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◆蔵田 伸雄 19951101 「定言命法と規則功利主義」 『実践哲学研究』第18号(京都大学文学部倫理学研究室内実践哲学研究会)1〜21頁 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk18/kurata.html ◆Hart, Herbert Lionel Adolphus 1987 『権利・功利・自由』 小林公・森村進訳,木鐸社,302p. ◆岡田 雅勝 1987 「功利主義の原理とパターナリズム」 飯田編[1987:53-68] ◆新田 孝彦 1994 「インフォームド・コンセントの哲学的基礎づけ――功利主義かカント主義か」 飯田編[1994:109-117] ◆新田 孝彦 1996 「いのちを救うことの倫理的問題――功利主義的道徳理論の再検討」 土山他編[1996:125-147] ◆奥野 満里子 19990514 『シジウィックと現代功利主義』,勁草書房,313+18p. ISBN:4-326-10125-3 ※ * ◆松井 名津 20000320 「功利主義――欲望に基づく規範理論として」 有賀・伊藤・松井編[2000:022-039] 5500 ●立岩『私的所有論』第2章4節「正当化の不可能性」より(p.53) 「例えば一人の健康人Aの心臓と肝臓を取り出し、それを心臓移植と肝臓移植によって救われる二人の患者Y・Zに移植するならば、二人の生と一人の死が帰結する(図2・9)。これを行わないなら、一人の生と二人の死である(図2・9)。最大多数の最大幸福という観点からは、前者が選ばれることになる。どのような配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばこうなる。◆22」 ※注22(p.65) 「◆22 功利主義者が全てこのような議論をするわけではない。例えば、功利主義の立場に立つとされる倫理学者シンガー(cf.第5章注08)は、生命を奪われることはその者に選好されない行為だから、望ましくない行為であるとする(Singer[1979=1991])。ここでは(Bではなく)Aが生命を持つことは前提されている。けれども、Bにしても生命を奪われることが望ましくないのは同様のはずである。Aを優先する根拠は功利主義の内部にはない。功利主義だけを論拠にすれば必ずハリスのような議論になるはずである。ここではシンガーは意外に過激ではない。 功利主義は幸福の総量という基準をとる。これを批判する者がまず持ち出すのは、各人間の欲求・満足の比較不可能性である。そうかもしれない。しかし、これを全面的に受け入れるわけにはいかない。というのも、比較を私達は現実に行っているからであり、しかもそれを正当だと考えている、あるいは正当ではないにせよ仕方のないこととと感じているからである。例えば、ある者が飲み水に困って死にかけている。他方で、ある者が風呂に使うために水を使おうとしている。双方が水を得ることによって得られる快は相互に比較不能であって、云々といった言明に納得するのは難しい。比較・合計を私達は消極的にであれ、積極的にであれ受け入れている。財の配分の問題は大抵は量的な分配問題として処理することができる。より多く持つ者がより少なく持つ者にその超過分の(ある部分を)分け与えるなら、世界の幸福は増すかもしれない。そしてこうした移動を行なっても、少なくとも現実にはそう深刻な問題にはならない。しかし、例えば臓器、つまりは生命の場合にはそうはいかない。ハリスが論じているのはそうした場面である。」 REV:..20040315 ◇Core Ethics ?? / Core Sociolgy ?? TOP(http://www.arsvi.com/0e/utile.htm) HOME(http://www.arsvi.com)◇ |