で相談するが、ふつうは家長の采配に任される。
 走婚は、ずっと家族が一緒でいられる。子どもができても、家族でみてくれるから、仕事に専念できる。一方、結婚は、好きな人といつも一緒にいられる。何かあると、2人で相談して決める。モソの家族では全員のことを考えないといけないから、煩わしいこともある。また、男の多い家は繁栄できないというデメリットもある。
 また、似たような形態で、インドネシア・スマトラ島に住むミナンカバウ族がいる。

・女系社会 インドネシア・スマトラ島ミナンカバウ族

 ミナンカバウ族の夫婦は、結婚しても家庭を築かない。妻は、自分の実家に住み続ける。財産を管理するのは、親族の中で一番年上の女性の長男であるが、彼は、相続できるわけではなく、彼の子供に、財産はいかない。しかし、女性とその子どもは、必ず住居や食事の世話を彼女の親族や兄弟達にしてもらえる。女性達は、物質的にはとても安定しているのだそうだ。
 ここでの家族形態は面白い。伝統的な日本のそれとまるであべこべだからだ。結婚したら男性が女性の家に入る。その男性と新婦の両親は、お互いに気を使う存在になるのだ。
 他方、一夫多妻制の代表格であるイスラムを考察する。それは、不平等そうにみえる慣習だが、実際は思っていた物ものとは少し違うものであった。

・イスラムと女性

 イスラムには、男女の肉体的、生理学的違いとそこから生ずる態度、ふるまい、好み、生き方を十分考慮に入れて精密に打ち出されたとしか思えないようなシステムがある。そこには一見不平等に見えるほどの決まりさえある。たとえば、遺産相続における女性の取り分が男性の半分にすぎないこと、あるいは男性には必要に応じて4人までの妻が認められるが逆に女性が何人かの夫を得ることはできない、といったものである。
 女性の取り分が男性の半分ということは、そこだけを考えればたしかに不公平である。しかし公平とか平等という概念はやはり総括的なものであり、相対的なものである。イスラムでは、扶養の義務は男だけのものである。夫は自分の財産を使って家族を養わなければならないが、妻の財産は妻だけのものであり、夫がいかに困窮しようとも、妻には自分の財産を使って夫を養う義務はない。
 これは、イスラムが男女の別を重視し、 その特色を活かすために一部違った種類の制限を課していることに起因する。
 イスラムの一夫多妻制は細部まで規定が課されている。数の面からは、妻は四人まで認められる。しかし夫は、愛情や親切、思いやりなどの感情面で、また扶養や送り物などの物質面で、あらゆる角度から妻を公平に扱うことを要求される。これはしかし、妻に個性がある以上、夫にとって多少の苦痛をともなうことは否めない。この点を熟慮して、とても公平には扱えまいと思うなら妻は一人だけにせよ、との教えである。
 妻はみな全く同じ立場で平等に扱われ、夫に対して各々同一の権利を持つ。人間平等をうたうイスラムの中で、一夫多妻は、男女差別ではあるまいかとの疑問も起こりやすいが、この制度は強制的なものでもなく単に許されているだけのことなのである。
 最後に、イスラムでは、妻が複数の夫を同時に持つことは許されない。子どもの問題があるからだ。一夫多妻の場合は、子どもの父親と母親は、はっきりしているが逆の場合には、どの父から生まれたのか判断できないこともあり得る。その場合、父親は自分の子どもであることを確信できないまま、子どもが必要とする父性愛を注げないからである。

・最後に

 今回レポートに取り組むにあたり、社会制度の底辺には核となる家族があり、それを形成している家族制度が問題に重要な影響を与えていると漠然と感じていた。そして一夫多妻制という言葉はよく耳にする言葉ではあるが、認識がズレていたこと、また、聞きなれない一妻多夫には納得させられるメリットが多数含まれていた。どちらの制度がよりいい、と言い切れるものではないが、いずれの制度にしても女性の立場が補償されているものには違いない。グローバル化により、その制度自体がくずれて、形態が変化してしまう可能性は否定できないが、いつの時代も女性の立場が守られているものであるように願う。

●参考URL
世界ウルルン滞在記 http://www.ururun.com/
中国モソの女系社会 http://www2.ttcn.ne.jp/~orie/homeJ.htm
ミナンカバウ族   http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/9742/hitorigoto1.html
イスラームと女性  http://ns.islamcenter.or.jp/jpn/Statusofwomen.htm
匠 通信       http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/takumi-l-42.htm

 

◆現代社会にみる複雑化する女性差別と社会構造
 政策科学部3回生 遠藤梨栄

 人は、幼い頃から日常的に学生生活をおくる中で、同等の教育を受け、肩を寄せ合い行動し、一つの基準に基づいて成績がつけられる。これは当然の事とされている。
 今日のわが国では、女性の多くが労働に携わっており、毎年増加傾向にあるのが今日の女性の社会進出という言葉を反映している。資本主義社会であれ社会主義社会であれ、社会的労働に携わることが「公的産業への復帰」だとすれば、今日のわが国では、女性の大多数が「公的産業への復帰」をしたことになる。そして、社会で働く女性が増加するに応じて、女性に対する差別は少なくなり、逆に女性の自由は拡大してきた。こういったことからすれば、女性の「公的産業への復帰」と女性の開放は比例するといえる。
 だが、いったん社会へ出ると、就業の機会、雇用の条件、内容など、あらゆる場で女性は男性と比較され、一般的に不利な扱いを受けるとされている。結婚をし、子供を産むことの格差はますます広がり、出産や子育て、老親の介護が必要となったときに仕事をやめるのは、圧倒的に女性である。なぜ女性は様々な場面で不利な扱いを受け、割の合わない役割を演じさせられ、また世間はそれを当然のこととして受け入れられてきたのだろうか。
 女性が家の中だけでなく外でも働くようになればなるほど、女性が働くことをめぐって、おかしな現象が見え隠れする。女性はいくら男性と同様に、同質の労働を同時間行い、同等の価値を生み出しても、男性より低い賃金しか貰えず、雇用・昇給・昇進において常に男性より低く評価されるというのだ。しかも女性が社会で働けるようになったといっても現実には、雇用・職種・昇給・昇進のチャンスなど、労働のあらゆる場面で女性は陰に陽に差別を受けている現実が残っている。
 資本主義社会での「女性の公的産業への復帰」の最もポピュラーな形は、女性が賃金労働者になることである。しかし、周知のように今日の女性の賃金労働者化は、必ずしも夫への経済的従属からの開放=(経済的自立)を実現しなかった。その理由は、一つは女性労働者への賃金が自立不可能なほど低賃金だということであり、もう一つは、女性に働きつづけることを断念させるような社会構造が背景にあるといえそうだ。
 低賃金に関して言えば、露骨な女性差別的な賃金体系は女性たちの戦いによって、今日ではめったに見られなくなった。しかし、男女間の賃金格差は依然として存在している。他の国では格差が縮小する方向にあるのに対しわが国の格差は先進国の中で最も大きく、拡大さえしている。このことからしても女性を低賃金にたらしめる就業構造と賃金体系はわが国の社会構造に依存するものだといえそうだ。
 女性労働者を結果的に低賃金にたらしめている第一の要因は、賃金の低い職種や職務に女性労働者の多くが配置されていることにある。そして、それと関連する第二の要因に労働者のキャリアアップシステムから女性が排除されていることにある。これは女性労働者に対して昇進の機会さえ与えられないという残酷な企業の体質に存在する。また第三の要因に勤続年数が短いことが挙げられる。女性が退職する三大理由は、「出産・育児・親の介護」と言われているように、女性の勤続年数を短くしている直接的な要因は家庭の中の性別役割分業にある。しかし、企業内部にも性別役割分業が存在し、この企業内外の二つの性別役割分業が年功序列賃金体制と融合したときこうした企業内外にはりめぐらされた様々な仕掛けによって退職を余儀なくさせられ、女性の勤続年数は一層短くなる。
 こうした資本主義社会は、女性労働者を男性労働者と異なった差別と抑圧のもとにおくことによって、女性たちを利潤追求の犠牲にしてきた。しかし、資本主義がいっけん支配していると思われる性別役割分業は、資本主義固有のシステムではない。それは、家父長制的なシステムの一つであって資本主義以前から存在していたものである。したがって、資本主義で見られる女性差別は、資本主義と家父長制システムの融合したものだと言うことができる。そういいったことからもよく考えてみると、わが国の企業社会こそが家父長制と融合した現代の典型であるといえる。
 以上からも明らかなように、女性の状況は男性の状況と深く結びついている。したがって男性を企業戦士に仕立て上げるシステムと男性労働者の働き方を変えない限り、女性の状況は変わらない。企業社会内外の家父長制的システムを廃絶し、今日の生産・労働のあり方、および生活と家のあり方を変える事なしには、女性の本当の「公的産業への復帰」は実現しない。
 一方、真の男女平等を求めるためにも、わが国でも、雇用における男女平等は、母性保護を否定する方向で進んでいる。この方向は近年特に強化され、今日女性の深夜労働の禁止や生理休暇などこれまであった母性保護規定が廃止されつつある。なお既に男性も取れる育児休暇・介護休暇が実現されつつあるように、これらは家庭責任をおった男女の自己表現を保証されるものであると同時に、子供にとっても、社会の中で育つ権利の保障であり、高齢者にとっても社会の中で幸福を追求する権利の保障である。
今日、あらゆる場において「男女平等」が実現される傾向になりつつある。それはあらゆる法律や規則に従ったもので、真の意味での「男女平等」の実現は個人個人の意識の変革こそが実現への歩みよりであるとしかいえないだろう。「男女平等」という言葉は、男女間の格差がある時代での用語であり、本当に世の中に男女間の平等が実現したとき、「男女平等」という、言葉はなくなるだろう。そんな世の中への歩みよりは少なからず行われていると信じたい。

(参考文献)題名:生きる場からの女性論   著者:浅野富美枝
      出版社:青木書店      発行年月日:1995年5月25日

 

◆戦後の日本女性について
 YS

 日本女性を表現する際に、しばしば「大和撫子」という言葉が用いられることがある。大和撫子とは『日本女性の清楚な美しさをたたえていう語』(大辞林第二版より)という意味合いを持つ言葉だ。日本女性は、男性を引き立てることに長けているという評価もよく耳にする。ベトナムでは「日本女性をお嫁にもらうことは幸せになる鍵のひとつ」といったことも言われているそうだ。しかし最近は、こういった「男性の後ろをついていく女性」といったイメージがだんだん覆されているように感じる。興味深い資料を発見した。20世紀における女性の社会進出を年表にまとめたものを以下に紹介したい。


1970
・4.1. 中根千枝、東京大学で初の女性教授に
・5.1. 柳島静江、京都大学(教養部)で初の女性教授に
1971
・6.15. 縫田曄子(NHK解説委員)、東京都民政局長に就任。日本の自治体で初の女性局長
1972
・6.15. 三淵嘉子、わが国初の女性裁判所長(新潟家裁)就任
・8.24. 初の婦人消防官60人、東京消防庁消防学校を卒業
1976
・4.1. 緒方貞子、日本人女性初の国連大使
1979
・9.1. 通産省で初の女性課長に川口順子
1980
・1.21. 女性で初の大使(デンマーク)に高橋展子
・2.10. 社会党副委員長に女性で初の田中寿美子
1981
・4.1. 羽田空港に女性で初の管制官誕生
・4.1. 日航、女性チーフパーサー初登用
・8.12. 日本ジャーナリスト会議、81年度JCJ賞、TBS堂本暁子(ベビーホテル問題)、朝日新聞佐田智子(教科書問題ほか)、初めて女性に
1982
・7月 女性で初の税務署長誕生
1983
・6.1. 女性で初の地方裁判所長、徳島地裁に寺沢光子
1984
・10.31. 司法試験合格者、女性52人。過去最高
1987
・5.25. 大庭みな子、田辺聖子ら4人が女性として初の芥川賞、直木賞の選考委員に
1989
・7.6.  美空ひばり、女性で初の国民栄誉賞受賞
http://www2.dokkyo.ac.jp/~fsemi001/femmes.html 独協大学 井上たかこゼミ ジェンダー研究HPの「フランスの女性・日本の女性」より抜粋)

 上記の年表は、70,80年代において日本で女性初となった出来事を列挙したものである。現在では当たり前のようにいる女性教授の歴史はわずか30年足らずであることに驚いた。あらゆる現場において有能な女性は活躍の場を広げ、今では女性の尽力なしではよりよい社会の実現など、到底ありえない話になっている。こうした社会になった背景には、はじめの一歩が存在し、そして歴史が後に続く。
 めまぐるしい女性の社会進出の影には、男性側の変化も欠かせない。1978年には東京都で初の保父さんが3人誕生している。明るい変化のある一方、1989年には日本発のセクシャルハラスメント裁判が行われた。上司から性的な中傷を受け退職に追い込まれたとする女性が福岡地裁に提訴したものである。セクハラ裁判に関して、きっとこの訴訟が行われるまではセクハラが訴訟に発展するという概念は広まっていなかったであろう。そればかりか、セクハラについて真剣に捉えられる機会もなかったと思われる。しかし、この訴訟によって女性の保護、そして男性側の女性に対する配慮について新しい価値観が創造されたことであろう。女性の社会における地位向上のためには、男性側の変化、そして社会構造の変化なしでは考えられないものなのだな、と改めて思う。
 今回、レポート制作にあたり日本女性の社会進出の歴史を知ることができた。今まではあらゆる場面が男性主導であったために、「女性初の〜」といった見出しが付いて回った。しかし、多くの現場に女性が進出してきた現代においてはちょっとしたことでは羨望に値しないであろう。女性が活躍して当たり前となった今だからこそ、女性・男性という範疇から超えた真の力が問われるようになる、と私は考えている。

 

◆法におけるジェンダーについて
 政策科学部3回生  M前沢剛嗣  1810000276-7

ここでは、「司法におけるジェンダーバイアス」という第二東京弁護士会 両性の平等に関する委員会のウェブサイト(委員会発行の冊子「司法におけるジェンダーバイアス」を中心にして)の紹介と併せ、補足的にコメントしていきたいと思います。

◇冊子「司法におけるジェンダーバイアス」の要旨
 http://www.niben.or.jp/gender/gender.html

T はじめに

1.ジェンダーバイアスとは
 「ジェンダー」とは、社会的、文化的な性差のことで、生物学的性差である「SEX」とは区別された概念です。「ジェンダーバイアス」とは、ジェンダーに基づく差別で、夫は一家の長であるとか妻は家を守るべき、といった社会でつくられた男女の役割分担に対する固定的観念や、偏見による差別がこれにあたります。このような固定観念や偏見は、私たちの社会の中に根深く残っています。残念ながら、多くの人たちは、このような考え方が、誤った固定観念や偏見に基づくものだと気がついていません。
「浮気は男の甲斐性だ」
「ご主人も会社でつらい事があるのだから、家での暴力も少しは我慢したら」
「長男が家を継ぐべきだ」
「家事や子育ては妻の役割」
などといった発言はジェンダーバイアスに基づくものと言えます。また、女性に不利益な発言のみならず、男性であるがゆえに
「稼ぐのは当たり前」
「細かいことを言うな」
といったものもジェンダーバイアスに基づいた発言です。

 「ジェンダーバイアス」という言葉は、アメリカで使われ始めたものです。アメリカでの、ジェンダーバイアスをなくす取り組みは、1980年代に、NJEP(NATIONAL JUDICIAL EDUCATION PROGRAM)というNGO組織が、裁判所からジェンダーバイアスをなくすための教育講座の開発と実施ということを目標にした活動によって開始されました。
 アメリカでは、1960年代の公民権運動に伴い、女性差別の撤廃運動も盛んになり(注1)、雇用における女性差別禁止が法律で規定されました。ところが、女性が性差別で訴えた裁判において、ジェンダー的理由において女性が敗訴しました。この事件等をきっかけに、裁判の場におけるジェンダーバイアスの根絶の必要性が認識され、そのためには、裁判官を教育しなければならない、という強い要請が生まれました。
NJEPの運動は、このような経緯によって生まれたものです。

2.司法におけるジェンダーバイアスと問題点
 このように、アメリカでは、法制度上は男女平等がかなり促進されたにもかかわらず、判決結果が変わらなかったのはなぜか、という疑問を出発点としてジェンダーバイアスの問題が明らかになりました。また、同時期に、女性裁判官の地位向上の運動もあり、ジェンダーバイアスによる裁判結果の不平等是正の動きと一致しました。こうして、アメリカでは、1980年代初めにニュージャージー州がこの問題に積極的に取り組み、その後他州にも影響を与え、その結果、裁判官は、司法におけるジェンダーバイアスを除去し、偏向した裁判結果をもたらさぬよう求められ、教育されると共に、倫理規定の施行や実体法の改正がなされました。

U 日本におけるジェンダーバイアス

1.フェミニズム運動
 現在、ジェンダーの視点において、さまざまな社会の現象を再検討する試みが盛んになされています。こうした動きは、1960年代半ば以降のアメリカでのフェミニズム運動に端を発するものです。
 日本においても、1970年代以降、アメリカにおけるフェミニズム運動が大きな影響を与えました。

2.日本の流れと国連の動き
 日本においては、明治以降、欧米の女性解放論の輸入とともに、男女平等を唱える者が登場し、女性運動に目覚める女性たちが登場し活躍しました。しかし、それは社会や家庭の在り方に影響することなく、明治31(1898)年旧民法が施行され、強力な家制度、家父長制度がしかれました。
 大正10年代から女性参政権運動が推進されましたが、法的、社会的に女性の権利が認められたのは、1945年敗戦後のことでした。
 日本国憲法第24条において、両性の本質的平等、家制度の解体が宣言され、これに基づき諸法律の整備がなされ、改正された現行民法においては、家制度が否定されました(注2)。
 その後、フェミニズム運動を始めとする社会運動の潮流の中、国際的に女性の地 位向上運動は進み、国際連合は1976年から10年間を「国連婦人の10年」とし、1979年12月に「女性に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条約」が成立し、1985年には日本も批准しました。

3.日本の司法の場におけるジェンダーバイアス
 日本では、戦後、両性は平等とされ、法改正も不充分ながらなされましたが、社会生活の至るところにおいて、根強いジェンダーバイアスが見え隠れしています。
 司法の場においては、アメリカのようにジェンダーバイアスによる偏向した裁判をなくすという組織的試みは未だになされてなく、その必要性すら議論されていません。
 日本では、1990年頃から、いわゆるセクシャル・ハラスメント事件の判決がなされるようになり、セクハラという用語が、社会的に認知されてきました。しかし、日本ではセクハラ事件のみが注目を集め、ジェンダーバイアス一般についてはあまり注目されませんでした。

4.従来の固定概念とその問題点
 日本が、敗戦後、両性の平等の宣言の下、従来の家制度を廃止したけれど、現在も社会のあらゆる分野において、根深いジェンダーバイアスが存在します。
日本特有のもので家制度における家庭内での主婦の役割の重要性、母という極めて強い観念があります。今でも男性は、家族を守る家父長的な役割を要求され、女性は、現実的あるいは象徴的に母としての役割を要求されている一面があります。このような意識が就労などのジェンダーバイアスを生み出しているのではないでしょうか。

V 裁判状況

1.離婚事件

 潜在的な家制度が残る中、結婚後、女性は家庭に入り、働くといってもパートぐらいです。故に離婚となると、十分な収入が確保できないばかりか、夫が有責者であっても慰謝料は低額で、経済的に離婚に踏み込めない人が多くいます。
 最近では、慰謝料や財産分与において家庭内貢献度が評価されるようになり、女性権利の擁護となりつつあるが、完全とまでは言えません。
 日本の離婚について破綻主義を採用(注3)していますが、完全な破綻主義ではありません。そこで、一方が離婚を承諾しない場合は長期間争うことになります。ここでの争いの中で、夫側は妻の家事、育児能力の欠如を挙げ、妻側は、夫の収入の低さ等を挙げることが多く、夫婦の役割分担は、ここでも存在しています。
離婚において、夫の暴力を訴える妻も多くいます。以前は、妻は夫の暴力に耐えるのは当然と思われていました。しかし、DV(ドメスティック・バイオレンス)が社会問題となり、ようやく、こうした暴力が不当な行為であると女性自身が認識するようになりました。

2.不法行為(婚姻外男女関係)事件

 妻がいる男性と関係を結ぶのは公序良俗違反であり、妻がいる男性と、いることを知って交際していた女性から、その男性に対する慰謝料請求は、不法原因給付となり認められないとした裁判例もありますが、損害賠償を認めたものとして、その未婚女性に対する「貞操権(注4)の侵害」という視点を持ち出したものがあります。未婚女性の場合の「貞操権の侵害」とは、将来の夫に対する「貞操権」と考えたものです。一般的に、婚姻内夫婦関係を重視する傾向が強くあります。

3.強姦等刑事事件

 強姦罪は女性に対する重大な侵害行為ですが、これが争われるとなると合意は無く、無抵抗だったときと、合意があって、無抵抗だったときとの違いの難しさなど、合意があったのかどうかが問題となります。しかし、合意に関してジェンダーバイアスの存在を感じる判例などありました。
 強姦罪の量刑について、女性の観点からは量刑が軽いという意見もあります。身体的恐怖、精神的苦痛を考えると、強盗罪よりも法定刑短期が短いのは、司法が男性社会を背景にしてきたことと関連しているのではないかと思われます。また、捜査機関、マスコミからのセカンド・レイプの問題もあります。

4.セクシャル・ハラスメント事件

 セクシャル・ハラスメントという言葉が1989年に日本新語・流行語大賞に選ばれ、1997年に改正され、1999年に4月から試行された男女雇用機会均等法は、企業に対し、女性労働者に対するセクシャル・ハラスメントの防止を義務付ける規定を新設しました。
 しかし、この規定はあくまで配慮義務を課したのみで制裁規定がありません。さらに問題なのは社会的にセクシャル・ハラスメントについての十分な認識がなく、裁判所もその例外ではないということです。
 また、問題なのは慰謝料の金額の低さです。セクシャル・ハラスメント事件の多くは、加害者の立場を考えて示談交渉をしますが、裁判外交渉の方が慰謝料の額が高いというのが一般的です。ここでの裁判所の信頼性が問題となります。

W 今後の課題

 日本では、国際条約の批准、男女共同参画社会構想など、法制度上の取り組みがされています。しかし、他の先進諸国と比べて女性の社会進出が遅く、潜在的に家制度が残っている中、立法のみでは解決できるとは言えません。
 アメリカのように、男女平等社会がかなり実現したと思われた状況の中においても、ジェンダーバイアスが不当な裁判結果をもたらしているとの危惧から、ジェンダーバイアスをなくす組織的な試みが始まったことを考えると、日本においてこそ、このような取り組みが早急に求められています。
 司法におけるジェンダーバイアスをなくすには、裁判官の意識を変えなければなりません。しかし、裁判官は一般的に世間知らずと言われ、その傾向は益々強くなると思われます。このような中で、大学生や司法修習生のときにジェンダーバイアスについて理解して法曹界に入ってもらうことが必要だと思います。


注1:第二次大戦中、戦場に赴いた男性に代わって、国内の生産を支えたのは女性です。多くの女性達が家庭を離れて生産活動に携わり、働く母のために保育所がつくられました。ところが、戦争が終わり、男性が戦場から帰還してくると、保育所は閉鎖され、女性は働く場を追われて、再び「女性の場所」である家庭へ帰ることを余儀なくされました。しかし、生産活動に携わり、働く喜びを体験した女性にとって、家庭はもはや生きがいを与える場ではなくなってしまいました。多くの女性が、生きがいの喪失に悩むことになります。公民権運動の最中、多くの女性達は、自らが置かれている状況を、黒人のそれに対比しながら、めざめていきました。
Ap29〜30

注2:「家制度」が否定されたと言っても、明治民法の定める家制度を戦後も存続させようと希望する人も多くいました。そこで家制度について、「法律的な制度」のみ廃止して、実態としては維持しようとしました。結局民法は、「家制度」を維持しようとする人々と、「家制度」を廃止して、家族関係を民主的なものにしようとする進歩的な人々との間の妥協の産物として成立しました。故に、民法はいくつかの家制度的規定を残しています。
   (例)夫婦同氏問題・・・文言上は夫又は妻の氏を称するとなっている(民750条)が、現実には、ほとんどの場合夫の氏が選択されている。
Ap73


注3:昭和62年までの判例では、有責配偶者(不倫など離婚原因を作った者)からの離婚請求は認められていませんでした。しかし、62年の判例では一定の条件の下で認めることとしています。

注4:貞操とは・・・男女が互いに、異性関係の純潔を守ること。


<参照文献等>
@司法におけるジェンダーバイアス
 http://www.niben.or.jp/gender/gender.html

A『法女性学のすすめ』第4版
著者:金城 清子    発行年:1997/4/10 第4版第1刷発行    発行所:株式会社 有斐閣

<参考URL>
NJEP(全米司法教育プログラム)
http://www.nowldef.org/html/njep/

 

◆「現代女性−境界例」
 宇高 風美

現代人は多くのストレスを抱え、精神的に追い詰められやすい状態であるとは、
最近特によく言われることである。
今回、このレポートの中で、特に女性にその患者が多く見られると言われてい
る”境界例”という精神疾患(正確には人格障害のひとつに分類される)について
調べたことに関して述べていきたいと思う。

まず、’精神’とは何であろうか。広辞苑によると、
@(物質、肉体に対して)心。魂
A知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。
B物事の根本的な意義。理念
C個人を超えた集団的な一般傾向。時代精神・民族精神など
D多くの観念論的形而上学では、世界の根本原理とされているもの。例えば、ヘ
ーゲルの 絶対精神の類
とされている。
では、’人格障害’とは何であろうか。以下、imidas2002からの抜粋。

「人格障害:性格が普通の人と異なっているというだけでは心の病気とは言わな
い。そのために自分が悩むか、社会が悩むかするようになれば精神障害であり、
これは伝統的精神医学でも、1996年から思考された精神保健福祉法でも精神
病質と呼ばれている。今日では、性格の異常による障害は人格という観念でとら
えられている。DSM−Wは人格障害をa群、b群、c群の三つに分けている。a群
つまり、@分裂病質人格障害、A分裂病型人格障害(分裂病質にさらにかるい幻
覚、妄想周辺の症状が一過性に出現するもの)、B妄想性人格障害のように精神
分裂病の病前性格またはそれに近い症状を示すもの。b群つまり、@反社会性人
格障害、A境界性人格障害、演技性人格障害、自己愛性人格障害などに、主に周
囲の人を悩ますもの。c群つまり、@回避性人格障害(社会にたいする逃げ腰の
態度)、A強迫性人格障害、B依存性人格障害など、主に本人が不適応に陥るも
の、の3群である。
このうち伝統的に精神病質といわれてきたものの中核群は反社会的人格障害であ
り、反社会性規範、原則、責務への無責任と無視の態度範、他人の感情への冷淡
な無関心、攻撃性の発散しやすさ、罪悪感のなさと他罰性が特徴であるとされ
る。行動療法を中心とする働きかけ、薬物療法によって行動を改善することは可
能であり、累犯者となった場合でも矯正医療によって行動を改善するように働き
かける必要がある。治療が困難であるからといって、治療の対象ではないから精
神障害でないということはできない。」

では、今回取り上げる、人格障害の中のb群に位置付けられている”境界例 
borderline case””境界パーソナリティー障害 borderline parsonality 
disorder”について述べていく。
まず、境界例の’境界’とはいったい何なのであろうか。簡単に言うと、「精神
病と神経症の間」ということである。つまり、典型的な精神病症状はないのに、
単なる神経症、人格障害ともいえない中間領域ということなのである。
境界例の特徴としては、
@依存と攻撃を繰り返す不安定で激しい対人関係
A自殺企図、特に手首切(リストカット)や薬物乱用のような衝動行為
B感情的な不安定性
C慢性的な虚無間
D自己同一性の障害(自分らしさがわからない)
などがある。
この症状hは、青年期以降に表面化することが多く、女性のほうが多いといわれ
ており、相手の些細な態度や動作から”見捨てられた”と感じ、怒り出し、パニ
ック状態になるという症状が見られる。
この症状の背景には、慢性的な強い虚無感や孤独感がある。

ここでひとつの症例を見ていくことにする。
22歳、女性。
小さなころから母親の言うことは何でもよく聞く「いい子」で育った。
高校も有名な進学校に進むと、まじめによく勉強をしていた。
クラスでも人気者で、バスケット部ではキャプテンをしていた。

次第に勉強についていけなくなってくると、学校に行くことが面白くないともら
すこともあった。  休みの日には何をするでもなく、一日中寝込むことも多か
った。  このころから、家族に隠れてタバコやアルコールが多くなった。

受験に失敗すると、自分の生活を極限まで追い込むような生活を送るようになっ
た。ちょっとのことで、家庭内で暴力をふるうことも多くなった。
一浪のすえ、大学に入るも、失恋をきっかけにいかなくなった。

「死んでやる!」と訴えることが多くなったため、家族につれられてやってきた。
境界例/境界パーソナリティー障害を考えるためには、’見捨てられる’という
感情が重要なキーワードになってくる。
上の症例の場合であれば、家族、特に母親から’見捨てられる’ことへの不安を
持ちながら育ってきたという背景が見受けられる。
境界例/協会パーソナリティー障害の患者は、現実にまたは想像の中で、見捨て
られることを避けようとする異常な努力を行う。これらの患者は、周囲の変化に
過度に敏感で、一時的な別れや避けられない計画の変更に対しても、強い見捨て
られ恐怖や不適切な怒りを体験する。たとえば、大切な人がほんの2,3分遅れ
たり、約束をキャンセルしなくてはならなくなったときのパニックや激怒であ
る。こうした見捨てられる恐怖は、一人でいることに絶えられなさや、ほかの人
にいっしょにいてもらいたいという欲求と関わっている。見捨てられることを避
けようとする異常な努力が、自傷行為や自殺企図のような衝動行為となってあら
われることもある。
そして、これらの患者は、不安定で激しい対人関係様式を示す。彼らは、1,2
回会っただけで、自分の面倒を見てくれたり、愛してくれた利しそうな人を理想
化するが、その人が自分の面倒を十分に見てくれない、十分なものを与えてくれ
ないと感じると即座に変化して相手をこき下ろすようになるのである。彼らは他
人に対する見方を突然に、しかも極端に変化させる傾向がある。たとえば、その
人が有益な支援をしてくれるだという見方と、残酷な罰を与える人だという見方
が交代して現れる。こうした変化は、しばしば理想化と幻滅を反映しているので
ある。

次に、人格の発達がどのように人格障害に関っていくかを見ていくことにする。
2,3歳のころ次第に子供は母親から離れ、社会になじんでいかなければならな
くなる。つまり、今までの母と子供の二人だけの世界から、幼稚園や保育園に通
いだすということである。これは、子供と母親の分離の始まりを意味するのであ
る。しかし、この段階で、母親が必要以上に不安がったり、過保護になることで
子供を引き止めてしまうことがある。その結果として、子供は自立することを止
めてしまうのである。なぜなら、子供にとっては、無理に社会に出て行くより
も、母親と一緒に過ごしていくほうが楽であるからである。このような状態のま
まで育ってしまうと、「自立することが怖く」なってしまうのである。これが後
に、見捨てられ感へとつながっていくのである。

また、家庭環境では両親の不仲、離婚、祖父母の教育への干渉が上げられます。
これらのことが、いっそう母子間の結合を強く結びつける結果になるからであ
る。

そして、幼児期の心的外傷も見逃すことはできないのである。
境界性人格障害の女性の約半数に近親姦の経験があるという報告もある。そのほ
かには虐待や何らかのPTSDとの関連も報告されているのである。このことは、境
界性人格障害が解離症状を示しやすいということにもつながってきます。さら
に、境界性人格障害の中には、PTSD特有の症状である、フラッシュバックやリス
トカット、解離症状なども見られるのである。
小学校にあがるころになると発達の中心が家庭からさらに集団へと変わっていき
ます。ここでは、社会性を身につける時期に入るのである。
しかし、後に境界性人格障害になった人たちを見てみると、この時期には深い友
達関係が築けなかったり、注意力が低かったり、成績が悪かったり、喘息、心身
症、不登校、アレルギー性疾患があったりすることが多いということもある。
そして、思春期にはいると色々な問題が出てくる。
色々な神経症状が出たり不登校であったり、いいかえれば、自我の脆弱性がおも
てだってくるのである。
このため、集団からの孤立傾向をさらに強める結果になるのである。

境界例/境界パーソナリティー障害という人格障害は、依存と攻撃が突然入れ替
わるという特徴をもつことから、心理療法においても、不安定な人間関係が再現
されて、困難に陥ることも多いのである。
しかいs、専門家との長期的なかかわりは大きな意味を持ち、30〜40歳代に
なると、その多くは落ち着いてくるといわれているのである。

以上が、境界例/境界パーソナリティー障害についてであったのであるが、今
日、このような人格障害や精神疾患が大きくとりあげらるようになった背景に
は、女性進出が目覚しくなった今なお、ある場面においては、まだまだ女性とい
うことがハンデとなりうるような事態も起こっており、このような社会の矛盾が
女性に内在しているこのような面を浮き彫りにしているのではないかと考えるの
である。

*参考文献*
知恵蔵2002 朝日新聞社
imidas2002 集英社
広辞苑
http://akatan.cool.ne.jp/jinkaku.htm

 

表現のジェンダーを考える −マスコミの報道を例に−

秋葉圭太(立命館大学政策科学部4回生)

・はじめに− テーマについて
 女性学・フェミニズムについて学習すると、必ず'ジェンダー'という言葉にぶつかる。辞書を引くと、「生物学的な性差を表すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別」とある。【注1】フェミニズムによってもたらされたこの視点は、私に新鮮な発見をさせることがある。それは、意識しなければ、ジェンダーとセックスを同一視してしまう場合が多いからだろう。いわゆる「女性差別」といわれるものではなくとも、社会的に「造られた」性を「本来のもの」として捉えてしまうことは多々ある。ミニスカートの女性にセクシーさを感じるのは、その服装が肌の露出度が高いものであるというよりはむしろ、ミニスカートという服飾に「セクシー」とか「おんならしさ」という社会的・文化的コンテクストが与えられているからだろう。その証拠に、男性がミニスカートをはいてもそれには「セクシーさ」など感じるわけもなく、私は「きみが悪い」と感じるであろう。
 このようなジェンダーとセックスを巡る男女間の問題にたいして、私たちはどれだけ敏感であるだろうか。本稿は、時にステレオタイプな思考に陥りがちなジェンダーというものがメディアにおいてどれだけ意識され、表現されているかを考察するものである。その目的は以下の通りである。

@メディア、特にマスメディアは現代社会の価値観を表すバロメーターという一面がある。メディアによるジェンダー感覚を考察することによって、現代日本のそれを理解する手がかりとなるのではないか。
Aマスメディアは、社会・文化的な価値を伝える一方で、それを形成し牽引する特徴もある。ジェンダーに対する意識も同様で、’マスコミ表現’がどれだけ私たちに影響しているか知ることができる。

 ここでのメディアとは、マスメディアであり対象は、新聞となる。なぜなら、新聞は「社会の公器」を自称しており、「タテマエ」としては不偏不党・平等を掲げ、公共性の高い内容を扱っているからである。従って、主に扱うメディアのコンテンツは報道分野のものが主となろう。
 議論の流れとしては、まず、2002年2月10日付けの朝日新聞の記事「『性差』敏感な議論を 朝日新聞『報道と人権委員会』第6回定例会」【注2】の要旨をまとめ、新聞メディアでの「性差」に対する表現の問題を明らかにすると同時に、統計データをもとに現状を把握し、次に「つくり手」であるメディア内部の問題点も指摘しながらまとめてゆきたい。

・新聞メディアから見るジェンダー
 新聞をジェンダーというフィルターを通して見ると、おかしな表現・記事が目に付く。その価値判断はともかくとして、メディアの規範とも言える新聞においてのジェンダー意識を考察してみたいと思う。 先に紹介した朝日新聞の記事は、「報道と人権委員会」【注3】が、新聞紙上でのジェンダーをめぐる表現の問題について議論した内容である。いくつかの事例をもとに、各委員の意見が述べられている。    
そこで取り上げられている事例として
@「氏」、「さん」の使い分け
A「女医」「女性行員」「女性初の」等の女性冠詞の使用
B「女性ならではのきめ細かさ」「男気あふれる」といった、ステレオタイプな表現
C「真紀子外相」「沙知代被告」などの個人のよび方
などが、象徴的な表現として取り上げられている。このような表現に対しての意見を統計データと共にいくつか紹介する。「現実の社会」と「表現のしかた」をめぐって、興味深い主張がみられる。
女性冠詞の問題について、「あえて異論から言うと、女性市長や女性大使といった女性冠詞への批判があるが、現実が平等ではない今の日本では、女性が「初めて」とか何人目ということにニュース性がある。女性を元気づけるために積極的に「女性」とつけるのは意味があると思う」(原寿雄委員)という意見。意識的に女性冠詞をつけることに関しては意味があるという意見である。ただし、それはニュースバリューの線引きにも関わる問題で、不必要に使用すると誤解を招く可能性があると思う。「『女性ならでは』はなくていい。一方、「女房役」は一言でどういう役割を果たしているかが分かる。その効用をすぐには捨てられない。仕分けをしながら考えていくプロセスがしばらく続くのではないか」(浜田純一委員)という意見が一般的なようである。このように、女性冠詞は「例外」としての女性を強調する役割を持つ場合が多いが、一ヶ月間の新聞紙上に現れる性別冠詞の出現頻度は、「女性」「女流」「女」などの女性冠詞が84.4パーセント・432件なのに対して、男性冠詞が15.6パーセント・82件と大きな差が見られる。【注4】さまざまな場面で「女性」がニュースとなることを表してはいないか。
 (死亡記事などの)「氏」と「さん」の使い分けについては、「そろそろ再検討していいのではないか。性別は、死亡の情報が必要な人にはすでに分かっているわけだから「さん」に統一しても困らない。」(原)という意見で一致している。こうしたケースは、不必要な使い分けであり、それに違和感をもたない感覚が問題であるとして積極的に是正すべきであるとの姿勢が見られる。
ステレオタイプの表現について「『妻、母、判事として三役を見事にこなし』というような言い方は男性にはしない」という問いかけについては、「大変な場で一生懸命やっているという褒め言葉のつもりがあっても、一方、女性に理想化して求められる役割を反映していることは確かだから、無神経に使うべきではないと思う」(浜田)という意見がある。確かに、「夫、父、判事として・・・」という表現は奇妙である。男性も三役をこなすべきだ、という社会的な価値観が浸透していないためであろう。こうした、ステレオタイプ表現もまた、女性に関するものが男性のそれと比べて多い。一ヶ月間の「朝日」「読売」「毎日」各記事の文脈上で女性をステレオタイプ的に扱った表現の頻度を見ると【注5】女性に関するステレオタイプ表現が154件であり、男性のそれが64件であることを比べると2倍近くの差があることがわかる。ステレオタイプ的な表現は、読み手に直感的な理解を与える効果もあるだろうが、その分読み手を思考停止に陥らせる危険もある。
以上におもな議論をまとめてみたが、やはり現状として指摘できるのは、新聞メディアのジェンダー意識が相当に欠如しているということである。その原因は、どこに求められるのだろうか。次に送り手としてのメディア内部の問題点を指摘したい。

・送り手としてのメディア内部の問題
まず、メディア企業における女性の構成比がどの程度であるかみてみたい。新聞社では、女性の総従業員数が1998年で5822人、全体の9.8%にすぎない。また、メディアの表現に大きく影響すると思われる編集部門においても2571人、編集部門全体の一割にすぎない。一方で、「女子アナ」ブームで報道分野でも女性が活躍しているように見える、テレビではどうだろうか。民法放送局での女性従業員のうち、アナウンサー部門では44.4パーセントと確かに半数近くを占めているが、番組を作る製作部門では19.3%と2割を切り、報道部門においては15.2%とさらに低くなっている。【注6】これは海外の事例から見ても相当に低い。いくら、見た目に女性が目立とうと、実際に番組を制作し、編集する「現場」が男性社会ではその内容は大きく歪んでしまうだろう。
つまり、マスメディアの業界は他の業種に勝るとも劣らず、男性社会なのである。女性が少ないのは、メディア業界が不規則で、ハードなことも原因していると思うが、先に見たようなジェンダー意識の欠如した表現がでてくる背景に、こうした問題があることは間違いない。日々生起するニュースは、「男側の論理」によってチョイスされ、表現され、編集されているといっても過言ではないだろう。マスメディアという業種が、本来的には男性優位の業種であるはずがなく、女性の社会進出の現状を示しているに過ぎない。

・まとめとして-メディアのジェンダー表現の背後にあるもの
 先に、発信者としての新聞社内部の問題点を指摘したが、さらに大きな問題点は受け手としてのわれわれの社会にあるだろう。ジェンダーバイアスとなりえる表現がされていてもそれに違和感を感じさせない日本社会の構造に最大の問題がある。言語というものは、本来保守的な正確をもつと思う。だからこそ物事の本質を正確に言い表せるのである。そうである以上、日本の男女共同参画が意識的にも構造的にも進まない限り、こうした表現はなくならず、また、メディアから表面的になくなったとしてもただ、違和感を感じるだけであろう。先の新聞記事の中で「当たり前と思っている言葉にも、そうでない見方がたくさんあるという議論を紙面のいろいろなところで常にやるべきだ。その緊張を作り出す中で、社会の意識が変わっていくところをまた拾い上げていく。メディアの用語が一律一斉に変わればいい、ということではない」(浜田)という指摘はもっともである。
 メディアにおけるジェンダー表現は、「ことば狩り」の対象となってはいけない。一概にマスコミ側が基準や指針を作り、それに基づいて一律の自主規制などを行なう性格のものでもない。「メディアにおけるジェンダーの意-づけは、メディア制“、メディア・ディスコース、受け手の各レベルにおける?化“交渉の結果として産出される」【注7】という意識のもと、ジェンダー感覚に敏感になりながらメディアと接してゆく必要があるだろう。

【注1】 岩波書店 
【注2】 広辞苑
【注3】 第四版より
【注4】 2002年度朝日新聞朝刊 「
【注5】 『性差』敏感な議論を 朝日新聞『報道と人権委員会』第6回定例会」
【注6】 より
【注7】 朝日新聞社の報道にかかわる人権侵害を救済するための第三者機関 通称PRC
【注8】 「【注9】 女性のデータブック[第三版]」【注10】  190〜191Pより
    編者 井上輝子(いのうえ てるこ)・江原由美子(えはら ゆみこ)
    有斐閣刊  初版第一刷 1991年4月25日発行   
第3版第一刷  1999年12月20日発行
【注11】 前掲書 同【注12】 ページより
【注13】 前掲書 200P〜201P
【注14】 http://www.nsknet.or.jp/~saitoh/index.html  ‘ジェンダーとメディアのホームページ’
斉藤正美著 「日本のメディアと女性運動の展開---ジェンダーと公共圏をめぐる闘争---」より

前掲書以外の参考文献・HP

叢書 現代の経済・社会とジェンダー  第3巻「日本社会とジェンダー」
監修者 竹中恵美子・久場嬉子
編者  三宅義子
赤石書店刊   初版第一刷 2001年12月20日発行

御茶ノ水女子大学ジェンダー研究センターのHP
http://www.igs.ocha.ac.jp/indexJ.html

日本女性学会HP
http://www.joseigakkai-jp.org/index.htm

 

女性の高齢者と日本経済復活プラン

長谷川 現(立命館大学政策科学部4回生)
掲載:20020801

21世紀の日本は本格的な高齢時代と呼ぶにふさわしい時代ではないだろうか。2015年には4人に1人が65歳以上の高齢者となる。平成11年には男77.10歳、女83.99歳となっている。日本の平均寿命は男性、女性とも、世界で最大クラスに属する。特に女性の平均寿命は男性よりも6歳以上も高い。だからこそ、日本経済を再生するキーワードは女性の高齢者(老後)ではないかと考えた。
 まず、高齢者のライフスタイルについて考えた。老後に高齢者のライフスタイルは少なくとも3回は変化すると考えられている。まず、体も心も元気な「ヤング・オールド」のとき、次にインドア生活が主になる「オールド」、最後に要介護「オールド・オールド」となる。このように分けられるライフスタイルの中で私は「ヤング・オールド」の時間に大きなビジネスチャンスがあると考えた。
 「ヤング・オールド」の時間は雇用、学習(ボランティアなども)、 娯楽、全てにおいて高い関心を持っている。ここに目をつけて考えてみた。
 特に雇用についてだ。女性が55〜60歳で定年まで働いたとして、その後の再就職ははっきり言って厳しい。高度な技術を持っていて働きたいと思っても働けないのだ。そこで考えたのが高齢者契約社員制度だ。どうしても再就職を望む人は正社員での採用を望んでしまう。しかし、企業側としては即戦力になるとはいえ正社員で高齢者を迎えるほどの体力はない、そこで契約社員として採用してはどうだろうか。契約期間は6ヶ月〜1年ぐらいにして期間が過ぎたら更新という形をとってみてはこれならば、企業としても高齢者を使いやすくなるのではないだろうか。自社にはいないタイプの経験をつんだ高齢者社員を迎え、他の社員のスキルアップにも使えるようになるのではないだろうか。現在の派遣社員には少ない経験というものを教えることができるになれるのではないだろうか。
 労働力、指導者としての高齢者について考えてみたが次に消費者、投資者としてのヤング・オールドについて考えた。
 前にも挙げたようにヤング・オールドの時間は学習、娯楽など消費につながることにも関心が高い。しかし、老後の不安要素として「経済不安」があり、あまり積極的に消費活動ができない現状がみられる。そこで日本版カルパースを作ってみてはどうだろうか。現在の年金給付だけに頼った老後の経済ではこころもとない、そこでグローバルな投資チャレンジが必要なのではないだろうか。個人レベルでの投資も有効だと思うが、カルパースのような基金団体を設立し、積極的に意思表示する行動できる株主になってみてはどうだろう。カルパース並に投資が成功すれば高齢者の所得を増える、つまり、経済不安がなくなり、高齢者の消費も増える、日本経済としても新たな投資家の出現により、資金調達が容易になり新しい事業への行動もできると思われる。平均寿命を考えても日本版カルパースの主役は女性だと考えられる。老後の女性達が強力な資金力を持つことができれば、女性の権利の向上にも繋がると考えられる。
 このように高齢者(特にヤング・オールド)の生活を充実することを目指していけば日本経済が不況から立ち直れるのではないだろうか。経済が立ち直れば日本全体も立ち直ると私は思った。
 日本での女性の権利向上と日本経済の復活は共にあるべきだと考えた結果、この2つのプランを考えた。

カルパースについて

 正式名は California Public Employee Retirement System(=カリフォルニア州公職員退職年金基金)である。同基金の構成は、現在カリフォルニア州に雇用されている労働者、学校の職員、連邦のカリフォルニア州の支部等の職員ならびにそれらの退職者でもって構成され、その合計人数は1,107,955人である。設立されたのは1931年であり、古い歴史を有しているが、活動が紹介されているのは1980年の中頃からである。

参考文献 ・週間東洋経済 2001年12/30−1/6号 東洋経済新報社
     ・イミダス2000             集英社


REV: 20170127
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